日の落ちかかった頃。西日に照らされるこじんまりとした庵に主客があった。
茶事の後座の床である。
囲炉裏でお茶を点てる亭主は、難儀そうな風貌を漂わせる老婆。
清秋院蘭。四家・清秋院家の現当主であり──そして清秋院恵那の祖母である。
在野の呪術師たち『民』はもとより国家機関に属する正史編纂委員会を始めとした『官』も無視できない武家の至上たる烈女は、眼前に座る客人へと深々と頭を下げた。
「帝都守護の要たるあなたが我が家のいくさに馳せ参じていただいたこと、まことに感謝しております。白虎殿」
頭を下げられた人物はこれまた厳格な達磨のごとき風体の男だった。
白虎の名を背負う剣客は、帝都最高位の剣士である。
白虎に封じられた名の通り中国の伝説を起源とする西方守護の神獣に間違いない。
四神相応の考えは古来より受け継がれ現代にもその名残を残す。東京にも虎ノ門があるが、これは白虎に由来する。
西夷からの守護を担う。
それが白虎という地位にある者の役目。
「……いえ。何程のことでは……」
眉間に皺をよせて白虎は答えた。
帝都守護の要たる剣客は、普段では考えられないほど肩を落とし、その筋骨逞しい身体が小さく見える。
「無力でございます」
ぽつりと白虎がこぼした。
「白虎と呼ばれ、江南の羅濠教主と剣にて並ぶと称されながら、拙者は無力。この動乱に揺れる列島で剣の一振もできず右往左往するばかりとは……」
「良いのです。その慚愧は武門にありながら何の手も出せない我が家も同心するところ」
褐色の渋い茶入りに活けられた白桔梗と唐糸草が垂れ下げられた茶室に沈黙がおとずれ、やがて静寂をやぶったのは清秋院蘭だった。
「鹿島神宮より始まったいくさ──正史編纂委員会の言葉を借りるならば"聖秘儀"と申すこの戦いの機運はもはや留まることはないでしょう。関東の草薙護堂さまはすでにまつろわぬ神を三柱と従属神を一柱の討伐に成功し、赫々たる武功を樹てたと報告が届いております」
斉天大聖・孫悟空。天満大自在天。平将門。マウイ。この一ヶ月で日本のカンピオーネ・草薙護堂によって討伐された神々だ。
であればこそ、白虎や蘭をはじめとした国家の守護者を自認するものたちの胸中には忸怩たるものがある。
「草薙王が事態収束へ立ちながら、未だ混迷の事態から抜け出す兆候がないとは……! それでいながら我らは木偶の坊のごとく事態を見守る他ないとは! なんたる不甲斐なさでありましょうや!」
「白虎殿。どうか心安らかに。我らには我らそれぞれのお役目があります。それに、この時期に帝都を離れる意味合いを知らぬほど老いたつもりもありません」
白虎の嘆きに老婆が慰めの言葉をかけた。
空前絶後の異変に見舞われるこの国で、正史編纂委員会どころか日本呪術界において最高戦力『太刀の媛巫女』とそれに次ぐ一角である撃剣会『白虎』を駆り出すという意味。
これが分からないほど二人は愚かではないし、覚悟が足りないわけでもなかった。
普段であれば厳格な二人が慨嘆や慰めを放言することなどありえない。
だが列島をおおう分厚い暗雲が、彼らの心を病ませた。
通常、まつろわぬ神はほとんど地上には現れない。日本ではここ四百年で大地につらなるまつろわぬ神が三度しか出現していないことからもその希少さがうかがえる。空想の世界と現実を隔てる壁はそうそう破れるものではないのだ。
だというのに昨今の日本列島を取り巻く情勢は異常を通り越して"怪奇"としか言えない。
外つ国の同業者たちからは"魔界"であると揶揄されるほどまつろわぬ神々の遊び場と化していた。
「ですからわれら、いえ、わたしが
「やはり
事態終息の目処が立たないこの状況。息詰まる状況のなかで、清秋院蘭と白虎が耳を貸したのは悪魔のささやき声だった。
その者は言った。
"力を貸せばお前たちの名誉は取り戻せるだろう"と。
「ですが。ですが、あの娘に何も知らせず死地へと送り込むのはやはり厳しい。いまだ何も知らぬまま普段の修行と思い励んでおるのでしょう」
「構いません。常在戦場こそ我が家の習わし。アレもまた戦人の心得を存じています、いつ何時死のうとも覚悟はありましょう。死ねば、そこまで。死してなお御霊となって御国をお守りする守護神となるでしょう」
冷酷さを隠さない老女に、その企ての片棒を担いでいる白虎は眼を伏せた。
「そして、お役目が果たせぬならばアレともども我が清秋院は滅びるべし。そこに何の疑問も挟む余地もありません」
四家・清秋院。
数多ある呪力を以って家を繋ぐ名家家柄のなかで傑出した力をもつ清秋院。
だが、力があるからだけで尊ばれるのではない。彼らは尋常ではない覚悟でもって帝に仕え、国家鎮護にその身を費やすがゆえに至高として尊ばれるのだ。
苛烈すぎる覚悟。万人が万人、気圧されてしまう決意。
だが。
その迫力に晒されようと白虎は渋面を崩すことはなかった。
「されど此度の御当主の秘密主義は度が過ぎていらっしゃる!」
正座する膝上を強く叩いて、高い音が鳴った。
「石上の滝壺に隠れた神刀を請け出すために何も知らせず送り込むだけに飽き足らず、あの年若い少年……。恵那よりもさらに幼い少年まで企てに嵌めるとは、さすがに諫言を申し上げる」
震える歯を食い縛って白虎は言い募った。
「拙者は所詮、棒振り。御当主ほど深謀遠慮があるはずもなし。されど人道に外れた振る舞いは慎むようお諌めいたす。あの子も何某かの企ての一片なのでしょう?」
白虎の強い語気に、どうしたことか?
冷厳とした態度をつづけていた老婆が視線を揺らした。
「──少年?」
「……おとぼけになられるか」
虎の唸るような声で唇を渋くした。
「拙者より二回りほど年少ながら、我が剣術を遥かに上回る少年。あれほどの逸材をどこの武家か大道場の子息から引っ張って来られたのですか? 香港陸家の御曹司にすら比肩を取らぬ神童など、帝都では聞いたことがありませぬ」
「…………」
「類を見ない火急の時とはいえ、あれほどの才を我らの都合で散らすのは……御当主?」
清秋院蘭は少しの間、眼を細めた。
突然降って湧いた巨大な謎を噛み砕くように、ゆっくりと。
七月のじっとりとした暑さだけではない汗が、老婆のピンと張った背筋を落ちていく。
「申し訳ありませんが白虎どの、先ほどのお話をもう一度詳しくお聞かせください。あなたの剣術を上回る少年といいましたが、どのように?」
「は? ……当然、立会いにて」
「立会い……ですか? 白虎どのと……? それは、竹刀か模擬刀で? それとも真剣ですか」
「いえ。そこらに落ちている木棒でございました。かの伊太利亜の剣王が謳うように戦士は剣を選びませぬ。それを体現したかのごとき剣捌き。恥ずかしながら、勝ち目も見えぬほどの大敗でございました」
「……左様……ですか……」
ジッと瞑目を続けていた清秋院蘭は、やがて息を吐き問いを重ねた。
「その少年はいつから?」
「さて。恵那が三峯神社まで降りてきたという報が届き、参ったときにはもうあの娘の傍に侍っておりましたぞ。はじめは恵那をかどわかす不逞の輩かと怪しんでおりましたが……」
白虎はそこであり得ないと頭を振った。
「よくよく考えれば御山の奥深くに不逞の輩が入り込む余地もなし。ましてや行き倒れている訳もなし。それに立会って介しましたが、あの一直線な若者が人を騙すような性根ではありますまい」
キッパリと言い、そして老婆を睨んだ。
「ゆえに御当主が添え物と用意した子だと思い至りました」
「…………………………………………………………………………………………………………………………………」
視線にさらされようと老婆はしばし、物思いにふけるように眼を瞑り。
やがて口を開いた。
「三ヶ月ほど前に北欧のノルウェーで
思考をまとめるような言葉だった。
「ノルウェーに新たな神殺しが生まれ、その後かの地に現れたイランの女神アナーヒターの弑逆が確認されました。これにより八人目の神殺しの存在が確定。議論には一応の決着がつきましたが……」
囲炉裏の上で煮立つ茶釜に目線を落とす。
「英国の賢人議会は今でもはっきりとした答えを出していないはずです……。あの事件にはまだ謎があると。関与したのは、まつろわぬ神でも現状のカンピオーネでもない──第三者の介入の噂すらありました」
「御当主?」
「先日起こった日本海抗争でも不可解な点がいくつも報告されていたはず……。サーシャ・デヤンスタール・ヴォバンさまやアレクサンドル・ガスコインさまでもない権能の存在が確認された、と……」
今年の四月から坂を転げ落ちるように悪化する世界情勢……日本もその流れに押し流され、暗澹たる情勢にあるが、最初の事件がイタリアで神具ゴルゴネイオンが奪取されたことに始まる。
次いで起きた
まつろわぬ神とカンピオーネというグレートパワーの殴り合いに人間が入り込む隙間もなく、全貌の見えない事件の憶測を飛ばし合うのみ。
だが、清秋院蘭は清秋院家当主という当事者であり俯瞰できる立ち位置にもあるからこそ事件にひそむ大きな影に気づいた。
──黒曜のかがやきが生み出す影を。
「名は? その少年はなんと名乗ったのですか?」
「それは御当主のほうがよく知られているのでは? 木下祐一と名乗っておりましたが」
「──木下祐一!!!」
清秋院蘭が喉を咲かんばかりに叫んだ。
普段激しようとも狼狽など見せない老女の様子に、白虎は驚いたように口を呆けさせた。
老いさばらえても優美。至高の大和撫子たる清秋院蘭は激怒することはあっても平静を失うことをしない。
そんな武家の長がここまで取り乱す事態。
「失礼いたしました。ですが……。木下の、祐一ですか……」
反芻するように口にして頷く。
ふと、なんとなく活けた一輪の花。朝、庭先で摘んで茶入りに活けた白桔梗が目に入った。
「であれば、多少は納得ができます」
すらりとした星型の白き花弁を眺めて小さく零した。
「不可解なところは多くありますが……やはりあの子には武運、いえ……ツキがある……。巡り合わせと呼ぶ他ないものが……」
「いかがなされた御当主? 失礼ながら、さきほどから取り乱しておられるが」
「いえ、お気になさらず。御無礼、どうかお許しください」
「重ねて」と蘭は老婆は手のひらを畳につけ頭を垂れた。
「白虎どののおっしゃりよう、誠に不徳のいたすところ。ご心象を悪くされたのであれば深謝いたします」
垂れた頭をあげた時にはもう、いつもの様な巌のごとき無が湛えられていた。謝意もあるが動揺をこれ以上気取られたくないという美意識の賜物だろう。
「恵那はまだ下山を許可しないとの話でしたね。いますぐ人をやって──」
『──おいおい。オレのやることにケチをつけんじゃねえよ』
呼び鈴を鳴らし、老婆が立ち上がろうとした瞬間。
天上から烈風の形をした神威がふってきた。
帝都の四神に封じられる剣客、白虎の判断は素早くそして正確だった。瞬きもくれず清秋院蘭を小脇に抱えると、庵の障子を一閃。
そのまま障害を蹴飛ばしたとことで……小屋が爆砕した。
「このような仕儀、なにゆえですか御老公!」
奇襲してきた下手人。すぐさま当たりがついた。
清秋院蘭は赫怒の声を張り上げて、空を見上げた。目線の先にはとぐろを巻いて蟠る黒雲があった。
人でも、神獣でも、神祖でもない。まつろわぬ神の気配。
『テメェが妙な気を起こしたからよ』
人など視界に入らぬ天上の神。なれど一度視界入れば心など容易く見通すまつろわぬ神は尊大さに見合う威厳を示した。
『地上で悪さをしてる聞かん坊どもを倒すために恵那を捧げる。そいつはお前も承知のはずだぜ? ハン! 定命の人間がちょっと前に神と交わした約定を違えるもんじゃねえよ』
雲上の暴風神は荒々しく人間に無慈悲な言葉を告げた。
『恵那はもともとオレの巫女だ。それを今更やいのやいのと出し渋るつもりか? ええ? お前たちはオレの神威を通じて娘っ子一人分の利益を享受してきただろうが』
轟。
鉄槌のごとき風が老婆の肉体を打ち据え、神罰を下す。白虎すら反応不可能な風は、老女を強かに打ち、整えれた御髪を蓬髪に変えるほどの威力が籠っていた。
痛みに悶絶する蘭を笑いながら神はつづけた。
『殺しゃしねぇよ。テメェはオレの裁定に不服を立てた罪を償わねぇとな。そのボロボロの身なりで事態を指を咥えて見守るこった』
この暴風神はただの神ではない。
正史編纂委員会や委員会の前身となる組織のころから暗躍を続けてきた、日本呪術界の最も深き深淵にひそむもの。
『ははは! おもしれぇ……今度の神殺しはえらく仕上がったやつだ。智慧の剣を奪い取りながら剣を奪われた……いや、
御老公という肩書きで呼ばれていた須佐の老神は嵐とともに吠えた。
『ぐはは。永劫に流浪する
輝かしい少年に焦がれる老人とも捉えかねない言葉。ああ、しかし。跳ねっ返りの若造は嫌いではない。神殺しなんぞという桁違いの悪童ならば尚更だ。
その膝を折り、這いつくばらせるのも、老いた者の役目だろう。
風。風。風。
暴風が秩父一帯で渦を巻き、梅雨の黒南風が邪気を運ぶ。風は病を運び、嵐を運び、厄災を運ぶ。
彼の神性は非常に多彩だ。
日本神話最大の英雄の顔。暴風をもたらす荒ぶる神。根の国の主。来訪神。疫病を流行らせる厄災。和歌を最初に謳った文化英雄。
時には皇祖たる太陽神を隠れさせ、時には母を求めて泣き叫ぶ。百貌の仮面をかぶる彼はまさしく日本最大のトリックスター。
──名を
カンピカテ賑わってるから書くのやめてぇ
読み専になりたい……