誰かと誰かが恋愛するための貴重な時間だ。
数日前の話になる。
生徒会室にて、僕と千花、そして御行氏は、再び翼君から相談を受けていた。
『どうすれば柏木さんと手を繋げるようになりますか?』というお題目だ。
「ここは男子二人の意見を聞きたいですね」
「おい岩傘……! お前の得意分野だろう!?」
「簡単すぎて参考にならないかと。それにこういうのは、そこに居る――」
見れば探偵帽子にパイプを咥えた千花が、待ってましたとばかりにポーズを取った。
「はい! このラブ探偵チカにお任せ下さい!」
自信に満ち溢れた千花の態度に、翼君は『おお……!』と感激の声を出す。
僕は黙った。僕らの状態は参考にならない。
手を繋ぐとか幼等部……になる前に多分実行しているな。赤ん坊の時からやっていた可能性すらある。それからちょっと互いに照れくさく成ったり、思春期を迎えてぎこちなくなったりはしたが、今ではすっかり良い思い出だ。
大体、手を繋ぐどころか腕組んで並んで歩いているのだから、参考にしてはいけない。
因みに腕組むのはそこまで珍しくないぞ。ヨーロッパやアメリカなんかでは男がエスコートするのは当然だし、社交界でも夫婦で並ぶのが当然だ。
「折角ですし会長も考えましょー。手を繋ぐという事が、どういう意味なのか!」
「いや、意味って……言われても……なあ」
まず千花は聞き取りから開始した。手を繋ぐにはどうすれば良いと思っているか? という問いかけだ。流石名探偵、動き方が堅実である。
御行氏はシチュエーションから語る。クルーザーを借り、夕日が沈む中、ふと指先が触れ合ったのを契機に手を繋げば良い、と。なるほど、それは想像すると僕も『良いな』と思う。御行氏はあれで中々ロマンチストなのだ。かぐや嬢の前では漢らしく見栄を張る事も多いけど。
翼君はこう答えた。『シチュエーションは素敵です。でもその前に、緊張して汗を掻いてしまうので……自分から握りに行くのが恥ずかしい』と。
そこまで聞いた千花は、ちっちっち、甘いですね、と指を振って説明をした。
「良いですか? 物事を考える時に大事なのは、素直さですよ? 例えばですね、私と岩傘広報なら手は繋げます。世間のご夫婦とかもこれです。恥ずかしいとか通り過ぎてます。ね?」
「まあそうだな?」
学園裏サイトを巡回していた僕の元に、くるくるっとステップを踏みながら近寄って来た。
何をしたいかはすぐわかる。当たり前のように手を出してキャッチ。そのまま腕の中に収め、抱えて膝の上に横抱きし、右手で背中を支える。
座った状態での、お姫様抱っこ。
……この距離感までくれば、手を繋ぐとか緊張も何もない。
翼君はすっごい羨ましそうな目で見ていた。
「で、更に言えば、私と岩傘広報、多分他の異性とも手を繋げると思いますよ。好き嫌いはあるかもしれませんが、それは相手に起因するもので、ハードルはかなり低くなってます。……うーんとですね……私と会長さんとか、広報とかぐやさんとか、多分、手を繋ぐ……のは遠慮するかもしれませんけど、握手とかはぜんっぜん躊躇しないでしょう」
「まあそうだろうね。それくらいは簡単だと思うよ」
そして多分、それをしても煩悩を抱きはしないだろう。
そこにあるのは愛情ではなく友情……というか信頼だよな。自分が相手を何処まで受け入れているか、という懐の深さとも言える。
「はい。良いですか? 信頼した相手に対して行動できる。これは言うなれば『余裕』です。『余裕』の表れ! 自信があって余裕があると、異性相手でも怯みません! 因みに今、私が座っている、許嫁の広報は、割とぐいぐい来ますが、最後の最後でヘタレます」
「突然デッドボールを投げるの止めてくれない!?」
緩急付けた後で正論が突き刺さった。千花……お前……っ! と思うが否定できない。
最後の一歩を踏み出せない臆病さはその通りだ。
「でですね? 良いですか? まず話を聞いた感じ――お二人はそんな『余裕』が無いタイプです――と言って欲しかったんでしょうが、違います! ぶっちゃけ『余裕』に気付いてないだけです。ちゃんとお二人にはありますよ。ただ恋愛になると、冷静になれないだけです」
「そう、……なんでしょうか?」
「そうですよ。だって翼君、冷静に考えて下さい。素直に!」
ここからが大事なんです! と千花は言う。
「素直に、というと……」
「柏木さんが相手なら、素直に真正面から言えばいいんですよ。『手を繋ぎたいです』って」
あっけらかんとした意見を言った。
それが出来れば苦労はしないんだが、という顔を御行氏がしたが、それに先んじて続ける。
「それが難しい? いやいや、何を言ってるんですか。そもそも翼君は『僕と付き合って下さい』……って告白をしてOKを貰ったんでしょう? ならば同じように言えば良いじゃないですか。『手を繋ぎたいです』って。……何も違いませんよ」
……まあ、そうだね。最初のステップはクリアしている。
後は段階を踏んでいくだけだ。
「……嫌われるんじゃないか、というのが心配で」
「何で嫌われるんです? 手を繋ぎたいと発言したから嫌われるんですか? 手が汗っかきだから嫌われるんですか? 下心があるかもと思われて嫌なんですか? 不安な気持ちは分かります。でも、そんな不安、対策しようと思えば幾らでも対策できます。汗かくのが心配ならハンカチ持ってきましょう。なにより!」
びしっと千花は翼君の口を指さして言った。
「
……いや、本当、恋愛における貫禄が、千花は凄いと思う。
アドバイスがストレートなだけでなく、本質を掴んでいる。
今の言葉、翼君だけではなく、御行氏と、そして扉の陰で様子を伺っているかぐや嬢にも伝わっただろう。
とはいえ、あの二人はまず『素直になる』のが難しいのだから、そこをフォローしておくか。
「最もこのやり取りも、難易度というものがある……。良く女は男を翻弄するというけれど、手練手管に通じる者同士になると、やり取りが高度になってくる。所謂『誘い受け』みたいな感じだ。……こっちはこっちで楽しいよ。どっかの二人みたいに」
「互いの好意に気付いて居ても動けないのはこっちに近いかもですね。それはそれで良いんですよ? 互いにそれを楽しんでいるなら応援したくなりますね。……恋愛に正解はありません。私のアドバイスが『それは違うと思う』という意見が出ても良いでしょう。ですが、まず真っすぐ素直に実行してからです。真っすぐ出来ない時に、他の方法を考えれば良いんです」
良いですね? という千花のアドバイスに、翼君は頷いた。
「結局は素直に『頑張る』だけなんです。好きな人が頑張る姿ってだけで、別に手を繋ぐ以外にも色々と胸がときめきます。そういうもんですよ! 応援してますねー!」
頑張ってみます! という声と共に彼は意気軒昂として出て行った。
……このままだと生徒会室が恋愛相談所になる日も遠くなさそうだな。
一番に相談させてあげたい二人に、それが出来ないのが、ちょっと残念だけどね。
◆
で、何故このような回想をしたのかと言えば。
丁度、二人が歩いているのが見えたのだ。
柏木渚さんと翼君が、段々と距離を縮めて、手を繋いで歩く初々しい姿が見えたのだ。
あんな時期が僕と千花にもあったのかなーとか思うと、ちょっと懐かしい。
「不思議な気分です。私には無縁な物だと思っていました。その機会が目の前にあるのは」
「恋愛に正道無し。真似をする必要は無く。……憂さんは、憂さんらしく接すれば良いかと」
「やってみます」
鉄面皮のまま、ゆっくりと彼女は頷いた。
美人で、何でもできる、お姉さん。
アッシュブロンドに、琥珀色の目。すらりとした体形。身長は僕より少し低い160ちょっと。
岩傘家の
フィクション世界では、メイドとは戦闘まで出来るのがデフォルトだが、それに近いイメージをしてくれれば良い。流石に銃器を日常でぶっぱなすなんてことは日本の法律的に出来ないが、技能として取得している辺りからも読み取れる。
今も、例のコンペで手に入れた手袋を身に着けている。
とは言え、早坂愛だって化物技能の塊な訳で……彼女より10歳年上なのだから、不思議でもない。彼女の変装が一つ、ハーサカ君とか憂さん以上に変な設定の山だし。
……彼女が我が家に来たのは、僕がまだ小学生の低学年の頃だ。ペスを拾うよりも、少し前。
秀知院に編入し、がむしゃらな努力によって勉学に励み、その後、内部進学。二年程で短期卒業し、以後、我が家でずっと働いてくれている。
正直、とても助かっている。今も色々と頼っている。
義母と僕の関係が潤滑に進展したのは彼女のお陰だった。
ただ同時に、彼女の人生を縛っているのは確かだ。本人が希望して我が家に居るとはいえ、将来的に永遠に我が家に居て貰うにも抵抗がある。彼女は今年で二十七。そろそろ恋愛をして、家庭を持つことを考えて良い年頃だ。
龍珠組から渡ってきた恋文の相手がどんな人間かは分からないが――そしてすべての選択肢は彼女が決めるべきだが――機会を不意にさせる事は、したくないと思うのだ。
だから二時間ほど前、僕らは彼女を連れて、この店にやって来ていた。
「と言う事で、憂さんのお買い物に来ましたー。普段は弄れない憂さんを、此処で存分に弄ろうかなと思いまーす」
「弄りましょー!」
「いえ、あの、気合を入れないでも良いのですが……」
豊美姉と萌葉ちゃんがテンション高く憂さんを引っ張っていく。
常に錬成沈着な憂さんだが、豊実姉には弱い。年齢的にも豊実姉の方が下だが、ベースのテンションが違い過ぎて、押されていくのがデフォルトだ。しかも今回は萌葉ちゃんも一緒。
基本的に彼女は『私はただの使用人ですので』と一歩引いている。故に、隣人である藤原家に対しては強く抵抗できない。更に言えば彼女が、本気で嫌がる事を、藤原家の皆さんもしない。
そうなってしまえば、藤原家の強い女性達に叶う筈もない。
憂さんは、池袋近くにある、とある大型店舗(割とお値段高め)に引っ張り込まれ、着せ替え人形になるのであった。
僕は、荷物持ちである。
「憂さんスラッとしてますから、素材を生かしましょう素材を。脚を見せると良いと思います。なのでストッキングにタイトスカート系の組み合わせか、いっそパンツ(ズボン)系かしらねー」
「普段も男物スーツ似合ってますからねー」
二人掛かりで、ひょいひょいひょいと仕立ての良い衣装を集めると、それを抱えて憂さんを試着室へと押し込んでいく。柄、生地、拵え、様々な物を渡して『取り合えず順番にー』と着替えが開始されていく。
女性の買い物は長い。経験上知っている僕は、階段近くの椅子に座って、それを延々と眺める姿勢だ。こんな場所でスマホを弄るのも難しい。しょうがないので文庫本を取り出して――。
「いーちゃんも感想言ってあげなきゃだめですよー、逃げられませんよー」
千花に引っ張られた。……ですよね、そんなに甘くないですよね。
貴重な男子として意見を言わねばならないらしい。女性のファッションには疎い僕だが、好き嫌い、似合う似合わないくらいは助言をしよう、と心に決めたのであった。
それから今に至る。一先ず上下の衣服を三揃え購入したところで、休憩だ。
僕は自販機からホット緑茶を買い、そこに瓶からの蜂蜜を溶かし込んで、一息を付いて、窓から地上を見た。そして柏木カップルを発見したという訳だ。
「調さんは、私に出来ると思いますか」
「やっても居ない今、出来るか出来ないかと話す意味はありません。ただ、新しい人間と新しい世界に触れるのは大事だと思います。……最初に我が家に来た時も、そうだったでしょうに」
「……そうですね」
これは本当に何となくの推測なのだけど。
バレンタインの日、あの騒動を語った時、憂さんは少しだけ笑った。
三か月に一回しか見せない笑顔が見えた。
「ひょっとして、ですけど。憂さんの方も、気になったのでは?」
「どうでしょう。ですが、今思えば何か琴線に触れたのかもしれません。自分に向けられる熱意、……シンプルな言い方になれば、愛の視線ですか。クサい言い方ですが、それを感じたかもしれません」
「ならそれは大事にしてください。弟分としては姉には幸せになって欲しい」
僕の言葉に、彼女は――頷いた。
とても真剣に、頷いた。
「あ、発見しましたっ! お義兄さん! 憂さんとの休憩は終わりですよー! ささ今度は一階下のお店ですよー!」
萌葉ちゃんがこっちを呼ぶ。……まだ買い物は続くらしい。
現在時刻は、午後11時。これは、もう1時間以上回って、お昼を取って、更に追加で数時間の買い物をするパターンだな。……気合を入れるか。
飲み干したお茶をゴミ箱に放り込んで合流する。
……僕は気付かなかった。
そんな僕らを遠目から見つめる視線があったことを。
大事な日常を踏み躙るような連中が、近くに迫っていることを。
◆
「いーちゃんいーちゃん、これ、どう思います?」
「どう思いますじゃないよ! なんでこの売り場に連行されたんだって!」
昼食後、更に買い物を続けましょう! と憂さんを引っ張って行った豊実姉と萌葉ちゃんを他所に、僕と千花は別行動になっていた。向こうが気を使ってデートにしてくれたのだ。
とはいえ車で来たのだから、そう遠くには行けない。荷物も多いし。
身動きできない僕を、千花はある売り場に引っ張り込んだ。
女性用下着売り場である。
ものすごく居心地が悪い。あっちにもこっちにも白かったりピンクだったりする布が沢山だ。
男女で来ていれば、その関係は瞭然。売り場のお姉さんも、他の女性も、どこか視線が微笑ましい。……のだが、当然、そういう人ばかりではないわけで。
水着の時より更に肩身が狭いぞ。千花の下着姿は見たことがあるとは言っても、公衆の面前で選ぶのに付き合わされるのは、全く別の話だ。
「なんでも『大天使のブラ』ってのがあるらしいんですよ。後輩とかが噂してたんです。付けると魅力が爆上がりして男の子を悩殺できるんだとか……? ヘタレのいーちゃんには丁度良いですよね?」
「……千花、やっぱ僕入り口で待ってて良い? 多分、似合うから。うん」
「むーん、まあやっぱりここはハードル高いですかー。気持ちは分かります。色々買って来るんで入り口で待ってて下さい。……後で品だけ見せてあげます。私は脱ぎませんけど」
期待して待ってるよと返事をした。流石にちょっとしんどい。
『新鮮な惚気』ルールにもある。相手が嫌なことはしない、と。
この辺の常識は流石にある。
二人きりなら良いんだけどね。……二人きりで入れるお店とかがあるなら良いんだけどね!
流石に大型店舗でそれをするには、無理だ。
千花が気にせずとも、他の買いに来た女性も気にするだろうし。
荷物を片手にベンチに座り込んだ。エレベータの横には、やはり自販機と椅子が置かれていて、下着売り場が見えない様にちゃんとパネル壁で視界を遮っている。
「『大天使のブラ』ねえ」
しかし口に出していた品は気になる。スマホで調べると、色々と情報が出てきた。
付けるだけで魅力が上がる。……いや、上がらんだろう。魅力を上げるには、見せなければいけない。要するに勝負下着だ。脇下の肉を前に持って来る「寄せてあげる」タイプ。
……千花のサイズって幾つだっけ。E以上っぽいのは確かだけど。
先日の感触を確認しつつ、――何時使われるのかは知らないが、あんまり深い考えはしないでおこう。その内、見る機会があるさ……と考えていた。
「……ふぅ」
「辛気臭い息を吐いていますね。何をしているんです?」
顔を上げると、何やら見知った女の顔がある。
かぐや嬢に仕える近侍:早坂愛の顔。蔑んだ眼を隠す気もなく、彼女は僕の前に立っている。
「千花と一緒だ。それで察しろ。そっちは買い物か? 僕は此処には場違いだから余計な口出しはしないでおく。……そっちが何を買いたいかは如何でも良いよ。言う気は無いし見る気もない」
「ええ、まあ。……母と一緒の予定だったんですがね」
「……ふうん?」
早坂の姿を見る。私服だろう。相変わらずセンスがいい。美貌は武器と主張しているだけある。
金髪、碧眼、アイルランド系クウォーター。学年屈指の美少女。だが――。
「今日は演技をしていないんだな? 公衆の面前なら、もう少し猫を被っていると思ったが」
「演技をしているように見えますか?」
「見えるね」
一拍だけおいて、理由を語る。
眼鏡を外して、裸眼で睨んだ。
「
「…………」
目の前の、早坂愛の顔をした『何者か』は黙った。そして
早坂なら決して見せないような嘲笑にも似た口の歪み方。
早坂は、実の母の事を「ママ」と呼ぶ。
そして母と居る時、彼女は素が出る。マザコンだとかぐや嬢からも聞いている。
早坂の姿を取っている以上、それを知らない筈がない。
試されたとでもいう感じか。
「くふっ。流石に即座に看破をしてくるか。じゃあこの姿にも意味は無いか」
喉元を掴み、ぐいっとマスクを剥がす。ハリウッド等で使われる最高品質。それを脱ぎ去る。
其処に居たのは――。
「フランス歓迎会、以来じゃないか。ミスター探索者?」
全く別の制服を着こんだ、年齢不詳の、女である。
◆
思い出す。
あの時。フランス歓迎会の時、壁際に一人の女が佇んでいた。年齢も分からない、衣装が違う、何処から入り込んだのかも分からない女。あの時は記憶から消えていたが、違う。
僕は確かにこの女を見ている。
「ネコミミ。聖なる猫の加護。全く余計な物をしてくれた。魔除けどころか天敵だ」
一見すれば美少女だ。黒白のモザイク柄のスカートとベスト。灰色の長い頭の上には長いアホ毛が一本。しかしそれらの魅力を全部ぶち壊す様な、歪んだ笑顔を浮かべている。
意志ある生命体が持つ、感情を煮詰めたような顔。分かる。こいつは機械や超自然的な存在じゃない。この世界に足を下ろして生活する『何者か』だ。人間だ。
ちょっとばかり
化物よりも人間の方が恐ろしい、とはよく言ったものである。
「邪神は猫が苦手というのも嘘ではないようで……。九郎さんにお礼を言っておかないと。それで何が狙いでしょう? まさか御伽噺の住人が、わざわざ日常に侵食してくるつもりは無いでしょう。かぐや姫の存在が史実でも、今この現代で同じことが起きる訳もない」
「本物の月からの住人は認められない。然り。ニャルラトホテプも、所詮は愚か者だ。ただ、闇の中で月に手を伸ばす男だ。……だが執念深く、その奸智を持って、世界をせせら笑う。何をしようと「かぐや姫」を手に入れようとする」
警戒度が、上がる。
この女は事情を知っている。
頭がクールダウンして、僕の精神が切り替わった。
この女は『敵』だと、理性が囁いた。
「正体を知っているのか? と尋ねたい顔だな。くふ、くふふ。答えは『さあ?』だ。知っていても答える義理は無い。あるいは知らないのかもしれない。ただ言うのであれば『私ではない』だ。謎は自分で解明するべきものだよ、若人?」
「見た目、貴方も女子高生ですけどね」
「然り。見た目通りの年齢だよ? くふふっ。さて、本題に入ろう。「かぐや姫」を手に入れるためには『条件』がある。御伽噺で言う『難題』だ。……これは逆説的に言えば、『難題』をクリアすれば「かぐや姫」は手に入ると言う意味でもある」
「近い内に、
僕の言葉に、彼女は、再びにやりと笑った。
僕の指摘は当たらずとも遠からず、という事か。
嫌な笑顔だ。そしてこういう回りくどい言い方をする奴の名前は――。
神話を探ればすぐに出てくる。
邪悪なトリックスターは、今日は挨拶だよ、と言って背を向けた。
学園では、中々隙を探すのが難しいからね、と。
「気を付ける事だ。天に戻った「かぐや姫」は、不死の薬を地上に残す。そして
彼女は、ゆっくりとエレベータの前に進み出る。
速度を緩めず、踏み出す。完璧なタイミングでエレベータが開いた。内部には誰も居ない。無論、僕も彼女も呼び出しボタンを押していない。勝手にやってきて、勝手に開いたのだ。
そのまま彼女は乗り込むと、僕を振り向いて、嗤った。
「クルーシュチャ。それが私の名だ。また会おう。その平穏を生きる心の天秤を崩さぬようにな、探索者君?」
くふ、という笑いを浮かべたまま、女を乗せた扉が閉まる。
そして同時に、チーンという音がして
「ママと一緒に買い物に来るのは嬉しいけど……。こんな場所に来なくったって……」
その声が、今度こそ本当に、早坂愛の者であると認識する。
同時、背後から聞こえる千花の「いーちゃん! 買い物終わりましたっ!」という声を聴く。
……喧嘩を売られるか。何が来るかは分からないけど、どんとこいだ。
僕は誰が何を言おうと、平和な惚気を味わうのに全力で、他など目に入らない。
僕を発見して「うわ」という顔をする早坂を無視して、僕は千花の手を取った。
「ちょ、どど、どうしましたー!?」
「いんや。ちょっと疲れた。癒されたくなった。……千花はあったかいなーと思って」
「良く分かりませんけど、私で良いなら、どうぞですよ?」
言葉に甘える事にした。
ぽすり、と彼女の胸元に顔を預けて、眼を閉じる。
「『大天使のブラ』は買えた?」
「買えました。大事に保存しておきます。……落ち着きましたか?」
「ん。……オッケ、行こうか」
急いで復活して、憂さんや藤原姉妹と合流しよう。
何せ明日は、彼女の記念すべき日なのだから。
冷静になった僕の胸中に浮かんできたのは、断じて恐怖では無い。
怒りだ。
昔から言うだろう。恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んでしまえって。
◆
伝承に曰く。
庫持皇子は、難波から船に乗った。
ある時は、水底に沈みかけた。
ある時は、風に吹かれた国で、鬼のような物に襲われた。
500日の後、蓬莱の山に辿り着いた。
「日本の東……太平洋……水底にある……
天人の装いをした、銀の腕を持った女に案内され。
金、銀、瑠璃色の山。玉(翡翠)の橋。其処になる蓬莱の枝を取って来たという。
「翡翠の色は……深緑。その色の都で。住んで居る住人が……銀色の腕に、羽衣か」
確かに色々と特徴は一致する。
だが――だからどうした?
かぐや姫と同じ程度の正確性しかない神話連中が来た。
だからどうした?
そんな連中が実在した恐怖より、もっと大事な感情ってのがあるだろう!
目の前に来ている脅威に立ち向かう為に必要なのは、愛と勇気と相場が決まっている!
翌日、デート衣装に身を包んだ憂さんと、同じく綺麗に身支度を整えた、龍珠組の若い男。
その道先を塞いだ連中が、嘗てインスマスでよく見かけた顔立ちの連中とくれば!
僕の怒りも分かって貰える筈だ!
『そうか』と思った。
ニャルラトホテプが何を狙っているかは知らない。
だが、お前の手配したこれは許されない。許さない!
今までずっとお世話になって来た人の、晴れての初デートだ。
その邪魔をされた。余計な茶々を入れられた。許せるだろうか?
否だ。断じて否!
憂さんの、頑張ってみます、という顔が浮かぶ。
その陰に、千花がアドバイスをした皆の顔が重なった。
柏木さんと翼君が、初々しく交流できたように。
彼女の顔が曇ってはいけない。
彼女も同じ交流を、受ける権利があるのだ。
僕は千花と惚気るのも好きだが。
周りの人が幸せに惚気る姿を眺めるのも好きだ。
「情報工作は僕が実家の力を使ってやる」
僕は『月に吠える者』に噛み付く様に告げた。
龍珠組と、何よりも憂さんに、渾身の意思を込めて投げ渡した。
「これ以上に、恋路の邪魔をするというなら、そいつら――叩きのめしてしまえ!」と。
クトゥルフ神話の恐怖なぞ、所詮はラブコメの踏み台に過ぎない。