引き戸がノックされた。
反応はない。
「駿河だ」
訪問者は駿河だった。
声をかけてから間が空くが、駿河は動かない。
間違いなく中に誰かがいることを、確信しているのか?
その割には一度戸を叩いただけで、再び戸を叩きつけるようなそぶりも見せない。
「どうぞ」
扉越しに、やっと届かせる程度の返事があった。
駿河は当たり前のように引き戸を開けて中へと入っていく。
「このような恰好で申し訳ありません」
ここは大淀の生活部屋。
今、カーテンは引かれ、十分な日差しが室内を明るく浮かび上がらせている。
大淀は備え付けの三段ベットの一番下で、布団と影に包まるように、そこにいた。
「今、何時だ」
慌てて布団から抜け出そうした大淀を制するように、駿河が声をかける。
「一〇二七、17、18、19……」
脈絡ない駿河の問いに、大淀は躊躇することなく答えた。
秒数までを口にして。
駿河は問い合わせたにも関わらず、自身の左手首へ視線を落とし続けていた。
「もういい。大淀」
「はい」
「貴様には、一三〇〇に予定している会議の補佐をしてもらう」
大淀は、間の抜けた顔で小首をかしげる。
「秘書艦龍田、その補佐とした天龍。他、明石、夕張、間宮らは、同時刻に行われる物資搬出に立会わせる」
駿河は、大淀に必要だと考えた情報を並べる。
大淀は、それを噛みしめるように目を伏せて思考を整理していく。左胸付け根に残る、五つの痣に触れながら。
即答のない大淀に、駿河は急かすように『出来るな』とも、『やれるか』とも声をかけない。
ようやくと言っていい時間をかけて、大淀は力強く答えた。
「お任せください」
大淀の返事に、一切表情を動かす事無く、駿河は背を向けて出て行こうとした。
その時、
「あの!」
一際大きな声が響く。
駿河は退室するのを止め、大淀の次の言葉を黙って待った。
「本当なんですよね……本当なんです。あまりに……その……」
布団の中で立てた膝に顔を押しつけ、青いヘアバンドが無いせいで前へと下げ塞がる髪を、はらう様にかき上げる。
つい今しがたの自信に満ちた声はなんだったのか。
フラッシュバックでもあったような変容ぶりだ。
「ただ、ギトギトして……ただ、ベタベタして……ただ、煩わしい……でも、これは」
顔を伏せたまま話す大淀を、駿河ただ見つめている。不敬と叱する気配もない。
「頭では、いえ、体は理解しているんです。でも心が……」
そこで大淀の言葉は終わってしまった。
駿河は黙って立つ。駿河を雨の中待ち続けたあの時の大淀のように。
「一切の否定が出来ない……事実を……」
視界はさぞかし歪んでいるだろう。
顔を上げた大淀の瞳は、海色に染まっていた。
呼吸を三十数える頃、駿河は制帽を正す。
「もう一度言っておく。愛情でも恋慕でもない。ただ、対処したに過ぎない」
遠慮なく歩み寄る駿河から、大淀は目を逸らさない。
「なら、今度は手加減をしなくていいな」
自身の上着ボタンに手を掛けながら、そう宣言する駿河に大淀は、
「手加減って?」
手加減の無い状況。それを想像できず、未知の恐怖にも似た危機感が募っていった。
部屋に差し込む日の位置が変わっていく。
それに合わせ、床が照り返した光は、ベッドが抱む暗がりを徐々に剥いでいった。
「今、何時だ」
大淀は、服の中にしまわれた後ろ髪を、手で払い抜きながら答える。
「一二四三です」
「良い頃合いだな」
「はい、参りましょう」
これが最後とメガネをかけると、駿河の言葉に凛とした声で続く。
「ふぅー、間に合いましたねぇー。時間に遅れたら、あの司令官です。またお尻ぺ……やめましょう。妙高さんも、時雨も、付き合ってもらったせいで、食べる時間が無くなってしまって、恐縮です」
同じ頃、近隣への案内を終えた青葉が、大食堂の出入り口をくぐっていた。
食事を終えた艦娘達は、立ってまま、思い思いに集まっている。
「伊良湖からおにぎりを貰ってきたよ」
「ありがとうございます。時雨」
いつの間に青葉を追い越したのか、お皿に並べられたおにぎりを持って、時雨がやってくる。
「ほら、妙高も」
青葉に続いて入室した妙高は、修道女のような制服に包んだ体をひねらせることなく、顔だけをそむけていた。切りそろえられた前髪で、ハッキリと見える太い眉尻を少々跳ね上げて。
「あー、潜水艦組ですか?」
「ええ、青葉は知っているの?」
「なんだい? あれ? 潜水艦の皆は制服じゃないんだね」
壁に並ぶ潜水艦勢は、皆一様に腰を紐で縛った白い貫頭衣のような物を着ていた。
「この後、精密検査の予定なんてなかったよね」
時雨の感想通り、その姿はおしゃれを一切感じさせない。検査を受ける為の恰好にし見えないかった。足元もスリッパだ。
「ひょっとして、この集会は僕たちに精密検査を実施するとかの話なのかな?」
「あれはですねー」
「ムかれたでち」
「ゴーヤ、どういうことだい?」
たまたま、時雨が疑問を口にしたタイミングで、ゴーヤが横を通りすぎようとしていた。
やはり恰好は、貫頭衣にスリッパだ。
「ロリコンでち、変態でち、ハアハア言わなかったでち」
「ごめん。君が何を言っているのかわからないよ」
「気になるんですかぁ? いい情報ありますよぉ?」
「青葉、知っているのかい?」
揉み手をしそうな様子の青葉に、『さっきまで、僕たちと一緒だったのに、どうやって知ったのだろう』と、感心していいのか、呆れていいのか、時雨は迷う。
「提督が没収したんですよ」
「何をだい?」
「ゴーヤたちの水着でち」
「ああ、そういう事かい」
時雨は、今朝食堂で本日の作戦行動が中止になったと龍田からあった際、潜水艦組は絶対罠だと信用していなかった光景を思い出す。
「前から休みが欲しいって言ってたし、君たちには願ったり叶ってりじゃないのかい? 何が不満なの?」
「裸にされたでち」
「裸?」
時雨の疑問に青葉が答える。
「信じられないって出撃をしようとするのを、明石と夕張が頑張ったんですけど、止めきれなくて」
「それで?」
「で、提督にご登場頂いたんですけど、それでも信用しないので、豪を煮やした提督が、制服を回収したんですよ」
時雨があごに手を当てて考える。
「適切な対処だと思うけど?」
「全員、提督の前で脱がされたんですよ。『脱げ』って」
その時の事を思い出したのか、ゴーヤは頬を膨らませた。
「そうなのかい?」
「そうでち」
「ふむ」
「ロリコンでち、変態でち、ハアハア言わなかったでち」
時雨は、それならゴーヤの態度にも納得できる。そう考えたが、ゴーヤの言葉に引っかかるものを感じた。
「ちょっと待って、『ハアハア言わなかった』?」
「でち。ゴーヤたちの裸をどうどうと見ておきながら、顔色一つ変えなかったでち。ゴーヤに魅力がないとでも言うでちか。鼻の下の一つも伸ばすでち」
「それは、それで問題だよ」
「思い出したら、不愉快になってきたでち。もう行くでち」
「うん」
スリッパを打楽器のように鳴らしてゴーヤは、仲間の元へ向かっていく。
「これって、前の提督と同じように、僕たち駆逐艦の見た目には興味がないってことかな?」
「んー、どうなんでしょー。まだ、取材が足りないなー」
「どうしたのさ妙高。ずっと黙って」
今も潜水艦たちへ、顔を向けたままの妙高。
「妙高、こっちだ」
「ううん、なんでもないわ。今行くわ、那智。じゃあ、ここでね」
「はい、ありがとうございました。妙高さん」
「僕も飛んでくる前に、あっちに行くよ。」
時雨の視線の先から、『ぽい』『ぽい』と聞こえてくる。
「時雨もどうもでした。さて、青葉は―― 一枚いいですかー」
青葉は二隻を見送ると、カメラを構えて潜水艦たちへと突撃していった。
青葉たちが退くのを待っていたように、大淀、駿河の順番で食堂へと入ってくる。
それまで、不快にならない程度の喧騒に包まれていた室内は、水を打ったように静かになった。
ステージ上、駿河は用意されている椅子に腰を下ろし、テーブルに肘をついて、組み合わせた手に、顎を載せる。
大淀は、一度伊良湖の元へ向かい二三言話すと、迷いなく駿河の右手に立ち、静かに控えた。
「お疲れ様だ、妙高」
先ほどの声を掛けた時より声量を落として、那智は妙高を労った。
「大人しくしていたようね、那智」
「な、この那智。一度飲み込んだものを吐き出すような、無粋な真似はしない」
左に垂らした腰下まである長いサイドテールを揺らして、声を張り上げられない威勢を補う。
「そうね、那智は、うわばみだものね」
「妙高も似たようなものだろう」
「私は、嗜む程度よ」
「そんな事はないだろう。なあ、羽黒」
「あ、あの……あの……」
「やめなさい、羽黒が困っているじゃない」
「む、済まない。そういうつもりでは無かったのだが。が、羽黒が困ったということは、そういう事だと私は思うが」
「本当にあなたは――足柄、どうかした?」
戦局が不利と見たか、妙高はステージを見つめる足柄へ声を掛けた。
「大淀の女が上がってる……」
じっと見つめて考えるのは、姉妹艦ながらの共通点であろうか。
「そうなのか」
那智は大淀を見て、首を傾げる。
「ええ、間違いないわ。大淀の良い女度が上がっているのよ。私には分かるわ」
「確かに昨晩までとは違い、こう一本、芯が入ったようには見えるが」
「で、足柄。どの辺がそう見えるの?」
「妙高姉さんが、珍しいわね。肌よ。張りと艶が違うわ。もう潤って来たばかりって感じだわ」
「た、確か……ずっと目の下が、く、くすんでいたような……」
「そうなのよ、羽黒」
足柄は、テーブルを挟み立つ羽黒へ身を乗り出して迫る。
「そうね。でも、それだけ?」
「いいえ、妙高姉さん。腰よ」
「腰?」
妙高型四隻は、そろって大淀の腰へ視線を集めた。
「そう。どういって言いかわからないんだけど、腰が落ち着いているというか、すっきりしているように見えるというか」
「あ、あの……、羽黒には、分かりません」
「ふむ、足柄と大淀は仲がいいからな。二人の間だけでわかる事もあるのだろうな」
足柄は、わざわざハンカチを取り出して、その角を噛んで見せる。
効果音を付けるなら『きー!』だろうか、『くぅー!』だろうか。
「そう」
妙高は一言呟いた。
大淀でなく、駿河を見ながら。
「時間だ」
駿河の低い声が、室内を埋めた。