朝から雨が降っていた
朝から雨が降っていた。
『まさに“滝のような”という感じでしょうか?』
『そうですね。今の時間、多くの方は帰宅の真っ最中だと思います。これから真夜中に向けて、雨は更に強くなります。不要の外出は避けた方がよいでしょうね』
駅前にあるビル壁につけられた大型スクリーンは、報道番組を流していた。
台風にも似た大型低気圧の影響だと、繰り返しその映像は主張している。
予報通りの大粒の雨が、銃弾のように地面に打ち付け始めると、人々は傘の内に体を擦りつけるように身を縮こませていた。
数名の学生グループが悲鳴とも歓喜とも言えぬ声をあげながら、三歩先までの狭い世界を継ぎ足して、小走りに道を抜けていく。
時折痛みと寒さを訴える声を、混じえながら。
『シトシトとした雨だったなら、雪になったかもしれませんね。この雨でこの気温は大変珍しいですね』
まだ温かい日があるとは言え、それはたまのこと。
今は十一月三十日――季節は確実に冬を演出していた。
同刻、海近を一人の男が歩いていた。
台風中継があってもよさそうな海岸通りをその男は傘をささず、苔色のゴムシートを巻きつけたような見るからに重々しいポンチョ型の雨衣――レインコートに、身を包んでいる。
この雨、この風。さらに海特有の潮風も加わっては、傘があってもむしろ邪魔になるかもしれない。
そういう意味では男の格好は、一つの選択として理解できる。
もしこの男を見ている者がいたら、海軍関係者と思った事だろう。
男の歩く先、勾配の急な坂道の向こうには、鎮守府がある。
そう関連付けるのは当然だ。
が、何も鎮守府に向かう者が必ずしも軍人とは限らない。
百九十はあるだろう、長身。
それに見合う――いや、それ以上に存在感のある肩幅。
身にあたる雨音も掻き消される豪雨の中でもブレない歩み。
深く被ったフードで顔は見えないが、一度も下へと俯くことなく。あごを突き出し天を恨む事もなく。ただただ、前だけを見据え続けるその面。
そういった男の纏う雰囲気は、“これ正に”だ。
日はすっかりと、沈んでしまった。
当然だ。
本来なら、車で乗り付けるような距離を歩いているのだ。
途中途中には、申し訳ない程度の街灯が立っていたが、路面にまでその恩恵は届いていない。
相変わらずの――いや、さらに強く降る雨の中を、男は変わらぬ呼気で進む。
と、とうとうその足が止まった。
大きく吐いた息は、白い。
疲れたからという事ではなく。目的地についたからか、呼吸を整えた吐息だった。
【三五三鎮守府】
ダンプで突入しても、ひしゃげてしまうのはダンプの方。そうとしか想像できない頑強な門の柱には、そう掲げられている。
数ある横須賀鎮守府に属する分団の一つ。
三百五十三番目の鎮守府なのか、編成上のタグなのか。噂では、戦力隠蔽の為、無作為に決められているとも。
男は門柱脇の検問所へ、何の感傷もなく歩みを進めた。
「やっと来てくれたか。かわいそうに……」
ため息交じりの呟きが検問所の奥より、男の耳に滑り込んできた。
何かしらの指摘、指導がこの来訪者へあるかと思えば、そんな事はなく。
規定通りの手続き。
規定通りの確認。
規定通りの結果。
男は今もレインコートのフードを深く被ったままなのだが、その指摘さえない。
むしろその指摘さえも煩わしいのか、検問所の憲兵は、あえて機械的に振舞っているように映る。
淡々と進む手続きの間、ふと男が視界に収めた鎮守府は窓明かりが乏しく、深く闇に喰われていた。
送り出しの声も無く検問所を出ると、男は空中に漂うソレにすぐに気がついた。
検問所の向こう。
鎮守府の正面口との間にある闇の深いところに、鬼火としても明るさの足りない揺らめきが二つ。
男はソレを避ける事もなく。目をそらす事もなく。むしろソレに挑むように、再び身に打ち付ける雨中を淀みなく足を進める。
打ち弾かれた雨が、人型の輪郭を浮き上がらせる。
その頭部と思わしき処が、件の蛍火と認識できる程度に近づいた時、おもむろにソレから声が放たれた。
「お待ちしておりました」
声の感じは、女だ。
男は止まらず、返事もせず、更に足を進める。
夜雨のため、月も星も照らすものは無い。どんな理由か、他の鎮守府より館内外の灯りが乏しい。
男は声に答えるよりも、更に近づく事を選んだようだ。
声の通り、そこには一人の女性が立っていた。
至って普通の女性だ。いや、美人と呼べる女性を普通と称してよいのだろか。
目を引くのは、黒の長髪に着けた青いヘアバンド。下縁眼鏡。線の細い印象を与える背格好は、いかにも事務職といった感じだ。そして何よりも、仄かに光るソレが、彼女の海色の目から溢れている事か。
ただ、その待ち方は異常だった。
セーラー服を袴風に直したような服は、雨に濡れ――というよりも、水中に沈んでいるように、体にベッタリと張り付いている。赤いネクタイや帯紐には、もう色が変わるところがない。
岩に張り付いた海藻のようになった髪。
眼鏡の縁からは、絶えず滴というには控えめすぎる量の雨水が流れてる。
足元のアスファルトの上は、雨水が川のように流れ、夜の暗闇と路面の暗さが合わさり、川というより海面のようだ。
そんな中、彼女は傘どころか雨具と呼べるものを、一切身につけていない。
その濡れ方は、今あわてて迎えに来たようなそれでは、ない。
まるで、わざと濡れて待っていたと思わせるかのようでさえあった。
理解しがたい光景からか、男はかすかに首を傾ける。
と、直立不動な姿勢を保っていた女性は、一瞬身体を強直させると、あわてて海軍特有の脇をしめた敬礼をした。
「失礼いたしました本日の視察に協力させて頂きます。おおよ――」
続けて女性が名乗ろうとしたが、男は熊のように無骨な手を開き、それを制す。
「……このような雨です。先にお部屋へ向かうべきですね……こちらへどうぞ」
男――視察官は、彼女の名乗りを制した際、一瞬だが“開き直り”とも”あきらめ”ともとれる目をした事をわかりながらも、それを聞こうとはしなかった。