誰かの手で奏でられるのを只管に待つのか。
自分自身で奏でてくれる相手を探すのか。
さて、どっちを選ぶ?
「あのねぇ、竜巻をあれこれする権利があるのは
同じ目だ、と思った。
白銀御行は知っている。あの目をした大人を知っている。
今、岩傘調が対峙する、美女を観察しながら思う。彼は四宮かぐや・石上優・藤原千花の三人と廊下の影で様子を伺っている。
会話がヒートアップする前、話を切り出す前に、彼が『少し離れていて』と訴えたのだ。
只管に罵られ、場合によってはみっともない姿を見せるとなれば、気持ちは分かる。こっちを巻き込んだ自責もあるのだろう。独りで罵詈雑言の嵐を受けるつもりなのだ。
(あれは……あれは、己の意に沿わない子供に失望をする目だ)
嘗て御行自身も味わったことがある。幼等部の受験、初等部の受験、度重なる失敗のたびに、彼の母は失望を瞳に浮かべていた。その傷は今も心に強く残っている。
津々美の母と、己の母の違いは僅かだ。
津々美の母は「己の言う事を聞かせようした」。
己の母は「自分に期待をせず
其処に大きな差はない。どちらが良いというのは不毛な、芝争いにしかならない。
結局、母は出て行った。妹を連れて出て行った。そして妹だけ戻ってきた。事実を並べるだけで、彼の母が如何なる人物なのか、他人でも察せるというものだ。
……思えば、津々美竜巻が巻き込まれた事情を聴き、即座に了承をしたのは――親友:岩傘調からの頼みに、藤原千花が手配を整えるほどの重大問題という以外に――彼女への、共感もあったのかもしれない。己と同じ境遇の彼女を、放置出来なかったのかもしれない。
自分と、母と関係は、口に出せる物でも、言葉で言えるものでもない。未だに離縁をしていない父に関しても文句はあるが、今更具体的に説明をするのも面倒だ。だが。
津々美は、まだ大丈夫だ。まだ取り返しがつく。親子の関係を修復するのは無理でも、致命的な傷を負うのは防げる。己が負った傷は、あの苦しみは、今も半ば強迫観念のように苛んでいる。恐らく母と会わない限り、これは払拭されないだろう。払拭されるまで、延々と焦げたような痛みは、心を抉り続ける。だが津々美は。
津々美竜巻は――まだ傷が治る。心が折れて、唯々諾々と親に従うだけの人形には、ならないでいる。だから己は、背中を押そう。彼女を助けようと努力する親友の背中を押そう。
(負けるなよ岩傘……!)
相手は、大人の女だ。分かりやすいが、酷く厄介な存在だ。
矢面に立ち、説得・交渉をするのは生半可なことではない。此処は公共の場だが、公式の場ではないのだ。そして親権という最大の武器を、相手が持っている。
岩傘の家のお手伝いさんや、藤原家・四宮家の使用人達が奮戦したおかげで、『場』を整えられていないだけマシだ。最大の、この研究所の関係者という脅威が居ない。
本当は、今すぐにでも出て行って解決の口添えをしてやりたかった。
だがそれは出来ない。出て行ったら確実に巻き込まれる。
岩傘調一人なら「彼が勝手にやったことです」と言い張れる。だが此処で出て行って巻き込まれては……見学許可を取った手前、学園に泥を塗る行為になりかねない。
『秀知院の生徒会長が、国外の研究機関で大ポカをやらかして叱責された』。
このスキャンダルだけでアウトだ。広報が勝手にやったことですと言い張れる範疇にしなければならない。飛び出したくなる衝動をぐっとこらえていた。出て行かないように、と御行の服をしっかと握る、副会長:四宮かぐやも同じことを思っているだろう。
親しい友人を悪し様に言われ、何の感情も浮かばないほど、この場の全員は冷酷ではない。
道はある。突破口はある。耐えさえすれば作戦はなる。後は時間だ。
時計の針が進む中、稼げるだけ稼ぐ。故に岩傘調は、食い下がる。
だから白銀御行は、静かに、拳を握った。
(もう少しだ……。もう少しだと
逆転に向け、白銀御行は、心の中で親友へ檄を飛ばす。
同じ目を受けた者として、苦しんだ過去を持つ者として。
負けるな、と。
◆
「津々美津波さん。秀知院学園の生徒会で、広報を務めています岩傘調と言います。――お忙しい中とは思いますが、お話があります。お願いします!」
「……ふうん、まあ言ってみなさい? 短くね」
始まりはまだ順調だった。
まずは、お願いからだ。若さと情熱を感じさせるように、頭を下げる。
どんな相手でも礼儀を大事に。間違っても言動で皮肉を感じさせてはいけない。相手の琴線に触れる様に動く必要がある。それも演技を作ってはいけない。難易度はベリーハードだがやるしかない。因みに全部敬語じゃないのは意図的だ。慇懃無礼にならないように心掛けたのだ。
美人であることは認めよう。津々美に似ておでこを出した、髪の長い妙齢の女性。目鼻立ちはすっとしているし、眼鏡の津々美と違って目付きも良い。ちょっと化粧が濃いが許容の範囲内だし、かなりの若作り。年齢を加味したとしたら相当努力をしている。体系もモデル体型で、衣服も装飾も金がかかっている。外見は実に良い女性だ。外見は。
……人間の本質は眼である、とよく言われる。
僕はまだ高校二年生の若造だが、それでも気に入る奴、気に入らない奴の区別は出来る。そういうカテゴリで言えば、僕の気に入らなそうな人間だった。……だがしかし、所詮は第一印象だ。会話をしてみれば意外と会話が通じる可能性はある。だから固定観念は捨てる。
顔を上げて、目を合わせ、続けた。
「津々美さんの海外留学を、少しだけ待って頂けませんか」
「はあぁ? 何アンタ」
初手からの見下し及び「アンタ」呼ばわり。
あ、これ話が合わない奴だ、と思ったが、我慢する。
あれこれと変なアプローチをする事も考えた。が、僕には難易度が高い。……僕が大人で権力があれば使うし、財力があれば手土産を持参しただろう。だが手持ちの材料で戦うしかない以上、小細工は相手の心象を悪くする。日本ならまだしも此処はアメリカだし。
まして相手は芸能人だ。どんな裏技を使っていたかは知らないが、海千山千の芸能界で一時流行を走っていたという事は、僕なんかでは想像も出来ない搦め手を駆使されたこともあるだろう。見破られるに決まっているのだ。
天文台への侵入は、御行氏とかぐや嬢とが人脈を駆使して許可を取り付けた。石上が津々美母の来訪時間を割り出し、千花が偶然を装って彼女に接触した。《
津々美が天文台のどこかに居るのは間違いがないが……館内図が手元にある筈もない。彼女が自分で脱出できる状況でもないだろう。であれば、タイミングは今ここだけだ。この場を逃せば、津々美はもう、遠く離れて行ってしまう。
「何を言うかと思えば、また馬鹿なことを。家庭の事情に口を突っ込まないで下さる?」
「その通りです。部外者だと理解しています。それでも聞いて欲しいんです」
はあ? という鬱陶しそうな顔をした。美女なのに、その態度が似合う。鼻に付く。目が細まって、一気に態度が悪くなった。高慢さからの見下し。肌で感じ取る。
言葉が降りかかる前に、僕はまず一枚目のカードを切り出した。
「津々美さんは学園で大きな活躍をしてくれています。生徒会として彼女が離れていくのは余りに惜しい。彼女の転校を悲しむ声は僕ら以外にも大勢います。せめて別れの挨拶をしたいという声は、十や二十ではありません」
「……で、何それ?」
「声を集めました。アンケートです。応えてくれれば皆、感謝すると思います」
差し出したのは一枚の紙。ネット上で、信頼できる人間に声を掛け、集めた嘆願書だ。
元会計の龍珠桃を始め、津々美母ならば無視できないVIPの名前をずらっと並べておいた。
彼ら彼女らに此処で恩を売っておくのが大事だと利益を示す。これはジャブだ。話を聞いてくれる切っ掛け。効果は――あったらしい。ほんの少しだけ、目に迷いが浮かぶ。
……ちょっと不可解には思っていたのだ。
津々美を海外に留学させて『箔を付ける』。これは分かる。
津々美父が、娘を思って(身勝手ではあるが)より高い学術機関を進める。これも分かる。
だが秀知院から海外に突然に向かわせるデメリット――この場合は「得られたはずの利益」を無視するという意味だ――これを無視した理由が分からない。津々美の両親は、何かしらそこにメリットを見出したから、さっさと夏休みの間に行ってしまえと指示を出した。
それは、何か?
チクタクマン事件はあるとして。彼女の盛り上げ役としての仕事じゃないかなと思う。例えばバレンタイン時のドローン操作とか。そういう
仮にそれは事実なら、僕にだって責任はある。僕が無茶ぶりをした結果も何割かはある。
「少なくとも、津々美さんが居ることで学園内の風紀が乱れたり、注意が飛ぶことはありません。これは生徒会として保証します。彼女が居る事を、生徒の皆は歓迎しています!」
「……あっそ。其処まで引き留めてくれるのは嬉しいけど、これは決めたことよ。私は竜巻がより幸せになる方法を取らなきゃいけないの。分かるわよねぇ?」
「それは、分かります」
男性は理論で説得できる。だが女性は理論を駆使しても「感情」が納得しないと頷かない。必要なのは理路整然とした説明ではなく、同意と共感だ。
だから頷くしかない。
頷いて、そのまま二枚目のカードを切った。
「実は既に、竜巻さんが国際的な場で動ける立場だとしたら、如何でしょう」
「……なんですって?」
◆
石上に頼んで纏めてもらった「説得材料」を出す。其処に書かれているのは、津々美が取得した特許の一覧だ。日本国内では既に特許が取れているコレらは、このまま国外に持ち出して通用する。むしろ欲しがっている人間の方が多い。
語った。津々美竜巻は手放すのではなく、手元に置いて値段を吊り上げるべきである、と。
彼女を物みたいに扱うのは僕にとって非常に不本意だが、この言い方は津々美母に効果がある筈だ。他でもない彼女が、津々美を一番に道具扱いしているのだから。
僕の主張に、再び彼女は考える姿勢を見せる。此処までは何とか良い具合だ。
……いけるか? と内心で思い。
そして直後に、その考えは裏切られた。
それなりにちゃんとした内容を並べたが、目の前の女は、それらを壊す一言を吐く。
「それで貴方と竜巻は、どんな関係なの? ただの生徒会役員にしては主張が激しいけど」
「…………。大事な、友人ですよ」
ふうん、とでも言いそうな顔だった。あっそう、と彼女の顔が歪んだ。
まあ、そうだよな、それ聞いてくるよな。
此処で素直に僕が『津々美と交際しています』とか言えたのならば、多分解決したのだろう。
でもそれは言えない。
何が何でも言えない。不利になると分かっていても言えない。
……女は感情で動く。感情の機微に聡い。僕の気持ちが、彼女の益になるならば乗ってきただろう。逆説的に言えば、僕のこれらの行動が理性/計算であると見破られた。
そして判明してからは、相手の女からの言葉は、酷く遠慮のない――悪辣な物に変わった。
「さっきからべらべらと感心する内容を吐いていたと思ったら、所詮は子供の寝言だったわねぇ。要するにお友達が居なくなるのを我慢出来ないっていうだけの話じゃない。男の癖に、未練がましく女が去っていくのを見送れないとか見っともないにも程があるわぁ……」
イニシアチブを握るや否や、居丈高になって言葉を浴びせてくる。
顔には本音が見え隠れていた。
『理由は知らないけど、娘に執着しているこの男は、逆らえない』
『少しは反省させてやりましょう。逆らう奴を虐めるのは愉しいわねえ!』
性悪という表現は、きっとこういう時に相応しいのだろう。こんな親を嫌う気持ちも分かる。
僕はじっと耐えた。
「あのね? 私は竜巻のお母さんなの。分かる? お母さん。親、な、の、よ。だから貴方の意見を聞いたけど、それを叶えるかは私次第なの。ちょーっとは考えてあげようかなとか思ったのよ? でも唯の友人なら、後で竜巻に、貴方がそう言ってたって伝えておいてあげるだけで十分よね? それとも実は違うんですーっていうかしらぁ?」
気分が悪い、物言いだった。
彼女にとって竜巻は、唯の道具でしかないというのに。
だというのに面の皮が厚く、親としての権利を話し、此方を攻めてくる。優位に立ったこの女は――恐らく説得
反論したくなったが、奥歯を噛み締めて耐えた。落ち着かせる。自分を冷静に保つ。
……津々美の母が毒親だと知っていたはずだ。
そこから助けるなら、自分がそのダメージから逃れられると思うな!
「大体、人生を思って発言しているのに、あの娘も、貴方も、余計な口出しをし過ぎなのよ。それに比べたら旦那はまだ素直。どうしてあんな風に育ったのかしらね! 育ててやった恩義も忘れて家出をするわ! 知人の男の元に転がり込んで居座るわ! 尻の軽さに反吐が出るわねぇ。貴方もどうせ篭絡された口なんでしょ? 特許だのなんだと言ってたケド貴方も利権が欲しいんでしょ? え?」
あんまりにもアンマリな物言いが続く。
この女には、理解が出来ないのだろう。
この女の目には、自分の利益になる人物か、自分の敵かしか、存在しないのだ。損得と金と権力にしか興味がないのだ。
僕と津々美竜巻の間にある『友情』を理解できないのだ。
いや本当、皆を下がらせておいて良かった。会話に入る前、恐らくこういう事があるだろうと思って皆は他所に行って貰っている。天文台の見学は、今は休憩時間だから問題がないし、この辺は職員が来ない場所だ。そう言う場所まで頑張って誘導したのだ。だから障害はない。
……そんな状態だ。泥を被るのは僕だけで良い。
それにこの暴言の嵐、かぐや嬢辺りが聞いたら、処刑待ったなしである。
本音を言えば。頭によぎらなかったと言えば、嘘になる。この場に、まず生徒会の面々を揃え、全員で一緒に説得を、とプランも考えた。
その場合、今みたいな暴言を浴びることもない。というか津々美の母は外面を厚くして笑顔で応対し、彼女をこちらに連れてくると思う。この場は即座に収まるし、津々美は無事に回収出来て夏休みが再スタートだ。
でも! 其れでは! 何も変わらない!
この女の執着、津々美を見る「道具としての視線」……それらから津々美を解放できない。
出来たとしてそれは一瞬の事だ。
『暫くしたら今回と同じようなことになるから、その時までに準備を整えておこう』
なんて風に、迎える彼女に言えるわけがない!
心の中に疲労が積もっていくのを感じながら、それでも様子を伺う。耐える。
「最初から素直に言ってくれば聞いてやったかもしれないのにねぇ。小細工なんかするから悪いのよ? 貴方が悪い! ……まぁ私は寛大だから、貴方がお願いするなら考えてあげないでもないわ。でも、それには相応の態度があるわよねぇ」
「態度、ですか」
いけしゃあしゃあと、此処まで身勝手に振る舞えるのは逆に凄いとすら思った。洒落にはならないが。……この女は多分、過去にも同じようなことをしていたのだろう。
インテリ系芸能人で通していたと聞いていたが、この性根の悪さ、見破られたら炎上モノだ。いやバレつつあったから津々美父を篭絡して地位を維持したんだっけ。……嫌になる。
「そう、態度。此処には誰もいないようだし? 人目をはばからず、何をすればいいのか、その頭で考えてみなさぁい?」
「…………」
どんな結果になるかは予想が付く。だがやらなければならない時があるならやろう。
『さっき津々美との関係は否定したのに、今は頭を下げられるのか?』
そう疑問に思う人間はきっといるだろう。
逆の方が楽だ、その矜持を曲げた方が良いだろう、いう意見はあると思う。
『津々美と交際している』と小さく嘘をつき、頭を下げるのを回避する。
そんな賢い人間も、居ると思う。
……だけど、それは僕には、絶対に出来ない。やってはいけない絶対の不文律だ。
どんなに無駄でも。どんなにおかしいと指摘されても。
僕にだって譲れない感情と、矜持がある。
ここで頭を下げることを、僕は厭わない。
「……お願いします」
躊躇せず、膝をついて、手を揃え、頭を下げた。土下座という形だ。
みっともないとは思わない。必要ならば、幾らでも頭を下げよう。僕はこういう時に頭を下げることは苦ではない。
答えが分かり切っていても、それでも、しなければならない時はある。
向こうは若干、鼻白んだ様子だったが、直ぐに嘲るような顔になった。
「どうしようかしらねぇ、考えるとは言ったけどねぇ……。……やっぱダメね!」
予想通りの答えが返ってきた。
分かっていたさ。こういう奴がこういう風に言うだなんて。
黙って行動した僕を、理解不能な汚物でも見る様だった。
理解されようとは思わない。
僕の中で一貫した芯として存在していて、それを貫けるなら構うものか。
だけどその後に続いた一言は、タブーに触れた。
「……貴方みたいな人間が居るなんて生徒会とやらも大したことはないのねぇ。話に聞けば庶民の会長が牛耳ってるんだって? それに従うメンバーもメンバーよ。私がその場に居たらさっさと蹴落として実権を握るわ」
「………っ」
「本当に、
頭の中で、何かが切れた音が聞こえた気がした。
◆
僕にだって、逆鱗の一つや二つくらい、ある。
その瞬間、僕は思った。
――なんでこんなことに耐えているんだっけ? と。
――うん、確か津々美を助けるためだ。その為に津々美母を説得して、彼女に自由を上げたいと思ったんだ。普通にやっただけでは接触出来ないから頑張って天文台に入って、普通にやっただけでは津々美を、母の呪縛から逃がすことが出来ないから、何かと工夫をした。
――だけど、頑張ったよな?
――言葉を尽くしたし、我慢したし、頭下げたし、耐えたし、土下座までしたわけだ。
――うん、もう良いよな?
――僕は、まだ良い。僕が被害を受けるなら良い。だけど今こいつは。
「…………れ」
「はぁ?」
「ちょっと黙れよ、
――今こいつは、僕の周囲を馬鹿にしたのだ。
――ふざけるな。ふざけるな! ふざけるなふざけるなふざけるな!
御行氏とかぐや嬢が、どんな覚悟であの場所に居るか、知らないだろう。
あの二人の“お可愛い”やり取りが、僕と千花の楽しみになっているか知らないだろう。
どれだけの努力をしている人間が居るかを知らないだろう。
どれ程に頑張って青春を過ごしている人間が居るか知らないだろう。
御行氏だけじゃない。かぐや嬢や、千花や、石上や、そういう皆が、色々な努力をして、学園の為に動いて、誰かの為に全力で、それらを楽しく受け入れて過ごしている!
そして僕らはそれを誇りに思っている!
それを見ず知らずの女に好き勝手に言われ、平静を保てるほど、僕は自制心が強くない!
確かに目の前の女も、相応の努力はしているんだろうさ!
上層階級で生きるのに必死なんだろうさ!
だから僕は、この津々美母を貶すつもりなんかない。人と人を繋げる広報とは言え、生きている世界が違う人間を、無理やり引きずり込むつもりなんかない。
だが同時に、そこまで馬鹿にされる筋合いだってないんだ。
この女が持っているのは津々美に関して主張する権利だけだ。
秀知院に対して、友人達に対して、そんなことを
うっかりだろうが、その本音は、言ってはいけない一言だ。
ふざけるんじゃねえ。
「オ、オバ、あんた何を言って」
やかましい! 一気呵成に、僕の口から耐えた分の言葉が溢れていく。
「聞こえなかったら言ってやろうか、このクソババアが……! さっきから聞いていればベラベラと好き勝手なことを言ってくれたな? 津々美の母だからって遠慮していた僕が馬鹿だった! ああバカだったよ! 目の前に居るのが人間だと思って接していたんだからなあ!」
許容範囲を超えたと、向こうがやっと気付いた。遅いよ。遅すぎるわ!
逆ギレされると思っていなかったのだ。こっちの若さを見誤り過ぎだ。馬鹿め。
僕の余りの剣幕に、津々美の母は、怯えて一歩、引き下がった。腐ってもこっちは男子高校生。体格で既に勝っている。
きっと眼鏡でも消しきれないくらい、眼力が強まっている。
本気で怒ることは滅多にない僕だが――今のこれは、クルーシュチャへの怒りとは別種のものだ。邪魔だとか、鬱陶しいとか、悪意に対する義憤ではない。もっと直接的な。
――このクソアマを殴らせろ! という衝動だった。
拳を握る。背後で様子を伺っていた生徒会メンバーが顔色を変えたが、間に合わない。
だけど。
僕の拳は、結局、彼女に振り下ろされることはなかった。
「おっと取り込み中だったようだな。でも悪いな、話はこっちで引き継ぐ」
僕と彼女の間に割り込んだ、男性が、僕の腕を掴んでいた。
何か月ぶりかに見る顔。
そこで僕は、立ち上る気炎が徐々に収まっていくと同時に、理解する。
――最後の切札が、間に合ってくれた、と。
「あ、貴方、何!? こ、この男は今、私を殴ろうとしたのよ!」
「状況は知ってるさ。だから落ち着けよ。……俺は、津々美竜巻さんをスカウトしに来た者だ」
そう言って、クロウさんは不敵に笑った。
◆
津々美に対する解決方法。頭に浮かべたプランは、津々美母を説得するという以外に、もう一つあった。空港で出迎えた時に行った『時間が足りない』というプランがそれだ。
海外留学を撤回させることが出来ないならば、海外留学の手配をこっちでしてしまえ――という非常に乱暴な作戦だ。だが別に、絶対に成功必須の作戦ではない。
要するに津々美の母が思い止まれば良いのだ。大学側から好条件を渡され、それを無下に出来る程に、彼女は器が大きくない。スカウトしてきた相手が世界的名門校で、専門分野にも役立つとなれば猶の事だ。
こっち側の手配、提案を受けるかどうかは津々美次第。
だが津々美母にしてみれば『箔が付き、大学側からの大きな手土産があり、自分に損を与えない』という最低ラインが保証されていれば――それも津々美本人も乗り気になるだろう条件だと確信出来るのならば――安堵して、意見を撤回するだろうと踏んでいた。
大学側からの要望という形で進めれば、津々美の留学はコントロールが出来る。
津々美母は、建前さえあれば良いのだ。だから、津々美が後から『やっぱなしで』と言い出すまで、幾らでも時間は稼ぎ放題。後は手配でも家出の準備でも好きなように、である。
母さえ何とか解決すれば、津々美父の方を説得するのは容易かろうさ。
それに日本とは関係がない、海外の名家から、直々に話を持ってこられたならば、確実に転ぶと思った。クロウさんは実に格好良い男だし(
僕のプレゼンで、彼女が学園に居ることでデメリットが生じることはない、とは伝わっている。
『津々美? ああ、確かお前が電池論文を貸した娘だな。その後、パポーディの内燃機関の論文とか、ギャマル・ウッドブリッジの液体燃料論文とか、色々と貸し出してたな』
『そうです。彼女からのお礼と論文は、そっちに送られている筈です。才能がお眼鏡にかなっていると思います。スカウトして頂けませんか』
『……偉く切羽詰まっているな。事情を話せ』
津々美が僕からあれこれ論文を借りて、変な物を作成していたのは承知の通り。
それからも色々と貸したり返却されたりとしていた。そして返却時、お礼として研究論文も添えていたのだ。英語のみならずドイツ語まで駆使して論述されたそれは、ミスカトニック大学が『是非とも』と勧誘するのには十分過ぎた。
……とはいえ、かなり時間的にはギリギリだった。
元々が市長と財閥総帥と探偵を同時並行しているような人。
いきなり連絡を入れてスケジュールが空いているか、空いていたとして来訪が可能か、そもそも連絡が付くのか。ハードルは多かった。多かったが、こればかりは幸運だった。
数日の内に来てくれる、と返事があったのだ。上手く合流できず、このタイミングになってしまったが、むしろ良く間に合ってくれた……と思う。目の前の津々美母と比較して、色んな意味でレベルが違い過ぎる大人だ。感謝しかない。
「いーちゃん、良く我慢しましたね……」
「我慢出来たらよかったんだけどね」
「いっそ殴ってしまえばよかったですのに広報」
「言わないで下さい、かぐや嬢。……僕も殴っておきたいと思いましたが、結果的に殴らないで済んだんですから。僕は出来る限り女に怪我はさせたくないんです」
「イクサには?」
「自分が邪神とか名乗ってるアホはセーフでしょう」
クロウさんが津々美母を引っ張って別室であれこれと会話をしている中、僕は皆と合流した。
どっと身体に押し寄せた疲労で、壁にへたり込んでずるずると座り込む。悪意ある言葉というのは、時として、本物の刃より深く心に傷を残す。時間にしてほんの一時間もないのだが、その間、延々と罵詈雑言を浴びていたわけで、それはもう……とても疲れた。
あの数秒遅かったら、カッとなって殴り飛ばしていただろう。
それはそれですっきりしたと思うが、遺恨にならないなら結果オーライだ。
僕の怒りは他の皆も抱いていたようで、特にかぐや嬢は、御行氏に見えない位置で、これまた黒く微笑んでいた。……まあ御行氏への暴言だものな。日本に帰国後、多分地味な報復が待ち構えているだろうさ。
津々美が無事なら、僕が言う事ではない。
津々美母が
「ほれ、飲め。其処の自販機で買ってきた」
「ありがと。……もうちょっと頑張る。アイツを出迎えるまでな」
御行氏が瓶コーラを渡してくれたので、受け取った。素直に蓋を開けて飲む。
喉を滑り落ちていく冷たい炭酸が、体のずしりとした重さを僅かばかり癒してくれた。
クロウさんの立場と権威を使えば、津々美母を説得するのは簡単だろう。その辺、僕よりも抜かりなく立ち振る舞える人だ。巷の噂では
津々美を助けるには、これ以上のない援軍だ。
そんな事を考えて、ふっと意識を飛ばしていると、千花に揺り起こされた。
「いーちゃん。竜巻さん、来るみたいです」
疲労の余り、一瞬意識が飛んでいた。見れば30分ほど、更に時間が経過している。その間、どうやらクロウさんは津々美母を説得し終わったようだ。
今、係の人が津々美を迎えに行っている、とのこと。僕は石上の手を借りて立ち上がった。
「うん。……そんじゃ、行ってくる。……ちょっと、話をしてくるよ」
千花は「頑張ってね」とは言わなかった。言うだけ野暮だと知っている。
数刻前までは見えなかった、天文台の学者さん達の姿が、周囲に表れていた。こちらの休憩時間が終わったことに加えて、クロウさんが《R・F》による暗示を解いてくれたのもあるのだろう。流暢な英語で、あれこれと話をしている。
どうやら此方のアポは正式に受理されたままのようだし、今回の事件が異常であるとも認識されていない。応対はかぐや嬢と千花に任せよう。
津々美を連れて帰れば、それで終わりだ。天文台への迷惑はこれ以上は掛けられない。
立ち上がり、クロウさん(すっかり篭絡されて大人しくなった津々美母が同伴して居た)とすれ違い、目でお礼を告げる。気にすんなよ、と返事が来た。
そのまま歩いていく。掃除が行き届いた、雑多な荷物が時折積まれた廊下を進む。
目を廊下の奥に向けるのと、最奥部の扉が開いたのは、ほぼ同時だった。
「あ、……調、さん……!」
彼女は、駆けた。
そして彼女は、そのまま飛び込んできた。飛びついてきた。咄嗟、受け止める。
僕はそのまま、彼女を静かに床に降ろして、向かい合った。
「うん。……色々あったけど、迎えに来た。言いたい事が、あると思ってさ」
「途中で折れそうになりましたが、何とか復活しました。大丈夫、元気デス!」
「そっか。じゃあ……」
彼女も己を取り戻したようだ。
ならば、することはたった一つだ。
あの時の話の続きをしよう。
決着を付けようか、津々美竜巻。
投稿時最新話(2019年YJ23号)のネタもしっかり入れていく派。
次回、第二の試練終了です。