ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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33. エーファの葬列

 陽が(かげ)るのと同時に、草原一面に爽やかな風が吹き渡った。背の低い草の間に咲いていた小さな球状の花々が風を受けて、控えめな白い彩りを波頭(はとう)のように広げていった。

 

 エーファは、ぼんやりと、その花の名は何であったかと思いを巡らせていた。見慣れているはずのその花の名を、彼女はどうしても思い出すことができなかった。彼女の思考力は茫洋としていて、著しく集中を欠いていた。

 

 しばらくして、エーファはようやく、その花の名がシャムロックであることを思い出した。このエールの大地を象徴するエメラルドグリーンの植物は、かつて聖なるパトリキウスが(よみ)した可憐なる花だった。忘れるはずもないのに、それをなかなか思い出せなかった自分に対して、彼女は苦笑を抑えられなかった。

 

 だが、すぐに、それも無理のないことだとエーファは思い直した。

 

 エーファは湿った地面に横たわっている、自分の細い華奢な体を見た。服はところどころが裂けており、胸が露出していた。純白だったはずの生地は余すところなく真っ黒だった。両腕は()じれており、そのどちらにも裂傷があった。右腹部には大きな穴が開いていて、奇妙なまでに色鮮やかなピンク色の内臓が零れ出ていた。傍らには破損した杖が転がっていた。

 

 エーファの美しい長い金髪は乱れていて、未だに幾分か幼さを残しているが充分に佳麗(かれい)と言える顔に覆い被さっていた。蝋細工のように蒼白になった表情はまったく動かなかった。両目は薄く閉じられており、口も一向に開く気配がなかった。

 

 顔が傷つけられなくて良かったと、エーファは益体もないことを思った。

 

 どこかから小さなミツバチが飛んできて、彼女の血の気の失せた右の頬に止まった。休憩のためか、それとも新たなる花を探すためか、ミツバチはつかの間、もぞもぞとその場で体を動かすと、気のない様子でまた飛び去っていった。

 

 死んでいる。エーファは改めて自分を観察し、そのように結論した。間違いなく、自分は死んでいる。肉体が役目を終えた正確な時刻こそ分からないが、もはや自分は生者ではなく、死者として数え上げられるべき存在であると、彼女は自分自身に言い聞かせるように認識を新たにした。

 

 また風が吹き、草花がざわざわと音を立てた。その音は却って、あたり一帯の静けさを強調していた。静寂の湖の中で、意識という小島だけがぽっかりと浮かんでいるような、ある種の詩的な情感をエーファは抱いた。

 

 それに触発されたかのように、ぼんやりとした思考が働き始めた。エーファはあの時のことを思い出していた。

 

 彼女が思っていたよりも、その瞬間は呆気なく、そして唐突だった。まだ陽の薄い早朝、野営をしていた森を抜け、草原に差し掛かり、霧雨が淡く大地に注ぐ中を一時間ほど歩いたところで、彼女は突如として騎乗した魔物に襲われたのだった。

 

 その魔物の騎士は、全身を黒い装備で固めていた。騎士には首がなく、その馬もまた頭部を持たなかった。丸い盾に長い槍、鞘に収められた長剣、銅鎧、脛当てに至るまで、武具は曇り一つなく磨き上げられていた。

 

 騎士はエーファに狙いを定めると、首無し馬に一鞭を当てて突進し、無言で槍を突き出してきた。彼女はそれを避けることができなかった。槍は彼女の腹部を貫き、捻じるようにして引き抜かれた。

 

 痛みはなかったが、衝撃は強かった。傷を負ったエーファは撥ね飛ばされて、無様に地面を転がった。不思議なことに、その瞬間においても彼女の意識ははっきりとしていた。このままでは服が血と泥に汚れてしまうと、そんな場違いなことを考えられるほどに、彼女の意識は明確な形を保っていた。

 

 彼女は呪文を唱え、自分自身に回復術を行使した。体から魔力が失われていくのを感じるのと同時に、腹部に開いた大穴が見る間に塞がっていった。母親から受け継いだ彼女の術は、このような切迫した事態においてもしっかりと効果を発揮した。

 

 それでも、それはエーファの人生の終局をほんのわずかだけ延ばしたに過ぎなかった。一撃のもとに葬り去ったはずの人間の娘が絶命していないのを確認した首のない騎士は、自身の武技が侮辱されたと受け取ったようだった。馬から降りると、騎士は腰の長剣を抜いて、勢い良く彼女に斬りつけた。

 

 今度こそ、エーファは痛みを感じた。鋭い、叫び出したくなるような、激しい痛みだった。

 

 数分間か、それとも数十分か。長くとも一時間は経っていないだろう。騎士は剣を振るい続け、エーファはそれを杖で防ぎつつ、回復術を使い続けた。騎士の剣は刃毀(はこぼ)れを生じ、最終的には斬るのではなく殴りつけるようになっていた。彼は相変わらず無言だったが、剣筋は徐々に荒々しく、力任せになっていった。エーファはそれを、騎士の強い憤りと殺意のあらわれだと感じた。

 

 やがて、戦いとも言えない、無益なエーファの抵抗は終わった。騎士は倒れて動かなくなった彼女をしばらく、ないはずの首から見下ろしていた。黒い剛毛に覆われた手を彼女の首筋に差し伸べ、脈拍が消えたのを確認すると、騎士は真っ赤な血糊を拭うこともなく長剣を鞘へと収め、離れた場所で一連の出来事を眺めていた馬に跨り、遠くへ去っていった。

 

 エーファにとって、騎士の行動は不可解なものだった。凶悪そのものと言われている魔物ならば、瀕死になった自分を食い散らかすか、または欲望のままに辱めるか、それとも首を切断して頭部を持ち去るか、そういった行為に及びそうなものであるのに。騎士がただ自分の命を奪うだけに留めたことが、彼女にはにわかに信じられなかった。

 

 あるいは、騎士は敵に対する尊敬の念を示したのかもしれない。エーファはそう考えた。最後の瞬間まで抗い続け、時間を稼ぎ続けた自分に対して、それがどれほど絶望的で無意味なものであったとしても、騎士には何かしら思うところがあったのかもしれない。

 

 撫でるように、またしても風が吹いた。エーファは、再度自分の死体を見た。騎士の行為以上に、今の状況は彼女にとって理解のできないものだった。自分は死んでいるはずなのに、どうして未だにこうして意識が現世に留まっているのだろうか。器である肉体が損なわれ、その生理的な機能が完全に失われたのならば、霊魂は直ちに肉体から抜け出て、あの世へと歩みを始めるはずではないだろうか。

 

 だが、エーファはそれ以上そのことについて考えるのをやめた。死したる後も霊魂はしばらくの間この世に留まっていると、前に誰かが言っているのを聞いたことがある。それに、現にこうして死んでしまった以上、自分にはもはやどうすることもできない。

 

 ならば、成り行きのままに状況に身を委ねるのが一番ではないだろうか。彼女はそう思い直した。そうだ。何も考えず、何も思わず、ただ自然のままに、流されるように時間を過ごすのが最善なのではないだろうか……

 

 なにしろ、自分は今までそうやって生きてきたのだから。そうやって生きてきて、その結果死んだのだから。

 

 自分自身に納得を強いるように考えに耽っていたエーファは、その時、無粋で乱雑な羽音を聞いた。見ると、大きな黒いハエが彼女の死体の上を緩く旋回していた。ハエは眼下の死体の値打ちを見定めるかのように、少しの間飛び続けていたが、やがて彼女の腹部に降り立つと、穴からはみ出ている臓物へ向かって歩き始めた。

 

 エーファは不快感に顔をしかめた。ハエはきっと、彼女の死体を無遠慮に食い荒らし始めるだろう。そればかりか仲間を呼び、交尾をして、無数の卵を産み付けるかもしれない。数日も経たずして卵からは乳白色の蛆虫が生れ出で、死肉を貪り始めるに違いない。今のところ痛みはなく、うっすらとした疲労感があるだけだが、それでも自分の死体が自分の見ている目の前でハエに集られ、蛆に覆われていく様を見るのは耐え難いことだろう。

 

 直前まで状況のままに時間を過ごすべきだと考えていた自分が甘かったことを、エーファは思い知った。

 

 彼女の見立て通り、ハエは続々とその場に集まってきた。この草原のいったいどこに、これだけのおびただしい数のハエたちが潜んでいたのか。半時間後には、彼女の体の上を数十ものハエが這いずり回っていた。

 

 覚悟はしていたが、やはりおぞましい。エーファはうんざりとした気持ちになった。ハエたちが体の上を歩き回る感触が、ほんのわずかながら感じられる。ハエたちはエーファの死肉に唾液をまぶし、細胞組織を溶かして、それを啜ることで滋養を得ているようだった。

 

 ハエたちにしてみれば、彼女は唐突に何処からかもたらされた大いなる恵みであり、次世代を育むための貴重な栄養源であった。この様子ならばあともう半時間もしないうちに、自分の死体はハエで真っ黒になるだろう。エーファは嫌悪感と共にそう予想した。

 

 エーファは、幼い日に見たある光景を想起していた。村の外れの林の中で、病気か怪我のせいか一頭のヤギが息絶えていて、彼女が発見した時にはハエが群がり寄っていた。彼女が近づいても、ハエたちは傲慢なことに逃げる様子を一切見せなかった。遠目に見ると白い骨だと思われた部分は、近くから見るとびっしりとへばりついた蛆虫の集合体だった。好奇心に負けて、その蠢く様を目前で見てしまったエーファは、林から出た後、嘔吐した。

 

 自分もあの山羊のようになるのだろうか。エーファは軽く身震いした。自然の成り行きというものが、自分が思っていたような純粋で美しいものなどでは決してなく、実際はハエと蛆虫で構成される凄惨なものなのだとしたら、この世界はなんと醜く、見るに()えないものなのだろうか……

 

 突然、乾いた銃声が辺りに響き渡った。空気の振動を受けて、ハエたちが動揺したように羽を震わせた。とりとめのない思考に沈んでいたエーファの意識は、急速に外界への接触を取り戻した。

 

 見ると、そこには一人の小さな妖精がいた。

 

 それは尖った耳をした、精悍な顔つきをした妖精だった。彼は小さな灰色のネズミに騎乗していた。濃緑色の軍服を身に纏った彼は、茶褐色の平たいヘルメットを被っていた。腕には騎兵銃を抱えていて、腰には弾入れを巻いていた。彼は土埃にまみれていて、あまり見栄えが良くなかった。だが、その目つきは鋭く、兵士らしい迫力を有していた。

 

 エーファが息を呑んで見守る中、妖精は落ち着き払って再度銃を構え直し、狙いをつけて引き金を引いた。銃声が響くのと同時に、ハエたちは一斉に死体から飛び上がった。死体の上には一匹のハエが残された。ハエは頭部を射抜かれていた。焼け焦げた銃創からは透明な体液が流れ出ていた。

 

 戦果に満足した様子もなく、妖精はボルトを操作して銃から空薬莢を排出すると、今度は腰に()げていた革製のホルスターから、一丁の信号拳銃を取り出した。彼は手慣れた様子で拳銃に弾薬を装填すると、天に向かって銃口を向け、一発の信号弾を発射した。

 

 信号弾は蛇が水面を泳ぐような軌跡を描いて宙を昇り、炸裂した。その光と煙の色は、鮮やかな赤色だった。エーファはそれを好ましい色だと思った。村の夏至を祝う祭礼で打ち上げられる花火の中でも、彼女は特に赤い花火を好んでいた。その花火と比べると、妖精が今発射した信号弾は非常にささやかなものだったが、美しさにおいては遜色がないように彼女には思われた。

 

 妖精はネズミに拍車をかけると、エーファの死体に近寄り始めた。ネズミの目の色は穏やかだった。ネズミは妖精の手綱捌きに素直に従っていた。小さな鳴き声を漏らしつつ、鼻をぴくぴくと動かし、ネズミは妖精を背に乗せて、死体の周りをぐるぐると歩き続けた。時折、妖精は弾丸を空中に向けて連発した。どうやら、ハエがまた死体に接近しようとするのを防いでいるようだった。

 

 妖精の表情は真面目そのもので、青い目には真剣な色がこもっていた。エーファは微笑ましい気持ちでそれを見ていた。見たこともない窮屈そうな服装をし、連発できる不思議な銃を持ち、手に持てるほど小さいのに花火を打ち上げることができる道具を操る妖精……そう、たしかに妖精だ。言い伝えとはずいぶんと違う格好をしているが、妖精には違いない。そして、どうやらこちらに害意はないらしい。少なくとも、厄介なハエたちを追い払ってくれただけでもありがたい存在と彼女には言えた。

 

 ややあって、草を掻き分けて何かがそこへやってきた。それはまたしてもネズミに乗った妖精だった。妖精は複数いた。彼らの先頭に立つ、襟に三つの星のマークを付けた妖精が、最初に死体の元へやってきた妖精に声を掛けた。

 

「パトリック、お手柄だったな。よく見つけてくれた」

 

 エーファの予想に反して、その妖精の声音は低かった。成熟した男性の声だった。そして、その言葉は間違いなくエーファも話すゲール語だった。だが、どこか耳慣れない(なま)りも含まれていた。言葉こそが人間を人間にしているものだと村の老人は言っていたが、どうやら実際は違っていたらしい。彼女はそう思った。

 

 パトリックと呼ばれた妖精は、背筋を伸ばし威儀を正して、凛とした大きな声で答えた。

 

「ありがとうございます、小隊長殿。こちらは異常ありません。発見した時には既にハエが集まりかけていましたが、一匹を撃ち殺すと全て飛んで逃げていきました。他愛のない奴らです」

 

 小隊長は無言で頷いた。そして、彼の周りにいる部下たちに顎で示すようにして指示を出した。部下たちはネズミを走らせ、死体の周囲を警戒するように取り囲んだ。そのうちの一人は先ほどパトリックが撃ったのと同じ型の信号拳銃を取り出して、今度は白い信号弾を空に打ち上げた。空中に花咲くそれが、エーファには昼間の星々のように儚く見えた。

 

 小さなシガレットケースから煙草を取り出すと、小隊長は悠然と一服し始めた。手でパトリックを差し招き、近寄って来た彼に一本を渡すと、雑談を始めた。

 

「お前の信号弾を確認した時、すぐにジェームズを本隊へ連絡にやった。(じき)にみんなここへやって来るだろう。それで、どうだ? 見たところ、確かに死んでいるようだが……」

 

 パトリックは表情も変えずに答えた。

 

「はい、小隊長殿、確かに死んでおります。血が全て流れ出てしまったようですし、それに臓物が零れ出ていて身じろぎ一つしません。呼吸もしておりません。軍医殿が来れば正式に死亡診断をするでしょうが……」

 

 小隊長は幾分か沈痛な面持ちを浮べた。

 

「うむ。それにしても気の毒なことだ。せっかく村から出て来たのにこんなところで呆気なく死んでしまうとは。あのデュラハンに出会ったのが運の尽きだった。あいつは気が狂っているからな。人間とあれば殺さずにはいられないようだ。まったくもって、前近代的な奴だ。バケモノそのものだよ。エールの妖精族の恥晒しだ」

 

 パトリックは頷いた。

 

「本当に、こんなところで旅が終わってしまうとは思いませんでした。可哀想なことです。エーファはまだ十六歳で、二ヶ月後には誕生日を迎えるはずだったのに……」

 

 エーファは驚いた。こちらは妖精たちのことを全く知らないのに、向こうは自分のことをよく知っているらしい。名前どころか、誕生日まで知っている。この分では、どうやら彼女が村から出て来た事情まで把握しているようだ。誰にも知られていないはずの、その事情を……

 

 彼女を余所に、妖精たちは雑談を続けた。ちょうど無風だった。針のように細い煙草の煙が二筋(ふたすじ)立ち昇っていった。小隊長が言った。

 

「諜報によれば、『大きな三つのキノコの国』の部隊が、駐屯地から出撃したらしい。それが本当だとしたら、かなり厄介なことになる」

 

 パトリックは言った。

 

「なに、連中は素人集団ですよ。我々は戦闘の専門家ですが、奴らは銃を真っ直ぐ構えることすらできません。この間の『シカの骸骨(がいこつ)の砦』の戦いだって……」

 

 小隊長が首を左右に振った。

 

「いやいや、あいつらも最近妙な知恵をつけてきているからな。ササナの国から軍事顧問を招いたらしい。油断をするのは禁物だぞ……」

 

 彼らが二本目の煙草を吸い終えた頃、また草原にさっと風が吹いた。ちょうどその時、向こうからドロドロというざわめきが聞こえてきた。

 

 エーファが視線を移すと、そこへやって来たのは、大勢の妖精たちだった。いずれも緑色の軍服を着て、小銃を肩に担いでいた。ネズミに乗った妖精たちが騎兵ならば、彼らは歩兵といったところだろうか。しかし、彼女からすると歩兵たちは歩兵にしては綺麗すぎた。歩兵とはもっと汚くて、身なりも装備もばらばらなものではないか? だが人間ではなく妖精の歩兵ならばそういうものなのだろう。彼女はすぐに納得した。

 

 歩兵の妖精たちは三列の縦隊を作っていた。装備が(こす)れて、ガチャガチャと金属音が鳴っていた。隊列の中ほどで軍旗が翻っていた。軍旗は紺色の布地に金糸で四葉のシャムロックが縫取られている、豪華な意匠のものだった。

 

 威風堂々たる容姿の、大柄な妖精が先頭を進んでいた。それは隊長だった。隊長は立派な口ひげを蓄えていた。銀のサーベルを()いていて、背中には裏地が緋色の、黒いマントを羽織っていた。

 

 彼は大きなハリネズミに騎乗していた。針がお尻に刺さらないのだろうかとエーファは心配になったが、頑丈な鞍がそれを防いでいるようだった。あえて危険な動物に騎乗することが隊長であることの証なのかもしれないと、彼女は考えた。

 

 隊長は短く、鋭い声を発した。総勢三百人ほどの数の歩兵たちが、一斉に歩みを止めた。小隊長とパトリックはネズミを走らせ、隊長の傍へ行った。報告が行われているようだった。隊長は鷹揚な態度で頷くと、隣にいた副官に声を掛けた。副官は列の後方へ走っていった。

 

 ほどなくして、後ろの方から副官に連れられて、一人の妖精が小走りでやってきた。妖精は白い肩掛けカバンを提げていて、分厚い丸いレンズの眼鏡をかけていた。細長い、貧相な顔つきだった。彼は運動が苦手なようで、ちょっと走っただけで息を切らしていた。どうやら、彼が先ほどの雑談の中で出てきた軍医のようだった。

 

 軍医は隊長から二言か三言ほど何かを言われた。小刻みに頭を何度か下げると、それから軍医はおもむろにエーファの死体へ向かって歩き始めた。二人の歩兵が梯子(はしご)を担いでその後ろに従った。梯子は乾燥した蔓草で出来ていた。

 

 地面からエーファの左頬にかけて、梯子が立てかけられた。エーファはほんの少しだけ、こそばゆいものを感じた。軍医は横木に手を掛け、昇ろうとした。だが、彼の昇り方は非常に遅々としていた。そのあまりに鈍い動きを見ていられなかったのか、二人の歩兵は軍医の尻を押し上げた。それに助けられて、軍医は死体の顔の登頂を果たした。歩兵もその後に続いた。

 

 三人の妖精はエーファの顔の上を進んできた。あまり土足で顔を踏まないで欲しいと彼女は思った。そんな彼女の思いを無視するように、彼らはまず、顔にかかった長い金髪を払い除けた。エーファの死に顔が露わになると、彼らは次に、閉じられているエーファの右目の(まぶた)を拡げた。二人の歩兵が瞼を抑えている間に、軍医は懐中電灯で瞳を照らした。しばらく観察してから、得心がいったように彼は頷くと、今度は左目に同様のことを(おこな)った。

 

 軍医は独り言を漏らすように言った。

 

「瞳孔散大、対光反射は消失している」

 

 見た目に違わず、彼の声は陰気で、ぼそぼそとしていた。次に軍医は顔から降りて、エーファの剥き出しになった薄い胸へと向かった。首から下げた聴診器を取り出すと、彼はもったいぶった手つきでそれを肌に当てた。

 

 エーファは、ほのかにひんやりとした感触を覚えた。妖精とはいえ男性に胸を見られ、触れられているのにも拘わらず、彼女はあまり羞恥を覚えなかった。死が、そういった感情をおぼろげなものにしているのかもしれなかった。

 

 しばらくして、軍医は顔をあげた。結論づけるように、彼は言葉を発した。

 

「心臓拍動停止。呼吸も完全に停止している。死んでいる。エーファは確実に死亡している。残念なことだが」

 

 クリップボードに挟んだ黄色の紙に鉛筆で何かを書きつけたあと、軍医は二人の歩兵を連れて死体から降りていった。

 

 エーファは軍医の言葉を聞いて物悲しい気持ちになった。確かに、自分はもう死んでいるとは自覚していた。だが、たとえ妖精でもこうして第三者によって死亡を宣告されたとなると、彼女はほろ苦い感情を覚えずにはいられなかった。

 

 ついでなら、こうして死んでいるのに自分を見ることができている状況について説明してくれても良いのに。そう思うエーファの周りでは、妖精たちの動きがにわかに活発化していた。

 

 隊列を組んだまま待機していた歩兵たちは三つの小隊に分かれて死体の頭の方へ回り、黙々と草花を刈り始めた。

 

 また、後方から更に別の妖精の一隊が進んで来て、背負っていた大きな道具箱を地面に下ろし始めた。エーファは聞こえてくる会話から、その新たな一隊が工兵であることを知った。工兵たちはみな一様に顎髭を伸ばしており、鼻が尖っていた。どうやら歩兵たちとは別種の妖精たちであるようだった。

 

 工兵たちの動きは素早かった。彼らは手に手に大きなカッターと手斧を持って死体に()じ登って来た。その道具で何をしようというのか? エーファは一抹の不安を感じたが、それは部分的に的中した。彼らは、血と泥によって黒く変色し、襤褸(ぼろ)同然となった彼女の服を裁断し、体から脱がし始めたのだった。しばらく、初雪を踏むような軽い切断音がそこかしこで響いた。

 

 十数分後、細かく切られた服がすべて取り除かれ、足に履いていた革のサンダルも脱がされた。死体は文字通り、一糸纏わぬ姿となった。

 

 死んでいるとはいえ、裸で草原の真ん中に横たわっていることに、エーファはほんの少しだけ恥ずかしさを覚えた。以前彼女は、全裸の状態で村を歩き回ったり、馬車を乗り回したりする夢を見たことがあった。その夢から覚めた時と類似した羞恥心だった。

 

 裸になると、首のない騎士がエーファの体に加えた暴虐の痕跡がより一層露わになった。工兵の中でも特に顎髭が長い、年配の妖精が、じっくりと死体を見て回った。彼の視線は、特に傷を負った部分に向けられていた。その目は、職人が工芸品を手がけている時の目とそっくりだった。

 

 観察を終えると、年配の妖精は工兵たちを一箇所に集め、しばらくの間打ち合わせを行った。それが終わると彼らは布のマスクを顔にかけ、ゴム製のエプロンと手袋を身につけた。次に、各々の道具箱から針や糸といったものを取り出すと、組に分かれて死体の各所へと向かった。一連の動作には逡巡や躊躇いが一切なく、きびきびとしていた。

 

 いったい何をするのだろうかと、エーファは固唾を吞んで見守っていた。ほどなくして工兵たちの意図がはっきりとした。彼らは傷口を修復し始めたのだった。両腕に負った裂傷からは白い骨片が飛び出していたが、工兵たちはそれを押し込み、刃と打撃によって弾けた肉を再度骨と合わせ、丹念に傷口を縫い合わせた。

 

 工兵が使う糸は透明で、陽の光を受けると虹色に輝いた。妖精たちだけが知っている魔法の素材なのかもしれないとエーファは思った。その糸は縫い目をまったく残さなかった。

 

 腹部の大穴には、工兵たちの半数が例の年配の妖精に指揮されて、作業に当たっていた。彼らは死体から滴っている赤い血液に体を汚すことも厭わず、内臓を持ち上げると死体の上へと運び、穴へと押し込んだ。それが終わると、年配の妖精が率先して穴に入り、内臓を正しい位置へと戻し始めた。エーファはむずがゆさを覚えたが、それはどこか心地良いものだった。

 

 工兵たちは皆、作業に熟練していた。彼らの手つきは素早く、正確で、両腕と腹部以外の小さな傷の数々も瞬く間に修復されていった。やがて、大穴の傷口も針と糸によって塞がれた。年配の妖精は全体を確認すると、工兵たちに声をかけて、次なる作業を開始した。

 

 彼らは道具箱からボロ布と、刷毛(はけ)と、塗料缶を取り出した。そして、またもや各組に分かれると、あるいは体を拭き始め、あるいは打撲によって青黒く変色した箇所に塗装を施し始めた。次第にエーファの死体は、彼女の本来の透き通るような白い肌を取り戻し、むしろ生前よりもさらに美しさを増していった。

 

 年配の妖精は、自ら彼女の顔を担当した。彼は顔を丹念に拭き清めると、道具箱から化粧品一式を取り出し、エーファに死化粧を施し始めた。作業中、彼はずっと気難しい顔をしていたが、手を休めることはなかった。その腕前は驚嘆に値するほどで、エーファ自身の化粧の技量を遥かに上回っていた。彼女は、ありがたさと同時に、同じくらいの程度の嫉妬を感じた。

 

 死体の清めがすべて終了すると、工兵たちは最後の任務に取り掛かった。彼らは既に硬直しているエーファの腕を苦労して折り曲げ、腹部の上で手を組むように配置した。最期の苦悶を示すかのように歪んでいた両脚も真っ直ぐにし、乱れていた髪の毛も整えた。そして、仕上げと言わんばかりに、絹の袋に入れられていたキラキラと白銀に光る粉を、全身にくまなく振りかけた。

 

 エーファは息を呑んで自分の死体を見ていた。つい先ほどまではハエの(たか)る一個の死体に過ぎなかったのに、今ではただの、眠っている一人の人間のようにしか見えない。何かの拍子で起き出して、周りにいる妖精たちに驚いて声を上げるかもしれないほどに、死体は幻想的な生命感を纏っていた。尤も、そのようなことがあり得ないのは彼女自身がよく承知しているところではあった。

 

 工兵たちの作業の間にも、歩兵たちは草花の伐採をやめていなかった。彼らは刈った草の葉を細かく縦に裂き、太い繊維にすると、それを()り合わせてロープにした。その数は夥しいものだった。やがて、ロープが目標としていた量に達すると、今度はそれを使って大きな緑の生地を彼らは織り始めた。ちょうどその作業は、死体の真横で行われていた。

 

 死体の足が向いている方から声が聞こえてきた。エーファが目をやると、そこにはまた新たな一隊がいた。彼らは全員が上半身裸で、筋骨が著しく発達していた。濃い胸毛が生えており、肌は健康的に日焼けしていた。彼らは声をあげて、歩兵や工兵たちへ盛んに挨拶を送っていた。

 

 彼らは二本の、頑丈そうな長い木の棒を運んでいた。棒は、エーファの身長以上に長かった。二本の棒はそれぞれ、直前に歩兵たちが編み上げた緑の生地の二つの長辺に置かれた。逞しい体格の妖精たちは呼吸を乱しておらず、汗一つかいていなかった。歩兵と工兵たちが余っていたロープを使い、生地の両の長辺を筒状に加工した。それが終わると、彼らは全員で棒をその筒状の部分に通し始めた。

 

 ようやく、エーファは彼らが何を作っていたのかが分かった。彼らは担架を作っていたのだった。彼女がまだ村にいた頃、急病人や怪我人が出た時、村人たちは患者を担架に乗せて彼女の元まで運んできたものだった。その担架よりも、この妖精たちの担架は立派な造りだった。

 

 そうなると、自分はこれからこの担架に乗ることになるのだろうか?

 

 そう彼女が思っている間に、すべての妖精が死体に集まり、一斉に力を込めて彼女を持ち上げた。ハリネズミに乗った隊長が号令をかけ、一糸乱れぬ秩序正しい動きで、死体は徐々に徐々に動かされ、そして無事に担架の上に乗せられた。終わった時、全員が脱力し、肩で息をついていた。逞しい妖精たちも、しきりに額から流れる汗を拭っていた。エーファは申し訳ない気持ちになった。

 

 陽が傾きかけていた。隊長が「大休止」の号令をかけ、食事となった。陽が高かった頃に吹いていた風は、既に止んでいた。妖精たちは食事の準備を始めた。歩哨の他はみな小さな焚き火を囲み、飯盒でオートミールの粥を作っていた。煙草の煙が炊煙に混ざった。粥が出来上がると、妖精たちはシャムロックの花から取った蜜をかけ、黙々と食べ始めた。

 

 エーファの頭の横で、最初に死体のもとへやってきた妖精であるパトリックが、同輩の騎兵と一緒に粥を啜っていた。そのすぐ傍で、鞍と手綱がつけられたネズミが大きな麦の粒を齧っていた。

 

 彼らは雑談を始めた。ぼそぼそとした、疲労感が滲み出ている声だったが、エーファはそれを正確に聞き取ることができた。パトリックが言った。

 

「食事の後、隊長はすぐに出発を命令するだろう。行軍は夜中になるが、俺もそれが正しいと思う。この草原から早く離れなければならない。夜になったらまたあのデュラハンが暴れ出すかもしれないからな」

 

 別の騎兵が言った。

 

「それにしても、一週間前に駐屯地をあいつに破壊されたのは惜しかった。あの時は大勢死んだな……」

 

 また、別の騎兵が口を開いた。

 

「ああ、それに何より、輸送車両とドブネズミを全部壊されたのが痛かった。おかげでこの死体を人力で運ばなければならない。目的地まで道は平坦なようだが、いったいどれだけ時間がかかることやら」

 

 パトリックが(たし)めるように言った。

 

「愚痴を漏らすな。任務なんだからな。俺たちは何としてでも死体を運ばないといけないんだ」

 

 エーファが予想していた通り、彼女は担架に乗せられて、どこかへ運ばれるようだった。どこへ行くのだろうか? 彼女は様々なことを考えた。妖精たちの国へ行くことになるのだろうか? それとも、妖精たちは死者の国の入口でも知っていて、そこへ連れて行ってくれるのだろうか? ここまで見返りなく、労力をかけて自分を綺麗にしてくれた彼らが、自分の死体に何らかの価値を見出しているのはほぼ間違いのないことだと思われた。

 

 だが、その次に聞こえてきたパトリックの言葉に、エーファの動かなくなった心臓が衝撃を受けた。

 

「そう、俺たちは運ばなければならない。エーファの村へと、彼女の死体を運ばねばならん。万難を排してでも」

 

 パトリックの同僚が煙草に火を点けた。そして、煙を吐き出すと、どこか蔑みの感情がこもった声で彼らは口々に言った。

 

「そうだな……俺たちが運ぶんだ。エーファを捨てて逃げていったあのキーアン、敵前逃亡者のキーアンに死体を届けるために、俺たちが苦労しなければならない。それが任務だからな」

「そうだ。あの憎んでも憎み足りない、臆病者のキーアン。あいつに思い知らせてやらなければ」

「そうだ、そうだ。キーアンめ……あの極悪人め!」

 

 キーアンという言葉を聞いて、エーファは強い驚愕の念に襲われた。彼らはいったい、どこまで自分のことを知っているのだろうか? キーアンが自分を捨てて逃げていったことについて、自分はこれといって怒りや恨みの念を持っていないが、妖精たちの声音からはキーアンに対する激しい憤りの感情が垣間見える……なぜ、それほどまでに怒っている?

 

 できれば、あの村に連れ戻すことはしないで欲しいのだが……エーファがそう思ったその瞬間、副官の大きな声が響いた。

 

「大休止終わり! 炊事用具を収めた後、全員整列!」

 

 妖精たちの動きが慌ただしくなった。ある者は焚き火を消し、ある者は銃を手にし、ある者は穴を掘ってゴミを捨てていた。数分後には、彼らは整然とした隊列を組み、隊長を前に直立不動の姿勢を取っていた。

 

 隊長は大きな声で言った。その声は甲高かった。あえてそのような調子の声にしているようだった。

 

「これより我らは、既に冷たくなってしまった気の毒なエーファを担架で運び、彼女の生まれ故郷である『大きな水車の村』へと連れ帰る! 作戦期間は一週間を予定している。その間、『大きな三つのキノコの国』の妨害が予想される。油断をするな! 敵は必ず死体を狙ってくるぞ! なお、敵前逃亡をした者は容赦なく処刑する! あのキーアンと同じ罪を犯す者は、死で以てそれを償わねばならない! では、かかれ!」

 

 妖精たちは「はい、隊長殿!」と叫ぶようにして答えると、一斉に各々の役目に従って散っていった。歩兵の半分と、逞しい妖精の全員が担架の(ながえ)につき、掛け声と共に死体を持ち上げた。

 

 ふわふわとした浮遊感を、エーファは覚えた。なんとなく、彼女は落ち着かない気分だった。

 

 案外しっかりとした足取りで、彼らは力強く行進を開始した。残りの歩兵たちは隊列の前方と後方を守っていた。騎兵たちは、道の先へ行って偵察をしているようで、姿が見えなかった。工兵たちは隊列の最後方にいた。

 

 残照を受けて、軍旗が輝いた。金のシャムロックがオレンジ色の光に照り映えて、微風を受けて揺らめいていた。

 

 軍靴の響きが静寂の草原を圧した。ネズミに騎乗した副官が号令をかけた。

 

「軍歌!」

 

 妖精たちが一斉に歌い始めた。その曲調は勇ましいというよりは、多分に哀調を秘めているものだった。

 

「運べ、運べや、運ぼうよ。気の毒なあの娘を運ぼうよ。

 不運に遭って命を落とし、冷たくなった可愛いあの娘。

 村にいた時(いじ)められ、治療はすれども感謝はされず、

 薄いスープに不味いパン、啜って齧って耐えてきた、

 健気なあの娘を運ぼうよ。

 そして、思い知らせてやろうじゃないか!

 あの娘を捨てて逃げてった、臆病者のあの男!

 許すな、許すな、許すまい、あの男だけは許せない。

 あの娘を置いて敵前逃亡、あの男だけは許せない!」

 

 エーファは担架に揺られて歌を聞きながら、ぼんやりとキーアンのことについて考えていた。

 

 キーアンは、あの後ちゃんと逃げることができたのだろうか? 首無し騎士を目撃した時、見るも無残に恐怖に打ち震え、狼狽して自分を突き飛ばし、元来た道を一目散に逃げて行った、あのキーアン。

 

 兄は、ちゃんと逃げることができたのだろうか……? エーファの考えはやはりまとまりを欠いていた。

 

 死体を運ぶ妖精たちの隊の連なりは、さながら葬列だった。きっと、村に着くまでこの葬列が崩れることはないのだろう。どうあっても妖精たちは、村へ死体を運ぶつもりらしい。村には戻りたくないのだが……それが自然の流れというのであれば、それに従うべきなのだろう。そうやって生きてきて、そうやって死んだのだから。エーファは心のどこかで淡い諦念を抱いた。

 

 

☆☆☆

 

 

 夜通し、妖精たちは進み続けた。彼らは疲れを知らないようだった。そして、厳正な秩序を保っていた。

 

 エーファは、妖精に対する認識を改めた。彼女は今まで、妖精というものは幼稚で、気まぐれで、悪戯好きな生き物だと思っていた。牛の乳を盗んだり、赤ん坊を取り替えたり、夜道で人を驚かせたりするような、そういう不気味な存在であると彼女はそれまで信じていた。

 

 だが、この妖精たちはまったくそれとは違った。彼らは一時間おきに小休止を挟み、歩哨を立て、装備を点検し、そして交代をしてまた担架を(かつ)いだ。騎兵たちは斥候を欠かすことがなく、工兵たちは道なきところに道を拓き続けた。

 

 エーファは、警戒するように担架の傍を行く二人の騎兵の会話を聞いた。そのうちの一人はパトリックだった。騎兵がパトリックに言った。

 

「なあパトリック、エーファの人生っていうのはまったく悲劇そのものだと思わないか? 俺は彼女のために何かしてやりたいと、新聞や雑誌の記事を読むたびに思っていたよ」

 

 パトリックは相変わらず真面目な表情だった。彼は頷きつつ答えた。

 

「そうだな。まあ、その人生が悲劇だったかどうかは究極的には本人にしか分からないだろうが、客観的に見れば悲劇と言って差支えないだろうな」

 

 騎兵はひとつ溜息をついてから言った。

 

「水車小屋の製粉機が破壊された時に、彼女が犯人だとされて、家に石を投げられたというニュース映画を観た時は、体が震えたよ。どうしてそんなにまで彼女は苦しまねばならないんだって。真相は、『大きな三つのキノコの国』の破壊工作員があれをやったというのに」

 

 パトリックが答えた。

 

「俺もあれを観た時は怒りの感情を抑えられなかった。だからこそ、彼女が村から出たと聞いた時は喜んだのに……今は、こうして死体になってしまったんだからな……」

 

 騎兵が頭を振った。

 

「それもこれも、全部キーアンのせいだ! キーアンが逃げなければ、こんなことには……」

 

 会話を耳にしたエーファは、果たして自分はそれほどまでに悲劇的な人生を送ったのかどうか、疑問に思った。単調な担架の揺れに誘われて、彼女はまどろむようにそれまでのことを回顧し始めた。

 

 村において、エーファは蔑まれていた。それは、辺鄙な田舎には不釣り合いなほどの彼女の美しさのためであった。村人たちは自分たちとは明らかに一線を画すほどの美貌を持つ彼女を疎んじていた。醜いものが嫌われるのと同じように、その村において彼女の美しさは蔑みの対象となった。

 

 それには、彼女の出自と深い関係があった。彼女には父親がいなかった。彼女の母親は放浪の魔術師で、回復術を得意としていた。ある日、ふらりと村に訪れた母親は、「どうかこの村に住まわせて欲しい」と村人たちに頼んだ。母親は美しく、また回復術の腕前も確かなものだった。最初は疑いの目で見ていた村人たちも、一年後には一定の距離を保ちつつ、母親を村の一員として認めようとしていた。

 

 そんな母親を、村長一家の次男が見染めた。是非、あの魔術師の女を我が妻にしたい。次男は何度も母親の元を訪ね、求婚を繰り返した。次男は働き者で少しは学問があり、明るい性格をしていた。彼は村人たちから愛されており、「あのような流れ者の魔術師の女を妻にするのは似合わない」と反対もされたが、彼の意志は固かった。

 

 だが、母親は拒絶した。理由は明かさなかったが、その表情からは何か強い意志が見て取れた。

 

 数ヶ月後に、その理由が明らかになった。母親はいつの間にか妊娠していた。緩やかな白いローブの上からでも分かるほどに、その腹部は大きくなっていた。父親はいったい誰なのかと、多くの村人が噂し、中には母親に直接問い質す者までいた。それでも、母親はそのことについて口を閉ざしたままだった。

 

 やがて時が満ち、母親がエーファを産んだその日に、村長の次男は自殺した。彼は母親の妊娠が発覚した時から、著しく精神に変調を来していた。彼は自室で首を吊っていた。遺書があった。そこにはただ一言、「僕はあの(ひと)を手に入れられなかった」とだけ書いてあった。

 

 こうして、エーファの人生はその最初の瞬間から呪われたものとなった。流れ者の正体不明の魔術師が産んだ娘、父親が分からない娘、村長の次男の命と引き換えにこの世に生まれ出て来た娘……あの女はきっと、悪しき妖精と交わって種を受け、赤子を産んだのに違いない。あの美しさも、きっと魔術によるものだ。

 

 そのような流説がまことしやかに囁かれ、やがてそれが村内での共通見解となっていった。乳飲み子を抱える母親の村での立場は、極度に悪化した。

 

 そんな環境にあっても、母親は懸命にエーファを育てた。そして、村に留まり続けた。村もまた、母親とエーファを追い出すことはできなかった。彼女は非常に優秀な回復術の使い手であり、即死さえしていなければ、どんなに瀕死の人間でもたちどころに傷を癒すことができた。病気とその治療に関する知識も豊富で、魔力を込めて調合する薬はどんな疾病をも退けた。

 

 いつしか、母親は魔女と呼ばれるようになっていた。そんな魔女は、エーファが十二歳の時に死んでしまった。ちょうど村の中で毒性の強い感冒が流行していた頃だった。母親は、自分を魔女と呼んで蔑み、数え切れないほどの嫌がらせをしてきた村人たちを見捨てなかった。彼女は自分の魔力が尽きるまで回復術を行使し、やがて気力と体力が枯渇して、最後は病魔に命を奪われた。

 

 エーファは母親から教えられた回復術を使って、母親の命を救おうとした。しかし未熟な彼女の腕では、どうすることもできなかった。葬式には誰も来なかった。彼女は一人で、住まいである粗末な小屋の裏の空き地に墓穴を掘り、破れかかって黄ばんでいるシーツに母親の死体を包んで、雨の降りしきるなか埋葬した。

 

 母親という庇護を失ったエーファの生活はそれ以来、(つら)く、苦しいものとなった。彼女は回復術によって村に貢献することで、餓死を免れるだけの僅かな糧を得ることができたが、それよりもなお悲惨だったのは、村人たちの蔑視による、精神的圧迫だった。

 

 あの娘が美しいのは魔女の娘だからであり、悪しき妖精の娘だからだ。魔性の美しさに惑わされてはならない。あの娘は夜な夜な森に出かけては妖精たちと交わり、妖しい精力を受けて、魔術を行使する。いつかこの村に大いなる呪いをかけて、自分たちを皆殺しにするか、妖精たちに売り渡すに違いない……

 

 村人たちにとって、彼女は蔑みの対象であるのと同時に、娯楽の対象でもあった。彼女を弄び、嫌がらせを加え、ありもしない嫌疑をかけて次々と噂話を生み出す。それは単調な村の生活において、(アルコール)以外の数少ない悦楽と言えた。

 

 エーファは、そのような状況にまったく反撥しなかった。それは彼女が生来従順な性格をしており、争いごとを好まない穏健さを持っていたからだった。だが、それよりも彼女が村人に反抗的な様子を見せなかったのは、つまるところ彼女自身の「成り行き任せ」という態度のせいだった。

 

 母親はよくエーファに言ったものだった。「自然に身を任せない」と。「運命に逆らってはならず、状況に身を委ねなさい」と、母親は事あるごとにエーファに訓戒を垂れた。それは流れ者の魔術師らしい、一定の筋が通っている人生哲学だった。だが、残念ながら村という閉鎖的な環境に身を置き続けなければならないエーファにとっては、そういった言葉は悪い方向にしか作用しなかった。

 

 エーファは不当な境遇に声を上げ、村人に戦いを挑むべきだったのかもしれない。たとえその戦いがどれほど絶望的なもので、敗北しか約束されていないものであったとしても、それが村人の意識を変える可能性は、僅かながらでも残されていた。それに村にとって、回復術が使える彼女は必要不可欠な存在だった。敗北したところで、彼女が村から追い出されるはずはなかった。そうしなかったのは、やはり彼女自身が母親の言葉を極度に内面化していたからであった。

 

 ひもじい思いをし、嫌そうな表情を隠さない村人に回復術をかけ、たまに起きる事件の犯人に仕立て上げられて「魔女の娘」と蔑まされる。おそらくそのような生活が、このまま死ぬまでずっと続くのだろう。生きているという実感のない、空虚な生活の連続と堆積……それが自分の人生なのだと、エーファは思っていた。それは諦念というほどには確固たるものではなかった。それは、うすぼんやりとした予感のようなものだった。

 

 だが、その予感はある日、突如として打ち破られた。エーファがそろそろ十七歳になろうかという、春の半ばのことだった。

 

 状況の変化は、やはりエーファ自身の行動によってではなく、彼女の外部からもたらされた。ある日、彼女の小屋に一人の男がやって来た。男は十七歳で、キーアンという名だった。短い黒髪で、ややハンサムな顔立ちをしており、やせ型の体型だった。

 

 彼は村においては例外的な存在で、エーファに対して中立的な態度を保持していた。悪童たちがエーファの小屋に石を投げるのを止めることはしないが、自分自身が石を掴んで投げることはしないという、そういう消極的な中立を示していた。

 

 キーアンはエーファに会うなり開口一番、どこか浮ついた声で言った。

 

「エーファ、君は僕の妹だ」

 

 驚くエーファに、彼は言葉を続けた。彼の母親がキーアンを胎内に宿している時、キーアンの父親はエーファの母親と関係を持ったのだという。父親にとっては単なる性欲の発散だったのだろうが、どういうわけかエーファの母親は彼に一夜だけ体を許し、しかもその結果まで甘受したようだった。

 

「父さんは村長の次男を嫌っていた。前に、『働きぶりが悪い』と村のみんなの前で面罵されたことがあったんだ。だから、その意趣返しの意味も込めて、君のお母さんと関係を持とうとしたらしい。君のお母さんが何を考えていたのか、それは分からないけど……」

 

 キーアンの、つまりエーファの父親は、その後数年して死亡した。村から街へと収穫物を運ぶ途中で、盗賊に襲われたのだった。父親は少しだけ学があり、文字が書けたので、秘密の日記を残していた。そこにはエーファの母親との情交についても記録してあった。キーアンはそれを先日、家の中で発見し、読んで真相を知ったのだと言った。

 

 キーアンは無邪気な顔をして、言葉を締めくくった。

 

「これからは僕のお家に一緒に住もう。僕と君は、兄妹なんだから」

 

 エーファは言われるがままに居をキーアンの家に移した。それが自然の成り行きだと思ったからだった。キーアンが自分の兄だと明かされても、彼女は特に感興を覚えなかった。そう言われたから彼女はその事実を受け入れたのであり、そう言われたから彼女はついていったに過ぎなかった。ただ、自分に兄がいるということに関しては、彼女はさほど悪い気はしなかった。

 

 しかし、家を移ってから状況は更に悪化した。キーアンの母親は、当然のことながらエーファに辛辣な態度をとった。キーアンは悪い人間ではなかったが、思慮が決定的に不足していた。エーファを家に連れてくるに当たって、彼は馬鹿正直に父親の日記に関すること全てを、母親に打ち明けてしまったのだった。

 

 キーアンの母親の目は、憎悪に歪んでいた。そんな母親にキーアンは意見をすることができなかった。家にやってきたその日に、エーファは半分崩れかけた物置小屋に押し込まれた。食事は、豚ですら敬遠するような粗末な食べ物が、数日に一回与えられるだけだった。キーアンが母親の目を盗んで運んでくる食べ物だけが、彼女の命を繋いでいた。

 

 次第に、キーアンの母親は精神の均衡を欠いていった。元から夫を失ってより情緒が不安定だったのだが、エーファという決定的な要因が加わったことで、母親は遂にとどめを刺されたようだった。母親は夜中になると裸足で外に飛び出し髪を振り乱して、狂ったように大声で、エーファが自身の夫と魔女との間に産まれた不義の子であると言いふらすようになった。

 

 そんなことが数週間続いた、ある夜のことだった。食事を運んできたキーアンが、決意を秘めた目つきをして、エーファに言った。

 

「エーファ、僕と一緒に村を出よう」

 

 彼が言うには、村内でのエーファに対する悪感情は極限にまで達しており、ついに村長の一家までもが真相を知ってしまったとのことだった。村長一家は、次男に死をもたらしたのはエーファとその母であると、以前から憎しみの感情を隠さないでいた。そのエーファがキーアンの父の種によるものだと知って、今度はキーアン一家に対して憎悪を昂らせているというのだった。

 

「このままだと僕たちは村に居られなくなる。僕と一緒に村を出て、北の大きな街のベルファストへ行こう。ベルファストで船に乗って、海の向こうのササナの国へ行って、新しく人生を始めるんだ」

 

 お母さんはどうするの? とエーファが尋ねると、キーアンは「置いていこう」とだけ言った。二人はその夜のうちに、密かに村を出た。道中の用意は、すでにキーアンが整えていた。

 

 夜闇の中を走りながら、キーアンはエーファに言い聞かせた。

 

「これは君のためでもあるんだ。君はあの村で一生を過ごす存在じゃないんだ。新しい生活を始めて、楽しい毎日を過ごすべきなんだ」

 

 その言葉を聞いても、エーファはあまり嬉しいとも思わなかった。新しい生活などというものに、彼女は何ら期待していなかった。また、村から出たことに関しても、彼女にはあまり喜びの感情はなかった。彼女はただ、キーアンにそう言われたから村を出たに過ぎなかった。彼女を取り巻く状況を決定し、彼女の行動を方向付ける存在がキーアンだと思ったから、彼女は彼についていくことにしたのだった。

 

 夜が明け、陽が昇り、また日没を迎えた。二人は休むことなく歩き続けた。結局、追っ手は来なかった。疲れ果てていた二人は、とある森の中で丸一日を休息に充て、また歩き始めた。ベルファストの街までは遠く、食料も金銭も足りなかったが、キーアンはどこか陽気な顔をしていた。

 

「大丈夫、食べ物とお金が無くなったら、どこかの村に行こう。そこでエーファの回復術を使って、代価として食べ物を得れば良い。ササナの国に行っても、エーファがいれば問題ないさ。君のお母さんだってそうやって生きて来たんだから、エーファにもきっとできるよ」

 

 キーアンに頼られて、エーファは悪い気がしなかった。これまで誰かから、これほどの信頼を寄せられたことがあっただろうか? キーアンにとって、私は必要な存在なのだ。それは彼女が生れて初めて覚えた自尊心だった。重要な存在であると認められることの心地良さは、彼女をこれまでになく高揚させた。

 

 しかし、その高揚感の一方で、彼女は心のどこかで、キーアンは結局他の村人と何も変わらず、ただ自分を利用しているだけだとも冷静に理解していた。

 

 彼が村を出ようと決意したのも、彼がエーファと同じく村での蔑みの対象となり、これまでの生活が崩壊するのを怖れたからに過ぎない。エーファはその回復術ゆえに、どれだけ憎悪されたところで村から追い出されたり、殺害されたりする可能性は低かった。彼女はあのまま村にいても問題はなかった。それなのにキーアンは彼女を連れ出した。それはただ単に、彼が孤独な逃避行を繰り広げるのを怖れたためであり、かつ、道中の糧を得るためだった。

 

 エーファはこれまでの出来事と背景を、そこまで分析することができていた。

 

 そして、どうやらキーアンはそのことを、別に悪いことだとは思っていないようだった。彼は純粋に、自分自身が言った言葉を信じているようだった。そう、これはエーファのためなのだと、彼は信じ切っていた。その証拠に、彼は道中で、何度もその言葉を繰り返した。

 

 数日間歩き続け、二人は深い森と幅の広い河をいくつか越えた。ベルファストまでは、まだかなりの距離があった。

 

 二人はある日の早朝、遂にあの草原へと足を踏み入れた。

 

 草原を進むと、首無し騎士が突如として姿を現した。それを見た瞬間、キーアンは恐怖で全身を震わせ、一瞬の間にどのように思考を巡らせたのか、それとも単に反射的なものだったのか、エーファを突き飛ばして逃げ出した。

 

 囮にされたのだと気付いた時には、エーファの腹部に黒く鋭い槍が突き刺さっていた。

 

 果たして自分は、それほどまでに悲劇的な人生を送ったのだろうか? 確かに悲劇だったかもしれないと、エーファは思った。生きていながら、生きているという実感が彼女にはまったくなかった。彼女は自分自身の力で状況を支配したことも、他者を動かしたこともなかった。言われるがままに、あるいは環境が要求するままに、彼女は生きただけだった。

 

 生の実感を知っていれば、あるいはもう少しだけ人生は楽しかったのかもしれない。今となっては、すべては手遅れだけれども……

 

 エーファが回想に耽っている間に、妖精たちの隊列は停止し、食事のために大休止に入っていた。

 

 既に夜の(とばり)が下りていた。そこは森の中だった。樹々の間から星々の光が微かに降り注いでいた。

 

 彼女の頭のすぐ傍で、緋色の裏地の黒いマントを羽織った隊長が、部下が運んできた食事を口にしていた。小さなテーブルの上に白い食器と銀のナイフとフォークが並べられていた。従兵の給仕を受けつつ、隊長はテントウムシのバターソテーを切り分けて、黙々と口に運んだ。時折、彼は杯に注がれたツルコケモモの果実酒を飲んでいた。

 

 そこへ、伝令が走って来た。伝令は隊長に、筒状の書類入れを手渡した。隊長はそれを開くと、中に入っていた数枚の紙を取り出して読み始めた。それは新聞だった。初め、隊長の表情は平静そのものだった。だが、次第に顔は怒気を孕み、見る見るうちに赤黒くなっていった。

 

 ついに、尖った耳の先までもが真っ赤になった。隊長は副官を呼んで、全員を整列させるように命令した。食事を中断させられたにも拘わらず、妖精たちは一言も文句を言わなかった。彼らは隊長の前に隊列を作った。

 

 隊長は語気鋭く、ほとんど絶叫するように言った。

 

「兵士諸君、私は実に嘆かわしい、実に呪わしいことをたった今知った!」

 

 森の中で、隊長の声は熊の咆哮のように響いた。

 

「新聞によれば、この可哀想なエーファを置き去りにして逃げたキーアンは今や村に戻り、安全な家の中で暖衣飽食を貪っているとのことだ! キーアンは『自分はエーファに呪いを掛けられ、意に反して村を出ざるを得なかった。エーファは自分をササナの国に連れて行こうとした。逃げ出す機会を窺っていたところ、ちょうど首無しのバケモノが現れた。エーファがそれに襲われている間に、自分は逃げ出すことができた。自分は被害者だ。また、エーファは自分の母にも呪いを掛け、狂気に陥らせた。母が口走っていた言葉は、すべて事実無根だ。だが安心して欲しい、今や村から魔女は取り除かれたのだから』 そのように言ったという!」

 

 そこまで言ってから、隊長は一旦言葉を切ると、腰のサーベルを引き抜いた。隊長は叫んだ。

 

「諸君! 我々は何としてでもエーファの死体を村へ運び、かのキーアンに思い知らさねばならない! 犯した罪の重さを、裏切り者に思い知らせるのだ! キーアンに裁きを下そう! そして、エーファの無念のほどを知らしめよう!」

 

 妖精たちはそれに応えて、一斉に熱狂的な声を上げた。

 

 エーファは、それを冷静な眼差しで眺めていた。キーアンはおそらく、自分が助かりたい一心で嘘をついたに違いない。妖精たちは何か勘違いをしていて、キーアンを極悪人だと思い込んでいるようだが、強いて自分を陥れようとして虚偽の報告をするほど、彼は性根が腐っているわけでもないだろう。彼女はそう思った。

 

 その一方で、エーファは妖精たちに感謝にも似た気持ちを抱いていた。妖精たちはなぜか、自分のことを気の毒だと言い、自分のために葬列を組んでくれている。それには妖精独自の何らかの論理が働いているのだろう。それを抜きにしても、エーファは何か温かいもので心が満たされていくのを感じた。

 

 それはエーファが生きていた時にはついぞ味わうことのなかった、まったくの他者からの無償の善意だった。だが、彼女がそれに気付くことはなかった。

 

 しかしながら、妖精たちが担架を担ぎ上げてまた行進を始めた時に、エーファの中に何か別の、冷ややかなものが芽生えた。

 

 結局のところ、妖精たちもただ、憎んでいるキーアンを罰するために、自分を利用しているだけなのではないだろうか?

 

 自分の死体をキーアンに見せつけることで、おそらくキーアンの精神は著しい打撃を受けるだろう。それは妖精たちにとって、これまでの労苦をすべて忘れるほどに、胸のすくような快事であるのに違いない。自分の死体はいわば、キーアンを傷つけるための武器なのだ。その点で言えば、妖精たちはキーアンと同じだった。道中の糧を得るための道具として自分を利用しようとしたキーアンと、キーアンを傷つけるための武器として自分の死体を利用しようとする妖精たち……どう違う? どこも違わない。

 

 それでも良い。彼女は思い直した。それでも良い。現在のところ、彼女の状況を決定づけているのは妖精たちだった。ならば、妖精たちに身を任せるのが一番だ。

 

 死んだからといって、それまでの生き方を変える必要などどこにもないのだから。エーファはそう結論付けた。

 

 いつの間にか、夜が明けていた。隊列は森から抜け出した。行く手にはなだらかな丘があった。

 

 相変わらずの秩序正しさを隊列は保っていた。翩翻(へんぽん)と軍旗が翻っていた。担架を担ぐ妖精たちの荒い息遣いが聞こえた。地を圧する軍靴の響きは遠雷のようだった。

 

 副官が号令を掛けた。

 

「軍歌!」

 

 妖精たちは歌い始めた。

 

「運べ、運べや、運ぼうよ。惨めなあの娘を運ぼうよ。

 死にたくないのに命を落とし、温もり消えた可愛いあの娘。

 村にいた時蔑まれ、癒しはすれども罵声が返り、

 灰の混ざった残飯と、おが屑入りのスープを食べてた、

 健気なあの娘を運ぼうよ。

 そして、思い知らせてやろうじゃないか!

 嘘つき、あの娘に濡れ衣着せた、極悪人のあの男!

 許すな、許すな、許すまい、あの男だけは許せない。

 今は一人で幸せいっぱい、あの男だけは許せない!」

 

 その瞬間、何かが空を切り裂く不気味な音を立てて、隊列の頭上に飛来した。

 

 一瞬の(のち)には、飛来物は閃光と轟音を発するのとほぼ同時に炸裂して、無数の破片を撒き散らした。

 

 妖精たちは一斉に地面に伏せた。担架も地面に落ちた。エーファは固い衝撃を感じた。

 

 その間にも、次々と何かが飛来してきた。傷つけられた大気が悲鳴を上げた。隊列の周囲で、爆発と閃光と爆音が連続した。土と泥が巻き上げられ、千切れた草が辺りを覆った。

 

 口々に妖精たちが叫んだ。

 

「敵襲! 敵襲!」

「伏せろ、敵の砲撃だ!」

「担架を守れ! すぐに後退させろ!」

 

 砲撃の中を妖精たちは駆けずり回った。エーファの目前で、一人の妖精が砲弾の爆発に巻き込まれ、無数の光の粒子となって散った。砂金のようなきらびやかさだった。

 

 彼らの死は、人間である自分とは違ってひどく美しい。混乱する意識の中で、エーファは純粋にその死の有様に見惚れていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 奇襲からいち早く立ち直ると、隊長は敵の砲の射程外へ部隊を移動させた。彼は各組の指揮官をエーファの死体の首の下に集め、作戦について協議を始めた。隊長は煙草を咥えつつ、冷静な声で言った。

 

「敵は『大きな三つのキノコの国』の妖精たちだな。どうやら死体を奪いに来たらしい」

 

 軍医がぼそぼそとした声でそれに続いた。

 

「人間の死体、それも魔力を持つ少女の死体は、海の向こうのササナの国に住む妖精たちに高く売れます。特に子宮に高値が付くのだとか。連中が撃って来たあの砲も、おそらく死体を売って得た資金を使って、ササナの国から輸入したものでしょう」

 

 隊長は見るからに不機嫌な顔をした。分かりきったことを言うな、学者ふぜいが。そう言いたげな表情だった。それを見て、軍医は口を閉じ、取り繕うように眼鏡を拭き始めた。

 

 三つの星のマークを付けた騎兵の指揮官が、隊長に向かって言った。

 

「斥候からの報告によると、敵は優に一個大隊を超えるようです。砲は丘の向こう側の斜面に放列を敷いています。敵は火力と数の有利を生かして、すぐにでも攻め寄せてくるでしょう」

 

 隊長は頷いた。そして、隣にいる年配の工兵に煙草を一本渡すと、親しげな口調で語り掛けた。二人は長年の友人なのかもしれないと、エーファは感じた。

 

「すまんが、これから急いで陣地を作ってくれ。できるだけ深く壕を掘るんだ。日中は陣地に籠って砲撃から身を守り、かつ攻め寄せてくる敵を迎撃する。払暁まで耐え抜いたら、後は夜襲だ。夜ならばこちらに分がある。『大きな三つのキノコの国』の連中は、夜目が利かないからな。放列を片付けたら、連中も諦めて撤退するだろう」

 

 年配の妖精は無言で頷くと、すぐにその場を去っていった。それを見送ると、隊長は三人の歩兵小隊長に命令を下した。

 

「さあ、聞いたとおりだ。諸君、持ち場につきたまえ!」

 

 妖精たちは隊長に敬礼をすると、素早い動きで部下の下へと走っていった。

 

 それから一時間後に、敵が砲撃を再開した。どうやら敵は砲の位置を更に前進させ、装薬の量も増して射程を延ばしたようだった。乱雑な太鼓の連打のような砲撃音と、焦げ臭い硝煙の臭いを、エーファは微かに感じることができた。

 

 激しい砲撃だったが、工兵たちがごく短い時間で掘り上げた塹壕は歩兵たちを完全に防護した。歩兵たちは壕の中に身を潜め、銃に弾丸を装填したり、緑色の大箱から取り出した手榴弾を仲間に配ったりしていた。悠然と煙草を吸っている者までいた。士気は高いようだった。

 

 やがて、砲撃が止んだ。黒々とした爆煙が晴れるのと同時に、敵の妖精たちが姿を現した。敵は一列横隊を組んでいて、着剣した小銃を突き出し、駆け足をして陣地へと迫ってきた。エーファはそれを、離れたところから見ていた。戦争とは剣と弓矢を持った歩兵と、槍を抱えた騎士によって行われるものだと彼女は思っていた。だが、どうやら妖精たちの戦争の形態は彼女の常識とはかけ離れたものであるようだった。

 

 各陣地の歩兵たちが、指揮官の号令の下、一斉に射撃を開始した。雨垂れのような射撃音が連続した。途端に、敵の何人かが力なく崩れ落ちた。倒れた敵兵はパッと蝶の鱗粉のような光の粒子を巻き上げ、瞬く間に風化していった。

 

 先頭を行く敵の指揮官は、拳銃を掲げて、しきりに手を振り回して部下たちを前へ前へと進めていた。その指揮官も、次の瞬間には狙撃を受けて、ばったりと地面に身を投げ出した。

 

 彼我(ひが)の距離が詰まると、手榴弾の投げ合いになった。体格の優れた妖精たちが陣地から身を乗り出して手榴弾を遠投した。周りの妖精たちは小銃でそれを援護した。敵は手榴弾の弾幕を、あるいは伏せ、あるいは走り、直前の砲撃で出来た穴に飛び込んで躱していった。

 

 遂に、敵が陣地のすぐそばまで迫った。ちょうど、猫が全身を伸ばしたくらいの距離だった。耳障りな号笛が響くと、敵は喚声を上げ、一斉に陣地に向かって全力で突撃を開始した。

 

 エーファはその時、隊長の鋭い声を聞いた。隊長はサーベルを前に突き出していた。

 

「迎撃しろ! こちらも突撃だ!」

 

 その命令が飛んだ直後、妖精たちは一斉に陣地から飛び出した。数秒後には、凄惨な白兵戦が展開された。その光景こそ、彼女が想像する戦争そのものだった。ある者は銃剣で敵を刺し、ある者は銃床で殴りつけ、あるいは(ふち)をやすりで鋭利に研いだスコップで斬りかかった。肩が裂け、首が飛び、腕が千切れた。

 

 エーファは、その時になって初めて、敵の姿をつぶさに見ることができた。敵の妖精たちは、こちらの妖精たちとなんら異なるところがなかった。同じ肌の色をしていて、同じように耳が尖っており、同じような背丈をしていた。異なっていたのは軍服の色と、軍旗だけだった。敵の軍旗には三つのキノコが銀の糸で縫い取られていた。

 

 敵の軍旗を奪おうと、こちらの妖精たちが数人、決死の突撃を敢行した。彼らは死に物狂いで戦い、もう少しで軍旗を奪取できるところまで行ったが、やがて敵に囲まれて全滅した。最後に残った一人は手榴弾を発火させて自爆し、数人の敵を道連れにした。

 

 目を覆いたくなるほどの無慈悲な殺戮劇が繰り広げられていた。エーファは息を呑んで、それをただ一心に見つめていた。

 

 陣地に突入されれば数で圧倒される。ならば、陣を出て迎撃し、白兵戦によって乱戦に持ち込むべきだ。そのように隊長は判断したのだろう。それは正しかったが、しかし敵の数は隊長の予想を上回ったようだった。後から後から敵は増援を繰り出し、押し寄せて来た。敵は予備兵力を投入するのに躊躇しなかった。

 

 前線は崩壊寸前だった。エーファはその時、一人陣地に残って、射撃を続けていた兵士に目が向いた。その兵士の顔は強張っており、手が震えていた。彼は目の前で、一人の味方が三人の敵兵によって滅多刺しにされたのを見ると、陣地を飛び出して走り出した。

 

 しかしそれは、敵に向かってではなかった。彼はエーファの方へ、つまり戦場から遠くの方へ逃げ出そうとしていた。敵前逃亡だ。エーファがそう気付いた時には、その彼の前に大きな影が立ち塞がっていた。影は銀に輝くサーベルを振りかざして、一刀の元に脱走兵を斬り捨てた。

 

 それは隊長だった。隊長は戦場一帯に響き渡るほどの大きな声で叫んだ。

 

「逃げるな! 戦え! 逃亡者は斬り捨てる! 敵前逃亡をする者は私の手で処刑する!」

 

 その声を聞いた兵士たちは、奮起したようだった。崩れかけた戦線が、再度勢いを取り戻しかけた。

 

 そこへ突如として、いくつかの大きな影が土煙を巻き上げて、敵の増援部隊の側面へまっしぐらに突入して来た。

 

 それはネズミに跨った騎兵たちだった。騎兵たちはサーベルを振りかざし、騎兵銃を乱射して、敵の隊列をバラバラに切り裂いた。脆くも壊乱状態となった敵の増援部隊は、戦場に背を向けて逃げ散っていった。騎兵たちはそれを追うことなく、今度は未だに白兵戦の渦中にある味方の歩兵たちへ加勢した。

 

 一人の騎兵を見て、エーファは思わず叫んでいた。パトリックだ! パトリックはネズミを全速力で走らせつつも、射弾を正確に敵に送り込んでいた。弾が尽きると、彼はサーベルを抜いて、敵兵を斬り伏せた。倒れる敵に目をくれることもなく、彼は次の標的へ向かって突進していった。

 

 数分後、戦いは終わった。騎兵たちの活躍により窮地を脱した妖精たちだったが、その数は戦いの前より半分近く減っていた。戦場には光の粒子が、明け方の白い霧のように濃く垂れこめていた。どれだけ多くの戦死者が出たのだろうかと、エーファは呆然とした。

 

 いつの間にかエーファの担架のすぐ傍で軍医と衛生兵が野戦病院を開設していて、負傷者の治療に当たっていた。軍医はノコギリを手にしており、ゴリゴリと音を立てて、重傷を負った妖精たちの手足を切り落としていた。負傷者たちは呻き声一つ漏らさなかった。軍医の眼鏡は血と脂と、吐息で曇っていた。衛生兵が、切り落とされた手足で満杯になった木桶を重そうに運んでいった。

 

 別の場所では、隊長が歩兵の小隊長たちを集めて、報告を聞いていた。隊長は言った。

 

「第一波は防いだ。これから第二波が来るぞ。だが、それはもう二時間ほど経ってからだろう。陣地を整備しておけよ……」

 

 小隊長たちが去っていった後、隊長は副官に向かって、愚痴るように言った。

 

「こちらにも砲があれば良かったんだが。榴散弾があればなぁ……あのデュラハンが宿営地を襲った時に砲が破壊されたのはやはり痛手だったな。手榴弾は各人充てでもう四発しかない。夜までに弾薬がもつか、少し不安だ」

 

 副官が慰めるように答えた。

 

「敵も消耗しているでしょう。次の攻撃は、今回よりも小規模になっているはずです。小隊長たちに目標の厳密な選定と集中射撃を徹底させましょう……」

 

 その真剣な表情を見て、なぜかエーファは笑い出したくなってしまった。

 

 彼女自身でも、その理由は分からなかった。戦闘と無数の死という決して笑うべきではない状況が、今の彼女にとっては笑うべき光景に見えて仕方がなかった。

 

 それはおそらく、自分の死体という究極的には無価値そのものの対象を巡って、血みどろの戦いが繰り広げられているからだろう。壮絶なまでに無意味な戦い、それは愚かしさの極致だった。

 

 その極度なまでに愚かしい行為に、妖精たちは実に生き生きとした様子で邁進(まいしん)している。きっと彼らは戦いの最中に、生きる実感を覚えているのだろう。彼女は副官を見ることで、そのことにおぼろげながらも気付いたのだった。

 

 キーアンなんか、放っておけば良いのに。私の死体なんて捨ててしまって、みんな家に帰れば良いのに。そうすればみんな、楽しく毎日を暮らせるのに。生きる実感なんて、きっと戦い以外でも得られるのに。ひとしきり笑った後で、彼女は独り言ちた。

 

 戦いはその後も続いた。副官が予言した通り、来襲する敵の規模は次第に小さくなっていて、夕刻に行われた最後の攻勢に至っては敵の兵力は一個小隊に満たないほどだった。

 

 それでも、こちらの被害は大きかった。無傷の兵士はもはや数えるほどしかいなかった。傷を負い、頭に包帯を巻き、腕を吊り、銃を杖代わりにしている者がほとんどだった。

 

 日が暮れた。妖精たちはビスケットとお茶で簡単な食事を済ませた後、隊長の前に整列した。傷つき、疲労しているのにも拘わらず、兵士たちの目は爛々と光り輝いていた。

 

 隊長はいつの間にか、純白の礼装に着替えていた。胸にはいくつもの勲章を付けていた。

 

「これより、敵に対し夜襲を敢行する。攻撃目標は敵の放列だ。敵兵には目もくれるな。何としてでも敵の砲を排除するのだ。砲を破壊し、敵陣を突破した後は、すみやかに戦場を離脱する」

 

 隊長はさらに声を大きくして、言った。

 

「いいか、すべては気の毒なエーファのためだ! すべてはエーファの死体を村に運ぶため、そして、キーアンに自分の犯した罪を思い知らせんがためである! 死を恐れるな! シャムロックの軍旗に恥じぬ戦いをせよ! 前進!」

 

 呻くように掛け声を発した後、兵士たちは足を引き摺りながら進み始めた。エーファは、自分の体が浮き上がるのを感じた。見ると、屈強な妖精たちによって担架が担ぎ上げられていた。どうやら、妖精たちは死体と一緒に敵中を突破するつもりのようだった。

 

 隊長はしばらく兵士たちを見やると、今度はエーファの死体を一瞥し、しばらく何かを考える素振りを見せた。

 

 やがて、隊長は近くにいた騎兵を呼び寄せた。それはパトリックだった。隊長は低い声で言った。

 

「夜襲は成功すると思うが、万が一ということもある。パトリック、お前は今から『雷の鳴る沼』の駐屯地へ行って、増援を要請してこい。たとえ私たちが全滅しても、味方が後を引き継いで、死体を村へ運んでくれるだろう。重要な任務だ。頼まれてくれるな?」

 

 無表情のまま話を聞いていたパトリックは、一瞬何かを言おうと口を開きかけたが、思い直したように口を閉じた。そして、凛々しい眼差しで敬礼をすると、ただ一言だけ答えた。

 

「はっ! 必ずや」

 

 隊長はゆっくりと頷くと、歩兵たちの列へ向かってハリネズミを走らせた。

 

 パトリックはエーファの顔を見上げた。その目には感慨深そうな、嬉しげな情感がこもっていた。エーファは心の中で、彼に向かって笑みを返した。パトリックはネズミに拍車をかけると、全速力でその場から去っていった。

 

 兵士たちは進み続けた。歩みは遅々としていたが、強い戦意が隊列を満たしていた。中心には軍旗が翻っていた。月明かりを受けて、金の四葉のシャムロックが淡く輝いた。

 

 担架は最後尾を進んでいた。すぐ傍には隊長と、副官が轡を並べて歩いていた。彼らはごく小さな声で会話をしていた。副官が言った。

 

「隊長、私は思うんです。私たちはただ任務のために生き、使命を全うするために死ぬべき存在であると。そのことに関して疑問は抱きません。ですが、本当のところは、その任務や使命といったものを、私たちはよく分かっていないのではないかと思うのです」

 

 隊長は黙って副官の言葉に耳を傾けていた。副官はなおも語り続けた。

 

「エーファの死体を運び、キーアンに思い知らせる。それは疑いようもなく、崇高な任務です。ですが、その任務を達成することで、私たちは何を得るのでしょうか? それは私たちの人生にとって、どのような意味を持つのでしょうか? 私たちはただ、任務という状況に流されるままに生きるしかないのでしょうか……?」

 

 隊長は穏やかな表情をして、年長者が子どもに言い聞かせるような優しい口調で答えた。

 

「まだ大学生の気分が抜けていないようだな、君は。もっと単純に考えたまえ。別に良いじゃないか、何も疑問を抱くことなく、状況のままに生きても。私たちは先祖代々そうやって生きて来たし、きっとこれからもそうやって生きていくんだ」

 

 隊長は、一人で頷きながらまた言葉を続けた。

 

「流されるままに生き、流されるままに死ぬ。だが、任務を果たせば、少なくとも生きる実感を得られる。それこそが重要なのだ。気の毒なエーファのことを考えてみろ。彼女はきっと、生きる実感を最期まで……」

 

 突然、隊列の周辺で複数の爆発が起きた。続いて飛来した砲弾が先頭を行く歩兵たちの中ほどで炸裂し、彼らの肉体を引き千切った。

 

 白い閃光と赤い爆炎、飛び散る破滅的な破片の大群……周囲で一斉に、喚声が湧き起こった。それは敵の歩兵たちが上げたものだった。

 

 隊長は苦笑を浮かべて副官を見た。副官も似たような表情をしていた。隊長は言った。

 

「どうやら、こちらの作戦を敵は察知していたようだな。まったく、要らぬ知恵をつけおって」

 

 副官が明るい声で言った。

 

「そのようですね。こうなったら、流れのままに行きましょうか」

 

 隊長は頷いた。

 

「そうだな。それが一番だ」

 

 隊長はサーベルを抜くと、ハリネズミを走らせて隊列の先頭へ向かった。マントの緋色の裏地が闇の中でひときわ目についた。副官がその後に続いた。

 

 隊長が叫んだ。

 

「突撃! 前へ!」

 

 担架の揺れが激しくなった。相変わらず、周囲では砲弾が爆発していた。後ろからは敵の妖精が追いかけてきた。銃声が連続し、叫喚と呻き声と荒い呼吸音がコーラスをしていた。

 

 ここに至ってエーファは、なぜか満ち足りた気分になっていた。

 

 そうだ。私はこのまま担架の上で、身を休めていれば良い。一時は敵に死体を奪われるかもしれないが、きっとパトリックは増援を呼んでくるだろう。自分は遠からずして、キーアンの前に姿を現すことができるに違いない。

 

 その時、兄は、どんな顔をするのだろうか? エーファはだんだん、その瞬間が楽しみになってきた。わくわくするという感情の動きを、彼女はとても新鮮なものとして感じた。

 

 敵は担架を奪い取ろうと必死になって追いすがってきた。年配の工兵が手斧を振るって、敵兵の頭をかち割った。軍医が息も絶え絶えに、懸命に列に追いつこうと走っていた。

 

「前へ、前へ! 突撃、突撃!」

 

 隊長の絶叫がなおも聞こえてきた。銃撃を受けて、ハリネズミの上で隊長がよろめいた。マントが虫食いのように穴だらけになっていた。しかし彼は落ちることなく、サーベルを振り回して声を張り上げていた。

 

 敵も味方も死体を巡って、駆けながら激闘を繰り広げていた。兵士たちの絶叫が聞こえてきた。

 

「死体を、死体を守れ!」

「奪え、死体を奪え!」

 

 敵の妖精も同じ言語を話すのかと理解したその時、死んで活動を停止したはずの脳髄に電流のような痺れが走るのを、エーファは感じた。

 

 今、他でもない自分の死体を巡って、彼らは戦っている! 今、彼らの世界の中心になっているのは、私の死体なんだ! エーファは深く感動していた。

 

 これまでは流れのままに生きてきて、流れのままに死んでしまった。だが今は、今こそは、私が状況を支配していて、ささやかながらも勢いの激しい、大きな流れの源となっているのだ。

 

 楽しい。実に楽しい状況だとエーファは思った。私のせいで、みんなが死んだり、死なせたりしている。すべては私のせいだ。私がこの状況を生み出して、この状況を動かしている! このような楽しさを、彼女はこれまで知らなかった。

 

 そうか。エーファは卒然と悟った。

 

 私は今、初めて生きているんだ!

 

 漆黒の空間のただ中を、あらゆる種類の戦闘騒音が響きわたっていた。闇の奥へ、さらにその奥へと進んでいく葬列の中心で、死化粧を施されたエーファの顔が、どこか微笑んでいるように見えた。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・ほいれんで・くー「エーファの葬列」

 2021年2月27日公開。こちらも前作の「魔族少女のリデンプション」と同じく、『ラインの娘』のために書き下ろした作品です。

 お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、今回の話の舞台はアイルランドです。イエイツの『隊伍を組んで歩く妖精たち』という、アイルランドの妖精に関する話を集めた本を以前読み、それ以来ずっと「妖精たちが死体を運ぶ話を書いてみたい」と思っていました。また、吉村昭の短篇「少女架刑」の影響を多分に受けています。

 なんだかんだで、今回も総字数28,500字ほどになりました。最初は12,000字ほどに収めようと考えていたのですが……これからは短い話を作る訓練が必要かもしれませんね。

 ちなみに妖精たちの装備は第一次世界大戦勃発時の水準を想定しています(機関銃はないけど)。

 次回もどうぞお楽しみに!

※加筆修正しました。(2023/07/17/月)

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