男は血走った瞳で、ボクの肢体を足から顔の方まで見つめていた。
「僕ちん、女の子山脈を登頂するであります」
なにかわけのわからないことを言っている。正直なところ、どうすればいいのかはわからない。
いくら少しだけ力が強くなっていたって、後ろ手に縛られていたらパワーは半減。
ポールギャグのせいでかみつくこともできない。
比較的自由になるのは足だけ。
「おへそかわええなー」
おへそ見られた。見られちゃった!
ただそれだけなのに猛烈に恥ずかしい。
男は右手でボクのシャツをまくり上げていた。左手はボクの足をつかんでいる。
そろりそろりとシャツがあがっていく。
ダメ。それ以上はダメ。
サイズ的にもダブルエーな感じのボクは見られてもそこまでショックではないけれども、このままいけば確実に胸まで見られてしまう。
それはなんか嫌だった。
おへそに気を取れれているうちに、自由になっている方の左足で、男の胸のあたりを押し返す。
腕の四倍ほどの力があると言われている脚力は、あっさりと男を引き離した。
ていうか、狭いバックヤードの壁際までぶっとんだ。
「ぐえ」
男は車につぶされたカエルみたいな声を出して、頭を左右に振った。
「すごいな……。ゾンビ化したらやっぱ力が強くなるんだな」
そんな独り言をつぶやいて、男は奥に置いてあった段ボールからごそごそとロープを取り出す。
たぶん足も拘束する気だ。
粘ついた男の笑顔。
笑顔って、歯をむき出しにした攻撃的な表情だって言われているけど、今、その意味がよくわかる。
こんなにも動物的で、野蛮で、ゾンビよりも本能的な表情をボクは見たことがなかった。
だって、人って社会的生活を営む上で、誰もがいい人の仮面をかぶっているから。
にじりよってくる姿が本当に怖い。コワイよ。いやだよッ!
ボクの視界が激しくにじむ。ボクはついに泣いてしまっていた。
女の子になって、とても精神が安定していて、万能感があって、ボクはとてもハッピーだったのに。
男の人に――人間に、好き勝手に扱われてしまう。 いいようにされてしまうというのが悔しくて、悲しくて、涙が止まらなかった。
そんなボクのこころの動きなんて、おかまいなしに。
ボクの生白い足だけ見つめて――。
男はとびかかってくる。
ボクの動体視力は、はっきり言って男の動きをスローモーションのようにゆっくりと見せるほど、すさまじく進化していた。
男の指先から、呼吸、筋肉の動きまではっきりとわかるほど。
精神的にはボロボロだったけれど、その厚手の軍手で覆われた指先を、ボクは足でつまむことができた。
男が飛びかかってきた勢いを殺さず、そのまま、引き寄せるようにして、足で投げる。
男はまるでダンゴ虫のようにごろごろと転がり、今度は反対側に叩きつけられた。
「ってぇなぁ。おい!」
男は激昂する。嫌なことがあったときのように。思い通りにいかないことに。
怒りを隠そうともしない。
なぜなら、相手はただのゾンビだから。ボクはモノを考えず、言葉を発しない、ただのゾンビに過ぎないから。
それがたまらなく嫌だった。
女の子として傷つけられることよりもずっと、ずっと、ボクという存在が顧みられることがないことが嫌だったんだ。
そして――、だから、ボクは精一杯の主張として男を――にらんだ。
にらみつけた。
「あ……」
必然的に男とボクは初めて目をあわすことになる。
「……」
男は無言だ。何かを迷っているような、そんな視線。
そして、たっぷり三十秒ほど経過。
「あの……、もしかして人間であらせられますか?」
ボクは猛烈にうなずくのだった。
★=(ボクは男の話を聞く。飛ばしてもいいよ。はいカット)
私、飯田人吉(いいだ・ひとよし)は、今年で40歳……はぁ、年とったな自分。
え、僕ちんじゃないのかって?
人前で、そんな人称使うのって頭おかしくないかな。うん。まあそういうことで……。
40歳にもなって僕とかちょっと恥ずかしいからね。まあ昔は僕って言ってたけどさ。
緋色ちゃんくらいの年ごろの子は想像もできないだろうけれども、おじさんにも小学生の頃があってね、その頃からクラスの女の子には、飯田くんはいい人ねって言われていたんだよ。
名前が「いい」だ「ひと」よしだから「いいひと」ってね。
いいひとって便利な言葉でね、とりあえずのところ、あなたは仲間だったり友達だったりはするけれども、特別ではない、オンリーワンではない、誰からも選ばれることはないってことなんだ。
この社会で、私は特に必要とされなかったなー。
ロストジェネレーション世代って知ってるかな。
おじさんくらいの年代のことをそう呼ぶんだけど、ちょうど派遣とか非正規とかそういう働き方もありますよって有名になってきた頃だったんだ。私も若いときはそんな言葉に騙されてね。バイトをやりながら、自由にいろいろな仕事を経験して、自分のやりたいように生きて、ゆくゆくは結婚して、幸せな家庭を持ちたいという、そんなささやかな、自分の身の丈にあった人生を望んでいたんだよ。
でも、そうはならなかったなー。
非正規っていうのは正常な規格ではないってことなんだ。この社会で正しく求められている普通という規格からはずれてるってことなんだよ。
緋色ちゃんは学校でいじめとかを見かけたことあるかな。
君くらいかわいかったら、そんなキタナイものから遠ざけられているかもしれないね。
ロスジェネ世代はいじめられているんだ。日本というこの国から。他の全部の世代からもね。
どういうことかというと、ロスジェネは非正規が多くて、いったんルートをはずれた人間は、この社会からつまはじきにされちゃうんだ。
特に40にもなってくると、転職すら難しくてね。
正規雇用されたことがない人間は、ルートからはずれた産業廃棄物扱い、要らない人間扱いってわけ。
それで、どうにかこうにか去年の暮れだったかな、前に働いてた会社の伝手で、ようやく正社員になれてね……。
あのときはうれしかったなー。
思わずスズメの涙くらいの貯金20万円を全部引きだして、パチンコ行っちゃった。全額負けたけど。
それでもね。
ボーナスも退職金もなくて、みなし残業、サービス残業も当たり前の職場だったけれど、ようやく努力すれば報われるのかなと思いだしてきたんだよ。
やっぱりダメだったなー。
私の仕事はいわゆる事務職っていってね。いろんな連絡事項とか、そういうものを作る仕事だったんだよ。
それで、こんな容姿だからかな。女子には嫌われてね。なんか、後ろに立ってたってだけで、セクハラだって言われて大変だったよ。
特にひどかったのは、私のことを嫌っていた女子のうちのひとりが、上司と不倫関係でね、その現場をたまたま私が見たせいなのかどうなのかは知らないけど、上司といっしょになって、私を会社から追い出そうとしたんだ。
私はべつに恋愛は自由だと思うし、不倫は悪いことだけど、わざわざそんなことを言いふらすようなことはしない。
でも、ダメだったなー。私は心のどこかが欠陥品なのかもしれない。それこそ、心が非正規品なのかもしれない。
だから、上司にごますって、もっと忖度していれば、あんなことにはならなかったかもしれない。
さっきも言ったとおり、私は事務の仕事をしていて、会社の重要な書類に印艦を押すこともあるんだけど、あるひとつの書類が、決裁も得ずに私が勝手に押したことになってたんだ。
会社はたぶん薄々気づいていたんだろうけれども、今まで数々の実績をあげてきて会社にとって重要な上司と、ポッと出のいくらでも替えの利くうだつの上がらない私を天秤にかけたんだ。
選ばれなかったなー。
まあ、当然だけど、私は会社に捨てられたんだ。損害賠償まで請求されるというおまけつきでね。
で、実家の佐賀に帰ってきて、この小さなコンビニでバイトをして、日々を食いつないで生きていたんだ。
何と言えばいいだろう……。
私は、結婚願望が普通にあるというか、誰かに選ばれたいと思っているんだ。
人間にはいろいろな生き方があって、お金が好きな人や、結婚なんかしたくないって人もいて、それはそれでいいと思うけれども、私は人が生きる意味というか、価値といったものは、結局のところ子どもを作ることにあると思うんだよ。
それは、いわば、私自身が欠陥品であることを否定したいがための衝動かもしれない。
けれど――、幸せな家庭を持ちたいというのが私のささやかな夢だったんだ。
日々……、なんだろうな。
緋色ちゃんはゲームとかするかな。
ん。するんだ。
じゃあ、わかるかな。スリップダメージって。
そう、スリップダメージなんだよ。
日々、毒に冒されているかのように、少しずつその身が削れていっている感覚がするんだ。
コンビニの店員がべつに悪いわけじゃない。
でも、私は私が欲しいものがこの先ずっと手に入らないのだろうなとも思っている。
なぜなら――。今まで誰かに好かれたことなんてないからなー。
日々のむなしさをごまかすために、ゲームとかアニメとかそんな趣味に没頭しているけれども、時々すごくむなしくなるんだよね。
でも、私が毒に冒されているとすれば、リジェネをかけるしかない。
だから私は、日々の癒しに、萌え四コマ漫画みたいなかわいらしい女の子がただ日常を謳歌する作品が好きだった。
みんな、かわいくて、仲良しで、毎日のちょっとした出来事に一喜一憂して、心の底から尊いと思えたよ。
絶対に私が入りこむことができない聖域。
だから、尊いのかもしれない。
なぜこんな話をしているかだって?
ごめんね。緋色ちゃんにはつまらない話だったね。
どうしてこんなことしたのって言われたから、おじさんなりに理由を考えてみたんだよ。
いや、考えてみたというより、考えていたことを話している感じかな。
久しぶりに人と話をした気がしてね。うれしかったのかもしれない。
そうだね、どうしてと言われると難しいんだけどさ。
数日前、深夜のコンビニで人が来ないときには、バックヤードに引っ込んでるんだけど、スマホをいじっていたら、ゾンビ現象のニュースが流れてね。最初はフェイクニュースだと思ったけど、いくつも同じ情報が流れるんで、これはマジでヤバいと思ったんだ。
それで急いで、私はコンビニの食品とかをバックヤードに移しながら考えた。
これはチャンスなのかもしれないって――。
だって、ゾンビになってしまえば、死んでしまえば、すべてゼロだ。
私は、いままで虐げられてきたっていう被害者意識が強くて、マイナススタートだったんだから、マイナスがゼロになるだけでももうけもの。
正直なところ、みんなが私と同じように不幸になるなら、私の不幸や怨みや辛みが伝わるのなら、悪くないって思ったね。
そういった負の精神でつながることができるなら、いままで社会の外に置かれていた私も、ようやく社会の一員になれると思ったから。
だから――、だからなんだよ。
☆=
「だからって何がですか?」
と、ボクは手首をすりすりしながら聞いた。
ロープは既にはずされているけど、ちょっと痛い。
どうしてボクに変なことしたのって聞いただけで――なっげーわ。
いきなりペラペラとしゃべりだして、本当もうわけわかんないよ!
「だから、うん。つまり、私はね……いままで不可侵だったカワイイモノに手を出したいと思ったんだ」
うん? ん??
「ぶっちゃけ、せっかく世界も崩壊したことだし、小学生女児とセックスしたいって思ったんだ」
最後の最後に、今までの哲学的思考をぶち壊しちゃってるよ!
ていうか、結局そこかよ!
「あの……」
「なんだい。緋色ちゃん」
「控えめに言って最低です……」
「控えめに言わなかったら?」
「ロリコンは死んだほうがいいと思います」
「ですよねー。あ、いまの目好き。かわいい。その蔑んだゴミを見るような目。もっとして」
「真面目なのか不真面目なのかはっきりしてください」
「まあ、それはそうだよね……。正直、ゾンビだらけになって精神的に参っているんだ」
確かに憔悴しているように見えた。
食料品はたくさんあっても、周りがゾンビだらけで危険な状態だったら、気は休まらなかったのかもしれない。
ボクの足を舐めた件については、非常に遺憾の気持ちが強いけれども――、しかも真正のロリコンだけれども。
――飯田さんはその名前のとおりいい人なのかもしれない。
だって、いくらボクが人間だったと気づいたからって、こんな世界なら、そのままイケナイ事をし続けても、誰からも咎められる恐れはないわけだし。
ボクが泣いてたのに気づいて、すぐにやめてくれて、今も正座して、必死に言い訳をしているのを見ていると、そこまで憎むことはできなかった。
でも、足を舐めたことについては許さないけど。おへそを見たのもね!
「にしても、緋色ちゃんって容姿だけじゃなくて、名前もかわいいね」
「え、そうですか?」
むふん?
ゾンビにはできない褒めるという行為に、ボクはくすぐったさを感じていた。
容姿には絶対の自信がある。
もうそこらのアイドルなんて目じゃないレベルでかわいいし。
でも名前?
夜月緋色ってそんなにかわいいかな。
うーん。スカーレットちゃんがかわいい?
「名前がかわいいってよくわからないです」
「ほら、あれだよ」
「ん?」
「イニシャルがね」
「イニシャル。YとHがどうかしたんですか?」
夜月のYに。
緋色のH。
なにがかわいいんだろう。全然わからん。
やっぱりロリコンだからボクのことを口説いているのでは?
ボクは訝しんだ。
小首をこてんと傾げて疑問への答えを待っていると、飯田さんはニヤっと油っぽく笑う。
「ん。だって、イニシャルだと、わいえっちだからね」
「セクハラかよ!」
ボクは思わず叫んでいた。
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佐賀言語 わい
ゾンビとは関係ないが、プロゴルファー猿においては「わいは猿や。プロゴルファー猿や」で始まる。ここでいうところの『わい』とは私のことである。しかしながら、佐賀方面あるいは九州北部地方における「わい」とは、あなたのことである。これめっちゃ混乱するから気をつけてね。しかし、他人のことを「わい」と呼ぶのは、かなりぶしつけで、基本的にはかなり気を置けない友人どうしなどの場合に限られる。ニュアンス的には「おまえ」に近い。もしも旅行などで佐賀などに訪れたときにいきなり「わいどっからきたとや」みたいな言い方はたぶんほとんどしないと思われる。
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☆=
「えっちなのはいけないと思いますし、えっちぃのは嫌いです」
「おお。ダブルインカム」
「意味不明です」
「しかし、緋色ちゃんってどうやってここまで来たの。ゾンビだらけで外は危ないよ」
「あー……」
そういや考えてなかった。
外を出るというのは比較的理由はつけやすい。
家族がゾンビになったとか、食糧がなくなったとか、そんな理由ならだれでも思いつくし、そんなに変じゃない。
でも、ここのあたりは細い道路も多くて、ゾンビにつかまりやすいのも確かだ。
まさかゾンビに襲われないなんて言えるはずもない。
よくてワクチンできるまでモルモット。下手すりゃ解剖だろうし……。
ボクがぐるぐると悩んでいると、飯田さんはなんだか勝手に納得して、うんうんとうなずいていた。
「なるほどつらかったね」
いや、つらいどころかワクワク遠足気分だったんですが……。
なんてことは言えるはずもない。
ハグしようとしてきたので、とりあえず遠慮しておいた。
目に見えて落ちこむ飯田さん。いい年した大人が涙目にならなくてもいいじゃない。
「そういえば、さっきの話なんですけど」
「ん、なんだい?」
「おじさんが、小学生と……、そのえっちなことをしたいって話です」
「おおう。小学生女児から、そんなことを言われると、な、なんか興奮するな」
無視だ。無視。ちょっと甘やかすとすぐ調子にのるタイプだな。
「あのですね。ボクが聞きたいのは、どうしてゾンビなのかなってことなんですけど」
「うん?」
「どうして、生身の生きてる小学生女児を探さないで、ゾンビを捕獲しようと思ったんです?」
「あー、それはやっぱり怖かったからな」
「なにがです?」
「他人が怖かったから」
「ボクのことも怖い?」
「うん。怖い」
蔑んでとか言ってるくせに、本当はその存在を認めてほしいらしい。
なんて、わがままで、ボクとちょっと似てるなって思った。
だから――、
「おじさん。さっき、どうやってここまで来たのかって聞いたよね」
「うん。そうだね」
「あれ、ゾンビのふりをしてきたんだよ。ゾンビのふりをしたら襲われないんだ」
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ゾンビのふり
ゾンビのふりをしてゾンビ避けをする作品も存在する。
『ショーン・オブ・ザ・デッド』及び『ウォーキングデッド』などである。
基本的なやり方はゾンビ肉をベタベタと身体に塗ったくって臭いを消すという方法。
当然のことながら猛烈な異臭に包まれ、着ている服は血まみれになる。
大丈夫。すぐ慣れます……。
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感想のパワーってすげー。
出先でも書けちゃった。