ラーメンが食べたい。
起きて最初に思ったのが、それだった。
「むにゃ……むー……もぞもぞ……」
腕に引っ付いている千花は僕を離さない。しょうがないので寝たまま思考を巡らせる。
時計の針は夜20時過ぎ。まだ近所の店は開いているだろう。
タクシーから降りた僕らは、時差ボケの頭を引っ張ってそのまま布団に潜り込んだのだ。それから更に三時間が経過。変な時間に寝ると変な時間に目が覚める物で、何となくふと目を覚ましたのである。
目が慣れてきた。見慣れないようで見慣れた部屋の天井が、ぼんやりと入ってくる。
そのまま朝まで寝てしまおうかな、と時間を確認し、その辺にあったペットボトルで喉を潤した時、自分のお腹が空っぽだと気付いた。……飛行機から降りる直前、一食を済ませていたが、それから何も食べていない。
ハワイの日々は楽しかったが、やはり食べなれた味が恋しくなる物。ラーメンとかカレーとか、和食とか洋食とか、もっと言えば米と麺が食べたい。日本の味が食べたい。
ハワイにも和食屋やラーメン屋はあったが、それはそれ、これはこれ。やはり此処は、薄汚れた都会の街並みの中、ひっそりと佇み労働者の食欲を満たす、決して大きくもなければ豪華でもない、しかし確実に客が入る、そんな店に足を運ぶべきではないだろうか。
思い立ったら食べたくなってしょうがなかった。
「……うへへへ、いーちゃんてば何をネコミミ付けてるんですかぁ……うぇひひ……すかー」
僕にしがみつく様に寝ている千花は一体どんな夢を見て居るのか。
そこで改めて事実を把握する。
(……そういえば、一緒に寝てたなあ)
成田空港に付いたのが午後三時ごろ。
空港から家まで、距離で約70キロ。高速道路を使っても一時間以上はかかる。お財布にも余裕はある。かくて僕と千花は黒塗りの高級タクシーに荷物を積み込むと、後部座席で仲良く眠って家まで戻ってきた。
タクシーの中で熟睡していたのもあって、料金のお釣りを貰うのもそこそこに、ふらふらになりながら藤原家に入った。使用人さん達の目を気にせず、一緒だった。そのまま今に至るのだ。
うっかり流れで同じ部屋に入り、うっかり同じ部屋のまま、うっかりで適当に荷物を放り投げ、同じタイミングで布団に潜り込んでいた。
勿論互いにちゃんと服は着ている。熟睡していて濡れ場を作る余裕なんかなかったし。
……しかしうっかりで同衾してしまう辺り、ちょっと不味いか?
「むにゃむにゃ……だめですよぉ……我が家では門松はツリーとセットなのでぇ……プレゼントとお年玉はセットになりゅふふ……贈りもの二びゃい……わ・た・ひ……すやすや」
……いやまあ今更で、別に何時も通りだな? と思った。
一線を越えた越えないに関わらず、僕と千花が一緒に寝るのは良くあること。どんな夢を見てるんだろうか、と疑問に思うのも今更の話だった。
口元がだらしなく弛緩して笑っているので、そのまま頬っぺたを摘まんでみた。
おお、すべすべでもちもち。柔らかい。良く伸びる。
ぐにーぐにーと引っ張ると千花の表情は自在に変わる。
僕の悪戯に眉が動いたが、寝ているようだ。口を開けて涎が枕に垂れている、ちょっとばかりみっともない寝顔だったが、それも僕だけが見れる役得だ。
半開きの口が、むにゃむにゃと、変わらず意味をなさず呟いていたので、僕は行動した。
――すっと人差し指を、千花の口元に。
「あむ……、……むにゃ……あむ……」
はくり、と指が第一関節まで咥えこまれた。
そのまま、じっとしていると、指がそのまま、はむはむと甘噛みされる。
時々ちょっと吸われたり、舐められたりする。
……うん、良いね。とても良いね! 噛まれると危ないので唇の中、歯の手前で止めているが、とても良い。エロ可愛い。何となく空いた手で寝ている千花の髪を弄りながら、この状況に至るまでを思い出す。
現在は8月17日。
千花と同じ部屋、同じベッドの中でいちゃいちゃしてから四日後と言い換えてもいい。
お盆シーズンも終わり飛行機に余裕が出たところで、僕らは日本へと帰国した。憂さん&
三日後、20日には生徒会メンバーで夏祭りに行こうと約束をしてある。
ここらで帰宅し時差ボケを回復させておかないと、中々夏休み最後の時間を過ごすのに辛い。ハワイとの時差が19時間あるくせに飛行機の中では9時間だから、もう身体がおかしなことになってしょうがないのだ。眠い。凄く眠い。僕も千花も欠伸をしっぱなしだった。
『……寝かせてくれなかったのは誰ですっけ?』
『僕ばかり悪いみたいに言うの止めてね? 千花の方から誘った日あったよね?』
僕の指摘に、千花はほんのりと頬を染めてそっぽを向いた。
一線を越えると二回目を越えるのに躊躇が無くなる。互いに高校生で若いし。流石に発情しっぱなしという事は断じてないが、千花の方から乗ってきた日があったのは確かである。
『…………何時ものノリで話すと爆弾落としそうですね』
『そだね。何処まで隠すかは難しいね』
『誤魔化せるときは誤魔化しますが利用する時は利用しましょう!』
『頼む。僕も頑張る』
壁に耳あり障子に目あり。何処で誰が嗅ぎ付けるか分かったもんじゃない。
許嫁で将来を約束している以上セーフだと思う。千花は17歳。3月3日が誕生日だから既に婚姻届けに名前を書ける。だが僕は来年まで待たねばならないのだ。
婚前交渉はギリギリセーフでも、万が一にでも妊娠とかなったら洒落にならない。
だからその辺はちゃんとしようと意識している。
(……意識はしているけど、……可愛いなぁ……)
表情豊かな千花の顔が、何時ぞや、御行氏のハンバーグを食べた時より融けていた。
色々柔らかかったし。色々熱かったし。色々鳴いてたし。
思い出しながら、無言で髪をなでなで。
そのままじっと観察して弄っていたかったが、あんまりやっていると自制心が融けそうだったので、僕は無言で指を抜いた。そして千花に声を掛ける。
「もしもし千花さん、起きれるー?」
「ふぁいもひもひ……、……あい……はい……まだハワイ発の飛行機は先……」
「此処は日本だよ……。もしもしー?」
「………はぃ?」
千花は、僕の声に徐々に意識を覚醒させる。
寝ぼけ眼のまま、ゆっくり起き上がると、あー、とか、あ“-、とか変な鳴き声を上げながら、顔を振って周囲の状況を確認していく。暫くの後、己が部屋の中、雑なまま寝ていたと思いだしたらしい。序に僕が同じベッドだった事も。
欠伸をしながら、ぼさぼさになってしまった髪を手櫛で整えながら、まともに会話が出来る様になるまで五分程の時間を有した。
とりあえず近くにあったペットボトルの水を差しだす。彼女はこくこくと飲む。
「んく、んく、……ぷは……。うー、眠いです……、ナンノヨウでしょう……、適当な理由なら例えいーちゃんでも許しませんよ……。……なんで自分の人差し指を咥えてるんです?」
「気にしないで。千花エキスを摂取してるだけだから。……お腹減らない? ラーメン食べ行かない? 寝てるなら僕一人で行ってくる」
「……らあめん! 行きますっ!」
単語を復唱する。やはり千花もラーメンのスイッチが入ったようだ。
がばっと立ち上がると、そのまま放り投げられていたトランクを漁り、外出用の適当な服に着替えていく。ブラシを片手に、ドレッサーの前に座ったのを確認して、僕は部屋を出た。身嗜み整理にはちょっと時間がかかるというし、外で待っているとしよう。
頼れる憂さんはまだ帰宅していない。藤原家の留守番役さんとかペスとかは居るが(というか大地さんとか普通に仕事だから、当然ながら家が空になる事はない)、此処は外食しに行こう。藤原家での食事は何時でもできるが、
財布の中に余裕があることを確認する。こちらの問題もなし。
半袖ブラウス、スカート、胸元にリボン、頭に何時もの蝶々リボンと綺麗に整えた千花を迎えて、僕らは街へ繰り出すことにした。
◆
繁華街の角にひっそりと佇むラーメン屋『博多・天龍』。
しがない中間管理職:小田島三郎が暖簾をくぐったのは、少し遅めの夕食時間だった。
都内のラーメン屋巡りを趣味とする小田島は、家近くにあるこの名店の「真の味」を知っている。大々的にメニューを飾る「豚骨」ではない。壁の片隅に小さく書かれた、870円。
「醤油とんこつ、薄目」
「麺の固さは」
「カタメで」
常連客としてツーカーで会話が出来る。店主の自信を「
最適解。如何なる店にも表向きの名物メニューがある一方、店主が自信を持って進める裏メニューが存在する。ましてこの地域には、所謂「評判が良い」店が多かった。そうなると競争激化の結果、どの店にも『他には負けない看板メニュー』は勿論、『店主秘蔵の秘密メニュー』を構えることで客を誘致している店も多い。
ラーメンが専門だが、店主の拘り・料理への愛情を見抜く眼力を持つ小田島に取って、この程度の会話は、既に幾度となく繰り返された、経験と熟練の賜物だ。
故に、店に入ってきた二人を見た小田島が『カップルの来る店じゃないんだぜ』と思ったのも無理はないことだ。
「わー、良い匂いー!」
「うん。美味しい匂いする。千花の勘はこういう時は当たるからなー」
ラーメン屋よりもケーキ屋が似合いそうな可憐な女学生が一人。続いて入ってきたのは、どうやら彼女と一緒に来たらしい男子学生。名前呼びからして、二人で揃って入ったのは間違いない。距離の近さから、友人以上であろうと見破った。
この店には食券はない。入ってきた二人に、店主は短く「らっしゃい」と迎え、その後に「ご注文は?」と尋ねる。店主の目は、穏やかながら、やって来たこの来訪者を吟味していた。
「私は醤油とんこつ、――薄目で!」
「「!?」」
少女の告げた言葉に、愕然としたのは、小田島と店主の両名だった。
この店における「最適解」を弾き出した少女。もしやこの少女「
(ならば、この次はどうなる……? 男子の方は、何を選ぶ……?)
少女は麺の固さを「バリカタで!」と注文をする。
此処で小田島は少し安堵した。博多ラーメンのバリカタ。確かに若者では有名な食べ方だ。思わず失笑しそうになる。……流行に乗ったお遊戯のような選択! 先ほどの心配はただの杞憂だったのだ。買い被りに過ぎない。
最初の正解は、店にやって来た少女に対して、ラーメンの女神が気まぐれな祝福を与えたに過ぎない。長い髪を頭の上で結び直している少女を見て、そう思った。
「お兄さんは?」
最適解を選んだ少女の傍ら、メニューを眺めていた男子は、少し悩んだ後でこう告げた。
「大将、お勧めを。僕は今、――とても、ラーメンが食べたいんです」
気迫。
どん、と空気が震えた気がした。
唯の戯言ではなかった。其処には重みがあった。
小田島は思わず男子の方を見る。物静かな外観に対して、その眼は油断なくメニューではなく店主を眺めている。その眼光を見て、小田島は、そして店主は知った。
――チョイスを迷って尋ねたのではない。この男は、ラーメンを喰いに来たのだ!
長い間、己を戒めた人間が封印を破るように! ただ「一番、旨いラーメンが食べたい」と強欲なまでに純粋に心に思ってやって来た。
「……ウチは何でも美味いよ。名物は豚骨だ。だが食べて欲しいという意味なら「醤油とんこつ」だ。満足出来るだろう」
「ではそれで。麺はお任せします」
小田島はそこで「そうか……」と納得していた。そう、最適解を経験で導ける熟練者ならば、確かにツーカーで店主とやり取りが出来る。だがこの男子は違う。だからこそ素直に尋ねたのだ。
思えば料理とは、作る側・食べる側のどちらが偉いという事はない。食べる客は値段に合わないと文句を言う権利はあるが、それは金に対しての文句。飽くまでも店・客は対等である。
そこにあるのはコミュニケーション。
客として店主に引かず、媚びず、そして居丈高にもならず、素直に問いかけたのだ。
――ラーメンが食べたい……!
その強い意志は店主にも通じた。男子の問いかけに、任せろ、と笑った店主。その顔は勝負に挑む漢の顔だった。覇気を纏って調理を始めた店主を見て、男子もまた席に座る。
その眼は「食欲」を何よりも雄弁に語っていた。
(……そうか、そうだな、分かるぞ……その気持ち……!)
小田島の胸中に浮かんだのは、純粋な応援と、己の原点の再確認だった。
社会人として疲れる日々を過ごす中、ふと思う『食べたい』という欲求。己の汗水流して稼いだ金を使い味わう逸品。店を選ぶところから始まる勝負。そして感動。
少女が食べる姿は、言うなれば若さの象徴。塩分、血糖値、カロリー、年齢と共に摂取するのがキツくなる品々を存分に食べる姿は、もう取り戻せない失われた過去。
しかして男子が食べる姿は、情熱の象徴だった。時として開拓を怠りそうになる己を叱咤した。青くても美味しく食べる少女を見た時に思った『未熟だな』という己への戒めであった。
店の最適解を選ぶ。それは確かに正しい道である。ベテランだからこその技である。其処にあるのは挑戦ではなく
店主と客のワルツ。己の提唱した概念を実行する漢。
まさかこんな場所で、こんな出会いがあるとは。
感涙に咽びながら、小田島は、ラーメンをすする二人組を応援していた。
――そうだ、存分に味わってくれ……!
――それが、それこそが青春の味なんだ……!
◆
カウンターに座っていた眼鏡の男性が、何やら感動をしていた。理由は良く分からないが、味に感動しているんだろうきっと。僕らを見る目が「物珍しさ」ではなかったからだ。女性を見るスケベな目ですら無い。
「美味いよな!それ!」という、食事に対する敬意を見たというか、そんな感じだ。
彼が食べているメニューも「醤油とんこつ」ではなかろうか。どうやら隠れメニュー的な意味で非常に有名らしい。同志を見つけて感極まったのかもしれない。
千花と僕の前に、丼が置かれている。それを互いに遠慮なく口に運ぶ。僕と千花の間に、恥じらいは無い。ラーメンは熱い内に、全力で頬張るのが美味いのだ。
ちらっと僕はサラリーマンの方を伺った。彼は香り、スープ、具材、麺、水という繰り返しでラーメンを味わっている。千花はレンゲの上にミニラーメンを作って食べるようだ。
僕は、素直に具材と麺を一緒に口に運んだ。
――美味い。
久しぶりという事を差し引いても、このラーメンは美味かった。
まずスープ。唯の「豚骨」はこってりとした味が多いが、「醤油とんこつ」だからか少しマイルドだ。くどくない。醤油の味は仄かなのだが、それが脂分を感じさせず、後味をひかせて来る。思わずスープだけを飲んでしまいたい衝動に駆られる。我慢した。
ネギ、紅ショウガ、キクラゲ。何れもサイズが小さい。千花はミニラーメンにして食べているが、僕はそんなの関係なしに麺と一緒に口に運んだ。割り箸に全ての材料を掴み、一気に口に!
カタメの麺が、歯に当たる。弾力と共に噛み切られた麺と、スープが口の中で混ざる。しっかりと噛んでいると、ふと舌に触れる紅ショウガの刺激。歯応えを変えるキクラゲの感触。口の中で弾けるアクセントは「再びその触感を寄越せ!」と脳に命令を送る。
リズムだ。音だ。食材が口の中で踊っている。絶妙な分量だ。
飲み込むと、再び具材を一緒に掴み、口に運ぶ。それを繰り返す。
ずずず、という音を気にしない。海外ではさておき日本では音を立てるのがマナーだ。余り大袈裟でも行けないが、此処に居るのは千花と店主とサラリーマンが一人。であれば気にしない!
瞬く間に空になっていく器。胃は「もっと食べたい」と叫んでいた。
「大将……!」
「分かっている。替え玉だな」
絶妙のタイミングで替え玉が入れられた。その僅かな時間に、僕は水を飲む。美味い。喉を通っていくキリっとした冷たさが、ラーメンの熱量に対して応じた。「何時でも良いぞ!」と。
そして再びの麺。具材と混ぜて食べる。
だが二杯目。必然的に、具材は減っている。スープも微かに薄くなる。麺との相性は変わらずだが、ほんの少しだけ物寂しい。
「いーちゃん、どうぞ」
「うん」
す、っとその時、真横から銀の器が差し出された。
其処に合ったのは、ニンニク。そしてニンニク絞り器。ガツンとしたパンチを追加する兵器。
見れば既に千花は、ニンニクを投下していた。目が合う。互いに分かっていた。
――だって美味いもんな!
全力でニンニクを絞り、スープを飲む。そして麺を食べる。新しい旨味が加わった。麺に絡むスープとニンニク。それが新しい
千花が器に口を付けるのと、僕が器を口に付けるのは、ほぼ同時だった。
そのまま、一気に、スープを飲み干す! 喉を通り、胃の中に流れ込んでいく濃い味! 明らかにカロリーと塩分過多だが、でも美味いんだからしょうがない!
どん! とほぼ同じタイミングで、僕と千花は器を置いた。
「「……ふぅ……」」
ほんの僅か、レンゲ数杯分だけスープを残す。何故残したかって? 勿論、理由はある。
互いに満足そうに息を吐いた。……ちょっとニンニクの匂いだけ、気を付けねばなるまい。
美味しかったですー、と席を立とうとした千花だったが。
「すまん、千花、もうちょい待って。――
「はい? ……あー、なるほど」
流石に満腹になった千花だったが、僕の意図を理解して座りなおす。無言でお冷を注いでくれた。いや、だってここ美味しいんだもん! しょうがないじゃん!
空腹の男子高校生の食欲を舐めてはいけない。お腹が空いた時に食べる量は察して欲しい。別に大食漢ではないが、それなりに健啖家な僕である。僕の姿勢に、店主は不敵に笑った。
「よし、それじゃあ何にする。米は三種類だ」
メニューに書かれているのは、麺とセットに出来る米料理だった。三種類。
ちょっと辛めの焼き飯。チャーシューやネギを乗せた小鉢。そして焼きおにぎり(味噌)。
おにぎり。それで、僕がスープを残した意味は分かるだろう…・・・!
「『焼きおにぎり』を下さい。後、餃子を」
「あいよ」
まだ夜は時間がある。餃子と焼きおにぎりなら千花に一口分けてもセーフだろうし。麺があのクオリティだったのだ。恐らく此方も相当良い味に違いない。
味噌が焼ける香りが漂ってくる。豚骨に負けない香ばしさ。千花の鼻も微かに動いている。
頷いて調理を始めた店主の背中を見ながら、僕はメニューの説明を読む。おにぎり(味噌)。有名なメーカーから直に降ろして貰っている。ふむふむ。メーカー……
「え、巨勢!?」
「お邪魔しまーえええ!? なんです!? いきなり!?」
思わず名前を挙げた時、返事が来た。
まさか返事が来るとは思っていなかった。入り口を見ると、其処には。
「生徒会のお二人がこんな時間でラーメンですか……?」
「意外と遊んでいるのですね?」
マスメディア部の二人――巨勢エリカと紀かれんが立っている。
これはまた奇遇な話だ。折角なので一緒に食べるとしよう。
◆
「私は味噌ラーメン! かれんは?」
「野菜ラーメン。……なるほど、此処はエリカのお家がスポンサーなのですね?」
「そうそう。やっぱ自分の家の素材をどんな風に扱ってくれるか気になるからさー」
「納得した。しかし女子高生が二人揃って夕飯がラーメンってどうなの?」
「女子高生を連れてやってくる男子も相当だと思いますわ」
「そう? 僕と千花なら珍しくないけど」
かぐや嬢じゃないんだから。彼女、ラーメンの食べ方を知らないどころか、カップ麺すらも名前しか知らなかったんだぞ。あの時は生徒会室のロッカー内部で大変だった。
僕と千花の食べっぷり、飲みっぷりに感心感動したサラリーマンの男性は、サムズアップをして二人と入れ違うように帰って行った。何となくまた何処かで出会いそうな気がする。
「はい、お待ち」
大将が差し出した皿の上に、焼きおにぎりが三つ置かれている。
メニューでは二つの筈。思わず顔を上げると『お嬢ちゃんと二人で喰え。一個はおまけだ』と目が語っていた。これは嬉しい。有難い。美味しくいただくとしよう。
指先で熱々とおにぎりを掴み、そのまま口に運ぶ。
同時、紀が僕に問いを投げた。
「ところで少し気になったのですが、藤原さん、雰囲気が変わっていませんか? なんか色っぽいというか、艶っぽいというか、余裕が見えるというか……」
「ごほっ……! ……ごほ、……き、気のせいじゃない? 熱……!」
慌てて水を飲むふりをして『やっべえ』と思い出す。忘れていた。
紀は、恋路という点に関しては、妙に勘が良いのだ。呑気に味噌ラーメンを食べている巨勢エリカは、割と如何とでもなる。向こうは千花のことを『意外と馬鹿なのでは?』と思っているようだが、巨勢エリカも負けず劣らずポンコツだと思っている。
だが紀は、あの早坂愛が警戒するくらいには鋭い。
「今日はデートですか?」
「いや、家族ぐるみでハワイ行ってきた。帰ってきてどうしてもラーメン食べたかった」
「なるほど、それでお誘いしたと……」
彼女の眼は疑っている。
夏休みなら、関係が大幅に進展している可能性は高い、と。
その推測は当たっている。白状する気は無かったが。
しかし、よりによってマスメディア部か……。
情報が下手に伝わるとそのままSNS経由で学園全土に流れてしまうだろう。こっちに管理者権限があっても、流石に自宅のPCから裏サイトに介入するのは難しい。
さてどうしたもんかな、と考えていると、ちょいちょいと隣の千花に引っ張られた。
ん? とそっちを見る。
「いただきまふ!」
その瞬間、ぱくり、と手先にあった焼きおにぎりが食べられていた。
思わず動きが止まる。紀も巨勢も止まった。千花がいきなり、僕の指先に顔を寄せて、そのまま、焼きおにぎりをはむはむ。
そのまま食べると、彼女は、僕の指先をぺろりと舐めた。
なんというか舐め方が、非常に巧い。
最後に、少しだけ扇情的にメディア部の方を流し目で見た。
――探りたいならご自由に……ですよー……?
実際に、そう言葉を告げた訳ではない。
ただその一工程が、妙に妖艶というか、大人の余裕をぶちかました仕草だった。
僕でさえ、思わず「なんかエロい」と思ってしまったのだ。
くす、っという小悪魔のような笑みが一瞬、千花の顔に映る。
紀は『!? これ完全に……!?』と愕然とした顔をした。
しかし千花はと言えば、一瞬のサタンめいた顔は、直ぐに天然ゆるふわ笑顔に変えている。
どうやら女性らしい処世術として、巧みな隠し方をするらしかった。
(じゃー僕も合わせればいいか)
千花が平然としているのを見て、僕も平然としていよう、と思った。
女性が落ち着いているのに相方が慌てていては何の意味もない。
そもそも今までの関係で、とっくに一線を越えているんじゃないか? という疑問は学園の誰もに持たれていた。テスト結果発表時に『千花が欲しい(語弊あり)』と言ってるし。伊井野ミコにだって明言はしていないが誤解をさせるように振る舞ってもいる。
であれば、普段通りに振る舞えば良い。
利用できるものは利用しよう。
相手が勝手に勘違いするように動けば良い。
流石は千花。実に政治家的に、相手を翻弄する術に長けている。
「僕の指、美味しい?」
「美味しくはないですが好きです。紀さんは気にし過ぎですよー、ねー?」
「そうだね、好きに考えれば良いんじゃないかなー、千花、おにぎりは折角だしこう食べよう」
紀の顔が『また始まってしまいましたか』とげんなりした物に変わった。
さっきまでの探求心は、横殴りに叩き付けられた惚気で相殺されたらしい。報道したいなら報道すれば良い。学園内の風紀を乱さない事は徹底するし、別に弱みという訳では無いのだ。
よし、結論が出たところで食事に戻ろう!
「こういう食べ方は、こういう場所じゃないと出来ないからね!」
した事は簡単だ。余ったスープの中に、おにぎりを投下!
微かに表面が焦げたおにぎりは、スープを吸い、静かに身を崩す。
香ばしい味噌が、残った醤油豚骨に溶けて、複雑な味わいとなっていく。
「ごくっ。……いーちゃん、一口! 一口下さい!」
「勿論。一口とは言わず、美味しくどうぞ」
笑顔で言って来たので、器ごと渡す。そして美味しく食べている千花の姿を、スマホを取り出して、ぱしゃり。
映った写真は、もう満面の笑顔でレンゲを口に運ぶ千花だ。
それを千花に見せると、彼女はおにぎりを食べ終わったところで匙を置き、口元を拭き(きちんと綺麗にしてから話し始める)、器を僕に再び渡してから、じゃあ私もとスマホを取り出した。
「千花の写真は僕が見てて眼福になるんだけど、僕の食べる姿は写真映えもしないでしょ」
「違いますよー。美味しい物を食べているいーちゃんの顔は、分かりやすいんです。自分で作った時、同じ顔させてやりたいなって思うじゃないですか。参考にするんです」
「なるほど、それは是非写真を撮って。そろそろ千花の手料理を食べたいなとも思ってたんだ」
「ハワイで鮫食べたじゃないですか」
「いや、もっと家庭的な奴で良い。ご飯、お惣菜、お
「そういえばラインで柏木さんも話していましたね、田沼さんに作ってあげたらしいです。これは負けてられません。良いでしょー。お味噌汁以外の注文は?」
「魚かな。三枚降ろしが出来るって話してたし、その腕も振るって欲しい」
「分かりました! じゃあ明日はお買い物ですねぇ、スーパーとか一緒に行きましょうか」
「行こうか。……どしたの二人とも。水が甘いみたいな顔してるよ?」
ラーメンを食べ終わったメディア部二人は、無言で水を飲んでいた。
僕の言葉に、二人は『なんでもありません』と疲れたような顔をして首を振る。
なんでもないなら、僕が気にする必要は無いな! 最後のおにぎりを食べ終わって、席を立つ。
「さて、ではご馳走様でした。また来ます」
「美味しかったでーす!」
代金を財布から出して、店主に挨拶して出る。
昼間は気温も湿度も高い今の季節だが、夜遅くともなれば大分緩和されていく。この暑苦しく、コンクリートとアスファルトに包まれた大都会も、やはりハワイでは味わえない景観だ。
火照った身体に夜風が気持ち良い。
お腹はいっぱいだし、これは改めて布団に入れば、きっと気持ちよく眠れるだろう。
「今日も一緒に寝ます?」
見透かしたような目を受ける。
いやいや、それは不味かろう。互いの家の人間が居る。使用人に聴かれかねない状況下で、身を重ねる勇気は流石にない。
「流石に今日は互いに自分の部屋で寝よう。荷解きも結局、殆ど出来てないんだからさ。代わりに僕がどっかで誘うよ」
「ふふん? それじゃー待ってます。余り待たせないで下さいね?」
腕を組み、そんな会話をしながら、僕らは帰宅するのだった。
あ、そうそう。帰り道、御行氏と石上に出会った。何でもVRを購入したから一緒に遊んで夕食を済ませてきたのだとか。ハワイから戻ってきて、以後、大きな問題もなかったようだ。
二十日の花火大会でまた会おう、と言って別れたのだが。
石上の目は『二人はひょっとして神ったのでは?』と疑っていた。鋭い奴だ。
それでも気遣って口臭ケアのカプセル剤を渡してくれる辺り、本当にいい奴である。
◆
尚、翌日の朝食は、お赤飯だった。
エジプトから帰ってきた皆がベッドに倒れる中、寝ないで準備をした憂さんからの差出品。
……完全に岩傘家・藤原家の全員にバレてしまった、と付け加えておく。
◆
更に余談。
数日後、ショッピングの為に集まった時、紀かれんは悟った。
「柏木さんの雰囲気
――初体験は高校生までに34%。
その数字の意味を正しく理解して崩れ落ちたそうな。
どっとはらい。
単行本が出る前に出来る限りネタを仕込んでいく派。
さておき、ちょっとした裏話。
長期連載の宿命なのですが、どうしても漫画内部の日程と実際で食い違いが出ます。
秀知院近くの夏祭りは8月20日(40話:「出かけたい」より。因みに2016年の木更津花火大会は、雨天で延期せず8月15日に開催されました)。
秀知院の夏休み期間が「8月31日まで」と断定は出来ません(公立と違い、私立は理事会が日程を決めるので)が、偏差値が高いエリート校なら無駄に長い事は無いでしょう。
因みにスペインの
尚、この辺の日付の食い違いは、石上のVR購入にも表れます。PS4用のVR発売日は2016年10月。PC用のVRコンソール(Oculus等)なら2016年3月に発売していますが、新作ゲームを毎月の様に購入&貯金無しの石上が、PC用VRを買うかな? という疑問はあります。買うかもしれませんが、会長を誘っていますし、据え置きゲーム機じゃないかなーとの判断です。
原作屈指のエピソード花火大会は目前。頑張ります。
ではまた次回。