あさおん・オブ・ザ・デッド   作:夢野ベル子

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ハザードレベル38

「せんぱぁい」

 

「ん? なに命ちゃん」

 

「おっぱい揉ませてください」

 

「開幕セクハラ!」

 

 いきなりなに言ってるんだ、この子は……。

 

 ボクは腕をクロスして胸のあたりをガードする。

 なんか恥ずかしいぞ。

 男だっていう意識もあるけど、女の子だっていう意識もあるし。

 ともかく狙われてるってわかったら、守りたくなるのが人の意識だ。

 

「そんなに警戒しないでくださいよ」

 

「いや、普通するよね」

 

「じゃあ、先輩のとっくんとっくんをもう一度聞きたいです」

 

「なにを言ってるんだね君は……」

 

 鼓動音を全国の皆様に聴かれた恥ずかしさは今でも忘れない。

 

 だいたい女の子どうしでベタベタしすぎだと思うんですよね。

 

 命ちゃんのなかでは、ボクはまだ男なのかもしれないし、それには少しうれしさも感じるけどさぁ。

 

 ボクって基本、見た目女の子じゃん。

 

 もしかして女の子がいいの?

 

 ジトー。

 

「だいたい、先輩が悪いんですよ」

 

「え? なにが」

 

「飯田さんとこっそり出かけたり、わたしたちに内緒でどこかにいったかと思えば、視聴者助けに行ってたみたいですし。無防備を飛び越えてなにを考えてるのかって話ですよ。ゾンビだってバレてもいいんですか?」

 

「う」

 

 バレバレでしたか。

 

 まあ、確かに同じアパートに住んでるし、ボクたち以外の人間の気配は周辺にはいないみたいだし、命ちゃんはボクの配信をかかさず視聴しているみたいだし、それはしょうがない。

 

 でも、ボクにだって精神の自由といいますか、そういうものがあるんです!

 

「ゾンビだってバレるようにはしてないし」

 

「情報が流れないようにせっかくバーチャルな感じにしたのに、リアル天使として機動しちゃったら、もう守れませんよ」

 

「天使とかじゃないし。ボクは人間らしくやりたいようにやっただけ」

 

「やりたいようにやっちゃうタイプなんですね」

 

「そ、そうだよ」

 

「わりと本能重視なんですね」

 

「命ちゃんも同じでしょ」

 

「確かに」

 

 命ちゃんはそっと溜息をついた。

 

「案外そのあたりはマナさんのほうがブレーキ効いてますよね」

 

「あの人は大人だからね。まあボクも年齢から言えば大人なはずなんだけど」

 

「最近の先輩は完全に幼女化してますけどね。なんですかあの『ボクしーらない。フフ』って、かわいすぎか」

 

「うう……。ボクしーらないっ!」

 

「かわいすぎか」

 

「でも、ぼっちさんが助かったんだからそれでいいじゃん」

 

「先輩がそれでいいならいいんですけどね。私やマナさんを連れていかなかったのも、女の子は守るべきっていう先輩の男心でしょうし……」

 

 う。バレてましたか。

 

 まあ、そりゃそうだよ。命ちゃんは大事な後輩で、ボクにとっては妹みたいな存在なんだ。そして――マモレナカッタ。

 

 いや、命ちゃんには意識があるから、完全に喪失したわけじゃないけれども。

 

 ゾンビになっちゃった。

 

 そんな罪の意識がボクにはある。

 

「先輩。私がゾンビになったからって、そんなのたいしたことじゃないですよ」

 

「そうかな。一般的にはゾンビは意識がないように思えるし、今の命ちゃんに心や意識があるというのは信じてるけど……、そうなるかもしれなかったんだよ」

 

「先輩……わかりました」

 

 すくっと立ち上がる命ちゃん。

 しなやかな体躯がすっと伸びて、まるで野生の美しい獣のようだった。

 

「デートしましょう」

 

「え? うん……わかりました」

 

 えっと、ゾンビバレとかいいの?

 不用意に外を出歩くとか、ゾンビバレの第一歩な感じもするけど。

 

「そんなのどうでもいいんです」

 

 いいんかい。

 

「視聴者様だって言ってますよ。ゾンビとか世界の終わりとかよりヒロちゃんと後輩ちゃんがイチャイチャしてる姿が見たいって」

 

「言ってるかなぁ……」

 

「私もそろそろバーチャルな存在になろうかと思います」

 

「え、命ちゃんもデビューするの?」

 

「先輩だけだと危なっかしくて見てられませんからね」

 

 いやいや……。命ちゃんもボクのことになると暴走するよね。

 

 ホームセンターでの命ちゃんのムーブってわりと危なっかしい感じがしたんだけど。天才なはずなのに、ボクに対しては妥協とか計算がないせいだ。

 

 でも、そんなこともいえないのである。

 

 なぜなら、ボクが自由にさせてもらっている以上、命ちゃんも自由に振舞うべきだって考えがあるから。

 

 それが、こころだって思うから。

 

 

 

 ★=

 

 

 

 くだらない小説ほど、くだらない自己紹介から始まるものだと思う。

 太宰の人間失格なんて、あれはダメな例の典型。

 

『恥の多い生涯を送って来ました』

 

『自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです』

 

 オマエが恥の多い生涯を送ってきたとか読者には関係ないし、今の時代ならブラバ確定だ。そもそもオマエは人間だろうが、人間なのに人間の生活が見当つかないとは何事だ。

 

 なんて思う。

 

 いや今でこそ使い古された出だしではあるが当時は画期的だったのだろう。

 

――例えばメロスは激怒したなんて何度同じような使い方をされたことか。

 

 次が読みたくなるようなそんな出だしだったのだろうとは思う。技巧的な上手さは言うまでもない。

 

 ただ、その精神性――というか。人間の捉え方が気に食わない。

 

 自分を人間ではないと規定することで、「わたし」が宇宙にたったひとりであると声高にわめいている。ここでいう人間というのは、世間とか社会とか、要するに人間総体のことであって、具体的な生物学的人間のことじゃない。

 

 孤独感といえばいいだろうか。

 

 子どもがお母さんから離れたときに、わんわん泣き喚くのといっしょだ。

 

 おててをつなぎたい。

 

 人肌のぬくもりを感じたい。

 

 そんな素朴な願望だ。

 

 だけど、それこそが――。

 

 そのくだらなさこそが、太宰のぬめっとした「人間」に対する感受性であり、生暖かさともいうべきなのかもしれない。

 

 その言葉の根源は、

 

――僕にかまってください

 

 という一文にある。

 

 たったそれだけのことを言いたいがために、300ページも費やしている。

 

 太宰の小説は読んでると寂しさがある。

 でも、ほのかに希望のようなものが灯っていて、それは人間という存在に対する作者の距離感だろう。

 

 わたしという存在を極小にして、卑屈で、くだらなくて、いますぐ死んだほうがよいようなものにして、そんな存在がどこかで救われることを信じている。

 

 人間に赦されることを信じている。

 

 人間に対して、そんなダメでどうしようもない自分がどこかで無限に受容されることを望んでいる。

 

 そんな女神様みたいな人間がどこかにいると信じている。

 

 信じるのは勝手だ。

 

 人間が他者に対して何かを求めるのも勝手だ。

 

 その各々の勝手さが化学的に混ぜ合わされたときに、わかりあえたという幻想が生まれる。寂しさで響きあってるようなもの。

 

 こんなゾンビだらけの世界で。

 

 いつ死ぬかもわからないような世界で。

 

 誰かといっしょにいたかった。ただそれだけの理由。

 

 わたしが――平岡鏡子と肌を合わせているのも、かような理由による。

 

 

 

 ★=

 

 

 

「休憩室にエアコンあってよかったね。わたし汗かいちゃったー。あー、こころちゃんもタオルいる? 汗かきっぱなしだと風邪ひいちゃうよ」

 

 図書館の片隅にある小さな休憩室は生活感に溢れている。

 

 その休憩室にはたった二人しかいなかった。

 

 つまり、わたしと彼女――平岡鏡子である。鏡子は、陰気なわたしと違い、クラスの中では比較的陽気なキャラで通っていた。まんまるでクリクリっとした瞳。ふわふわっとした髪の毛。ナチュラルメイクでそんなにけばくもないけど、快活で明るく、美少女然とした女の子。

 

 肌はつきぬけるような透明感。抱きしめたくなるような華奢な体躯。

 瑞々しい肌が白いシーツの上に覗いた。

 

 ああ、くだらない描写。わたしが編集だったら一瞬で没にする。

 

 こんな小説的な、美少女描写になんの意味があるんだろう。ともかく、わたしが思うに彼女は『キレイ』だ。それだけでいい。それだけで。

 

 キレイでかわいい女の子。

 

 一方のわたし――太宰こころ――は陰気なキャラだった。生まれてこの方、化粧なんかしていない。クラスの中ではいじめられているわけではなかったけれど、常に教室でひとり黙々と小説を読んでいるようなキャラ。プチ貞子とか呼ばれたこともある。陰気な本の虫だったわけである。

 

 それがラノベとか漫画とかだったらまだみんなといくつか共通の話題ができたかもしれない。

 

 でも、そんなことはなかった。 

 

 わたしが好きなのは純文学だったから。古臭くてカビでも生えそうなそんな趣味だったから。こころ菌が生えるとかいって、小学生くらいの時にクラスの男子が騒いでいたけれど、わたしは特に何も思わなかった。

 

 べつに純文学を読んでいる自分が高尚だとか偉いとかそんなことは考えたことはなかったけれど、クラスの男子は正直、客観的に考えてもくだらないアホさ加減だったし、物理的ではないただの中傷になんの痛痒も感じなかったからだ。

 

 いないのといっしょ。

 人間未満の存在。言ってみれば、海辺にでかけたときにふじつぼを見かけて、何も思わないのといっしょ。

 

 ちょっと気持ち悪いかなと思って避けたりすることはあっても、積極的に関わろうとは思わない。

 

 あと、女子には別に苛められていたわけではないから、わたしは少なくとも精神的に逃げ場所があった。

 

 それはクラスの中心にいた鏡子のおかげだったのかもしれない。

 

 鏡子は積極的に友達を作ってこなかったわたしにグイグイと迫ってきた女の子だった。クラスの委員長が先生に頼まれて仲良くなるとか、クラスの全員に好かれる陽気な『わたし』を演じるためとかそういうんじゃない。

 

 単に人間が好きという自然なキャラクターなのだろう。

 

 小学校から中学、高校一年になる今日までずっといっしょにいたわけだから、もう十年以上付き合いがあることになる。それだけいれば、鏡子のキャラというものは、さすがに理解しているつもりだし、向こうもわたしのことをそれなりに理解しているはずだ。

 

 誓って言うが、こんなことになるまで、わたしは彼女としたことはなかった。

 一応は幼馴染にあたるのだろうし、それなりに仲がよかったが、趣味はまったく合わないし、根本的な思想が違う。

 

 わたしが好きな太宰や芥川を貸しても、鏡子は五秒でダウンしてしまうし、鏡子が好きな隣国の王子様にわけもわからず愛される話とか読んでも、これシンデレラとなにが違うんですかとしか思わなかった。

 

 この小さくもないこじんまりとした町営図書館に閉じ込められてしまったのも、ほとんど偶然の産物によるところが大きい。

 

 夏休みに入る直前、国語の先生がなにをとちくるったのか文学作品の感想文を書けという宿題を出した。高校ではあるものの地元の公立のような立ち位置に近かったから、ノリが中学校のままだったのだろう。

 

 わたしが何か貸してあげてもよかったのだが、鏡子はもっと短いやつを求めた。

 ごんぎつねとかダメ? って聞いてきたときには頭を抱えたくなったが、ともかく自分の感受性に少しでもひっかかるもののほうが書きやすいだろうと思ったわたしは、図書館に行くことを薦めた。

 

 図書館は、人間が作り出した建造物の中でもとりわけ人工物という感じがする。もちろん、どんな建物であれ、人の手が加えられている以上は、人工物であるのは論を待たない。ただ、図書館は生活から切り離された空間だ。本で埋めつくされた空間は、それだけで人類が蓄えてきた知の重みを伝えさせてくれる。

 

 人の、人による、人のための空間だ。

 

 ただ台無しだったのは、鏡子はそういった知の重みなんてものには興味がなく、図書館のバックヤード、つまり裏側が見たいということだった。

 

 なんのことはなく、わたしがこの図書館の館長の縁者であることから、一日だけ休憩室に泊りこみたいと言い出したのだ。

 

 わたしのおじさんはどこかの役所に定年まで仕えていたらしく、そのあと天下りといったらいいのか、この図書館長に収まったらしい。

 

 本来は当然いけないことなのだが、こっそりと休憩室を使う分には問題ないと言ってくれた。

 

 もちろん、その時は――、たった一日だけのことだと思っていた。

 

 ゾンビハザードが起こるまでは。

 

 

 

 ★=

 

 

 

 セックスの経緯とか知りたいやつがいるかわからないが、一応書いておく。

 

 何日も閉じ込められることになったわたしたちは、ひとまず図書館を閉めきりゾンビが入ってこないようにしたあと、すぐに休憩室の中にある食べ物をかき集めた。水は出たし、問題になるのは食糧だったからだ。

 

 おじさんは案外マメな性格だったのか、あるいはかわいい姪のために用意してくれたのか、冷凍庫の中にはタッパの中にご飯が大量に入っていた。

 それとお菓子の類は大量にあった。

 さすがに図書館の本があるスペースには何もない。

 

 どんなに切り詰めたところで一週間くらいしか持たないだろう。

 

 そんな予期に、わたしが陰鬱な気持ちになっていると――。

 

「ねえ。こころちゃん」

 

「なに鏡子」

 

 振り向くと鏡子がポックリーという例のあの細長い棒状の食べ物を口に加えていた。

 

「なに?」

 

「むー」

 

「ほんとになに?」

 

 カリカリとハムスターのように食べたあと、鏡子は抗議めいた声をあげる。

 

「ポックリーゲームだよ。知らないの?」

 

「知らない」

 

「ポックリーを両端から食べていくゲーム」

 

「それになんの意味があるわけ?」

 

「キスしちゃいそうでドキドキするでしょ」

 

「女同士でそんなのして何の意味があるの?」

 

「わたしはこころちゃんとしたらドキドキするけどな」

 

「は?」

 

 意味がわからなかった。

 

 いや――、違う。本当は心のどこかでわかっていたと思う。

 

 彼女はよくマリみてみたいな、文学的に見ればエスと呼ばれる――今で言えば、百合小説とかも好きそうだったから。

 

 ただ、フィクションはフィクションとしてリアルはリアルとして峻別できるものだし、百合小説が好きだからといって百合というわけではない。

 

 性癖として女が好きというのは、一足飛びな結論だと思っていた。

 

 エス――シスターの頭文字からとったらしい百合小説の前身は、あくまで擬似的な姉妹関係にほのかな恋愛感情を混ぜたものであるし、どちらかといえばプラトニックな関係が求められる。

 

 百合も同じく――、基本的にはベタベタしたものじゃない。女心というのは、わたしにだってあるし、それはふやけたガラスのようなものだ。

 

 柔らかなガラス。

 

 だから、恋愛感情というものを突き刺すように形にしない。

 

 情動を放射しない。

 

 オイルヒーターみたいにやんわりと伝わるような観念だと思っている。

 

 つまり、書いてみても――、よく伝わるかはわからない。

 

 わかりやすいような告白とか、そういうものはなくて――。

 

 単に、ちょっと唇と唇が触れてしまった。

 

 追突事故のようなものだと思う。

 

 結局、わからないまま押し流されてしまったというのが一番、答えを表しているかもしれない。

 

 わたしが彼女としたとしても、わたしのなかに彼女を好きだという明確な感情は生じなかった。

 

 そもそもわたしは情動で生きるタイプではない。男の殺人はどこまでいっても計画的で女の殺人はどこまでいっても情動であるとかいう偏見めいた記述をどこかで見かけたことがあるが、それも所詮は個性によって生じる偏差でしかないだろうし、わたしはわたしである。

 

 人が人を好きになる話は文学でもいくつもあるけれども、それは異世界の出来事と同じであって、わたしの現実の中では排斥されている。

 

 きっと、わたしはそういうものとは無縁な読者でいたいのだと思う。

 

 だとしたら、わたしは彼女にレイプされたのだろうか。

 

 そうではない。あれは合意の産物だった。

 

 人間が生身の身体で生きていて、その人なりの人生を送っている以上、きっと純粋な読者というものも存在しないのだろう。

 

 

 

 ★=

 

 

 

「どうにか、なる」

 

 彼女が太宰の『葉』という短編と同じような言葉を布団の中で呟いたとき、わたしは思わず笑ってしまった。

 

「なにがどうにかなるの?」

 

「ゾンビハザードも終わって、みんな元の生活に戻って。私とこころちゃんはいっしょの大学に通って。幸せに暮らすの」

 

「どこにそんな根拠があるの?」

 

「根拠なんかないよ。願望」

 

「夢見る少女じゃいられないんだよ」

 

「わたしたち少女だよね。まだ高校一年生なんだよ」

 

「でも、世の中はゾンビで溢れてる」

 

「それもきっと警察官の人とか、自衛隊の人とかがやっつけてくれるよ」

 

「ひとまずのところ……、食糧がなくなりそうなんだけど、それはどうにかなるって言えば、どうにかなるの?」

 

 どちらかといえば、マッチ売りの少女のような感じじゃないだろうか。

 

 どう見ても死に際の幻に近い。

 

「もー。夢がないな。こころちゃんは」

 

「わたしには現実がないんだ」

 

 どちらかというとね。

 

 そんなどうでもいいことはどうでもいいとして――。

 食糧がないというのはとてもまずい。人間には幻想が必要だし、魔法も必要だとは思うが、しかし、とある宗教家も言っているではないか。

 

 人はパンのみに生きるにあらず。

 パンだけで生きているわけじゃないってことはパンはいるってことだ。

 おわかり?

 

 いくら、鏡子がゆるふわの魔法少女になれそうな精神をしていたとしても、食糧がなければ生きていけないことくらいはわかっているはず。

 

 いままで一週間以上。

 篭城生活をしてきたわけであるが、まったくもって進展してこなかった。

 誰も助けにこなかった。

 だったら、自分達でなんとかするしかない。

 陰キャのわたしがそう決意するぐらいには現実的に差し迫っている状況だというのに、鏡子はあいかわらずのほほんとしている。

 

「ゾンビ倒すのって辞書がいいかな? 前々から思ってたんだよね。辞書って鈍器に最適だって」

 

「あのね。そんなリーチが短い武器だと殺されるよ」

 

 掃除ロッカーの中にモップがあったから、その柄の部分をどうにかこうにか取り外し、槍のようにしてみた。

 

 それをふたつ作り、ふたりで近くのスーパーまで突貫した。

 

 事実。

 

 ただの事実として。

 

 平岡鏡子の掲げた幻想主義は、脆くも現実の前に崩れ去った。

 

 白くておわんのような彼女の肩には、ゾンビの歯型がついていた。

 

 スーパーはほとんどの食料品が腐っていて変な臭いがしたし、かろうじて持ち帰ってきたのは、キャラメルを数個ほど。

 

 鏡子はもとから白い肌をさらに青白くさせて夏だというのに布団の中でガタガタ震えている。

 

 ゾンビに噛まれた人たちがどうなるかはインターネットで調べて知っている。

 例外なく、一日から数日のうちにゾンビになる。

 

 物言わぬ躯として、人を襲うようになる。

 

「どうにか……なるよ」

 

 この期におよんで。

 

 彼女は――、平岡鏡子は笑いながらわたしに言うのである。

 

 わたしは彼女に恋をしているわけではない。

 

 わたしは彼女にいささかも心を砕いているわけではない。

 

 それなりに友達だったし。

 

 それなりに同じ時を過ごしたし。

 

 それなりに触れ合ってもきたけれど。

 

 肌を合わせたのは事故のようなもので、なんの心の交わりもなかったはずだ。

 

 つまり、わたしは生まれてこの方、誰も心の内側に誰かを入れたことはなかったし、孤独のうちに生きてきた。

 

 なのに。

 

「泣かないでこころちゃん……」

 

「わたしは泣いてなんかないっ!」

 

 なんでこんなに心が張り裂けそうなんだろう。

 なんでこんなに心が痛いんだろう。

 

「こころちゃん。元気だして」

 

「あんたこそ元気になりなさいよ。ゾンビウイルスなんかに負けるな」

 

「うーん。それはちょっと無理そうかな……。すごい勢いで力が入らなくなってくるの。意識もぼやけてきちゃってるし。痛みがないのが救いかな、でももう、えっちできなくなっちゃったね」

 

「そんなこと……」

 

「ごめんね。こころちゃん……。私、わがままだったよね」

 

「なにが」

 

「だって、こころちゃんはべつにえっちとかしたくなかったでしょ。私のことも好きでも嫌いでもなかった」

 

「そりゃ……そうだけど」

 

「そこは嘘でも好きでしたって言って欲しかったな。でも、こころちゃんらしいかもね。素直で」

 

「わたしはわたしにしかなれないから」

 

「みんなそうだよね。せめて最後くらい自分らしく生きていたいんだと思うよ。こんな世界になっちゃったから、私、チャンスだって思っちゃったの」

 

「チャンス?」

 

「もっと、こころちゃんに近づきたかったの」

 

「わたしなんかと?」

 

「こころちゃんはキレイだよ。かわいくて小さくてすごく好き。長くて黒い髪の毛も好き。本をめくっているときの指先も好き。本を読んでいるときの静かな様子も好き。わたしなんかとか言っちゃダメ」

 

「でも……。わたしは他人の心がわからない。自分の心すらわからないのに」

 

「こころちゃんは文学少女でしょ。きっと、私なんかよりずっと、いい言葉を当てはめることができるよ。だから……」

 

 作者がこのときどのような気持ちだったか――答えなさい。

 

 自分を好きだと言ってくれた同性の女の子がもうあとわずかで死にゆくときの気持ちを答えなさい。

 

「ころして」と願われたときの気持ちを。

 

 答えなさい!

 

 いくら考えても答えはでない。

 

 青に染まっていく顔。

 

 この世界のゾンビは腐っているようなやつもいるが、ほとんどは死蝋のように人形めいている。

 

 きっと、鏡子もきれいなまま動き出すのだろう。

 

 少女の姿のまま永遠に彷徨い続けるのだろう。

 

 わたしは、どうしたらいいだろうか。

 

 いっそ、人間でいるときに、彼女をひと思いに殺すべきなのか。

 

 それとも、わたしもいっしょに死ぬべきなのか。

 

 生きるべきか死ぬべきかなんて、バカらしい問いかけだと思っていた。

 

 けど、今なら、その意味が満腔を通じて理解できる。

 

 わたしは結局、選んでこなかった人間なんだ。現実から逃避して虚構の世界に逃げこんでいた。遊びで生きてきたようなものだ。ずっと不真面目に生きてきたようなものだ。

 

 そんな人間が、本当の人生を予習も復習もなく生きてきたわたしが、答えを出せるはずもない!

 

 わたしは休憩室の扉を閉めた。

 

 ここでもわたしは逃げたのだ。

 

 そのとき――。図書館の扉が大きく開け放たれる音が響いた。

 

 

 

 ☆=

 

 

 

「は? 女の子がいるんですけど」

 

 怯えた様子でこちらを伺っているのは命ちゃんと同じくらいの年頃の女の子だ。

 黒髪ストレートが肩口まで伸びていて、どことなく幼げで陶器のように綺麗。 

 シャープな美しさというのかな。

 

 エミちゃんを大人にしたらこんな感じになるだろうなって感じ。

 化粧とかしてないのに、ものすごく整ってるせいで、化粧とかいらなさそう。

 一言でいえば、美人さん。

 

「先輩。中に人間がいる可能性もあるっていったじゃないですか」

 

「だって、外はゾンビだらけだったし」

 

 そんなところに人間がいるとは思わなかったんだもん。

 

 やっちまったもんはしょうがない。

 

「あ、あの、あなた達は何? ゾンビは……」

 

「ゾンビは入ってこないよ。ゾンビ避けスプレーを開発してるからー」

 

 もう投げやりモードなボクです。

 

 そもそもゾンビさんが傍らにいるのに、言い訳もクソもないというか。

 

 どうせ言い訳してもこの状況を取りつくろうだけの理由なんてないというか。

 

 命ちゃんなら何かうまい言い訳が思いつくかもしれないけど、この子はボクがいると、基本なにもしない子だからね。

 

 先輩がしたいようにというのが基本スタイルというか。そのため、ボクがなにか行動を起こすのを待っていることが多いんだ。

 

「さて。そんなわけで、ボクたちはゾンビには襲われません。君も含めてね」

 

「は、はぁ……」

 

「嘘じゃないのはわかるよね。ご近所さんみたいにフレンドリィに肩を組めたりもするぐらいだからね」

 

 ポンポンって、そこらにいたゾンビの背中を叩き、ボクはもう一度彼女に向き直る。命ちゃんがどう思っているかは知らないけれど、ボクは彼女をゾンビに襲わせたりするつもりはない。

 

 最近のボクはわりと気分がいいんです。

 

「あの! じゃあ……解毒剤は持ってますか?」

 

「解毒剤って?」

 

「友達がゾンビに噛まれたんです」

 

「あー。なるほど」

 

 このご時勢だし、よくあることだよね。

 うんうん。よくある。

 

「あるといえばあるかなー」

 

 なにしろヒイロウイルスをぶちこめば一発だ。

 でも、問題はヒイロウイルス感染者は漏れなくゾンビだという事実。そこらにいるゾンビとは違うかもしれないけど、少なくとも人間じゃないような感じ。

 

「とりあえず患者さんのところに連れてってください」

 

「いいんですか先輩。この人は敵ではないですけど味方でもないですよ」

 

「いいんだよ」

 

 なんとなく命ちゃんを助けられなかった代償行為なんていえない。

 

「先輩の行動理念ってわりとガバガバですよね」

 

「そ、そんなことないよ」

 

「まあ……いいですけど。それもまた先輩のしたいことなんでしょう」

 

「うん」

 

 

 

 ★=

 

 

 

 ご都合主義の神様というやつは、小説ではご法度とされている。

 デウス・エクス・マキナ。

 機械仕掛けの神様が、物語上のいろんな矛盾を、神様のせいだからという一言で解決するアレだ。

 

 そんなの夢落ちとかと同レベル。

 プロットもクソもない。

 でも、現実というやつはいつだってそんな都合のいい奇跡も確率的には存在するし、ありえるという話なんだろう。

 

 図書館の扉を蹴破ってやってきたのは、そんな神様めいた美貌を持つ少女だった。赤ん坊のように肌がすべすべの、白い卵のように小さな女の子。

 

 小学生くらいに見える。

 

 彼女は鼻歌まじりにここにやってきて、単に気晴らしにあるいは、人類の積み重ねてきた文化をつまみ食いするために来た天使のようだった。

 

 それぐらい現実離れしている存在。

 

 傍らにいる女子高生姿の女の子は、まだ人間っぽいといえたけれど、彼女は本当に幻想の存在のように曖昧だ。

 

「あー、うーん。これはゾンビウイルスに冒されてますねー」

 

 どう見ても適当な触診をしたようにしか見えないが、彼女がゾンビに襲われないのはその場で目撃している。

 

 彼女の自己申告が正しければ、ゾンビ避けスプレーなるものを開発した天才科学者なのだろうし、適当すぎる触診もきっと意味があるのだろう。

 

「いやあ。うーん。どうしようかなー」

 

 くるりとこちらに振り返り、

 

「あの……うーん。ボクの見立てだと、非常に高度な治療が必要になるみたいなんだよね。だから、その、ちょっと外に出てってもらえるとうれしいな」

 

「はい」

 

 意味がわからなかったがわたしに拒否権はない。

 

 今にも死にかけている鏡子に治療の可能性があるなら、奇跡に賭けるしかない。ゾンビに襲われないという奇跡を体現した目の前の白い少女なら、もしかしたらという思いもある。

 

 地獄で蜘蛛の糸を垂らされたカンダタもこのような想いだったのだろうか。果てしなく細く頼りない糸。

 

 けど――。それしかないのだ。

 

 わたしとともに、高校生くらいの少女がついてきた。

 

 彼女は監視役なのかもしれない。

 

 しばらくは無言のままだ。

 

 彼女は休憩室への扉を背にして、まるで天使を守るガーディアンのようだった。

 

「あなたは、彼女のことが好きなんですか?」

 

 彼女とは平岡鏡子のことだろう。

 

 わたしにはわからない。そういう感情を名づけることができなかったから。

 

「わかりません」

 

「でも、ゾンビにはなってほしくないんでしょう」

 

「それはそうですけど」

 

「だったら、それなりに執着しているということになる」

 

「そうなんでしょうか」

 

「まあ、私が勝手に推測してるだけですけどね」

 

「確かに」わたしは言う。「わたしは彼女といっしょに本を読みたいと思ってました」

 

 独りで読むというのが読書の基本だけれども。

 

 たまには、誰かといっしょに読みたいと思っていたのも事実だ。

 

 その意味では、わたしは彼女に執着している。

 

 ゾンビは本を読めない。わたしは鏡子といっしょに本が読みたい。

 

 だから、生きていてほしい。

 

 好きか嫌いかすらわからないけれど、それだけは確かだ。

 

 

 

 ☆=

 

 

 

 ゾンビウイルス的な何かに冒された人を人間のまま生還させることができるのかというと、わりとできる。

 

 というか、できちゃったという感じが一番近い。

 

 傷跡を舐めたりすることもなく、そっと手を触れて、ちょっとゾンビウイルスに沈静化してもらう。

 

 そうすると人間が本来持ってる治癒力で回復してくる。

 

 エミちゃんの経験が役にたった。

 

 ゾンビになりきっていないなら、ボクの力でどうとでもなる。

 

 青白かった顔には血の気が指し、この子は人間としての生を取り戻す。

 

 ヒイロウイルスにも冒されていないから、彼女は人間のまま。

 

 でもまあ抗体ができたわけでもない。

 

 ゾンビウイルスに命じたのは、アポトーシス。つまり自壊だ。

 

 今のボクだと目の前にいる人間にしかできないけれど、いずれレベルアップしたらもっと広範囲にできるようになるかもしれない。

 

「だけど、ゾンビが減るのもそれはそれで問題かな……」

 

 だって、ボクはゾンビで、人間じゃない。

 ゾンビが減るってことは『ボク』が減るってことでもあって、それはボクの生存に深く関わる。

 

 そこまで人間に譲歩しないといけないのかな?

 

 そこまで人間に寄り添わないといけないのかな?

 

 人間は好きだけど。

 

 ボクはゾンビで人間じゃない。

 

 わからない。

 

 少しの間考えてると、高校生くらいの女の子はうっすらと目を開けた。

 

「あ。天使様?」

 

「ハローワールド。でもボクは天使じゃないけどね」

 

 そのあと、文学少女とゆるふわな女の子は、いっしょに脱出した。

 

 夕暮れ時のすべてを溶かすような色合いのなか、彼女達は特に見つめあうこともなく、触れ合うでもなく、でもいっしょの方向に向かって歩きだした。

 

 お決まりのパターンだけど、ボクはゾンビたちを退けてふたりを町役場に送り届けたわけだ。

 

 彼女達は特に生活に必要な雑貨を持っていくことは出来なかったけど、その代わり人間がいままで作り上げた叡智の結晶を持っていった。

 

 つまり、本。

 

 たくさんの本をリュックいっぱいに詰めこんでいった。

 

「うーん……先輩が人間に甘すぎる気がします」

 

 命ちゃんは役場にふたりが保護されたあと、帰り道でそんなことを言った。

 

「そうかな。ボクとしてはきわめて公平にジャッジしたつもりなんだけど」

 

「彼女達は何もしてないですよね」

 

「そうだけどさ……。でも、人間が滅びちゃったら新しい本も生み出されなくなっちゃうよね」

 

 ボクとしてはそれが不満なんだ。

 

 だって、こんなにもまばゆい光を放っているクオリアの結晶だよ。ボクの手元には、報酬としてもらった小さな本の断片がある。いままでに書いていた彼女の日記がUSBの中に入っている。

 

 図書館のパソコンで見せてもらったけど、柔らかなグラスのようで、とてもきれいだった。ふやふやであやふやだけど、それでも言葉の力で削りだそうとしたクオリアの欠片だ。

 

 とてもキレイで、こんなにも価値があるものが永久に消え去ってしまうなんて、嫌なんだよ。それが理由だ。

 

「まあ、私のスタンスは今も昔も変わりません。先輩がそれでいいなら、それでいいです」

 

「だとしたら、ボクは選択する」

 

 本よ、あれってね。

 

 遠い未来に向かって、ボクは言葉を投げかけた。




うーん。難しいです。
こう、ノンケ少女に百合少女が迫ってくる百合というシチュが書きたかったんですが、
うまく書けてるかは自信がありません。
需要もわからんので、今回限りの番外編的な感じ。

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