少し長めですが、よろしくお願いいたします。
奏で続けよう
12月も半ばを過ぎれば、どこもかしこもクリスマスムードに染まる。
それはサンダース大学付属高校学園艦とて例外ではない。艦内の店舗にはポップアートや電飾などにぎやかな装飾が施され、キャンペーンやセールを行い客足を伸ばそうと図っている。ここ最近で売れているのはパーティグッズやお菓子、ジュースなどの嗜好品らしい。
そして学校の中庭には、どでかいクリスマスツリーが聳えている。元々植えられていたモミの木は、オーナメントや色とりどりのモールで煌びやかに彩られていた。頂点の大きな星の飾りがトレードマークだ。
「ホントでっけーなー・・・」
「カメラに収まんないよ~」
毎年恒例のこのツリーは、完成度も高く生徒からの人気が高い。1年の内わずかな期間でしか見られないこのツリーを一目見ようと、そこそこの数の生徒が木の下に集まっている。写真に収めたり、絵に描こうとするアーティスト気質の者までいた。
総じて、サンダースはクリスマスが近いのもあって全体的に浮ついた雰囲気になっていた。それは、アンツィオほどではないが、ノリが良く、楽しいイベントを好むタイプのサンダースにとっては当然の帰結とも言える。
そんな喧騒から離れ、クリスマスツリーさえ見えない場所にある校舎『ハイランダー』棟。
サンダースの校舎はいくつも棟があるが、この『ハイランダー』棟にしかないものがある。
それは、第5音楽室で奏でられているピアノの音色だ。穏やかで優しいその旋律は、静かな校舎に溶け込むように目立つことなく流れている。
そのピアノを弾いている赤みがかった黒髪の男子は、英影輔。視線はピアノと鍵盤だけに向けられており、指は淀みなく鍵盤を叩いている。
そして、英が弾くグランドピアノに寄り掛かる金髪の女子は、サンダース戦車隊の隊長・ケイ。目を閉じて、英のピアノに静かに耳を傾けている。
―――胸に秘めたその気持ち、いつか忘れてしまうかも
―――それは見えないものだけど、いつもあなたの傍にあるよ
弾いているのは格式高いクラシック曲などではなく、ドラマの主題歌にもなったラブソングだ。そもそも英が弾くのは、大半がこういった大衆向けの曲である。
曲は既に最後のサビに入り、メロディは盛り上がりつつある。対旋律を奏でる左手は忙しくなってきた。それでも英は焦らず冷静に鍵盤を叩き、楽譜に沿って音を奏でる。
―――寂しい時も2人で乗り越えて
―――大切な人を忘れないで
最後のフレーズも終えて、後奏に入る。サビで盛り上がっていた雰囲気を残しつつ、落ち着いたメロディになる。そして、その曲調を維持したまま最後の小節に差し掛かり、曲は終わりを迎えた。
「いい曲だったわ、グレイト!」
鍵盤から指を離すと、ケイが小さく拍手をしてくれる。英は軽く手を挙げて『ありがとう』と応えた。拍手が小さいのは曲の余韻を壊さないためのケイの気遣いで、それは英も知っている。だから『あんまりな出来だったのか?』と不安にもならない。
「どうにか、形にできたか」
「そうね。聴いててもおかしなところなんてなかったわ。でも、難しかったかしら?」
「まあ、な。結構テンポが速めの曲だし」
英個人としては、テンポが速い曲の方が好きだ。しかし、速ければ速いほど奏でる音の数は増えるし、リズムも複雑になって難易度は上がる。先ほどの曲は難しい方だった。その分、完成した時の達成感は十分ある。
「やったわね、影輔」
右手を差し出してくるケイ。英の傍で練習しているのを見てきたから、達成感を抱いているのはケイも同じだった。
その差し出された手を、英は優しく握り返し、ケイが一緒になって喜ぶのを嬉しく思う。
やがて手を離すと、英は時計を見て『さて』と。
「そろそろ帰るか」
「え、もう?」
時刻は4時半過ぎ。サンダースの校舎は冬休みも開放されており、その上限時刻は5時。まだ少し時間が残っている。ケイとしては、もう少し英のピアノを聴いていたかった。
「帰りに買い物していくんだろ?付き合うよ」
「・・・Oh,そうだったわ」
この音楽室に来た時、『帰りにショッピングを少ししたい』とケイが言っていたのを英は忘れていなかった。
「でも急いでるわけじゃないし、時間いっぱいまで残ってもノープロブレムよ?」
「いや、陽が落ちると寒くなるし、明るいうちに行っておこう。それに、ピアノは今日しか弾けないってわけでもないし」
この時期は、身を裂くような寒さが容赦なく襲い掛かる。学園艦は海を航行しているから、風の影響をもろに受けやすい。そのリスクを少しでも抑えるために、英は早めの下校を提案した。
そしてそれは、ケイを気遣ってのことであることも、当人は感じ取る。
「・・・そうね、そうしましょう」
ケイが頷くと、英も早速帰り支度を始める。持ってきた楽譜をお気に入りのトートバッグに仕舞い、鍵盤には保護シートを被せて蓋を閉める。
それから音楽室の鍵を閉めて、職員室に鍵を返してから昇降口へと向かう。
「さて、行くか」
「うん」
昇降口を抜けると寒い空気を全身で受け、同時にケイが何の前触れもなく英の手を握ってきた。しかし英は、払いのけたりはせずにその手を握り返す。
英とケイ、2人が付き合い始めて2か月近くが経つ。元々ケイはボディタッチがそれなりに多かったので、最初は戸惑ったこれも今は安心感すら覚える。
「それにしても、やっぱり繁盛してるわね~」
「後から後から頼まれてな・・・切れ目がない」
英の持つトートバッグの中には、ゆうに10冊を超える楽譜が入っている。それを見て、ケイは苦笑した。
その楽譜のほとんどは、英にピアノを弾いて録音してほしいと頼んできた人のもの。英自身の持っているものは1~2冊程度しかない。
元々英のピアノの腕を知っていた人が頼んでくることはよくあった。
だが、学校を挙げての学園祭『サンダースフェスタ』で英の技術が明るみになったことで、その依頼の数は大きく跳ね上がったのだ。サンダースフェスタ直後は文字通り山積みだったので、日にちが経った今では大分落ち着いている。とは言え、やはり以前と比べれば多い。
「疲れたりしてない?」
「大丈夫。腱鞘炎にもなってないし、加減は弁えてるつもりだ」
ケイが心配そうに訊くと、英は強がりなどではなく素直に笑って答える。
サンダースフェスタに向けての練習とその本番で、いつも以上にピアノを弾きまくった結果、英は無理が祟って腱鞘炎になりドクターストップまでかかった経験がある。その時ケイに心配をさせてしまったので、英はそうならないために今は程よくブレーキをかけている。
「もう本格的にクリスマスだな・・・」
サンダースの町を歩きながら、英は民家を彩るイルミネーションや店舗のポップアートを見てしんみりと呟く。
「ケイといると、時間が経つのが早く感じる」
「なんで?」
「そりゃ、楽しいことが多いから」
付き合い始めてから、英はケイと共に色々な場所へ行った。
設備の揃うリッチな学園艦特有の映画館や水族館、プラネタリウム。本土に寄港した時は、街を一緒に歩いたこともあり、この間はOBのメグミの提案で猫カフェにも行った。
ケイがアクティブな性格だからか、デートの範囲は広く、かつ1日中出ずっぱりのことが多い。
それが英は、楽しかった。隣にいるケイがとても楽しそうで、そしてそんな彼女を英が好きでいて、それこそが英が望んでいたものだったから。
そんな楽しくて濃い時間を過ごしてきたからこそ、時間の流れを早く感じるのだ。
「・・・そう言ってくれると、嬉しいわ」
ケイは、言葉と共に手を握る力をほんの少し強くする。
嬉しいのはケイも同じなんだと、英はその手から伝わる温かさで感じ取った。
ケイのショッピングで訪れたのは、ごく普通のスーパーマーケット。
ケイは買い物カゴに、お菓子やジュース、パーティ用のクラッカーなどを入れていく。それは、クリスマスイブにケイの寮で開かれるクリスマスパーティ用のものだ。
「今度はどれぐらい来るんだっけ」
「えーっと・・・20人ぐらいだったかしら。影輔も呼ぶんでしょ?」
「ああ、山河とクリスを・・・平気か?」
「OKよ」
ケイの趣味のホームパーティは、月に数回程度の頻度で開かれる。その主催者であるケイの顔の広さは知っているので、今さら20人程度ではもう驚かない。
そしてケイと付き合い始めてから、英も友達をホームパーティに招待するようになった(ケイとしては禁止していたつもりはない)。その友達―――山河とクリスもホームパーティを通じてケイとは親しくなっている。
「けど、菓子は買いすぎじゃないか?」
「多いに越したことは無いし、今回だけで食べきる必要もないからね」
お徳用サイズのお菓子をカゴに入れていくが、ケイの言う通りまた次のホームパーティで必要になるかもしれないので、とやかく言わないでおく。
そして買い物を終えて会計を済ますと、英は何も言わず、さも当然と買い物袋を手に提げる。結構重いが、愚痴るのはカッコ悪い。
そんな英の気遣いにケイは小さく笑い、空いた手を繋ぐ。多くは語らなかった。
「影輔は、パーティ用の曲ってもう決めた?」
「ああ、3~4曲ぐらい。でいいか?」
「OKOK。いざとなったら私の楽譜を貸すわ」
英は、パーティやイベント向きの曲もいくつか習得している。そして、ケイのホームパーティで自分のピアノを披露するのは最早定番と化していた。
ケイも、英と付き合い始めてから、歌やピアノに興味を持ち始めている。まだピアノは弾けないが、それでも英のピアノが好きだから、楽譜を手に曲を頼むことは増えてきた。
無論、英はそれを断ったことは1度もなく、ケイのためならと喜んで受け取って練習し、そして演奏する。『お礼はいらない』と英は言うが、ケイも義理堅い性格なので『何かお礼がしたい』と押して押され、最終的にご飯を奢ってもらう結果に落ち着く。
そして、ケイからピアノを頼まれてから、英にも新しい発見があった。
「そう言えば、ケイから色々頼まれて分かったけど、ラブソングってしっとりした曲ばかりなわけでもないんだな」
「あー、確かにそうね。影輔が好きそうなのもあったでしょ?」
「ああ、あったな」
これまで英は、恋愛系の曲に対して、全体的にゆっくり・しっとりしたバラードが多いとばかり思っていた。それが嫌いなわけではないが、テンポが速く、明るい曲が好きな英はどうも苦手だったのだ。
ケイと英にとっては特別な、2人でサンダースフェスタで奏でたラブソングも、そんな感じの曲だった。
だが、様々な曲をケイから頼まれ、教えてもらう中で、ラブソングはそういう感じの曲ばかりではないと知った。ケイの言う通り、英が好きなタイプの曲だって少なからずある。
「まあ、食わず嫌いってヤツだったな」
「あはは、言い得て妙ね」
『そんな感じがする』という先入観だけで遠ざけていた英は、まさに食わず嫌い状態だったのだ。音楽家を志す者としては失格だろう。
「だから、ありがとうな。気付かせてくれて」
それに気付くことができたのも、ケイのおかげだ。それは嬉しいほかないし、気付かせてくれたケイには感謝の気持ちを伝えたかった。
それを聞いてケイは、にっと白い歯を見せて笑った。
「お礼なんていいわよ?私だって影輔のピアノが聴けて嬉しいし」
いつだって、ケイは英に屈託のない笑顔を見せてくれる。
その笑顔が、英がケイの好きなところに変わりはない。
「あ、そうだ。クリスマスパーティで、またあの曲を歌ってもいい?影輔のピアノと一緒に」
「ん、いいぞ」
「やった」
その歌いたい曲は、もう分かっている。ケイが歌いたいのであれば、英はその曲を弾くだけだ。それに、そのケイの言う曲は2人にとっても特別な曲。それを却下するなど考えられない。
ケイの寮へと向かううちに、陽はさらに沈んでいく。
陽の光が弱まれば気温も下がり、寒くなってくる。冷たい潮風が吹き、冬の寒さを嫌でも実感させてくる。
だが、澄み切った空には一番星が輝いていた。そんな空をケイは見上げ、白い息を吐く。
「今・・・どのあたりかしら」
「明後日には、長崎に着くんじゃなかったか?」
どの学園艦も年末年始は母港に寄港し、生徒が実家に帰省しやすいように配慮してくれる。このサンダースの学園艦も、母港・長崎港に向けて航行している最中だ。
「実家にはいつ帰るかな・・・」
英が独り言をつぶやくと、そこでケイの表情がなぜか明るくなった。
「ね、影輔」
「?」
そしてその表情のまま話しかけてくる。
「私たちが付き合ってるのを家族に伝えるって話、この前したじゃない?」
「・・・ああ、そうだったな」
冬休み前の時点で、2人とも正月は実家に戻ると決めていた。その時ケイは、自分の家族に英と付き合っていると報告したらしい。それについては、英も恥ずかしくはあったがOKを出した。
「そしたらね、ウチの家族がぜひ影輔に会ってみたいって」
「何?」
ケイが言うには、ピアノを弾いている男子、というところに興味があるらしい。また、家族もケイの性格を知っているからこそ、そんな彼女が好きになった男がどんな人なのか実際に会ってみたい、だそうだ。
「・・・不安だ、すごく」
「心配いらないわよ!ウチのパパとママ、とってもフレンドリーだから」
そうは言っても、実際に会ったことが無いのでどうなのか想像できない。ケイの言葉を疑うわけではないが、それだけではまだ不安だった。
「で、影輔はもう言った?」
「ああ・・・大方ケイと同じ。喜んでたし、ケイに会ってみたいって」
「ホント?良かった~」
『喜んでた』と言っても、母親が『あなたに彼女が?』と若干失礼な物言いだったのは今も少し根に持っている。
しかしながら、ケイを歓迎する雰囲気だったので、恐らく帰省する時に一緒に行くことになるだろう。
「影輔のママもピアノ弾いてるんでしょ?どんな人か楽しみね~」
「物怖じしないな・・・ホントに」
英とは違って、ケイは早くも英の両親に会ってみたいらしい。その辺りは性格の差だろう。
そしてそうこうしているうちに、ケイの寮が近づいてきた。
「明日も、ピアノの練習するのよね?」
「ああ」
「じゃあ、戦車道の訓練が終わったら、また聴きに行ってもいい?」
サンダース戦車隊は、冬休み中でも訓練が続いている。
先の全国大会で大洗女子学園に敗北を喫して以来、練習にはより一層力を入れている。夏の終わりには共闘したとはいえ、全国優勝までのし上がった大洗がサンダースの乗り越えるべき壁であることは変わらない。だから、次こそ勝てるように練習は欠かさないのだ。
それに、ケイは今年度末で卒業してしまうので後輩の育成にも力を注いでいる。冬休みで帰省する隊員もいるので、訓練の規模は普段よりも縮小しているが。
そんな訓練の後で、今日のようにピアノを弾く英の下へ行き、傍で静かにピアノの音色に耳を傾けることをケイは楽しみにしていた。
だが。
「・・・悪い。明日はちょっと、どうしても1人で練習したい曲があるから・・・」
「そっか・・・分かったわ」
最近、こうして英が『1人で練習したい』と言うことが増えた。
ケイは極力声と表情に出ないようにしているが、それはどうしても残念だった。
そして同時に、不安でもある。英が1人で練習したい曲がどんなものかは気になるが、まさかそれは『建前』で、何か後ろめたい理由があってケイを遠ざけているのではないか、と。
(・・・・・・っ)
その理由を考えると、ケイの胸の奥がざわつく。たまらず自分の胸を押さえつけたくなるほどに、苦しくなる。
自分にとって辛いこと、考えるのも恐ろしいほどの何かが起きているのではと邪推してしまう。
「ケイ」
英に呼ばれ、ハッとする。
沈みかけていた意識が引き戻される。
「本当に、ごめん。だけど、明後日は大丈夫だから・・・」
そう言う英は、目に見えて分かるほどに辛そうだった。
ケイが聴きに来るのを拒んでいることを、自分で悔やんでいるように見える。
「・・・それじゃ、明後日を楽しみにしてるわね」
その顔を見ると、不安よりも疑問の気持ちが強くなる。そうまでして練習したい曲とは、何なのか。それ以前に、本当に曲を練習しているだけなのか。
寮の玄関先で、英はケイのルームメイトのシンディにレジ袋をバトンタッチし、家路に就く。それを見届けながら、ケイは心の中で蟠りが大きくなっていくのを感じ取っていた。
□ □ □
くどいようだが、サンダースはリッチなおかげで戦車道の設備も整っている。だから、普通の学校では実施しにくい訓練だってできるのだ。
サンダース学園艦は艦上だけでなく、艦内にも演習場を有しており、地形も草原や荒野など様々。プールと併用すれば浜辺を想定した訓練だってできる。さらに、あらゆる天気を再現することができ、大雨や雪、夜間も自由自在だ。
今は、草原地帯に人工雪を降らせて雪原を再現し、10対10の模擬フラッグ戦が行わている。
『敵フラッグ車、C10地点を通過!』
Bチームを率いるファイアフライの砲手・ナオミは、通信を聞くと照準器を覗き込む。焦らず気持ちはフラットに、いつでも敵戦車を撃破できるよう備える。
このファイアフライが控えているのは小高い丘の上で、敵戦車を狙いやすい位置にいる。加えて雪で視界が悪く、さらに天気も暗めなのでの車体は見つかりにくい。
しかしナオミは、この模擬戦が始まってから一度も
そして今、敵チームの戦車は大分減っており、ナオミは自分が参戦する頃合いだと思った。
(なまじ腕が良すぎるのも、考え物だな・・・)
決してナオミは、妄信しているわけでも、驕っているわけでもない。自分の腕がここに至るまでには、相応の鍛錬と、自分に対して強い自信を持つことを欠かさなかった。その賜物と考えて、そして自分に酔うことなく研鑽を続けている。だからこそ、今のナオミの立場はあるのだ。
「・・・・・・」
頭でそう考えても口には出さず、ナオミは黙って照準器越しに敵戦車の動きを追う。
ファイアフライの中はエンジンのアイドリング音に混ざり、ナオミがガムを噛んでいる音が響いている。だが、他の乗員はそれはナオミが集中している証だと分かっているから、不快には思わない。
『こちらチャーリー、C12地点に到達しました!敵フラッグ車、C14地点に向かって邁進中!』
「装填完了しました」
チャーリーの車長からの通信、装填手の報告にナオミは頷き、砲塔を動かして目的の場所に狙いを定める。そこを通過しようとしたところを狙い撃つ算段だ。
照準器を覗き込み、焦らず冷静に、獲物が視界に入るのを待つ。先走ってしまえば、撃破するチャンスを逃してしまう。
やがて、雪が降りしきる照準器の中に、敵フラッグ車のシャーマンが入る。
「!」
それを逃さず、ナオミはトリガーを引く。他のシャーマンとは違う鋭い砲声が響き、ファイアフライが揺れる。
そしてナオミの覗く照準器の中で、敵フラッグ車が黒煙を上げて停車し、白旗を揚げるのを確認した。
『Aチームフラッグ車、走行不能!Bチームの勝利!』
審判係の通信が入り、ファイアフライの中の見えない空気が緩む。ナオミも照準器から顔を離して、小さく息を吐いた。
「みんな、お疲れ」
『お疲れ様です!』
声をかけると、疲れを感じさせない声が返ってくる。ナオミはその声を聞いて頷くと、ファイアフライが前進してゆっくりと丘を下り始める。既に人工雪は止んでおり、照明も点いていて演習場はさっきとは違い明るかった。
丘を下りたところでナオミがキューポラから身を乗り出すと、撃破を免れたAチームのケイのシャーマンが並走する。
そして、ケイもまたキューポラから身を乗り出し、ナオミの方を見る。
「・・・・・・」
その顔を見て、ナオミは首を傾げる。
ケイの表情は、まるで何かに縋るようだったから。
「影輔が最近、1人で練習することが増えてきてると」
昼休憩の時間、ケイから相談を受けたナオミは話の要点をそうまとめた。
場所は艦内演習場より2つ上の階層。戦車隊員用のミーティングルーム兼休憩スペースで、周りも多くの隊員たちが思い思いに休憩をしている。ナオミもまた、傍らに昼食のホットドッグを置いていた。
「いつから?」
「冬休みに入ってから・・・それまでは無かったわ」
「影輔がそうなるような心当たりは?」
「・・・正直、全く思い浮かばない」
イスに深く座るナオミは、ケイに質問を投げかけつつも考える。
ケイの話は分かった。だからケイが不安になったり、英を疑ってしまうのも頷ける。
だが、ナオミは英がちょっとやそっとの理由でケイを遠ざけるとは考えにくかった。何せ、英はケイに相応しい人になろうとどれだけの努力と成果を挙げたのかは知っているし、そうさせたのはナオミ自身でもある。
だから、自分の全てを賭けてでも一緒になったケイを、そう簡単に見放すだろうか、とナオミは考える。ましてや浮気など、あるだろうか。
「・・・で、なんで私は呼ばれたんです?」
その2人の間で、サンドイッチを手に不服そうにしているのはアリサ。
相談事ならばケイとナオミの2人で十分だろうし、おまけにその内容はこの場にいない英のことだ。2人は同じ寮に住んでいるからここで話す必要は無いし、なお自分が呼ばれる理由がアリサには分からない。
そこでナオミは、ふっと笑う。
「あるぞ、理由」
「どんな?」
「友達以上恋人未満のボーイフレンドがいる」
「んんっ!?」
野菜ジュースがむせ返りそうになった。
「アリサ、最近タカシの方とは仲良くやれてるみたいじゃないか」
「そうね。傍から見たら、ただのボーイフレンドには見えないわ」
2人の言葉にアリサの顔が赤く染まる。
サンダースフェスタの模擬戦以来、アリサは男友達にして意中の人・タカシとの交流が増えている。昼食は2人で、休日も一緒に出掛けるなど、その関係はまさにケイの言う通りだ。サンダース戦車隊の見解では、2人の関係も『良い意味で』時間の問題とのことである。
「まあ、現在進行形で恋しているアリサならどうするか意見が聞きたい」
「そう。だからあなたを呼んだのよ」
アリサもそう言われては、無下に断れない。なんだかんだでアリサも、ケイとナオミのことは尊敬してはいるのだ。
また、アリサにとってもこの話は他人事とは思いにくい。
ケイと同じように、自分の好きな人―――アリサの場合はタカシ―――が、自分を遠ざけるような素振りを見せてきたら、どうする?
「・・・私が何かしなかったか、考える」
「で、心当たりが無かったら?」
「その人を、見て観察する。何か変わったところがないか」
アリサの意見はもっともだと、ナオミはケイを見る。しかしケイは、それでも心当たりがないらしく、肩をすくめる。
「ピアノを弾いてる時は変わらないし、デートの時も・・・。だからって四六時中一緒にいられるわけじゃないし」
英もケイも、寮生活が続いている。相手の行動を見ていられるのは、一緒にいる時だけだ。それ以上、例えば尾行などに出るのはストーカーの一歩手前、フェアじゃないのでケイは嫌だった。
「それに・・・」
付け加えるようなケイの言葉に、アリサとナオミは疑問符を表情に浮かべる。
「影輔も、すごく辛そうな顔をしてた。何か疚しいことをしてるとかじゃなくて、本当に私を遠ざけてることを申し訳なさそうに・・・」
膝の上で手のひらが握られる。その瞳は揺れていた。
ケイは言わずと知れたサンダース戦車隊の隊長で、洞察力は高い。人を見る目もあるし、その言葉に嘘偽りはないだろうと、アリサとナオミは思う。
だが、ますますもって英が1人で練習したがる理由が分からなくなった。
こうなると、こちらがあれこれ考えたところで結論は出ない。
「後はもう、直接訊くぐらいしかないですかね」
「まあそれが一番手っ取り早い・・・けど」
自分に落ち度はないと思う、かと言って相手にも変わっている様子が無いとなれば、アリサの言う通り直接訊くのが良いだろう。
だが、最初からそれができれば苦労はしないわけで。
「・・・怖いの。それを訊くのが」
俯きがちに、ケイが呟く。
「それを訊いて、本当にただ集中して練習したかっただけだったとしても、影輔を不安にさせちゃうかもしれないから」
実際に問いただして、本当に何もなければそれでいい。
だが、そう訊いたことで逆に英を『心配させてしまった』と負い目を植え付けてしまうかもしれない。最悪の場合は、そこで関係が終わることも考えられる。
「分からないのよ、今は・・・」
その声は、不安に押し潰されそうなのが分かるほどだ。
「何も訊かないでいるべきか、ちゃんと話した方がいいのか・・・だけど、待っているだけなのは不安で、訊くのもちょっと・・・」
ケイにとって英はかけがえのない人である。その英とのつながりを、自分の言葉1つで断ってしまうことが、ケイは怖かった。それは、想い人がいるアリサにはよく分かった。
一方で、この場でまだ恋をしていないナオミは、あごに指をやる。
ケイと出会って3年近く、ここまでしおらしい姿を見るのは初めてだし新鮮でもあったが、それはそれ。今はケイがジレンマに思い悩んでいるのをどうにかするのかが先決だ。
ケイの口からは訊けない、だけど何が起こっているのかは知りたい。
「分かった、私が行く」
ナオミが自ら名乗り出る。アリサとケイは、意外そうに見てくる。
「でも・・・」
「影輔とはそこそこ仲が良いし、ちょっとした縁もある」
付き合っているケイが訊けないのなら、他の誰かが訊くしかない。その結論にはこの場にいる全員が至っていた。
それなら、まだ良き友人であるナオミが訊いた方がまだいい。
「それに、言いたいこともできた」
そう言ったナオミの真意はケイとアリサの2人には分からないが、ケイは『お願い』と頭を下げる。アリサはふぅと一息ついて、サンドイッチを齧った。
訓練は15時で終わり、身だしなみを整えたナオミは『ハイランダー』棟の第5音楽室へ向かう。そこで練習していることは、前にケイから聞いていた。
「さて・・・」
目的の音楽室に近づくにつれて、ピアノの音色が聞こえてくる。その旋律は英が奏でているのだろうが、そこにいるのが英
信じたくはないが、ナオミも英が『浮気している』可能性も塵芥程度には考えていた。もし本当にそうだとしたら、ファイアフライで撃ち抜くのも辞さないが。
しかしナオミは、そのピアノを聞いているうちに違和感を覚え始める。
(・・・歌声?)
ピアノに混じって、歌声が聞こえてくる。だが、その出来はお世辞にも上手いとは言えない。
やがて音楽室の前に辿り着き、ドアの小窓から中の様子を気付かれないように伺ってみる。
(・・・いた)
グランドピアノを弾いていたのは、やはり英だった。
だが、その近くに人の姿は無い。
そして驚くべきことに、歌っていたのもまた英だ。
(?)
視線を横に向けて机が並ぶ方を見ても、誰もいない。別の人のものらしき荷物さえ置いてない。この音楽室にいるのは、英1人だけのようだ。
ナオミがもっと中を見てみようとしたら。
『何してるんだ、ナオミ?』
「あ」
いつの間にか英が演奏を止めて、ドアの方を見ていた。気付かないうちに露骨に中を覗いていたせいで、バレてしまったらしい。
大人しくナオミは、ドアを開けて姿を見せる。
「何か用か?」
「・・・まあ、ちょっと」
ナオミは『邪魔するよ』と言いながらドアを閉めて、中へ足を踏み入れる。改めてこうして見ても、英以外誰もいない。誰かがいたらしき痕跡も見受けられない。
一方で英は、ナオミがなぜここに来たのかが分からないらしく、珍しそうな目でナオミを見ている。
「見学か?」
ナオミが練習を見に来たことは一度もない。だから、ケイの話で興味が湧いたのかと思ったのだが、そうではない。
「いや、影輔に話があって来た」
「話?」
「ああ」
ナオミは、グランドピアノに寄り掛かり腕を組む。
そして英の顔を見て。
「最近ケイを練習から遠ざけているらしいな」
前置きも建前も捨てて、ナオミは訊いた。
その瞬間、英の表情が凍る。ナオミの言葉が責めているようなトーンだったから、委縮するしかない。
「・・・ケイから聞いたのか」
「いや。冬休みになって、ケイが1人で下校することが多くてな。前までは影輔と一緒に帰ってたのに、どうしたのかと思って訊いてみた。そしたら、『影輔が1人で練習したいって』とね」
ケイから直接相談を受けた、とは言わない。ケイに対して不安を抱かせないために。
冬休み前まで、ケイは毎日と言っていいほど英と一緒に下校していた。それは放課後の英の練習をケイが傍でずっと見ていたからなのは知っている。しかし冬休みになって、ケイが英の練習に付き合わず、訓練後に寮へ直帰するその機会が増えた。それをナオミは疑問に思った、と言う体で訊いたのだ。
「どうして、ケイを遠ざけるような真似をする?」
ナオミは普段通り飄々としている風だが、英には感情の読めないその視線が痛い。
そして英は、ケイを遠ざけていること自体に胸が痛かったが、今こうして指摘されてさらに胸が苦しくなる。
ナオミの質問に、英は考える前に、ピアノのスタンドに開いていた楽譜を見せた。
「・・・ケイには聴かせられない曲を、練習してるから」
「?」
「この曲は、どうしても1人で練習したい」
ナオミは眉をひそめつつも、楽譜を受け取る。
それは、ナオミも知っているポピュラーな歌手の曲を載せた楽譜だったが、これとケイがどう関係しているのか。
「いや、ケイには聴かせたい。だけど、練習しているところを見せるのは嫌なんだ」
パラパラとめくっていると、異質な曲が1つ見つかった。
その曲だけ、マーカーや付箋などの目印が多い。書き殴ったようなメモがいくつもあって、素人目で見ても相当苦戦しているのが分かる。
どうやら、英が練習しているのはこの曲らしい。
「なんでこの曲を聴かせたくないんだ?」
「・・・・・・歌詞」
「え?」
英はどういうつもりか、ナオミと視線を合わせようとはしない。それを疑問に思いつつ、ナオミはページの下部に載っているその曲の歌詞を読んでみる。
やがて、読み進めていくと、ナオミも『ああ、そういうこと』と納得した。
「・・・確かにな。これは恥ずかしい」
「・・・だろ?」
読み終えたナオミは、失笑する。英の顔は、少し恥ずかしそうに赤かった。
練習していたその曲は、ラブソングだ。それも、サンダースフェスタで英とケイの2人が奏でたあの曲よりもずっと『強い』。まるで、聴いている人に直接話しかけているような歌詞だった。
「さっきの下手な歌もこれか」
「ズバリ言ってくれるな・・・けど、そうだ。それに難しいんだよ、ピアノ弾きながら歌うって」
ケイにも話したが、ピアノを弾くのだけでも多大な集中力を要する。それに加えて歌うのは、思っている以上に難しい。
「・・・で、これは誰の為に歌うんだ?」
「ケイのためだ」
ナオミは、英を『見る』。
その表情、言葉には、ごまかしや嘘などの邪な感情は見受けられない。恐らく英は。本気でケイに聴かせるために、この曲を練習している。そしてその真意も、この曲の歌詞から分かった。
その表情を見て、ナオミはふぅと一息吐く。
「・・・正直、疑ってたよ。浮気でもしてるんじゃないかって」
「そんなこと」
バカ言え、と英が失笑する。
そこへナオミは容赦なく。
「私が疑うぐらいだから、ケイだってそう思うだろうな」
英が硬直する。
「あんなことを言ったんだ、浮気の1つでも疑いたくなる。それに自分が遠ざけられてると思えば、自然に不安にもなるだろうさ」
ケイと接していた時間は、ナオミの方がずっと長い。だから、この場でケイがどんな人かを知っているのはナオミの方だし、その分ケイの意図を汲むことができる。
それは英も理解できるから、その言葉に信憑性を感じていた。
ナオミの言葉を受けて、英はどれだけ自分が浅はかなことを言ったのかを、改めて痛感する。
そんな英に、ナオミはさらに言葉をかける。
「影輔の狙いは分かったし、他の誰かに靡いてるなんてことも無いのならいい。けど、どんな事情があっても彼女を突き放すようなことを言うべきじゃないのは、私でも分かる」
ナオミの言葉は、もちろん間違っていない。
だから英は、反論できない。
「そんな当たり前なことにも気付けないなら、それは正真正銘のバカだ」
言い放つ。それこそ、ナオミの言いたかったことだ。
たとえ自分の大切な人を喜ばせたくても、サプライズのつもりでも、相手を悲しませたり不安にさせたりするような言動は、しない方がずっといい。それは、現在彼氏のいないナオミでも分かる。
そしてもちろん、英がそれに微塵も気付けていないとは思わない。
ケイにあの言葉を言った時、英自身もまた辛そうな表情をしていたのは聞いている。それは、英が自分で罪悪感を覚えているからだろう。
「・・・・・・・・・」
英の口は、真一文字に引き締められている。それは今更ながら後悔しているからか、それとも自分の愚かさを嘆いているのか、両方か。
ナオミは目を閉じて、鼻で息を吐く。
「・・・とりあえずケイには、『心配することは何もない』とだけ言っておく。あとは、影輔が自分でどうにかしろ」
「・・・分かってる」
口を開いた英の顔は、真剣だった。
□ □ □
その翌日、英は今日もまた音楽室でピアノを弾いていた。傍にはケイもいる。
今日持ってきた曲は、英とケイのそれぞれが好きな曲と、頼まれた曲が1~2曲ほど。ナオミに昨日見せた曲は持ってきていない。
今弾いているのは海外のバンドの曲で、英も弾き慣れている。海外の曲は、その歌詞の意味を訳して理解するのに手間がかかるが、その分理解できた時の喜びも大きい。
―――僕がもっと小さかった頃は
―――今みたいにしんどくなるなんて思わなかったよ
―――だけど愚痴ってる場合じゃない
―――君の力が必要なんだ
この曲は、『まだ子どもの頃は1人で何でもできると思っていたけれど、成長していくにつれて人とのつながり、人を助ける気持ちのありがたさを知るようになる』と言うメッセージが込められた曲。
英はピアノを弾いている時、視線は楽器と鍵盤に注ぎ、頭の中は曲の情景を思い描くことに集中している。そこにを意識していれば、より感情を籠めてピアノを弾けるからだ。
「・・・・・・」
ほんの少しだけ、視線をケイに移す。
グランドピアノの天板に頬杖をついて、英のピアノに耳を傾けている。時折小さく首を揺らして、リズムに乗っているのが分かる。
そんなケイを見て英は笑い、ピアノに意識を戻す。曲ももうすぐ終わりだ。
―――助けてほしいんだ、できることなら
―――ありがとう、力を貸してくれて
―――1歩進むのを助けてくれるかい?
―――どうか、手を握ってほしい
最初から通しで軽快なリズムを保ったまま、曲は終わりを迎える。
鍵盤から指を離すと、ケイは静かに拍手をしてくれた。
「上手かったわ」
「ありがとう」
弾き終えたことで、英の意識もはっきりとケイに向けられる。
目に映るのは、純粋な笑みを浮かべて英のピアノを褒めてくれるケイの姿だ。
だが、その姿を見て、英の頭に昨日のナオミの言葉がよぎる。
―――自分が遠ざけられてると思えば、自然に不安にもなるだろうさ
―――そんな当たり前なことにも気付けないなら、それは正真正銘のバカだ
今は明るく振舞っていても、ケイは英に対して不安を抱いているだろう。
そしてそうさせてしまったのは、他でもない自分のせいだ。たとえ、ケイに聴かせたい曲を内緒で練習するにしても、それは恋人であるケイを不安にさせていい理由にはならない。
英は、自分を恥じた。
「・・・ケイ、少し話していいか」
「?」
一旦鍵盤に保護シートをかけて蓋を閉じる。
英はピアノ椅子に座り、ケイは近くの席の椅子を引っ張ってきて、英の傍に座った。
「・・・昨日、ナオミが来た。それで、どうしてケイを遠ざけるんだって、訊かれた」
「・・・そっか」
昨日の首尾について、ケイはナオミからは『心配することは何もない』とだけ伝えられた。それを疑うわけではないが、実際はどうなのかを英自身の口から聞くまではまだ安心はできない。
「・・・本当に、ごめん。遠ざけるようなことをして」
頭を下げる英。だが、ケイは何も言わず、英の言葉を待つ。
「・・・1人で練習したい曲があるのは、本当だ。そしてその曲は、ケイのために弾こうと思ってる」
「私のために?」
「ああ。それで、その曲はピアノを弾いて、俺が歌いたい。だけど、ピアノを弾きながら歌うのは苦手だし、その歌詞はちょっと・・・練習では聞かせられない」
ピアノを弾きながら歌うのは難しいと、ケイは確かに以前英から聞いている。
だから、その難しさを承知したうえで練習するその曲は何なのか、ケイの中で興味が頭をもたげ始める。
「・・・だから、1人で練習したかったのね」
「・・・ああ」
英は、辛そうに視線をケイから外す。
「・・・最初からこう言えばよかったのに、俺はできなかった。できなくて、ケイを不安にさせた」
「・・・」
「こうして誰かと付き合うことだって無かったし、誰かのためにピアノと歌を練習するなんてことも無くて、分からなくて・・・」
言っている中で、英は頭を横に振る。これも言い訳か、と自嘲気味に呟く。
ナオミの言う通り、自分はバカだ。
「不安にさせて、ごめん。本当に、悪かった」
ケイの膝の上に置かれていたその手を、包み込むように握る。
そしてもう一度、深く頭を下げる。
自分の強い後悔と、ケイに対する申し訳なさを、最大限に表現する。
「・・・うん、分かった」
穏やかな感じの、ケイの言葉。
顔を上げると、ケイは目を閉じて、小さく頷いていた。
「素直に話してくれて、ありがとう」
「・・・」
「影輔の口から直接聞けて、心から謝ってくれて、安心したわ」
ケイは、英が心の底から謝っているのを読み取った。
そして英自身の言葉で、事情を聞くことができたから、蟠りも薄らいだ。
「その影輔が練習してるって曲、楽しみにしてるわね」
「・・・・・・・・・ああ」
ケイの笑みを見て、英は心に固く誓う。
絶対に、あの曲を習得すると。
「あのクリスマスパーティの日までに完成させて、聴かせるよ」
「・・・うん」
ケイの目を見据えて、力強く伝える。
その言葉にケイは、嬉しそうに頷いた。
「・・・でも、よかった。浮気とかじゃなくて」
「それは絶対違う」
それについては、神に誓ってありえない。断言できる。ケイをそっちのけに誰かに手を出すなど、全く考えられない。そうならないために自分自身を律してきている。
だからこそ、今回心配させたことは英の完全に落ち度だ。
「・・・・・・ケイ、ごめんな」
「いいわよ。さて、それじゃあ次はこの曲を弾いてもらおうかな?」
けろっと笑い、ケイは次の曲の楽譜を差し出す。
英はなお、申し訳なさを感じつつもその曲を受け取り、スタンドに開いた。
□ □ □
いよいよ迎えた、クリスマス・イブ。
英は、演奏用の楽譜と用意したプレゼントを持ってケイの寮へと向かっていた。
「いやぁ、本格的に寒くなったねぇ」
「ホントねー、ストーブとホットミルクが恋しいわ・・・」
その横には、今回誘った親友の山河、クリスがいる。2人とも厚手のコートを着込んでいて、クリスは耳当てまでしている。
「クリスは寒がりだな」
「こうでもしないとやってられないわー・・・それに、備えあれば嬉しいなって言うでしょ?」
「患いなし、でしょ」
「またベタな間違いを・・・」
軽口を叩き合いながらケイの寮へ向かう。しかし、空は厚い雲に覆われていて陽の光が届かない。
既に学園艦は長崎港に入港しており、天気予報では長崎でも雪らしい。ホワイトクリスマスの可能性もあるが、寒いのは勘弁してほしかった。
「で、影輔は今日もピアノ弾くんでしょ?」
「ああ、この通りな」
山河に訊かれ、トートバッグを掲げて見せる。この中に、今日のために選んだ楽譜が入っているが、最低限なので普段と比べると軽い。
「今日はどんな曲を?」
「クリスマスとか冬らしい曲。多分、2人が聴いたことがあるやつもある」
やがて3人は、目的の寮へと到着する。
「Hi、影輔!ヒロにクリスも!」
「やぁやぁ、どーも」
「こんばんは~」
ドアを開けると、ケイとルームメイトたちが温かく迎えてくれる。山河とクリスは、最初に招かれた時は緊張しきっていたが、今ではそんなこともなく普通に接している。
英は最初、パーティの準備を手伝おうとしていたが、パーティの一幕を任せているからとの理由で丁重に断られた。ピアノ自体は別に苦でもないので構わなかったが、とりあえず厚意には甘えておいた。
「影輔、楽譜はちゃんと持ってきた?」
「ああ、ばっちりな」
「グッド!ちゃんと準備してあるから、存分に弾いてね」
ケイに背中を叩かれて、英は頷く。
だが英は、別の意味で緊張していた。何せ、一世一代の告白を今日、為そうとしているのだから。
「さー、入って入って!」
「あー、あったまる・・・」
中に入れば、暖房が体を包み込んで、冷えた体が瞬く間に温まっていく。
部屋は綺麗に飾り付けられていて、華やかなクリスマスツリーもこしらえてある。曰く、ナオミのセンスが良いらしく、ケイが誇らしげに言うとナオミは少しだけ唇を緩めた。
既に何人か来ている招待客もいて、英たちは軽く挨拶をする。英たちにとってはパーティを通してすっかり顔なじみとなった人で、全く緊張しない。
その後もさらに招かれた客が続々と訪れてきたが、中には英にとって気まずい関係の人もいた。だが、その人物はさして気にもせずケイたちと挨拶をする。
そして人数が増えるにつれて、テーブルの上の料理の数も増えていく。気を利かせて料理を持ってきたりする人も少なからずいるからだ。
やがて人数が揃い、テーブルの上も所狭しと料理が並んだところで、主催者のケイがみんなの前に立つ。
「それじゃあみんな、メリー・クリスマス!」
『メリー・クリスマ~ス!!』
音頭をとると、そこかしこからグラスをぶつけ合う澄んだ音が聞こえてくる。
「かんぱ~い」
「乾杯」
「はい、かんぱい」
英も、傍にいた山河とクリスとグラスをぶつけ合う。
後はそれぞれが、思い思いに料理を食べたりジュースを飲んだり、あるいは他のみんなと適当に駄弁ったりする和やかなパーティだ。
「よう、スコア。最近ケイとはどんな調子?」
「その呼び方はやめろよ・・・。まあ、ケイとはそれなりに仲良く付き合えてると思うよ」
「ちくしょー、羨ましい奴め」
パーティで交流ができ、仲良くなった航空科の男子と話す。
こうした場に出るたびに、ケイの恋人として揶揄われたりするのがお決まりになってしまった。ケイがサンダースで注目の的なのは周知の事実で、そのケイの心を射止めた彼氏となれば、自然と注目されざるを得ない。
加えて、類は友を呼ぶように、ケイのホームパーティに来る人は大体フレンドリーな性格だ。あんな感じで絡まれることも何度もある。
「こんばんは、英君」
「・・・アイザック部長、どうも」
「よしてくれ、今は“元”部長だ」
ところが、爽やかな風貌の男子に話しかけられると、英の胃が縮んだ。
クイズ研究部の元部長・逢坂ことアイザック。英と同じ3年生の彼は既に部を引退し、次の世代に託していると、同じクイズ研の山河から聞いた。
アイザックは、ケイのホームパーティに参加するのは今日が初めてらしく、友人の誘いで呼ばれたらしい。
だが、英とアイザックは、少しばかり複雑な関係でもある。
「あのピアノ、君が弾くのかい?」
「・・・ええ」
アイザックが指差したのは、壁際に置かれているピアノ・キーボード。ケイのルームメイトの新藤ことシンディの私物で、ホームパーティでは英が演奏で使用する。
「楽しみにしてるよ。君のピアノは、サンダースフェスタでよく知ってるから」
柔らかく笑うアイザックに、英は目を合わせられない。
件のサンダースフェスタで英がピアノを弾いたのは。クイズ研究部の企画の一環。あれは英が自ら立候補したのだが、最終的に決めたのはアイザックで、その企画は
「ケイさんが好きになった君のピアノ、期待してるよ」
「・・・はい」
だが、その企画の直後に、アイザックはケイに告白した。それも、英の目の前で。あの時アイザックは、その場に居合わせてしまった英には反応せずその場を去ったが、十中八九気付かれているだろう。
結果としては、アイザックはフラれ、ケイは英の想いに応えた。
その告白の現場に偶然居合わせてしまった英としては、アイザックに対しては強く申し訳ないという気持ちを抱いている。
極端な話、英とアイザックは他人であり、ケイに対して同じ想いを抱いて結果がどうなっても、お互いには関係が無い。にもかかわらず、英は妙なところで真面目になってしまい、そのことが未だに引っかかっているのである。
そして英は、ケイと付き合っている自分をアイザックがどう思っているのか今なお心配だった。
「・・・気にしないで大丈夫だ」
英の気持ちを見通したのか、アイザックが肩をポンと叩く。
「ケイさんは知っての通り、魅力的な人だ。だから、これまでにも何度も告白を受けたことがあるらしい。僕もその1人に過ぎない」
ケイがサンダースの人気者なのは、英がケイと出会う前から知っていた。
これまで告白を何度もされてきたであろうことは想像に難くないし、ナオミからもその話を聞いた。アイザックのことは言わずもがな、本当にケイは魅力的な人なのだ。
「だけど君は、そんなケイさんを自分の力で振り向かせたんだ。気に病むことは無いし、僕に後ろめたさを感じることも無い」
やはり、アイザックはあの場に英がいたことに気付いていたようだ。
そして流石は聡明な元クイズ研部長。英の気持ちも慮ることができるらしい。そう言ってくれたことで、英の気持ちもほんの少し軽くなるが、やはり水に流すのは難しい。
「僕が言えた義理じゃないだろうけど、ケイさんのことをよろしく頼むよ」
「・・・はい」
そう言って笑うアイザックは、吹っ切れたのだろうか。好きになった女性に告白して、フラれて、それをすぐに流せるのだろうか。それでも、英の背中を笑って押せるぐらいには、気持ちの整理ができているのかもしれない。
そんなアイザックに、英は曖昧に笑って頷く。
「アイザックさん、このピザすっごく美味しいですよ!」
「ん?それじゃあ、僕もいただこうかな」
アイザックの後ろでピザを食べていた、同じく元クイズ研の副部長・新木ことニッキーが、アイザックに話しかける。話しかけるタイミングを見計らっていたらしい。
アイザックは、『それじゃ』と軽く手を挙げて英の下を離れる。
「どれだい?」
「これです、この3種のチーズピザ!」
「へー、確かに美味しそうだ。1枚貰うよ」
「はい、どうぞ」
何の気なく、英が2人の様子を眺めていると、何とニッキーがアイザックに『あーん』を仕掛けた。しかもニッキーは嬉しそうで、アイザックも嫌そうではない。
英は、ニッキーともサンダースフェスタの関係で話したことが何度かある。だが、それはビジネスライクな関係であり、その時は『真面目』な印象が強かった。だから、あの明るい感じのニッキーが新鮮に見えるし、アイザックとあんなに打ち解けているのは初めて見る。
なんて疑問が頭に浮かんでいると、山河が手にチキンを持ってやってきた。
「どうかしたの?」
「いや、気になったんだけど・・・あの2人ってあんなに仲良かったか?」
英がアイザックとニッキーを指差す。その指し示す2人を見て、山河は『ああ』と納得したように口にする。
「あの2人?最近付き合いだしたみたいだよ」
「What?」
衝撃の事実に、思わず英語が飛び出す。賑やかなパーティではその声も目立たないのが幸いだった。山河はナプキンで指を拭きながら説明する。
「元々副部長、部長のことが好きだったらしいんだよね。部長、頭がいいし、そこそこイケメンだし。で、女子部員にも何度か相談してたみたい」
「ほう・・・」
「でね、サンダースフェスタから少しして告白したらしいんだ。その時は、『考えさせてほしい』って部長は返事したらしいけど」
その理由は、英には分かり切ったことだ。それはおくびにも出さないが。
「それでまあ、はっきり答えないままだったんだけど、何回かデートとかご飯とかして、今じゃあんなに仲良くなってる。で、引退する時に部員が訊いたら『付き合ってる』ってさ」
「なるほど・・・」
あれから2か月余りだが、アイザックの心境はどうだろう。
見る限り、ニッキーと話すアイザックの表情は明るいし、ニッキーとのやり取りを楽しんでいるようにも見える。
公言した以上、アイザックも気まぐれや慰めでニッキーと付き合ってはいないだろう。恐らく、アイザックもニッキーも両想い、あるいはそうなりつつある。
どうなるにせよ、英は2人の恋路を陰ながら祈らせてもらうことにする。アイザックが好きだったケイを彼女として迎えた自分の役目だと、そう思う。
「影輔~!」
ケイに呼ばれて、山河と共にその声のする方へと向かう。
そこにはアリサとナオミもいたが、アリサの隣には初めて見る男子の姿があった。
「楽しんでる?」
「おかげさまで」
英は、ケイとグラスを軽くぶつけ合う。山河もまた、アリサとナオミと乾杯をする。
そこで、アリサの傍にいた男子ともグラスを掲げ合うが、初対面なので名乗るべきか悩む。
「彼はタカシ。アリサのボーイフレンドよ」
「ちょっと、隊長・・・!」
迷っていると、先にケイの方が紹介し、アリサの顔が赤くなる。
だが、タカシが否定せずにお辞儀をし、さらにアリサの反応で英と山河は大体察しが付く。
この男子が、以前食堂で名前が挙がったアリサの想い人だ。サンダースフェスタ以来親交を深め、今回初めてアリサの方から誘ったという。
「で、影輔。ピアノは7時ごろにお願いしていい?」
「分かった」
時刻は6時半で、あと30分ほどの余裕がある。
「曲は全部で4曲、ケイが歌うのは一番最後だ」
「OK、分かったわ」
ケイが励ましのつもりで英の肩を叩く。
すると今度は、ナオミが話しかけてきた。それも、声を潜めて。
「・・・
「・・・ああ、ばっちり」
部屋を出る前に再三確認した。来る途中、到着してからも調べたので、忘れたり落としたりはしていない。今日と言う日のために練習を重ね、時にケイを不安にさせてまで完成させたのだ。忘れたら面目丸つぶれもいいところだろう。
「何々、内緒話?」
「まあ、そんなとこだ」
ただ、ケイにとっても無関係な話ではなかったし、何も言わないでおくとまた不安にさせてしまうので、曲の詳細は避けつつ教えることにした。
「あのケイに聴かせたいって曲、完成したから後で弾くよ」
「ホント?それじゃあ、楽しみにしてるわね!」
「ああ、それと弾くのは7時からじゃないから」
「え?」
最後に付け加えると、ケイは首を傾げる。
その曲は、このパーティで弾くつもりは無い。弾くのは2人きりの時が良い。
そしてその状況を作りやすくするために、英はナオミにある話を通してあった。
時間を意識しだすと、そこまでの時間が早く経つように思える。
そんなわけで約束の7時前になり、英はキーボードを準備しだす。同時に、ケイが手を叩いて注目を集めると、視線が一斉に英へと殺到する。
「今日もまた、影輔がクールなピアノを弾いてくれるから、楽しんでね!」
期待値を上げてくるなぁ、と英は楽譜を取り出しながら内心ぼやく。
「それじゃあ影輔、よろしく」
「おう」
肩を叩かれながら、ケイにバトンタッチされる。
英が改めてみんなの前でお辞儀をすると、誰もが楽しみにしているとばかりに拍手をしてくれた。この場にいるほとんどの人は英のピアノを知っていて、中にはどんな曲を弾くのか楽しみと言ってくれる人までいる。
(よし・・・)
深呼吸をして、椅子に座る。
最初に招かれピアノを任された時は、心の中で『助けて』と叫んだものだが、それも今は昔。サンダースフェスタではこの何十倍もの人の前でピアノを弾いたし、こうしてホームパーティで弾くこと自体増えたので、いつしか緊張しなくなった。
軽く指を解して、スタンドに置いた楽譜を開く。
鍵盤に指を添えて、一呼吸置く。波立てている心が落ち着くのを、ゆっくりと待つ。
やがて、すっと気持ちが落ち着くと、指を動かし、鍵盤を叩いて曲を奏で始めた。
まず最初に弾くのは、洋楽のクリスマスソング。テレビCMにも起用されるぐらいには有名で、聴いていて『おっ』と表情を明るくする人も多い。
軽快なリズムと少々足早な曲調が特徴で、次第に手拍子をしたり、軽くヘッドバンキングをする人も出てきた。最初は盛り上がる曲で人の心を掴むのが、英の常套手段である。
ちなみにこの曲は、前々から知っていたものの楽譜を入手するのに手間取った結果、習得できたのがわずか1か月前と言う曲だ。
そしてこの曲は、『クリスマスには沢山のプレゼントや豪華な食事よりも、一緒にいる仲間が大切だ』と言うメッセージが込められている。その『仲間』を『恋人』に変えても意味は通る、とファンの間では囁かれているらしいが、英は気にしていない。
次に弾く曲は、クリスマスと言うよりも冬の夜空をイメージした曲。明るい1曲目とは違い、全体的に落ち着いてゆっくりとした曲調だ。
1曲目で盛り上がった気分を2曲目でクールダウンさせるのは、聴いている人が疲れないようにするための英なりの気遣いだ。明るめの曲を連続で聴くのは楽しいだろうが、聴き終えた後で疲労感を抱かせるとせっかくのパーティも台無しになるだろう。
この曲のイメージは、『冬の澄んだ夜空を眺めていると、もの悲しい気持ちになってしまう。だけど、傍にいる人のことを思えば寂しさも和らぐ』といった感じだ。曲自体も、冬を表現するかのように静かで澄んだ曲調だが、最後の方では夜明けか、あるいは冬が明けた後の春をイメージしているのか少しずつ盛り上がっていく。
3曲目は英が好きな曲で、ケイに告白する際に一歩踏み出すために弾いた曲だ。
『若者たちが成長していき、周りの世界や自分自身が変わっていく中でも、自分の価値観だけは見失わずに進み続ける』というイメージのこの曲は、明るい部分があれば暗い部分があり、賑やかな場面も落ち着いた場面もある面白い曲。そこを英は気に入り、そしてその曲のフレーズを通してケイに告白する勇気を持った。
―――自分の気持ちは言葉にしなくちゃ
―――それを感じる意味は無い
この曲を知ったのはずっと前だが、習得したのはサンダースフェスタの直前だ。聴いただけでもピアノで弾くのは難しいと思っていたこの曲だが、それでもどうにかマスターした。
そして、ケイに告白する時に、自分を奮い立たせるためにこの曲を弾いて、ケイに聴かせた。
―――人の気持ちに左右されるな
―――自分の道と未来を描け
最初は不安定だったこの曲も、今や英の十八番の1つに数えられるぐらいには得意な曲。
ここまで上達できたのは、英がこの曲を好きであるのと同時に、難しい曲への挑戦に楽しさを見出していたからでもある。
その挑戦心、ピアノに対する気持ちは、英はこれまで一度も冷めたことが無い。そして、この後もずっと燃え続けるだろう。
―――立ち止まるな
―――進み続けることこそが
―――自分らしさを知らしめるのだから
だから英も、これから先、ピアノを弾き続ける。
その気持ちを昂らせてくれたのは、他でもなくケイだ。
最後の曲は、英とケイの2人にとってはとても大切なラブソング。
前もってこの曲はケイも歌うと言っていた。だから、キーボードの近くにケイが来て、準備ができてから弾き始める。
この曲の知名度は、元々そこまで高くはない。だが、英とケイのおかげ(?)で、サンダースの中ではこの曲も大分有名になった。
―――朝目が覚めると、あなたのことを想う
―――それが恋と気づいて、私の世界は変わった
サンダースフェスタで、予定になかった英とケイの共演。あの時は、会場にいた誰もが度肝を抜かれたし、ピアノを弾いていた英も内心びっくりした。
―――伝えたいよ、『好き』と
―――でないと、壊れてしまいそう
だが、あの時英がピアノを弾き、ケイが歌ったことで、状況はさらに動いた。
あの時の一連のことが無ければ、もしかしたら英とケイは今も付き合っていないのかもしれない。そう思うと、恐ろしくも思うし、危なっかしいバランスで成り立つ運命というものが可笑しく思える。
そして、その日のこと。それから今までのことに想いを馳せると、自然と英の指に力が籠る。
―――月の夜、駆け出した
―――あなたに、会いたかったから
ケイの歌も、声に熱が入っているように感じる。その歌声を彩るように、しかし曲の雰囲気は壊さないように、英も感情を籠めて鍵盤を叩く。
―――好きと、告げたかったから・・・!
ケイの歌声は、感情が籠っていてなお美しい。
今だけは、英のピアノはケイの歌声を彩るパーツに過ぎない。
誰もが、2人の奏でるハーモニーに圧倒され、息を呑んで曲に耳を傾けている。テーブルの料理など二の次だった。
―――今も、あなたを求めて走る
―――月も、星も、私を導いてくれる
感情を籠めるケイに合わせるように、英も丁寧かつ感情を籠めてピアノを奏でる。時折、楽譜の記号や指示を無視して、情景に合わせて強弱を変えるまでに。
無邪気にピアノを楽しみ、そして母親の知り合いのプロから教わっていた頃は、楽譜の指示に従わないで弾くなど考えられなかった。それに強く縛られてきたことが、今の英が『自由にピアノを弾きたい』と思うようになった原因だ。
だが、サンダースフェスタで初めて感情を籠めるケイに合わせて弾いた時、その意味を初めて理解できた。自分が反発したあのピアニストの指導も、決して間違いではなかったのだと。
そして、それに気付かせてくれたのは、やはりケイだ。
―――朝日の中で
―――あなたと、口づけを
最後のサビに差し掛かり、ケイも曲中の登場人物のように穏やかに歌う。
そして後奏が静かな雰囲気に戻り、ゆったりとしたメロディを保って曲は終わりを迎えた。
英は曲が終わっても、最後の音が聞こえなくなるまで鍵盤から指を離さない。聴いている人たちも、拍手をしたい衝動を抑えて、誰も手を叩かずに言葉を堪える。
やがてピアノの音は止み、英も鍵盤から指を離す。
その瞬間、みんなが盛大な拍手で英とケイの2人を称える。口笛を吹いたり、余っていたクラッカーを鳴らしたりする者もいたが、誰もそれを咎めない。あるのはただ、2人の演奏を称賛する気持ちだけだ。
「サンキュー!」
「ありがとう」
英はケイの傍に立ち、並んで2人でお辞儀をする。そこでまた、拍手が贈られる。
山河も、クリスも、ナオミも、アリサも、タカシも、アイザックも、ニッキーも、誰もが笑みを浮かべて、手を叩いてくれる。
この瞬間こそ、英がピアノを弾いてよかったと思える時だ。ケイの歌もあったが、自分のピアノで誰かを喜ばせたり、誰かを感動させることがとても嬉しくて、やりがいを抱ける。
ケイに出会ってから、英自身も大きく変わった。それまでは、『ただ気ままにピアノを弾ければいい』としか思っていなかったが、今では『プロのピアニストになりたい』と自分の未来を真剣に考え、目指している。
そんな未来を示し、こうしてピアノを弾き終えた後の達成感や喜び、嬉しさを思い出させてくれたケイが、英は本当に好きだった。
そして、ずっと自分の傍にいてほしいと、思っていた。
ピアノの後は、再び楽しいパーティの時間だ。
だが、あれだけの演奏をしたものだから、英とケイはすぐに周りの人に色々話しかけられた。あの曲を完成させるのにどれだけ時間がかかったのか、一緒に演奏するほど仲が良いのか、等の質問に2人は当たり障りのないコメントを返して、引き続きパーティを楽しむ。
そしてやはり、楽しい時間はあっという間に過ぎていき、お開きの21時になる。
「じゃあな!メリークリスマス!」
「良いお年を~」
参加していた人たちは、少し片づけを手伝ってから帰りはじめ、それぞれ挨拶をして去っていく。クリスマスが過ぎれば次は年末年始、次に会うのは恐らく年明けになるだろう人もいたので、挨拶がそれらしくなる。
「ケイさん、それじゃあまた」
「メリークリスマスです」
「今日は来てくれてありがとうね!Thanks!」
アイザックとニッキーは終盤ギリギリまで片づけを手伝い、2人で帰路に就く。2人で寄り添い合って帰っていくその様は、普通にいい雰囲気に見えた。英は『お幸せに』と心の中で祈りを飛ばす。
「さて、僕らもそろそろ帰ろうか」
「そだねー」
ある程度片付いたのを見計らい、山河とクリスも帰り支度を始める。
だが、英はまだ帰る様子を見せない。
「英はまだ残るの?」
「ああ・・・まだ、やることがあるし」
言って、英はケイの方を見る。
それを見て山河とクリスは、深く掘り下げることを止めて、挨拶をして帰っていった。
これで残ったのはケイとそのルームメイト、そして英のみ。全員で後始末をするが、みんなが帰る前にある程度片付けてくれたのもあって、それも時間がかからずに終わる。室内の飾りつけは、明日の休みにやるため今は手を出さないとのことだ。
そこで、ナオミが冷蔵庫を開けて。
「シンディ、カレン。明日の朝食の食材が無いから買いに行こう」
「えー?ナオミ1人で行ってきてよ・・・私もう疲れちゃった」
「右に同じ~」
クリスマスの料理は綺麗さっぱり食べ尽くされたので、持ち越し分が無い。
だが、シンディとカレン(苗字の花蓮より)はパーティではしゃぎすぎたのか気だるげにぶー垂れる。
しかしそれはナオミの予測の範囲内。二の矢は用意してある。
「アイスも切れてるし、ついでに買ってこようかな」
「何してるのナオミ、さっさと行くわよ」
「クリスマスはアイスも売り切れが早いんだから」
アイスと聞いて態度が180度変わる2人。サンダースの生徒はアイス好きが多く、シンディとカレンもその例に漏れない。
「ケイは残っていていい、影輔の見送りもあるだろうし」
「あ、うん・・・」
推し留められる形で、ケイは残る。
英は3人を玄関で見送ると、ナオミが他のみんなに気付かれないようにサムズアップを英に向けた。
その意図を理解していた英も、同じく親指を立てる。
英は事前に、ナオミに『パーティの後でケイと2人きりにさせてほしい』とお願いをしていた。その理由を知っていたナオミは承諾し、こうしてシンディとカレンを外に連れ出したのだ。
ちなみに見返りとして、英はアイスの代金を払い、さらにこの後の結末を洗いざらい話すように英は言われている。ナオミには色々世話になったので、英もそれぐらいはするつもりだったが。
最後に、英とケイで細かいところを片付けて、ようやく部屋がきれいになった。部屋の家具は全て元通り、装飾とクリスマスツリー、キーボードを除けば全てが片付けられている。
「サンキュー影輔、助かったわ」
「お礼なんていいさ。楽しむだけ楽しんで帰るのも釈然としないし」
『やり残したこと』もあるが、その言い分に偽りはない。他人様の家で楽しむだけ楽しんで、後片付けは人任せというのは無粋だ。
時計を見れば、時刻は21時半。窓の外は真っ暗で、厚い雲のせいで星も見えない。
そして今は、ナオミのおかげでケイと2人きりの状況ができている。この機を逃すわけにはいかない。
「ケイ」
「?」
テーブルを拭き終えたのを見て英は呼び、持ってきたトートバッグを手に取る。
「実は、まだちょっとやり残したことが色々あってさ」
「え?」
「で、まずはこれ」
近寄ってきたケイに、トートバッグから取り出した手のひらサイズの白い袋を見せる。紅いリボンで口が結ばれているそれは、どう見てもプレゼントの類だ。
「メリークリスマス、ってことでクリスマスプレゼントだ」
「わっ、ありがと~!」
プレゼントはパーティの間に何人かと交換したが、ケイとだけはまだしていなかった。
「開けてもいい?」
「ああ」
楽しそうに、リボンを解いて中身を取り出す。
それは、楽譜に載っているト音記号を模したブローチだった。
「可愛い・・・」
英行きつけの音楽洋品店。その2階のアクセサリー売り場で、ケイに似合うと思って買ったものだ。
早速、ケイが自分の胸辺りにブローチを着ける。安全ピンで留めるタイプなので、手早く着けることができた。
「どう?」
「ん、似合ってる。ばっちり」
部屋の照明が反射して、キラキラと輝いて見える。ト音記号自体が丸みを帯びたフォルムなので、明るめの色も相まって目を引くアクセントになっていた。
「じゃあ私からも、プレゼントよ」
そう言ってケイは、棚から青いリボンで口を結んだ白い袋を取り出して、英に差し出す。大きさは、ケイに渡したものと同じような感じだ。というか、袋のデザインも同じだ。
それが頭に引っかかるが、英は『ありがとう』と受け取って袋を開く。
「・・・ブローチか」
「そう。これとはちょっと違うけどね」
袋の中にあったのは、楽譜のヘ音記号を模したブローチ。ケイにプレゼントしたものと形は違うが、同じ楽譜にまつわるものだ。
「あの音楽洋品店で買ったやつ?」
「ビンゴよ。ってことは、影輔も?」
「ああ」
お互い、似たり寄ったりな考えだったなと、2人で思わず吹き出す。
早速英も、ブローチを同じく胸の辺りにつけてみると、ケイから『バッチグー』と褒められる。
「これで2つ目ね」
「?」
2つ目、と言うケイの意図が分からないでいると、ケイは自分の服の襟首から手を突っ込んで、何かを探る。少しも恥じらいの無いような動作に逆に英が目を恥ずかしくなるが、やがて取り出したのはロケットに稲妻が刻まれたペンダントだった。
「これと、今貰ったブローチで、2つ。影輔とお揃いのものよ」
そのペンダントは、今英も身に着けている。サンダースフェスタでケイが買い、その後英にもプレゼントされたものだ。
お揃いのもの、同じものをケイと共に身に着けているというだけで、自然と気持ちが高揚してくる。
「それでケイ、まだやりたいことがある」
「?」
「言っただろ?練習した曲を聴かせたいって」
「あ、そうだった!ソーリー、色々忙しくてコロッと忘れてた・・・」
あれだけ盛り上がったパーティだから、意識から外れてしまうのも仕方がない。
英は、トートバッグからその楽譜を取り出して、スタンドに広げる。
「それを、今から弾きたい。いいか?」
「ええ、もちろん。聴かせて?」
わざわざ内緒にしてまで練習した曲。果たしてそれはどんな曲なのか、ケイは楽しみだった。
椅子に座った英は鍵盤に指を置いてから、思い出したようにケイの方を向く。
「一応練習してまともなレベルにはなれたと思うけど・・・歌が下手だったらゴメン」
ケイはどんなに下手だろうと笑ったり責めたりするつもりは無い。自分のために練習してくれたことは嬉しいし、英が自分のピアノにだけは全てを懸けているのも知っている。それを考えれば、笑うことなどできない。
(・・・)
英の目の前にあるのは、白と黒の鍵盤と、書き殴ったメモとマーカーが目立つ楽譜。
この曲を習得するために、英は練習を積み重ねていた。時にはケイを不安にさせてしまい、バカな真似をしてしまったと深く後悔し、反省し、それでも練習を続けた。それは、途中で止めてしまえば、それこそケイを不安にさせただけで終わってしまう。
それに、英はこの曲を通して自分の気持ちを伝えたい。最後は自分自身の言葉で伝えるつもりだが、あのサンダースフェスタでの告白と同じで、自分を勇気づけたい。だから、この曲を奏でるのだ。
英は、気持ちが落ち着いてから指を動かし、鍵盤を叩き始める。
前奏は静かで、透明感あるリズムでスタートする。
そして、Aメロに入ると。
―――愛してるあなたへ
―――聞いてくれるかな
その歌声は、音痴まではいかないが、ピアノにも意識を裂いているからか少し震えていた。
だが、その最初のフレーズで、その声の震えも気にならないほどにケイは引き込まれた。
―――『愛してる』とか『好き』だとかよりも
―――君に伝えたい大切な言葉
―――カッコ悪いかもしれないけど
―――最後まで聞いてほしいよ
Aメロは前奏と変わらず、静かで落ち着いた曲調。
それはBメロに入っても変わらず、穏やかな空気を壊さない繊細な雰囲気がある。
―――遠い道の中で
―――君の隣を歩いていて
―――ずっと想っていたんだ
太陽が昇るように曲調が明るくなっていく。それでいて、透明感ある全体の雰囲気は壊さず、落ち着きを感じさせるようなメロディだ。
そしてこの部分が、サビだとケイも分かった。
―――ただ君の隣にいることが
―――生きる理由になったよ
―――もし許されるのなら
―――まだ君の傍にいたい
間奏に入るが、今度はサビの雰囲気を乱すことなく、爽やかなメロディが続く。
英は曲に集中しているのか、笑っているわけではなく、真剣に感情を籠めているような顔つきだった。
やがて2番に入り、再び落ち着いた雰囲気に戻る。
―――お互いまだ知らない頃から
―――大分時が流れたね
―――同じじゃない心明かし合って
―――分からない気持ち覚えて
―――抱いたことないこの気持ち
―――伝えないなんてできないよ
もう1度サビに入り、曲調が盛り上がる。
―――ただ君の隣にいるだけで
―――僕はこの先ずっと歩き続けられる
―――もし願いが叶うのなら
―――まだ君の隣にいたい
間奏とはまた違う曲調になり、Cメロに入る。
英の指の動きが複雑になり、そして歌声は切実な響きを含みだす。
―――合わないピースが合わさって
―――僕らの世界がまた広がる
―――やったことがないことも
―――君さえいれば心配ないよ
―――だから『君が好きだ』と伝えたい
―――何回でも、何十回でも、この声が続く限り・・・
前奏よりもさらに静かな雰囲気になる。歌声も、より静かになっていく。
今この時だけ、ケイの胸の中は溢れるような嬉しさに満ちていた。英がこの曲をケイのために歌いたくて練習した、と言ったのは、この曲の真っすぐなフレーズのような言葉を伝えたい、と言うことだろう。
―――君の思い描く未来に
―――僕はいるのかな?
曲は再び、盛り上がりだす。
―――もしもまだ許されるのなら
―――この命ある限り君の傍にいたい
だが、そのフレーズを聞いた瞬間、ケイの目が見開かれた。
―――君は知らないだろうけど
―――僕の気持ちは育ってきてる
その意味を、理解した。
―――もしこの声が消え去ったなら
―――君の手をずっと握っていたい
英は、そんなケイにも気付かず歌い続ける。ピアノを弾き続ける。
ケイは自然と、自分の口元に手を当てていた。
あまりにも嬉しくて、嬉しくて。
―――限りない時の中で
―――君だけを愛し続けよう
―――これからもずっと
―――君と共に生きてゆこう
やがて後奏に入るが、最初はサビと同様に盛り上がる感じだった。
しかしそれも、やがて静かに収まっていく。
―――君の傍で奏で続けよう
徐々にリズムがゆっくりになっていき、音も静かになっていく。まるで陽が沈むかのように、落ち着いていく。
やがて曲は終わり、最後の音が収まると英は鍵盤から指を離し、立ち上がる。
「・・・」
ケイを見る。
その瞳は潤んでいて、かろうじて英の姿を捉えることしかできない。曲の意味、英の真意を理解して、嬉しさのあまり拍手なんてできやしない。
無論、英もそのケイの気持ちは理解しているつもりだ。それでも、目を逸らさずに、ケイを見つめる。
「・・・聴いてくれて、ありがとう」
話しかけても、ケイはぎこちなく頷くだけだ。溜まった涙を堪えるのに精一杯で、満足に感想も紡げない。
「そして、今まで遠ざけるようなことをして、本当にごめん」
「・・・」
「ただ、この歌をケイの前で練習するのは恥ずかしかった。だから、1人で練習しようと思ったんだ。それでケイを不安にさせたのは、本当に悪かったと思う」
ケイは何も答えない。答えられない。
口を開いて、言葉を発せば、自分の気持ちは決壊すると分かっているから。
「この曲を見つけた時、ケイに聴かせたいってすぐに思った。何か、俺の気持ちを表現してるように感じたから」
一歩、英はケイに向かって踏み出す。
「サンダースフェスタで告白する時、俺は自分に自信が持てなくて、だからあの時ピアノを弾いて自分を勇気づけようとした」
「・・・」
「その時と同じだ。だから俺はさっき、自分でピアノを弾いて、そして歌った」
また一歩踏み出す。
ケイは逃げようとも、退こうともしない。
「だけど最後は、やっぱり自分の言葉で伝えるべきだと思ってる」
「・・・」
「ケイを不安にさせたから、伝える権利なんてないかもしれないけど、それでも聞いてほしい」
ケイの真正面に立つ。
その英の言葉で、あの曲を英が歌った意図に確信が持てた。
「ケイ。俺はずっと、自分だけが楽しくピアノができればそれでいいなんて思ってた。けど、ケイと出会ってそんな考えも大きく変わった」
「・・・」
「今は、色んな人を喜ばせられるようなピアノを弾きたいって、そう思ってる。そして、そうなりたいって夢もできた」
「・・・」
「それに気付かせてくれたのは、ケイのおかげだ。誰かにピアノを聴いてもらって喜ばれる事の嬉しさや達成感に気付かせてくれたし、ケイの笑顔を見ると、自然と落ち込んでも立ち直れる」
「・・・」
「そんなケイのことが、大好きだ」
「そしてこれからも、ケイのことを愛し続ける」
ケイの手を取る。
「ずっと、傍にいてほしい」
その手を包み込むように、優しく握る。
「どうか、結婚してください」
涙が溢れ、頬を伝う。
温かくて、心地よい涙が流れ落ちる。
「・・・・・・私ね」
それでもケイは、涙を堪えようと声を絞り出す。
「心配で、不安だった・・・。どうして1人で弾こうとするんだろうって」
英の手を、またさらに包み返すようにケイの手が重ねられる。
「でも、私のためにピアノを練習してるって聞いた時は安心して・・・楽しみだった。どんな曲なんだろう、って」
流れる涙を指で拭うケイ。だが、その涙は止まるところを知らない。
「・・・ここまでの歌だなんて、思わなかった」
ケイは今、自分では笑っているつもりだ。英にどう見えるのかは、分からない。涙で視界は潤んでいるし、頬には温かい感触が残っている。
それでも今は、自分の気持ちをただ伝えたい。
「影輔・・・」
「・・・ああ」
「私も・・・」
もう一度手を重ねる、ことは無い。
代わりに英を抱き締めて、耳元で伝える。
自分も同じ気持ちなのを。
「・・・ずっと、あなたの傍にいさせて」
英は、ケイのことを強く抱き締め返す。
「・・・ありがとう、ケイ」
「私の方こそ・・・素敵な曲をありがとう」
もう涙を堪える必要はない。どれだけ視界が歪んでも、見失うことは無い。
自分にとっての最愛の人は、すぐそばにいるのだから。
「・・・もう2度と、不安にさせないで」
「ああ・・・約束する。誓うよ」
心に、ケイに、神に誓う。
もう、不安にはさせないと。
これからは、自分の傍で幸せにするのだと。
空に広がる厚い雲から、一粒、また一粒と雪が舞い落ちる。
けれど、英もケイも、外で降る雪なんて気付かない。今想うことは、自分のすぐ傍で涙を流し、喜んでくれている最愛の人だけだ。
部屋の中で、クリスマスツリーとキーボードだけが、抱き締め合う2人を祝福するかのように静かに佇んでいた。
□ □ □
広い部屋の中で、ピアノの音色が流れている。
雪が降る外と違って室内が温かく感じるのは、暖房が効いているのとそのピアノの音色が温かく感じるからだろう。
そのピアノを弾いている英は、脇目も振らず一心不乱に弾いている。急ぐような感情は一欠けらも音に混じっていない。
『・・・・・・・・・』
そのピアノの演奏を、誰もが静かに見守っている。
そのピアノの演奏に、誰もが静かに耳を傾けている。
今だけは、誰もが声も音も立てずにそのピアノに集中していた。
この曲は有名な音楽家が作製したピアノ曲で、その音楽家が手掛けた中でも最高傑作と言われている。燃え上がるような感情をわずかな隙も無く表現するこの曲は、テンポが速く複雑で、最高難度とも謳われていた。
その曲を英は、焦ることなく奏でる。
終盤に差し掛かり、曲は盛り上がりを見せる。連なる音符は波のように迫り、絡み合うように複雑なリズムを示す。弾いている英の指もこんがらがってしまいそうなほど素早く、不規則に動く。
その速いテンポが衰えることなく、最後の小節に達し、終わりを迎える。
英は音が消えてなくなるのを確認してから、鍵盤から指を離した。
『おお~!』
直後、聴いていた誰もが拍手を贈ってくれる。大人も子供も、男性も女性も。
その拍手を受けて、英はお辞儀をする。自分のピアノを聴いてくれてありがとう、評価してくれてありがとう、と言う気持ちを込めて。
さて、今弾いた曲はテンポが速い疾走感ある曲だったが、少々暗い雰囲気もした。これで終わりにすると後味が悪いし、せっかくの明るいパーティも台無しだ。
だから次は明るい曲を弾こうと思ったのだが、問題が起きた。
「えー・・・ちょっと手が疲れて痛いので、少し休ませてください」
冗談めかして言うと、一同がどっと笑う。
とはいえ、英のピアノはパーティに欠かせない要素。何より今の英にとって、ピアノを弾く手はとても大事にすべきものだ。その手を失くすことは、自分で叶えた夢を棒に振るも同然。聴いていたみんなもそれは分かっていたので、無理に引き留めはしない。
「お疲れ、影輔」
「ああ、ありがとうケイ」
一旦ピアノから離れると、グラスを2つ手にしたケイが歩み寄ってくる。英は1つ受け取り、軽く乾杯をして一口飲む。ちなみに中身はジンジャーエールで、酒の味を知ってから大分経つが、ピアノを弾く時は決して酒を飲まない。
「すっごく上手だったわ!」
「ありがとな。けど正直、弾いてる時は冷や冷やした」
「まあ、あれだけ複雑なリズムだったらそりゃね・・・」
英は手のひらを閉じたり開いたりして疲れを解す。先ほどの曲は、旋律だけ聞いていても複雑なのは分かったし、緊張して、疲れるのも仕方ないとケイは思う。
「お疲れ、影輔」
「おお、山河。クリスも」
「ええ、お疲れ様」
そこへやってきたのは、母校サンダースの親友の山河とクリス。あの時の面影が今も残っている2人は、小皿を手に料理を楽しんでいるらしい。
「あんな難しい曲、よく弾けたねぇ。流石と言うかだけど」
「弾いてる時はギリギリだったけどな。何せあれだけ速い曲、1度ミスると最後まで引きずるし」
昔の調子で話す英と山河の横で、ケイとクリスは楽しそうに話している。
「ケイさん、世界大会代表入り、おめでとうございます」
「サンキュー!でもまだまだこれからだし、応援よろしくね」
クリスも大人になって、性格は学生時代と比べて落ち着いている。大人になるにつれて心が成長したのだろう。一方で山河は、変わらず穏やかな感じだ。
「影輔先生」
そこへ今度は、かつての凛々しい雰囲気を残すナオミがやってくる。
よく見ると、ワイングラスを持つ左手の薬指には銀色に輝く指輪が嵌められていた。
「先生はやめてくれ、今日はオフなんだし」
「それは悪かった」
英が苦笑し、お互いグラスを掲げる。山河とクリスは、まだケイと話をしていた。
「合奏団は大変そうだな。この時期は特に」
「そうだな・・・昨日も演奏会だったし、厳しいもんだ」
英は、サンダースで新たに見つけた夢を追求した結果、合奏団のピアニストを務めるに至った。合奏団そのものは有名で、英の腕前も認められているからか、たまにソロでピアノを弾くこともある。幅広いジャンルの曲を弾くのが面白いと専らの噂だ。
もちろん、ここまで来るのは決して楽な道のりではなかった。
サンダース卒業後は音楽大学に通い、改めて教師の下で指導を受けた。卒業課題曲を習得するのだって苦労したし、周りとのギャップを感じてスランプに陥ることだってあったのだ。
「けど、大変だったからこそ、今は幸せだろう?」
「・・・そりゃあ、な」
問われれば、もちろんそれには頷く。
その努力と苦労、挫折を積み重ねたからこそ、夢が叶った今を幸せに感じる。努力もなしに夢が叶っても、正直嬉しさは薄いだろう。
そんな時、誰かが英の足を掴むような感覚が。
「?」
目線を下に向けると、艶やかな赤い髪の女の子がズボンを握っている。手には子供用のコップを持っているが、まるでナオミから隠れるようにして、英を見上げている。もしかしたら、ナオミが怖いのかもしれない。
「大丈夫、ナオミは怖くないよ」
「そうよ。ホントはとっても優しいんだから」
英とケイがしゃがみ、頭をそっと撫でる。ケイと話していた山河とクリスは、場所を移動したらしい。
この赤毛の女の子は、英とケイの2人の子供だ。髪の色が赤いのは、英の地毛が赤みがかった黒だからだろう。顔つきはどことなくケイに似ているが、大人しく引っ込み思案な性格だ。
「こう見ると、ケイの子とは思えないな」
ナオミもそれが不思議に思うようで、足を屈めて頭を撫でながら呟く。撫でられて心地よくなったのか、娘ははにかむ。
「いや、ケイも昔は大人しかったらしい」
「そうなのか?」
「ああ、お義母さんが言ってた。だから多分、性格はケイ譲りなんじゃないかな」
「そうか・・・なら、将来有望かもな」
そこで、娘が英のことを見上げて首を傾げる。普段接するケイは明るいから、想像がつかないのだろう。
ナオミの『将来有望』という言葉は、恐らくいろいろな意味が含まれているに違いない。
「ママに似てるから、もしかしたら将来は美人の戦車乗りになれるかもな」
「ほんと?きれいになれる?」
「そうね。でもその前に、好き嫌いをなくさなきゃだけど」
「うー・・・」
ケイの『好き嫌い』という言葉に表情が陰る。このぐらいの年頃の子供は好き嫌いが多いのは、英もケイも理解していた。それでも甘やかしはしないが。
そんな親子のやり取りを見て、ナオミはふっと笑う。
「仲が良さそうで何よりだ」
「でも影輔の方がウケが良いのはちょっと悔しいかも」
英の休みの日は、ピアノを練習していることが多い。そんな中で、子供が好きそうな曲を弾いて娘の関心を惹くのは、なかなか上手いとケイは思う。もちろんケイが嫌われているわけではないし、英のピアノの腕も認めている。それでもどこか、割り切れない。
「ナオミも、もうちょっと表情柔らかくしないと子供がおびえちゃうわよ?」
「別に愛想悪くしているつもりは無いんだけど・・・」
ナオミが飄々としているのは前と変わらないし、そんなナオミに惚れて結婚まで至った男もいるわけだ。とは言え、ナオミも小さい子供に怖がられていい気はしなかったので、今度夫に相談してみようと思う。
「・・・アリサは、来れなくて残念だったな」
さて、この場には、ケイたちと親しくてサンダース在学中から親交のあるアリサとその夫・タカシの姿は無い。
「仕方ない。アリサはもうすぐ『頃合い』だし、タカシもその付き添い。無理に招くことはできないさ」
「そうね、私の時も大変だったし・・・。今度お祝いパーティ開きましょう?」
「ああ、それはいいな」
もうすぐ、新しい命が芽生える。
その大切な瞬間を前にしているアリサは今は大人しくしているべきだから、ナオミの言う通り仕方がない。英も、自分たちの時はケイの言葉通り大変だったのを覚えているからこそ、アリサとタカシの気持ちを理解していた。
それから少しの間、招いた人達と談笑する。
その中には、サンダースでケイのルームメイトだったシンディとカレン、さらには所縁の深いアイザックとニッキーの2人もいる。特にこの2人は、大学卒業後に結婚し、さらに力を合わせて起業を成し遂げたらしく、何と言うか『らしい』未来を勝ち得ていた。前々から思っていたが、英は彼らに対しては尊敬の念を抱かずにはいられない。
「・・・そろそろ、行けるな」
一区切りついたところで、英は改めて自分の手の調子を確かめる。
ケイが心配そうに話しかけてきた。
「ホントに大丈夫?」
「ああ」
元々、少し疲れて休んでいただけだ。鋭い激痛に苛まれていたわけでもない。
するとケイが、労わるように英の手を握って解すようにマッサージをする。程よい力加減と柔らかな感触が気持ち良いのマッサージは、演奏会などの前にケイがいつも無事を祈ってしてくれるものだ。
「言うまでも無いかもだけど、くれぐれも手には気を付けて。影輔がピアノを弾けなくなったら、私・・・」
「分かってるよ、ケイ。俺も十分気を付けてるし、それに・・・」
そして英は、マッサージするケイの手を逆に包むように握る。
「ケイを悲しませたくないから」
昔誓ったことを、忘れてはいない。
二度とケイを不安にさせはしない、悲しませはしないと。
「・・・ありがとう、影輔。頑張って」
「ああ」
最後に、勇気づけるように英の手を力を籠めて握る。
英は頷き返してピアノへ足を向ける。
「がんばって、パパ」
「おう、頑張るよ」
愛娘からエールを貰い、俄然やる気が湧いて出てくる。
改めてピアノの前に立つと、談笑していた人たちの視線がこちらに自然と向く。これ以上の大多数の観客を前に挨拶をしたことだってざらだから、もうこの程度では痛くも痒くもない。
「大変お待たせしました。それでは、最後の曲を弾こうと思います」
宣言すると、みんなが拍手をしてくれる。
最後の曲とは、ケイと英の2人が愛している、学生の時から弾き続けていたラブソングだ。しかし今日はピアノを弾くだけで、ケイは歌わない。飽きたわけではなくて、ケイが『たまにはピアノだけを楽しみたい』と静観に徹することもまた多くある。
それでも、休みの日にはよく英のピアノに合わせて歌うことがあり、それがプロ戦車道選手としてプロの世界を生きるケイの彼女の小さな幸せでもあった。
「よし・・・」
弾き始める前に、今一度演奏を待っている親しい人たちを見る。
これほどの人が英のピアノを楽しみにしていること。そして、自分の夢を新たに見つけて、みんなとのつながりができたことも、全てはケイと巡り会うことができたからだと英は信じている。
そんなケイは、英に向けて小さくサムズアップをしている。傍にいる愛娘も、胸の前で手を振っている。
自分の家族の姿を見て安心した英は、笑って鍵盤に指を置き、全身全霊を籠めてピアノを弾き始める。
その旋律は、雪降るクリスマスの夜空へと溶けて消えていった。
これにて、ケイと英の物語は本当に完結です。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
今回のお話で、本編終了後の英とケイの関係、さらにアイザックや彼らの周囲の人の関係を掘り下げて書かせていただきました。
ケイのために、英が自ら『ピアノを弾きつつちゃんと歌う』という難しい課題に挑戦するのは、この特別編を描こうと思った当初から決めていました。
また、アイザックのその後についても書き、自分なりにけじめをつけることができたかなと思います。
それぞれが大人になってからのことを描くのは、いつもながら緊張すると同時に楽しかったです。
次回作ですが、年明けぐらいに、大学選抜チームの2人目の話になるかと思います。
その時はよろしくお願いいたします。
最後になりますがもう一度。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
また、感想を書いてくれた方、評価をしてくださった方、ありがとうございます。
それではまた、次の作品でお会いしましょう。
最後に。
ガルパンはいいぞ。
ケイはとても魅力的だぞ。