では、どうぞ。
岩傘調の藤原千花への惚気、およびその為の下準備や努力は余人の知るところである。
しかしこれにはもう一方の側面がある。即ち『藤原千花が女子からどう思われているか』という視点だ。
もしもの話をしよう。もしも岩傘調が存在せず、生徒会役員が四人のみであり、藤原千花が迷走と混沌を呼ぶ危険物Fでしかない場合、彼女に対しての恋愛相談は、限りなく少なかったであろう。『絶対地雷踏むから相談できない!』と。
いや無論、彼女が持つ『ラブ探偵チカ』の才能はそのままであろう。だが、肝心な場所で割り込むわ、要の部分で外すわ、仲悪い様子を見て『本当は仲が良いんだな』と判断できないわと、平たく言って邪魔(酷い言い方だ)な側面があるのは否めない。
否めないのだが、それは遠い世界の話。
のべつ幕無し、延々と恋愛脳である岩傘調の影響もあり、藤原千花もまた大幅に成長していた。
少なくとも同学年の中で、何か恋愛での相談がある場合『彼女に行けば良い』と言われるくらいには。
その知略を全力で岩傘調への攻撃にすれば、彼を翻弄する悪魔的な作戦を立てられる位には。
そのレベルたるや、四宮かぐやが『完全に私は藤原さんに負けていたのね』と実感してしまう程だ。
さて、これはまだ夏休みが始まる前の一風景……。
「今日は藤原さん手弁当なのですね」
「そうでーす。いーちゃんも一緒の内容です。頑張って作ったんですよー」
「藤原サンの、手作りデスか」
「そうなんです。毎日は無理ですけど、少しは修行しないとなって」
四宮かぐや、藤原千花、そこに同席していたのは柏木渚と津々美竜巻だ。クラスは違うが、ここ最近、彼女達は距離が近くなった。四人が四人とも『チクタクマン』事件関係者である。
岩傘調が津々美への、生徒からの悪評撤回に走った後。藤原千花は、以後の予防を自然とこなしていた。被害者である三人が仲良くしていれば、津々美への
一部の生徒(マスメディア部とか)が羨ましそうにハンカチを噛み締めている事など知らず、四人の女子高生の話は弾んでいた。
幾つかの話題の後、内容は藤原千花のお弁当の話になる。
「修行、ですか」
「そうですよ、かぐやさん。修行、花嫁修業です。人のお世話をするのは嫌じゃないんですよ私。お母様から『精魂を詰めすぎると長続きしないから習慣になる程度にね』って言われてるので、まずはお料理からです!」
「美味しそうですね。おかず交換しませんか? 藤原さん」
「良いですよー。ではこのハンバーグを上げましょう!」
「(……あら、このやり取り、前にあった気がしますね)」
かぐやが『あの頃はまだ季節が変わったばかりでしたね……』と思い出している横、藤原千花は、ハンバーグと豚角煮を交換している。
弁当の中身は、ちょっと荒い部分はあるが大体きちんと出来ていた。卵焼きが焦げていたりとか、野菜の歯応えがちょっと強かったりとか、紫蘇がちょっとしょっぱそうだとか、その位である。一口食べた柏木は『あ、美味しい』と頷いた。
食べてくれる人の顔を思えば、食事は丁寧に作る。当然だ。
「私は購買のサンドイッチ、デス。むむむ、交換できるものがありまセン」
「では此方をどうぞ。ポテサラです。これなら食パンと一緒で美味しいですよー」
「頂きマス。……藤原サンは良いお嫁さんになりマスね。良い味デス」
実際、藤原千花の世話焼きスキルは高いのだ。単純に、昔から岩傘調の世話を焼いている内に身に付いたというのが大きい。実際、かぐやの預かり知らぬ場所で、彼女は岩傘調と共に白銀御行の教育に奔走してもいる。その様子を見て、津々美は羨ましそうに呟いた。
それを耳聡く聞きつけた書記である。
「えへへ、すみません。最近、色々出来る様になって、はしゃいでるみたいです」
「成績も上がってましたね。私も翼君と一緒に勉強をしていますけど、藤原さんは岩傘さんが見てくれているって聞きました。それで揃って成績アップ、凄いですよー」
「そうなんですよー。……調さ……。……この顔ぶれなら良いですか。いーちゃん最近色々頑張ってるんです。だからって訳じゃ無いですけど、なんか張り切ってる姿を見ると応援したくなるじゃないですか。好きな人の為に頑張る姿、私好きなんです」
「藤原さんが、そういう風にガンガン主張するのは珍しい気がしますね」
親友:四宮かぐやの指摘に、彼女は『そうですね』と頷いた。
「アレは普段はいーちゃんが矢面に立ってるんですよ。……フランス姉妹校との歓迎会、あったじゃないですか。バレンタインのイベントでも良いです。いーちゃん、あーいう時ちょっと気合入れてやってるんですよ。本当はあんまり賑やかなの得意じゃないんです」
「そういえば昔は本ばかり読んでマシたね。いえ、今も乱読家デスけど」
「そうですよ。津々美さんは当時同じクラスだったので知ってますか。本当はあの人は、自分で盛り上がるんじゃなくて、皆が盛り上がってるのを見て喜ぶタイプなんです。ですけど! 私だけが盛り上がると色々言われるじゃないですか。TG部って悪評もありますし。――だから、いーちゃん、自分で前に出て惚気てるんですよ。矢面に立って風避けしてくれてるんです。実際、二人きりだと静かにイチャイチャしてますもん」
「イチャイチャしてるのは否定しないのね……」
しません! と彼女は親友に頷いた。
爛漫な笑顔だった。
今の関係も、今の環境も、楽しんでるんですよ、と彼女は友人達に告げた。
「いーちゃんは私が一番ですけど、私以外を蔑ろにしませんから。蔑ろにしないで、私を一番に扱ってくれますから。だから私も、それに乗らないとダメじゃないですか。周囲を不幸にするのはダメです。自分で言うのもなんですけど、
だから、藤原千花もまた、周囲が笑顔になれるように頑張るのだ、と。
「自分で言うものかしら、それ? ……
「良いじゃないですか、こういう場所でくらい。思い出とかエピソードなら山ほどあります! どれも馬鹿で抜けててドジで笑い話になるネタばっかりですけど、そーいうの積み重ねてきたんです。喧嘩したことも沢山ありますから。仲直り方法も色々あります。無いといえば……」
「無いと言えば、なんデス?」
「円満に別れる方法は分かりませんね」
今思えば、最初に柏木さんが来た時の相談に、完璧な答えを出すのは無理でしたー。
との言葉に、周囲に居た全員がそうかもねと頷いて、和気藹々とした昼食は続いていったのだ。
――そして今。
自室に、藤原千花が来た時、津々美竜巻は何故かそんな一幕を思い出した。
ハワイ。アルバイトとして雇われた彼女は、藤原家に同伴して、この島にやって来ている。
◆
岩傘調はネットサーフィンを切り上げ、部屋に戻っていった。入れ違いで、来たのだ。
空気が張り詰める音が聞こえた。
それを破ったのもまた、藤原千花だ。彼女は手を振って「まあ落ち着いて話をしましょう」と切り出す。顔に浮かべた微笑みは、決して無理をしている物ではなかった。
「そんな緊張しないで良いですよ津々美さん。別に怒りに来た訳でもないです。隠さないでも良いです。私、どうも前よりセンサーが敏感なので。いーちゃんの事を考えてるからかもしれません……。いーちゃんが浮気したのと、津々美さんが横恋慕するのは、別の話です」
「あの、分かっていマス。ルール違反デスから……。あの、すっぱり諦めるので……」
「諦められます?」
言い訳を重ねていた津々美は、顔を上げた。
優位に立つ女として、見下しているのではなかった。至極、真面目な顔だった。
「共通ルール。まず第一に、私といーちゃんは、周囲に不幸を撒きたくありません」
「いえデスが……」
「そしてもう一つ。別れる相談は出来ません。でも恋愛相談には乗れます」
藤原千花は、そうするのが当然であるというように津々美を見たのである。
「いーちゃんの事が気になるって女の子は、
「……いえ。千花サンなら、それはしなさそうデスね」
はい、ですので単刀直入に言います、と津々美に、彼女は告げたのだ。
「告白をしましょう。全力でやりましょう。全力で私がお膳立てします」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
冗談ではないかと思った。
「……はい?」
「正気で本気で言っています。……彼氏がいるからって諦められる人なら良いんですよ。でも津々美さんの
「で、デスけど」
「恋敵ですよ。分かってます。――そして更に言うなら、……そうですね。ある意味、非常に酷い提案をしている自覚もあります。だって私、心のどこかでは分かってるんです。いーちゃんは私を選ぶ。分かってます。分かってますよ! ……でも、だからって津々美さんを放置とか出来ません」
彼女の言葉は、真剣だった。何より真っすぐに津々美を見て居た。
その顔が強張っているのは、彼女の覚悟に他ならない。
女性の友情が破壊される最大の理由は男だという。恋愛強者がそれを知らない筈がない。
それでも自ら切り出した。其処に、津々美は断固たる意志を感じ取った。
「見て見ぬふりは出来ません。それは友達が、私の好きな人に向ける感情でも同じです。――此処で知らないと言ってしまったら! 此処で関係ないと突き放してしまったら! ……私は、この先、後悔します。友人を応援出来なかったんだと後悔をします。――
「……だから、私を応援するのデスか」
「します。津々美さんがフラれるまで応援します。勿論、私も一緒に行動しますけど。出来る限り気は使います」
「……私を応援しない罪悪感と――」
「フラ
藤原千花は、岩傘調の口癖を真似る。
「惚気る為には、周囲が幸せであって欲しい。――私も同じなんです。……私は、いーちゃんが、周囲を幸せにしたいと願うなら、それを手伝います。……もしも!」
はっきりと言葉に思いを込めて、彼女は津々美の前に、壁となって立ち塞がる。
否。それは壁では無かった。明確な経験と成長の差であり、女としての完成度の差だ。
「もしも、此処で何もしなかったら、私と津々美さんは互いに心残りを抱えたままになります。現状維持で、何にもなりません。ですけど、津々美さんが一歩踏み出したら、その先の結果は変わります。泣いた後で、笑える道が、私は欲しい」
違いますか、と彼女は言った。
恋愛で傷を負わない事なんか出来ない。告白や感情で苦しむこともあるだろう。
だけど笑う為には、どこかで何かを乗り越えなければいけない。
「――恋する乙女は強いと言います。ですが千花サンは恋も愛も知っているのデスね」
「伊達にあの惚気ずーっと付き合ってる訳じゃないんですよ」
津々美竜巻は、理解した。彼女にとって岩傘調と惚気る事と、彼への恋路を応援することは決して矛盾しないのだ。それは自信――岩傘調は己を選ぶという確信――ではない。
過去に何回も、会話や喧嘩を彼と積み重ねてきた結果、彼女が掴んだ『絆』の在り方だ。
藤原千花は知っている。好きな人と一緒に居られない辛さを知っている。誰かを選ぶ代わりに誰かを選ばない辛さを知っている。……津々美竜巻が知らない物を、知っている。
「……甘えて、良いデスか。藤原サン」
「千花で良いです。良いです。甘えて頼って下さい。……フラれた津々美さんと一緒に泣きましょう。私もその足でいーちゃんの元に行って、辛かったって泣きます。だから」
勝負も何も、最初から藤原千花が負ける可能性はない。
……冷酷だ、傲慢だ、偽善だ、侮辱だと、藤原千花を表現する言葉は幾らでも出てくるだろう。彼女がしている事はそういう事だ。この話を誰かが聞けば、必ずそう言って蔑むだろう。……だが、それを受ける覚悟で彼女は、津々美の元にやって来た。
――その真っすぐ見る目は。……私が欲しかった物デス。
本当に羨ましいと思った。
良い母になるだろう。だって本気で案じている。
自分が此処で『ふざけないで下さい何様のつもりですか!』と叫んでも、それを受け入れる。
その強さがある。
その愛情は、津々美が欲して止まなかった物だ。
自分に対して、見てくれて、未来を案じてくれて、笑える可能性を増やすために考える姿だ。
ずっと欲しかった物。
「……千花サン、頼ります。頼らせて下さい。……頑張りマス」
だから津々美竜巻は、藤原千花の提案に乗ったのだ。
◆
けれども悪意は、何時だってそんな決意を嘲笑う。
◆
マウナケア天文台群。正確に言えば山頂付近ではなく、その一キロ下(高度である)の、一般人が車でやってこれるよりちょっと先くらいの広場に付いた時は、もう良い時間だった。
天文台そのものは山頂、標高4200mの近辺にある。当然ながら研究者の宿泊施設とかはその下にある。標高3000mほどの位置が、観光客も訪れる名スポットだ。
厚着をした僕らは、頭上を見ないように意識しながら、地面にシートを敷く。
そうして寝転がった。
「……わぁ……」「……凄い……」「うん、凄い」「……綺麗デスね……」「………はい」
簡単な言葉しか出ない。語彙力が溶けてしまう。それ程の絶景があった。
雲一つもない夜空。月と星だけの世界。風も穏やかな天文台の近く。誰もが皆、言葉を失って空を見て居た。チープな感想しか出てこないほどに、輝く星空が其処にあった。
吐く息が微かに白くなるような気温なのに。
ともすれば空気の薄さを感じてしまう高さなのに。
手を伸ばせば届きそうな距離に、星が一面に散らばっている。月が小さく輝いている。銀河系の中心、天の川が輝いている。流れ星が見える。宝石のように、綺羅星のように、天に吸い込まれるような光が広がっている。遥か遠くにある、星が生きている証拠が、ある。
延々と見て居られる景色だった。
そのまま朝日が昇るまでずっと見て居られる景色があった。
「……止め時が見つからない」
「私もです……。……そういえば、少し先に、広場があるんですよ。行きません?」
「……治安的に少し不安だけど……夜20時か……大丈夫かな……」
「別に遠くじゃないです。……あそこですよ」
と指で示された先、数十メートルほど先に、確かに幾つかのベンチがあった。街灯は無いが、なくても問題がない程に星が明るいから移動に支障はない。憂さんとキーちゃんなら何かあれば飛んでくるだろう。
じゃあ、ちょっと行ってみるか。
そう思って起き上がり、件のベンチまで来て、腰かける。座って星を見るのもまた良い物だ。そうだよな千花、と、僕に続いて隣に座った相手に話しかけ――。
「……御免、てっきり千花かと」
「いえ、千花さんが背中を押してくれたのデス」
「背中ね……」
隣に座ったのは津々美だった。その顔が決意に満ちているように見える。いや、見えるのではない。何かを決意しているのだ。
……今朝から今までの流れで察せない程、僕は鈍くない。
確かにシチュエーション的には、これ以上のないうってつけの状況だ。
……無論。無論だ。
「あの、調さん。岩傘、調さん。話したいことが、あります」
「はい」
僕は彼女に目を合わせた。津々美は、口を開きかけて。
「失礼、ミス・竜巻ですね? ああ、よかった。見つけることが出来て安心しました」
割り込みが、入った。
◆
突然に、唐突に、見計らったかのようなタイミングで、邪魔をしながら、声が割り込んだ。
同時、僕と津々美を取り囲み、隔離させる警備員らしき男達が集まる。
中央、津々美に話しかけたのは、研究者と思わしき女性だ。顔立ちは東洋人の美女。胸元には研究員らしき証明書を掛けている。流暢な英語で、彼女は続ける。
「おい! 今、取込みちゅ」
「ええ! 私達は貴女を探していたのです。外ならぬ
空気が固まった。僕の「取り込み中だ」という言葉以上に、津々美の顔が、凍り付いた。
言葉の意味は分かった。ああ、分かったとも。津々美の両親が、津々美を確保しに動いたのだ。だが何故今だ。何故このタイミングだ! 思わず一歩出て、警備員と女を振り払おうとする。
ほぼ同時に、異変を察知した憂さんとキーちゃんが飛び込んできた。
「何者かは知りませんが、加減が利くとは」
「思わないで!」
「おっと、国際問題になりますよ? 我々はアメリカ国民ですから」
二人の頼れる戦力が警備員達を薙ぎ倒す前に、女の口から言葉が出た。
拳が、止まる。
その隙を突き、白衣の東洋人は、微笑みながら津々美にゆっくりと腕を伸ばして、確保する。
くすくすくすと微笑む。そして何処からか
「流石は日本屈指の名門校。手出しする危険性を理解しているようで何より。――先程もお話しをしましたが、私達は津々美家のご両親からのお願いで、ご息女を確保する約束をしました。正式な注文です。部外者は貴方達の方だとはご理解いただけますね」
その証拠が此方です、と女性はタブレットを見せる。それのどこが証拠になるんだ、とは言えなかった。
津々美の表情が何よりも明白に語っていた。写真と署名、更には音声まで。一切の加工や偽造ではない。『間違いなく自分の両親が、自分を捕まえる様に頼んだのだ』と告げていた。
「……事情は分かった。だが数分で良いから寄越せ。まだ話が終わっていない!」
「こちらの話はありませんよ。ご両親の主張はこうです。『大事な娘をかどわかして誘拐した人々から取り返して下さい』――貴方達を誘拐犯だと呼ぶ気すらあるようですね。まあ政治家とマスメディアを相手に、その辺の芸能人上りに、何が出来るかは、私でも失笑する話ですが――しかし、此処で暴れたら拗れますよ。ねえそうでしょう津々美竜巻さん、貴方が余計な抵抗をすれば、どうなるか、お判りでしょう?」
「聞くな津々美竜巻! こんな連中が来た時点で平穏な旅行は壊れたも同じだ! お前が消えても、そのまま旅行が継続するなんてことは無いぞ!」
僕の言葉に、はっとして顔を上げた津々美。
ああ、はっきり言ってやろう。さっきまでの余韻はぶち壊しだよ!
茶々を入れやがって。融通を効かせることもなく、こっちの話を聞こうともしない。そんな連中を相手に遠慮する必要がどこにある! 満天の星空というムードは消えた。津々美への醜いエゴが形になって襲い掛かってきたそれを、何故迎撃してはいけない!
だが女は意に返さなかった。聞き流し、抵抗しようと動いた津々美を指一本で抑え込むと、その顔を覗き込む。そうして一言だけで
「夢は夢のままの方が、良いでしょう?」
たった一言。その囁きで、津々美の身体が大きく強張った。
その顔が、余りにも痛そうだったから、僕は虚を突かれた。この時、何か指示をしていれば、直ちに優さんとキーちゃんは、警備員達を投げ、制圧し、津々美を強引にでも確保しようとしていただろう。……だけど出来なかったのだ。
代わりに、僕の傍らに来ていた千花が、凄い剣幕で吼えた。
「……津々美さん。――話をしましたよね。……逃げるんですか」
「……っ。……それハ」
「私が何のために、貴方の部屋まで行ったと思って『ストップですよ』」
パン! という鈍い音がして足元の瓦礫が
千花も衝撃に思わず黙り込む。見れば地面の瓦礫に、女の黒扇子が突き刺さっている。僕らの見ている前で、地面に突き刺さっていた扇は、しゅるしゅると蛇のようにのたうつ組紐に引っ張られ、女の袖に戻っていった。憂さんが微かに呟く。――合気……鉄扇柔術……と。
この女、戦闘力も相当あるらしい。憂さんが本気モードになって、キーちゃんを下げる位には。
「ストップですよ。――『
にこやかな言葉だったが、その場の僕らは悟った。
『脅しだ』。この女は「それ以上言うと怪我をするよ」と言っているのだ。
それでも一歩前に出た僕の腕を――正確に言えば、手首を掴む。関節部分を、ぎゅうと。
「其方の手練れは二人のみ。観光客と年端もいかない娘さん達は守れません。――加えて此処は私達の国。立場を弁えることです……ねぇ……?」
見た目に反して、強い握力だった。響く痛みに、それだけで動けなくなった。この女の方が傷害罪じゃねえか。思わず睨んだ僕の視線を、女は舐めるような瞳で受け止める。
至近距離でのメンチの切り合い。
それを僕が先に逸らしたのは、津々美が一歩、僕から距離を取ったからだ。
「……止めて下さい。素直に従います。――ですから、皆に怪我はさせないで下サイ。……もう、良いんデス。良い機会デシた。ほんの少しの思い出で、十分デス」
「津々美……?」
そんな顔をして、何を言っている。
肩を落として、息を吐き出した彼女の顔は、何か大事な物を諦めた顔をしていた。
「……楽しかったんです。どうせ先延ばしにするだけで、きっと親からは逃げられマセんから」
そんな目をして、何を話している。
お前はもっと、テンション高く、不敵に笑って何かをするような女だったはずだ。
「だから、この楽しかった思い出で、私は満足です」
「――ざけるなぁっ!!」
千花が叫んだ。僕よりも凄い形相だった。だけど津々美は、笑った。静かなその笑顔は、僕が見たことがない儚い笑顔だった。何かに謝るような顔だった。
……そんな顔をさせて、放っておけるかよ!
「津々美竜巻! 貴方は! 私達が、何を思って行動しているか知っている筈! それを」
「千花サン。――ご迷惑をおかけしました。気遣い、嬉しかったデス。……忘れません」
千花が呼ぶ。その千花にも、首を振って拒絶を示して、津々美は背を向けた。
小さくて震えている弱弱しい背中だった。ほんの僅かの距離。だというのに、この邪魔者達に阻まれて届かない。僕らが無鉄砲で、秀知院のような立場を持っていなくて、単純な力があれば、届いたのかもしれない。だけど。だけれども。
嘲るような黒扇子の女の言葉の通り、暴れても何にもならない。分かってしまった。
萌葉ちゃんや豊実姉を、藤原家の護衛さんが守り、憂さんとキーちゃんが暴れたとして。この女を制圧するのも一苦労。その時間で、全ての趨勢は決する。
そう。たった一言『ここは日本じゃないんだよ』の一言で、全ては決してしまうのだ。天文台の職員が、アメリカ国籍のこの女が、僕らを訴えれば、それこそ取り返しがつかない。
震えて立ち尽くす僕を見て、満足そうな顔をした女は、僕から津々美へと身体を向ける。
そのままエスコートをするように、車へと乗せた。
「……さよならデス。千花さん。調さん」
「では、引き続き、良いご旅行を」
そのまま、車は去っていった。
僕の前で、津々美竜巻は――遠くへと無理やり、連れ去られていった。
最後に、津々美の口が動くのが見えた。
ごめんなさい。と。
泣きながら、謝っているのが見えた。
◆
「……いーちゃん!」
「ああ。……くっそ、どうする。何をすれば良い? まず何からすれば良い!?」
頭が混乱する。連中の正体、津々美を確保した経緯、情報の漏洩、地の利、時間、今後の見通し。その他あらゆる要素が不透明すぎて何をすればいいのかも分からない。
突っ走って助けに行くには、余りにも八方塞がりだ。
下手に動いて警官に捕まるのは何としてでも避けねばならない。
「落ち着いて下さい。……連中の正体なら、分かりました」
「本当ですか憂さん!」
ええ、と頷く彼女は、すっと社員証を取り出した。
「さっき、警備員の胸元からスリました。あの連中が何処なのか、これで分かります」
慌てて憂さんから社員証を受け取り、そこに書かれていたパーソナルデータを確認する。
『カルテクサブミリ波天文台』の研究員。
他の情報よりも早く、僕はその一文で理解する。何故、このタイミングで津々美を回収しに来たのか。何故彼女の居場所がばれ、彼女を確保しにハワイの学者たちが動いたのか。
頭の中で多くの情報が整理されていく中、何より最初に出てきたのは、罵声だ。
「……あんの野郎……! あの女ぁっ!!」
例え四宮家の保護下に入っても、彼女の家に迷惑を掛けないだけで、嫌がらせと愉悦、そして事件を引き起こすのを辞める気はないらしい。
分かっていた筈だった。
邪神としての恐怖は既に無い。ポンコツでアホな高校生に過ぎない。
だがアレで終わる女ではないと。
自分で承知していたじゃないか。『また何れ動き出す』と。
それが夏休みになっただけだ。
カルテクサブミリ波天文台。
運営――
技術開発部に所属したあの女が、津々美の親との中継役をしやがったのだ!
言葉にならない憤怒の感情と共に、僕は拳を、己の膝に向けて振り下ろした。
くそったれめ!
――だけど、負けて吼えてるだけでは何も変わらない。
――僕は必死に頭をクールダウンさせ、方法を捻り出す。
――僕ら一人で無理なら。此処に居る皆だけでは無理なら。
提案に頷いた千花は、直ぐに手配を終えてくれた。千花も頭に来ていた。ご立腹だった。瞬く間に万穂さんを説得して了承を取りつかせ、有無を言わさない勢いで行動した。
二日後。夕方。ハワイ・コナ国際空港。JAL通用口。
そのゲートに近い座席に座り、僕は拳を握って待っている。
生半可な方法では、どうにもならない。一応、一つだけ手は打った。だが時間が足りない。
思い出すのは、黒い扇の女が告げた言葉と、その時の津々美の表情だ。
――夢は夢のままの方が良い。
――もう、良いんデス。良い機会デシた。ほんの少しの思い出で、十分デス。
十分の筈がない。彼女の顔は語っていた。同時に、諦めてしまったように乾いていた。
その瞳には、高いテンションは無く、普段の彼女らしさは無かった。あそこに居たのは、唯の『
あれが津々美であって堪るか!
僕は己に問いかける。
許せるか? 否。
放置しておけるか? 否。
このまま彼女に手を伸ばさずに終わるのか? 否。
否だ。どんな答えを出しても答えは否。このままで終わるか。このままで終わらせるか。
ああ、分かっているさ。だけど彼女はまだ
結果が分かっている答えを要求するのが残酷だ?
――そんな訳があるか!
ありもしない希望が、あるかもしれないと嘯かせる方がずっと残酷だ。
――僕の答えは、決まっている!
だけど。決まっているからこそ、言わなければいけないのだ。
言う権利が津々美竜巻にあるならば、それに対して返事をする権利は、僕にある。
飛行機が到着する。観光客の中に混ざって出てくる目当ての人物達を、出迎えた。
「事情は説明をした通りです」
「ハワイで俺達に何が出来るとも思えんがな。チケットを手配までされて頼まれたら断れん……家族全員分とはな」
「会長の言う通りですが。ええ、ですがやり方はあるという物。四宮の名に掛けましょう」
「……早く、終わらせましょう。僕は帰ってVRを買いたいんで」
「待ってました……! さあ、行きますよ! 津々美さんを助けに! 私今、すっごい怒ってるんです!」
そこに居たのは、白銀御行と、四宮かぐや。そして石上優。
これならば、きっと。
確証はないけど、その頼れる友人達を見れば、負ける気はしなかった。
待ってろよ、津々美。
僕と千花が、お前を悪夢から覚まさせてやる。
夢を見る権利は誰にでもある。
夢から覚める義務は、夢見た人間が背負わねばならない。
Q:ではなぜ人は夢を見るのかって?
A:――――――――――――――
PS:クルーシュチャって物凄く嫌な奴だなと筆者も思った。