幼馴染で隣人で許嫁な彼女と惚気たい   作:金枝篇

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掌の中では、蕾を花開かせることは出来ない。



試練《優曇華の花》篇はこれにて終了。
次回から再び学園に戻って、そろそろ夏休みです。

頂いた投票が100を越えました。皆さまの応援に大きな感謝を。
では、どうぞ。


優曇華の花を咲かせたい

 昔、こういう事があった。

 

 その時、僕はまだ初等部で、勿論、千花も初等部で。勉強に関しては何の心配もなかったが、ちょっとばかり捻くれていた……というか、フリーダムだった頃がある。

 

 所謂『反抗期』。

 誰だって若い時に迎えるというけど僕もそうだ。

 

 当時、僕は我が家に居るのが嫌だった。お母さんは消えているし、養母は来たばかりだし、妹に至っては存在すら知らなかった。

 親父は丁度、ウォール・ストリート・ジャーナルとの会議が重なってアメリカに単身赴任中。

 

 とにかく、家庭関係を、自分の心の中で物折り合いを付けるのが難しくて、僕は岩傘家で過ごす時間を限りなく減らしていた。……最低限に減らして、千花の家に甘えていた。

 

 『反抗期』それ自体は親父には見透かされていただろうし、教職員も把握していたと思う。

 成績は落ちなかったから、好きにしろと言われるだけで、そのままだった。どこかで痛い目を見れば目が覚める、と大人達は理解をしていた。

 実際、高校生になって当時を振り返ると『確かにどっかで痛い目を見て成長するな』と、青臭い傷だと。笑い飛ばせてしまう。

 

 だけど僕が()()()()は、笑えない。

 ささやかな、だけど子供心には重要な反抗期を前に、一番悩んだのは憂さんだ。

 

 千花の家に入り浸り、藤原家に甘えるだけ甘える。そりゃあ隣人で、許嫁で、豊実姉にしてみれば可愛い弟分が常に家にいる訳で。千花も喜んでいたし、まだ幼等部だった萌葉ちゃんも『兄ちゃん兄ちゃん』と舌足らずな言葉で追いかけてくれた。その温かさに耽溺しっぱなしだった。

 

 それを享受する横で、家に居た彼女が、どこまで辛かったのかを、知らなかった。

 ちょっと考えれば分かる話だ。僕が居ないなら、彼女は一人だけ。

 厳しい秀知院の学業から戻ってきても、出迎える人も誰もいない。

 

 ある日の、憂さんの用意した夕ご飯は、チーズを中に入れたハンバーグだった。僕は藤原家で食べてきた。ハンバーグは食べなかった。

 ある日は、魚と野菜のソテーだった。僕はやはり藤原家で済ませてきた。

 ある日は、ちらし寿司と茶碗蒸しだった。僕は食べなかった。

 ある日は、鶏のから揚げだった。食べなかった。

 ある日は、春巻きだった。食べなかった。

 ある日は、炊き込みご飯と焼き魚だった。

 ある日は、グラタンだった。

 ある日は。ある日は。

 ある日は。ある日は。ある日は。ある日は。ある日は。ある日は。ある日は。

 

 そうして時間が経過した。ある日、藤原家に、唐突な来客が来ることになり、僕は家に戻る事になった。名残を惜しみつつ、家の中に入ると、憂さんは――それでも言った。

 

 「おかえりなさい、調さん。夕ご飯の準備は出来ています」

 

 その時の彼女の顔が、全てを物語っていた。

 手を上げることは無かった。ただ静かに、ただ僕に告げた。

 

 「私は必要ですか? 邪魔ならば言って下さい。今すぐにでも出ていきます」

 

 彼女の身体は震えていて、涙を見せずに泣いていた。

 ……彼女だって、普通の女性なのだ。

 誰からも必要とされていない、役目を何も持てないことが、どれだけ苦痛だったか。

 

 そこで僕は、己が泣かせたのだと、気付いた。

 漠然と言葉で、感情を表現できたわけではない。

 だけど僕のせいだというのは子供心に理解した。

 

 僕の分まで用意した食事は、憂さんが頑張って食べていたのだという。夜に食べ、翌朝の朝と昼に温めて食べる。そして買い出しに行き、また新しい物を作って。余った分を翌日に。その繰り返し。それを数週間、ずっと続けていた。

 無意味かもしれないと思っても、それでも止めずに続けていた。

 

 違う、という言葉は出なかった。

 僕は家を疎んでいた。接し方が分からずに離れていたのではない。彼女に接していなかった。最初から触れず関わりを断ったままだった。最初からコミュニケーションを取る努力をしていなかったから、何も変化が無かったのだ。

 

 ごめんなさい――という言葉すら、恥ずかしくて、出なかった。

 震えて、黙りこくって、取り返しのつかない行いをしたとしても、何も言えなかった。

 俯いたまま、じっとしていた僕の手を、やがて憂さんは引っ張った。

 

 そして台所に案内した。彼女は静かに促した。

 

 「一緒に、食べましょう」

 

 テーブルの上の料理は既に冷めていて、温めなおすのは時間がかかる。

 彼女は無言でそれらにラップを被せ、冷蔵庫にしまうと、別の準備を始めた。

 

 テーブルに向かい合った。

 

 どうぞ、と座らせた僕の前、憂さんは電気釜と塩水を持ってきた。

 同時にお皿を並べた。鮭の身、海苔、佃煮、鱈子、煮卵、焼いた肉、そぼろ肉、鰹節、胡麻、ツナマヨネーズ、刺身、紫蘇ご飯に、のりたまふりかけ、その他沢山のお皿を小鉢で持ってきた。

 何をするかは、すぐわかった。何を作ってくれるかは、すぐわかった。

 

 「あ、あの。憂さん、これは」

 「……何故でしょうね。今日は、これを作りたい、気分です。……私の手では嫌ですか?」

 

 そんなことはないと、首を振って否定した。

 僕の前で、軽く手を湿らせた彼女は、無言で掌の中に、お米を握る。まずはただの、塩味。

 出されたばかりの、お結びを口に入れて、温かいと思った。温かかった。鬱屈としていた僕の口の中に、それが分かった。美味しくてあっという間に食べた。食べきった僕の前に、すっと新しい品が出された。

 

 中には梅干しが入っていた。酸っぱかった。

 酸っぱくて、涙が出た。それが契機になって、涙腺が決壊した。

 

 そこでやっと僕は言えた。ごめんなさいと言えた。

 

 独りにさせてごめんなさい。

 ずっと無駄にしていてごめんなさい。

 貴方の努力と好意を無下にしていてごめんなさい。

 今までずっと家に居たのに、それを見ていないで、ごめんなさい。

 

 泣きながら食べる僕に、彼女は言ってくれた。

 

 「やっと私を見てくれましたね」

 「私も、寂しかったですよ。とても寂しかった。ですが、許しましょう」

 「もう同じことはしないと、約束してくれますか?」

 

 頬張ったまま頷いた。

 

 彼女は静かに微笑んでくれた。

 僕がそれまでの人生で見た中で、一番綺麗な笑顔だった。

 

 翌日、僕は豊実姉の元に言って、憂さんの話をした。

 事情を説明して、友達になって欲しいと切り出した。

 豊実姉は言った。

 『友達なんてのは、誰かから頼まれてなるものじゃないわ。友達になるかどうかは私が決める。だけど、紹介してくれるなら嬉しいわ』。

 僕は豊実姉を連れて行った。年の差はあっても、二人はすぐに意気投合をした。

 

 僕は親父に電話をした。日米の時差があってもそんなことを気にしちゃいなかった。普段は『特に何も問題が無いよ』とだけ伝えていた言葉を撤回し、事情を説明して、お金を振り込んで貰った。それを憂さんに渡して、プライベートで楽しめる様にと、豊実姉に引っ張ってって貰った。

 

 勿論、僕は同行した。千花も萌葉ちゃんも連れて行った。万穂さんにもお願いした。

 総勢6人。男は僕だけだったけど、そんなのは如何でも良かった。今迄を埋め合わせる様に、僕は頑張った。

 

 ……頑張り過ぎて数日後に体調を崩して怒られてしまったけど。

 熱を出した僕を、馬鹿ですねと千花と揃って言いながら、二人で看病をしてくれた。

 

 それから――今に至るまで、憂さんとの約束は、ずっと守っている。

 藤原家の台所にお願いして彼女に手伝って貰ってすらいる。

 ……きっと一生、あの味は忘れない。

 

 こうして僕の『反抗期」は終わった。

 それからも彼女の尽力と気苦労は沢山あった。養母と僕の関係とか。いきなり増えた(キーちゃん)の事とか。沢山の、本当に沢山のお世話になって。

 

 僕が彼女に抱いたこの気持ちはきっと、唯の思慕ではなかったのだろう。

 

 ◆

 

 そして今、岐路へと向かっている。

 

 話を纏めると、こういうことらしい。

 龍珠組に指定された場所に、車で移動をしている道中、クルーシュチャが話し始めた。

 

 「昨日、君に酷い目に合わされた私は、涙ながらにカップ麺を啜り、学園の中に入り込んだ」

 「おい。何やってるんだ。何で学園内に入る。不法侵入だぞそれ」

 「いや、丁度、なんだっけ……早坂愛? 彼女が、入っていくのが見えたんだ。後を付いていったら、彼女は隠密スーツに暗視ゴーグルを装備して、赤外線を潜り抜け、生徒会室へと足を踏み入れていった。私は雨に打たれながら、窓からそれを見ていた」

 「ラーメン食べながらか」

 「食べながらだ。美味しかった」

 

 「……続けろ。それで?」

 「私が連れてきた『深き者』(触手君)は下水を通って移動させていたんだが、学園に入ると同時、狭そうだったんで『血溜沼』で休憩をさせてやった」

 「沼が詰まったのそれが原因かよ!」

 

 「お、怒らないでくれよ……。割と反省してるんだぞ! でもだ! 私を追い詰めたのはお前なんだぞ!? お前だって悪いだろ!? ……早坂愛さんが出てきたところで、突風が吹いた。私の食べ終わったカップ麺容器は風に飛ばされた。それが原因で、私は彼女に発見された」

 

 だからカップ麺の空容器が沼に沈んでいたんだな。納得する。

 ニャルラトホテプの化身を謳っている奴がそんな真似するのは納得できないが。

 

 「早坂さんを迎えに、四宮かぐやも来ていた。私は雨の中、不審者と疑われ、しかし必死に弁明をした。思わず熱中し、彼女とのやり取りに火がついて――いや四宮かぐやは凄いね。私が真面目に会話せざるを得ない知性があって――それで彼女は、長い間、雨の寒空の下に居たので、風邪を引いた。私はそのまま四宮家に保護され、制服を借りて、今ここに来たという訳だ」

 「お前がこっちにちょっかいを掛けなかったら起きなかった問題だな」

 

 だがまあ、経緯は分かった。かぐや嬢がそれで風邪を引いた。

 そして『深き者』は、『血溜沼』から勝手に脱出し、単独行動を開始したと、そういう訳か。

 

 「その『深き者』が、龍珠組の若いのを狙った理由はなんだ。『星龍会』の時の恨みか?」

 「いや、えーと、……そのだね?」

 「さっさと言え」

 「優華・憂に、横恋慕したらしい」

 

 キキキイイイイッ――!! と急ブレーキがかかった。

 憂さんは、龍珠組に合流するまでに、僕とクルーシュチャを拾っていた。故にこの車は、彼女が運転をしていたのだ、が。流石にその発言には驚いたのか、バックミラー越しに、憂さんの目が開かれている。微笑みより更に貴重な、驚き顔だ。

 

 「……私に、ですか」

 「そうだ。……そうらしい。別れる前に話を軽くしたんだが、その際に――『無表情な顔で、刃物を片手に言葉攻めされて、目覚めた』と語ってた」

 

 どっからツッコミを入れて良いのか分からない。僕以上にショックを受けていたのは、憂さんだ。彼女は鉄面皮を固まらせ、何か言おうとして、しかし何も言えない。もごもごと口を開けようとして失敗し、首をひねって反応を捻り出そうとしている。

 

 昨晩のクルーシュチャを目撃しても、窓に!窓に!していたアレを追い払った時も平然としていた彼女だったが、それが自分への求愛に繋がるのは予想の斜め上過ぎる。ていうか触手、あいつレベルの高い変態だったんだな。本人が変態チックな見た目の癖に。

 背後からクラクションが鳴らされた。

 

 「……ちょっと冷静に、なりましょう」

 

 龍珠組の元まで、時間にしてごく僅か。その僅かの間に、何を考えろと言うのだ。

 車内の中に、沈黙だけが過ぎていく。

 

 千花と御行氏には「ちょっと身内の用事が出来たので申し訳ないが早退する」と伝えてある。かぐや嬢が風邪でいない今、石上含めて3人だけで仕事を任せることになるが、一日くらいは大丈夫だろう。

 

 ……まあ、何を考えるかなんて、決まっているのだけど。

 

 ◆

 

 「来たか岩傘。優華さんもお待ちしていました。……そっちの見慣れない女は誰だ?」

 「事情を知っている、ただの通りすがりだ。僕がキッチリ説教をしておいたし、今後も〆るのは僕がやる。スルーしてくれ。それで、状況を聞かせて欲しい」

 「状況っつってもな。要するに得体のしれない男が、若いのを引っ張り込んでタイマンだ」

 

 クルーシュチャの紹介は雑だったが、こんな奴これで十分だ。

 

 僕の返事に納得した龍珠桃は、短く要件を纏めて返してきた。

 得体のしれない()……という事は、触手姿ではないらしい。まあ神話生物なら、それくらいは行けるだろう。フードにコートを被り、マスクとサングラスをしておけば、人間の形さえしていれば誤魔化せる。割と経験談だ。

 

 「タイマン? っていう事は危害は」

 「加えられてねえ。向こうから封書が届いた。読め」

 

 差し出された封書には、こう書かれている。若干、のたうつような文字だ。文字だが。

 

 ――『優華・憂を巡っての、立ち合いをしたい』

 

 と書かれている。

 この時代に決闘とは古風だなと思った。喧嘩は法律で禁止されているというのに。

 とはいえ。とはいえだ。ヤクザにとってはこのやり方はまだ受け入れられる範疇。最初に攫った点は兎も角、その後、一切の余計な小細工をせず、真正面からの勝負を挑んできた。これは彼らには効果的だろう。正体を知っている僕は『男気溢れる触手ってなんだよ』と思うけど。

 

 車を止めた場所は、さる川辺にある工場跡地だった。随分前に会社そのものが倒産し、取り壊されるだけになっている工場。その廃液を処理する地下区画に、奴はいる。

 

 龍珠組の人間が確認をしてきたらしい。

 攫った若い奴を縛ることなく椅子に座らせ、水と食事もちゃんと与え、本人も離れた場所に座って向かい合っている。互いに殆ど会話をしないが、どうやら目的は把握しあっている。内側から頑丈な鉤が掛かっており、室内に入れてくれるのは憂さんのみ、と。

 

 「つまり話は簡単なんだな。憂さんが行って、拉致された相手を救助して戻れば良い」

 「そうなるな」

 「という事です、お願いしても?」

 

 僕の言葉に、彼女は頷――かなかった。

 即決せずに、彼女は僕を見た。そして問いかけた。

 

 「良いのですか?」――と。

 

 ◆

 

 昔から彼女は、己の行動に迷いを持って動いたことは無い。いかなる時も自信を持って動く。伊達に生まれが紛争地帯で、母に拾われるまで非合法に生きていた経歴を持っている訳ではない。自分が決めた判断と心中する覚悟が出来ている。

 

 だから、交際相手を助けに行くと決めれば、彼女は迷いなく実行をするだろう。

 

 だけれども。彼女は僕に問うた。良いのですか? と。

 それが意味するところは。それは何を意味しているのか。

 

 「調さん。もう一度、尋ねます。……私は行って良いのですか?」

 「……龍珠さん、少しで良いです。二人だけにしてくれませんか」

 「あ“? ……まあ、そりゃ良いけどよ。若いのに被害が及ぶようなら、私はこっちの人間を動かして対処するぞ? そこだけ承知しておけな」

 

 ぞろぞろとヤっさんを引き連れ、倉庫から退室する龍珠桃。クルーシュチャは隅っこで待機しているが放置で良い。室内には、僕と憂さんだけが残る。

 

 憂さんと向き合う。昔は僕より大きかったけど、今では僕の背の方が高い。

 彼女の目を真正面から見る。彼女の目は、昔と変わらず琥珀色で、まっすぐに僕を見る。――僕は、裸眼だと目力が強いと言われるが、その影響は間違いなく憂さんの影響だろう。

 

 「先ほどの、問いかけの意味を、聞いても?」

 「調さん。誤魔化しは無しにしましょう。貴方は気付いている。貴方は聡い。昔から散々、私の手を焼かせた子供の考えていることなど、お見通しに決まっているでしょう」

 「……勝てませんね」

 

 僕は降参の姿勢を取った。

 分かっている。

 車での移動中から。クルーシュチャに『深き者』の動機を聞かされた時から、予想出来ていた。

 

 岐路が目の前にある。

 別れ道が一歩先にある。

 引き返すことが出来ない決断の時が、たった数分の先に迫っている。

 

 ――『深き者』は、憂さんの交際相手との対峙を望んでいる。

 ――『深き者』は、憂さんが来るのは歓迎している。

 ――では仮に、交際相手とガチの喧嘩をしてまで、彼女を奪っていくような相手だろうか?

 

 違うと思う。

 仮にそれをするなら、アイツは最初から憂さんを攫えば良い。

 難易度が高いなら工夫をすればいい。それこそ僕や妹を人質にとって呼び出せば良いだけの話。

 

 それをしなかったという事は、この行動は、言うなれば奴の未練だ。横恋慕というが正にその通り。最初から恋愛勝負では勝ち目がない。触手の塊という事を差し引いても、奴に勝ち目はない。

 何せ……憂さんが『多分嬉しいのだと思います』という相手だ。そこにある感情は、例え『深き者』が触手プレイをしても覆せないだろう。

 ……まあ憂さん、そんなシチュエーションになったら舌噛んで自害するだろうしね。

 

 つまり彼女は、行ったら――まず間違いなく、交際相手と協力して『深き者』を倒す。

 

 それはつまり。

 それはつまり……『深き者』と龍珠組に、憂さんが告白するという意味だ。

 

 というか、それを言わないと、『深き者』が普通の男性の感性をしているなら――振られたと思わないだろう。認めたがらないだろう。

 

 ()()()()()が終わる。

 本格的な交際になって、本格的に恋愛になって、そして彼女は、我が家から抜ける。

 此処で彼を助けに行くという事は、そういう意味を持つのだ。

 だから憂さんは僕に問いかけた。『良いんですか?』と。

 

 「…………憂、さん」

 「はい」

 

 僕は、言いたかった。ああ、言いたかったとも。

 行かないで欲しいと言いたかった!

 家から離れないでと言いたかった!

 思い出が山のようにある。別れるには多すぎる大事な記憶が山ほどある。

 このままで居て欲しいと思っていた!

 

 僕と千花の生活に、彼女が従者として一緒に居てくれる景色を夢見ないと言えば嘘になる。

 だけどそれは夢だ。

 永遠は無い。変わらない物は無い。変わらない人はいない。

 

 此処で僕が全力でお願いをすれば、きっと彼女は頷くだろう。

 頷いて、龍珠桃に「いけません」と告げ、それは交際相手との関係に波紋を呼ぶ。恐らく破談になる。そして彼女は今まで通り……我が家に居る。

 

 ……それは出来ない。

 強制させてはいけない。

 大事な人だからこそ、大事な人が幸せになる機会を、僕が奪ってはいけない。

 

 何よりも、僕が自分で分かっている。

 僕では、優華・憂という女性を、一人の男性として愛することは出来ない。

 彼女の幸せを造り出すことは、決して出来ない。

 

 「一つだけ、教えて下さい。――憂さんは、助けに行きたいですか。助けに行きたいくらい、好きな人ですか」

 

 相手がどんな人間か、なんてことは野暮だ。

 僕は遠目に伺っただけ。龍珠組の、気骨がある若い男であることしか知らない。パーソナルデータや評判は調べられても、人格や品性は憂さんにしか分からない。

 良いところも悪いところも、彼女にしか、分からない。

 

 僕の声は震えていたと思う。絞り出していたと思う。

 それでも眼だけは逸らさなかった。彼女は。

 

 「()()

 

 そう頷いた。

 

 「多分、という言葉が付きます。まだ分からないことも沢山あります。ですが私は、この縁を大事にしたいと考えています。この出会いを大事にしたいと思います。此処で切るには余りにも惜しい、そう思っています。だから助けに行きます。……私が後日、その選択を間違えたなら、それは私の見る目が無かっただけのこと」

 「……ならば」

 

 ならば僕が言えることは、一つしかないのだ。

 

 「――ならば、行ってあげて下さい。僕は、送り出します。……()()()()()

 

 ああ、と思った。言ってしまった。告げてしまった。別れになる決定打を。

 

 嘗て――初等部の『反抗期』。

 彼女の『邪魔ですか?』という言葉に対して、僕は『邪魔ではありません』と答えた。

 だけど今、去り行く彼女を引き留める、居て欲しいという言葉を言う事は出来なかった。

 僕の言葉に、憂さんは――。

 すっと近付いて、僕の頭に手を伸ばした。

 

 「大きくなりましたね。貴方の成長を、嬉しく思います」

 

 静かに、頭を優しく撫でてくれる。

 嘗て泣いた僕を穏やかに受け止めてくれた時のように。

 嘗て見た、とても綺麗な、心に残ったまま消えない笑顔を見せてくれた。

 

 ほんの少しだけ、悲しい目でもあった。

 ひょっとしたら――彼女にも未練はあるのかもしれない。

 だけど。何も未練が無い選択なんか存在しないのだ。

 

 すっと下がって彼女は静かに語った。

 

 「別れの、暇を頂くご挨拶は、またの機会になるでしょう。しかし此処が、まず別離の第一歩。……行って来ます」

 

 背を向けた彼女は、戦闘モードへと切り替わる。

 龍珠組の面々を倉庫に招き入れると、彼らが用意していた重火器(違法)を受け取り、弾薬(違法)を受け取り、長ドス(違法)を受け取り、瞬く間に戦装束へと姿を変える。

 周囲の若衆が思わず息を飲む程、その眼は爛々と輝き、戦闘力に溢れていたそうだ。

 戦場で育った少年兵の本領発揮だと、熟練の手付きで装備し、地下へ飛び込んでいった。

 

 彼女自身が幸せになる為に、僕らの元から飛んで行った。

 

 ◆

 

 それからの――地下で、どんな戦いが起きて、どんな決着が付いたのかは、分からない。

 戦いが終わるまで、僕はずっと倉庫の外で、座って待っていた。

 

 生徒会には『今日は悪かった。明日は出る』と改めて連絡を入れておいた。

 

 怪物と人間の戦いの結果なんか如何でも良い。龍珠桃が騒がず淡々と事後処理をして、クルーシュチャが『『深き者』が負けたよ』と伝えにきて、戻ってきた憂さんは、交際相手と互いに肩を貸し合っていた。その顔は、満足気だった。

 僕の選択は、間違っていなかったのだ。

 

 ――憂さんが即座に、我が家から消える訳ではない。彼女の家は此処にある。今迄の関係が消える訳でもない。実際――僕は憂さんの運転で実家に戻った。実際、今日の夕食も憂さんが作る。

 ただ彼女の心の中の優先順位が、変わっただけ。変わっていくだけ。

 

 ……自分に言い聞かせていると、千花からメールが来た。

 随分と夜が遅くなって帰還した僕を出迎えるタイミングだった。

 

 『こちらに来て下さい』

 

 という簡潔な内容。彼女は鋭い。恋愛探偵チカは、その嗅覚で何かを嗅ぎ付けたのだろう。僕は一言、憂さんに断って、藤原家の門を叩いた。

 

 唐突な来訪に、藤原家の皆さんはちょっと驚いたようだが、千花が二階に招いたので『また何か惚気るんだろう』と通してくれた。部屋に案内される。

 

 「それで、要件ってのは……」

 「いーちゃんが悲しんでるなと思ったので、慰めてあげようって思っただけですよ?」

 「悲しんでるって、そんな……。いや、悲しんでるけどさ」

 

 それでも先刻、僕が決めた言葉を、翻すつもりはない。

 弱っているところを受け止めてくれるのは本当、助かるけど。

 僕がそう返事をすると、千花は、とても真摯な態度で、僕の複雑な心を解き明かした。

 たった一言で。

 

 

 

 「初恋だったんでしょう? いーちゃんの」

 

 

 

 「…………。……そうだね、きっとそうなんだと思うよ」

 

 初恋。言葉にすれば、きっとそうなるのだろう。

 憂さんが笑った顔を見た時、確かに彼女は僕の心の中に息付いた。見て見ぬ振りをしていたなんて事は無い。僕は憂さんの事が好きだったし、それは単純な家族愛から外れていた――のだろう。……でも僕は、それを結局、形にしなかった。

 

 しなかった理由は。

 その想いを捨てて、彼女を送り出した一番の理由は。

 

 「……千花。ちょっと、ごめんね」

 

 僕は彼女を捕まえて、言葉も言わずに抱きしめて、その首元に顔を埋める。

 

 その理由は、この腕の中にある。

 憂さんを幸せにできない理由は、此処にある。

 

 僕は千花を選んだ。好きな人を選んだ。

 想いの強さは、形や数値で計れる重さではないけれども、千花と憂さんを天秤に掛けた時、その天秤は千花の方へと傾いたのだ。

 憂さんが、迷った末に、駆けていったように。

 

 「知ってますよ。分かってます。いーちゃんの初恋がそうなんだろうなーってのは」

 「……そっか」

 「はい……。昔から何となく、そうじゃないかなって思ってました。だって、ずーっと一緒に過ごして、憂さんも一緒に遊びに行ったんですよ? でも、いーちゃんは私を選ぶってのも分かってました。――昔、告白されて、好きだって言われて、それは絶対に遊びで言わないって」

 「……うん」

 「少しは不安みたいな物もありましたけど。でも多分、もしも、いーちゃんが私より憂さんの方を優先して意識するようになったら、私は直ぐに分かります」

 

 だから、私が言う事はたった二言だけです、と彼女は続けた。

 

 「一つ。私を選んでくれて、ありがとう」

 「一つ。いーちゃんは、よく頑張りました。とても頑張りました。胸を張って良いんです」

 

 恋愛は戦、恋愛は勝負、誰かがそう言った。

 だけどこの選択に勝ち負けは無い。善悪もない。

 ただ自分で選んだ結果があるだけだ。

 

 それは誇って良い。それは胸を張るべきなのだろう。

 ……自分の選択を省みて「もしも向こうを選んでいたら」と誰もが想像する。

 だけど。だけれども。

 『今の此方の選択が無駄だった』とだけは言ってはいけない。思うようになってはいけない。

 この道が正しかったと言えるように、頑張るしかないのだ。

 

 「痛いなら、痛いって言って良いですから。いーちゃん。私も一緒に背負います」

 「うん……」

 

 向こうもハグを返してきた。腕の中の体温と、愛しい彼女の形が分かる。

 

 ごく自然に、ちーちゃん、と昔呼んでいた名前で、彼女を呼ぶ。

 それで千花は意味を理解してくれて――僕の首に手を回して、背伸びをしてくれた。

 

 ◆

 

 その後の、顛末を話しておこう。

 かぐや嬢は、クルーシュチャを手元に置いておくことに決めたらしい。

 

 最もその話を聞いたのは、かぐや嬢が風邪から復帰した後だ。

 

 僕が憂さんの問題を解決している間に、生徒会では色々あったらしい。

 神経衰弱が行われ、かぐや嬢へのお見舞いを誰が行くのか決めたりとか。

 千花がイカサマしてたりとか。

 御行氏が見舞いに行くと決まったりとか。

 見舞いに行った先でなんか色々あったらしいとか。

 そういう事があったらしいが、これは後日、改めて触れることにする。

 

 無論――クルーシュチャを確保しておけば、『チクタクマン』事件の黒幕に到達できる、という打算はあっただろう。しかし彼女は、無能な人間はすっぱりと切り捨てる人間だ。利用価値があると思って手元に置いておくにも、最低限のラインが存在する。

 

 クルーシュチャという女が逸材であることは間違いない。

 彼女の知能、というかIQというのか、そういうのは同学年では飛び抜けている。クルーシュチャの方程式を解き明かし、ニャルラトホテプを理解した女。性格が未熟故に、その愉悦っぷりは可愛く収まっているし、何より構って貰わないと力を発揮できないポンコツだ。だからこそ手綱を握っていれば危険はない、と彼女は判断をしたのだろう。

 

 その辺の匙加減を間違える、かぐや嬢ではない。

 おそらく今後、彼女は、ある程度の自室と食事・衣装・更には勉学の時間を与えられる代わりに、かぐや嬢から御行氏への様々な暗躍に駆り出されるのだろう。平和的で良い。

 

 ……とはいえ、とはいえだ。奴はニャルラトホテプの形が一つ。喉元を熱さが通り過ぎた後には、また、くふくふふと笑いながら暗躍を始めるだろう。今度はより至近距離で、より行動がしやすい場所に、クルーシュチャは入り込んだ。彼女にとっては嬉しい誤算かもしれない。

 だがまあ、それは彼女が動き始めてからで良い。

 

 「イクサ・クルーシュチャ。今日から通うことになりました。よろしくお願いするよ」

 

 1年B組に編入した彼女が、この先に何をするかを、確かめてからでも、遅くはないと思う。

 

 ◆

 

 もう一つ、報告しておくことがある。

 

 数日後の朝。朝食にしようと居間まで下りていくと、そこに用意されていた物は、今まで見ないタイプの食事だった。目玉焼きは微妙に黄身が崩れているし、付け合わせの野菜はカットが雑。主食のシリアルに牛乳が置かれ、ヨーグルトの中にはカットしたキウイ・バナナ・パインとジャム。健康的だが、憂さんの物ではない。

 果て、と思って真正面に座っていた人物を見る。

 

 「何? なんか文句あるの? 食べないなら良いよ別に」

 「食べる。ただ珍しいと思ってな」

 

 僕や千花どころか、萌葉ちゃんや伊井野ミコよりも小柄な娘が一人。

 黙っていれば可愛いが口を開くと厳しい言葉ばっかり吐き出す、我が妹(キーちゃん)だ。

 

 どうやら彼女が用意した物らしい。素直に席に座って、頂きますと言ってから食べ始める。

 そして食べながら『いきなり心変わりしたのか?』と尋ねたら、彼女は不機嫌そうな顔で。

 

 「別に……。憂さんは、オフだよ。まだ寝てる。――憂さんが居なくなるなら、私も、甘えっぱなしじゃダメだと思っただけ」

 「……そっか。美味しいよ」

 「あっそ。明日はそっちが作る番だから。千花さんにばっか頼ってるんじゃねーし。……あと瞬間接着剤、弁償。登山道具の補修出来ねーじゃん。利子付けて返せ」

 

 僕が食べ終わる前に、それだけ言って彼女は席を立った。今日も朝から部活動らしい。

 

 ……悪い娘じゃないのだ。毎日走りこんで、雨の日も風の日も体力練成を欠かさず、道具を丁寧に扱う。そういう几帳面さはある。その辺の細やかさを、兄に分けてくれないかなとも少しは思うのだが……。まあこれでも改善された方だ。

 家に来たばかりは口すら利かなった。

 

 彼女とそこそこ良好な関係になれたのも、憂さんのお陰だった。

 返しても返しきれない恩を返す方法も、考えなければならない。

 

 出ていく妹を見送って数分後、綺麗に食べ終えた。キッチンに食器を運んでいく。

 何時もは此処で、洗い物を任せてしまっていた。だけどこの先、それはお願いできない。ならば――自分でやろう。裾をまくって手早く洗剤を付けて洗っていく。

 

 ……こうして、ちょっとずつ今迄にあった習慣が、変わっていくのだろう。

 人が家から欠けるとは、そういう事だ。

 洗い終わって食器類を乾燥棚に置き、鏡の前で身支度を確認してから、家を出る。

 

 「おはようございます、いーちゃん!」

 「……うん。おはよう」

 

 そこには、千花が待っていた。やっと出てきましたね、と笑って待っていた。

 少し速足で近寄り、彼女の横に並ぶ。千花は何も言わずに、僕の腕に腕を絡ませた。

 そうして二人で歩き出す。

 

 ……何かを守るという事は何かを守らないという事だ、と何処かで聞いた覚えがある。

 それは何かを手放した分、手に残った物はより大切に、より重くなるという事だ。

 

 ならば僕はこの手を――離さない。

 決意をして、心の中で、憂さんに告げた。

 

 

 どうか幸せに咲いてくれますように。




一人以外は選べないし、選ばない。
例え他にフラグがあっても、それを折って藤原千花を選ぶ。
それだけは絶対の不文律。


多忙に付き、また数日の間が空きますが、気長にお待ちください。
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