「ところで虞よ。ならばお前が私にしたいことは無いのか?」
「私が項羽様に…ですか?」
秦において、虞美人が会稽零式に編纂事象での彼の在りようを語った後のことだ。
会稽零式は編纂事象における自身の行いをシュミレートした後に、突然そう言いだしたのだ。
「ですから、私は項羽様のお側に…」
「その願いは理解した。私はお前が望む限りは確かに虞の側にいる事を誓おう」
不安そうな表情を浮かべた虞美人は、会稽零式の泰然とした答えにホッと安堵の息を漏らす。
「だが、ならば虞が私にしたいことはあるのでは無いか?
千年という時を超えてきたのだ。私は虞が寄り添った項羽では無いと言えども、この機体との再開を果たした時の事を考え、懸想した事もあるのではないか?」
あまりにあけすけな会稽零式の物言いに、虞美人はポッと頬を赤らめる。しかしこれは会稽零式にしてみれば至極真面目な質問であった。
何せ会稽零式というモノは、人格を与えられているとは言え本質的には人の役に立つために作られた機械なのだ。
何もせず、戦わずに、ただ自分の側にいて欲しいという虞美人の願いは理解したが、それでも誰かの為に行動を起こさなければ、彼にとってはアイデンティティの損失にも等しいのだ。だからこそ、彼は虞美人問うたのだ。
『私は貴女の為に何が出来るのだろう?』と。
「遠慮することは無い、私は今は虞のモノとしてあるのだ。
ならばお前が私に願いを通すのは至極真っ当な事である」
会稽零式が重ねてそう促すと、虞美人は少し恥ずかしそうに自身の服を掴んだり離したりしていたが、やがてグッと力を込めて真っ直ぐ会稽零式の方に向き直る。
「な、なんでもよろしいのでしたら…」
顔を赤くしながら出した震え声は、そこで詰まってしまう。
会稽零式は無言のまま、ジッと続きの言葉を待つ。
「わ、私を…項羽様のお背中に乗せて頂いてもよろしいでしょうか」
「承知した」
虞美人が精一杯の勇気を込めて絞り出した願いに、会稽零式は即座に応える。
4本の膝を降り、虞美人が背に乗りやすいように屈む。
少し躊躇った虞美人であったが、やがて恐る恐る会稽零式の背に手を掛けてえいやと彼の背に跨る。
「あぁ、項羽様にまるで馬に乗る様なご無礼を…」
恥ずかしそうに両手を顔で覆う虞美人であったが、会稽零式は立ち上がってふるふると首を振る。
「気にすることではない。今の私は人のそれとは違う形をしているのだ。であれば、触れ合いの仕方もまた違うものになるだろう」
「その様なものでしょうか…」
虞美人は呟く様に言いながら、彼の上半身、人型をしている背にピトリと両手で確かめる様に触れる。
「この様なお身体になられても、温かいのですね」
「そうか。私は自身の体温の変化を感じたことは無い。
さて、それでは何処へ向かおうか、虞よ」
「どちらでも。貴方の気が向くままに」
「承知した」
簡潔な会話だけを済まして、会稽零式は虞美人を背に乗せたままゆったりと歩き出す。
ズシンズシンと一歩毎に音がなるが、それは戦時における彼の歩みと比べれば随分と静かなものであった。
二人はのんびりとした歩みのまま咸寧を離れ、金色の小麦畑を往く。
「静かですね」
「そうだな」
「この様な平穏、私には長い間ありませんでした」
「私はこの秦が統治されてからというもの、多くの時間をこの様にして過ごした」
ズシンズシンと響く足音に驚いた民たちが、作業中の手を止めて顔を上げる。
そして会稽零式の姿を認めると、ペコリと一礼をして再び何事も無かった様に仕事に戻る。
「良い土地なのでしょうね」
「そうだ。此処は完全な平和が約束された地だ。此処であれば虞も今の平穏が約束されるであろう」
「その為に、項羽様はまた戦いに向かわれるのですか?」
「そうかもしれない。私はこの世に不穏の種があれば、それを摘み取らずにはいられぬであろう」
穏やかな表情を浮かべていた虞美人は、その会稽零式の言葉で、顔をクシャと歪めて笑う。
「では、私の平穏はそれまででございますね」
そう一言呟くと、虞美人は会稽零式の背中にそっと体を寄り添わせた。
「あぁ、項羽様…どうか、どうかもう貴方のお身体が傷つく様な戦場に向かう事がない様に、切に願います」
「……」
その独り言に、会稽零式は答えない。
もしこの土地が脅かされる事態が起これば、自分はそこへ向かわずにはいられないだろうと、誰よりも理解していたからだ。
虞美人は彼の背に縋り付くようにしながら『項羽様…項羽様…』と譫言のように啜り哭く。
会稽零式はやはりそれに応えない。ただ歩みを進めるのみである。
やがて暫く歩いていると、項羽の背に乗っていた虞美人の啜り泣きが止んだ。
顔をそらして振り返ってみると、そこにはあどけない顔で眠る虞美人の顔があった。
その顔を見ると会稽零式は酷い疲れに襲われて、思わず田畑の側の草むらで腰を下ろした。
機械としての自身を何よりも良しとしている彼にしてみれば、これは非常に珍しい事であった。
一面に広がる金色の稲穂が、陽の光に当てられてキラキラと輝く。
ふわりと赤子の頬を撫ぜるような優しい風が、虞美人の髪を浚う。
足元の蒼く生い茂る緑が、土と草の香りを彼の鼻腔へと運んでくる。
その様な平穏な時の中で、会稽零式は背で眠る虞美人が歩んできた人生に想いを馳せる。
会稽零式が歩んできた千年という時間は多くの戦いの只中にありながら、常に正義を胸に宿したものであった。
多くの戦場を渡り歩きながら、その心根には始皇帝による世界平和という信念がまっすぐと芯に存在した。
それに対して、彼女はどの様な思いで生きてきたのだろうか。
愛すべき男を喪い、どうして生きているのかわからなくなりながら彷徨う千年とは、いったいどれほどの孤独なのであろうか。
それを思うと、会稽零式は自身の胸が絞られる様な痛みを覚えた。彼女は項羽という男が側にいなければ、これほどにあどけない表情を見せることも叶わなかったのでは無いだろうか。
あまりにも愚かで、あまりにも愛おしい。この愛という感情に縛られた一人の女を、会稽零式はただ静かに見つめる。
そして、彼女の今ひと時の平穏を守れるのであれば、会稽零式は何を犠牲にしてでも守り通そうと思った。
どうか、彼女の安らぎが、末永くありますように-。
人の為に戦い続けるだけの機械は、この時確かにそう願ったのだった。
*
「いたいた。おーいぐっさーん」
「あら、先輩に対してその生意気な口をきくのはこの口かしら?」
「あがががが。ごへんなはい、ごふぇんふぁはい」
藤丸が朗らかに声を掛けるのと、虞美人が乾隆剣を藤丸の口に突っ込むのはほぼ同時だった。
「お前さあ、私が人間嫌いだって事を忘れてない?」
「確かに気安かったかもしれないですけど…でも虞美人は何だかんだで優しいじゃないですか」
「ふふっ、脳みそが湧いているのかしらね、私のマスター様は」
この一見剣呑な様にも見えるやりとりも、虞美人が来て暫く経った今は見慣れたやりとりであった。
「虞よ、あまり私達のマスターに粗暴な扱いをするのはやめよ」
そして、項羽がそんな二人の諍いに待ったをかけるのも、またいつもの事であった。
「し、しかし項羽様…こいつが」
流石に藤丸のからかいに腹が立ったのか、珍しく項羽に反論しようとした虞美人であったが、項羽に無言で頭を撫でられると、そのまま言葉が尻切れとんぼになり、沈黙してしまう。
「マスター。貴方もあまり私の妻をからかうのを控えて欲しい。知っての通り、あまり忍耐が効く方ではないのだ」
「うん、ごめんなさい」
項羽から苦言を呈され、藤丸もおとなしく謝る。
「…それで?何の用なのよ、あんた」
虞美人は頭に項羽の手を置かれたまま、気恥ずかしさを誤魔化す様に気丈に振る舞う。
それは誰の目から見ても無理をしている様であったが、流石にさっきの今でからかうのも気が引けたのか、藤丸は今度はまじめに応えた。
「虞美人と項羽にお疲れ様って言おうと思って、今日のシミュレーション」
「…それだけ?」
「うん、それだけ。それじゃあ、今日のトレーニングは終わりだから、あとは二人でごゆっくりと」
藤丸はそれだけ一方的に言うと、片手を振り上げてあっという間にパタパタと走り去っていった。
おそらく、今日のトレーニングに参加していた残り4騎のサーヴァントと、マシュ・キリエライトやスタッフにも同様にお礼を言いに行ったのだろう。
「…相変わらず変な奴」
頭がいたい、とばかりに自身のこめかみを抑える虞美人。
項羽はそんな虞美人を見ながら、少しだけ明るさを滲ませた声を出す。
「だが、だからこそ良いマスターだ。人と人外、そこに何の壁も隔てずに頼り、声をかけ、素直に感謝を述べる」
「…確かにあの様な者は、私たちにとって安らぎとなる事は確かですが」
「然り。故に私は、彼がマスターの元で再び虞と共に時を刻める事を、嬉しく思うのだ」
項羽のあまりに明け透けな感情表現に、虞美人は再び頰を赤く染める。
「さ、さて。今日はこれでトレーニングは終わりの様ですね。
この後はどうされるご予定ですか、項羽様」
照れを誤魔化すように、顔をパタパタと仰ぎながら虞美人は項羽に問う。
すると項羽はスッとその場で4本膝を折ってその場に屈んだ。
「項羽様?」
「虞に用が無いのであれば、私の背中に乗って散策などどうだろうか」
「えっ」
虞美人は雷に撃たれたような衝撃を受けた。これは、確かに何処かで見た光景であった。
「…どうしてその様に思われたのですか?」
「奇怪な事であるが、私にもわからぬ。だが、私がそうしたいと言うよりも、私のこの身体が、そうしたいと思った様に思うのだ」
「そうで、ございますか…」
虞美人は、きゅうと胸を締め付けられる様な痛みを覚える。
あの方は、私とのあの戯れを好ましく思っていたのだろうかと思うと、その愛おしさに感情がこみ上げる。
「では、お背中を失礼しますね」
彼の背に手を掛け、えいやと飛び乗る。
項羽が立ち上がると、虞美人の頭は天井に当たりそうな程にスレスレであった。
「頭が当たらぬか?」
「ギリギリで、ございますね」
項羽の問いに、虞美人ははにかむ様に微笑む。
「そうか。今より歩く故、当たる様なら教えよ」
「はい」
ズシンズシンと、戦時の彼に較べれば穏やかな歩みで、項羽は歩き出す。
幸い、頭は天井に当たる事は無さそうだ。
「……」
散策をすると言いながら、二人は殆ど真新しいものの無い廊下を歩く。散策をする事ではなく、あくまでこの時間そのものに意義があるのだ。
「項羽様に、まるで馬に乗る様なご無礼を…」
「気にする事では無い。今の私は人のそれとは違う形をしているのだ。ならば、触れ合い方もまた別な形となろう」
「その様なものでしょうか」
そう言って、虞美人は微笑む。この方はどの様な姿であっても、どの様な時を過ごしたとしても、変わる事は無いのだと安堵する。
「項羽様、お慕いしています。
深く、この世の何よりも。
例えどの様な御姿になられたとしても」
「私もお前も愛そう妻よ。
世界に取り残されようとも。
長い時を彷徨うことになったとしても」
二人はただ静かに歩く。
クリプターとサーヴァント。
異聞帯と剪定事象。
項羽と会稽零式。
虞美人と芥ヒナコ。
長い時を歩む内に、二人の関係は歪み拗れ、様々な物が混じり合う様になってしまった。
けれども、例えどの時どの場所どの事象であったとしても、この二人が想い合う限り、その愛という絆は確かに結ばれているのだった。
*
どうか、彼女の安らぎが末永くありますように。