───まるで、整えられた舞台の上に立っているかのようだった。
目前に立つは原初の星。手にするは己の得物。そこに至るまでの過去と今の光景を見通して、そう捉えてしまう自分がいる。
それはきっと、とても幸運で、恵まれていることなのだ。だからこそ、やり遂げなくてはならない。
導きはあった。気付きは得た。行先は決まっている。
ならば、あとは駆け抜けるのみ。
人の歴史、龍の生涯から見れば、ほんの瞬きに過ぎなかったとしても。
走り続けた先に、何かを掴み取れるなら。
> 遥か古きおとぎ話(1)
「……」
朝霧が立ち込めている。
年中を雪で覆われた山々とその麓に広がる大森林。風はなく、獣の鳴き声もしない。そこは静謐な空気に満たされていた。
そんな森の一画。木々の枝葉が隙間なく空を埋める中で、一本分だけ開いた隙間の下にその少女は立っていた。
肩から膝下までをひとつの布で包んだかのような真っ白な服。その他には何も身に着けていない。背中に届くほどの長い髪もまた白く、毛先だけがほんの少し赤みを帯びている。
獣も出てくる森の中でその姿はあまりにも異質だが、不思議と霧の中に溶け込むような自然な雰囲気をその少女は纏っていた。
「──? あなたは」
少女の視線が、その姿を見ていた少年へと向けられる。その瞳の色は血のように赤い。
まだ年端もいかない風貌の少年は、はっとし狼狽えたのもつかの間、小さく息を吸って、すっと両膝をついて深く頭を下げた。
「ここの近くの村に住む者です。フラヒヤの女神さま、あなたさまのお姿を目にしてしまった対価に、僕の命を差し上げます。ですのでどうか、村への裁きはお許しください」
「…………ふふ、そういうこと」
少女は少しの間首を傾げていたが、やがてくすくすと笑って、芝居がかった口調で言った。
「ええ、あなたのその殊勝な行いに免じて、今回は許してあげましょう。──顔を上げなさい」
恐る恐るといった様子で少年は顔を上げる。少女は微笑みを湛えたまま、諭すように少年へ告げる。
「自分の命と村人の命を天秤にかける、その判断の速さは優秀ね。でも、その自己の在り方はあまり褒められたものでもないわ」
「……」
「いくつか、あなたのことを教えてもらうとしましょう。あなた、どうやってここまで来たの? さっきあなたは近くの村から来たと言ったけれど、この辺りに人の気配は感じなかったわ」
「……夕方のうちに村を出て、夜は山小屋に泊まったんです。空が明るくなってきたころが、一番獣たちが静かだから……」
「なるほど、ね。そこまでして何をしに来ているのかしら?」
「……落陽草を採りに」
「ああ、あの良い香りがする草ね。この辺りにも生えているのかしら」
「はい」
二人は言葉を交わす。似通っているのは背丈と顔の幼さくらい。容姿はほとんど真逆であり、互いの認識にも大きな隔たりがあった。
それでも少女は楽しそうに笑う。腕を背中に回して少しだけ前屈みになって、少年へと言った。
「ねえ。あなた、明日も落陽草を採りに来るのかしら」
「はい。そのつもりです」
「なら、また私に会いに来て。お話ししましょう。あなたのこと、気に入ったわ」
「……恐れ多いです。人間の僕が二度も女神さまにお会いするなんて」
「そんなこと言わないの。明日の朝、またここに来てちょうだい。あっ、村の人には話しちゃだめよ。そうしたら……ね?」
「……はい」
目配せする少女に対して、少年は首を縦に振るしかなかった。もともと拒否なんて決してできない。相手はフラヒヤの女神様なのだから。彼は至って真面目にそう考えていた。
「──とても高い場所にあった街なら、マチュピがあったわね。もう滅びてしまったけれど、今はどんな風に呼ばれているのかしら?」
「そんな高い場所にも、獣や竜はいるんですか?」
「もちろん。たくさん住んでいるわ。マチュピの遺跡の頂上は古龍が寝床にしているの」
「高い場所が好きなのかな……」
「ふふ、そうかもしれないわね。その龍はこの星で誰よりも高いところまで飛べるから……この宙の向こうに、一番近い龍なのでしょうね」
二人が最初に出会った日から数日が過ぎていた。少年は天気が悪い日を除いては毎朝森へと入り、少女と言葉を交わしている。
心なしか、村からここへ来るまでの道中で獣や竜の気配を感じなくなっているような気がした。きっと女神の加護だろうと思った彼は少女にお礼を言ったが、少女は微笑むだけだった。
少女は物語を語り聞かせるように、少年に様々なことを話した。中でも少年の見識では伝説の存在だった古龍について、少女はよく知っていた。
「国ひとつを一夜にして氷漬けに……すごい」
「ちょっとだけ大げさなお話かもしれないわね。でも、彼の持つ氷の力は本物よ。周りの空気を凍てつかせて、結晶化させるの。彼が足を踏みしめた跡には小さな氷の結晶が生えるのよ。とても美しかったわ」
まるでその目で見てきたかのように少女は話し、少年はそれを疑わなかった。外の世界を全くと言っていいほどに知らなかった彼にとって、少女の話は至宝の物語だった。それはまた、その道の専門家さえ知り得ないような価値を秘めていたが、そんなことは知る由もなかった。
いつしか彼は少女への畏怖も和らぎ、少女の語りを聞くために勇んで森へと向かうようになった。村での仕事が終わるや否や籠を持って村の外へと駆け出していき、次の日に寝ぼけまなこで戻ってくる少年の姿を見て村人たちは訝しんだが、落陽草がなかなか手に入らないのだという彼の弁を疑うまではしなかった。
少年は少女の言いつけをきっちりと守って、このことを他の誰にも話さなかった。それは始めこそ純粋な畏れから来るものであったが、数日後には少女の話をもっと聞きたいからという理由も加えられていた。
ある日は、天候を荒れさせる古龍について。
「風翔けの龍と嵐の龍。お互いの力は似てるけれど、同じなんて言ったら彼らに失礼ね。風で空が掻き乱されるから天気が悪くなるし、嵐の中では風は勝手に強まるものなの」
「……?」
「ああ、あなたにはちょっと難しいかもしれなかったわね。ただ、同じ力なんて言わないであげて」
「うん……はい」
「あははっ。うん、でいいのに律儀なことね」
ある日は、地面の下を伝うという龍脈について。
「ここの下にも、龍脈が通ってる……?」
「ええ。ほんの少しだけれどね。前に話したマチュピという遺跡とか、ここからずっと南にある火の山にはたくさん通っているわ。あとは……導きの星が眠ってる場所も、とても大きな龍脈の湧き出しがあるわね」
「導きの星?」
「そうよ。古龍たちを導く青い星。星に駆られて海を渡る古龍と人間たち。大いなる命が集って育つ龍脈の、その内に眠るのは……ふふふっ、あとは秘密にしましょうか」
自然の脅威、または神秘とも言うべき存在の数々に、少年はただ感嘆した。少女の話を聞く度に、否応なく外の世界への関心は高まっていった。
しかし、そんな非日常の日々もそう長くは続かなかった。
もともと少女は気まぐれのようにここを訪れただけであり、数日もすればいなくなることを彼に告げていた。少年はそれを残念に思ったが、人間の自分には過ぎた願いであり、またいつもの村の生活に戻らなくてはならないことも十分に分かっていた。
今日で最後、と少女が彼に告げても、彼は動揺を見せることはなかった。そのどこか達観した潔さを少女は気に入ったのかもしれなかった。
その日もまた、森には霧が深くかかっていた。今まで暇潰しに付き合ってくれたお礼に、少し特別なお話をしてあげる、と彼女は言った。
「──むかしむかし、広い海の片隅で、一匹の龍と生き物たちが暮らしていました。
そこには陸もありましたが、生き物たちはあまり近寄ろうとしませんでした。
みんなが生きていくには、その陸はあまりにも狭くて貧しかったのです。
ある日、陸に上がって空を見ていた龍はあることを思いついて、この星に話しかけました。
『星よ。海ばかり栄えて陸が貧しいままでは陸が可哀想だ。陸をもっと広げれば生き物が集まるのではないか?』
『龍よ。それは難しい。仔の願いは聞き届けてやりたいが、
『ならば、この我に力を授けてはくれないか。我はあなたの手足になろう』
星は龍の願いを聞き入れて、龍に力を譲り渡しました。年老いた大地を海に沈め、新たな大地を創り出す力を」
少女は苔むした倒木に腰掛けて、物静かに語る。
それは今までの話とは毛色の違う、
「龍は譲り受けた力を使って、さっそく大地を創りはじめました。
もとあった小さく貧しい陸を砕いて海に沈めて、代わりに自分の身体からどろどろに溶けた大地のもとを噴き出させ、それを固めて新しい陸にしました。
それをずっと繰り返して、千回の朝が訪れ、千回の夜が去ったころには、海の広さに負けないくらいの陸ができあがっていたのでした。
それまでの狭く貧しい陸に比べて、その陸には龍の血が染みわたり、荒々しくも豊かな力が満ちていました。
そんな大地を見て、海の生き物たちはやっと陸を目指し始めました。恐る恐る陸に上がって空を見上げる小さな生き物たち。その姿を見た龍は、自分の役目はひとまず終わりだ、と海の底に眠りにつきました」
少年は不思議そうに地面を見つめながら呟いた。
「……僕が立ってるこの地面も、その龍がつくってくれたもの?」
「さて、どうでしょうね。この世界の片隅の、とても古いお話だから。でも、そうやってできた陸がこの世界のどこかにはある、というのは確かかもしれないわね」
「その龍は死んじゃったのかな……」
「ふふっ、そう先を急がないの。
──それから百万回の朝が訪れて、百万回の夜が去ったころ。再び龍は目を覚ましました。
これはいけない。長い間眠りすぎてしまった、また大地を創り直さなければ。と龍は海の底から陸を目指しました。
しかし、辿り着いた先には龍が今まで見たこともない生き物が居座っていたのです。その名前を──人、といいました。
身体から溶けた大地のもとを噴き出しながら迫り来る龍に向かって、人は戦いを挑みました。
これからの時代に、大地を新たに塗り替えてやり直しをさせる神なんていらない。人は自らの住む場所を守るために、父なる大地を創った龍と決別する道を選んだのです。
大地に立つものでありながら、星の意思に従わないとは何事か。龍は怒り、たくさんの火の玉を降り注がせました。
人と龍の争いは七日間にも渡りました。大地は見渡す限り燃え上がり、海は滾って赤く染まりました。いくつもの島が沈められて、たくさんの人が死んでいきました。
それでも人々は龍に挑み続けました。知恵を絞って、勇気を奮い立てて。龍殺しの稲妻が数え切れないほどに空へ散っていきました。
……七日間の果てに、戦いを制したのは人でした。
戦いに敗れた龍は、大地を創り変えることができないまま、再び海の底へと沈んでいったのでした──」
少女はそこで一度口を閉ざした。
物語の行く末を、固唾をのんで聞き入っていた少年は、ほっとため息をついた。それからとても難しそうな顔をして呟く。
「ものすごく長生きをした龍だったんだ」
「そうね。まだ人って生き物が世界にいなかったころから生きてるのだもの。ひょっとしたら、寿命なんてあってないようなものなのかもしれないわね」
「……よく分からないけど、なんだかちょっと悲しくなる……」
「そうかしら? それが摂理というものだと思うけれど」
首を傾げる少女に対して、少年は何度か目を瞬かせて、純粋な疑問を口にした。
「……その話には、まだ続きがある?」
「あら、どうしてそう思うの?」
「いつもなら「お話はこれでおしまい」って言うはずなのに、今日はそれがないから……」
戸惑いがちにそう答えた彼を見て、少女は笑みを深めた。
「うふふ。あなた、やっぱり面白いわね。気付かなかったらここまででお終いのつもりだったけど、ちゃんと気付いてくれるなんて」
「…………!」
少女の顔を見た少年は、背筋がぞっとするのを感じた。腰を抜かしてしまわなかったのは幸運なことだったのかもしれない。
少女の真紅の眼は怪しい光を宿し、白い髪はぼうっと淡く発光していた。ぱちぱちと火花が散るような音が混じる。少年の目には少女が舌なめずりをしたように見えた。
「そう。この話は終わっていない。だって、その龍は深い海に沈んでいっただけ。それで死んだなんて思うのは、浅はかよ。あなたたちらしいけれど」
「で、でも、龍は人に負けたって……」
「そうよ。そのときに死ぬほどの怪我もしたのでしょう。でも、彼の心臓はそんなことでは止まらない」
「心臓……?」
「ええ。それこそが、龍が星から受け取った力の源。溶けた大地のもとを永久に生み出し続ける機関。それを止めない限りは、龍が死ぬことはないでしょうね」
今まで空想の上で話を聞いていた少年は、それが急に現実味を帯び始めたことにただ困惑していた。
しかし、これまで少女と話をする中で、話の要点を捉える技能が育っていたのだろう。少女の雰囲気に怯えながらも恐る恐る口を開く。
「だから、今のお話は終わってない……?」
「そういうこと。このお話の『続き』はあなたたちが作るの」
「ぼくたちが……」
「そう。あなたではなくとも、きっとこの世界の誰かが。それを見るのを楽しみにしているわ。……あら、怖がらせてしまったかしら。ごめんなさい」
少年が僅かに体を震わせているのに気付いて、少女は自らの纏う雰囲気をいつも通りに戻した。
少年はほっと息を吐く。獣に射竦められたときとは違う、圧されるような息苦しさがやっと解かれた。
「さて、そろそろお別れしましょう。この数日間、久しぶりに楽しい時間を過ごせたわ」
「こ、こちらこそ。たくさんのお話を聞かせてくれて、ありがとうございました。フラヒヤの女神さま」
「ふふっ。あ、さっきの話はあまり人には話さないようにね。未来の話は本当はしてはいけないから……」
「は、はい」
「それじゃあ、さようなら。もう会うことはないでしょうけど、また会えたら話をしましょう───」
彼女はそう言って森の奥、朝霧の向こう側へと歩いていく。急に煙を焚いたかのように霧が深くなり、それが晴れたときにはもう少女の姿は見えなかった。
少年はそれを見送るようにしばらくその場でぼうっと立ち尽くしていたが、しばらくしてから慌てて村へ続く方へと歩き出した。
日が昇り出す前には森を抜けなくてはならない。獣や小竜に気取られないように、なるべく音を消しつつ木々の間を抜けていく。
右手を心臓の部分にそっと添えて、拳をぎゅっと握りしめた。
ここでの数日間を、決して忘れることのないように。
お久しぶりです。はじめましての方は初めまして。Senritsuです。性懲りもなくまたモンハン小説に戻ってきました。
本作のメインは思いっきりタイトルに書いてありますね。登場をお楽しみに。