レコンギスタ世界線の例のシーンです。
すべては偶然だった。今日この瞬間に起きたことはすべて、誰も予想しえないことであったはずだった。
第63回戦車道全国高校生大会の組み合わせ抽選会に大洗代表として西住まほ・西住みほ・天翔エミの3名が赴いたことも。
初戦の相手がサンダース大学付属高校であるとわかった彼女らが、一回戦に向けた戦術論をぶつけ合う場として戦車喫茶『ルクレール』を選んだことも。
黒森峰代表として来ていた逸見エリカが只事ならぬ気配を漂わせているのを察した赤星小梅が、気苦労の絶えない隊長を労わるつもりで、大洗代表の3人がいる戦車喫茶に連れてきてしまったことも、すべてが偶然だった。
もしもこの世の運命を司る神がいるならば、そいつはきっと貢物を貪るだけしか能がない役立たずに違いないと、赤星小梅は確信していた。
大洗女子学園の制服を着たまほをエリカが有無を言わさず殴り倒す光景を目の当たりにしてなお、天高くから人の愚行を見下ろして嗤っているような神に、捧ぐべき祈りなどありはしない。
あれほど敬愛していた元隊長の横っ面に鉄拳を喰らわせたエリカの横顔は、もはや小梅の知っているそれではない。
彼女の既知と隔絶した気配――その姿を見ているだけで胸の底が冷えてくるような、あるべき何かを大きく喪失したような空虚な気配。
あるべき何かとは? その答えは問うまでもなく、黒森峰から去り、新天地で戦車道を謳歌する元チームメイト達に他ならない。
エリカからすれば納得のしようがないのは無理もない。裏切られ、置き去りにされた痛みを呑み込んで、押し付けられた隊長代行をやり通している。教官やOG会に実力が評価されたのではない。彼女が命令に忠実で、私情を挟まず、ルールを犯さず、余計な好奇心を持たないからだ。天翔エミに続き、西住姉妹までも黒森峰を去った今、逸見エリカがよくできた歯車であるということこそ何よりの推薦理由になった。
だが、そのエリカ評は誤りであったというべきだろう。かつて歯車であった彼女は磨耗し、ヒビ割れて、今にも壊れそうになっている。錆付いた憎しみだけがエリカを戦車道に繋ぎ止めている。
私情を挟まない? ルールを犯さない? そんな馬鹿な話があるか。天下の黒森峰の隊長が、他校生への暴力沙汰でエントリー取り消しになる可能性すら考えずに殴りかかっていった。その事実がすべてを物語っているではないか。
「……よくも戦車道を続けられたものね、あんた達」
幽鬼のような表情で倒れたまほを見下ろし、エリカは言う。一切の虚勢も虚飾も剥がれ落ち、エリカの本心だけがそこにはあった。悲しみ、孤独、怒り、絶望――憎悪。ただ、そんなものだけが。
「西住師範を裏切り、私達を裏切り、何もかも捨ててみんなで一緒にやる戦車道。さぞ面白いことでしょうね。本当に羨ましいわ」
「……すまないことをしたとは思っている」
殴られた頬に手を添えながら、まほが呻く。
「私達はエリカに何もかも押し付けてしまった。だが」
「エミを放っておけなかった。そう言うんでしょう? ……それで?」
エリカはまほの胸元の黒いスカーフを掴んで立ち上がらせると、泥のように昏く濁った目を通してまほの瞳を覗き込んだ。
「それが、あんたが隊長としての責任を放棄して逃げ出したことに対する、何の言い訳になるっていうのかしらね。みほもエミも同じ。個人の動機と職務上の責任を秤にかけて、与えられた役割を果たすことから逃げた。黒森峰から、西住流から逃げた! それがあんた達がしたことの全部!」
「エリカ!」
エリカの絶叫に鋭い声が重なり、まほの胸倉を掴む手を別の小さな手が押さえ込んだ。装填手らしいゴツゴツして骨ばった硬い指の感触に、エリカはほんの数瞬、瞳をわなわなと震わせた。
エリカの手首を掴んだエミは、後ろめたさを隠し切れない表情で切り出す。
「……元はと言えば私がしたことだ。私が私の責任を取るために、黒森峰から出て行かなきゃならなかった。みほも、まほさんも、ただ私の身勝手に付き合ってくれただけだ。だから、もうやめてくれ」
「へぇ、どう責任を取るつもりだったわけ? エミが勝手な真似をしたせいで黒森峰は負けた。その事実は変えようがないのよ。あんたが何をしたところで、結局自分の良心を慰めてるだけじゃない」
「……それじゃあエリカさんは、あのとき川に落ちた味方を見捨てていればよかったって言うの?」
そう口にしたみほは一瞬だけ、小梅の顔を見た。そのとき水没した戦車の乗員の一人が、今はエリカの副官としてこの場にいる赤星小梅であったからだ。それは全員が承知している。
だがエリカは、「ええ、そうよ」と冷たく言い放った。
「勝つために必要なら迷わずそうすべきだった。そして必ず勝たなければいけなかったのよ。勝利のための犠牲を贖うのは勝利以外にないんだから」
他意のない、どこかサバサバした口調ですらあった。味方の犠牲を容認する姿勢をあまりにも当然の理解として示されれば、みほもムキになって否定せずにはいられなかった。それはあの日、エミがみほに代わって否定した考えだったのだから。
「勝つために犠牲を強いて人間を使い捨てにして、それで何が残るの!? そうやって手に入れた勝利なんて学校や流派の名前を上げるだけで、誰も報われない! ……そんなの、戦車道じゃない!」
「……あんたこそ、そういうやり方をする流派の総本山で育ったくせに!」
「私もお姉ちゃんも、お母さんとは違う! だって……」
一泊の沈黙の後、みほは静かに言った。
それが、決して言ってはいけない言葉であることに、ついぞ気がつかぬまま。
「……私達は、エミさんの“家族”だから」
家族。
その言葉を聴いたエリカの胸中に、いつかの日の光景がフラッシュバックする。
家具の少ない殺風景な部屋に、一縷の温もりと生活感をもたらすコーヒーサイフォン。フラスコを熱するアルコールランプの火。温められくつくつと沸騰するお湯。それを見守る部屋の主。
エミが豊かな香りを立ち上らせるカップをエリカに差し出して、穏やかに笑う。
琥珀色の液体を飲み下し、じんわりと胸に広がる安らぎの中で、エリカはエミのその言葉を聞いたのだ。
『私には家族はいない……いや、いなかった。でも今はチームのみんなが家族みたいなものだと思ってるよ。みんなと一緒に戦車道をやれて、本当に幸せだ』
ああ、なんだ。そうだったのか。
私は、『家族』じゃなかったんだ。
「く、くく……あはは……」
家族。
今やその二文字は、エリカにとって絶対的な断絶を意味する。人と人とを内と外に切り分け、疎外する忌むべき言葉だった。お前は『みんな』じゃないという宣告を突きつける、禁じられた言葉だった。
心を窒息させるような失意と身を切るような絶望が口から漏れ出たとき、それは笑いの形を成していた。
「あはははははははははははははははははははははははははははははははは」
戦車喫茶の店内にエリカの狂笑が響き渡る。
『誰も助けてくれない』
『みんな私のせいにする』
『ぜんぶなくなっちゃった』
エミとみほとまほが姿を消してから見つけた、エミの日記に書かれた言葉達が生々しく脳裏に蘇っていく。
(そうか。あれはきっと、私に向けられた言葉だったんだ)
ふとそんな思いが頭をもたげ、その理解は意外なほどすとんと胸に落ちた。エミを救ってやれなかったのは自分とて同じではないか。西住姉妹と自分は鏡映しの似姿でしかなく、ただ個人の動機を職務上の責任と秤にかけて、『家族』を優先したにすぎない。エリカにはできなかった選択を、彼女達はした。
そしてその選択は、私を『みんな』の間へ戻れなくしたのだと、エリカは思った。
「……もういい。もう、どうでもいい。何もかも、全部」
実に3分あまりも笑い続けたエリカは、やがて倦んだ吐息とともに呟いた。
胸を突き上げる激情はその圧を弱め、その場に座り込みたいくらいの脱力感を堪えながら、失笑混じりにエリカは語り始めた。
驚愕と困惑の入り混じった表情で自分を見ている、目の前の『家族』へ向けて。
「ひとつ、面白いことを教えてあげる。今黒森峰で準備が進められてる第8次機種転換計画で、全国大会が始まる前に新しい戦車を購入することが決まったのよ。内訳はパンター8輌、ティーガーⅡ3輌、それから――カール自走臼砲1輌」
校外秘の軍備拡張計画を、エリカはまるで茶飲み話のネタくらいの気軽さで口に出した。黒森峰のトップシークレットをあっさり敵に漏らしたエリカに、そばに控える小梅も思わず気色ばむ。
元隊長として機種転換計画の概要を知っていたまほはともかく、みほとエミにしてみてもエリカの発言は青天の霹靂であった。
「カール自走臼砲!? ……でもアレは文科省でも協議中の段階で、使用許可が……」
「下りるのよ、全国大会決勝戦の前日付けでね。そういうシナリオなのよ」
文科省への根回しを行ったのはしほだったが、なんとしても大洗を廃校にしたい辻局長との思いがけない利害の一致もあり、カール自走臼砲の認可を取り付ける密約は呆気ないくらいすんなりと決まっていた。
許可が下りるとわかっていれば、隊長権限で機種転換計画で導入する予定の車両群にそれをねじ込むくらいは容易いことであったし、西住流宗家の後ろ盾と資金援助を得たエリカを掣肘しうる者は黒森峰には誰もいなかった。
「……当然、こんな大規模な軍拡を推進するためには対外的に不可欠な要素があるわ。王者黒森峰にとって脅威となりうる『敵』の存在――『裏切り者の西住姉妹』の存在が。
OG会のババアどもも、伝統がどうたらこうたらって言ってずいぶん抵抗したけど、最後には首を縦に振ったわ。『裏切り者の西住姉妹をブッ殺すためだ』って言ったら、白々しくも渋々ながらにね」
サンダース、聖グロリアーナ、プラウダの三校のみならず、西住姉妹をも黒森峰を裏切った敵と定めてその座に留め、高校戦車道界を緊張状態に置き続ける。その中でこそ、乱脈を極める軍拡競争も正当化される。
『裏切り者の西住姉妹を倒せ』というスローガンは王者黒森峰の栄光を取り戻そうとするOG会のような勢力にとってはまたとない建前であったし、あくまで黒森峰の伝統を保守すべしというポーズを一時的にしろ取っておけば、仮に機種転換計画が頓挫しても急進派の逸見の暴走によるものと責任を転嫁できる。
所詮エリカは代えの利く歯車でしかなく、適当なところで使い捨てられる運命にあるのだろう。しかし、歯車にだって意地も尊厳もある。
エリカは、奥底から湧き上がる激情に身を委ねることをケツイした。
「勝ち残りなさい。そして決勝戦で会いましょう。そのときこそ、私があんた達を殺す」
表情の一切が抜け落ちた顔でエリカは告げた。最後の一語に、決してただの比喩に留まらない昏い情念を込めて。
とっくに失われてしまったものの形骸を、この手で葬るというケツイを込めて。
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ヘリで学園艦に帰り着いて、寮の部屋に戻るなり、エリカさんが私の手を引いてベッドに押し倒した。二人分の体重を受け止めたベッドが、スプリングを軋ませてギシギシと音を立てた。
私に覆い被さったエリカさんは、私の身体をきつく抱きしめながら、かすかに身を震わせている。吐息を荒げて、胸の中に荒れ狂っているものに耐えている。そして私は、そんなエリカさんを抱き返して、そっと頭を撫でる。
変えようがない過去に、どうしようもない今に、行く先の見えない未来に苛まれるエリカさんを、ただこの一瞬だけでも安心して眠らせてあげたい。私のたったひとつの祈りを込めて、私達二人が眠りに落ちるまで、ただ繰り返す。
エリカさんは決して強い人じゃない。
信じていた人に裏切られ、置き去りにされ、それでも泣きながら、歯を食いしばって耐えている。みんな彼女の強い部分しか見ない。エリカさんの弱さを必要とする人はこの学校にはいない。それはエリカさん自身でさえも。
こうして独りで泣いているエリカさんには、抱きしめてあげる人が必要で、でも、エリカさんが一番抱きしめてほしい人はここにはいなくて。それなのに、身も世もなく泣き暮らすことを是とできるエリカさんではなく、ただひたすらに強がっていくしかできなくて。
嗚呼、やっぱりこの世に神様なんかいないんだ。
もし神様がいるのなら、何故この人にこんな過酷な運命をお与えになるのだろう。父なる者は、エリカさんがこの世でやるべきことがこれだというのか。試練と受け止めて強く生きろとでもいうのか。
そんなものを誰が望んだんだ。誰がそうしてくれと頼んだんだ。どうして神様のくせに、たった一人の女の子にさえ幸せを与えられないんだ。
ふと、スマホのバイブレーションの音が耳朶を打った。寝返りを打った際にエリカさんのスカートのポケットから滑り出たそれに、安らいだ寝息を立てるエリカさんはまったく気づかない。
スマホを手に取って画面に表示されている名前を見た瞬間、私はたまらなく腹が立って、スリープボタンを押してバイブレーションを止めた。
「西住しほ」。
エリカさんを隊長代行に推薦し、戦いに駆り立てる女。
自分の子育ての失敗を棚に上げて、エリカさんに自分の娘を倒させようとする女。
戦車道という競技の裏側にある暗い泥沼に、エリカさんを招き入れようとする女。
きっと、エリカさんへの『指導』のことだろう。西住師範は隊長代行として仕事をこなすエリカさんに、マンツーマンで戦車道の特訓をしていると聞く。黒森峰を優勝させるために、自分を裏切って西住流を捨てた娘達を倒させるために。
所詮、自分が西住流の家元に襲名するための実績作りに躍起なだけだ。そのためにエリカさんを利用しているだけなのだ。
やり場のない憤りが、憎しみが、少しずつ私の中に澱のように溜まっていく。
エリカさんを傷つけるものすべてへの憎悪が、私の心をどす黒く塗り潰していく。
これから先、エリカさんみたいに、赤星小梅という人間もきっと歪んで、崩れて、曲がって、壊れて、まるで別の人間みたいになっていくんだろう。
その果てで消えずにずっと残っているものが果たして何なのか、今の私にはわからなかった。
ただ、私達がどんなに変わっていっても、きっと私はエリカさんのそばにいるだろう。
その予感だけが、心の支えであるかのように思えた。
逸見エリカダークノワールブラックシュバルツとは一体何なのかをちゃんと言ってなかった気がしたので。
エリカは闇堕ちするけど最終的にしほエリ梅でサンドされるというエミカスみたいなポジションに落ち着くのでごあんしんです。