橙の話だと思います。

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お前なんてこれを読んで死ねばいい

 

 

 

 

 

「クソだな」

 

 と彼女は言った。彼女はイライラしていた。大妖精が倒れた。自然が悲鳴を上げていた。新しい農法が開発された。土から人間の餌が夥しく吸い出されていた。妖精たちは咆哮し、飽きもせず暴れまわらなければならない運びとなった。大妖精はそれを鎮めて回っていた。だけれど彼女は力が強く、妖精の枠からはみ出しかけていて、そんな事とは関係なくまるで平静だった。

 

そしてそれを差し引いても、やはりイライラしていた。

 

「誰に向かって言ってんの、それ」

 

「知らない。イライラするんだよ」

 

「おい、寺小屋サボる気か?」

 

「お前は今何してんの。ここに居るってことはサボってるってことだろ」

 

「明日からの話だよ。何処行くんだ?」

 

「関係ないよ。寺小屋なんて、元々サボると大ちゃんが泣くから行ってただけだ。その大ちゃんが倒れてちゃ関係ないだろうが。大ちゃんの様子を見て、適当に励ましたら、魔理沙のとこに遊びに行く。最近あいつ、にとりのとこで面白い事してるんだよ」

 

「ふうん。別に私だってお前が寺小屋行こうが行くまいが関係ないよ。サボる気なのかどうか確認しただけだ」

 

 紫様の政策で、藍様の命令だった。正直別にどうでもよかった。どうでもよかったので従った。どうでもよい時は従うに限る。従わないと、どうでもよいとはとても言えない気まずい状況になるのは目に見えていた。私は紫様の事も藍様の事も好きだった。どうでもよかったので、命令の内容以外の事はあまり憶えていなかった。寺小屋に通いなさい、だ。妖怪や妖精が寺小屋に通っても良い理由なんて微塵も興味ない。ただ私は上白沢先生に、素行の良くない生徒の様子を聞かれることがしばしばあったので、それに答える準備をしたに過ぎない。別に彼女がサボろうがサボるまいが、関係ないし本当にどうでも良かった。

 

「お前っていい子ちゃんなのかと思ってたけど、結構ワルなのか?」

 

「チルノがいい子とか悪い子なんて気にするタイプだとは思わなかったな。私はそんなの気にしたことない」

 

「お前は気にするタイプだと思ってた。じゃあ何を気にして動いてるの?」

 

「好きな人が傷付かないかどうか」

 

「それって、誰?」

 

「紫様とか藍様。あとは上白沢先生とかチルノとか。」

 

「ふうん」

 

 彼女は少しばつが悪そうにした。彼女は自由だけど、少しばかりの思慮というものがあった。作品の登場人物が一貫したキャラクターを持っているのはそうする事が読者にとって伝わりやすく、かつ違和感を与えないからだけれど、あいにくこれは作品の登場人物の話ではなく、彼女は一般的な思考能力と感情の揺れ動きを持つ妖精に過ぎなかった。

 

「私と一緒だね」

 

「何が?」

 

「何を気にして動くか。でもごめんね、今は本当にイライラしてるんだ。だから橙とは話したくないな」

 

「わかったけど、その言い方は唯でさえイライラしてるのにうざい奴と喋りたくないって意味に聞こえるから他の人には使うなよ」

 

「そんな意味じゃないよ」

 

「わかったって言ってんだろ」

 

 上白沢先生は、授業中に教室に入ってきた私を一瞥すると顎で席に付きなさいと促した。放課後にはやはり、今日寺小屋に来なかったチルノについて私に訪ねてきたので、用意しておいた答えをあてがった。上白沢先生はそうか、と言った。上白沢先生は凛々しいが、いつも何かを心配しているような顔をしている。善良な教職者等というものの態度としては適切と言えた。梅雨前で涼しい筈だけれど、それ以上にジメジメとした不快感があって、特に何もなくてもイライラした。私はチルノとは違って、イライラしていてもある程度平静に振る舞えると思う。それでも、上白沢先生やクラスの皆の事は好きだけれど、今日はさっさと家に帰って一人になりたいというのが正直なところだ。私もチルノと同じだ。イライラしている時に好きな人と居ても、イライラしている自分にもっとイライラするだけになるのは火を見るより明らかだ。そうだ、帰って、靴を脱いで。煮干しを二、三口の中に放り込んだら、寝床に入って風の音でも聞いていたい。そしてボケボケと寝たい。尻尾が2つしかない雑魚の小娘のアフターなんぞ、こんなところがいい具合だろう。日も差して居ないのでは何処に居ても居心地が悪い。それなら自宅が一番マシだ。

 

 しかし、そういう日に限って家に帰ると藍様が待ってくれていたりして、つい一瞬顔が引き攣ったりするのだ。思い通りにいかない。そりゃハッキリ言って、家に帰ってきたらこの世で一番私が懐いているであろうその人が、火の着いてない囲炉裏の前で座って、煮干しを幾つか持って眠そうにしているのを見たら、どんな精神状態だろうが私は直ぐにお膝に飛びついて喉を鳴らすよ。今日だって例外じゃない。藍様は私に、顔いっぱい愛おしそうな輝きを放って、私の頭をなでてくれるに決まっているのだった。さっき言ったことは全部ウソだ。イライラしてて、イライラしてる時特有の泥沼思考にハマっただけだ。こんな事があれば全てどうでもよくなるに決まっている。そうだ。どうでもよかった。この世で最も尊い事は「どうでもいい」という状態の事だ。私はそれを知っていて、故に私はこの世で最も幸せな猫だった。この世で最も幸せな猫、この世に何千匹か居るだろうと思いながら、藍様のお膝の上で煮干しを二、三口の中に放り込んでもらって、寝た。

 

 

 

 

 

 

 自然の奔流の先に私達が見たのは雨だった。触覚をだらりと下げて多量の蟲を引き連れて、私の家に匿ってくれという。猫の家に虫を匿えとは愉快な話で、こいつは頭がパーなのだと思ったけれど、外で茶色い水に押し流されて確実に死ぬか、猫に喰われまいと小さい部屋で逃げ延びる覚悟を決めるかならば後者を選ぶ事もあるのだろうと思った。だが、人の形をした私とお前の基準に照らし合わせると沢山の蟲を家に上げるのは単純に不衛生と言えるし気が進まない。掃除全部やってくれるなら良いぞと言えば、彼女の連れる蟲までもが埃を口の中に運んで手伝った。砂と石が混ざった小汚い髪の毛を濯いで拭いてやれば、いつもの綺麗な緑髪だった。自分のみてくれがマシになったと見るや蟲たちを優しく拭いている彼女の姿は、対象が百足である事を除けば絵画の女神の如き慈しみに溢れたものだった。捕食関係とはいえ、家事を手伝ってくれてそれなりに清潔であろうと努力もする友達の友達を無碍に扱う気も無く、干してあった魚を3つ焼いた。家に上げてやった事に恩を感じているのならウチに湧くのはやめろと言い聞かせろと思った。

 

「自然の流れだから喰われるのも溺れるのも仕方ないよ。でも、目に届いちゃったくらいは助けないとやってられなくて。私にはこの子達の悲鳴が聞こえるから」

 

 1から100までがこんな感じで、世界中何処を探しても蠢く程居る蟲どもの悲鳴を一身に浴び続けているリグル・ナイトバグの心はとっくにボロ雑巾のようだった。私なら私以外の猫がどうなろうが知ったこっちゃないけれど、お優しいのかなんなのか、よくわからない。妖怪としての「たち」なのかもしれないし、彼女の「たち」なのかもしれない。そして、そんな彼女も寺小屋に通っている。子供は虫を引き千切って遊ぶ生き物だ。そんな奴らと彼女が仲良く出来るのかと問えば、意外と間に生じる軋轢は僅かなものだった。軋轢は常に彼女の中にだけ存在していた。蟲の命は軽いものであると、蟲の彼女は本能的に理解しているが、人間の様に賢い頭で夥しい数の断末魔に耐えられるのかと言えば答えはノーで、全てが破綻するスレスレの処を毎日生きている様な女だった。紫様の思惑はよくわからないけれど、その思惑が少なくとも「人間と妖怪の融和」には無い事は私にも断言できた。

 

「あのさ」

 

「なあに?」

 

「リグルはさ、なんで寺小屋に行ってるの」

 

「どういう意味?」

 

「子供は虫を殺すだろ?」

 

「ああー」

 

「なんで?」

 

「それは違うよ、橙」

 

「なにが」

 

「虫は何処に居ても世界に殺されてるんだ。何に殺されるかの違いでしかない。私に出来ることは何だと思う?」

 

「・・・さあ」

 

「何も起きてないと思うこと。寺小屋に通うのは、友達が居て楽しいからだよ。それ以外にある?」

 

 そう言って見せた笑顔は奇妙なことに、とても無邪気で本心から出たものだと理解できた。彼女は蟲を操る。蟲を助ける。彼女は蟲を使い潰す。蟲を見殺しにしながら笑っている。彼女の世界と心は大きな矛盾を抱えており、それに苦しみ、それに苦しむことすらも同義だった。彼女は狂う以外の選択肢を許されていなかった。

 

 雨はあっさりと止んだ。焼いた魚を歯でむしって食べた。リグルは優しく笑って、橙の焼いた魚は美味しいね、ほら、蟲達も美味しいって言ってるよ、と言った。きっと今も外から沢山の怨嗟の声が聞こえているのだろう。藍様の言う所ではあと数週間と持たずに幻想郷は豪雨で滅ぶらしい。そして博麗の巫女は動かない。妖精が暴れてるじゃないか、何故なのかと聞いたら、妖精が暴れてるのは只の結果であって、これは只の自然現象の範疇だからだという。例えば、まあありえないが、博麗の巫女がこれが異変だと言ってティタニアを探し出してぶっ飛ばした処で問題が解決したわけではない。人間の自業自得。新しい農法如きが何だと言うのだろう?土地を乱暴に使われて怒るなんてまるで人間みたいだ。下らない。それに、博麗の巫女が動かなかったからどうなるわけでもない。この小さな世界には、一体で草一本に至るまで殺し尽くせるような奴らが蟲のように蠢いていた。蟲のように。センチメンタリズムで、幻想郷がゴミみたいにパッと滅んで断末魔の渦中に置かれたら、少しでもリグルの気持ちが分かるかも知れないと思った。

 

「橙」

 

「なんだよ」

 

「橙は人間の感性に被れ過ぎなんだよ」

 

「うるっせえなあ、見透かしたようなこと言いやがって、そんなことお前に言われたくないんだよ!」

 

「ああーごめん、怒らないで」

 

「寝ろ!もう!」

 

 

 

 

 

 

 保留されたヤツメウナギ達は氷精の活躍によって腐敗から逃れている。ミスティア・ローレライは店を閉めて久しい。矮小と言って差し支えない屋台が昨今の雨に耐えられるかは微妙だが、命ほど大事なものではないという周りの説得によって諦めたようだった。他ならない常連、炭屋、氷精、屋台を作るにあたって世話になった連中にそう言われてしまえば情の深い彼女は引き下がるだろう。とはいえ、一度は納得すれど割り切れないだろうなと炭屋は私に忠告したし、言われなくとも同じことを思っていた。なるべく誰かと一緒に居させてそちらに気を向けようと、誰が言い出すでもなく自然に、そういうことなった。人の世話を焼かせておけばどうにもならないことを考えずに済む。

 

 あと2、3回散歩に出るくらいの機会は与えられているだろう、と藍様は言っていた。水の量と比例する様にゴミみたいな気分だと思っていたが、雲に亀裂が入って空が面白く、滲んだ草むらが何となく楽しい今ですら微塵も晴れやかになることはなかった。夜雀は退屈と不安の入り混じったような表情をしていて上の空だった。香霖堂は八雲の領域であり、水害から隔絶されているため退屈しているなら今は丁度いい。デートでもある。自分から連れ出しておいてなんだが買い物はそんなに好きな方ではなく、彼女の気が紛れればと思っただけだ。しかしこれでは詮のない。最近では紅魔が無力な連中を領内のバリアに匿うべく動いていると聞く。領内に屋台を避難させて貰えないか依頼してみてはどうかと彼女に伝えたら明るい顔をしたので、二人で紅魔に行くことにした。

 

「そりゃまあ、勿論構わないがね」

 

 即答だった。いきなり当主のところまで通された。仮にも八雲の使い走りを伴ってこれでは逆に舐められている気もする。いや、紅魔としても面子があり、私のような木っ端相手にいちいち目くじらは立てていられないということもあるだろう。それにミスティアの屋台は紅魔の連中も世話になっていることだった。ともあれ、良かった。ミスティアはお礼を言って、早速屋台を領内まで移動させに行くと部屋を出ていった。私もそれに付いていこうとすると当主に引き止められ、彼女にはメイド長を付けるから君は私と世間話でもしようと言われた。私に何を聞いた所で八雲の考えなど埃ほども出てこないというのに困ったな。別の部屋に通され、更に魔女も連れてくるという。場違いにも程がある。魔法で拷問にでもかけられるのだろうか。もしそうだったとしても、敵陣の真ん中に居る私に逃げる術は無いので大人しくするしかない。これでは借りてきた猫だ。三角形に席につき、なんと紅茶を入れるのは当主だった。十分に冷ましてから口にするが、他者のテリトリーで口に運んだ物の味など判るわけがない。

 

「そんなに緊張しないでほしいな。別に今日の晩御飯にしてやろうと言うわけじゃない」

 

「いや無理でしょ。レミィって自分の出してる威圧感に対して不頓着過ぎるのよね。それに逆の立場になって考えてみなさいよ。小心者の八雲の下っ端が紅魔の奴らに囲まれたら拷問にでもかけられるのかと思うのが自然でしょうに」

 

「あー、いえ、大丈夫です。しかし、寺でもないのに酔狂な事をやっていますね」

 

「ほんと。おかげでこっちは魔力を使いっぱなしでいい迷惑よ。嫌になっちゃう」

 

「何言ってるんだか。パチェの方から千人くらいだったら行けるわよなんて吹き上がりだしたんだよ。私は一切、何も言っちゃいないんだぜ?」

 

「そういう事は言わなくていいから」

 

 アットホームとでも言うべき何かがそこら中に転がっていた。それから3分もしないうちにミスティアがメイド長と一緒に帰ってきた。いくらなんでも早すぎるだろうと思ったら、メイド長が空間をなんやかんやして運んだのだという。ここの連中はめちゃくちゃだ。そこからはミスティアが加わり4人でのお茶会になったが、彼女は私と違って物怖じしない。いくら屋台で見た顔だと言っても少しは勝手が違うだろうに。途中、やはりというか、当主はそれとなく私に、八雲は今回の件に対して何も対策を取っていないのかと聞いてきた。それは苦言を呈しているとも言えた。もてなしてもらって申し訳ないが、私は本当に何も聞かされていない。何かしているのかもしれないし、何もしていないのかもしれない。魔女は八雲の秘密主義に呆れていた。ミスティアは別にあなたのせいじゃないと私を慰めた。雨の件以外で変わった話と言うことで、魔法使いと河童が貴重な媒体やら外の世界の強力なアイテムやらを買い集めて何かの研究に勤しんでいるらしいという話をしたら、当主はうちでも大量の日長石や蒼い文字列の第四章を買っていったと話した。結局情報提供という観点で私は微塵も役に立てなかったようだった。

 

 ミスティアは紅魔に残り、領内に避難した人達のために屋台をやる事にしたらしい。まあ元気になって良かった。他の連中と違って彼女は変に闇が深くなくてやりやすい。水の量と比例する様にゴミみたいな気分だと思っていたが、雲に亀裂が入って空が面白く、滲んだ草むらが何となく楽しい今では多少気も晴れる。正直、マヨヒガも微妙だから危なくなったら藍様の家に逃げないとなあと言ったら、当主はせっかくだからうちに来ればいいだろと笑った。

 

 

 

 

 

 

 妖怪はおろか大半の人間ですら、この未曾有の大災害を「どうせ誰かがなんとかするのだろう」と思っていた。有り体に言うと危機感に欠けていた。絶望していても。自身は死に選ばれるとしても。幻想郷の滅びを信じている者など居なかった。「方舟」という人間のみで構成された新興宗教が力を付けているらしい。既にいくつもの家が水に押し潰されている。彼らが冷静でいられない事は想像に難くない。とはいえ、命蓮寺の改悪でしかないその教義が只の気休めに過ぎないことは、半歩下がって考えれば直ぐに判る事のように思えた。紅魔のバリアにしたって、考え様に拠ればいよいよ我々はアヤカシ共に慈悲で生かされているに過ぎないと考えるものも一定数居た。人間には、我々は自らの力で生きているという誇りが無ければならない。少なくとも大勢は。この災害で何割が生き残るかは知らないが、では終わったからまた明日から頑張りましょう、なんて単純な話ではなさそうだなと感じられるのは、私が特別穿った感性をしているからでない事は明らかだった。人間達は様々な環境、アヤカシ共の思惑、自らの考え、誇りに代わる代わる殴打され狂ってしまっている。終末症候群にでもなれれば楽だろうが、なまじ中途半端に生き残れそうな状況は精神性を殊更歪に変じさせている様な気がした。

 

 だからと言って彼らを許すつもりは全く無い。ぼろ屑の様になって木に寄りかかっているルーミアを見つけられたのは虫の知らせと言う他無いが、叶うならばこうなる前に駆けつけたかったものだ。家に持ち帰ろうと胸ぐらを掴んで引き起こそうとすると小便の臭いが鼻をくすぐり、顔を顰めさせる。とにかく彼女を通り一遍の尊厳ある状態に戻さなければお互い口を効く気にもならない。死体の様に重く、紙切れの様に軽いその体は背負うのに苦労するようなものではかったが、それでも傘を持つ余裕は無く、後で取りに戻れれば良かろうと思ったら彼女が持ってくれていた。だが開いておく程の元気は無い様で、結局は濡れた分だけかさが増して難儀することになった。悪態をつく以外にする事がない。まあ、終末の狂乱、その渦中に置かれた人里を歩いていて後ろから鉈で頭をかち割られたとしても、それは只の自然現象に近い。酒があれば次の日には無くなるようなもので。しかしやはり、だからと言って彼らを許すつもりは全く無い。

 

「ああ、おかげで女の子に戻れたわ」

 

 囲炉裏で猪鍋を煮ている。右鎖骨と両足の骨折やら体中、特に腹部の痣や裂傷、無くなった幾本かの指を大凡白い布に包まれて、肌が肌色に、髪が金色に戻ったルーミアは第一声で私にそう言った。寺小屋に向かう途中だったのだと言う。何事かを叫んでいる十数人の男達に轢かれるようにして、いわされた。暫く唸って考えていたら思い付きそうな悪逆非道の大体を体に刻まれた後、打ち捨てられたと。私は彼女よりも大分怒っている自覚があった。しかし、

 

-ここに来てからの何十年、この私が一体何処の誰を喰ったと言うんだ?

 

-喰ってるだろうがてめえらは。にちゃにちゃ血生臭えその口で。

 

 一笑に付す。別に今回限りの話ではない。本当に仲良くしたい「人」からの信頼を裏切りたくなければ、それ以外の全ての「人」へ筋を通し続けなければならないのだった。たとえ相手がそこまでを求めていなかったとしても。もはや我々は厳密に言えば人を喰う必要がない。博麗大結界が我々に形を持たせて顕現させているその力は恐怖に限らないからだ。理論上可能レベルの話だが、確かにそれは事実だった。人食い妖怪がそれを実践する苦悩は私には想像できない。

 

「猪鍋煮えたから」

 

「食べたら大体治りそうなチョイスね」

 

「だから選んだ。感謝して」

 

「ありがとう」

 

 いただきますと言って、まるで人間のように行儀よく私達は食事を始めた。彼女は衰えていた。人喰いジョークを言って襲いかかる振りをして遊ぶのには暇つぶし以上の意味がない。闇とは境が無く、紫様でもおいそれと手を出せないような深い処にあるものの筈。本来攻撃されて損傷を受けるような存在じゃない。その生き方を選ぶ意味が判らない。どいつもこいつも。

 

「なんて顔してるの。大丈夫、今回は特別だって。ここ数年はすれ違いざま憎まれ口すら叩かれなかったんだよ」

 

「でも、結局そうだからこうなった」

 

「それは私達にどうこう出来ることではなぁーい」

 

「殺すぞ」

 

「きゃあ怖い」

 

「・・・なんでだよ」

 

「そういうアンタはなんでなの?」

 

「私はお前らがそんなんだから仕方なく合わせてやってるだけさ」

 

「はは、皆そんなもんじゃない?人間も、私達も」

 

 何故実際にボコられた彼女より私の方が傷付いているんだろう。ルーミアは鍋を喰い終わる頃には傷らしい傷がほぼ全快していた。からりとした笑みが私の前でちらついていた。彼女を甲斐甲斐しく看護したおかげで相当疲れていたのか、眠気を自覚し始めていた。囲炉裏の灯りがぼやけているのを感じる。人間も、私達もそんなもの?妖怪は妖怪だろう。私はお前が暴れると一言、一言言ってくれれば誰でも何人でも引き裂いてやるよ。いや。もう。お前らが何も言わなくたって、私一人でも。考えるのが面倒くさいんだ。人を喰って笑って、退治屋を殺して喰って笑って、格が上がってどいつもこいつも震え上がったある日、退治屋に殺されて断末魔上げて死ぬんじゃ駄目なのかよ。寺小屋で私と、皆と仲良くしてるあの男の子だって、明日にでも喉笛噛み千切れるさ、私は。妖怪は妖怪でも今は式神の癖にウダウダ下らない事を考えすぎだ。紫様と藍様のせいだ。もっと自主性を排除して欲しかった。私は人間みたいに悩みたくなんて無かったんだ。これじゃ終末の狂乱に当てられた人間共と、まるで同じ土俵じゃないか。

 

「まあ、一番若いしね、アンタは。よしよし、泣くな泣くな。橙は良い子だ、ねんねしな」

 

 うるさい。嫌いだ。お前も私も。全部、皆。家が軋み水の音激しい最中、腹ただしい事にこの囲炉裏の灯りが届く範囲だけは彼女の私に対する慈しみに守られている。

 

 

 

 

 

 

 そもそも水はマジで駄目なんだって。だというのにここ最近濡れてばかりだ。あの金髪を助けた時に剥がれかけた式を藍様に直してもらってまだ半日も経っていない。虫の知らせだ。地震が来る前に耳鳴りが聞こえてくるような、あれだ。現に私が家を飛び出してすぐにリグルが駆けつけた。目的は私と同じのようだった。地上は自然の生み出した殺意で溢れ返っていてさっさと空でも飛んで駆けつけたいところだったが、生憎、そんなことをすれば飛散物と水に揉まれて上下もわからなくなった挙げ句、何らかの何かに叩きつけれられてその生を終える事をどんな馬鹿にも予感させるような天気だ、幽霊の一匹だって飛んでいない。あるいはこの世の全ての馬鹿は空を飛ぼとうとして死に絶えたのだろう。そうだったら嬉しいな。この世の全ての馬鹿の大半は空を飛ぶ術を持たないが。ファッキュー。リグルは走りながら、今日は静かだねと言った。私には木が悲鳴を上げて倒れる音や土と石と水の混ざった茶色い死が追いかけてくる振動で頭がおかしくなりそうだと思った。ずっと意識が飛びそうだ。いっそ式を剥がしてしまった方が楽かもしれないが、八雲の力の破片も無いような状態で役に立つ事がそう沢山あるとは思えない。筋肉が視界を埋め尽くして不愉快であまりやりたくはないが、青鬼と赤鬼を喚んで雨避けになってもらうことにした。リグルはいつも連れている、特に目をかけている虫五匹の内の一体、大百足に乗っていた。私達は上白沢先生がヤバいと思っていた。

 

 紫様と藍様は私を屋敷に上がらせて自分達は何処かへと消えた。今日が山になるでしょうね、と紫様は言っていた。私にはわからない。わかるつもりもない。どんな何があって仕方ないのかなんてのもどうでもいい。ただ消えて欲しくない営みがあるだけだ。やまほどの。寺小屋に着いた。なんと灯りがついていた。うん。ここまで来た私達も私達だが、本当に上白沢先生がここに居たとしたらあまりにも馬鹿すぎるだろう。何がしたいんだ。避難しろ。それにここは何かが正しくない。リグルも少しやかましそうにしている。そうだ、ここはなんというか、鉄砲水で壊滅の憂き目にあっている世界の一部として相応しくない平和さだ。しとしとと微かな。ああいや、理解した。あの、この世で最も守るべきものはこの子共らだろうと言って憚らない巨乳女の事だから、寺小屋が滅びないように改変をしているんだ。最近調子がよくなさそうだったのもそれだな。たとえ寺小屋の一角だけと言っても食べなければならないものが多すぎて処理しきれていなかったのだろう。馬鹿野郎が。これだから善人は嫌いだ。手前が死んだらその後周りがどうなるのかなんて考えもしない。急いで灯りのついた部屋に押し入れば、そこには既に息も絶え絶えと言った様子の上白沢先生が居た。ずぶ濡れだ。恐らく雨ではなく汗だ。馬鹿げている。馬鹿が。糞馬鹿奴。こいつはどうせ子供達の「共に居た場所」を守ろうとしたという理屈だろうが、私から言わせれば私達の居た場所は「お前」なんだよ。

 

「何をしている?」

 

 驚いたように、そして呻くように上白沢先生が言った。私が巫山戯るなと叫び終わる前に倒れ始めた彼女を、大ムカデが素早く、そして優しくキャッチした。そしてその瞬間に轟音が鳴る。食べ続けていた歴史の続きが発生する。つまり水と風だ。こんなボロけた寺小屋は直ぐにひしゃげて終わりだ。そんで、ここから一番近い避難場所は寺だ。屋内をちまちま歩いている余裕もなさそうなので青鬼に壁をぶち抜いてもらうと周りが赤く光っていた。炭屋だ。飛んでいる。狼狽した様子だったが、私達が抱えている先生を見て直ぐに私達を先導し始めた。燃やし尽くせない飛来物を無視して喰らい、水を蒸発させながらごり押しで飛行しているようだった。あいつも馬鹿だと私は思った。

 

「先生がこんな無茶をしている事に気が付かなかったのか?お前が居ながらなんでこんなことになる?」

 

「その慧音の頼みだ。慧音だけを助ければ良いわけじゃないんだ、私は」

 

「そのために慧音を殺しちまったら意味ないだろ、お前以外は誰だって死ぬんだぞ!」

 

「慧音の体だけ助けたって意味がない。私は慧音の全てを助けたいのよ。そして私に八つ当たりするな」

 

「うるせーー!」

 

 橙は若いね、とリグルが微笑ましそうに笑ったその顔を殴りつけそうになるのを我慢してとにかく走った。誰かのために頑張るとか虫唾が走る。私は自分だけ幸せならそれでいいのに。じゃあ今は?張る必要もない命を張って息を切らして、式も意識も剥がれ飛びそうなこの状況は何だ?私は何をしているんだ?今どれくらい走ったんだ?一歩進む間に一日分物を考えていないか?そもそも私はなんで式神になったんだっけ?干した魚焼いて喰ってヘラヘラ笑って頭を撫でて貰う事が次に出来るのはいつになる?私はまた笑えるのか?この沢山の死の後で。リグル。お前はなんなんだよ。なんで笑うんだ。お前は何が起きれば泣くんだ?私は今どんな顔をしてるんだ?そして考えが絡まった針金のようになっているところに、更に意味不明な糸が一本通る。突如として巨大な発光体が何処か地上の遠方から発生し、天へ登っていった。雲を突き破ったと思うと、光はその全てを喰らい尽くすようにして、僅か数瞬の間で後に残るのは満天の星空のみとなった。

 

「雨が・・・止んだのか?」

 

「ボケッとするな馬鹿!」

 

 よく通る声で炭屋が怒号を飛ばしたと思うや否や、既に私の後ろには死が迫っていた。空が綺麗に掃除されたから地上の様相が直ぐに改善する訳じゃない。もう暫くは雨風が激しいはずだ。直ぐに鬼達を還した。炭屋が火力を弱めて私達を掴んで上に引き上げたところで眼下は一瞬で糞色の水に塗り固められた。ボケっとするとどうとかいうレベルはとっくに超越していた。極限状態だといちいち罵詈雑言が出るのは私と炭屋の性根がゴミだからだと思った。いや。まってくれ。助かってない。あいつは不死身でもあいつ以外は誰だって死ぬ。こんな最中で私達みたいな雑魚が飛んだら、と考えるまでもなく、次の瞬間飛んできた大きな木の破片に上白沢先生が薙ぎ払われた。炭屋がどんな必死な形相をしているか見物している暇はなかった。私は強く掴まれた自分の服の背中を引き裂いて先生のところへ飛んでいって掴んで、炭屋の方へ投げた。炭屋が先生をきちんとキャッチしたかどうかを見届ける事はできず、私は天井だか地面だかもわからない水の塊に叩きつけられて濁流にぶん殴られた。その直前に見えたのは、地獄すらもここと比べれば生ぬるいだろうと思う様相をそのまま表したような地上、主張の激しい月と星の明かり、それに照らされた雨の残りが乱反射する様、空をも食い潰す蝗の群れを想起させる妖精達、そして月まで届く不死の水蒸気と赤く輝く羽。

 

 意識が飛ぶその直前、そういえば藍様が今日は外に出ないように言っていたなと思った。

 

 

 

 

 

 

「いいね」

 

 と彼女は言った。彼女は釣りが得意ではない故に私の後ろでその様子を見ているだけだった。大妖精の調子はどうかと尋ねたらまあまあ悪くないようだと答えた。聞けば件の発光体は彼女が一枚噛んでいたのだという。魔法使いと河童が幻想郷を救ったらしいという噂で何処も彼処ももちきりだったが、その二人が十全なパフォーマンスを発揮できたのは零割五分程度天才である自分の功績だと得意げだった。得意げなのに発言の内訳が妙に謙虚だった。私は噂を聞いた時、あれは天才というよりかは人災というべき趣が強かったと考えた。幻想郷は壊滅的な打撃を受けた。対処が遅すぎだったと言う事で。あの魔法使いが持つその謎の人徳によってもっと広範に渡って力を求め募れば、現状よりかなりマシな状況で事態が収束したことは想像に難くないと。雲の後ろに隠れていた妖精の群れが何もせず去っていったのも、ただ幸運だったに過ぎないと。しかし同じ様な事を一部の人間達が騒ぎ出すと途端に私の考えはころりと変わり、その絶望で口の結び開き程度の自由も無かったくせに、たまたま拾ったゴミみたいな命で吹き上がってるんじゃねーよ馬鹿がという怒りに支配された。その時は思わず、ああ、自分はただの逆張り野郎なんだなと言うことを自覚した。終末に立ち会う切符と引き換えにしても数多の勢力が殆ど保守的な立場を貫いていたのは、八雲が意向を明らかにしなかったことに大きな影響があると私は睨んでいる。秘密主義で胡散臭い我々が今回の件でより一層嫌われたのは間違いないだろう。私ですら呆れている。つまり、私の所属的にこの件でぶつくさ言う権利はない。魔法使いはきっと自我と欲望に対して正直だっただけだ。誰にも幻想郷を救う義務なんかない。幻想郷を守りたいと考えているのは紫様だけだ。それにしたって只の願望で、義務ではないはずだった。それでもあの糞婆はどんな所もミステリアスで素敵だと私は思うが、それが単なる身内びいきなのか私の式に組み込まれた区画の一つなのかはわからないなと自分を皮肉るくらいしか気持ちのやりようがなかった。つまり、私は自分が虎の威を借る狐にすらならせてもらえない塵芥で所詮紫様に信頼されておらず、愛されていないのだと思った。頻繁に顔を見せては藍様と同じように私を気にするあの人を、疑ってかかる自分に対して自己嫌悪を抱いているし、同じくらい自分が足手纏いと思われている事について確信を深めているという意味だ。

 

 釣果を見て目を輝かせているチルノが私を見つけたのは恐らく偶然だった。久しぶりだというのにつれない態度だと、ルーミアだったら言いそうだと思った。チルノは主体性を消して、相手の特性に合わせようとするところがある。そうなっている事をそうなっているなりに楽しもうとするやつだ。何に対しても、誰に対しても。だから私を見てもいちいちその様子について尋ねたりはしない。かってにこちらの状況や性質を判断する。その実には興味がないからだ。どうせどうであろうと否定的にはならない。出来事に対して怒ったり喜んだりはするが、自分があるわけではなく世界があるだけ、という感性だ。しばしば隔絶された印象を周りに持たれるが、そういう処は妖精らしさがあると私は思っている。そしてそれは私にとって都合も居心地も良いのだった。

 

「なあ、チルノも食べるだろ」

 

「え、食べる食べる。ありがとう」

 

「あのさ」

 

「うん」

 

「私と会ったって、あいつらには喋らないでくれない?」

 

「え?いいけど。でも聞かれたら喋るよ」

 

「うん。それでいいから」

 

 ミスティアなんかは、私とチルノはそんなに相性が良くないと思っている節がある。実際のところは私は要件しか話したくないタイプで、チルノはそれに合わせようとするタイプなだけだ。チルノと相性の悪いやつなんているわけないだろ。あいつは妖怪のくせに外的な社交性に依存しすぎていて、そうでない奴らの気持ちが理解できない。この会話を聞いただけでもきっと、チルノは橙に対しては少し冷たいんだね、とか思うのだろう。

 

「行動の芯がないよね」

 

「余計なお世話」

 

「だってさぁ、自分でも何の意味があるんだって思ってるんでしょう。その・・・意地って言うの?子供が拗ねてるみたいでカッコよくはないんじゃない?」

 

「いや・・・チルノだって私にそんなこというけど、実際興味ないでしょ」

 

「ないけど、橙のしたいことと違うんじゃないの?誰かに探し出してもらってさあ、こうやって言ってほしかったんでしょ?もうおうち帰ろうよって」

 

 右腕と顔の右半分だけで済んだ。私はこれを直さない事にして、しかも行方をくらませていた。チルノの言葉を聞いて、私はまるで木の根っこを齧ってるみたいな忌々しそうな顔で魚を食べていた。波のように段階的にいやな気持ちが襲ってきた。でも不思議な事に、自己嫌悪が溜まる瓶を拳で割られてぶちまけられたような清涼感が少しずつ頭の後ろからやってきているような気がした。そうだ。私は拗ねていた。ふてくされていたんだ。怪我をした事にじゃない。ただ、皆の日常が侵されていつも通りでなくなっていくことに。それをまるで、仲間外れにされたかのような疎外感に転嫁して、とにかく怒ることで発散しようとしていた。

 

「今だってあいつだったらどうだろうとか、あいつはどうしてるかとか考えてたんでしょ?構って欲しかっただけのくせにさぁ。じしょーこーいって言うんだよ、そういうのは」

 

「うるせえな・・・でも」

 

 なんとなく上を見上げると、木に遮られた空がちゃんと青かった。空が大人しくなって随分日数経っているというのに、それを認識したのがまるで初めてのようだった。チルノの方を見やると、こういうのは私の役目じゃないのにな、とでも言いたげな、不本意そうな顔をしていたので思わずはにかんで笑ってしまった。誰もが皆前へ進もうともがいている中で、ずっと自分には価値がないんだと思っていた。存在している価値もなければ、存在を誇示できる力もない思っていた。それは正しかったが本質ではなかったのだ。価値なんてない。ただ、明日も藍様が幸せそうな顔をしているのが見たいと思うだけ。

 

「でも、ちょっとそうかも」

 

 私がそう言い終わった瞬間、場面が切り替わったような感覚を覚えたと思うと周囲が真っ暗になっていた。ただ、なあーんだ、そうだったの。じゃあ駄目よそんな怪我。御免なさいね今迄気付け無くて、という声がしたら、元の場所に戻っていて、チルノが私をみて驚いていた。

 

「あっ」

 

広がった視界に右腕が見えていた。

 

 

 

 

 

 

 畜生、と八つ当たりに岩を蹴ってのたうつ少年を宥めていた。殆ど滅びたのと遜色ないような里に天涯孤独となって放り出されては色々あるだろうし、あっただろうし、擦れもするだろう。いつも、何をしても、いい結果に繋がらないと言って嘆いていた。自分のせいでいつも、と言って嘆いていた。私には何も言えないよ、と私は言った。寺小屋に連れて行って、ここで面倒見てよと押し付けた。三割方私のせいで孤児院にシフトしつつある事実について苦笑いしつつも、上白沢先生はその善性によって、行為自体はむしろ推奨していた。魚が欲しい子供が居れば魚を与えるのではなく、口喧しく釣り方を教えるそのやり方によってか、寺小屋は貧しくても困窮する様子は見られなかった。

 

 死んだ人を見つけては手を合わせ、運んで葬り続ける役目に従事している女性と団子を食べていた。今はどんな事でも忙しくしていないと、糸が切れて死にたくなってしまうだろうとぼやいていた。空の青さに気付ける内は大丈夫だろう、と私は言った。話し相手になってくれてありがとうと言って去っていく彼女の姿は恐らく大抵の人からは頼もしく映っている。

 

 自分が失われた事に気付かないで過ごしていた中年の髭が私とルーミアと話していてその事実に気付き、狼狽していた。画家と言っていた。暫くすると落ち着いた様子で、気付いたのが君達の前でなかったら私は正気を失っていたかもしれないと感謝を述べた。私達はただ居たいように居ただけだ、と私は言った。人間は見たいように物を見るというのは本当なのだなと思った。この上半分が剥げた、残骸とでも言うべきアトリエに気付かず絵を描いていたというのだから。ルーミアが、私を怖がらなくても済むし、仲良くなれそうな状態で出会えて良かったじゃないといたずらっぽく微笑んだのに、髭が生きてても君には惚れていただろうと返したので私はこの二人を置きざりに一人で立ち去るべきだと思った。

 

 リグルがいつも連れている、特に目をかけている虫五匹の内の一体、モンキチョウの遺体が見つかったということで、供養に立ち会った。必死で探して、右の羽横半分だけが見つかったらしい。苦労したなあと言いながら、加工を手伝った。私も知り合いだった。物探しや偵察が得意なやつだった。最終的にモンキチョウは栞になった。しかも私にくれるという。これは供養なのかと聞くと、ピンで刺されて飾られるなんて虫にしては綺麗な死に様だと思ってたんだよねと笑った。

 

 開かれた屋台からヤツメウナギの匂いと喧騒がやってくることに、意外にも否定的な声が少ない事に驚いていた。居ないわけでは無かったらしい。紅魔に自分だけ助かりに行った小妖怪がとか、この惨状を見てもまだこんな馬鹿騒ぎをして金を取るのかとか言った連中は、大体炭屋が黙らせた。ミスティアはミスティアで、どんな時でも金は回さねばなりませんし、どんな時でも人は死に、物は壊れるのですよと語気が強かった。そもそも人里外れている。そんな所まで文句を言いにくるというのはまあ、なんともさもしい話だ。否定的な意見があるだろうという考えに至る事自体が後ろめたく感じられる程度には。こいつらのすることはいつも眩しすぎて、日陰者は大変だ。

 

 今年は厄災と言って良い大飢饉を予感していたので、自分の畑がこんな惨状になっても寧ろ土が元気になったような気がする等と強がりを叩いた農夫の肩を笑いながらぶっ叩いた。こういう時はまあ、まずはじゃがいもから始めるのが定石だよなと私が言うと、じゃあそうするかと即座に風見の処へ芋の種を発注しに行った。逞しいことだ。ボロ屑になった家すらも焼き払って畑に撒いてしまったのだから。あそこまで豪放磊落なら何処に行っても大丈夫と思う半面、彼の家族の誰か一人でも死んでいたらああは居られなかっただろうとも思う。そして、ああは居られなかった奴らがちょっと見回せば沢山居るなとも思った。

 

 何もしなかった八雲の切れっ端が偉そうに表道を歩いてるんじゃねえと、数人の人間に囲まれて棒で叩かれた。何処からかチルノがやってきてそいつらを追い払ったので、あんまり大きな怪我をせずにすんだ。あいつら賢者の関係者に手を出して後でどうなるかとか考えないのかな、と恐ろしそうな顔でチルノが言ったので、きっと考えられる後も無くなってしまった連中なのだろうと答えた。

 

 事態は何一つ解決していなかった。他者どころか、摂理からも奪われるばかりの下らない世界を謳歌していた。私は結構面白おかしく暮らしていた。家に帰ると、火の着いてない囲炉裏の前で座って、煮干しを幾つか持って眠そうにしている藍様が居た。私が入ってきたのに気付いてこちらを見やると、傷だらけ痣だらけの状態を心配した。大丈夫だから膝枕して下さいと言って、撫でられながらごろごろしていたら包帯を巻かれるなどした。紫様がいつの間にか居て、私の家なのに三人揃うというおかしな状況になった。紫様はにこにこ笑っていた。藍様はちょっと前に言っていたな。紫様は「妖怪過ぎて」わからなくなっちゃってるから、家族ごっことかが好きなんだと。なんと救いのない結論なんだろうと思った。別にどうでもよかった。私は今拗ねていなかった。チルノのあの言葉で変わったわけじゃない。誰も言葉なんかじゃ変わらない。ただ変わる準備が出来た時、言葉で変わったように錯覚するだけだ。この下らない心の中の独白全てはその象徴だ。誰も変わらない。何も変わらない。そして今度こそこのゴミのような葛藤を、最後に謝辞を述べる事で締めくくりとしたい。

 

どうかこれの届いた貴方が死にますように。

 

どうかこれの届いた貴方が死にますように。(おわり)



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