ならば二次創作の作者として敬意と共に真正面からぶつかるのみ。
では、どうぞ。
蝶々の羽ばたきが太平洋の大嵐を生むように、小さな変化もやがて大きな変化となる。
岩傘調の影響は、例え彼自身が意識をせずとも、確かに波及していた。
彼が居ない世界――
それは、花火の物語。
それは、囚われの姫が手を取る物語。
それは、破裂しそうな程、大きな鼓動を耳にする物語。
絶対に知りようがない話であり、
けれどもそれは、もしものお話。
だからこれは、二人の為に皆が心血を注いだ、ある夏祭りの日のお話。
◆
この部屋は、人形を飾るためにあるのだろうか?
博物館に展示されるなら、まだ飾られる意味もある。だが見てくれる人間はおらず、褒めてくれる人間は少ない。人形に出来ることは
――津々美さんを見て、放置なんか出来る筈が、無いのですよね。
奇しくも白銀御行が津々美竜巻を見て過去の痛みを思い出したように、四宮かぐやもまた痛みを思う。過去ではなく今も継続し続ける『家』という名の檻の窮屈さと、身動きを封じる重さ。呼吸すらも不自由な世界の中、彼女は一人佇んでいる。
四宮かぐやも人形だった。
誰しもが丁重に扱い、格式に沿った振る舞いを求め、飾る、居るだけのモノ。
本家でじっとしているだけで陰口を叩かれる。来たいと言って来たのではないのに。
何か行動をするだけで咎められる。自分を本当に心配してくれる人なんか殆どいないのに。
『四宮かぐや』という名札を人形に貼り付けておいても、きっとあの人間達の行動には何も影響が無いのだ。くだらない程に、笑えない程に、四宮かぐやはトクベツだ。
――最近のお嬢様の振る舞いは、目に余ります。人込みのある場所では、付き人もかぐや様を見失う恐れがあります。そんな中でかぐや様に何かあれば、ご当主様になんと申し述べれば。
8月20日。午後19時。
私は、着替えることもなく、東京の自室で臥せている。
私服に皺が付くなんて考えは如何でも良かった。
外出禁止という一言は、彼女を崩すのに十分な一言だった。
ハワイから帰宅を命じられて一週間。岩傘調たっての頼みで招聘された彼女は、事件の解決後、たった一日だけの観光を終えて、そのまま四宮本家の会合へ呼び戻された。
――だけど、貰えた言葉は『居たのか』と『ご苦労』の二言だけ。
父からは、戻ってきた事への礼どころか、目と顔を合わせての会話すらない。
何時もの事だ。今まで通りだ。何も変わりはしない。過去を思い出しても、普通の子供が言って貰う可愛い言葉すら、私は言われたことはない。
「よくやった」と言われる前に鞭で叩かれた。出来るのが当たり前だったから。
「お休み」と「いってらっしゃい」を義務ではなく言ってくれるのは、早坂や奈央さんだけだ。
「愛している」と言われたことは、記憶を探る限り無かった。あるいは早逝した母が生きていれば、言って貰えたのだろうか。既に妻を娶った兄ならば胸に満たされているのだろうか。
――ああ、羨ましい。
頭の中に、親友の顔がよぎった。藤原千花。自分がまだ『氷』だった頃からずっと話しかけ続けてくれた人。大事な大事な友達。だけど彼女は、かぐやには持っていない物を沢山持っている。幸せな家庭や、仲の良い姉妹や、自由や、人気や、スタイルや――何よりも
時に嫉妬し、時に心の中で蔑みたくなる闇がある事は自覚している。
だけど親友だ。親友だからこそ、心の中で文句の一つも言いたくなる。しつこく、毎回のように鬱陶しく、聞いてて苛立ち、煩いと張り倒したくなることもある。
だけどあの二人が繰り広げる光景を、止めようと思ったことは無かった。
――だって、私がその中に、居られたから。
――私も、何時か、あんな風に過ごせるんだって、思えたから。
あの二人は、二人だけの世界で完結させはしなかった。その輪を広げて、四宮かぐやの手を引いた。白銀御行の手を引いた。学園中で知られる程に大きく大きく輪を広げていく。他人から指を差され、噂され、だけど彼らを見た誰もが、蔑みではない恥ずかしさで笑うような、惚気。
広報に至っては、こちらの事情を知って手伝ってくれている。
その優しさは、温かかった。
――ねえ藤原さん、教えて。
――貴方はきっと幸せだと思うわ。
――どうすれば、私も貴方みたいな温かさを、手に入れることが出来るのかしら。
……答えが来るはずもない。きっと彼女は既に花火大会の会場に、足を運んでいるだろう。
「かぐや様。……そのままでは、皺になります。せめてお着替えを」
「……着替えたくない」
小さなノックの後、早坂愛が顔を出す。彼女の顔も沈んでいた。ぐっと何かを噛み締める様に。
その憤りが見えるだけで、かぐやは少しだけ嬉しくなり、泣きたくなる。自分の悲しみを理解し、自分の代わりに怒り、藤原千花に言えない弱みを吐き出せる人。
彼女が居なければ、疾うの昔に、四宮かぐやは、壊れていただろう。
氷として振る舞うしかなかった彼女が、それでも凍り付かなかった理由が、それだ。
「その格好のまま、外に出ることは出来ません。今日は、花火大会です」
「無理よ。本家の執事が居るもの。二人も」
「……そうかもしれません。しかし、そうでないかもしれません」
言いながら早坂は、殆ど無理やりにかぐやを立たせ、着替えさせていく。
慣れた手付きで浴衣を着せ、帯をしっかりと結び、巾着と下駄も用意する。
本家の人間は、彼女を歯牙にもかけない。近侍である彼女に興味など持っていないからだ。本家の人間が気にしているのは、かぐやの身の上。其処にあるのは唯の義務感なのだから。
「……ハワイで過ごした日は、楽しかったですか?」
俯せのかぐやの真横に座り、早坂愛が、口を開く。
かぐや姫の背中を押すために。
閉じこもった姫を迎えに来た、月からの使者の様に、口を開く。
◆
「いきなり、何を」
「楽しかったですよね、かぐや様」
疑問ではなく、事実を語るように彼女は言った。
唐突な質問だが、早坂の顔は真剣で、真っすぐで、だから小さく頷いた。
「……良かった。かぐや様が、そう思っているならば、まだ大丈夫です。――知っていますか、恋の本質とは、恐怖なんだそうです」
彼女の声は、子供に言い聞かせるような、赤子をあやすような、優しい口調だった。
ぎゅっと握られていたかぐやの拳に、静かに掌を重ね、ゆっくりと早坂愛は続ける。
それはきっと、妹に姉が教える姿にも似ていたかもしれない。
「相手への畏敬が失われた時、恋は色を失うと続きます。――でも、かぐや様……、
普段の早坂愛ならば、四宮かぐやを発奮させる事くらいは簡単だ。ハワイで出会えたのに一日しか遊べなくて残念だったと梯子が外されたはずです、と適当に言うだけなら幾らでも言えた。
けれども、細かい理屈で、かぐやの心を変えない道を選んだ。
その背後にあったのは、普段、早坂愛を苛立たせる、存在F&存在Iの姿だ。
きっとあの二人ならそう言うだろうから。
「…………いいえ、思わない」
「私も同じ意見です。私にも、思いはあります。かぐや様の様に、好きな人を作ってみたい。恋をしてみたい。あんな風にやり取りをしてみたい。――離別をする為には、邂逅がなければいけません。かぐや様は、もう出会っているでしょう。それとも、出会いが無い方が良かったですか?」
返事に窮したかぐやに、早坂は続ける。
落差があるならば、知らない方が良かったのか?
皆と一緒の楽しさを知って、皆で遊んだ思い出があって、だからこそ何も出来ない場所と時間が退屈で、皆の居る場所に行けない自分が苦しくて。その苦しみを知らない方が良かったのか?
答えは否定できる。否定できるが、その先を言葉にすることが出来なかった。
「じゃあ、……どうすれば良いの……?」
――ならば、どうやって苦しみを癒せば良いのだろうか?
――ならば、どうやって、ガラスの向こうの憧れを手にすれば良いのだろうか?
心がときめく日々を失う事が怖い。失う未知を畏れている。
――ああ、それはきっと、私がそれらを恋しく思っているからだ。
――でも
……四宮かぐやには、分からないのだ。
今まで、欲しい物を手に入れる経験があまりにも少なかったから。
近くにある物が遠ざかっていく経験に、対処できたことが無かったから。
努力や才能で手に入れられる名誉や恩賞は幾らでも手に入る。権力と財力の庇護で、自由がない以外は全て不自由なく過ごしている。
権力と財力の庇護で、自由がない以外は全て不自由なく過ごしている。
だからこそ
今までもそうだった。培われた己の在り方が、他の人より異常なのだという自覚はある。
何気ない言動で他人は傷付いた。差異がある人間を前にして向こうが拒絶し離れていった。
何気ない行動で周囲は退いた。隔絶した態度を前にして勝手に誤解され、勝手に排除された。
そうして自分の周囲にある、あるだけで嬉しかった物は、消えていく。
あるいは、氷の様に振る舞えていれば、氷の痛みを感じずに済んだのかもしれない。
だけど、それは溶かされてしまった。
溶けて出てきた
――私には方法が分からない。
――消える人を、物を、日々を、如何すれば引き留められたのかが、分からない。
――心の中が傷付いていても、如何すれば治るのかが、分からない。
――そんなつもりは無くても、手から勝手に離れていく。
――人形が自らの意志で手を伸ばせないように、手を伸ばす方法が、分からない。
「その答えは、私がするものではありません。……準備は整えておきます。後悔だけはなさらないで下さい」
かぐやの問いかけに、早坂愛は答えず、静かに立ち上がった。
本家の執事達を誤魔化す方法を用意しておきます。その意味は伝わったが、かぐやの「どうすればいい」に返事をしては、くれなかった。
――ならば誰が答えてくれるのだ。
『俺が答えてやる! 四宮!』
声が、聞こえた。
◆
「……会、長?」
携帯電話もスマホも切っている。
彼は今、生徒会の皆と花火大会に行って居る筈だ。いや、仮に私が居ない事を気に病んで中止にしたとして、声は何故届くのだ。
携帯電話もスマホも切っている。
「……まさか。……早坂!?」
そこで気付いた。早坂愛が着せた浴衣。浴衣の袖の中に手を伸ばす。すると、小さな
親友の、藤原千花が、使っていた物。
何故、どうして、彼女の物が此処にある? 其処から声が聞こえている? 混乱したままの頭だが、たった一つの『確実』を理解していた。
分かる。その声の向こう側に、白銀御行が居る。
「か、会話が……! だ、誰かに、き、聞かれたら、どうするんですか!?」
『なんでも何もない。四宮が泣いているに違いないと藤原書記が言ったからな……! だからハーサカさん……いや早坂さんに頼んでスマホを送り込んだ! それだけだ! 四宮の弱った声を聴いたのは予定外だぞ』
「か、会話が……! だ、誰かに、き、聞かれたら、どうするんですか!?」
『聞かれないさ。その部屋は防音なんだろう? 見舞いに行った日に、そう教わった』
スマホの向こう側で、彼の声が少しだけ笑ったような気がした。
――ああ、分かっている。分かってしまっている。
――私のさっきの泣き声も、私のさっきの我儘も、きっと彼に聴かれてしまっただろう。
――だけど、どうしてだろう。声が聞こえるだけで、こんなにも嬉しいのは。
――見に行けない悲しさが、声を聴くだけで癒えていく気がするのは。
方法が分からないと泣いていた人形の娘は、ガラスの向こうから届く声に涙する。
「と、唐突に返事をして、答えるなんて、まるで、どこかの広報みたいですよ……?」
『今はそれも誉め言葉だな。四宮の本音を聞く機会なんて滅多にない。早坂さんとの会話は、ずっと聞いていた。声に出さないようにするのに必死だったさ』
言葉を聞いて、かぐやは焦る。
早坂との会話で、何度、話をしただろう。好きな人がいる。恋をしている。己の乙女らしい秘密は向こうに筒抜けだったのだ。心臓の音が速くなる。もしや伝わったのだろうか。
だけど白銀御行は、それを追求しなかった。
代わりに続けた。彼の声は弾んでいた。四宮かぐやと会話が出来ることが楽しいと告げていた。
『四宮。俺は、生徒会での毎日が、学園での毎日が、楽しかった。俺は――四宮が居て、藤原書記が居て、岩傘が居て、石上が居て、全員が居たから楽しかったぞ! お前は違うのか!?』
問いかけに、答える。
そんな筈はない。そんな訳がない。
初めて面倒を見た後輩が居て。
初めて友達になってくれた人がオマケも一緒に居て。
初めて出来た――気になる人が居て。
「……違、い、ません。……違うはずが、無いじゃないですか……!」
喉につっかえていた。本音を吐き出した胸が苦しい。掻きむしりたいくらいに痛い。
締め付けられている。白銀御行の声が、言葉が、意志が、これでもかと四宮かぐやの胸を痺れさせていく。こんな風に叫ぶなんて真似、今までは出来なかった。
――あの輪の中に居たから、私は幸せだった。
――知らなければ良かったなんて思わない。知って良かった。笑えて、遊べて、喜べて、氷が解けて、そうした毎日が無いことに耐えがたい。だから私は泣いている。
――会長、私はその声を聞けただけで、その言葉を言えただけで、嬉しいんです。
もしも夏祭りに行けなかった事実に価値を見出すというならば、この電話だけで充分かもしれない。そんな風に思うくらい、通話口からの会話が染み込んでいく。
『俺もだ。俺だけじゃダメだった。四宮だけでもダメだった。他の皆も言うだろうさ。
――誰しも「幸」「不幸」の総計は同程度に収束するという。だとしたら恵まれている私は、その分我慢するのが道理だ。そう思っていた。だけど、それは違うのだろうか?
彼の声は、違うと語っていた。
――方法が分からないと泣いていた。
彼の声は、答えを教えてくれた。
『なら同じだ。楽しい時間を皆で作ったなら――同じように、辛い時は頼れ!』
――ああ。
『俺達が出来ることなら幾らでも手を貸そう! だから、一人で悩むな。一人で抱え込むな! お前が俺達に手を伸ばすなら! 例え伸ばせなくても伸ばす意思が少しでもあるなら! 幾らでもこっちから手を伸ばしてやる!』
通話口の向こうの声を聴いて、吐息が漏れた。ポタリと床に大粒の涙が零れる音が聞こえた。それ以上に、あの毎日が頭に過る。発足から今日に至るまでの軌跡。騒がしいくらいに鮮明に。余りにも賑やかな景色で、涙の音が掻き消えていく。
氷を溶かした日々が、
簡単な、話だった。
――悩みがあるなら、打ち明ければ良い。
――分からないなら、聞けばいい。
――悩みがあるなら、打ち明ければ良い。
――辛いならば、辛いと言えば良い。
――きっと、皆は助けてくれるから。
幸福と不幸が同程度に収束するというならば。
幸運も不幸も別ち合えば良い。
一人で何でも出来た娘が聞いた言葉。
たったそれだけの、だけど、かぐやが知らなかった、とても簡単な答え。
『だから聴かせろ四宮! 俺も、皆も、四宮を待ってるんだ! ――今、何がしたい!』
呟いていた小さな悩み。
大事な憧れを、口に出す。
泣き叫ぶように、助けて欲しいと手を伸ばすように。
「花火を。……花火を、見に行きたい……! 皆と……!」
『ならば――』
彼は、その伸ばした手を、握り返す。
ちりん、と鈴の音が聞こえた。
ならば、の声が、スマホからと、直接の耳に届いた気がした。
聞いたことがある音色。たったの五分間だけど、一緒に通学した時に、確かに聞いた音。
「ならば来い! 花火を四宮に見せてやる……!」
窓に駆け寄った。遠く、花火を見て居るだけの窓から、下を見る。
今まで、手の届かない場所だった。羨ましいと見送るだけの景色の中に、光が一つ。
窓の下に、白銀御行が、自転車に乗っている。
◆
窓の下に男が一人。窓の上に女が一人。世界一有名な詩人シェイクスピアにも綴られた、
――後悔だけはなさらないで下さい。
早坂の真意を知る。彼女はきっと、この状況を聞いていたのだ。
「どうぞ行って下さい。ご安心を。誤魔化す計画は立ててあります」
見計らったように、早坂が再び入ってきた。……彼女は会話を聞いていたのだ。
かぐやが余計な何かを言う間もなく、近侍の行動は速かった。
手に持った荷物の中からウィッグを取り出し、変装をしていく。同時、登攀用の頑丈なロープを此方に渡す。ロープの隅に、岩傘響の文字があった。借り物だ。
「私一人では難しいかもしれませんが」
「私が手伝うので」
続き、部屋に入ってきた少女が居る。姿形が、早坂愛に瓜二つ。一瞬、混乱する。
二人目の早坂愛は、その口を不敵に――邪悪に歪ませる。
「私そっくりに変装されると気持ちが悪い」
「ハワイでの迷惑料という訳で、お詫びをさせてくれよ、かぐや様。私は君の部下だろう?」
堂に入っていた。まるで過去に何度も変装した経験があるように、
一人では無理でも、二人で、かぐやと早坂を演じれば、少しは迷彩になるだろう? と。
その気遣いに、かぐやは頷いた。
「……二人とも」
「おおっと、ありがとうは全部終わってからだ。失敗したらお礼にもならないだろ?」
「言葉を取らないでくれます? ――そういう事ですので、お急ぎを」
頷いた。ロープを枝に巻き付け、草履のまま窓に足を掛ける。
そして覚悟を決めて飛んだ。滑車が流れていく。その着地点は、眼下、道路の白銀御行。
一瞬の浮遊感の後、アスファルトに脚が付く。膝と腰で受け身を取って、そのまま自転車に。
「会長、わ、私――!」
「良いから行くぞ! 後ろに乗れ! 落ちるなよ!」
会話をする間も惜しいと、促される。
だから従った。何時ぞやは背中合わせだった。だけど今度は、自分が彼の背中に抱き着く様な姿勢で。勇気を出して、彼の胴体に腕を回す。自転車が動いていく。
彼の呼吸は既に荒い。此処に来るまでどれだけ急いでいたのか。会話をしながらどれ程に全力を出してくれたのか。その必死さが、自分の為だと分かって、自然と腕に力がこもる。
「良く、分かりましたね、私の事……」
「このくらい簡単だ。
白銀御行は、既に汗を額に流している。だけど会話を途切れさせることもないまま、道を抜けて、街へと速度を上げていく。
どんな顔で、彼が自転車を漕いでいるのか、かぐやから見ることは出来ない。
だけど一つだけ確かなことは。
――きっと彼は、この一瞬を忘れはしない。
――だって、私が忘れないもの。
◆
「会長、タクシー捕まえておきました!」
自転車を放り投げる様に駐車された二人の元に、声が飛ぶ。浴衣姿の石上がタクシーを止めていた。事情を聴いていたらしい眼鏡の運転手が、扉を開けて待っている。
「かーぐーやーさーん!」
「来たな二人とも! 早く乗って!」
かぐや達を出迎える、会計と広報の二人を見て、ふと思う。
距離が近かった。今迄とは少し違った、唯の恋人同士より太い絆が、其処に見えた気がした。口に出すことは無かった。時間があったとしても、それを問いかけはしなかったと思う。
――ねえ藤原さん。岩傘。……私、貴方達が羨ましい。だけど、少し分かった。
――きっと貴方達が居ると、私も会長も、少しだけ素直になれるの。
――だから惚気るのも許してあげる。何時か私達が、互いに想いを伝えるまで。
走り寄ったかぐやを、藤原千花が出向かえ、捕まえた。久しぶりに会えて嬉しいと顔だけで分かる笑顔だった。そのまま彼女を、ドーン! とタクシーに放り込む。
「あの、このタクシー五人乗りじゃ」
「この期に及んで誰かを置いてくなんて無しだぞ石上! 千花の席は僕の膝の上だ! ――運転手さん、見逃して下さい! お願いします!」
「……良いよ。早く乗りなよ。急いでるんだろう?」
かぐや、御行、岩傘調の上に藤原千花。後部座席に高校生が四人。ぎゅうぎゅう詰めだが、誰も文句を言わなかった。
走り出したタクシーに、白銀御行が指示を出す。
「運転手さん! このまま首都高乗って、アクアラインから海ほたるの方に!」
「会長、もしかして」
「そうか千葉か! 確かに郊外なら20時過ぎても大会はやってる! ええと、あった、これか木更津花火大会、終了時刻20時30分……! え、こっから木更津まで40キロあるぞ!? (藤原千花を膝の上に乗せながらスマホで検索)」
「ええええ!? 木更津って……あと20分ですよ!? 行けますか!? (シートベルトを無理やり締めて、岩傘調の腕の中、二人で覗きながら)」
「知らん! だが挑戦する価値はある! 四宮が言ったんだ! 皆で花火を見たいって!」
タクシー中に響くような声で、彼は叫んだ。
「だから四宮に花火を見せるんだよ!!」
花火大会は、何時も遠かった。
小さな窓の中、遠くに上がる花火を見るだけで、その音が聞こえたことはない。
遠く微かな名残だけが届いた時には、もう花火は散っている。
だから花火を見ても、それは景色だけ。
――だけど、叶うならば。
「ちょっと飛ばしますんでね。会社には内緒にしてね」
ドライバー:高円寺のJ鈴木は、後日、この時の心境を『奉心祭』で小田島三郎にこう語る。
『あんな顔で言われたらちょっと格好いいところを見せたくなるのが漢ってもんですよ。後で本社に戻った時に大目玉食らいましたけど、後悔はしていませんよ』
ギアを変え、アクセルを踏み込んだタクシーは、スピード違反になるギリギリ手前で駆けていく。そのまま猛烈な勢いで首都高を走り、アクアラインに突入していく。
トンネルの中、オレンジ色の光が流れていく。
誰も速度のことを意識してなど、いなかった。
誰もが、ただ時計と距離と前だけを見ていた。
「お願いします神様! 間に合わせて……!!」
藤原千花が祈る。
四宮かぐやは知っている。
――神様なんか居ない。祈っても木更津までの距離なんか縮まらない。時間が過去に戻りもしない。想いが伝わって奇跡が起きることなんてない。確率に影響を及ぼすことなんかない。
間に合え……。間に合ってくれ、頼む……! その声は、岩傘調の声だ。
出口を見据えて言われた言葉。それを皮切りとして、藤原千花が、石上優が、皆が叫ぶ。祈るように重なっていく。間に合え。間に合え。間に合って。
一際、大きな声がする。
――間に合えええええっ!
普段の平静を投げ捨てた、必死の声の出所なんか、見ないでも分かった。
――皆の声が、煩いほどの声があって。
――流れていく瞬く光が、まるで芸術品のようで。
――送り出してくれた早坂達が居て、応援してくれる皆が居て、誰より必死な彼が居て。
――ああ、そうか、私の世界には、こんなにも。
心の中に溢れていく想いのまま、四宮かぐやは、口に出していた。声を張り上げたことは初めてかもしれない。隣に座る
心の中に溢れていく想いのまま、四宮かぐやは、口に出していた。声を張り上げたことは初めてかもしれない。隣に座る
素直に誰かへの想いを口にする人間が周囲にいたから。
だから彼女は、ほんの少しだけ欲張りに、言葉を紡ぐ。
「間に合って……。間に合って! 私は――――――」
――神様がいなくても。
――叶うのならば。
出口から抜けた瞬間、音が消えた。皆の声が消えた。光も消えた。
違う。
――
皆とかぐやの声を消す様な音と、全ての灯を飲み込むような色彩が、輝いたのだ。
速度を落としたタクシーの中、窓に張り付く様に、重なるようにして、それを見る。かぐやの右に白銀御行。ベルトを外した藤原千花が左に、岩傘調は更にその左に無理やりに。
花火だった。花火が上がっていた。
地上から打ち上げられた無数の花が重なり、流れて、消えていく。
夜空に大輪が咲いては消えて。赤、青、緑、黄、幾つもの輝きが、夜を染めて、また広がっては、消えていく。
誰もが、花火に目を向ける。
歓声と喝采を上げて、光に魅入っていく。
皆の願いが其処にある。かぐやに見せようと思っていた景色が広がっている。家よりもずっと小さくて狭いのに、だけど手に取れるほどに近い窓の中に、音と共に輝いている。
その中に混ざる、大きな音。花火の音をかき消すほどに、大きな鼓動を立てる心臓がある。
――ああ、
ずっと聞きたかった音。ずっと欲しかった音。憧れていた景色が形になった音。
誰かと一緒に見上げて、誰かと一緒に喜ぶ、光の世界。
泣きたいくらいに嬉しくて、泣けないくらいに震えていて、時が止まる程の響き。
――伝わりますか、会長。
恥ずかしくて口に出せないけれども。
真横にある顔から目が離せないけれども。
ただ、胸に誓うことは出来た。
何時かで良い。貴方に話そう。この喜びを伝えよう。
光だけでも音だけでもない、皆の想いが混ざって、自分に注がれた無数のきらめきを。
この瞬間にある全て。
私の大事な、この音を。
花火の音を、聞かせたい。
富める時も、貧しい時も。
健やかなる時も、病める時も。
そして、嬉しい時も、悲しい時も。
二人で幸福になるならば、不幸も二人で乗り越えよう。
それが何れ二人が迎える、さる式で交わされる約束の言葉。