あまりの寒さに震えながら目が覚めたら、日付が変わっていた。
「うぉっ、マジか」
思わず呆然として呟く。ヤバイ。寝落ちしてた。っていうか、肌寒っ。
美竹蘭は、ぶるっと震えた。彼女が暮らすこの安アパートには、冷暖房がない。もともとはあったのだが、去年の春先に壊れてしまった。壊れてしまうと、買い換える金がないのだ。なんとか金を貯めてもいいのだが、まだ大丈夫、耐えられる耐えられると我慢しているうちにずるずると真冬まで来てしまった。
金のほとんどは、CDを買うことに費やしてしまっている。蘭は、基本的に宵越しの銭を残せない性質の女だった。手元に現金があると、それを限界まで使ってしまう性格なのだ。だから、貯蓄をして大きな買い物をするという行為が、ついぞ出来ずにいる。
鼻水がたれてきた。ちーんと大きな音を立てて手でかむ。ティッシュペーパーが無かったのだ。あぁ、どうしよう、これ……。しばらくぼんやりと自分の指にこびりついた鼻水を眺めた後……洗面所へと向かうのだった。
※
洗面所の鏡の中に映し出された自分の顔を見て、なんともいえない気分になった。醜くは無い。どちらかといえば平均よりは美しいほうだといえるだろう。だが、どこかくすんで淀んでいる。きらめきが無い。
美竹蘭は、今、20歳になっていた。高校を卒業してから、もう2年が経過していた。その2年間は、彼女にとって、家を出てからの2年間でもあり、停滞と撃沈の2年間でもあった。
バンド活動に反対する親への反抗と決別の思いで家を出たのが、高校を卒業した年の春だ。あの日からもう、2年も過ぎしてしまったのか。蘭は唇をかんだ。
実際には、そそのかしたのは友人だった。親が反対しているとはいえ、高校時代は家にいながらバンド活動をしていたのだ。ところがだ。高校を卒業して、大学に行くために一人暮らしを始めた友人がこう言った。
「蘭ってさ、反抗だとかロックだとか言ってんのに、実家暮らしなの?」
その言葉には明らかな嘲笑がこめられていた。それで蘭は、いてもたってもいられなくなって家を出たのだ。馬鹿な理由だった。後で判明することだが、嘲笑したその友人は、仕送りをもらって気楽に暮らしていた。
家を出てしばらくは、高揚感があった。これから何か始めてやるぞという胸のときめきがあった。だがそれも今はもう無い。
バンド活動はとっくの昔に頓挫していた。高校を卒業し、それぞれの道を進み始めると、破綻はあっという間だった。仕事が忙しくて練習に来なくなったやつ。男が出来たと頭を下げたやつ。大学に新しい場所を見つけたと笑ったやつ。何の理由も話さないまま視界から消えていったやつもいた。
今、美竹蘭は、ありったけの悔しさと虚しさに歯軋りをして、鏡に拳を当てた。
先が見えない。
真っ暗闇だ。
どこへ行けばいいのかわからないまま、高速道路を疾走しているような気分だ。
「負けたくない」
搾り出すように呟く。それだけが、最近毎日のように唱えている言葉だった。だが、どうすれば勝ちなのかもわからない。まるで無意味なレースだ。
ギターはしばらく触ってもいなかった。以前は毎日のように弾いていたというのに。暮らしを続けるために、アルバイトをしなければならず、毎日のように働いていると疲れ果ててしまい、とても弾く気になれない日が出てくる。一度そうなるともうダメだ。気力が失せてしまう。
蘭は今、自分が何を弾きたかったのかすら、もう定かではなくなっている。
何でロックなんかやりたかったんだっけ?
社会への批判?
心の鬱屈の発散?
言葉を並べても、何か白々しい。この底の抜けた社会で、いったいロックンロールで何を批判すればいいのだ?
心の鬱屈を吹き飛ばしたいならば、パァッと酒でも飲んでも同じじゃないか。
あぁ、わからない。わからないんだよ。
だから結局、蘭は呟くのだ、また同じ言葉を。
「負けたくない」
そう、最後に残ったのはその感情だった。だが、何に負けたくないというのだろう。友人に? 親に? 社会に? 金に? 地位に? 名誉に? メジャーに?
いったい私は、何に負けたくないのだろうか。
「………………アホくさ」
そこまで、自問自答すると、一気に力が抜けた。ぼりぼりと、右手で尻を搔く。
とりあえず、深夜のコールセンターのバイトまで、まだ少し時間がある。
ネットでも見るか。
万年床と化したシミだらけの布団に寝そべり、ノートパソコンを開いた。曲を作るためにローンで購入したノーパソは、ネットサーフィンと艦これをやるためだけのおもちゃに成り果てていた。
「おっ、この芸人、結婚するのか~。不細工なクセによぉ」
BGMにブルース・スプリングスティーンをかけながらひたすらに左クリックを繰り返し、一人でぶつぶつとネットニュースに突っ込みを入れる様子は、まるでおっさんそのものだ。
こうして、美竹蘭の20歳の貴重な一日は、終わっていく。
深夜バイトに遅刻したのは言うまでもないことだった。