愛する旋律   作:プロッター

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縛られたくない

 英とケイが出会いを果たした日の翌日。英は別段変わりなく、いつも通りに授業を受けていた。昨日ケイの様な有名人と知り合って仲良くなれたからと言って、それで浮かれて学生の本分である勉強を疎かにしてはならない。そう英は自分に言い聞かせ、昨日のことは面に出さず授業を受けた。

 そしてベルが鳴り昼休みに突入すると、昨日と同じように英は山河と共に『バルタザール』食堂へ向かい、2人掛けのテーブル席で昼食を開始する。今日のメニューは2人とも、フライドチキンの定食だ。

 

「ああ、ところで英」

「ん?」

 

 お互い食事を始めてから少しして、山河がおもむろに話しかけてきた。英もそれを受けて、かじりついていたフライドチキンを皿に置く。

 

「昨日はどうだったの?」

「どうって、何が」

 

 質問が抽象的過ぎて、何のことを聞いているのか英には全く分からない。だから英もそう聞き返すしかなく、山河も『聞き方が悪かったね』と謝り改めて問う。

 

「ほら、昨日ケイさんがピアノを弾いているのを見てたって言ってたじゃないか。それで、昨日はどうだったのかなって」

「ああ、それか」

 

 ピアノをあの教室で1人で弾いていることは、隠しているわけでも、秘密にしているわけでもない。だから昨日そのことを山河に話したのだし(それ以前からピアノを弾いていること自体は知っているのだが)、クラスメイトの何人か、それと別のクラスのクリスもそれは知っている。でなければ楽譜を渡してきたりはしない。

 

「昨日は・・・ドアの前で聴いてたんだ。小窓から見えてた」

「ほう」

「それでまあ・・・流石に俺も気になったんだよ。それで話しかけて・・・打ち解けて。それで仲良くなれた、と自分では思う」

 

 どんな言葉を交わし、何を言われたのかまでは話さない。山河もどうなったのかという結果を聞きたいのであって、そこまで詳細な情報までは望んでないだろう。そこまで話すと蛇足になりかねないし、あまり多くを話してその話が漏れるとケイが不都合を被るのも避けなければならない。その点英はきっちりしていた。

 

「へぇ~・・・会った日にそこまで」

 

 山河も英の言葉で大体事情を掴んだらしく、感心したように呟く。確かに、英とケイが初めて出会ったのは昨日が初めてなので、その日のうちにそこまで仲良くなれるのが不思議に思えてならないのだろう。

 

「あの人は元々フレンドリーで大らかな人だし。じゃなきゃ会った日に名前で呼び合えるまで打ち解けるなんて無理だ」

「まあ、そうだよね」

 

 おそらくだが、ケイ以外の誰かだったならば、あそこまで仲良くなることはできなかっただろう。多分最初に英が教室から顔を出して曲を聴いていた人を見た時点で関係は終わってしまったと思う。

 

「このことは、他言しないでおくよ」

「助かる」

 

 誰かと仲良くなれたということを得意げに自慢するように無暗に話すと、ろくなことにはならないということは分かる。相手がサンダースのスターのような存在であるケイならなおさらだ。

 だから英も山河も、このことは誰にも言うつもりはなかった。それでも英が昨日今日と山河に話したのは、それだけ英が山河のことを信頼しているからである。

 と、そこでまたしても食堂の入口の方から黄色い歓声が上がる。

 

「噂をすれば影が差すってね」

「ああ、そうだな」

 

 ただ、昨日仲良くなれたからと言って、わざわざ立ち上がって挨拶をするということを英はしない。あくまで普段通りでいようと英は思った。

 食事を再開し、山河と雑談を交えながらフライドチキンを食べていると、英はケイ、ナオミ、アリサの3人がこちらに向かってきているのに気付いた。ピアノを弾いている時は絶えず楽譜を目で追っているからか、英の動体視力は人よりも比較的優れている。だから、例え視界の端で起こるちょっとした変化にも敏感だった。

 だが、別にケイたちがこちらに近づいてきたからといってこちらから特別アクションを起こすつもりも無いので、目の前のフライドチキン定食に目を戻そうとする。

 その直前で。

 

「・・・・・・・・・」

 

 英とケイの視線が合った。それは英が顔を上げていたからであって、向こうが気付いてもおかしくはない。

 そんな風に目が合っただけなら大したことはない。

 だが、ケイは英の方へ明確に顔を向けて笑みを浮かべ、さらにはウィンクまでかましてきた。

 

「・・・・・・・・・」

 

 それでもケイは英に話しかけはせずに、その横を通り過ぎて行った。彼女の傍にいるナオミとアリサもケイの動作には気づかなかったようで、英たちには目もくれずに食堂を進んでいく。そしてその後で英の後ろの方から『ケイ、こっちー!』という女子の声が聞こえてきた。

 

「どうかしたの?」

 

 山河が声をかけてきた。その声で、ケイの仕草を見てぽかんとしていた英の意識が現実に引き戻された。そして声をかけられたということは、山河にも分かるぐらい英が上の空な状態だったということか。

 

「・・・・・・いや、何でもない」

「ふーん・・・?」

 

 山河も一応はそれで納得したようで、フライドチキンにかじりついて食事を再開する。

 そんな山河を見ながらも英は、心の中では動揺していた。

 ケイが先ほどの様なアクションを日常的にする人物だということは、分かっていた。それに英とは親しくなれたのだし、先ほどのウィンクだって別に気にすることも、何か深い意味があるのではと考える意味も無いはずだった。

 

(・・・・・・何考えてるんだ)

 

 それは英自身に言い聞かせたことだ。そういう人だと分かっていたのに、どうしてかあの行為には他意が含まれているように思ってしまったからだ。

 けれどすぐに頭を振って余計な考えを振り払う。

 そう思っているのは英だけで、ケイは別に深い意味を込めてあんなことをしたのではないのだろう。いや、そうに決まっている。彼女の人となりを考えれば何も変ではない。

 昨日少し仲良くなれたからと言って、それだけで英が変に勘違いするのはあまりにもバカバカしい。

 変に思い上がっていた自分に対して失笑すると、英はフライドチキンにかじりつく。

 だが、その正面に座る山河は、その英のいつもとは違う様子に気付いていた。

 

 

 英のクラスのホームルームが終わり、『デストロイヤー』棟から『ハイランダー』棟へと向かう。具体的にはその職員室へ、だ。第5音楽室の鍵は、当然かもしれないがその教室がある『ハイランダー』棟の職員室に保管されている。なので鍵を借りるのはその職員室なのが常だ。

 だが、タイミング悪く公民の教師に捕まり参考教材を運ぶのを手伝う羽目になってしまった。英は特に素行に問題はないごく一般的な高校生なので大人しくその指示に従い資料を運ぶ。

 そして手伝い終えて鍵を借り、音楽室に向かう頃には既に時刻は4時前になってしまっていた。本来ならば既に音楽室でピアノを楽しんでいる時間だったのだが、実に惜しいことだ。

 普段ならば、部活動に入っているわけではなく1人で弾いているので『こういうこともあるか』と思いながらのんびりと音楽室へ向かうはずなのだが、昨日とは事情が変わっている。

 昨日ケイは、今日もピアノを聴きに来ると言っていた。何時に来るとは言ってはいなかったが、先に来ているという可能性もある。もしそうであれば、ケイに待ちぼうけを喰らわせているかもしれなかった。

 だから今、英は急ぎ足で第5音楽室へと向かっていた。せっかく聴きに来てくれるのに、待たせてしまうなど男として立つ瀬がない。

 そして音楽室の前にたどり着くと、ケイが壁に背を預けて立っていた。

 

「Hi!影輔、待ってたわよ!」

 

 そのケイは英の姿を目にすると、片手を挙げて英を迎える。その姿を見て安心感を英は覚えるが、同時に待たせてしまったことに対する申し訳なさも抱く。

 

「悪い、先生の手伝いしてて遅れた」

 

 ケイがどれだけ待っていたのかは知らないが、待たせていたのなら謝らなければならないとだけは決めていた。

 

「謝らなくて大丈夫よ。それに、あなたの曲が聴きたくて、私もつい早く来ちゃったし」

 

 頭を掻きながら少し恥ずかしそうに笑ってケイがそう告げる。好奇心のあまり早く来てしまうことが子供っぽいと自分で思っていたのかもしれない。

 ただその言葉は、それだけケイが自分のピアノの曲を楽しみにしていたのだろうか、と英は思った。

 そう考えると、英は嬉しくなる。誰かにこうして聴きたいと思われたこと、聴きたいと言われたことが、本当に嬉しかった。相手が相手なだけになおさらだ。

 だがそれは心の中にだけ秘めておいて、小さく笑うだけに済ませておく。そして音楽室の鍵を開ける。

 

「・・・じゃあ、どうぞ」

「お邪魔しまーす♪」

 

 別に英の部屋というわけでもないのだが、そんなやり取りを交わして2人は音楽室に入る。電気を点けると、暖かい色合いの電灯が部屋の中を照らす。英はいつものように机に学生鞄を置き、楽譜の入ったトートバッグをピアノ椅子まで持って行こうとする。ケイも英の鞄の横に自分の鞄を置いて、昨日と同じ椅子に座ろうとする。

 

「あ、そうだ、ケイ」

「何?」

 

 昨日見繕ってきた、ケイが気に入るであろう曲の楽譜を取り出そうとして、英は動きを止めた。そして、実に申し訳なさそうな表情を浮かべる。

 

「友達から頼まれた曲が1曲あるんだけど・・・」

「昨日弾いてたやつ?」

「ああ。それの調整がしたくて、ちょっと楽譜読む時間が欲しいんだけど」

 

 せっかく聴きに来てくれたのに、楽譜を読む時間を貰うというのは少し心苦しいのだが、ここぐらいでしかゆっくりと集中して楽譜を読む場所がない。もとより普段の教室は賑やかなので集中できず、自分の部屋も誘惑が多いのでなかなか集中できない。英もクリスから頼まれた以上は早いところ仕上げて録音して渡したかったし、ケイには申し訳ないがほんの少しだけでも時間が欲しかった。

 

「そう言うことなら、いいわよ」

「悪い、助かる」

「謝らなくて平気よ。元々私はお客なんだし」

「・・・・・・ありがとう」

 

 ケイの厚意に感謝して、昨日クリスから渡された楽譜をトートバッグから取り出して、バッグはピアノ椅子のそばに置いておく。そして授業で使う椅子に座って、机に楽譜を広げてイメージトレーニングの準備に入る。

 その英の隣に、当然のようにケイが座ってきた。集中しようとしていた矢先に、ふわりと妙に甘い匂いがして、さらにケイの存在が近くにいると気付いて緊張感が走る。

こうしたことが初めてだからか、ケイのことを変に意識してしまっていて、自分が少しおかしいと英は思う。今は曲のイメージトレーニングに集中しなければならないというのに。

 改めて楽譜に意識を集中する。

 すでに昨日のうちに、間違えた箇所にだけ付箋は貼っておいた。これが自分の持ち物であればペンで記入するがこれはあくまで借りものなのでそれはできない。ともかく、付箋を貼ったことで自分が間違えやすい箇所がどんな場所なのかは分かった。音の高さが一気に変わるところと、臨時記号がついた音符である。それ以外の場所は難なく弾けるので、この辺りに注意していけばいい。

 楽譜を見て、実際にピアノで弾くように机に指を置く。いつもイメージトレーニングをする時はこうしているので、事情を知らない人が傍から見たら『何をやっているんだ』と思うだろう。

 そして指を動かしだす。ただ楽譜を追って指を机で叩いているだけであるので、当然ながらピアノの音はしない。『トトトト・・・・・・』という音だけが聞こえる。だが、(ミスがあったのとはいえ)既に一度弾いたことがある英には、ピアノの音が鮮明に聞こえていた。

 こうしてイメージをしている間だけは、楽譜と指の動きに集中しているから、隣のケイの存在にも気を取られず、イメージを続ける。

 

 

 その英の、机に楽譜を広げて指だけでピアノを弾く真似をするという、傍から見れば奇妙なイメージトレーニングの様子を、隣に座るケイは腕を組みながらも真剣に見ていた。

 英の楽譜へ向ける視線も、机の上で本物のピアノを弾いているかのように動かしている指の動きも、そして楽譜に載っている五線譜を追う英の表情も、全てが“真剣”と表現するに相応しいぐらいのものだった。

 こうして親しい男の人が、リアルタイムで何かに真剣に取り組んでいる姿を、ケイは今まで見た事がなかった。自分が戦車に乗っている時も同じ戦車の乗組員や隊員たちが真剣に取り組んでいるのは知っているが、彼女たちは何処かしら緊張や怯えのような感情が混じっているように感じた。それ以前に戦車に乗るのは女性だ。

 だが今目の前にいる英は男だし、そして『いいところを見せよう』とか『絶対に成功させる』という、言ってしまえば“雑念”がない。伝わってくるのは純粋な“真剣さ”だけだ。それ以外の余計な感情が一切見られない。

 さらにケイの頭には、英の奏でるピアノの音色が、まるで今聞こえているかのように流れている。机を叩く英の指の動きに合わせて、音が聞こえてくる。

 ピアノには疎いはずなのに、どうしてこうも鮮明にピアノの音色が頭の中で奏でられるのか、ケイにはそれが分からなかった。

 だが、こうも思う。

 英は、これだけ集中しているぐらいなのだから、本当にピアノが好きなのだと。

 

 

 英が指の動きを止める。気がつけば楽譜も一番最後のページになっていて、終わりの部分になっていた。

 

「ふぅ~~~~~~」

 

 随分長い時間集中してイメージトレーニングをしていたものだったので、深呼吸して緊張をほぐす。首を一点から動かしていなかったので、首も少し凝ってしまっていた。おまけに指で勢いよく机を叩いていたものだから、指先が地味に痛い。英は首を左右に動かし、指先を解して少しでも疲れと痛み、凝りを無くそうとする。

 

「・・・・・・すっごい、集中力ね」

 

 ケイが呆けたように英を見てそう言葉を紡ぐ。英も肩を回しながら、苦笑する。

 

「まあ正直・・・普通の授業よりも集中したな」

「あはははっ、私もそんな感じがした」

 

 英の冗談にケイも笑って頷く。授業中でも先ほどのケイのように鬼気迫るような表情で授業に取り組む生徒を、英もケイも見た事がない。

 

「・・・本当に、影輔がピアノが好きなんだってことが伝わってきた」

「え、そんなに?」

「ええ、そんなによ」

 

 ケイは本当のことを伝える。英も傍で見ている人に分かるぐらい集中していたかどうかは分からなかったが、ケイからすればそれが十分に伝わるほど英は真剣に、集中していた。

 

「まあ、俺はピアノが好きなだけだから」

 

 そう言いながら楽譜を持って立ち上がろうとして。

 

「もったいないわねぇ・・・。部活とかに入ってればプロにもなれるかもしれないのに」

 

 英の動きが止まる。

 英の纏う空気がふっと変わったのに、ケイは気付く。

 

「・・・・・・いや、そんな気はない」

 

 そしてそう告げる英の言葉は、少し寂しさを帯びているように聞こえたのは、ケイの気のせいではないと思う。

 

「・・・何かあったの?」

 

 ケイが小さく、試すように問いかける。ここで英が『話したくない』と言えば、もう深入りはしない。

 ケイの問いかけに、英は力なく笑ってケイの方を見る。

 その表情を見て、ケイの心がズキッと痛む。

 だがそんなケイの心のことには気づかず英はまた椅子に座った。

 

「・・・ちょっと、理由があるんだけど、聞いてくれるか?」

「理由?」

 

 訊ねながらも、ケイは頷く。理由が聞きたいということを英は理解し、その理由を話すことにした。と言っても、この理由については別に隠すつもりも無かったし、聞かれれば普通に話すつもりでいた。これまでも、山河やクリス、クラスメイト数人にも話したことはあった。

 しかし、仲良くなれたとはいえ出会った翌日に話したことはない。しかも相手はあのケイだ。どんな言葉をかけられるかは分からない。だがケイが『聞く』という意思表示を示した以上、今更引き返せはしないので話すしかなかった。

 

「・・・俺の母さんは、音楽家なんだよ。ピアニスト」

「へぇ~、すごいじゃない!」

「と言っても、プロじゃない。音大卒だけど、ピアノの家庭教室を開いてた」

「あ、そうだったんだ」

「ああ。それで、俺が物心ついた時も、母さんはピアノを弾いてた」

 

 まだ小学校低学年ぐらいの年齢の時、英は生れて初めてピアノに触れた。

 それまでの英にとっての楽器といえば、トライアングルやカスタネットなどの、特別な技術を必要とはしないが一定の音しか出ない簡素な楽器だった。

 だがピアノは、特別な技術を必要とするかもしれないが、叩く鍵盤によって音が違い、組み合わせによってほぼ無限に異なる音が存在する、とても魅力的な楽器だった。

 親の影響なのか、英はすぐにピアノを覚えて、簡単な曲であればすぐに弾くことができるようになった。英のピアノを聴いた母親も、『上手い』とか『才能がある』と褒めてくれた。

 そして英は、楽器の中でもピアノが一番楽しく演奏することができた。やはり、先に述べた魅力と、ピアノの音色を長く聞いていたからだろう。

 英の母はその英のピアノの才能を見出して、音大時代の同級生だったプロのピアニストに教わると良い、と英に勧めた。その時既にピアノが好きになっていた英はその提案を聞くと喜んで、そのピアニストの指導を受けることが決まった。

 

「・・・けど、俺はまだ子供だった」

「?」

 

 プロのピアニストの指導は、正直言って厳しいに厳しいを重ねたようなものだった。

 それまでの英にとってのピアノとは、自分が楽しく弾ければいいとしか思っていなかった。

 だがその考えは、プロからすれば稚拙極まりない考えだった。そのピアニストは、ちゃんと曲の情景や描写をイメージして、時には楽譜に従うだけではなくアレンジも加えるべきだとまで言ってきた。

 いくらピアノが好きだと言っても、まだ小学校低学年の英にとってはそれは無理難題だった。まだ発想力も想像力も成長過程にある中で、それだけのことをイメージしろと言うのは難しかった。

 

「『そこはもっと優しく』『そうじゃなくて、もっと丁寧に弾きなさい』『なんでできないの』『これぐらいできるようになりなさい』って。もう耳にたこができそうになるぐらい言われた」

「・・・・・・・・・」

 

 ケイは黙って何も言わない。出会って間もない輩にこんな話をされても迷惑だろうに、と英は今更ながら思う。けどここまで言った以上は結論も言わなければ後味が悪いだろうから、続けるしかない。

 

「まあ、結局そのプロの人から教わるのは、1年ちょっとで辞めたんだ。それは覚えてるんだけど、何て言って俺が辞めたのかは、覚えてなかった。というか忘れてた」

「?」

「『もうやだ』って泣きべそかいたのか、『ヤなんだよ』って怒って辞めたのか、忘れてた。でも、中学の時に母さんと電話しててそれを聞いたら・・・」

 

 チラッと英は、壁に掛けられた時計を見る。既に時刻は4時を過ぎていた。

 

「『もっと自由に弾かせてください、って言ったのよ』って」

「・・・・・・!」

 

 ケイの目がわずかに見開かれる。それに英は気付かず話を続ける。

 

「俺は母さんが嘘をついたようには聞こえなかった。俺自身、そんなこと言いそうだなとは思ってた」

「・・・・・・・・・」

「まあ、そんなことがあったから、音楽系の部活には入ってないし、プロを目指そうと思ってない」

「・・・・・・・・・」

「ただ俺は、誰かに縛られたりせずに、自由にピアノを弾きたいだけだ。だからまあ・・・完全な自由じゃない部活に入りたいとは思わないし、あの教わった人のことを考えるとプロにはなりたくないな、とは思う。ただ、一応情景を思い浮かべるとかそういう重要な技術はちゃんと学んだけどな」

 

 そこで英は、苦笑した。相手が明朗快活なケイで、それで少し仲良くなったとはいえこんな話を聞かされても不快な気持ちにしかならないだろう。そう思って英は、せめて場の空気を緩くしようと小さく笑った。

 

「ごめん、変な話して気を落とさせて」

 

 この話を聞いて、ケイは少なからず落ち込んでいるかもしれない。それを紛らわせようと思って、英はピアノを弾こうとした。幸いにも、英の好きな曲は大体明るい曲だし、今日持ってきた曲も明るめの曲だ。

 立ち上がり、先ほどまで開いていた楽譜の曲を弾こうとしたところで、またしても英が動きを止めた。

 だが、それは英自身が意識して動きを止めたのではない。

 

「・・・ケイ?」

 

 ケイが、英の空いている左手を掴んだからだ。女の子に手を握られるという全く経験したことのない事態に直面しても、急なことでそんな的外れな考えが浮かばない。

 もしや、あまりに気分を害したものだから一発ガツンと言ってくるのかもしれない、と英は思った。

 英の話は、捉え方によっては『成長しきれていない未熟な子供が、ワガママを貫いて自分の都合で今を生きている』とも考えられる。英自身でさえそう思っているのだから、周りだってそう考える人がいるだろうと思っていた。

 無論、今英の話を聞いたケイもそういう捉え方をするという可能性だって十分にある。

 せっかく仲良くなれたのに残念だ、と英はもうケイとのつながりが消滅することを考えていた。

 

「・・・1つだけ、言わせてもらっていい?」

 

 そう前置きしたケイの表情は、なぜか笑っていた。なんだ、笑顔で罵倒されるのだろうか。

 

「あなたは、プロみたいに、すっごく立派なピアニストよ」

 

 英の予想の遥か斜め上を行く発言だった。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」

 

 今の話を聞いて、何でそんな感想を言えるのか、英の頭では理解できなかった。だから失礼かもしれないがそんな気の抜けた『は?』が英の口から漏れ出した。

 

「そんな小さい時から『自由に弾きたい』って発想が持てるのがすごいと私は思う」

「・・・・・・そうか?俺には子供のワガママとしか思えないんだけど」

「ううん、その型にはまらず自由に弾きたいって考えるのは、あなたがそれだけピアノを弾くのが好きだったからよ」

「・・・大人に向かって偉そうな口利いたなって今でも後悔してる」

「子供は大体そんな感じよ。私にだって似たような経験あるし」

「・・・でも自分勝手な感じとしか俺は」

「ああもう!そんな辛気臭いこと言わないの!」

 

 自嘲気味に英が呟いてもケイがそれを上書きするように訂正してくる。

 だが、いい加減英のジメジメした言い分が気に食わなくなったのか、びしっと英の顔に向けて細い人差し指を突き出してくる。

 

「多分だけど、あなたがそのままそのピアニストの下で教わっていたら、今のあなたはいないと思う」

「?」

 

 そこでケイは、握っていたままの英の左手を離す。

 

「あなたの弾くピアノは、私にとってはどれも素晴らしい曲だと思う。あなたの曲を初めて聴いてからまだ2日ぐらいしか経っていないし、おまけに私はトーシロだけど、そんな私でもあなたの曲はすごいってことが分かる」

 

 真剣な口調と表情で告げられて、英も反論できず黙り込む。

 

「それは多分、あなたがそのピアニストから教わっている時に、もっと自由に、楽しく弾きたいって強く願っていたから。自分の素直な気持ちを誤魔化して、その教わった通りに弾ていたら、今みたいに楽しく弾く影輔の曲も聴けなかったでしょうね」

「・・・・・・」

「その影輔だけが持っている強い意志があったから、今こうして影輔が聴いていて楽しい曲を弾けるぐらいに上手くなったんだと、私は思うわ」

 

 これまで英の過去の確執を聞いた者は、笑ったり、呆れたり、落胆したりしていた。

 随分可愛くない子供だね、と笑われ。

 お前って意外と我儘だったんだな、と呆れられ。

 もったいないことをしたよな、と落胆された。

 だが、今ケイから聞いた言葉はそのどれでもない、称賛だった。

 英の自由に弾きたいという“意思”と、英の選んだ“道”を褒めて、そして認めた。

 それは英にとっても初めてのことだった。そういう見方があったのかと、視界が広くなった気がした。

 英を認めたケイの笑顔は、その言葉に嘘偽りはないと信じさせるぐらいに明るくて、英の中にある黒いモヤモヤとした感情を吹き飛ばすように温かい、そんなものだった。

 そんな笑顔を向けられると、最早反論することもできない。これ以上屁理屈を並べることもできない。

 

「・・・・・・そんなことを言ってくれたのは、ケイが初めてだ」

「ホント?」

「ああ」

 

 英は、先ほどまで浮かべていた諦めたような笑み、失笑とは違う、憑き物が落ちたかのような笑みを浮かべる。

 そして、自分のことを認めてくれたこと、自分の視界を広げてくれたことに対して、ケイを見てこう告げる。

 

「・・・ありがとう」

 

 その笑みは、優しさに満ちていると表現できるような穏やかな笑みだ。

 その英の笑みに、ケイはほんのわずかな間だけ見惚れた。どうしてだかその笑みから、目を逸らせなかった。

 

「よし、じゃあ弾こうかな」

 

 そんなケイには全く気付かずに英は楽譜を持って立ち上がり、ピアノへと足を向ける。英が立ち上がったことで、ケイも現実に引き戻された。

 英は、自分のことを認めてくれたケイに対して先ほど感謝の気持ちを言葉にしたが、それだけではまだ伝えきれていないというのが、英の本音だ。だから英は、自分なりにこの気持ちを伝えることにした。それが、ピアノである。

 ピアノのことで自分を認めてくれたのであれば、そのピアノで感謝の気持ちを伝えたい。それにやはり英はピアノが好きだから、そのピアノの音色で気持ちを伝えるというのもいいのではないか、とは思う。ロマンチストだなという自覚は当然あった。

 けれど、丁度良く今弾こうとしている、クリスから頼まれたその曲の全体的なイメージは、『大切な人に向けて、長い間伝えられていなかった感謝の気持ちを泣きながら伝える』というものだった。ケイとはまだ知り合って2日ぐらいしか経っていないのだが、感謝の気持ちを伝えるという点では通じているところがある。

 小さく息を吐き、鍵盤に指を置く。そこでケイの様子を窺うと、昨日と同じようにこれから始まる曲に向けての期待を隠しきれずに笑っていて、目も輝いているように見えた。

 

「じゃあ、始めるぞ」

「うん!」

 

 指に力を入れて、鍵盤を弾き演奏を始める。

 イメージトレーニングを思い出してそれと同じように鍵盤に指を走らせて音を奏で、横に広がる五線譜を左から目で追っていく。

 曲の全体像、情景を思い浮かべて、まるで自分がそう実体験しているかのように演奏する。これができるまでに随分な時間がかかったものだが、それが十分身についているかどうかまでは分からない。だが、それでも自分の表情が変わっているのが演奏していても分かる。

 と、そこで間違えやすい、付箋を貼ってあるポイントに近づいてきた。気を引き締めて、間違えないように指と鍵盤に意識を注ぐ。

 やがて、その間違えやすいポイントは躓くことなく演奏することができ、無事に突破した。

 そしてそこから最後の小節に至るまでも、ミスは無かった。音を外したり、前後してしまうことも、無かった。

 この曲を、ミス無しで弾き終えることに成功したのだ。

 

「Congratulation!!」

 

 弾き終えて、鍵盤から指を離したところでケイが立ち上がり、拍手をしながら声をかけてくれた。それで英も、やはりミスはしなかったということを改めて自覚し、力の抜けたような笑みを浮かべた。

 そこで英は、少し疲れたような笑みを浮かべながら、ケイに向けてサムズアップする。

 ケイは、笑顔で片手を挙げてこちらを向く。その仕草で、ケイが何をしようとしているのかを理解した英は、椅子から立ち上がりケイの下へと近づく。

 同じように片手を挙げると、勢いよくハイタッチを交わした。

 

「やったじゃない、影輔!パーフェクトよ!」

「ああ、まさかもうノーミスで弾けるとは思わなかった」

 

 口では冷静ぶっているが、英は心の中では踊り出しそうになるぐらい喜んでいた。

 今先ほどのように聞いた事がない、あるいは弾いた事のない1曲を間違えること無く弾けるようになるには、何度も練習を重ねなければできないことだ。

 だのに、このクリスから頼まれた曲は、昨日1回弾いて、その日英の部屋に帰ってから1回イメージトレーニングをして、今日も先ほど弾く前にイメージトレーニングを1回。そしてたった今、完成した。完成してしまった。

 普段であれば、たった2回のイメージトレーニングと1回の実際のピアノを使う練習だけで成功するなどあり得なかった。大体4~5回練習してようやく完成するのだから、はっきり言って新記録だ。

 ではなぜ、この曲に限って2回目で成功したのか。

 それは恐らく―――

 

「いやー、正直私内心ハラハラしてたわよ~?ミスしちゃったらどうしよう、ってね」

「なんでケイが心配するんだ・・・。実際に弾いてたのは俺だぞ?」

 

 我が事のように感動しているケイをみて、英も苦笑する。

 しかし、こうしてケイが笑っている姿を見ると、英も嬉しくなる。明朗快活であるケイは笑っている姿が似合うし、そして自分の弾いた曲でケイを笑顔にすることができたのだと思うと嬉しくなるのだ。

 

「じゃあ、別の曲を弾こうか。今日もいい曲をいくつか見繕ってきたし」

「おっ、いいわねぇ。期待してるわよ?」

 

 クリスに頼まれた曲が完成したから今日はおしまい、と言うわけではない。元々、ケイは英の自由に弾くピアノを聴きに来たのだから。

 そのケイの目的を達成させるべく、スタンドに広げていた楽譜をトートバッグに仕舞い、別の楽譜を選び取り出し、スタンドに開く。

 先ほど考えていた、そのクリスに頼まれた曲がわずか2回で成功した理由には、恐らくケイの存在があるんじゃないかと、英は思っていた。

 この曲を弾く直前で、英は自分にとっての後悔というか失敗と言うべき経験を話した。だが、その話を聞いてもなお、ケイは英の選択を否定したりはせず、むしろ英を『立派なピアニスト』だと称してくれた。

 だからか、英の心の中にあるモヤモヤがピアノを弾く前にほとんど消えてなくなってしまっていたからか、迷うことなくあの曲を完成させることができた、と英は考えている。

 

「・・・・・・行くぞ」

「ええ、お願い」

 

 英は、もう一度だけ、心の中でケイにお礼を告げて、2曲目を弾き始めた。

 

 

 太陽が傾き始め、今日もサンダースの1日が終わるのだということを思い知らされる。

 ピークを過ぎたとはいえまだ多くいる他のサンダースの生徒たちと同じように校門に向かうまでの間に空を見上げて、日の入りが早まっているなと私は思う。

 その空は、夏の終わりの北海道での激闘も、大洗女子学園が廃校の瀬戸際に立たされたことも感じさせないぐらい澄んだ空、私は一つ溜息をこぼす。

 別に憂鬱な気分になったわけではない。少し物足りなさを覚えているだけだ。

 なぜそんな気持ちを抱いているのかと言うと、それは今より数分前のこと。

 私のクラスのホームルームが終わり、いつものようにケイと共に寮へと下校しようと誘うために、彼女のクラスに行ったのだが。

 

「ケイならホームルームが終わってすぐに帰ったぞ」

 

 ケイと同じクラスの男子がそう言ってきた。普段なら、ホームルームが終わっても少しの間クラスメイトと雑談でも交わしているケイが、終わるなりすぐに帰るというのは意外なことだった。何か急用でもできたという話ならばそれまでだったのだが。

 

「あれ?でもさっき『ハイランダー』の方に行ったの見たよ?」

 

 別の女子の情報を聞いて、私の頭の中に疑問符が2つほど増える。『ハイランダー』とはこのサンダースの数ある校舎の1つの愛称だというのは知っているが、その『ハイランダー』に何かあっただろうか?

 図書室は普段いるこの『アイアンブリッジ』にある。他にも調理室や音楽室だってこの棟にもあるのに、『ハイランダー』に何か特別なものがあると聞いたことはないのだが。

 疑問が頭の中で渦巻くが、だからと言ってケイの後を追うような真似はしない。彼女も何らかの理由があって行ったのだろうし、その理由があまり他人に知られたくないようなものだったとしたら、それを追究するのは無粋というものだ。

 疑問は棚上げして、ケイを誘って帰ることは諦める。じゃあと思って誘おうとしたアリサも、何らかの用事があって学校に残るらしくて、私はこうして一人で帰っているわけだ。

 だから、普段は明るくて、サンダース特有とも言えるフレンドリーで賑やかなケイがいないから、物足りなさを覚えていたわけだ。

 寂しいというわけではない。断じて。

 

(・・・・・・ジムにでも、行くか)

 

 その物足りなさを払拭するように、このあとの予定を考える。いつまでも感傷に浸っているのは私の主義ではないし、疑問や物足りなさをいつまでも引きずっていては戦車道に支障をきたしかねない。

 校門を過ぎて敷地から出たところで、ポケットからチューインガムを1個取り出して口に放り込む。

 まずは寮に戻ってトレーニングウェアを用意する。ジムはそれからだ。

 角を曲がって歩く方向が変わり、先ほどまで私の右手に見えた太陽が今は正面に見える。その太陽も、1人で家路を行く私の気持ちを少しでも盛り上げようとしているように見えた、というのは些かロマンが過ぎるか。




年内の投稿はこれで終わりにしたいと思います。
次の話は年明け、三が日の後あとを予定しておりますので、
よろしくお願いします。

感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。
それでは、読んでくださった皆様、良いお年を。
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