『根を下ろした草』という言葉は、バルバレ特有のものだ。
この街には根無し草ばかりが集う。少し滞在したかと思えば、風に吹かれるように旅立っていく。道行く人はそんな者ばかりだ。
それ故、年周期でバルバレを訪れる商人などと再び顔を合わせることになれば、彼らはこう言われる。
『お前、流転の街に根を下ろしたか』
と。
そして、かつてはそんな『根を下ろした草』を客観的に見る側だったヒオンとエルタは、今。
「また会えたことを祝して、乾杯!」
「乾杯!」
ヒオンの掛け声に次いで、三人の狩人たちが子樽ジョッキをぶつけ合う。
給仕のアイルーたちが運んでくる肉料理を豪快に頬張る。悪く言えば品のないその風景を咎める者は誰もいない。
集会場と酒場は切っても切れない関係にある。きっとどの街でもハンターの酒盛りというものは繰り広げられているのだろう。
その例に漏れず、ヒオンはバルバレの同業者──狩友と酒を飲み交わすこともあった。
「いやぁ、ヒオンもいよいよハンターランク4か。追いつかれちまったなあ」
「それけっこう前の話だからな! そっちこそ、あの重甲虫を倒したって聞いたぞ。すごいな」
「あーやめやめ。アイツの話は酒がまずくなるってもんだ。なあ?」
「こっちに話を振るな……! あんな醜態、思い出したくもない!」
彼らは、ヒオンたちと同じく未知の樹海の調査隊に所属するハンターだ。
参入はヒオンたちより先で、実力も彼らの方が高い。いや、高かった。
今や、このテーブルを囲む面々は同じハンターランク帯だ。参入時はハンターランク3だったヒオンたちは着々と狩猟実績を重ね、最近になって彼らに追いついていた。
未知の樹海の調査隊。多いときにはハンターだけで二十人以上がいただろうか。彼ら全員を集わせて酒場を貸し切って、共に樹海を踏破しようと盛り上がったこともあった。
今、積極的に活動をしているのは十人程度だ。
街を離れるなどの理由で抜けた者と、新たに参入してきた者がちょうど釣り合って数人。手足を失ったり、後遺症が残ったりして一線を引いた者が若干名。
それ以外は、狩場で命を落としていた。
初心者が入っていけるような場所ではない。最低限の実力が保障されなければ、入隊することすら叶わない。
そんなハードルを乗り越えてきたハンターたちですら、未知の樹海は容赦なく飲み込んでいった。
だからこそ、調査隊のエース部隊でもある彼らは暇があれば仲間と顔を合わせる。共に飲み食いできることそのものを称え合う。
しんみりとするのは訃報を聞いた直後だけだ。大怪我でも生きて帰ってきたなら大健闘だと喜び、涙なんて飲んでも美味しくはないと笑い飛ばす。
それでも、継ぎ接ぎの歯車のように零れ落ちていく命に思うところはあった。ギルドも努力はしているが、未知の樹海に住まう怪物はそれ以上に底深い。
そんな中で彼らに追いつき、追い越さんとするヒオンとエルタの勢いは殊更に眩しく映ったのだろう。
人を選ぶようなことはしない彼らも、ついつい二人を可愛がってしまうのだった。
「そう言えば、君の相棒はどうしたんだ?」
「そうそう、あの不愛想な、教官装備の」
「エルタか? あいつなら闘技場に行ってる。そのうち戻って来ると思うけど……」
「へえ。あんなところに行ってるのか。物好きなこったね」
ある程度の酒が入り、やや顔が火照ってきたところで、ヒオンの相方の話題が持ち上がった。
彼は今この場にいない。ここから離れたところにある、ハンターの訓練施設に足を運んでいた。
「酒の付き合いは悪いみたいだな。堅物なのか?」
「そう……でもないと思うけど。飲みとかの人付き合いはオレに任せてる感じはする。不器用なんだよ、そこらへん」
「こんな可愛いツレがいるってのに、ねえ?」
「ばっ……か。そんなんじゃないって。役割分担だよ。役割分担」
からかわれたヒオンは慌てて視線を逸らした。
白兎と教官。ウルク装備のヒオンとクロオビ装備のエルタを揶揄して付けられた愛称だ。バルバレに年単位で居座っている二人は、それなりに名が知られつつある。
相変わらず古龍の情報を追い求める二人は、それとなく互いの役割を決めていた。
ヒオンは、人との繋がりを基点とした情報収集を。商人とのやり取りや交渉事、他のハンターとの接点作りを担う。別にそこまで意識してやっているわけではなく、単純に酒や歓談が好きなのでそうしているだけだが、エルタの苦手なところをうまく補っている。
最近は、文献を読み漁るようにもなっていた。もともとはエルタの役割だったのだが、ヒオンもそれに付き合うようになった。
新大陸古龍調査団に入るという夢を追いかけるにあたって、識字や作文といった技能も求められる。十年前に旅立った三期団のほとんどが研究者だったという話からもそれは明らかだ。故に、ヒオンはこの手の知識にも貧欲だった。
いつの間にか、対外的であろうがなかろうが、情報収集はヒオンが担うかたちになっている。
では、その間に相方は何をしていたのか。
「あいつは狩りの腕を上げることに集中してるんだ。寝ても覚めても、狩りのことしか考えてないんじゃないかってくらいに」
自分たちがこんなに手際よくハンターランクを上げることができたのは、その多くがエルタのおかげなのだと。そうヒオンは語った。
「狩りから戻っても闘技場に指導を受けに行ったり、工房で親方とずっと話し合ったりってさ。強くなることに余念がないし、こっちは追いつくので手いっぱいだ」
初見のモンスターとやりあうことが多い環境の中で、訓練で得た技を駆使し、短期間で相手の動きを見切って対応できてしまうエルタの存在は大きい。
ヒオンはヒオンなりに知識や戦術で実力の差を埋めることで、なんとか釣り合いを保とうとしている。だが、狩猟への貢献度で比べればどうしても相方が先に立つのが実情だった。
「危ねえなぁ。それは」
「彼は、何か目標にしているモンスターでもいるのか? 仇討ちや復讐なんてものはありがちだが、正直に言えば厄介極まりないぞ」
ヒオンたちの先輩にあたる狩人たちは、その言葉通りに眉を顰めていた。
彼らは十年以上ハンターという職に居続け、生き残り続けてきた。多くの同業者の引退や死を見届けていく中で、彼らは早死にする者とそうでない者の区別がなんとなくできるようになっている。
その直感で言えば、エルタは間違いなく死に急ぐ側の人間だ。
そもそもの話、ヒオンたちの実績が危うい。自分たちではやや実力不足か、という相手に挑み続け、そのほとんどを狩猟してのけ、大きな失敗もないままに今に至っている。
それは優秀であることの証左とも言えるが、最短の道を駆け抜けていくことは良いことばかりではない。人は失敗から多くのことを学ぶ。それで死んでしまっては元も子もないのだが、エルタたちにはその経験が不足しているように思えた。
「そんな暗い動機はないと思うんだけどな……あいつの詳しい経緯とか、オレも詳しいことは知らないんだ」
ジョッキのビールを呷る。この際、酒の勢いに任せて話してしまうことにした。
愚痴っぽくなってしまうのは彼らに申し訳ないが、こういうことは客観的に状況を見てみるべきかもしれない。
「実際、かなり危なっかしいやつなんだよ、あいつは。自分の身を顧みなさすぎる」
「彼は剣斧の使い手だろう。あれは確か、太刀系と同じで攻撃を受け止めるようにできていない。攻撃に傾倒しがちなのはある程度仕方ないと思うが」
「それもそうなんだけど、あいつの場合はさらに尖っててさ……肉を切らせて骨を断つっていうの? 刺し違えるのとかぜんぜん躊躇しないんだよね」
「ヒュウ。思ってたよりさらにやばいじゃねえか。自殺願望でもあるのかよ?」
一人が口笛を吹いて笑った。その反応を見て、あの戦い方はやはり異質なのだとヒオンは再認識した。
出会った当時のネルスキュラの狩猟では、早く決着をつける必要があったが故にあのような強硬手段に出たのだと思っていた。
しかし、それは勘違いだった。エルタにとってはあれが素だったのだ。
エルタは相手の勢いを利用して深い一撃を負わせる戦い方をする。積極的にモンスターと正面から相対し、一騎打ちの状況へと自らを追い込んでいく。
それは狩人というよりも戦士のそれだ。戦いは狩りの一部分であり、エルタはそれに自身のほぼ全てを委ねている。
普通の狩りでは、モンスターと馬鹿正直に正面からやりあうようなことはしない。
奇襲し、欺き、そして罠に嵌める。相手に主導権を握られれば死に直結しかねない。だからできるだけこちらに有利な状況だけで狩ろうとするのだ。大抵はそう上手くはいかないが、基本的な姿勢は一貫している。
そんな一般的なハンターの在り方と、エルタの狩猟は根本から異なる。少々過激な物言いだが、自殺願望を疑われてもおかしくはない。
「やっぱ危ないよなー。他のハンターから話聞けてよかったよ。案外そういう人もいるものだと思ってたからさ」
「いるにはいるのかもしれないが、その生存率が高くないから少なく感じるのだろうさ」
「違いねえな。人とモンスターじゃ生命力も力も桁違いだ。そんな奴ら相手に刺し違えようだなんて蛮勇だと思っちまうな」
ヒオンやエルタより体格に優れる熟練の狩人すらそう言う。むしろ、長らく狩りを経験したからこそそういった感覚が沁みついているのだろう。
大型モンスターと一騎打ちなど、夢物語でしかない。鍔迫り合いにもならずに一瞬で押し負けて潰される。狩人の誰もが一度は挑戦し、そして思い知らされるのだ。
エルタはそれを、鍛え上げた技と胆力でねじ伏せようとする。いや、実際ねじ伏せることができている。ただそれだけを追求するために、今日も闘技場で鍛錬に励む。
その気概は称えられるべきかもしれない。しかし、そうでなくともモンスターは狩れる。力づくの勝負に持ち込ませないように、その努力を積み上げてきたのがハンターという職業であるはずだ。
彼もそれは分かっているはず。それをあえて違えているとするなら。
エルタは、狩っているのではない。
戦っているのだ。
では、それは何と?
「んー……。無謀かもしれないことは分かってるけど、あいつ、それで大怪我負ってばっかりだけどさ。しっかり相手の方にも致命傷は負わせてて、生きて返ってこれてるんだよ。毎回毎回、そうなんだ」
「存外に冷静だな。行動が伴っていないようにも思えるが」
「あいつ真面目だから。本当に何か目的があってそうしてるんだと思う」
「お前らの言う、古龍を狩猟したいっていうあれか?」
「たぶんそれなんじゃないかなあ……それくらいしか思いつかないし。今度思い切って聞いてみるよ」
はあっと酒気混じりのため息を吐いて、ヒオンは頬杖をついた。
こっちだって心配しているのだ。竜の大口に飲み込まれそうになったり、炎の吐息を全身に浴びせかけられる姿を何度も見せつけられる、こちらの身にもなってみろと言いたくなる。
これまで遠慮してきたが、先輩たちの助言の後押しもある。もう少しエルタと関係を深めてみようとヒオンは決意した。
「おうおう言ってやれ言ってやれ。いっそその装備を身に着けたまま泣き落としてやればイチコロだぜ。なあ?」
「だ、か、ら、そういう関係じゃないって言ってるだろ!」
「泣き落としか。悪くないな。君の存在を彼に刻んでしまえばいい」
「だぁーっ!!」
もこもこの小手をどんっとテーブルに叩きつけて、ヒオンは声を上げた。
この先輩方は性格が真反対のように見えて、ヒオンをからかうときなどは絶妙な連携の良さを発揮する。エルタがいれば対抗できるが、ヒオン一人では敵いそうにない。
あとはもう腕っぷしだ。テーブルや椅子を壊すと出禁になってしまうため、即興で腕相撲大会が始まった。周囲で飲んでいた人々が野次馬と化し、大男と可愛い兎の対決だと囃したてる。実はそう珍しくもない光景が、この日も繰り広げられた。
ヒオンたちの目標は彼らにも共有している。それが達成されれば未知の樹海の調査隊を抜けて、バルバレから旅立つということも表明済みだ。
それに対してとやかく言うつもりは彼らにもない。古龍を追うなんて変わり者だとは思うが、夢を持って去ろうとするものを引き留めるのは、それこそこの街の住人らしくないからだ。
いつものように先輩として振る舞う。二人の成長スピードは凄まじく、そのうち追い越されるかもしれないが、それでも付き合い方は変わらない。
そうそう見かけない目標を掲げ、一本の綱の上を全力疾走するような危うさを持つ彼らを孤立させない。皆の輪の中に入れて、情報を共有しやすくする。
それが『根を下ろした草』にできる、できる限りの応援なのだ。
「……と、まあそんな経緯でさ。できればいろいろと教えてほしいんだけど……」
ぱちぱちと、世闇の中に焚火の音が響く。炎に照らされて、地面に二つの影が踊った。
バルバレの管轄狩猟地である遺跡平原のとある小さな洞窟で、ヒオンとエルタは夜を明かそうとしていた。
狩りの対象は青色の怪鳥。イャンクック亜種だ。
通常種であるイャンクックと違って非常に珍しいモンスターで、バルバレギルドからヒオンたちに声がかかった。ギルドともそれなりに信頼関係が築けてきた証拠と言えるだろう。
今は既に対象を捕獲し終えて、帰還の準備をしている段階だ。近くには傷だらけながらも静かな寝息を立てる青怪鳥の姿がある。
朝になればギルドから荷車とアイルーたちが訪れるだろう。それまでは自らの怪我の手当てをしながら、静かな時間を過ごせる。
「……心配をかけていたか。すまない」
「いやまあ、別に謝ることじゃない。オレだけならこんだけの実績は出せなかったし、本当に心配だったら止めただろうし」
ヒオンは肩をすくめる。ヒオン自身、次々と積み上げられていく狩猟実績に内心で喜んでいたことを否定できない。その勢いに乗じて、エルタの危うさに目を瞑っていたのだ。
ただ、それではいけないと先輩たちに諭された。故にヒオンは重い腰を上げる。
「オレたち、ペアになってから何年か経つだろ。あのときはまだひよっこだったから前だけ見てればよかったけど。そろそろおまえのことも知りたくなってきたなって……」
気恥ずかしい物言いだ。しかし、回りくどいとエルタに伝わらないので仕方ない。
落ち着かなさげに焚火の薪を継ぎ足すヒオンに対して、エルタは少し考え込んでから答えた。
「分かった。話そう」
「そ、そんな二つ返事でいいのか?」
「君にならいいだろうと思った。それだけだ」
どういう意味だそれは。そう尋ねたかったが堪えた。
女性用のウルク装備を愛用し続けていたからか、性自認に何らかの影響が出ているような気がする。酒場でからかわれたことを思い出し、ヒオンは若干の危機感を覚えた。
今は真面目な話をする時間だ。咄嗟に跳ねた心臓の音を何とか落ち着かせて、ヒオンはエルタの話の続きを待った。
「……焦ることのないように心がけてはいた。だが、どうしても逸る気持ちはあるらしい」
「それは、古龍を狩れるようにってこと?」
「それもある。いや……うん。そうとしか言えないだろうな」
エルタにしてはやや要領の悪い答え方だ。それだけ言い淀むような経緯がある、ということなのだろうか。
また少し考え込んで、エルタは意外なところから話を持ち出した。
「ヒオンは、黒龍伝説を知っているか?」
「ん? あぁまあ一応はな。キョダイリュウノゼツメイニヨリ、ってやつだろ。シュレイド辺りの文献漁ってたときに見かけたぞ」
「そうか。あれについてどう思う?」
「つっても、あの言い伝え以外には情報なかったから何とも言えないけど……一概に空想の物語って割り切っちゃいけないんじゃないかとは思うな。オレが追っかけてる五匹の竜の物語だって似たようなもんだ。…………いや待て、おまえまさか」
顔色を変えたヒオンに対し、エルタは小さく首を振った。
「直接的な繋がりはない。だが、僕の目指すものは、それに近いものかもしれない」
「近いものって、相当不吉な相手なんじゃないか……?」
エルタは再び首を振り、遠くに目を向けた。
遺跡平原はモンスターがよく通るため荒れ地になっていることが多いが、広葉樹の森に点在する遺跡はまだ埋もれずに残っている。
この遺跡がいつの時代の、どの文明のものであるかは未だに分かっていないらしい。バルバレが築かれてから長い年月が過ぎているというのに。
世の中は不思議なことばかりだ。ヒオンや新大陸古龍調査団を駆り立てる五匹の竜の物語も、この遺跡も、エルタが追いかけているものも、全て。
「小さなころに、ある少女に出会ったんだ。村では見たこともない姿だった」
「うん」
「その人は、僕に数々のおとぎ話を聞かせてくれた。当時の僕は、夢中になってその話を聞いていた」
この過去は、誰にも話さない。そう決めたのは誰だったか。
けれど、その身勝手な決意とヒオンとのバルバレでの日々を天秤にかけたとき、ヒオンの方に傾いてしまうのだ。
エルタがいなければここまで至れなかったとヒオンは謙遜していたが、その言葉はそのまま返すことができる。
ヒオンがエルタとバルバレの人々の間に立ったことで、どれだけの恩恵があったことか。彼はその辺りが無自覚なのだ。
古い記憶を思い出す。
事の大きさから考えれば、民衆や権力者に話すべきことなのかもしれない。だが、それはできない。それは彼女との約束を破ることになる。
しかし、誰にも話さないようにとも言われていない。
決して軽んじていいものではない。けれど、目の前にいる少女然とした狩人に対して捧げられるものは、いつの間にかその域まで達してしまっていた。
「そのうちの一つが、以前の竜人商人とのやり取りだ。覚えているか?」
「あぁ、大地の源が生き物になって動き出したらっていうあの話か。あれがエルタの探している相手……つまり、古龍なのか?」
「恐らくは。あいまいな答えで悪いが、何分その存在を裏付ける文献が一切ない。未だに手探りのままだ」
自らの手を見る。バルバレに来たよりもだいぶ大きく、そして硬くなってきたように思う。最も目を引くのは、防具越しからでも分かるその傷の多さだが。
しかし、まだ足りない。土俵にすら立てないと直感が告げてくる。あのおとぎ話の舞台に立つには、まだ。
「『溶けた大地の源を空から降り注がせて、世界を始まりの頃に戻す。遥かな過去に人と争って敗れて、再びその日が来るまで海の底で眠っている』そんな存在がいるのだと、彼女は教えてくれた」
「聞いたこともない伝承だな……まだ学術院が編纂もできないくらいの辺境の言い伝えなのかもしれないな」
「……笑わないんだな」
「なんで? それをオレが笑うかよ。それを言うなら、五匹の竜の物語だって近いものだぞ。始まりの竜たちが今のどれかの龍たちを指し示しているのかも、導きの青い星の青年が誰かってことも分かってないんだから」
「いや、すまない。君を甘く見ていた」
エルタは素直に謝った。そして、自らの予感は正しかったと悟る。
ヒオンはこの手の話を笑わない。決して嘲ることをしないのだ。彼自身もまた、古龍渡りという神秘を追い求める身であるが故に。
先ほどの話を民衆にしたところで、その反応は容易に想像できる。そんなことがあるかと一笑に付されて終わりだ。多くの人々にとっては、あまりに実生活から遠い物語であるから。
けれど、ヒオンは違う。
珍しい、出逢えたことが本当に幸運だったと言えるくらいの、似た者同士だったのだ。
「今思えば、あの時に聞いた物語はほとんど全て古龍に関するものだった。その内のひとつは恐らくクシャルダオラを指していると思っているが……それ以外は見当もつかない」
「……その人、実はやばい人だったりしないか? 確かおまえの故郷のフラヒヤってシュレイドに近いだろ。そこの王族がお忍びで来たとかじゃないだろうな……」
「さて、どうだろう。今となっては真相も分からない」
エルタは静かにそう言った。実際、その通りだからだ。
あの少女は誰なのか。あの数日間は何だったのか。彼女に聞かされた数々の物語よりも遥かに遠い不思議だ。
ただ少なくとも、間違いなく言えることは。
あの森の中での数日間が、今のエルタを形作っているということだ。
「いつか、あの物語の存在が姿を現すかもしれない。僕はそれに立ち会いたい。そのためには何よりもまず、強くならないといけない。古龍が竜よりも強いという道理はないが、過言でもないはずだ」
そして、エルタは一つ、嘘をつく。
「それであの突貫姿勢か……理には叶ってるよな。オレも耳が痛い」
「ヒオンは違うだろう。新大陸古龍調査団はそういう組織ではないはずだ」
「……そうだな、分かっちゃいるんだ。つい弱虫が出ちゃったな。モンスターと正面からやりあえる強さってのはかなり普遍的なものだから……つい眩しくなる。オレは、おまえとは違う」
「ああ。きっとそれでいい。その上で、やはりこの戦法は変えるべきだろうか」
「いや、いいよ。たぶんおまえはその狩り方じゃないと釈然としないだろ。オレがおまえに合わせるために、納得できる理由が欲しかっただけだ。もう理由は聞けたから十分さ」
そう言って朗らかに笑うヒオンを見て、エルタは内心で僅かな痛みを覚え、そんな自分に驚いた。まだ、自分にそんな感情が残っているとは思ってもいなかったからだ。
自分があのような狩り方をするのは、他に理由がある。もっと後ろ冷たく、鋭利な感情が心を支配している。それを悟られなかったのは僥倖だったのだろうか。
地平線の向こうの空が白み始めた。星々の瞬きが薄れていく。
帰還の準備だ。簡易キャンプを畳み、焚火の火を消して伸びをするヒオンの姿を見ながら、エルタは再び自分の手を見つめていた。
バルバレ程の大きな街でも、古龍に出逢う機会はなかなか訪れない。
しかし、入ってくる情報の量はやはり多い。エルタたちの足が止まることはなかった。
もちろん、その情報の中には誇張された噂や見間違いまで含まれている。いや、そんな類がほとんどと言ってもよかった。
未知の樹海付近で珍しい色合いの鉱石の塊を見つけたと聞いて、行ってみれば岩竜の亜種であったりだとか。
地底洞窟で時おり爆発音が響くという噂をもとに探索に出てみると、ブラキディオスという爆発性の粘菌を扱う竜の仕業であることが分かったりもした。
それでも、エルタたちは前向きだった。
古龍とはそういうもの。彼らは何処かに待ち構えているわけでもなく、意思を持って行動する。相見えるには運が絡むのだから、焦っても仕方がない。
収穫もある。二人は確実に古龍に詳しくなっていた。誤報に惑わされ、文献の不明瞭な描写に頭を悩ませているうち、その中にある僅かな事実に触れる機会も増えてくる。
最も恐れるべきは、訪れていた機会に気付かないこと。違和感を、違和感として感じ取れないことだ。機会を逃さないために必要な直感は、着実に磨かれている。
幾多の人と出会っては別れ、再会し、古龍の面影を探った。
危険な竜を狩り、探索し、その全てで生き延びて、古龍の気配を待った。
バルバレを訪れてから幾年。
二人の装備はそのまま。だが鎧玉を溶かし込んでより堅牢になっている。さらに、ヒオンの盾斧は火竜の素材を用いて強化が施された。
白兎と教官という呼び名も街に馴染み、次の豪山龍相手の撃龍船に乗り込むのは彼らかと噂され始めた頃。
未知の樹海に、ひとつの伝承が降り立とうとしていた。