「はい。今日も始まりました。終末配信者のヒーローちゃんだよ。では早速、ゲームをしていこうと思うんだけど、みんな大丈夫かな? いろいろと考えたんだけど、今のボクの心境からするとやっぱりコレ。最初のゲームはプラグ因子に決まってるよなぁ」
解説しよう。
プラグ因子とは、あなたが世界で始めて生まれたウイルスとか細菌とか粘菌とかになって、最初の感染者を出したところから始まる感染シミュレートゲームです。
アクション性はほとんどないので、ボクのパワーアップした反射速度とかを活かす機会はほとんどというか、まったくないだろうと思う。
ボクって即応性は強いけど、演算能力があるわけではないからね。
このゲームに必要なのは予測する力だ。
『1コメ』『開幕不謹慎』『ウイルスの蔓延した世界でウイルスゲーをやる終末ゲーマー』『英雄ちゃんだと思ったら人類を滅ぼす悪魔だった?』『悪魔っ娘、最高かよ』
「もちろん、ボクが選択するのはゾンビウイルスだよ。こんな世界になってしまってるから、みんな思うところあるかもしれないけど、ボクとしてはゾンビウイルスの気持ちになってみようと思うんだ……変かもしれないけど付き合ってね」
『変』『変』『変じゃないよ』『かわいい』『変……つまり小学生の変態。ひらめいた』『終末で配信始める時点で変』『そんな配信者を見ている俺らも変』『変態どうし仲良くしようね』『おう。おまえとイチャイチャしたかったんだよ』『アッー!』
なにやってんだこいつら……。
「えっと、じゃあ始めまーす」
変だって言われるのはわかってる。
でも、ボクとしてはこのゲームから始めたかったんだ。
ボクとしては――どっち側なのか。
ウイルスとして人類を滅ぼしたいと思っているのか。それとも人類として、誰にも死なないでほしいと思っているのか。
見極めたかった。
たかがゲーム。されどゲーム。
ボクはボクを知るためにゲームする。
「ゾンビウイルスの名前は、ボクの名前をモジって『ヒイロウイルス』ってことにします」
画面内にはウニュウニュとうごめく『ボク』。
こういうふうにわかりやすく映像に捉えられるんだったら、ボクを撲滅するのも簡単だったんだろうけど、いまだに政府はウイルスか細菌かもわからないみたい。電子顕微鏡にすら映らない粒子レベルの何かが、細胞内に浸透しているのかもしれないって話が書いてたけど、正直そういう物理的な話はどうでもいい。
ボクが知りたいのはボクのクオリアだ。
「初手はやっぱりエジプトだよねー」
『お、やってんじゃーん』『初手エジプトは基本』『エジプトは隣接している国が多いしな』『インドのほうがよくね?』『インド人を右に』『ヒロちゃん初見』
「あ、初見さんいらっしゃい。ヒロちゃんってボクのこと?」
『ヒーローちゃんだといいにくくって。あだ名。だめですか?』
「ん。あだ名つけてもらっちゃった……もちろんいいよ!」
『天使再臨』『ヒーローちゃんはヒロちゃん?』『んのところがえち』『守りたいこの笑顔』『守りたい笑顔の天使が人類を滅ぼしてってる』
あは。
ボク、さっそくあだ名つけられちゃった。
それだけのことだけど、めちゃくちゃ嬉しい!
みんなとの距離が少し縮まった気がするから。
「よしっ。オレンジバブル出た。どんどんポイント稼いでいくぞ!」
ボクは人類を滅ぼすことにする!
このゲームの肝は、初手で人間に見つからないことにある。
それとゾンビウイルスだけの特殊勝利っていうのがあって、普通のウイルスとか細菌だと人類側の特効薬完成と同時に敗北確定なんだけど、ゾンビだけはそうはならない。だって、ゾンビだもん。お薬完成したからってウゾウゾうごめいているゾンビがいなくなるわけじゃないでしょ。
そういうことだ。
「あー、もう発見されちゃった!」
人間にヒイロウイルスが発見された。
あまりにも無情なる即落ちヒイロウイルス。
「もう少し忍べませんかね。ニンニン」
『ゾンビは発見されやすいってそれ一番言われてるから』『発見されたときにピョンって椅子の上で跳ねるのかわいい』『かわいい天使に滅ぼされるなら本望』『ヒロちゃん様ぁ』『ゾンゾンしてきた』『ニンニンしてきた」
「落ち着け。まだ慌てるような時間じゃない!」
『生きろ』『むしろ敗北を覚えろ』『ヒーローちゃんを敗北させたい』『ヒロちゃん様をくっころさせたい』『ちょっと涙目になってる。すごい細かいモーションだな』
「ともかく、ポイント貯めなきゃ」
ヒイロウイルスを改造するためのDNAポイントは感染とともに自動的に溜まっていく。他にはボトル型のアイコンが時折現われるから、それをタイミングよくクリックすることでも少しだけ増える。
感染とともに自動的に溜まっていくということは、逆に言えば、感染力を高めるとポイントはどんどん増えるということだ。ポイントを使って感染力を高めたりもできるんだけど、使った分ポイントは減る。
肝心なのはポイントを使うタイミング。これに尽きる。
「唾液。高温耐性。高温耐性2獲得! 感染。感染。感染だ! ふっははは。ボクのウイルスは圧倒的ではないか」
『ノリノリで草』『正体あらわしたね』『くっそ。人類になすすべはないのか』『止まるんじゃねぇぞ……』『なんだよ。結構当たんじゃねぇか』『キボウノハナ~』
「ポイントは大分溜まっている。同じくらい研究ポイントも溜まってるけど、これならいける。お、Z戦士があらわれやがった!」
『Z戦士?』『ドラゴボ?』『たぶんZCOMという対ゾンビ部隊のことを言ってるんだと思うぞ』『ヒロちゃんウイルスを駆逐する?』『ヒロちゃんを陵辱する?』
「Z戦士はほっておくと、どんどんゾンビを減らされちゃうんだ。このままだとボクのゾンビがいなくなっちゃう」
『ヒロちゃんのゾンビになりたい』『お兄さんがゾンビですよ』『ゾンゾンしてきた』『私がゾンビです』
「くそ。堕ちろ。堕ちろよ。あー。硬いよ。うううっ」
Z戦士達に対して、ゾンビ部隊を大量に送りこむも、既に鉄壁の守り状態でなかなか堕ちない。
このままだとゾンビが死んじゃう!
ゾンビが……。ボクのゾンビが死んじゃう!
ゾンビが死ぬとか意味わかんないけど、ともかく全滅させられちゃう。
「ポイント使って……いや、まだ……まだ早い」
『ほおおん?』『間に合う感じなん?』『わりとギリギリだな。見つかるのが早すぎた』『症状使ってゾンビ強化すべき』
「そう。このゲームはゾンビを強化できるんだ。ラスアスで言ったら、ランナーとかブーマーとか、そんな感じの強いゾンビ状態にすれば、攻撃力があがって、Z戦士をぶち殺せるよ!」
『殺せるよって無邪気に言う小学生が怖い』『こわかわいい』『ちょっと前だったら放送禁止用語は一発でバンもあり得たんだがな』『人類は衰退しました』
「そろそろポイントが溜まった。いまだ! やっちゃえ!」
『一転攻勢』『ヒロちゃんに侵食されてる』『ヒロちゃんに侵されている』『小学生の女の子に侵されてる』『やっちゃった!(意味深)』『おまえら自重しろ。パンツ脱ぎました』
「おりゃ!」
ついに。ついに。ボクのゾンビ部隊がZ戦士を完膚なきまでに破壊した。
「いひひ。やった。やっつけたよ! ボクの大勝利!」
真っ赤に真っ赤に染まっていく世界。
ボクというウイルスに染まっていく世界。
世界にはゾンビが満ち溢れ、人間は一人残らず絶滅した。
やったね。
『ヒロちゃんが楽しげでなにより』『人類絶滅しちゃったかー』『どうせみんないなくなる』『ああ……』
あれ?
なんかコメントがちょっと沈んでない?
目の前には真っ赤に染まった紅い点がウゾウゾと動いている。
ボク……やっちゃいました?
いや、マジで。
ノリで始めたゲーム配信だけど、終末世界なのに人類滅ぼしちゃってどうするのって感じでしょ。虚構を楽しんでる人たちに現実をさらけ出しちゃってる感あるような。
「あ……あの、ボク、みんなのこと好きだからね。人類滅ぼさないから」
『ほんまかいな?』『人類はヒロちゃん様の前にひれ伏すのです』『私がゾンビです』『すべてが幼女になる幼女ウイルスだったらよかったのにな』『ヒーローちゃん恐ろしい子』
「えっと。こわくないよ。ボクこわくないよ?」
『ロリ聖母配信者?』『ママー』『ママー』『バブみも完備なヒロちゃん』『ゾンビの気持ち分かったの?』
「ゾンビの気持ちはよくわからなかったなー。でも人類がボクを滅ぼそうとするのは寂しかったかも」
『すっかりゾンビ心を会得されとる』『ひとりぼっちは寂しいもんな』『英雄はいつだって孤独なのさ』『ヒロちゃんが寂しがる顔がかわいい』『マモレナカッタ』『笑顔になって』
「えへ。ありがとうね。今度はもっとうまくやるから……またよければ見てください。じゃあね!」
☆=
深夜のテンションって怖い。
まあるいお月さまが空にかかっている夜だった。
月って、ルナっていうでしょ。そしてルナティックって狂気って意味だから、よく言われているように少しテンションが変になるものなのかもしれない。
なんとはなしに寂しくなって、速攻でゲーム配信を始めてしまった。
そんな真夜中なのにも関わらず、昨日と同じくらいの人が集まったのは、たぶん、みんな同じような生活スタイルをしているからだと思う。
きっとみんな狭くて暑苦しいところか、薄暗くて涼しいところか。
ともかく――ひとり部屋で暮らしている人が多いのだろう。
みんなといっしょにコミュニティを形成しているところだと、なかなか動画配信を見る勇気はないだろうし、深夜だともっとそうだろうと思う。
ボクは少し寝苦しさを感じて、ヒンヤリなゾンビお姉さんもいなくなっちゃったし眠れなくなったんで、勝手にひとりで配信しはじめちゃったんだ。
命ちゃんが言うにはちゃんと計画をたてて、ツブヤイターで告知してから、毎週毎日同じ時間に配信するのがいいってことだったけど、衝動的にやっちまった。
しかも、プレイしたゲームが、ゾンビウイルス側の視点に立ったゲーム。
視聴者のみんなのことを一ミリも考えてない。自分勝手なボク。
だめだ~~~~~~~~っ。
そんな沈んだ気持ちのまま、ボクは冷蔵庫を適当に漁る。
冷たい飲み物を飲もうと思ったんだけど、なんとなく気分的にはダカラが飲みたい。理由は特にないんだけどね。
机の上の財布を引っ張り出して、ボクはアパートをそろりそろりと抜け出す。命ちゃんもマナさんも寝てると思うけど、起こしてしまうのは悪いしね。
アパートから五分ほど歩いたところにある自販機はもう補充されることはないけれど、電気はまだ来ているから、冷や冷やのダカラが飲めると思う。
ゾンビはたぶん夜はあまり活動的にはならない。人間を見つけない限りはね。
もちろん、ボクは見つかっても人間じゃないからノーカンだ。
夜にランニングしている人と行き交うみたいに、にこやかに手を振って、それで終わりだ。
「あー、夜はまだ涼しくていいなー」
配信で熱がこもっていたのか、夜風にさらされると冷まされていくようで気持ちいい。小さな虫の音がどこか遠くから聞こえてきて、ゾンビのかすかなうなり声と混ざって、合唱しているみたい。
「静かだな……」
夜目が利くボクだけど、誰もいないとそれはそれで寂しい。
いつもは近くに何人かは見えるゾンビさんたちも、今日はひとりもいない。
近くにいないのかな?
結局、大通り(この町で言うところの一番大きな道という意味だ)に出て、自販機でダカラを買うまで、誰ともすれ違わなかった。
ふむ?
小首をかしげてボクは虚空をジッと見つめる。夜だけど曇天なのか、空の昏さはなにか得体の知れない混沌というドレスをまとっているようで、いつもとは違うそんな感じがする。
――よくわかんないけど変な気配がするかな。
と、そのとき。
キューギュルルというタイヤの摩擦音とともに、ドンという鈍い音が静かな夜に響き渡った。
この音が何かはボクにでもすぐわかる。
車の音。つまり、人間が発する音だ。
ゾンビが周りにいなかったのは、この人間を追っていたからだろう。車に乗っている人間には追いつけないものの、人間の発生させる音が完全に聞こえなくなるまで、何百メートルも何キロでも追い続けるのがゾンビだ。
ゾンビたちが集まる気配がする。
その集まっている方向を見ると、およそここから数キロほど先。
大きな交差点があるあたりみたい。
そして、いま、その車は停止してしまっている。
その人間の行く末は火を見るよりも明らかだ。
気づくとボクは駆け出していた!
ゲームみたいな結末にはしたくなかったし――。
そんなことは考えたくもなかった。
☆=
いつのまにかボクはまたレベルアップしていたみたい。
身体能力は明らかに人間のレベルを超えて、ボクは風のような速さで駆けている。どれくらいのスピードかっていうと、家の屋根を跳躍して飛び越えられる程度。
このままボクが成長しつづければ、いずれは――空も飛べそうだな。
なんて思えるほど。
どうしてこんな物理法則を無視するような挙動ができるのか、ボクにはよくわからなかったし、説明することもできないけれど、なんとなく、そんな予感がする。
ボクは素粒子なんだろう。
こんな開放感に溢れた夜なのに、眼下では絶望に近い怒号が響き渡っている。
見ると、その車はありふれた軽自動車で、電柱にぶつかって、ボンネットが大きくへこんでいる。もう二度と走ることはない様子。
それで、その中にはハンドルを握り締めたままの20代くらいの男性と、後ろの席に座っている同じく20代くらいの女性。そして、女性の手にはまだ生まれたばかりの赤ちゃんが抱っこされていた。おくるみで包まれた赤ちゃんがかわいい。小さくて真っ赤なおててを必死に母親のほうに差し向けている。
周りがいなければ、ありふれた家族の光景。
周りは――、ゾンビは既に家族の周りを取り囲んでいた。
車から一歩でも外に出たらその瞬間にゾンビに食べられてしまう。
いわゆる詰みの状態。
女の人が男の人になにやらわめいている。
聞きたくないけど、聞こえてしまう。
「あんたの運転が下手クソだから、こんなところに止まっちゃうのよ!」
「おまえがもっと急げって言うからだろ!」
「事故ってたら意味ないじゃない!」
「うるせえ! おまえがもっといいところがあるかもしれないっていうから!」
「あんたも同意したじゃん!」
目は血走り、ギラギラと夜闇のなかで光っていた。
どこかで見た炭素原子の中に余計なものが付着した『人間』という存在だ。見慣れた光景にボクはしばらくなりゆきを見守ることにする。
よいしょって、屋根に腰掛けて。
ゾンビは適当に窓でも叩かせて。
バ バン バ バンバンバン。
少しでも互いを思いやれるのなら、助けてあげようかななんて思いながら、ボクはふたりを観察した。
「クソ……クソ。こんなところで死にたくないよう!」
「あんた、外出て行ってゾンビを蹴散らしてきなさいよ」
「そんなの無理に決まってるだろ! おまえがいけよ!」
「結婚式で愛してるって言ったじゃん。これからふたりで幸せになろうって言ったじゃん。あれ嘘だったの?」
「嘘とかじゃねーよ。あんときは本気でそう思ってたよ。でもおまえって子どもできたらそっちにかかりきりじゃねーか。最初にあそこから抜け出したのだって、子持ちの女は蔑視されるとかそんな理由だろ! ふざけんじゃねーよ」
「私があそこで軽く見られたのは、あんたが不甲斐ないからでしょ!」
「なんだよ! だったらいいよ。おまえを守る義理もクソもない。勝手にしろ」
「勝手にしろって、なによ。もうどうせここでみんな終わりでしょ。あんたがひとりで出れば、わたし達は助かるの。そんな簡単なこともわからないの?」
「イヤだって言ってるんだよ。オレのことなんてちっとも考えてない奴のためにどうして死ななきゃならないんだよ。だいたいおまえ、ここを抜ける前にリーダーに色目使ってたよな。オレのことも子どものことも邪魔だって思ってたんじゃねーのか?」
「バカじゃないの? だったら最初から抜け出してなんかいないし!」
「色目が効かなかったから抜け出してきたんだろ」
「こんのっ……」
車内は興奮のるつぼ。
超エキサイティングって感じ。
これって会話しているんだよね?
後部座席から身を乗り出して、殴り始める若奥様。
反対に殴り返す若旦那様。
捨て置かれた赤ちゃんは泣き始めてしまう。
でも、車内がどうであれ、事態が好転するわけではない。
ひとしきり暴れて、ふたりは肩で息をするようになった。
車内は今度は喧騒とは異なる不思議な音で満ちていて、具体的にはふたりの荒い息と、赤ちゃんの泣き声とゾンビが窓をぺちぺち叩く音しか聞こえない。これってわりとパワー調整してますからね? 本気でやってたらもう車の窓ガラスぐらいとっくに割られている。
「……」
「……」
ふたりが視線を合わせる。
愛の交信であれば綺麗だと思う。
けれど、それはそんなものじゃなくて……無言の談合だった。
つまり――。
うすうすそうなるんじゃないかとは思っていたけれども、もしも彼らが本当に自分のことしか考えていないのなら、そうならざるをえないとは推論できたことだけれども。
信じたくはなかった。
彼らが出した結論は明々白々だった。
彼ら自身が生み出した宝物は――ふたりの若い夫婦が生んだ小さな命は。
つまり赤ちゃんは窓ガラスを少し空けたところから、投げ捨てられてしまった。
危なかったんで、とっさにゾンビのひとりに抱っこさせたけど――。
「あーあ。これはひどいです。マイナス百億点ですねー」
リアルモノノケ姫状態かよ。
脳みそがねじれ狂いそうな気持ちがする。無意識に握った屋根の縁はバキバキと音を立てて崩れていた。怒りじゃない。失望に近い。
ボクはこういう人間が嫌いなんだと思う。
はっきり言えば、こんな人間が何人死のうがどうでもいい。
こんな人間のクオリアをボクは信じない。
クオリアを信じないということは、それはモノと同じで、いくら破壊してもまったく痛痒を感じない。つまり、死ねという意味すら意味がない。
そんな言葉をかけるほどの価値すらない。
「あー。でも……」
でもさ。
今日はいいことがあったんだ。
ボクのあだ名『ヒロちゃん』ってつけられちゃった。
だから、たぶんおまえたちじゃないけど――。
おまえじゃない誰かのために殺さないでおいてあげる。
ボクは音もなく屋根から自由落下し、小さく雪のようにふわりと着地した。
重力を少し制御できているみたい。
ボクはゾンビさんから赤ちゃんを受け取り、無言のまま、車のドアを開け――鍵がかかっていたので、無理やり鍵を破壊して開けた。助手席のドアは大きな音を立てながら、はじけ飛ぶように転がっていった。
「あけて」
後部座席も破壊するのはどうかと思ったので、ボクは指差す。
奥さんのほうが震えながら動こうとしないので、ボクはもう一度同じ言葉を繰り返す。
「あけて」
今度は急に動き出したロボットのように、鍵を開けてくれた。
小さく静かにボクは扉を開ける。
「出て」
唖然としているふたり。
ドアという身を守るべき盾がなくなって、ふたりは呆然としたままボクの言葉につき従った。ふたりからしたら、ボクは理解のできない、名状しがたい存在といったところかもしれない。ゾンビを付き従わせている化け物なのだから。
ボクはゾンビから受け取った赤ちゃんを抱っこしながら言う。
「かえしてほしい?」
ふたりはシシオドシみたいに何度も何度もうなずいた。
ボクには理解できない。それはひどく矛盾している解答だ。彼らは自分らの命が惜しくて赤ちゃんを捨てたのに、今はそれを取り戻したいと言っている。
「どうして? いらないから捨てたんじゃないの?」
「死にたくなかったから」
男のほうが呟くように言葉を発した。
なるほど――それは本能に根ざした素直な言葉みたい。
嘘をつかなかったということでプラス1点。
ボクが人にあだ名をつけてもらったというバフ補正を一兆倍に設定して、プラス一兆点くらいにしておいてあげる。
傲慢ですみませんね。ゾンビなもので。
本当は、ボクの自分勝手な満足のために、この子を殺したらお前達を見逃してあげるくらいのテストはしてもいいのかもしれない。
でも今日は月が綺麗だから、これでおしまい。
「はい」
赤ちゃんはお母さんのほうに返した。
お母さんのほうは少し声をあげて泣いていた。
「こっちの道をずっと行けば、町役場があるよ。そこにはまだ人がいるみたいだから守ってもらえるんじゃないかな」
「あんたは何者なんだ?」
「あのね。この幸運が何度も続くと思わないほうがいいよ。だって、今日のゾンビはたまたま機嫌がよかっただけで、今度は普通におまえたちを襲うかもしれないんだからね」
ごくりと唾を飲みこみ、ふたりと赤ちゃんは宵闇の中を駆けていった。
ゾンビたちはまるで見送るようにその場に立ち尽くしている。
ボクが彼らに名乗らなかったのは、すごく当たり前の理由だ。
子どもを捨てるようなお前達なんかと、
――友達になりたくないから。
当たり前でしょ?
ボクはピョンと跳躍して、屋根を伝って帰った。
あ、ちゃんとゾンビさんたちは解散させましたよ。さすがに一度逃がしておいて、また襲わせるとか意味わかんないからね。
イラスト、おあ様よりいただきました。
あんにゅーい。