「満潮! わかりますか、満潮!」
呼ばれた名前に、満潮は気が付く。
目蓋を通して透け届く光が、赤らんで見える。
ああ、目を開けなきゃと、満潮は変に冷静に考えた。
「こ、こ、わ?」
「明石さん! 満潮ちゃんが目を覚ましました。アゲアゲです!」
「勝利の女神はここよ~」
「荒潮、意味が違うと思います」
今度は天井があるのね。
満潮は正面――天井で光る蛍光灯に目を細めた。
「皆?」
先ほどまで羽のように軽かった体が、鉛のように重い。
首を動かす事も出来そうにないと、目だけを左へ右へと振った。
「よかったです。満潮、本当に」
黒髪ストレートの満潮と同じ顔をした誠実を形にした眼差しで、言葉固く労う。
「うふふふふ。良かったわー」
ゆるやかに波打つ長い髪。
こちらも満潮と同じ顔だが、目力があふれていると言うか、瞳孔が深いと言うか、目を合わせる事が一つの修行になってしまう勢いの彼女は、テンション高めに微笑んでいる。
「満潮ちゃん。朝潮も、荒潮も、大潮もいます!」
「そう」
「大潮、満潮は病み上がりなのです。もう少し声を落とした方が良いと思います」
「そうでした! 大潮、失敗です!」
「んー、声の大きさ、直ってないかなー」
見えない処から声に、満潮は思い当たる名前を呼ぶ。
「明石……」
「そうだよ」
「ここは……医務室?」
「おお、正解」
「何で?」
「満潮ちゃんが倒れたって、し、んー」
「大潮?」
狭い満潮の視界から、大潮の姿が消えた。
「営倉に入ってすぐに、倒れたそうです」
大潮の後を、朝潮が引き継いだ。
「倒れた?」
「はい。極度の疲労と衰弱が原因と聞きました。人で言うところの、脱水症状だったそうです」
「脱水症状と、栄養失調のダブルパンチかな? 結構危ない状態だったのよ、満潮。あんた、食事もだけど、水も飲んで無かったんですって?」
集会があった四日前、いや五日前から、満潮は飲まず食わずでいたらしい。
「もう……ひどい格好ね」
「ひどい?」
「そうです。満潮ちゃんが倒れたって聞いて、皆で来たらベッドで横になっていたんですけど」
「け、ど? 何、大潮」
「ポルターガイストです。幽霊です。いきなり、満潮ちゃんを幽霊が殴ってきて、体のあちこちへ痣ができたんです!」
「幽霊? 殴られた痣?」
大潮を押しのけて、なぜか朝潮が会話を引き継いだ。
「そうです。いえ、違います。幽霊なんていません。痣は本当です。日が高くなるにつれて、だいぶ引いてきました」
「日が? 一晩中、起きていたの?」
「もうすぐ一三三〇になります。当たり前じゃないですか? 姉妹艦ですよ。」
「そう、ありがとう朝潮」
「やっぱり、弱っていると素直になるというのは、本当なのでしょうか?」
「悪気が無いはわかっているんだけどね。朝潮、あんたね」
「なんでしょう、満潮」
「なんでもないわ。荒潮もありがとうね」
「あらあら。こういう満潮も素敵ね」
周りを見渡せる程度には動くようになった頭で、改めて満潮は見た。
話の通りの医務室。
自分はベッドに寝ていて、周りには第八駆逐隊の面々と明石。
と、満潮はひとり足りない事に気が付いた。
「満潮は?」
その場にいた満潮以外は、顔を見合わせた。
「満潮はいないの?」
「満潮、満潮はあなたです。頭は大丈夫ですか?」
朝潮は心配に声を掛けるが、聞きようによらなくても言い方が酷い。
「そんな事はわかっているわ。そうじゃなくて、もう一人いたでしょ? 傷跡まみれの満潮が」
再び顔を見合わせる面々。
「明石さん! 満潮ちゃんが変です」
「変って、大潮。うーん、衰弱のショックによる記憶の混濁かなー?」
「うふふふふ。満潮は、あなただけよ~」
「嘘っ、だって」
満潮は右腕を顔の上に掲げた。
その手には今もまだ、確かな痛みがある。
「満潮、夢を見ていたのではないですか?」
「夢? でも、まだ」
力無く上げた腕を頭の向こうへ垂らすと、
「いたっ」
固い何かに当たった。
「何よ……私の艤装?」
ずっと頭の上に置いてあったせいで、満潮の視界には入らなかったが、そこに艤装が置かれていた。
満潮は寝たまま首をねじり逸らす。
「錆びでボロボロね。もう私には、必要ないのにね」
自嘲気味に呟いて、伸ばした右手で、艤装を撫でた。
「こんなに、凹んで。……凹んで?」
「満潮。まだ安静にしなければ駄目です」
一旦、掛けられたシーツの中で満潮は、俯せに寝返ってから、艤装に向けて鈍く上半身を反らす。
「こんな凹みなんて、あった……?」
満潮は今手の届く処で、凹みを確認しようと艤装を撫で擦る。
「誰も何もしてないのに、突然凹みが出来たんです!」
「満潮が声を上げるたびに、艤装が凹みが出来ていったの。ちょっとしたホラーだったわー」
「荒潮、なんで嬉しそうなんですか」
大潮、荒潮、朝潮が、満潮に凹みについて説明していく。
満潮の手が、ひと際大きな凹みに触れた。
「錆? 血みたいな……」
丸い凹みの内側には、縦の三本線と、その先に四つの小さな凹み。
「これって」
満潮は艤装に触れる自分の右手の甲を、まじまじと見つめた。
擦りむけた痕に見えるMP関節――拳を握った際浮き上がる指の付け根の山を。
指が曲がること確かめるように、拳を握っていく。
「満潮ちゃん?」
満潮は拳を凹みへと当てた。
「そういう事……ね。ふふ、あはは……あははははは――」
満潮が、艤装へ拳を当ててたまま、笑い声を張り上げていく。
「大変です。満潮が、荒潮になりました。満潮、しっかり!」
「あらー、どいう事かしらー、朝潮?」
「満潮ちゃん! 明石さん!」
「え、やばい? とりあえず、殴って気絶させる?」
明石は順調に、駿河の影響を受けているようだ。
「『名前を呼んで』……ね」
笑いが収まると、今度は能面のように表情を落とした。
掛るシーツを投げ飛ばして、ベッドの上に満潮は立ち上がる。
「満潮ちゃん、裸んぼです」
一糸まとわぬ満潮は、
「でも、大潮の大好きな満潮ちゃんの顔です」
それさえも誇らしそうに、口端を跳ね上げ、瞳に力を漲らせていた。
気力は十分なようだが、病み上がり。
背に傾きかけ自分の体を、慌てて起こす。
艤装を指さして、声を張り上げた。
「サボってんじゃないわよ。満潮、出るわ!」
満潮の体が光に包まれた。
□ □ □
「入るわよ!」
執務室の扉が、乱暴に内開らかれた。
「なんです?」
室内には机に着く駿河を挟んで、大淀、叢雲が、それぞれに書類を持ち何かを話し合っていたようだ。
どうでもいい事だが、数人の妖精もソファーテーブルの上で、紙片を片手に輪を作っている。
「満潮、あんた艤装が?」
誰に許可を貰う事もなく、大股で入室してきた制服姿の満潮は、その背に艤装を背負っていた。
「当然でしょ」
叢雲の指摘に、満潮は鼻を鳴らす。
「倒れて、今は安静にしていると聞いていましたが」
満潮は、誰に許可を取るでも無く、駿河の前に机を挟んで毅然と立つ。
両足を肩幅に開き、胸の前で腕を組む。
血に汚れた提督の制服をマントのように艤装の下、制服の上に身に着けている。
「満潮、良く歩けるわね?」
「何よ、叢雲。そんな体力も無いはずとでも言いたいの?」
「そうれもそうだけど、艤装を付けたら普通、陸を歩くのは厳しいでしょ……」
叢雲は満潮の足元を凝視している。
「うん?」
満潮は、自分の足元を見た。
「あれ? んー」
顔を上げた満潮は、自信と矜持と力にみなぎらせた――いわゆる、超ド級のドヤ顔に。
「私なら、当然よね。むふー」
鼻息も荒い。
「どう?」
満潮は椅子に座る駿河を、顔を反らせ挑発的に視線をくれる。
駿河は立ち上がると、踵を揃えた。
「名を名乗れ」
「朝潮型三番艦、駆逐艦……」
歯のかみ合わせでも悪いのか、満潮は言いよどんだが、
「満潮よ! 私、なんでこんな部隊に配属されたのかしら」
直ぐに、勢よく満潮は名乗りを上げる。
駿河の目に一瞬、落胆が過ったのは気のせいだろうか?
「貴艦の着任を歓迎する」
駿河は真摯に敬礼を行う。
「当然よね」
満潮は返礼をした。
「さて」
礼式は終了と駿河は手を降ろし、何時もの粗暴な雰囲気へと戻った。
「何よ」
「貴様は、そのまま入渠しろ」
「は?」
駿河は、ため息交じりに続ける。
「そんな状態では、話にならん。弾丸が聞いて呆れる」
「だって、しかた……」
満潮は言い訳をしようとしたが、それは潔くないとでも考えたのか。沈黙した。
「その後は飯を食え。間宮には話を通しておく。希望はきかん。出されたものを食え」
駿河は、「衰弱等と情けない。基本的な自己管理くらいやれ」と、付け加える事も忘れない。
満潮へ指を二本立てて見せる。
「貴様には二日の猶予を与える。その間に直接補給を身につけろ。香取を付ける。せいぜいしごいてもらえ」
更に指を一本足す。
「三日後には哨戒、遠征任務のローテーションに入ってもらう」
駿河が上機嫌に、獣の笑みを浮かべた。
「どこかの狂犬が、無垢に撃鉄を起こした。この鎮守府海域は今、深海棲艦の標的として上位にある」
「ちょっと、アンタ! 何それ、聞いていないわよ!」
「本当で……いいえ、提督がそうおっしゃるなら、本当なのですね」
声を張り上げる叢雲と、疑わない大淀を駿河は取り合わず、満潮に言い続ける。
「貴様を遊ばせていく余裕はない」
「上等よ」
勝気――それを体いっぱいに満潮は表現した。
駿河は満潮の表情に納得したのか、制帽の正中を正すと、机を回り込み満潮の横へ立った。
「まだ、言い足りないの?」
駿河は、卓上に置かれた伝票刺しの針に親指を押し付ける。
満潮、叢雲、大淀が、駿河の行動に目を奪われている。
駿河は、満潮に片膝をつくと、左手で満潮の右手をとった。
「何するのよ! うざ! ……」
何かが脳裏をよぎったのか、満潮は張り上げた声を唐突に放り出した。
「貴様には言う事が、三つある」
血の染み出る親指を駿河は、満潮の眉間上に押し付ける。
「仲間を守る。その先を考えろ」
指が離れるとそこには、卵の形をした赤い点が押されていた。
「自分がいなくなる。その後の周りを考えろ」
今度は、右頬骨に一つ。
「兵器である前に、まず戦士となれ。泥をすすった者だけが、生きる事に固執出来る」
三度目は、左頬骨。
「貴様は間違いなく、俺から一つ、勝ちを得た」
駿河は、満潮を正面から見つめた。
「何よ、四つじゃない」
満潮の声は少し、湿っていた。
駿河は余韻に浸る事無く、スクッっと立ち上がると机へに向かう。
開放された右手を、満潮は見つめていた。
「朝潮、大潮、荒潮、この泣き虫を連れて行け。連帯責任だ。この二日間しっかりフォローを行え」
開け放れた扉の向こうへ、駿河は声を張り上げた。
「失礼いたしました!」
わらわらと朝潮と大潮入室し、即座に敬礼をする。
荒潮は、服が乱れないよう、ゆったりと最後にご登場。華麗に敬礼をした。
「誰が泣き虫よ! 調子にのらないで!」
満潮が叫び、駿河へ殴り掛かろうとしるのを見るや、朝潮、大潮は後ろから止めに入った。
荒潮は、慌てているのだろうか?
「満潮!」
「満潮ちゃん!」
「あら、うふふふふふふー」
体力がほぼ尽きている満潮だが、艤装のおかげか、朝潮、大潮の二隻がそれぞれに腕を取っても、抑えきれそうにない。
「さっさと入渠をしろ」
駿河が、満潮の肩へ手を伸ばす。
どいう理屈か、満潮の肩を駿河が軽く引くと、満潮は自分からのけ反り、膝から崩れた。
「抱えて行け!」
満潮がまた倒れたのかと、朝潮、大潮、荒潮? は、目を見開いたが、満潮がすぐに恨みごとを言い出したことで、安堵と共に強制連行を開始した。
「ちょっと、降ろしなさいよ! そいつにはまだ言いたい事があるのよ! いいから! 恥ずかしいから! ねえ! 聞いてる!」
満潮の声で、遠ざかっていくのがよくわかった。
ひとまず嵐は去ったという事だろう。
部屋の出口を見送った大淀と叢雲は、意図せず互いに顔を見合わせた。
微笑む大淀に、叢雲は微妙な顔で応えた。
「提督、膝が」
大淀が、一段落したと息をついたのに合わせ、駿河の右ひざが汚れている事を見とめた。
よく掃除された部屋の絨毯とはいえ、土足で踏みつけているそこに膝をつけば、白いズボンなら尚の事汚れが目立つ。
「制服は汚しちゃいけなかったんじゃないの?」
大淀が、自身のハンカチで駿河の膝を拭く。
その横からそう言った叢雲には、一切の表情がない。
「汚すだけの意味が満潮にはあった。済まない、大淀」
駿河は大淀に礼を述べながら、叢雲を見ずに答える。
「そうね。満潮はアンタに勝ったんだもの。敗者は頭を垂れるべきよね」
抑揚ある駿河の声に対して、叢雲は若干早口に皮肉る。
「その通りだ」
間髪入れず素直に同意した駿河から、叢雲は顔を背けた。
「しかし、勝者の意味を理解する者だけにだ」
続く駿河の言葉に、叢雲は口を堅く閉じた。