「月見するぞ!」
9月15日木曜日。第67期生徒会の解散も迫る中、御行氏が扇子を片手に宣言した。
扇子には『磨穿鉄硯』の文字が書かれている。かぐや嬢からの誕生日プレゼントだ。
「今日は十五夜。中秋の名月だ。こんな日に夜空を見上げないなど人生の損失だ。屋上の使用許可も取ってあるし、月見団子の準備も出来ている。親御さんに連絡を入れるんだ!」
「確かに今晩の予報は晴れだな。仕事もあるから……無駄な居残りにはならないな」
「そうだろうそうだろう!」
手配の手際に、月見団子の用意。御行氏が全力で下準備をした時の計画は相変わらず凄い。
しかもこの月見団子、多分市販品じゃなさそうだよな。御行氏の手作りか?
「まあな。今日の為に昨日から用意をしてたんだ」
「じゃあ僕の方も手配しようか。……枝豆と栗で良い?」
「分かっているではないか。流石」
中秋の名月。十五夜。色々な呼び方はあるが、旧暦8月15日に行われる月見の行事である。
由来は定かではないが、平安時代には既に実施されていたらしい。
枝豆、栗、里芋なども団子と一緒に食べられる。本来はそこに御酒も乗っかるのだが、高校生で飲酒をする訳にはいかないな。……自宅じゃこっそりビール飲んだこともあるけどね(皆には内緒ダヨ)!
「まあ最近忙しいからね……。息抜きには丁度良いと思う」
「次期生徒会が発足するまで、引き継ぎやら事前準備やら、切りがないですからねー」
「良いんじゃないですか。僕は乗りますよ」
この生徒会ももうすぐ解散。皆で無茶が出来るのも、これで最後かもしれません。
石上が呟く。
そうなのである。
我らが生徒会は9月末日を以て、活動が終了となる。ちょうど一年間の期間が終わるのだ。
その後、10月に生徒会選挙を行い、10月中旬からは新体制の生徒会が発足する。
大体一週間から二週間、生徒会が存在しない期間が出来る訳で、その為の『備え』が必要となる。
今の生徒会と仲が良い部活動なんかは、最後のチャンスとばかりに色々要望を通そうと『お願い』をしてくるし、次期生徒会に向けて入念な作戦を練っている者達もいる。
僕らとて引継ぎ要項の纏めやら、活動記録の決算やら、仕事は多い。
だからここ最近は、割と遅くまで生徒会活動が行われている。
「仕事して、そのまま月見なら文句も言われないと思う」
「ロマンチストですよね、会長ってー。いーちゃんも割とそんな感じありますけどー」
「根っこは一緒だからね」
僕も御行氏も、好きな人の為に努力して、好きな人との時間を大事にする人間だ。
その為の努力をしなければ胸を張れないと不安になるという部分を含めても良い。
ハッピーエンド至上主義というやつだ。
世間はそんなに甘くないが、若い内なら、甘くて青くても許されると思っている。
「それじゃ気合を入れてさくさく進めようか。千花、昨年の生徒会選挙の議事録ちょーだい」
生徒会選挙がどんな具合に推移するかは分からないが、今のうちにやれることはやっておこう。
◆
御行氏は天体観測が好きだ。
ハワイでの天文台群の来訪時に――色々あったが――彼に時間を上げたかったのが本音である。
『短い時間だが、記念にはなった』と言ってくれたが、僕としては不満だった。
確かにあの後、ハワイのストリートをかぐや嬢達と一緒にぶらつけたのは良い思い出だろうけど、それはそれ、これはこれ。天文台群からの天体観測と比較できる物ではない。お土産だって最低限だったし。
そのお詫びという訳ではないが、僕が乗り気だったのはそれが理由だ。
「だからといって生徒会以外の面々を招集した理由が分からないのですが」
「早坂は既に立場がばれて協力者扱いでしょ」
「……藤原千花とマスメディア部が一緒に居るのは何故です?」
居てくれた方が盛り上がりそうだからである。
僕の返事に、早坂は『また面倒なことを』と嫌そうな顔をした。
気持ちは分かる。僕だって彼女達の持つ権力は重々承知している。だからこそ彼女達を(言い方を悪くすれば)利用していた訳で、検閲をしつつ、千花との惚気話を掲載させたりした訳だ。
だが、最近、少しその考えが変わりつつある。
彼女達の文書検閲を止める訳ではないが――適度に『餌』を上げて交渉した方が良いかな、と思ったのだ。
「次期生徒会選挙の情報以外にも、調べて欲しい話はある。協力者は多い方が良い」
それと、これは重要な話なのだが。
あの二人『御行氏とかぐや嬢の恋を応援している』という意味では、こっちと同類だ。
紀かれんの話は、石上からも聞いている。
彼女は二人をモデルにしたカップリング漫画を描いて、それを石上が編集をしているらしいし。
恋愛嗅覚が非常に鋭いが故、昨年から今日までの二人の日々を、要所要所で目撃しているらしい。
しかしそれを邪魔もせず、記事にもしていない。
つまり
「……何を企んでいるんです?」
「その問いに答える前に、僕の方から一つだけ聞いておきたくてね」
兎耳を付けた千花は、月見団子を抱えてご機嫌だ。
風が吹き寄せない、入り口裏手へとカセットコンロを鍋と共に運んでいく。
御行氏とかぐや嬢は、二人並んで座り、星を見始める。
マスメディア部の二人は、そんな二人の様子を見て『尊いですわ』と感涙に咽んでいた。
今ならば、この話を切り出しても、邪魔はされまい。
「早坂愛。君はかぐや嬢と、四宮家の、どっちの味方かな」
「意図が分かりませんね」
「分からない振りが僕に通用するとでも? はっきり言うよ。かぐや嬢と、四宮雁庵氏が対立した場合、早坂はどっちに着くのかという話だ」
「…………」
僕の質問が非常にまじめで、真剣だと向こうも察知した。
端正な顔をまっすぐに引き結ぶと、無論、と答える。
「かぐや様ですが。それが何か」
「それを聞きたかったんだよ。……ここだけの話なんだけどね。イクサの話やらを裏取りして色々調べていると、どうも四宮家の影がちらついてる。有体に言えば『チクタクマン』事件の黒幕やら、ハワイ天文台でこっちの邪魔をした女やらと、四宮雁庵氏が組んでいそうな気配が、する」
「……どこで調べたんです?」
「日本最大手の新聞社に調査できない情報は無い」
噂だけで人を判断するのは嫌だが、聞いた限りでは、かぐや嬢の心に目を向けない人らしい。
つまり実の娘の通う学校に、多くの権力者の子供が通う学校に、テロを仕掛けた危ない奴と密かに手を組むのも辞さないような男……かもしれないのだ。
流石に断言はできない。偽情報かもしれない。考えすぎ、穿ち過ぎの可能性も十分ある。
とはいえ早坂の眉が顰められたので、彼女も『やりかねない』とは思ったのだろう。
「だからマスメディア部を自陣営に、と」
「杞憂ならそれで良いよ。それに『チクタクマン』関係なく、今後、二人の活動を応援したり、妨害を排除したり、裏工作には役立つ。生徒会役員の座から外れても『人脈』という最大の武器を手放すつもりはない」
僕のしれっとした発言に、早坂はそうですか、と呟いた。納得してくれたらしい。
早坂と僕は仲が悪いが、それは同族嫌悪に近い。
「さて、それじゃ」
よし、シリアスな会話は終わり!
面倒な会話は止め! さっさと千花と惚気に行くぞー!
これ以上の会話は誰にとっても楽しくならないことは分かり切っている。
僕は気分を切り替えて、千花のいる建物の影へと足を運ぶ!
其処には。
バニーが居た。
バニーガールではない。
バニーの着ぐるみを着込んだ、もこもこの千花が居た。
「それは予想外だ」
「似合いますかー? 似合いますよねー? 演劇部から借りて来たんでーす!」
ぴょんぴょんと着ぐるみが飛び跳ねる。
白いもふもふした衣装の中で、常の如く超可愛い。
僕はすすっと近付いて捕まえて、存分にもふもふすることにした。
◆
もふもふするというのにもコツやらパターンがある。
これで千花に本当に尻尾や耳が付いていたならば、嫌われない程度に全力でもふるのだが、着ぐるみとなると少々面倒くさい。だって直接身体に触れる訳じゃないし。感触ないし。
暫し考えた後、まず僕は千花を背後から捕まえて、そのまま屋上の床に座ることにした。
「いうなれば、これは、ぬいぐるみを抱くような恰好……」
昔、ピアノコンペに参加していた年齢の頃は、千花はこうして小さくぬいぐるみを抱えていた。
胡坐をかき、その間に置き、片手でしっかりとホールドする。
「着ぐるみを着ている状態でそれやってもあんまり楽しくないですねー?」
「安心しろ。こっからだ」
余裕綽々の顔をする千花に対して、僕は不敵に笑う。
そのまま隙間に手を入れた。
着ぐるみに覆われた、顔。頬に触れているもこもこの間に、すすっと指を入れる。
「えっ、ちょ、――しまりました! 着ぐるみだから首が動きません!」
「兎なら……
「タイム! タイムをようきゅふふふふふ! ひゃあん!?」
指先で耳をくすぐったら笑い始めた。
半分くらい悶えながら震えてくるので、逃がさない様に抱えて継続する。
おお、柔らかい髪と、すべすべの頬と、ちょっと汗で湿った感じが、混ざってて良い感じ。
「ややや、止めて下さいっていーちゃあはははは! そこ敏感ですから! 弱いんですってぇ!」
けらけら笑い続ける千花の言葉は無視して続行。最近はじゃれあう回数が減っていたからな!
ここぞとばかりに僕は攻める。びたんびたんと床を叩いて兎が跳ねる。
しかし動きにくい着ぐるみだ。僕の魔の手から逃げることは出来ない。
どうせならと両手を入れることにした。
胡坐をかいていた脚で、千花の脚を抑えてホールド。そのまま両耳に攻撃。
「ひぃうん! ちょっ――くくふふふ! タイむ! 参った参りましたあははは!」
「ん」
止めて欲しいと言われたので手を止める。
息が荒いまま、千花はべしゃーっと屋上に倒れこみ、ひくひくと身体を痙攣させている。
そのまま呼吸を整えるまで暫しじっとしていた白兎は、やがて起き上がる。
そして小声で。
「……も、もうちょっとやっても良いですよ?」
「じゃあ遠慮なく」
「そういうのは自宅のベッドでやってくださいません!?」
再開しようとしたら、頬を赤くした紀かれんに止められた。
この程度、何時もの惚気と大して変わらないのだが。
「いえ、変わりますからね! 行動が過激になってますわ!」
「向こう側でいちゃ付いてる御行氏達と大して変わりはしないと思うんだがなぁ」
「お二人なら良いのです」
解せない答えを言われたが、目の毒だというならば止めよう。
「じゃー、適度に疲れたところで、お団子食べますかー」
僕の束縛から逃れた千花は、カセットコンロに火を付けた。
そして鍋の中に『お団子』を――。
いやいや、ちょっと待ちなさい千花。餡子、用意したじゃん。
僕がそう言うと、彼女は「えっ」という顔をした。
えっ?
◆
と、もふもふもふもふとしていたのは五分前の事。
五分後、岩傘調と藤原千花は、実に微笑ましく馬鹿馬鹿しいやりとりをしていた。
驚くべき状態である。口論というか、子供の喧嘩というか。夫婦喧嘩というか。
――まさかこんな状況に居合わせるとは思いもよりませんでしたわ……!
紀かれんの目の前、秀知院の名物カップルは盛大なやり取りを繰り広げる。
「いや、なんで茹でるの? 態々餡子の準備したってのに。これじゃお雑煮だよね」
「だって最近涼しいじゃないですか。お鍋の準備もしてあるなら、茹でるって思いますよ」
テーマは『団子』について。またしょうもない理由でのやり取りだ。
やってる本人達は真剣な顔なので、口を挟めない。
この二人、セットになると精神年齢が下がりすぎるんじゃないか?
――確かに小さな喧嘩はすると聞いていましたが、これがカップルの余裕でしょうか……。
友人:柏木渚も言っていた。
『好きだからこそ色々喧嘩が出来る。互いに言い合えるんじゃないかな』と。
尤も当の本人達は苦手らしいが、目の前の二人はまさにそれ、忌憚なく意見を言い合える状態。
かれんにすると割と鬱陶しい。この二人は記事にならないからだ。記事にするまでもなく学園の誰もが関係を知っているからだ。
それでもこの場に来たのは、他でもない生徒会長と副会長の様子を観察できるから。
「会長、どれが秋の四辺形なんですか?」
「興味があるのか? じゃあもっとこっちに来い。良いか? 親指の先と人差し指の先を――」
その狙いと希望は叶っている。
陰から伺うと、かぐやの肩に手を回した白銀御行が、星座の講義を行っていた。
その様子はまさに、かれんが見たかった景色そのものだ。
早坂愛が監視をしているから記事には出来ないだろうが、心の中に保存するには十分すぎる。
視界に映る二人の様子は、そこだけが煌びやかに輝いて見えた。
――ああああ、こっちは尊い。尊いのですわ……。ですが――!
「いやいや、そもそも生徒会室での会話は聞いてたよね? 準備した餡子はどうするの?」
「良いじゃないですか。私はこっちが食べたかったんですもん!」
――背後がうるさいのです……っ!!
ロマンティックに会話をする二人(かれんのバイアス有り)とは対象的に、後ろが喧しい。
もふもふの白い着ぐるみに全身を包んだ藤原千花が、がおーとでも言いそうな格好で腕を上げて威嚇。
それに対してかかってこいやという格好で構える広報。
生徒会のトップ二人の様子を眺めて居たいのに、それを許してくれないのだ。
「お二人とももう少し静かにしていただけません? 迷惑ですよ? エリカ、貴方も何か言ってあげて!」
「二人とも違うよ! お団子に合うのは味噌ダレだからね!」
「そっちじゃないですわ!」
駄目だ、この相棒は役に立たない。
四宮かぐやの姿を見て――今回の月見に誘われたときから、彼女は既にヘヴン状態。
『同じ月を眺めているだけで幸せ』とポーっとしている。話題を振っても今の通りだ。
エリカの言葉を、喧嘩中の二人は揃ってスルーし、続行する。
向こう側では!
最高のカップルである二人が!
白銀御行のコートを掛けられ、水筒で間接キスをし、あまつさえ二人並んで空を見上げている!
その様子をずーっと眺めて居たいのに、集中が出来ない。ああ鬱陶しい!
「大体な、なんでお雑煮なんだ?」
「だって最近、出汁の取り方教わったんですもん! なら作ろうかなって思うじゃないですか!」
「藤原家の雑煮の味とか今更だ! 何年正月を一緒に過ごしてると思ってる! どうせ餡子が甘くてカロリー気にしてるとかそんな理由だろ」
「ちょ、いーちゃん!? それは禁句ですよ! 女子に何言うんですか! 気にしてないです!」
「はっ、お前の体重とか僕が知らない訳ないだろ。最近ちょっと重いぞ」
「私のは筋肉が多いんですー!」
しかも段々口喧嘩から惚気喧嘩に変わってきている。
余計に鬱陶しいんだが。
――体重を知っているというのは……た、体重計の数字を知っているという意味ですわよね……? 断じて互いの重さを知るような行為をしているという訳ではないですわよね……?
心労が積みあがっていく気がする。
若干顔が引きつっている自覚がある。
誰か助けてくれないか、と周囲を見ると、月を見ているのか喧嘩を見ているのかゲーム画面を見ているのか怪しい石上優と目が合った。
「石上会計、お二人を止めては――」
「僕じゃ無理ですよ。口を挟むと余計に惚気がヒートアップするだけなんで。心の中で『うるせえ
そっけない態度だが、石上優という男子が悪人ではないと、かれんは知っている。
うっかり妄想を形にしたノートを発見され、彼に編集としての意見を貰ったから、ではない。
あの二人が引っ張り込んだからには、優秀で善良なのだ、と納得しているからでもない。
彼の悪い噂と、彼の過去の行いは、誤解と冤罪によるものだと知っているからだ。
石上優を生徒会に引っ張り込む際に。
彼を復帰させる為の協力を、岩傘調に要請されている。
その見返りは、マスメディア部による多々ある取材の許可と援助だ。
記事にだけは口出しをしてくるが、その程度。あれこれとする交渉も、あれはあれで楽しいと思う。
「あーもう分かった。分かった。じゃあこうしよう。どっちも食べる。その上でもう一回話し合いだ!」
「良いでしょう! じゃあかぐやさん達からの意見も聞きましょうよ」
「あ、それはダメ。あの二人、今良い感じだから邪魔しちゃ悪い」
「そこは気を使うんですの!?」
思わず大声が出てしまったのも無理はない。
自分らの背後で散々にこっちの邪魔をしていた癖に! と内心で思っても無理もない。
――私もいっそ誰かと交際できれば変われるんでしょうか……。
鍋を囲むように着席する。
隣のエリカはまだ月を見てほけーっとしていた。
「私の気持ち、少しは実感できましたか」
「気苦労が耐えないとは、よーく分かりましたわ」
早坂愛の瞳は『貴方達の活動も気苦労の一因なのですが』と語っている。
貴方だってさりげなく私達の取材を邪魔していたからお相子ですわ。
◆
団子も食べ終わり、月見も終わり、屋上からも撤収。
御行氏は自転車で。石上は徒歩で。かぐや嬢は早坂と共に車で帰り、僕はといえばまだ校内だ。
「ふぅ、やっぱちょっと暑かったです」
「日が落ちたとはいえまだ汗ばむからね」
着ぐるみを着たまま団子を食べた千花は、寸前のくすぐりもあって、体温が高かった。
ちょっと大変だったようで、いそいそと着ぐるみを脱いで、大きく息を吐く。
「うわー、結構汗になっちゃってますよ。嫌だなぁ」
「そう?」
近寄る。ふむ、なるほど。確かにちょっと汗をかいている。常の甘い匂いはそのままだな。
すんすんと鼻を動かした僕は、観察する。
服が肌に少し張り付き、若干透けている。暑いーと言いながら髪を束ねた。首が色っぽい。
僕の目に千花は『何見てるんですかーエッチなんですからー』と頬を膨らませる。
「というか嗅がないで下さいよー、気にするんですよ! 乙女は!」
「もっと過激な匂いとか知ってるし」
「そういう話でも問題でもないです! ちょっと背中が濡れて気持ち悪いので、いーちゃん、服」
「はいはい」
気温の山場は越えたが、まだまだ体育をすると汗をかく時期だ。男子であれば猶更に。
制汗スプレーの類は、学園では歓迎されていない。香水にも注意が飛ぶし、敷地内にはシャワールームが設置されているというのもある。だから鞄の中に、替えのシャツは持ち歩いている。
僕の物なのでちょっとサイズは大きいが、胸回りは丁度良い筈だ。
……最近、また大きくなってる気がする。育ったのか?
着ぐるみを演劇部に返却し、生徒会室の戸締りを確認して、鍵をかける。
さて帰ろう。
「……なんかあった?」
服を着た千花は、ちょっと動きが止まっていた。
すんすんと服の袖に顔を近付けて、先程の僕の様に鼻を動かしている。
「いえ、こう、何と言いますか――いーちゃんに包まれてる感じがするなあ、と」
「望むなら何時でも、僕の腕で実行してあげるけど」
腕で包むと書いて抱くと読む。
そっちはまた今度で良いですと言われてしまった。
「なんか残念そうな顔をしてません? ――じゃ、手を繋いで帰りますか」
僕の顔が、なんとなくしょんぼりしていたらしい。
千花の気遣いに、ちょっと機嫌が良くなった。
そうしよう。指と指を絡めて、距離を詰めて歩く。
人気のなくなった校舎の中、出来るだけ速度を落として、ゆっくりと。
夜空の満月は輝いていて、歩く道を光が照らしている。
迎えは既に昇降口まで来ているので、そこまで二人だけの散歩だ。
「月、綺麗ですねえ」
「それは僕の言葉だと思うんだけどな。でも……死んでも良いくらいの、綺麗な月だ」
千花の言葉に『それでいい?』と目で伺うと。
『死んだら駄目ですよ』と返された。
意味は通じている。国語の勉強を一緒にした甲斐があったという物だ。
「死なない死なない。……何時か、近い内に、僕の方から同じ言葉を言うからさ」
「待ってまーす!」
そんな感じで、僕と千花は仲良く月を見上げたのである。
尚、昇降口前でぼーっとし過ぎて『早く車にお願いします』と叱られた。