とても励みになります。
今回すごい長いです。
予めご了承ください。
放課後、英は普段ピアノを弾く『ハイランダー』棟の第5音楽室ではなく、各部活動の部室が揃う『フォックストロット』棟のクイズ研究部の部室にいた。部室の広さは、普段英たちが授業を受ける教室とほとんど変わらず、壁に向かってデスクトップパソコンが何台か設置されており、本棚には検定試験の本や、多くの雑学が載った本が並べられている。
その部室の中は今、緊迫した雰囲気に包まれていた。普段は規則正しく並べられている長机と椅子は、会議用に四角形に並べられている。英はその中で山河の隣に座っており、その山河は会議に参加する部員全員に聞こえるように話をしていた。
その話している内容は、来るサンダースフェスタでのクイズ研究部が主体となって行うイベントのクイズ大会『サンダース
昨日の夜に英は、電話で山河にその『サンダースQA』で行う特別コーナーの企画に協力することを伝えた。その電話の後で山河はすぐ、クイズ研究部の部長にその話を通し、部長は翌日の部活動で会議を開き審議すると返事をした。その際、そのピアノを弾く英も連れてきてほしいとも伝えた。その話をその日のうちに山河は英に伝え、さらに前に英に弾いてもらったピアノのデータを用意して、今現在開かれている会議に臨んだのだ。
「・・・・・・確かに、このピアノはとても上手い」
「そうですね・・・。プロの方が弾いたと言われても疑えません」
山河の持ってきた英のピアノの音声データを聴いて、部長のアイザックと言う男子と、副部長のニッキーと言う女子は大きく頷く。他の部員たちも同意見のようで、目を閉じて頷いていたり、小さく笑っていたりする。
部長のアイザック(苗字の
副部長のニッキー(苗字の
「如何でしょうか、アイザック部長、ニッキー副部長。今年の『サンダースQA』のコーナーは、彼に一任してもらえますでしょうか」
普段部活外で話をする山河からは想像もつかないような、冷静かつ丁寧な言葉に、隣に座る英は舌を巻く。先ほど企画の話をした時も思ったが、山河はこう言った緊迫した場でも物怖じせずに自分の意見を貫くことができるほど、冷静沈着だ。
「・・・・・・彼の意見に反対する者、あるいは別の案がある者は?」
アイザックが、部員全員に問いかけるが、部員たちは何も言わず、首を横に振る。それは見方を変えれば、他に打つ手がないということになるだろう。
「・・・・・・英君は、それでいいんだね?」
柔和な笑みを英に向けて浮かべるアイザック。見た目と言い話し方と言い、テンプレートな秀才のような感じがしてならないが、不思議と悪い気はしない。
そして英は、会議の内容を全て理解し、自分が頷けば全てが決まる。そして同時に、もはや後戻りはできなくなるということも分かっていた。
だが、自分が何のためにここに来て、なぜ山河の懇願を聞き入れたのかを考えれば、ここで断るのは本末転倒だ。それに、部員たちの顔には本当に他に道が無いから『英に全てを任せる』という気持ちが現れていて、余計断ることなどできなくなる。
「・・・はい。それで大丈夫です」
その英の返事の直後、会議室全体の空気が緩んだような気がした。部員たちの表情も安堵したかのようになる。
「では英君、よろしく頼む」
部長がそう締めて、会議は終了となった。それと同時に下校時刻を告げるベルが鳴って、部員たちはいそいそと机と椅子を元の位置に戻す。英ももちろんそれを手伝い、早く撤収することができるように協力する。
机を片付け終わると、部長が最後に号令をかけた。
「それでは皆。特別コーナーの内容も決まったから、明日からはまた忙しくなる。それでも頑張って一致団結して、サンダースフェスタを成功させよう!」
『はい!』
「終わったら皆でバーベキューで打ち上げだ!」
『YEAH!』
最後に部員たちの士気を上げるご褒美を告げて、部員たちは一気に盛り上がる。聞けば、アイザックはケイと同じく一戸建て住宅型の寮で生活しているため、庭でバーベキューを行うことができるらしい。それはともかく、やはり部長だからか部員たちを統べる統率力は持っているようだ。
号令が終わると解散になり、部員たちはそれぞれ荷物を持って帰路につく。英と山河もまた帰ろうとしたのだが、その前に英がアイザックから声をかけられた。
「ありがとう、英君。君が引き受けてくれたおかげで、今年も面白いコーナーができそうだ」
気さくに英の手を取って握手をし、微笑みかけるアイザック。英は曖昧な愛想笑いを浮かべてその手を握り返す。
「ご期待に添えられるよう、誠心誠意努力します」
「ああ、是非よろしく頼むよ。詳しい話が決まったら、山河を通して連絡する」
アイザックは英の肩をポンポンと叩く。そこで、今回の『サンダースQA』で舞台演出の協力をしてくれる技術研究部の部長がやってきて、アイザックはすぐにその部長と話をし始めた。
「忙しそうだな、クイズ研も」
「部長も最後だからって張り切ってるんだよ。もう卒業だし」
「そうか・・・」
なんとなく英が呟くと、山河が先ほどの会議中とは打って変わって、いつものようにのんびりとした口調で返す。副部長のニッキーは2年生だが、アイザックは3年生なので当たり前だが来年には卒業する。だから最後の文化祭ということで、一層気合いを入れているのだろう。
山河が『帰ろうよ』と促したので、英も山河と共に部室を出て昇降口へと向かう。その途中で、山河が頭を下げてきた。
「いやぁ、本当に助かったよ。引き受けてくれてホントにありがとう」
「・・・・・・引き受けた身で言うのもあれだけど、ちゃんとフォローしてくれよ」
「それはもちろん。ばっちりやるよ」
英も、サンダースフェスタの目玉イベントの一角である『サンダースQA』の1コーナーに出演するのは、恐らく人生で一番緊張するだろうと思っていた。だから、自分1人で成し遂げようとするのは不可能だと早々に悟り、恥も外聞もかなぐり捨てて初めから山河とクイズ研究部をあてにしていた。無論山河も、全部英に任せるとまでは言わず、ちゃんとクイズ研究部側でやるべきことはやるつもりでいた。
「それにしても、随分と急な話だったね。どういう風の吹きまわし?」
山河の疑問は尤もだ。昨日まで頑なに協力を拒んでいた英が、急に『引き受ける』と言ってきたのだから、山河はものすごく驚いている。
英が断り続けてきた理由は、大ホールで多くの観客の前でピアノを弾くことに抵抗があったからなのは聞いている。その環境が別に変わったわけでもないのに、なぜだろうという疑問が消えないのだ。
「・・・・・・それは、あれだ。俺が断ったせいでクイズ研の演目が失敗して、クイズ研の評判が落ちて、お前やクイズ研の人が悲しい顔をするって思うと、寝覚めが悪いし」
それも一つの理由ではあるが、山河とクイズ研究部には悪いがそれは最も重要な理由ではない。だがそれは口に出すのも憚られるもので、今は言わないでおくことにした。
そして山河はと言えば、まだ英のことを疑っているようで、『本音は?』とでも言いたげにジト目をしていた。
英のケイに対する好意に気付いた時もそう思ったが、山河はのんびりとしているように見えて割と人を見る目が、観察眼が備わっている。だから英にも他の理由があることを見通しているようだが、その詳細までは分からなかったようで、ふっと雰囲気を柔くする。
「・・・・・・まあ、他に理由があったとしても、僕はそれを根掘り葉掘り聞くような無粋な真似はしないよ。一先ずは、“仕事”を引き受けてくれて感謝はしてる」
「・・・悪いな」
「謝る必要はないよ。だけど、きっちり仕事はこなしてくれよ?」
「ああ、もちろんだ」
2人は言葉を交わして、お互い拳を合わせて昇降口へと向かった。
その翌日の放課後、今度は英は『ハイランダー』棟の第5音楽室でピアノを弾いていた。その傍の机には、やはりケイが座っている。昨日一昨日とピアノを聴かせることができず申し訳なく思っていた英だったが、そのケイは今は目を閉じて実に嬉しそうに微笑みながら、英の奏でるピアノの旋律に耳を傾けている。
今、英の弾いている曲は世間的に有名なアニソンだ。初めてケイと英があった日にも彼女の前で弾いた曲だったので、ケイはこの曲を知っている。けれど、歌詞までは覚えてはいなかったので前のように一緒に歌うことはできなかった。なのでこうして聴くことに専念している。
この曲は、そのケイと初めて会った日以来弾いてこなかったのだが、今日弾いたのには理由がある。それはやはり、自分が要となる『サンダースQA』の音楽クイズで弾くつもりだからだ。
クイズ研部長のアイザックは、全部で10曲―――と言ってもサビ前とサビだけ弾くので時間はそこまでかからないが―――ほどクイズを出題すると言っていたのだが、その内の何曲かは英に自由に選んでもらうと言った。有名なのを選べばそれでいいし、マイナーであれば難問として扱うと、柔軟な対応をするつもりでいる。それに、普段弾き慣れた曲の方が英もやりやすいと思ったうえでのことだ。
英は、スタンドに開かれている楽譜と鍵盤を叩く指、そしてこの曲を聴いているケイの様子をチラッと窺いながら、自分の中に生まれた決意を改めて見つめ直す。
英が山河の提案を引き受けた一番の理由は、自分の立ち位置を変えるため、ケイに相応しい人物となるためだ。
そうするべきと思ったのは、昨日ナオミと話しをして、今の自分のままではケイとは釣り合わないと悟り、どうにかして自分を変えなければならないと思ったからだった。
あくまで仮定の話ではあるが、今の凡庸でピアノ以外では特に取り柄の無い英とケイが付き合うことになったとしたら。恐らく周りは、『“あの”ケイの相手がそんな男でいいのか』とまず間違いなく疑問視するだろうし、嫉妬心を抱く者も大勢いるだろう。そんな疑惑の視線と嫉妬の念に晒されながら付き合うのは英も針の筵となって気まずいし、ケイにも迷惑が掛かってしまうからそれは避けたかった。
だからそのリスクを回避するために、サンダースの目玉イベントの一つである『サンダースQA』に出演し、その唯一と言ってもいい取り柄であるピアノで自分の名を上げ、自信をつけたいと思った。もちろん、それで知名度が格段に上がるとは思ってもいないし、それだけで全部解決するとも思えない。だがそれでも、やらないよりはマシだと思ってのことだった。
曲を弾き終えて、ケイはパチパチと拍手をしてくれた。英は小さくぺこりと頭を下げて、笑みを浮かべる。
「久々に聴いた気がするけど、やっぱりいい曲ね」
「ああ。ちょっと悲しげな感じがするけど、そこがまたいいっていうか」
この曲は曲調が少し暗めで、歌詞自体も哀愁が漂うフレーズがかなり使われているので、全体的に悲しいイメージが強い曲だ。けれどその斬新な構成が広い世代に人気の曲でもあった。
「この曲、私と影輔が初めて会った日にも弾いてたわよね?」
「ん?ああ、覚えてたのか」
ケイは、この曲のことを覚えてくれていた。それは、あの時出会った日のことを忘れてはいなかったということになる。
「忘れるわけないじゃない。あの日影輔と会えたから、影輔の楽しいピアノが聴ける今があるんだもの」
「・・・・・・・・・」
全く、ケイは英をときめかせるのが上手いと改めて思う。注意しなければ口がにやけて薄気味悪い顔を見せることになりかねないので、楽譜を取り替えるふりをして顔を逸らす。
「あの時以来聴いてなかったけど、久々に弾いたのは何か理由があるのかしら?」
「・・・・・・・・・あー」
そう言えば、昨日英が『サンダースQA』の仕事を正式に引き受けることが決まってから、ケイには何も話していなかった。
だが、英がその特別コーナーを担当するということ、そしてその特別コーナーの内容は一切他言無用と厳命されていたので、その理由を素直に話すことはできなかった。
「・・・実は山河からの頼まれてたピアノの生演奏を引き受けることになって。その時弾こうと思ってるから練習するために」
「えっ?引き受けることにしたの?」
ケイもまた、英が山河の依頼を断り続けていたのを知っている。その断っていた理由だってケイは聞いていた。だからなおのこと、急に態度を一変させて依頼を引き受けたのが不思議で、不可解だとしか思えない。
「なんでまた急に?」
「俺が断ったせいで、山河たちがいい顔しないのも嫌だったし」
誰かに参加する理由を聞かれた際は、こう返すことを既に決めていた。まさか、『ケイに告白するために自信をつけ、釣り合うように自分の名を上げる』なんて本当の理由は、口が裂けても言えない。しかも今目の前にいるのはそのケイなのだから、うっかり口を滑らせようものなら死んだ方がマシだ。
「優しいのね、影輔って」
何気ないケイの一言に英はまた少し恥ずかしくなるが、同時に本当の理由を隠していることを申し訳なく思う。
そしてさらに、ケイに対しては残念な報告があった。
「・・・その山河たちに協力するから、サンダースフェスタまではその演奏するつもりの曲を練習しなくちゃならない。だから・・・ケイが一緒に歌うっていうのは、ちょっと難しくなる。ごめん」
ケイが一緒に歌うという話は、一昨々日ケイのお気に入りのラブソングを英が弾いた際に、ケイがそのピアノに合わせて歌ったことに起因する。あの後で、また一緒に歌いたいとケイは言っていたし、英はそれに首を縦に振ったのだが、一昨日も昨日も英はピアノを弾けなかったし、今日からは練習に入ってしまうのでそれが難しくなったのだ。
「ノープロブレム!影輔にそういう事情があるんなら仕方ないわ。それに元々は、私の頼みみたいなものだったし」
「・・・本当にごめん。そして、ありがとう」
そして英は、『サンダースQA』で選ばれれば弾くつもりの曲を何曲か弾く。なるべく有名な曲を持ってくるようにとアイザックから言われたので、割と名が知れている曲や、話題になった曲を選び弾くことになった。
弾き終えると、ケイも名前は知らないが聴いたことはあるような曲が何曲かあったらしく、『それなんて曲?』と訊ねてきた。英は、その質問には素直に答えて曲の名前を教える。
『サンダースQA』に参加するのは学校を代表する人物で、去年は教師陣やOB、OGの他に先代の戦車隊隊長も参加していた。だから、今年もその隊長であるケイが参加するのではないかと思ったのだが。
「いやぁ、ケイさん今年は参加しないって」
「え、そうなのか?」
「うん。なんかねぇ、今年は別の用事が入ってるらしくて」
今日の昼休みにそれを山河に聞くと、こんな回答が返ってきた。ただ、隊長だからクイズ研のイベントに出なければならない』と言う法も規則も存在しないので、無理強いはできないらしかった。
何はともあれ、ケイが『サンダースQA』に参加しないというのであれば、そこで弾く予定の曲の名前を明かしても別に支障は出ないだろう。だから隠すことはせず、英は曲の名前を教えた。
「ありがとう、今度聴いてみるわね」
「ああ。是非聴いてみるといい。みんないい曲だから」
「そうね。この曲もできれば、影輔と一緒に歌いたいわね・・・」
そう言ってから、ケイは少し困ったような、残念そうな笑みを浮かべた。やはり一緒に歌いたいと思っても、ケイにもケイの事情があるため、それもすぐには実現しないことだった。
「私も戦車隊の総合演習に向けて訓練があるし、ここに来るのも難しくなるわね・・・・・・」
「そこは、お互いさまってところか」
忘れてはならないが、ケイだって総合演習で隊を率いて演習をするという重大なミッションがある。そのための準備だってあるのだから、放課後必ずここに来るということもできないだろう。
「戦車隊の方は、どうなんだ?」
「皆頑張ってくれてるわ。まだちょっとムラはあるけど、本番までには克服できる程度のものよ」
「それがフラグにならないことを祈るよ」
「あははっ、フラグじゃないって!」
英が冗談を告げるとケイは軽く笑って否定する。
英は、雑談もそれぐらいにして再びピアノを曲を弾き始める。その後も同じように、ケイの知っている曲はいくつか出てきたが、終ぞケイが一緒に歌うことはできなかった。
時間一杯まで弾き終えて、終業のベルが鳴ると撤収作業に入る。ただし、明日から2週間はサンダースフェスタに向けての準備期間ということで、下校時刻が1時間遅くなる。学園艦と言う海の上の限られた場所で暮らしているため治安はそれなりに高いと言えるのだが、それでも教育面の意味合いで下校時刻は設定されているのだ。
鍵を職員室に返し、ケイと2人で家路を歩く。明日から少しの間は、こうすることもできなくなるんだなと思うと、少し寂しい。
「寒くなってきたわね~」
「まあ、もうすぐ10月も後半になるしな・・・っていうか、寒いなら腕捲るのやめたらどうだ?」
「なんかこうしてないとどうも落ち着かないっていうかね~」
年がら年中ケイは制服の腕の部分を捲っている。夏でもないのに女の子がそう肌を見せるもんじゃないと英は思うし、寒空では見ているとこちらまで寒くなってきそうだ。
「戦車隊の総合演習は2日目だったか」
「ええ、そうよ」
サンダースフェスタは全部で3日間行われる。1日ごとに大きなイベントを開催するようになっていて、多くの来場者を呼び込めるようになっていた。初日のイベントは、サンダースOGやOBが所属する音楽バンドのライブ、2日目がサンダース戦車隊の総合演習、そして3日目が英が参加することになったクイズ研究部の演目『サンダースQA』だ。
「よし、応援しに行こう」
「えー?ちょっと恥ずかしいわね・・・」
『恥ずかしい』とは、随分とらしくないことを言う。ケイはそのような大舞台では、むしろ胸を張って堂々と振る舞うイメージがあったのだが。もっと言えば、緊張もしないだろうとも思っていた。
「それは買い被り過ぎよ?私だって緊張することだってあるわ」
「そういうものか・・・・・・」
その感想を素直に告げると、ケイは手を横に振って笑った。どうやらケイも、完璧超人ではなくて1人の女の子のようだ。
「じゃあ、影輔のピアノの生演奏って、いつどこでするの?」
「え?それは・・・・・・」
同じようにケイが問いかける。恐らく、それを言えばまず間違いなくケイは聴きに来るだろう。
だが、英がその演奏をするのは3日目の『サンダースQA』であり、それに英が参加することは誰にも言ってはならないことだ。だから適当にはぐらかすなり誤魔化すなりしなければならないのだが、そんな時にケイと目が合ってしまった。
「あ・・・・・・・・・」
「?」
その吸い込まれそうなケイの瞳を見て、英は一瞬戸惑う。いかなる嘘も見通しそうな瞳を前にして、全部話しちゃってもいいんじゃないか、と言う悪魔のささやきが聞こえた気がする。
だが、ここでそれを話すとクイズ研のアイザック部長や山河との約束を反故にしたことになってしまう。それで信用を失っては、英の本来の目的である名を上げることもできなくなる。
だから、“全てを”話すことはできなかった。
「・・・誰にも言うなって約束されてるから全部は言えないけど・・・・・・」
けれど、“少しだけ”は明かすべきだと思った。
「・・・・・・3日目にやる、としか言えない」
「え、3日目?」
そこでケイが声を上げた。まさか、その情報だけでバレてしまったというのか。だが、困った表情をしているあたり、どうも違うらしい。
「ソーリー、3日目は私も用事が入ってるの。だから見に行けないわ」
「・・・・・・そうか」
恐らくその用事が、山河も言っていたのと同じ案件なのだろう。
とにかく、ケイが見に来ないというのは、少しだけ残念な気がした。これがケイではなくて普通の友人、例えばクリスであれば冷やかしに来るのが目に見えたので『来るな』と言っていただろう。だが、ケイが来ないのは寂しく、残念だと思う。
「・・・あっ、だったら影輔」
「ん?」
そこで何かを思いついたケイは、再び英の顔を見る。しかしその顔はいい考えが浮かんだとばかりに明るい。
「1日目は空いてる?」
「初日?それはまあ・・・・・・」
英もクイズ研究部の手伝いをするということで、英のクラスで行う軽食喫茶の手伝いが免除されることになった。実際にクイズ研の手伝いをするのは3日目だけなので初日と2日目はフリーなのだが、あまり口を出して仕事が増えて、当日万全のコンディションで挑めないのは痛いと思ったので、大人しく従う事にした。
つまり英も、2日目は総合演習を見に行くとして、初日の予定は特になく、適当に文化祭の屋台をぶらぶらと回ることにしようとしていた。
「だったら、一緒に回らない?」
「・・・・・・」
ケイもどうやら自分のクラスの手伝いは免除されたらしい。そして2日目は総合演習、3日目は何らかの用事で空いておらず、初日はフリー。そして英も初日はフリー。だから英を誘うのも当然の帰結と言えるかもしれなかった。
「それとも、誰かと約束でもしてた?」
「いや、それはない、けど・・・・・・いいのか?」
『いいのか?』という言葉の裏には『好きな人と一緒じゃなくていいのか?』と言う意味がある。昨日言っていた『ケイの好きな人』が誰なのかはまだ分からない。その人とでも回ればいいのに、自分なんかにうつつを抜かしていいのだろうかと思って聞いたのだ。
しかしケイはその『いいのか?』をまるきり別の意味で捉えていた。
「影輔だから、いいのよ」
そう言われては断ることもできず、疑問は頭の片隅に追いやってとりあえず頷くことにした。
「・・・・・・ああ、分かった。じゃあ初日は一緒に回るってことで」
「OK!じゃあ待ち合わせとか諸々はまた追々ね」
人差し指を立ててウィンクをするケイに、英も小さく笑う。2日目は総合演習、3日目はクイズ研の手伝いで、サンダースフェスタの間はケイに会えないと思っていたが、意外とそうはならずに一先ずは安心した。
「でも2人で回るのって、なんか・・・・・・」
「?」
「デートみたいじゃない?」
それは、果たしてケイは特に深くは考えずに告げた言葉なのだろうか。どうなのかは分からないが、英は何か言葉を返さなければと思って一言だけ。
「・・・・・・どうなんだろうな」
それしか思いつかなかった。
だが内心では、何かのスポーツで優勝した時のように、飛び上がって、ガッツポーズをとっていた。
その日の就寝前、ケイは寝間着に着替えてベッドに横になりながら、今日の帰りに英をサンダースフェスタ初日の見物に誘ったことを思い出していた。
「・・・・・・誘っちゃった」
自分から言い出したことなのに、今になって猛烈に恥ずかしくなってくる。
おまけに自分から『デートみたい』とまで言ってしまったことまで思い出し、余計恥ずかしくてそのあまりに自分の顔を殴り飛ばしたくなる。
あんな軽率な言葉を言って英は何と思っていただろう。喜んでいたのだろうか、それとも幻滅しただろうか。できれば前者であってほしいがそれは自惚れに近いし、後者の方が可能性が高い。
枕に顔を埋めて『うああああ・・・・・・』と小さくうめき声をあげる。壁は厚いから隣の部屋には聞こえないだろうし、自分の中にある恥ずかしい気持ちをうめき声に乗せて吐き出す。
明日からは総合演習に向けた戦車隊の放課後訓練が始まるのだ。その前にこの胸の中にある恥ずかしさを今のうちに消化しきりたかった。
結局、その日は何時に寝つけたかも思い出せなかったが、寝る直前まで唸っていたこと、英のことを考えていたのは翌朝も覚えていた。
その翌日から、サンダースフェスタまで2週間を迎え、準備期間になったことで下校時刻が1時間繰り下げとなった。
その日も英はクイズ研究部の部室を訪れており、アイザック部長との打ち合わせがあった。話す内容は本番で弾くピアノの曲の打ち合わせであり、山河からは前もって『英が選んだ曲の楽譜を持って来て』と言われていた。なので英は、昨日練習した曲や自分の部屋で選んだ楽譜の合わせて10曲を持ってきた。その中には、昨日ケイに名前を教えた曲も入っている。アイザックの方も有名な曲を5~6曲ほど見繕い、楽譜まで持ってきていてた。何とも仕事の早いものである。
2人の持ってきた曲ですり合わせをした結果、英の持ってきた曲の中からは6曲、アイザックの方から4曲が選ばれて、これらを本番で使うことになった。
そして打ち合わせの最後にアイザックは、この選ばれた10曲全てを10日以内に完成させてほしいと告げた。
サンダースフェスタまでは2週間、その練習期間を除いた残りの4日でリハーサルを行うつもりだという。だから、ステージセットの製作で協力している技術研究部にも、同じ日までに作業を完了するようにお願いしていた。
ちなみに、アイザックと技術研究部の部長は親友同士で、サンダースフェスタが終わったら技術研究部の皆もバーベキューに誘っているらしい。
それはともかく、普段友達からピアノを頼まれる時とは違って、今回は完成させるまでに明確な期限が決められているためうかうかしてられない。英は楽譜を持って急ぎ足で『ハイランダー』棟まで戻り、職員室へ鍵を借りに行く。
時刻は4時半に近づいており、普通であれば今から行っても鍵がまだある可能性は低かった。だが、昨日のうちに英は『ハイランダー』棟職員室の教師に、
「サンダースフェスタでピアノを演奏するので、それに向けて練習がしたいんですが」
そう言うと、ありがたいことに鍵をキープしておくと言ってくれたのだ。なのでサンダースフェスタまでの間は、他の誰かに先を越されるという心配も、急いで鍵を確保しに行く必要も無くなったわけだ。
焦らず職員室まで向かって鍵を受け取り、今度は第5音楽室へと行く。何事も無く到着して、電気を点ける。時間が少し経過していて既に外は暗くなり始めていたので、カーテンを閉めようとしたところでふと気づいた。
(・・・・・・向こうは演習場だったな)
窓の外を見て、英は今更ながらそう思う。
この第5音楽室からは、戦車の演習場が見える。だが、眼下に広がっているというわけではなくて、ここから少し離れた場所に戦車の演習場があるのだ。それでもここから演習場は見えるのだ。
空が暗くなってきたうえに、サンダースの戦車がダークグリーンのせいで見辛いが、よく目を凝らすと、何十輌といるサンダースの戦車が隊列を組んで進んでいる。ケイの言った通り、放課後の訓練は既に行われているようだ。
今は見ることができないが、あの戦車群を先頭で率いているのはケイなのだろう。そして、溌剌とした声と表情であれほどの数の戦車を従えているに違いない。
(俺も頑張んないとな・・・)
その姿と様を思い浮かべると、自分も頑張らなければならないと思うし、ケイのことも気がかりだが自分のことも大事だと思いだして、カーテンを閉める。そしてピアノ椅子に座って、トートバッグから楽譜を取り出す。
アイザックから渡された曲は全部で4曲だが、その中でまず最初に練習しようと思ったのはドイツ軍歌だ。他の3曲は英も聞いたことがある曲だったのだが、この曲だけは知らないので先に練習しようと思った。
しかしながら、どうもチョイスが他とは違う気がする。外国の、しかも軍歌と来たものだから英も疑問を口に出さざるを得なかった。
『特別ゲストのためだよ。せめて1曲ぐらいはその人が知っていそうな曲を入れて、見せ場を作っておかないと』
英の疑問に、アイザックはそう答えた。
それは決して、特別ゲストの人を勝たせるためのインチキのつもりではなくて、その人にも見せ場を作ってあげたいという、アイザックの一種の思いやり、忖度だということは当然分かっている。なので英は何も言わず従った。
何はともあれ、アイザックから渡された曲は見た感じではどれも完成までに膨大な時間がかかるような代物ではない。リズムが複雑怪奇とは言わないし、聴いたことがある曲なのでまだやりやすい。それと、アップテンポとまでは言わずとも明るい曲なので、ケイが気に入っているあのラブソングよりもまだ簡単な方だ。
何より、本番で弾くのは確かに10曲だが、実際に弾くのは最初から最後までではなくサビとサビ前のBパートだけだ。だから普段よりも気楽な方である。
だが、悠長に構えているわけにはいかないので、早めに完成させようと心がける。
「よし・・・・・・」
ドイツ軍歌の楽譜を開き、最初から弾き始める。この曲は5番まである曲だが、本番で弾くのは1番だけだ。それは1番から5番までリズムがほぼ全て同じであり、またAメロやBメロなどの概念が存在しないため、1番だけ弾くのだ。
やはり、兵士たちの士気を高めるための軍歌だからか、力強い音と弾き方を要求してくる。ロックのような激しさとはまた違う感じの激しさではあるが、こうした一味違う曲も嫌いではない。
だが、いくら弾くのが1番だけで短めだとしても、ミス無しとはいかず、数回のミスを経て弾き終える。しかしミスの数と曲の短さを考えて、この曲は早いところ完成させることに決めた。
鞄の中からペンケースを取り出して、中に入っている付箋を間違えた箇所に貼っていく。そしてミスをした箇所の前後を、ミスをしないようになるまで練習する。10回に届くか届かないかの数をこなして、ようやくミスをすることが無くなって、それから通しで2~3回で弾き、それもミスなく弾き終えると一先ずの完成とし、別の曲へ移ろうとする。
だが、そのタイミングで下校時刻を告げるベルが鳴り響く。そこで初めて時計を見れば、1時間繰り下がった下校時刻を時計の針が指していて、時の流れの速さを痛感した。仕方なく、今日はここまでにしようと荷物を片付け始めた。そしてその間に、明日は先ほど完成したドイツの軍歌をもう一度弾いて、それで問題なければ完成にしようと考えていた。
そしてピアノを元に戻した後で、カーテンの隙間から戦車の演習場の方を見る。陽は完全に落ちてしまっているので景色はほぼ真っ暗で何も見えない。戦車隊も恐らく引き上げただろうが、もしまだいたとしても戦車の色的に見えないだろう。
さて、いつまでもここに留まって鍵を返すのが遅くなると、職員室の教師に注意されるかもしれなかったので、英は急いで電気を消して鍵をかけ、職員室へと向かって行った。
翌日の放課後は、第5音楽室に直行してピアノの練習をする。
音楽室に着いて一呼吸ついてから、ピアノの準備をして早速弾き始める。まず最初に弾くのは、昨日一先ずの完成を迎えたドイツ軍歌。一応もう一度弾いてみて、問題ないかどうかを確かめる。しかし、ミスなく弾き終えることができたので、まずはこのドイツ軍歌は完成ということになった。
普段の英であれば、曲を1曲完成させるのには早くても3日、遅くても1カ月ぐらいはかかっていたが、まさか2日で完成させるというのは文句なしの新記録だ。覚えるのが1番だけで短いからかもしれないが、しっかりと期限が決められているから英自身も早く完成させなければと思っていたからだろう。
まさか、こうして期限をつけられるだけでここまで早く完成させられるとは思わなかったが、その感動はさておき次の曲に移ることにする。
「次は・・・・・・」
残りの曲は軍歌ではない普通の曲で、大体3~5分ほどの長さがある。本番ではこれを全部弾くわけにはいかないので、当初の予定通りBメロとサビの部分だけを弾くことになる。
英は、楽譜を見て違和感の無いようなAメロとBメロの境目の部分を、歌詞と楽譜を見て見つけ出し、その境目の部分に付箋をつけて分かるようにする。また、実際に弾いてみて違和感がないのかを確かめつつ、ミスをしてしまった場所も確認して新しく付箋を貼り、またそこを重点的に練習する。
英は、1日1曲完成させるようなペースで行かなければ追いつかないと頭の中で計算し、結論付けた。まだアイザックから渡された曲は今弾いているものを含めて3曲も残っていて、英の用意した6曲も練習が必要だし、これらをあと9日で完成させなければならないのだから。自分の持ってきた曲だからと練習せずにいると、本番で泣きを見そうな気がしてならない。それに、普段とは違ってBメロとサビだけと練習の仕方が違うのだから、普段通りで大丈夫とは思わないで取り組むべきだった。
しかし、あまり慎重にやっていると今度は期限に間に合わなくなる。
だから正直言って、英のスケジュールはカツカツと言っていいぐらいだ。
(・・・・・・・・・なんか、楽しいな。こういうの)
だが、この状況を英は楽しんでいた。時間に追われる今の状況も、普段とは違う弾き方を要求されてそれに合わせて練習するのも、楽しいと思っていた。
そして気づく。自分は誰かに、何かに縛られてピアノを弾くことを嫌っていたはずなのに、今はそんなことを全く考えていなかった。引き受けた時も、今も、嫌悪感や忌避感など全く抱いていない。
少し前の自分はそうやって縛られるのが嫌だったから、部活動の類にも所属していなかったのに。ああしろこうしろと指図され、押さえつけられるようにピアノを弾くのを嫌っていたのに。自由にピアノを弾きたいと言ったのに。
今英は、クイズ研究部という部活動から演奏する曲を指示されていて、10日という期限が決められていて、弾く部分までもが指定されていて、英が求め望んでいた自由なピアノとは程遠い。
だというのに英は、今の状況を楽しんでいた。
なぜ、かつて自分が嫌っていた状況を楽しむことができているのだろう?
(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
そう考えて真っ先に思い浮かんだのは、ケイのことだった。
ケイは英の過去を話だけでも聞いたから知っているし、その時の英の“選択”と今英が歩んでいる“道”も知っている。
けれど今は、その英のかつてを認めてくれたケイと釣り合うような男になるために、今の自分を認めてもらうために、過去の自分が否定した『何かに縛られてピアノを弾く』という“選択肢”を選び、諦めたはずの“道”を歩んでいる。何ともおかしな話だ。
ふと、ケイのホームパーティに招待された時のことを思い返す。あの時はケイに突然ピアノを弾いてほしいと頼まれたのだが、今思えばあれも『誰かに縛られるような弾き方』に近かった。
しかしあの時はケイに対する恋心にまだ気付いてはいなかったが、ケイに頼まれて悪い気がしなかったのもあるし、自分のピアノは聴いていて楽しくなれるものだと言われて嬉しく思ったのもある。
あの時から、英のものの見方・考え方は変わりつつあったのだ。
ケイに出会ってから、自分の中の価値観は変わっていた。
(・・・・・・やってやる)
だが今は、その自分の中で変わった価値観のことは一先ず保留にする。本番に向けて曲の練習をしなければならないのだ。
楽譜を開き、鍵盤に指を置いてピアノの音を奏で始める。
晴れ渡る空の下で、サンダースを象徴するとも言えるシャーマン軍団が演習場を行進する。その並び方は普段のような横隊や縦隊だけでなく、斜行陣や楔形陣、凹角陣と、普段の試合では行わないような隊形も組んでいた。
その先頭にいるM4シャーマンのキューポラから、ケイが半身を乗り出して後ろに従う戦車たちの動きを双眼鏡で観察する。
「“アイテム”!動きが若干遅れてるわ!もう少し速度上げて!ハリアップ!」
『Yes,Ma’am!』
「“ヴィクター”は前に出過ぎ!速度落としてOKよ!」
『Sorry,Ma’am!』
双眼鏡で状況を見ながら、特定の戦車に指示を出していく。そしてその戦車が周りに動きを合わせると『グッジョブ!』と褒めていく。
何十輌もの戦車がいる中で、全ての戦車の動きを俯瞰的に見て、さらに他とは動きの違う戦車を判別して的確な指示を下す。
普通の隊長ならこのぐらいはできて当然と思うかもしれないが、流石に50輌もの戦車を一度に指揮する機会というのはそうない。それにケイは他の学校の隊長と比べて、こうした戦車大隊の指揮能力が他の学校の隊長よりも秀でていると高校戦車道連盟からは評価されている。以前プラウダ高校と50輌対50輌の総力戦をした際に、プラウダの隊長のカチューシャでも自分の隊の全ての戦車の動きを把握しきることはできなかったのだから、ケイの指揮能力は本物なのだ。
指揮能力だけで言えば、あの高校戦車道最強と言われる黒森峰女学園の隊長・西住まほを凌ぐとさえ言われている。それだけケイの実力は高いのだ。
「隊長、そろそろ時間です」
装填手からそう告げられて、ケイも頷いた。
「全車輌、進路変更!隊長車についてきて!」
ケイが通信でそう告げると、『Yes,Ma’am!!』と威勢のいい返事が聞こえてくる。そしてケイの乗る戦車が向きを変えると後ろの戦車もそれに従い、今まで行進していた演習場を弾き返す形で格納庫に戻っていく。
格納庫に到着すると、ケイが無線をもう一度全車輌につないで話し出す。
「午前の訓練はこれで終わり!また放課後、頑張りましょ!お疲れ様!」
『お疲れ様でしたー!』
号令を終えると、他の戦車の乗員たちが外に出るのが分かる。ケイたちも戦車を降り、乗員たちがケイに向けて『お疲れ様です、マム』と挨拶をして、シャワールームの方へと向かって行った。ケイも同じように行こうとしたところで、ナオミが合流してきた。
「大分疲れているみたいだな」
「え、そう見える?」
「ああ。普段よりも」
だが疲れるのは無理もないことなのだ。何しろサンダースは、聖グロリアーナのように美しい隊形を組めるように訓練をしているわけではないし、試合中でも物量で押し切る作戦に偏り気味なせいで、意識して隊形を組むことに慣れていないのだから。
そしてその訓練をする隊員たちはもちろん、指揮をするケイだって疲れるわけだ。
ケイもナオミも、1年生の時から戦車隊に属していたが、ケイは隊長になるまでは指揮をするのではなくて、指示を受ける側にいたのだ。隊長になる前の総合演習の練習の時は疲れた記憶があったが、指揮をしてみるとその時以上に疲れる。
「・・・・・・確かに、ちょっと疲れてるかもね・・・。体も心も」
そんな慣れない訓練で指揮をしていると、自然とストレスもかかってくる。ケイだってプレッシャーを感じることは当然あるし、不安を感じる時だってもちろんある。
それでも気丈に振る舞っているのは、自分が隊を率いる存在だから。皆の先頭に立って率いる舵取りのようなポジションの自分が弱気になれば、自然と従う者たちだって弱気になってしまう。だからケイはストレスなどを感じてもそれを表に出すことはなかった。
(影輔、頑張ってるかな・・・・・・)
そこでケイが考えていることは、英のことだった。
英もまたサンダースフェスタに向けて頑張っている。山河たちが悲しい顔をしないためにも、嫌がっていた大勢の人の前で演奏することさえもやると、練習していると英は言っていた。
ケイはそんな英のことを心から応援してはいるが、同時に英のピアノが聴けないことがとても残念だった。聴いていて心が楽しくなるような、それでいて癒されるような英のピアノが聴けず、ケイの心は少し疲れてきていた。
早く、英のピアノが聴きたいとそう思っていた。
「・・・・・・サンダースフェスタは、影輔と一緒に回るのか?」
ナオミが自然に話しかけてきて、ケイは少し面食らう。いや、話しかけられた事よりも英の名前が急に出てきたことが驚きだったのだ。
「あ、あれ?言ったっけ、影輔と一緒に回るって」
「いや、2人が仲良さそうだから、そうなるのかと思って聞いてみただけなんだけど」
「そ、そう・・・。うん、でも確かに、影輔と一緒に回る予定よ」
「そうか」
ナオミがそこで、小さくニッと笑ったのにケイは気付かない。
「アリサも、タカシを誘って2人で回るらしい」
「タカシって・・・アリサが好きだって言う?」
「ああ」
ナオミの話によれば、アリサとタカシの仲はあまり進展していないらしい。というのも、タカシ自身別に好きな子がいるらしくて、アリサの恋心が完全な片想いになってしまっているからだ。夏休み中に開かれたホームパーティで、アリサがコーラ片手にナオミに愚痴っていたとのことだ。
それでも諦めずにアプローチを仕掛け、サンダースフェスタを一緒に回るところまでこぎつけたようだ。
「・・・・・・そっか」
その話を聞いたケイは、アリサに対して親近感を覚えた。なぜって、それはケイもまた現在進行形で恋をしているからだ。もちろん相手はタカシではないが、置かれている状況がどうにも似ていると思えてならない。
ケイが好きでいる英は以前、『好きな子がいる』と言っていた。それが自分、ケイのことだと思うのは虫が良すぎるし、楽観的にもほどがある。いくら自分がポジティブだとは思っていてもそこまでは前向きに考えられないし、それはもはや傲慢だ。
つまり、ケイの英に対する恋心が、アリサのタカシに対する気持ち同様に一方通行である可能性が十分あるのだ。
だからというわけではないが、ケイは英を、サンダースフェスタの初日を一緒に回ろうと誘った。それは英と一緒に回りたいという純粋な気持ちの他に、英に自分のことを見てほしいという欲もあった。
「ケイも影輔と2人だけで回るのか」
「?」
「まるで、デートみたいだな」
冗談めかしてそう告げると、面白いほどケイは動揺した。
「で、デートなんてそんな・・・・・・あははは、ナイスジョークね、ナオミ」
ぎこちない笑みを浮かべるケイ、というか動揺するケイなど滅多に見られないので大変貴重だ。
だがナオミは、やはりケイも英に対して脈があるのだなとほぼほぼ確信した。ここ最近の2人を見ていればそれはよく分かるし、多分自分でなくともケイに親しい人物であれば気付けるぐらいだった。
英の方も、山河の頼みを聞き入れて自分からいばらの道を歩み始めたらしく、ナオミは自分のアドバイスからちゃんと学んだようだなと安心した。
とはいえ、両想いなのにお互いの気持ちに気付かないケイと英の2人を見ているのは非常にもどかしいので、ナオミはさっさとくっついてほしいと思ってもいた。
これは、サンダースフェスタまで残り一週間を切った日のことである。
ある日、英はアイザック部長に連れられて、当日に『サンダースQA』を行う会場の東側第2ホールを訪れていた。昨日のうちに山河を通してアイザックに、『実際の会場を見ておきたい』とお願いし、それで今日連れてきてもらったわけだ。
普通の教室とは違う両開きのドアを開けると、目の前に広大な空間が広がる。
「・・・・・・・・・おぉ」
この東側第2ホールは、前に山河からも聞いたが700人を収容できるほど座席が並べられており、大規模な講談会や生徒会選挙などの行事を行う際に使われる。さらに完全防音設備まで備わっており、さながら本物のコンサート会場と言ってもいいぐらいだった。
「ホントにここでやるんですよね・・・」
「ああ、その通りだ。去年もここでやったけど、その時は席が全部埋まって立ち見の人がいるぐらいには盛り上がったよ」
アイザックがあははと軽く笑い飛ばしながら告げたその情報を聞いて、英は身震いする。『目玉イベントと言っても流石に700人は来ないだろ』と高をくくっていた、前の自分を無性に殴りたくなってきた。
改めて、ホールの中を見渡す。座席は2階席まで用意されており、高級感と荘厳な感じを併せ持つ赤い布で覆われた座席が並んでいる。正面のステージに向かって階段状になっていて、どの列に座っていてもステージが見えるようになっていた。
今は照明が落とされているのでホール全体が薄暗くなっているが、本番はステージ上部だけの照明が点灯するようになるとのことだった。
「ちょっと、ステージの方へ行っても大丈夫ですか?」
「ああ、構わないよ」
アイザックに許可を取ってから、英は通路を進みステージの方へと向かう。入口からステージに辿り着くまでの時間が長くて、それだけ座席数が多いということを否が応でも実感する。
一番下の段に到着して、舞台袖からステージに上がる。座席の方を見てみると、思わず声が洩れてしまいそうなほどの席が並んでいた。
カタカタと足が小さく震えだす。本当にここでピアノを弾くのかと恐れおののく。誰も座っていない状態でここまで緊張してしまうのだから、アイザックの言うようにこの座席全てに観客が座り、さらに立ち見の観客までいたらどうなるのだと不安で仕方がない。もしかしたら、卒倒するやもしれなかった。
反対側の舞台袖を見ると、元々このホールの備品であるグランドピアノが鎮座していた。音楽室に置いてあるものと同じ型なので何も目新しくはないのだが、なぜか『いつでも準備万端です』とピアノが言っているように感じた。
そしてもう一度座席の方を見て、英はある事を思っていた。
(・・・あの人も、こんな場所でピアノを弾いていたのかな)
その人物は、英が幼いころにピアノを教わっていた、母が紹介したプロのピアニストだ。顔は最早朧げにしか覚えていないが、その腕前はプロのピアニストに相応しい確かなものであったことは覚えている。
英には厳しく指導をしていたあの人も、無数と錯覚しかねないほどの膨大な数の座席と観客を前にして、たった1人でステージの上に立ち、心を乱すことなくピアノを弾いていたのかもしれない。
そう思うと、今さらながらその人のことがすごいと思えてきた。
いや、その人だけではない。プロの音楽家は皆、同じような状況を味わっているはずだ。ステージの上で歌い、楽器を奏で、観客たちを魅了するような音色を奏でているのだ。
(・・・・・・俺も、そうなりたい)
ステージを見ながら、英はそう思う。拳に力が籠められ、小さく握る。
プロの人たちと比べたら一介の高校生に過ぎない自分等ちっぽけでしかないし、文化祭の1コーナーだけなのだからステージに立つ時間だってプロに比べれば圧倒的に短い。おまけに演奏する曲も端折ったものだ。
だがそれでも、例え自分がただのピアノ好きな学生で、ステージに立つ時間も、演奏する曲がプロのそれと比べて短くても、プロの人たちのように観客を魅了するような音色を奏でたいと、切に思った。
「大丈夫かい?」
そんなことを考えていると、ステージの下まで来たアイザックが話しかけてきた。
「はい。すみません、ワガママを言ってしまって」
「いや、気にしなくていいさ。山河から、君はこのような公の場でピアノを弾くのが初めてだと聞いているからね。なら、その前にその場所を見ておくのも悪いことではないさ」
「・・・・・・ありがとうございます」
ステージから降りながらアイザックの言葉に耳を傾け、英は改めてお礼をする。そして、英の事情を知っていた山河がそのことをアイザックに話しておいたことについても、お礼を言った。
そして2人はまた入口へと戻り、アイザックが鍵を閉めて2人で校舎の方へと戻っていく。
「ピアノの方は、どうだい?明日がお披露目だけど」
「ええ、一応すべての曲は完成して、何度か弾いてチェックも行っていますが、今のところは問題なくできています」
「おお、本当かい?」
「はい」
楽しい時間を過ごしている時のように、期限に追われていると時の流れを早く感じてしまう。最初に引き受けた日からもう9日が経過していて、明日は完成させる期限である10日目だった。
だが英は、アイザックから渡された曲も含めて10曲全てを調整し終え、さらに完成させている。明日のお披露目で全ての曲を発表できる段階にあった。
「急に任せた話で申し訳なかったけど、本当にありがとう。本番でも、期待しているよ」
「・・・・・・いえ、これしきのこと」
アイザックから真っ直ぐにそう言われて、英も少しこそばゆくなる。
「じゃあ、明日はよろしく頼むよ」
「はい」
最後にアイザックに肩を叩かれて、英は『ハイランダー』棟へと向かう。アイザックは『フォックストロット』棟の部室へ向かい、技術研究部と明後日からのステージセット搬入作業の調整を行う。
いつもピアノを奏でる音楽室へと向かいながら、英はアイザックに告げられた『本当にありがとう』というシンプルな感謝の言葉と、『期待しているよ』という英のピアノの腕を信頼しているからこその言葉を思い出して、ふっと表情が緩む。
頑張ろう、と気合を入れて、『ハイランダー』棟第5音楽室へと向かう足を速めた。
サンダースフェスタに向けての準備期間の2週間の間、英とケイが会うことはなかった。
英もケイも、それぞれがやったことがない初めての大舞台に向けて練習を重ねている。それはもちろん2人とも分かっていた。
英は、大人数の前でピアノを演奏するという、嫌がっていたはずの大舞台に向けて。
ケイは、慣れない隊形構築の訓練を行い、さらに自分が初めて指揮する総合演習に向けて。
2人とも、それぞれが大変な思いをしていることには気付いている。だから、例え会いたいと思っていても、それを相手に伝えることはしなかった。そうしてしまえば、余計相手の負担になってしまうのは目に見えている。だからそれは、言わないでいるのだ。
2人の会えない時間は、英が以前、ケイのお気に入りのラブソングを練習していた時よりも長い。けれど、不思議と2人はそれほど寂しく思ったり苦しく思ったりはしていなかった。
それは恐らく、次に会えるのがいつかは分からない前とは違い、サンダースフェスタの初日を一緒に回るというちゃんとした“約束の日付”が存在するからだ。その日が分かっているからこそ、2人はお互いに会えない今の状況を嘆くことも、辛く感じることも無い。
だがそれでも、寂しさは覚えている。以前同様、英は自分がピアノを弾いた後でケイが拍手をして感想を言ってくれることがないのが寂しいし、ケイは心を掴んだ英のピアノが聴けないことが寂しかった。
何よりも、せっかく相手に対して恋心を抱いていることに気付けたのに、その相手に会うことができないのだから。
その寂しさを感じている中で、英もケイも、お互いにできることは全てやり遂げた。
英は、『サンダースQA』で弾く予定の10曲を完成させ、クイズ研究部からもOKを貰うことができた。
ケイは、総合演習に向けての隊形訓練で、全ての戦車が完璧に近い形で行進を行うことができるようになった。
これで2人とも、後は当日の本番を待つだけとなり、そして英とケイが会える日も近くなった。
だがその前に、英がある行動に出た。
全ての戦車が格納庫に戻り、最後に隊員たちを整列させて軽いミーティングを行い、そして号令を終えれば戦車隊の訓練も終了だ。
明日はいよいよサンダースフェスタ初日、そして戦車隊の訓練はない。明後日が総合演習の本番なので、明日は総合演習前の一時の休息の日でもあった。隊員たちは早速どこを回るかを親しい者と一緒に相談している。
無論、ケイだって明日は本番に向けて英気を養おうと思っているところだ。それも、英と2人で回るという約束をしているのだから、今からでも明日が待ち遠しかった。
しかし同時に、ケイはその総合演習に対して自分が緊張していることも自覚していた。ただ試合を行うだけの普段とは違って、聖グロリアーナのように美しい隊形を構築する訓練をすること自体が初めてだし、しかもそれを一般公開するのだから緊張しないはずもない。失敗したらどうしようという不安だって抱いている。
周りの人はよく、『ケイは緊張とかしなさそう』とか『不安なんて吹き飛ばすぐらいポジティブ』と言ってくれるが、意外とそうでもない。ケイだって普通の年頃の女の子らしく、こういった大舞台の前は緊張するものなのだ。
隊員たちはここまで頑張って練習をこなし続け、力もつけてきて、さらに士気も高まってきている。ならば後は、その隊員たちを指揮する自分が当日に緊張せず普段通り明るく溌剌と指揮をすればいいだけなのだ。それはそうなのだが、その肝心要の自分が不安定ではどうしようもない。
だから今の自分の不安定な状況は何とかするべきだということは、もちろん分かっている。しかしそれだけでどうにかできれば苦労はしない。ストレスや緊張、不安を『何とかしよう』と思っていても、自分だけの力でそれをどうにかするのは難しいのだ。
ロッカールームでタンクジャケットを脱いで、シャワールームでシャワーを浴びて汗と埃を流し、タオルでよく拭いてから制服へと着替える。ここで時計を見上げると、時刻はもうすぐ下校時刻に差し掛かろうとしていた。
自分の中にある緊張感やストレスは、今日眠る時や、明日英とサンダースフェスタを回る時に解消すればいいか、と諦めに近い形で結論付ける。そして制服のポケットに入れていたスマートフォンを見ると、メールの着信を知らせるランプがついていた。こんな時間に誰だろうと思いながら画面を開くと。
『未確認メール:影輔』
その画面を見てから、時間にしてコンマ5秒ほどでメールを開くと。
『差出人:影輔
件名 :
本文
戦車の訓練が終わったら、いつもの音楽室に来てほしい。
聴かせたい曲がある』
直後、ケイは大急ぎで身形を正し、荷物を纏めて隊員たちに挨拶をしてからロッカールームを飛び出す。出る直前でアリサをはじめとする隊員たちが『何事!?』とでも言いたげな表情で驚き、ナオミは黙ってケイのことを見ていたが、そんなことは気にするものか。
このロッカールームとシャワールームがあるのは『ブルドッグ』棟。英のいるであろう『ハイランダー』棟からは少し離れていたので、ケイは駆け足でそこへと向かう。
明日から始まるサンダースフェスタに向けて、掲示板や天井にはモールや紙花等の装飾が施されており、校舎内のイベントのリストを見ることができる特設のモニターも既に設置されていた。
それらには目もくれずケイは『ハイランダー』棟へと向かう。訓練の直後、しかも熱いシャワーを浴びた直後なせいで、身体が熱を持ってしまい、途中何度もペースを落としたり制服を仰いだりしながらも、どうにか『ハイランダー』棟の第5音楽室に到着した。そしてそれと同時に、下校時刻を告げるベルが鳴り響く。
ところが、その第5音楽室の中は電気が点いておらず真っ暗で、おまけにドアの鍵も開いていなかった。
(Why・・・?どういうこと・・・・・・?)
なぜ英は、自分がそこにいないのにもかかわらず、ケイをここに呼び出したのだろうか。そんな疑問が頭の中に芽生えた直後、別方向から英がやってきた。
「早いな、ケイ・・・」
2週間ぶりに見る英。だが、英もケイと同じくは知ってきていた様で、膝に手をつき肩で息をしている。右肩に提げていたトートバッグがずり落ちてしまった。
2週間ぶりに会えたことは嬉しいが、それよりもこんな時間に自分を呼び出した理由を聞きたくて、ケイは英に問いかけた。
「どうしてここに・・・?」
「時間が、無い・・・。まずは、中に入ってからだ・・・・・・」
息も絶え絶えな状態で、英はポケットから鍵を取り出して音楽室の鍵を開け、中の電気を点ける。先ほどまで真っ暗だった音楽室は打って変わって明るい色合いの照明に照らされ、見るだけで暖かくなってくる。この音楽室はサンダースフェスタでは使わないようで、飾りつけはされていない。だから英も今日までここで練習をすることができたのだが。
中に入ると、英はトートバッグから数枚のA4サイズの紙を取り出してケイに渡してきた。その紙には、何かの楽譜がプリントされている。
「ついさっきまで、リハーサルやってて、遅れた。悪い・・・・・・」
「それはいいんだけど、この楽譜は?」
「それはな、昨日、コンビニプリントした、やつで・・・」
「影輔、大丈夫?まずは落ち着いて?リラックス、リラックス」
「ああ、悪い・・・・・・」
あまりにも英が苦しそうにしているので、ケイも見かねてまずは落ち着くことを優先して英を宥める。
英はこの直前まで、東側第2ホールで『サンダースQA』のリハーサルを行っていたのだ。先ほどケイが見たメールを送ったのはそのリハーサルが始まる直前で、その時はリハーサルが終わる大体の時刻も分かっていた。だが、微妙にリハーサルが伸びてしまい、終わるや否や全速力でここまで来たと言う。ちなみに鍵はリハーサルの前に借りておいたものである。
そして下校時刻を告げるベルが鳴った以上、早く用事を済ませなければ教師からどやされるかもしれないので、今は一刻の猶予も無いと言ってもいいぐらいだった。
ようやく呼吸が整ってきて、クールダウンもほどほどにし、英が改めてケイに話しかける。
「・・・明日からサンダースフェスタだな」
「ええ、そうね」
「それで明後日は総合演習だけど、出来栄えはどんな感じ?」
英が質問してきたことと、今ケイの手元にある楽譜を渡してきたことは関連性が無いように感じるが、それでもケイは答える。
「みんな頑張ってくれてるわ。完璧に近いレベルで完成してるし、後は本番を待つだけよ」
「そうか・・・・・・。けど、ケイ自身はどうなんだ?」
「え?」
「前に、ケイは『緊張することだってもちろんある』って言っただろ?だから、今もまた緊張してるんだろうな、って俺は思ったんだけど・・・・・・」
その話は、準備期間が始まる前日に英と一緒に帰る際に話したことだ。そして英の言う通り、今ケイは緊張しているし、不安さえも抱いている。その自分の心を、ほんの少しだけ明かした。
「そうね、私だって今は緊張してるわ」
「・・・・・・だよな。そう思って、何かケイのためにできることはないかって、俺なりに考えてみた」
「えっ・・・・・・?」
英がトートバッグから楽譜を取り出しながら告げたその言葉に、ケイは腑抜けた感じの声を出す。
「やっぱり俺は、ピアノが好きだし、ピアノしか取り柄が無いと言ってもいい。そんな俺が、大切な人のケイのために何かできないかと思って考えてみて、自然とその曲が目に入った」
ケイの手の中にある数枚の楽譜がプリントされた紙を英が指差す。改めてケイがその紙を見てみると、最後の方には歌詞が載っていた。
「緊張したり、不安になったりした人の背中を押すような、前向きな感じの曲。それで、ケイの緊張や不安とかが無くなればいいんだけど・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「よかったら、聴いてほしい」
ケイはその場に立ち尽くす。
まず、英がケイのことを『大切な人』と言ってくれたこと、そして英がケイのために何かできることはないかと自分から動いていたことが、嬉しくて仕方がない。感情を抑えておかないと涙があふれ出そうになるぐらい、嬉しかった。
ケイがどれだけ感情を揺さぶられているかに英は気付かず、ピアノを弾く準備を始める。いきなりケイのために弾くであろう曲の楽譜を広げているので、肩慣らしをするつもりはないようだ。先ほどリハーサルでピアノを弾いていたし、それに時間も押しているのであまりゆっくりもしていられなかった。
「・・・・・・じゃあ、始めるぞ」
「・・・お願い」
英が声をかけると、ケイも一度楽譜に目を落とす。それを見て英が、ピアノを弾き始めた。
およそ2週間ぶりにケイは英のピアノを聴くが、自分の心を掴んだ英のピアノに対する興味は色褪せることなく、また聴けて本当によかったと安堵している。ケイは楽譜に目をやりながらも、英のピアノの音色を絶対に聞き逃すものかと決意する。
前奏が始まった直後は静かな感じがしたが、途中からすぐに音程が上がり、スピード感あふれる展開に変わる。高音と低音を混ぜながらも低音がメインになるような構成だ。
滑らかにAメロに入り、ここからは低音がメインになる。ケイが旋律に合わせて歌詞を読み進めていくと、Aメロは『挑戦する前に失敗すると思い込んで、無理だと決めつけて、諦める日が続いてる』といきなりネガティブな印象がある歌詞だ。
Bメロに移ると、Aメロをベースとしながら高音が交じってくる。『やる前に無理だと決めつけるのは、自分を弱くさせていく。それは挑戦して失敗するよりもバカバカしい』と、Aメロの歌詞を否定するような歌詞だった。
そしてサビに入り、再び疾走感あふれる曲調に変わる。そのサビの部分の歌詞を見てケイも目を見開く。
歌詞は、『不安だと思うのなら、緊張しているのなら、その気持ちを正直に吐き出せ』『失敗を恐れるのは恥ずかしいことじゃない、何回でも挑戦すればいい』と、今のケイにぴったりとも言える意味合いのフレーズだった。
「・・・・・・・・・」
サビの盛り上がりを保ったまま一旦間奏を挟み、2番になって再びAメロに入る。『挑戦することを躊躇って足踏みをする自分を置いて、世界は回り続けている』と、またしても少しネガティブなイメージの歌詞だ。
続くBメロでは、『立ち止まっていれば、前を行く人との距離は遠くなっていく。そうなったら、もう取り戻せない』と、またAメロの歌詞を否定するような歌詞だった。
再びサビに入るが、サビの歌詞は1番と同じだ。だがそれでも、ケイはそのサビの部分を頭の中でだけ歌う。忘れないように、胸に刻むように。
2番のサビを過ぎるとすぐにCメロに入る。そこではAメロのように低音がメインではあるが少しだけ高音を交ぜていて、少しゆったりとしたメロディだ。『成功しても、失敗しても、挑戦した先にあるのは新しい世界。そこを目指して突き進め』と前向きな歌詞だった。
最後のサビに入り、再びスピード感のある曲調に戻る。だがその歌詞は、1番2番とは少し違っていて、『何回でも挑戦すればいい、失敗も楽しめばいい』と変わっている。
そして、最後の部分には新しいパートが加えられていて、そこにも歌詞はつけられていた。
『君と一緒なら、失敗なんてしない』
最後にサビの疾走感を保ったまま後奏に入り、そのスピードを緩めることはなく曲は終わった。
「・・・・・・・・・」
弾き終えた英は、反応を確かめるかのようにケイの方を見る。
ケイは、この曲と曲を弾いた英のことをすごいと思いながらも、拍手はせずに小さく目を閉じて曲の余韻に浸っていた。
「・・・・・・こんなエキサイティングな曲を聴けるとは思わなかったわ」
「そうか・・・。それは、何よりだ」
ケイの心情を分かっているかのように、英はこの曲を弾いてくれた。自分を励まし勇気づけるかのようなフレーズは印象に残ったし、最後のフレーズ『君と一緒なら、失敗なんてしない』という部分は強く胸に響いた。
「・・・影輔」
「ん?」
この曲に出てきた『不安だと思うのなら、緊張しているのなら、その気持ちを正直に吐き出せ』という歌詞を借りて、ケイは英にぽつぽつと話しかけた。
「この曲を聴く前、私すっごく緊張してた、不安に思ってたの」
「・・・・・・・・・」
「戦車道の訓練で、行進訓練なんて慣れないことをして、それを指揮するのなんて初めて。しかも、それを皆の前で公開するっていうんだから、もうすごい緊張してた」
「・・・・・・・・・」
「私に付いてきてくれる皆のことを疑ってるんじゃないんだけど、失敗したらどうしようって不安にも思ってた」
英の顔を見ながら本音を告げるケイ。だが、英は嫌な顔一つせずに、真剣な顔でケイのことを見つめ返している。
「でもね・・・・・・この曲が聴けて良かった」
最後近くの『失敗も楽しめばいい』と言うフレーズを聴いて、ケイの気持ちは軽くなっていた。もちろん、失敗してもいいやなんて無責任な考え方はしない。そうではなくて、失敗してもその時は嘆くのではなくて、それも一興として楽しめばいいんだと、そう思わせてくれるフレーズだった。
緊張したり不安になったりするのはあまりらしくない、とケイは思っている。この歌詞のように、ポジティブに考えるのが自分らしいと、そう明るく考えることができるようになった。
ケイの中にある不安も、緊張も、消え去っていた。
「ありがと、影輔」
「・・・・・・どういたしまして」
ケイは、英だって緊張したり、不安になっているんだと思っていた。何せ、自分が嫌っていたはずの、大人数の前でピアノを演奏するという大舞台を目前に控えているのだから。だから今の曲も、ケイを元気づけるために弾いたのと同時に、英自身を奮い立たせるために弾いたのだろうと、ケイは分かっていた。
それでも、英が自分のことを考えてくれて、この曲を弾いてくれたことはとても嬉しかった。
「“お互い”、全力で頑張りましょ?」
「・・・ああ、もちろん」
『お互い』という言葉を聞いて、英も自分のことに気付かれたなと小さく笑う。
そしてケイが英に右手を差し出す。英も、ピアノ椅子から立ち上がって、同じように右手を差し出し握手を交わす。
お互いの成功を祈って。
余談だが、このあと英は鍵を返しに行った際に教師から『練習熱心なのはいいが時間は守れ』とお小言を貰って英は平謝りしたのだが、そのことをケイは知らない。
部室棟の『フォックストロット』はオリジナルネーミングで、
ICAOのNATOボネフィックコードから付けました。
次回からサンダースフェスタ編ですが、2~3話を予定しております。
感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。