太平洋戦争を間近に控えた帝都・東京。若き警察官である北条修は、幼いころに魔術を教えられた魔術使いだったが、一般人としての生活を送っていた。これは、そんな彼が魔術師たちの争い「聖杯戦争」に巻き込まれるきっかけになった、ある夜の出来事。

※コンプティーク連載「コハエースEX」9月号で登場した桜セイバーと、11月号で披露された「帝都聖杯奇譚」に心動かされ、設定をお借りして(ほとんど出てきませんが…)オリジナル主人公を据えたプロローグのようなものを書いてみました。
公式での展開が不明のため、現状続きを投稿する予定はありません。
初のSSですが、ご感想いただければと思います。

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銀座、9月6日

 風のない夜のことである。

 和光の時計台が几帳面な直角を指さしたころ、一人の青年が晴海通りをまっすぐ日比谷公園の方角へと歩いていた。

 酒の匂いがする。

 が、足取りは確かである。

 濃厚な酒と煙草の臭いを漂わせながら、彼の意識は実に明晰である。

 もうひとつ付け加えると、むかっ腹をたてている。

 事情はこうだ。彼の実家の親戚が遠く鹿児島から商売のため上京するというので、忙しい勤務の合間になんとか都合をつけて出迎えに行った。ところが生憎夕方からの雨で、宿に降り込められてしまった。軽く東京見物のつもりが出鼻をくじかれ、積もる話も白けてしまう。これではいかん、と先方がどこかに電話をかけたかと思ったら、あっという間に同じ郷里の古馴染みが4、5人集まってきて、即席の酒宴が張られたのである。

 間の悪いことに、彼は勤務先から制服のまま駆けつけてしまった。肩章に金ボタンつきの詰め襟姿で酩酊しているところを見つかりでもしたら、よくて訓戒、悪くて懲戒である。同席の男たちはそれに心遣いして ― もちろん堅物の若者をからかう気持ちも混じって ― 宿には煎茶を用意させ、彼に酒を回さぬよう実によく気をつけた。そうしてついに彼の喉には一滴のアルコールも通らなかったのである。

 断っておくと、彼は野卑な酒宴に引き出されたことに対して立腹しているのではない。目の前でもう一杯もう一杯と贅沢に重ねられていく酒器、赤ら顔で上機嫌に笑う昔馴染みたち、その酒楽を素面で見ているしかなかったことが腹立たしいのである。

 要するに、彼も呑みたかったのだ。

 (こっちが半日非番をとるためにどれだけ苦労したか。それも知らないで、制服を見たら悲鳴を上げて、わざとらしく平伏などしやがって…。そもそも向こうから俺に東京案内をしろなんて言ったくせに、雨がやんだ時にはとっくにぐでんぐでんだ。しかもだ、勤務中の巡査殿が酩酊されては申し訳ない、こいつは申し訳ないことをしたと、ちえっ、したり顔でぬかしやがる。しまいには警視庁総監殿にかんぱあい!などといいながら、俺に白湯入りのお猪口を渡したな。まったく、馬鹿にしているぜ)

 腹の中ではこのように絶え間なく毒づいているが、実のところ彼は結構ゆかいな心持ちだった。

 昨今の東京は陰気である。帝都は数年前の二・二六の衝撃から、まだ立ち直っていない。特に政治家・軍人の身辺警護に気を使うさまは、ちょっと神経衰弱を疑ってしまうほどだ。

(なので少しでも奸臣だ、弱腰だのと攻撃されただけでたちまち辞任してしまう。無理もないことだが。平和に暮らしているところへ兵隊が乗り込んできて、ズドンとやられてあの世行きは誰だってありがたくないさ)

 実際、何人かは神経をやられているだろうなと若い巡査は思っている。別にお偉方に限った話ではない。アカはもう大部分が掃討されたらしいが、未だに特高は不審人物の通報をしつこく呼びかけている。外国人を見ればスパイと思えというのは、別に最近に限った風潮ではない。おまけに景気は良くならない。戸別調査をしていると、みんな二言目には先行きが不安だ、世運が悪い、といった泣き言をのべたてる。

(俺に言われたって、仕方がないんだがなあ。もちろん言って楽になるならいくらでも聞くが。結局、それしかできないのだからな)

 彼のような、派出所勤めの一巡査に何が出来ただろう。彼は中等学校もちゃんと出ていないのだ。政治のことも、戦争のことも、何一つ物申せるはずがない。ただ、黙って相手の話を聞くのは得意である。だからひたすらに聞いてやる。それでも日ごと浴びせられる世情の不満と不安は、澱のように溜まっていく。

 なので今日のような乱痴気騒ぎは丁度よい気晴らしだった。酔いこそしていないが、胸の内は軽い。大股でズンズンと足取りも威勢がいい。ちょっと兵隊のようだな、と思って途中で歩幅を緩めた。幸い人目は稀である。大通りから外れて住宅街の中に足を踏み入れると、もうほとんど往来に出歩いている人はいなかった。

 風のない夜である。夕立は思いのほかの大降りで、日が落ちた今になっても、まだ地面が湿っている。革靴の裏側から、雨に洗われてざらつく地面の感触が伝わってくる。板塀のある家の角を曲がる際、製材されていない柱の表面が室内の明かりを受けてテカテカと光っているのが目に入った。水分を吸った木造家屋の匂いが通りにたちこめて、街だけでなく自分の身体もずぶ濡れになったかのように感じられる。そんな町並みのさらに上、ぼんやりと浮かぶ黒い影は、宮城の森だろう。半月に照らされてやや紫がかった夜空を背負った森の影はそよとも動かず、底知れぬ黒さを満々と湛えていた。

 さながら子熊を天敵から守るために身をちぢこまらせた母熊か。

 ひたひたと迫る民衆の営みから、己の内側に御座する城を庇っているのか。

 森はひたすらに無言で鎮座し、仰ぎ見る者を沈黙で叱責する。

 眠りにつこうとしている人家のささやかな気配は、その黒々とした図体に呑み込まれ、森と同じように、しん、としていた。

 青年の浮き立った気持ちも、黒い森を眺めているうちに、しん、と静まりかえっていた。先ほどまでの悪態も舌打ちも、どこかに身を潜めてしまったらしい。青年は宮城の影と向き合い、お互い腹の底まで沈黙したまま、とぼとぼと人気のない民家の間を通り過ぎて行った。

(ああいうのが、昔は鬼や妖怪に見えたんだろうなあ)

 気を紛らわそうとのんきなことを考えたその時である。

 ズン、という衝撃で、体が大きく揺れた。

 とっさにその場にかがみこんだ。地面に伏せ、片膝を立てて、次にくる振動に備える。低い姿勢のまま見上げると、両側の家屋根には今にも滑り落ちそうな瓦の輪郭が浮かんでいる。心臓がどくんと一突き大きくはねた。

 が、次の衝撃はこなかった。滑り落ちかけた瓦は微動だにせず、電柱も身震い一つしていない。軒下に立て掛けられた箒とちりとりも何くわぬ顔。空に張り巡らされた電線の揺れる音も聞こえない。いつまで待っても、寝静まった家の中から誰かが起きだしてくる気配どころか、ざわめく住人の声もしなかった。

 町は元通り静まりかえっている。

 宮城の森も、変わらぬ沈黙を保っている。

 つい数分前とまるで違いはない。

(はて、気のせいか。それとも自分では気づかずに酔っているのか?)

 ゆっくりと立ち上がる。確かに、普段よりも頭がぼうっとしているかもしれない。

 しかしふくら脛は強くひきつったままだし、とっさに地面をつかんだ右手には、爪の中まで小石の入った感触がある。耳の奥まで響いた重い音も、かなり鮮明に思い出すことが出来た。

(夢を見たにしては重すぎる。狐に化かされたにしては、鮮やかすぎる。周りを見たところは何事もないが、確認するにこしたことはない)

 そう決めると、若い巡査はいつもの癖で左の腰に拳で触れた。勤務中そこにはサーベルが吊るされているのだが、当然非番中の今は何も無い。それでも、冷たくザラついた金属の触り心地を想起することで、頭は市民の余裕から警察の出様へと切り替わる。

(地震ではなく何者かのたてた音だというのなら、それほど遠くはないはずだ)

 夜は深い。若い巡査は辺りに気を配りながら歩き出した。そのまま5、6歩直進したところで、彼の張り詰めた感覚はすぐに異常に気がつく。

 まだ秋のはじめだというのに、異様な寒気が流れてきた。氷そのものと言っていいほどの冷たさがピリッ、ピリッと顔の表面に突き刺さる。年明けの、珍しく雪でも降りそうな日にはよく経験する寒さだ。年の暮れと呼ぶにも早いこの時期には珍しい。早く家に帰って、冬 支度を始めたほうがいいだろう―

 だがこの青年は、降り注ぐ冷気に一定の意図があることを見定めることが出来た。

(ははあ、人払いの呪いか。そうすると、厄介なものに出会ったな。この先にいるのは魔術師か)

 魔術師。

 魔の術使い。この世ならざる技を操る者たち。世界の神秘に干渉する者たち。そして、人としての幸せを捨て、己の存在と技の秘匿を最も重視する者たち。

 20世紀に入って40年は経とうとしている。まだまだ迷信や俗信の類は身近だが、飛行機に乗らずとも空を飛べたり、枯れた木に花を咲かせる技を持っている人間が存在すると触れ歩いても、まともに相手にしてもらえる可能性はきわめて低い。

 魔術師たち本人も、自分たちが何百年という月日を積み重ねて得た秘技が、いずれ科学に追い越されてしまうことを感づいている。

 感づいたからこそ、ますます自衛に務めるようになった。もはや彼らは自分たち魔術師という存在そのものを、幽霊や妖怪と同等の『いるかいないのか分からない』というヴェールでつつみ隠すようになった。

 もし自分の魔術を世のため人のために使おうと奮起した魔術師がいたとしても、人道的動機に溢れる彼の存在は、世間や研究所よりも先に彼の同胞たちによって抹殺されるだろう。

 汝、隠匿すべし。

 これが魔術師たちをしばる不文律である。

 青年はそれを知っているからこそ、蓑虫のように隠れたがりの彼らに対する、最も適切な対処法も理解していた。

(要するに関わらないことだ)

 青年はそんな考えを持っている。

(しかし、魔術師がこんな街中で何かいざこざを起こしているんだとしたら ― 俺の職務としても捨ておいちゃいけない)

 そうは思いつつも、逡巡した。

 魔術師が自分の住処ではなく街中で何かをしている。人払いの術という小技を使ってまで、人前に出る必要があることをしている。正直その先は想像したくないのだが…もし先方が秘奥すべきと考えている何かを目にしてしまえば、間違いなく青年の生命はない。そして専門の魔術師に狙われたら最後、逃げ切ることなど不可能だろう。

(どうする)

 まだ、非合法的行為を目撃したわけではない。

 自分が見た ― いや、聞いたのは、大きな衝撃音だけ。それも自分以外の誰かが気づいた様子もない。ここいらの住人の全員が全員のんきにしていたとしても、一人くらい異常がないことを確かめに出てきてもいいだろうに、往来に立っているは自分だけだ。

 そう気づくと、異常を察知したという確信もうなだれ、奮い立った職業的責任感も鈍ってくる。

(…どうする)

 途方に暮れて、目の前の町並みを見やった。町は、彼が平和な気分で歩いていた時とまったく変わらぬ佇まいで、夜の帳のなか穏やかに寝入っているように見えた。

( ― 待て。あれは何だ?)

 敏感になった青年の眼差しは、その異常に気がつく。

 通りを2本ほど越えたところ、密集した軒屋根が、茫とした明かりに浮かび上がってくる。その明かりに照らされて、靄のような、煙のようなガスが、屋根の上を舐めるように流れていくのだ。

(火事か!?)

 先ほどまでの躊躇いはどこへやら、青年は一目散に不思議な明かりの方へ駆けていく。

 だが走りながらも、すぐ様子が違うことに気づいた。木材が火で爆ぜる音も、焦げ付いた灰の匂いもしない。おまけに煙を映し出している明かりは、赤々とした炎のそれとはまるで違う。鈍い光、太陽に照らされたコガネ虫のような、ぬめりのある輝きだ。そして謎の霧に近づくにつれ青年は、もはや間違えようのないほど明らかな魔力の流れを感じ取った。

 形の定まらない、けれどはっきりした魔力の流れ。死の臭いとも呼びたいほどの邪な気配。思わず悪寒が身体を走る。

 路地の深みにはまりこんで、青年は立ち止まった。

 行く手からは、怪しげな燐光を放つ霧が川のように流れ込んでいた。風もほとんどないというのに、しずしずと着実に打ち寄せてくる。さながら生命をもった波しぶきのよう。柔らかな突進の様子は、のたくる蛇身を思わせた。

(この先か。主を見つけるには、突っ込むしかなさそうだな)

 ここまで悪質なものを、夜半とはいえ堂々と垂れ流されては放っておけない。正体は掴めないとはいえ、謎の霧から発せられる悪意だけは疑いようもなかった。せめて、すでに霧に侵食された家の住人の身に何がおこっているのか確かめなければ。もし霧の主と向かい合ってしまったときは…ままよ、いざとなれば自分の立場を笠に追い込むつもりだ。

 青年は左手の白手袋をつまんで脱ぎ捨てポッケに突っこむと、人よりも太めの指先に慎重に力を込めた。

(―起動(回れ)

 もとより戦うつもりはない。それでも準備はしておかなければならない。

 4つの指それぞれにはしる擬似神経がうっすらと光を放つ。その小さな通り道を通じて、大気中に含まれている架空の物質が、針金をつたう電流のように取り込まれはじめる。

 回路に異常はない。それを確かめて、青年は茫漠と広がる霧に歩み寄った。踏みこんだ途端、煙が顔面に吹きつけられたような悪寒に襲われる。こらえきれずにえづいた。

(思ったよりもきついな、こりゃ)

 煙の中は異様な匂いで充満していた。未知の匂いではない。どこか、普段滅多と行かない場所で出会った覚えがある。香のたきしめた寺の中か、取り壊される前の土蔵か、校舎の裏山にあったお堂の祭壇か。本当にあったような、今創り上げたような思い出が蘇る。それでも、身を浸してみて確信する。この霧を生み出しているのは、底なしの悪意だ。とても1人や2人の人間では間に合わないような―

 口元をしっかりと手で覆い、ゆっくりと進んでいった。前進すればするほど視界が悪くなる。五感はこれ以上ないほど敏感になっているが、誰かの声も足音も聞こえない。両側の民家からもだ。青年はますます焦りをつのらせ、一歩一歩、入り組んだ路地を進んでいく。

 鄙びた小庭が見える門口を過ぎてようやく、人間のようなものが見えた。だが青年が予想していたような、害意をみなぎらせて立ちふさがる霧の操り手ではない。その人物はまとわりつく霧を避けるかのように、力なく路上にうずくまっていた。

(民間人か?それとも…)青年は警戒を緩めずに足を止め、霧を透かして様子を窺う。

 頭を覆う白髪から見て、相当な歳の老人のようだった。背中が絶え間なく大きく上下している。彼は前に放り出した右腕で地面をまさぐっていたが、ぐっと拳を固めると、それを支えにずりずりと這い進んだ。左腕はだらりと引きずられている。男はなおも這いつくばり、前へ進もうとする。彼が這いつくばった後の地面には、妙な黒い影が残っていた。

 不意に青年は、男がいかなる状況にあるかを理解した。霧のことも忘れて、思わず息を呑んだ。途端に大きくむせる。

(えいっ、いまいましい奴め!)

 左手の魔術回路が光を放つ。

(あっちへ、行けっ!)

 できる限り遠く、路地のつきあたりまで視界におさめながら、大きく振りかぶった左手で前方をはらう。一時的に貯まった魔力が勢いよく空中に放出される。

 架空の風にあおられ、漂う霧は散解していく。なんとか倒れた男の頭上まで風は届いた。

 青年はすぐさま突進する。

 男は地面に這いつくばったまま、顔を上げる。上空高く飛ばされた霧の燐光が、彼の姿を照らしだしている。掻き上げられた白髪に、口元の見事な白髭。恰幅のいい上半身を覆う地厚の服は、特徴的なカーキ色だった。整えられた肩先には、太い金紐で編み込まれた肩章と紐章が揺れている。これほどいかめしい装束を身につけることが許されているのは、ただ一つの階層に属する人間でなければありえない。

 帝国陸軍軍属将校服。

 老人が所属する組織の栄光と権威を示す軍服は、今や、肩口にざっくりと口を開ける傷口から流れ出す血潮で、みるみる血染めに染め上げられつつあった。

 若い巡査は近寄り、老人の傍らにひざまずいた。

 傷はただの一撃で、深々と肩から胸元まで貫通している。おそらくは骨まで達しているのであろう、肩章も房飾りも無残な姿だ。その一撃は骨を砕き、筋を裂き、胸の奥まで貫いて、― 老人の苦しげな吐息を見たところ、肺まで届いたようだ。青年は老人の生命が風前の灯にあることを確信する。

「ご老人!分かりますか…聞こえますか」

 傷ついた体に触るのは避け、大きな声で呼びかける。

 青年を仰ぐ老人は何か口にしようとするが、ごぼごぼと咳き込むばかりで言葉にならない。口元は吐き出された血で真っ赤だった。青年は懐を探って白巾を取り出し、血と泡と泥まみれになった唇のまわりを拭った。そして、もう一つの惨状に気づく。

 老人の左腕、地面に引きずられていた左腕は、肘の少し下でざっくりと切断されていた。傷口から先は、文字通り皮一枚でつながっているのだ。もう骨もつながっていない手先が、かろうじて本体にしがみついている。皮と皮の今にも千切れそうな繋ぎ目を見て、若い巡査の口元はこらえきれず大きく歪んだ。

「アァ、ア」

 老人が右腕をばたつかせた。口の端にたまった血痰が流れ落ちる。青年を見上げる目は今にも飛び出さんばかり、色素を失った眼球をは、巡査の姿が見えているのかどうかさえ定かではない。

「待ってください、今」

 青年は助け起こそうとして、老人の右脇に腕を差し入れようとする。

「チ、ちが、違う」

 老人は激しく身をよじって彼から逃れようとする。

「運びます、近くの家に頼んで―」

「ダメだ」老人はハッキリと拒絶した。「駄目だ」

 思いもよらず力強い言葉をかけられて、若い巡査は力を抜いた。

「キ、君」老人は健在の右腕を伸ばすと、目の前にある青年の左手を掴んだ。無骨な手の中で、起動されたままの回路が淡く輝いている。

 ―青年は自分の失態に舌打ちする。予想外のけが人を前にして、つい、普段通りに振る舞ってしまった。魔術回路を見られた以上、魔術師であることをごまかすことはできない。あの場にいたのだ、彼もまた魔術師だと考えるのが自然だろう。いや、そもそも、この老人があの霧を放った犯人なのではないか?

「た、頼みが、ある」

 だが老人は必死な眼差しで、青年の左手をしっかと掴んで離さない。あまりの力につい上背が傾く。

「あ、預かり物を、して欲しい」老人は苦しい息の下で言った。「こんな、幸運な、ことは…か、回路を持つ、人間が。もう、私も、もたな…ど、どうか」

 ヒューヒューと酸素が漏れだす音がする。若い巡査は、去来した余計な勘案を頭のなかで握りつぶした。確かにこの男は魔術師かもしれない、それでも今は、自分しか手を差し伸べてやれない、死の淵に立たされている人間だ。最後の生命をふりしぼっての行為を無下にするなど、それこそ人としてあるべき姿ではない。

「分かりました。自分にできることでしたらお助けします。ですが何を、―っ!?」

 青年が承諾の意思を表示したのとほぼ同時だった。

 左手にひきつったような痛みがはしる。見ると肌が奇妙な形に割れ、中から赤い輝きがしみ出してくる。数秒とたたぬうちに、手の甲に奇妙な模様が浮かび上がった。

「何をする!?」

 咄嗟の痛みに、つい老人の手を振り払う。左手の甲の模様は毒々しい光を放ち、徐々に薄れていった。皮膚には赤い刺青が残る。思わず、地面に這いつくばったままの老人に警戒の眼差しを向けた。けれど老人の顔つきは変わらない。喘ぎ声の下から、奇妙な言葉が漏れる。

「…()()()()

「はい?」

 聴き取れずに、聞き返した。

 と、老人の呼びかけに応じるかのように、青年の背後からまばゆい輝きが放たれた。

 振り返るとそこには ― 青年と老人以外誰もいなかったはずの路地に、何者か、人の姿が立ち現れつつあった。

 白くまばゆい輝き。夜空の星が全て一点に集まれば、このような光になるだろうか。輝きの結集とともに綺羅綺羅しい音が響き、すぐに消えた。その場には、空中からまったく忽然と、正真正銘の神秘だけに許される清澄な明るさに包まれて、一人の少女が降り立った。

 怪異が連続する晩に、ようやく訪れた本物の奇跡。

 死の香りを漂わせていた霧はいつの間にか姿を消し、押し迫る冬の凍てつく大気は、彼女が身にまとう張り詰めた霊気と共鳴し、いっそうその鋭さを尖らせる。

 まず何よりも、ひときわ白い顔色が目を引いた。同じく色素の薄い髪の毛は月の光に透けて、金にも銀にも見える。その髪をごくあっさりと束ねる黒いリボン。顔立ちは華奢とも弱々しいとも感じる容貌だが、ややツリ目がちの目端には、有無を言わせぬ意思の強さをたたえている。そんな華やいだ面立ちとは裏腹に、身にまとう着物は、襦袢から袴まで、烏のような黒ずくめである。わずかな刺繍もない漆黒の出で立ちは固く、暗く、少女の体つきを覆い隠していた。白い手元にはやはり黒の籠手が見え隠れしている。どれも彼女のような年頃の娘には似つかわしくない出で立ちであるにもかかわらず、すべてが元から少女の一部だったかのように馴染んでいた。

 袴姿の出で立ちはまるで剣道家か、あるいは剣士か。

 まなざしは鋭く、明るく、透き通っている。

 背丈は年並みであろうに、長身の大男に見下ろされているかのようだ。

「・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・」

 時計の秒針は一振り二振り揺れた程度だったか。

 あまりにも考慮の埒外な出来事に、青年はただの一言も発することが出来ない。

 少女はじっと沈黙して、()()の命令を待っている。

「セイバー…最後の命令だ」

 これまでの彼女の主人が、命令を下す。なおもはげしく咳き込み、血飛沫を飛ばす。

 セイバーと呼ばれた少女は静かな面持ちのまま、血の中でもがく老人に視線を注ぐ。伏し目がちに見えるのは、あといくばくもない老人の余命を悲しんでいるのか、もとからそういう顔つきなのか。今会ったばかりの青年にはもとより判断がつかない。

「この男と…いきなさい。浅原のところへ、へ…事情を、話して…お詫びを…」

「ご老人!」

 大きくつっ伏した老人の頭を支えようと、青年は手を差し伸べる。

 最後の力を振り絞って、老人は見知らぬ青年の手を掴む。つい先ほど、奇妙な刻印が刻まれた左手を。

「ご老人」青年は切羽詰まった声をかけた。「教えてください、俺は一体どうすれば」

「戦え」

 答えは簡潔、たったの一言。

「たたかうんだ、私の、代わりに…」

 続きはついに言葉にならなかった。

 

 額に滲んだ汗に吹きあたる冷気を感じて、青年はいつの間にか風が出てきたことに気づいた。

 足下にはこときれたばかりの遺体が一つ。

 地面に顔を突っ伏したままでおくのも忍びないので、ゆっくりと腕を差し入れて仰向かせる。すると、老人の生命を奪った太刀傷のむごたらしさがあらためて目に入った。胸までと思ったが、それすら貫いて、腰の近くにまで達している。直線に近い弧をえがく切り口からは、大上段から振り下ろされた力強い袈裟斬りの一太刀を思わせる。

(まるで、幕末の辻斬りだな)

 そう思った。銃撃での暗殺事件が相次いだ後では、妙な時代錯誤感は否めない。

(それならこの人は、志半ばで倒れた悲運の志士か。まるで似合っていないけれど)

 正直な感想である。人の良さそうな垂れ目に、ふさふさと蓄えられた白鬚からは、親切で穏やかな人柄ばかりが伺える。軍服すら似つかわしくないと言っていい。世が世なら、明るい庭先の縁側で、平和な余生を過ごしていたかもしれないのに。

『戦え』

 そう、殺気立った顔つきで言い残した。

(戦うって、一体誰と…?)

 恐る恐る振り向いた。

 謎の黒装束の少女は、先程よりも距離をつめてきていたが、かわらず感情の読み取れない顔つきでこちらを見つめていた。それでも青年が顔を向けると、応じるように視線を合わせてくる。

「あの、えっと…」

 可憐な顔つきに見つめられ、咄嗟に言葉が出てこない。もたつく自分がみっともなくて、思わず舌打ちが出そうになる。

「確か…()()()()というのが、君の名前なのか?」

 苦労して、老人が呼んでいた言葉を手繰る。

「はい」

 今度の返答はすみやかだった。抑えてはいるが、小鐘のように響きの深い声だ。

「君は…この老人の、身元を知っている?」

「はい」

 少女は少し顔をうなだれた。それを見て、青年の緊張もややほぐれる。直立不動では彫像のような近寄りがたさがあるが、しぐさには娘らしい柔らかさが感じられる。

 未だ正体は掴めないが、ひとまずは、若干歳が下の女性として接してもいいかもしれない。そう考えて、

「どこかに行け、と言っていたね。俺はそこに向かえばいいのかい」

「はい」

「それじゃあ、案内を頼むよ。少し待っててくれないか。このご老人をこのままにはしておけないから…」

 そう言って青年は遺骸に向き直る。

 すると少女が音もなく歩み寄り、青年の傍らにしゃがみ込んだ。まるで気配を感じさせない動作に、青年は薄ら寒さを禁じ得ない。そんな彼の動揺など気にもとめず、少女はじっと老人の死に顔に目を注いでいる。悲しんでいるのか、それとも何か別の感情か。少女と老人の関係を知りえない彼には推し計りようもない。ただ、その真っ直ぐな視線につられて、彼も老人の顔に目を落とした。

 生命はとうに旅だったというのに、表情は青年に最後の願いを訴えた時の形相そのままだった。これではあまりに見るに忍びない。、カッと見開かれた瞼を軽く何度か指先で押して、安らかな眠りの眼に変える。いつの間にか地面に落としていた白巾の汚れていない部分を探すと、口元の血泡をできるだけ拭きとった。それから顎をつかみ、だらしなく開かれた口を閉じる。

 老人は本来の人の良さそうな顔つきになった。これでようやく、戦いから解放されたのだ。

(馬鹿馬鹿しい)

 そんなことは生きている側の勝手な憶測だと、青年は思う。老人はつい先ほどまで生命にしがみつき、この世界で何かを成し遂げようとあがいていた。楽になろうと思えばいつでも出来ただろう。彼はそうしなかった。誰一人いない路地を這い進んで、絶望的な行軍を続けた。その結果が、あの歪んだ形相だったのだ。安逸を与えたのは生きている自分の勝手だ。

(眠ってほしいと思っているのは俺達かもな)

 亡者を彼岸へ押し込める儀式。勝手にさまよい出て、害をなさないように。

(俺も死んだらそうなるんだ)

 むしろ自分には死後の処置(弔い)を施してくれる人がいるのだから、ましだと思わなければならないのだろう。

 ―ふと、傍らの少女が身じろぎする。

「すまない、待たせて。すぐに…」

 立ち上がろうとした若者には構わずに、少女はすっと腕を上げ、袖口を下げて手首を伸ばした。

 黒い籠手をはめた両手を、指の腹を内側にぴったりと合わせる。

 揃えられた細い指先に額をひきつけて顔を下げ、やや切れ長の瞼を閉じる。

 清廉なる合掌。

 切々とした黙祷。

 これから始まる戦争の、最初の脱落者に捧げられた無垢の祈り。

 当然といえば当然の行為に虚をつかれ、青年は黙って彼女の儀礼に立ち会う。

 黙して祈りを捧げる黒装束の少女のほの白い顔は、曇りのない静けさをたたえていて、

 ― まるで夜深い海の水面に打ち捨てられた、月の(おもて)のようだと思った。


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