No Answer 作:報酬全額前払い
贅沢言わないの。死んだ人間だって立派な食料よ
──ガンガンと頭の中で無数のIDWが踊り回っているような痛みと共に意識が浮上する。
質の悪い睡眠を貪った後に決まってやってくるその症状は、彼にとって最も来て欲しくない地獄のような一瞬であった。
「ああくそ……」
たまには質のいい睡眠を取りてぇ。とボヤいた指揮官が身体を起こす。すると、掛けた覚えの無い毛布が床に落ちた。
「……」
それを片手で拾いながら、空いているもう片方の手で頭を無造作にガシガシと掻く。そうして周囲を見渡すが、布団を掛けてくれたであろう彼女の姿は見当たらない。
働かない頭を抱えたまま暫くボーッとする彼の耳には、このS03地区に着任してから飽き飽きするほど聞いた、雨粒が窓ガラスに打ちつけられる音のみが聞こえていた。
「今日もまた雨か……」
思わず呟いた。最後に太陽を見たのは、一体いつだっただろう。そんな事も思い出せないくらい長い間、晴れた空の下を歩いていない。
いや、そもそもこの街から最後に出たのは何時だっけ?確かグリフィンの本部に出張した時が最後だが、それがどのくらい昔だったかは思い出せない。
よたよたと、まだ覚束無い足取りで窓際まで歩いた指揮官は、そこから雨で見晴らしが途轍もなく悪い景色を見た。
どんな時でも無音で回転する赤色灯と、決まったルートを巡回している黒いフード付きレインコート姿の人形もまた、雨の音と同じく代わり映えのしない日常の一部分であった。
レインコートが規格品かつフードを目深く被っているが故に、中身が誰かは分からない黒い人形が窓から見えなくなるくらいの時間が経過すると、ノックも無しに執務室の扉が開かれる。
指揮官が振り返れば、朝食の乗ったトレーを持ったネゲヴがそこに居た。
「おはよう。よく眠れた?」
「おはよう。最悪な目覚めだった」
「そう、なら上々ね。一度最悪を経験してしまえば、大抵の悪い事は笑って流せるものよ」
さっきまでベッドの代わりに使っていた、本来は来客用に用意されているソファに座って、これまた来客用に用意されたテーブルにネゲヴがトレーを置く。
今日の朝食も、原材料が良く分からない棒状の栄養食と味気の無いレーションという、昨日も一昨日もその前も食べた組み合わせだった。
「それ昨日も聞いたな」
「そりゃそうでしょ。昨日も言ったもの」
棒状の栄養食が口の中の水分を根こそぎ奪っていくのを感じながら、もしゃもしゃと咀嚼する。
指揮官のそんな様子を見ながらネゲヴは執務室にある電気ポットからお湯をカップに注いで、続いて何かの粉末をそこに溶かしこんだ。
「はいコーヒー。インスタントだけど」
「ありがと」
この荒廃した世界におけるインスタントコーヒーとは、大戦前に販売されていた同名の物とは全く異なる物である。
昔の物はコーヒー豆の抽出液を乾燥させて粉末状に加工した物であるが、今のインスタントコーヒーとは、化学調味料などを合成して味を作った物だ。
つまり、身体には物凄く悪い。
「あー……何杯飲んでも不味い」
「飲めるだけマシよ」
「分かってはいるんだけどな」
かつてインスタントと呼ばれていたコーヒーですら、今では滅多に手に入らない高級品と化している現状。その値段の高さたるや、高給取りの指揮官ですらも手を伸ばしづらい。豆そのものとなれば、社長クラスでなければ手に入れるのも難しい。
しかし、この化学調味料マシマシのインスタントコーヒーですら、グリフィンで働かなければ日常的に飲む事は厳しかっただろう。嗜好品は全て高いのだ。
「ふう、ご馳走さま」
味はしないクセに水分だけは持っていく栄養食の最後の一欠片をコーヒーと共に胃に流し込み、そうしてからカップを置いて指揮官は背伸びをした。
「どう?お腹は膨れた?」
「それなりには」
「なら良かった」
その容姿と相まって、目を閉じたネゲヴが穏やかな笑顔を見せる事に何の違和感もない。しかしネゲヴがハイライトの無い目を開くと、その笑顔は途端にアンバランスさを感じさせる。
なんというか、本当に笑っているのか笑っていないのか分からないのだ。
「さ、少ししたら仕事を始めるわよ。今日も多くの面倒事が待ってるわ」
「それを言うなよ……」
嫌そうにしながら指揮官はソファから執務用の椅子に移動した。その背後の窓に打ちつけられる雨粒の勢いは、先程より多少強くなっていた。
現在S03地区と呼ばれている、かつてはどこかの国の地方都市であったこの街は、大きく分けて四つの区画に分けられる。
まずは、地区を運営するのに必要な施設が集められている行政区画。
次に、富裕層が暮らす高層ビルや、そこに暮らす人々をメインターゲットにした店が立ち並ぶ高層区画。
三つ目に、中から下の所得層の人々が暮らし、強盗や殺しが横行している低層区画。
最後に、S03地区全体の電力や飲み水を賄う施設や、人形が使う大量の武器弾薬や人形に配給される食料なんかを保管する倉庫群が立ち並ぶ産業区画。
面積で言えば低層区画が最も広く、そこから産業区画、高層区画、行政区画の順番に小さくなっていく。
人口の多さで並べて替えても低層区画が一番で、そして行政区画が一番少なかった。
そんな、最も人口が多い低層区画には、合法非合法を問わず様々な店が存在している。大体は店が縄張りを持っていて、そこに干渉しないように店と店の距離が多少離れているのだが、そんな店が密集している場所も存在していた。
低層区画に幾つか存在する店の密集地帯は闇市と呼ばれていて、そこは低層区画の住民が多く集う。
ここには大体の店が揃っている。狭いスペースを精一杯生かした飲み屋や、洗濯バサミから得体の知れない物まで取り扱う何でも屋、ボロ布を販売する服屋。
賞味期限切れの缶詰すら売り物にする食料品店は当然あるし、非合法かつコピー品やジャンク品の武器を扱う店も存在していた。
流石に見世物小屋は此処には無いが、此処で見世物が見たいのなら横に一本伸びた路地の方を見ればいい。そこでは常に、酔っ払った誰かが殴り合いの喧嘩を行っている。
観客参加型で費用は有り金全部という見世物は、他では味わえない臨場感を与えてくれるに違いない。
「はぁ……」
そんな闇市の中を、ゆっくり歩いて進む者がいた。憂鬱さを隠さずに微かに漏らした声からは、わずかに女性特有の高さがある。
こんな場所に女性が訪れるのは珍しいのだが、しかし、誰もそれを気にしない。声が雨の音にかき消されたというのもあるが、ここに居る人間は誰しも隣の人間を気に掛ける余裕なんて無いからだった。
「今日も雨なんて、うんざりしちゃう」
この街を歩くのならば、レインコートは必需品だ。なぜなら、このS03地区は一日の殆どが雨だからだ。
元からこういう気候だったのか、それとも大戦の影響で気候に変化が生じてしまったのか。どちらなのかは分からない。
まあ、分かったところで意味もないが。
とにかく、この街ではレインコートが普段着の一つとして扱われる。着ていることが当然で、着ていなければ部外者だと誰から見ても分かるくらいだ。
そのお陰で、こうしてレインコートのフードを目深く被っていれば、こういった場所に女性が紛れても、ある程度は気付かれない。
そして、その下に拳銃を忍ばせていても気付かれないし、ましてや彼女が戦術人形だという事実など気付かれる筈がない。
彼女、Five-sevenは本日から増員されたパトロールの一体である。普段は司令部のある行政区画内部の警備を担当しているが、今日からは久しぶりにそれとは異なる通常任務をやる事になった。
仕事とはいえ休み以外で行政区画から外に出られる事に多少のワクワクを覚えていたのだが、雨のせいで早くもテンションが下がってきていた。
「…………」
常に薄暗い雲がかかっているから分かりづらいが、今はまだ朝早めの時間だ。しかし幾つもある飲み屋のほぼ全てに、もう人が居る。
闇市の飲み屋で出されているアルコールなんて、殆ど工業用だとかの飲むには適さない物だろうに。それでも人の波が途切れる事はなかった。
よく観察してみれば、この闇市で店を構える者達も、道を歩く者達も、大体がアルコールが入っていると思われる瓶や缶を手に持っている。
飲み、そして酔っ払うという行為は、ここで暮らす者達の唯一といっていい娯楽という面もあるが……何より、酔わなきゃ毎日やってられないという切実な理由があった。
夢も希望もあったもんじゃないこの世界は、正気で生き抜くには少々厳しい。
決して良くはならない現在。それどころか徐々に悪くなっていく生活。手を伸ばしても高層区画の人間には届かず、己の苛立ちや欲が募る日々……
それらを直視し続けるのは非常に難しい。アルコールの力を借りて多少でも苦しい今から逃避しなければ、いつか壊れてしまう。
なので低層区画で生きる者達はアルコールを手放せない。たとえアルコールが己の精神を壊していく劇物だったとしても、使っている間だけは目前の絶望を見なくて済むから。だから、緩やかに朽ちていくと分かっていても止められない。
数時間の間のみでも苦しみから解放されるために日銭を稼ぐ。アルコールを飲んで、酔って、また飲んで、酔う。
そうやって自らの命が尽きるまで、自律人形よりも単調なルーチンを繰り返していくのだ。
だからだろう。人が集まった時に生じる熱気というものが、この闇市には存在しなかった。
生きながら半ば死んでいる者達しか集まっていないから、人が多いにも関わらず静寂に満ちているのだ。
常に降り注ぐ雨音は雑音を消し去る効果があるとされているが、それを差し引いても静か過ぎた。
──何処かで酒に溺れてうわ言を言う老人の大声が、闇市の端まで届く。雨で大部分がかき消された言葉では何を言っているのかは分からないが、その言葉に込められた嘆きだけはFive-sevenにも理解できた。
たった一人だけの嘆きの声だが、それはこの場に立ち寄っている者達の全ての想いを代弁しているようであった。
死人に口は無く、何も語らない。
であるならば、闇市に集まっているにも関わらず何も語らない者達は、間違いなく死んでいた。
そんな生ける死人の間をFive-sevenは縫うようにして進んでいく。今のところは、特にこれといった異常は見当たらない。
朝から飲んだくれる男達も、アルコールに精神を壊された者が銃を乱射しているのも、そして路地裏に転がる死体も、データによれば毎日の事らしいので問題は無い。
(異常なし、かな)
少なくとも、この闇市に怪しい者は居なさそうだ。そう判断したFive-sevenはこの闇市を後にしようとして…………大通りを行進する人々の群れに気づく。
何か書かれた看板を掲げて行進する姿に不審なものを感じたFive-sevenは、それを歩道から見る野次馬に紛れて観察する事にした。
「我々は人類人権団体、希望の未来である!」
先頭を歩く代表者らしき者は、薄汚れたメガホンを片手にそう告げている。
希望の未来……Five-sevenがアクセスしたデータバンクには、そのような団体名は記載されていなかった。どうやら、性懲りも無く現れた団体組織であるらしい。
「我々は、おぞましいロボットによって奪われた人間の尊厳と生活を取り戻すために活動している!」
(はいアウト)
Five-sevenは通信回線を開いて場所の座標を送った。もう間もなく、治安維持のための警備部隊がやって来るだろう。
当然の事ながら、特権階級である高層区画に住まう人間や、大企業であるグリフィンに対する不満の声は大きく、悪感情を抱いている者も多い。
そして、その中でも特に槍玉に挙げられるのが、人間でないにも関わらず人間そっくりに食料や水を消費する戦術人形達である。
こういった手の者達のテンプレートは、ロボットなどよりも貧民が優先されて然るべき。という考えを声高に叫ぶことだ。
彼らもその例に漏れず、声を高々とあげながら、人形という人間を模して作られた、おぞましいロボットをこの世界から排斥しなければならないと叫んでいた。
しかし道行く者達からの反応は薄い。というのは、こういったデモ行進は毎日のように低層区画のどこかしらで発生しているからだ。
今更目新しさも無く、しかもこんな事をすれば間違いなく警備部隊がやって来て鎮圧される。
「──貧民達よ、今こそ立ち上がるのだ!そして悪虐非道なるグリフィンの連中を打ち倒し、奴らの薄汚い腹に溜め込まれた物資を共に分かち合おうではないか!」
誰も答えぬ静寂に、代表者の声が虚しく響く。思った反応が得られなかった代表者は狼狽えたようだが、なぜ分からないのだろう。
死人に口は無いから何も語れない。そして同時に沈黙は金でもある。
野次馬達は死人のように口を閉ざす事で、自らの命という金を手する事を選んだのだ。
「あんたらの活動方針はそれか」
そんな彼らの行く手を阻むように、何台もの車がやって来た。その内の一台から降りてきた警備部隊隊長のトンプソンは、Five-seven経由で聞いていた演説にそう答えた。
「貴様達は……グリフィンの雌犬か!」
「雌犬ねぇ……まあ、間違いではないな」
私達の性別はメスだしな。と笑うトンプソンの後ろの車から降りてきた警備部隊の人形達は総勢十体。
ハンドガンとサブマシンガンを中心にして組まれた警備部隊は、このような異分子が現れた時に即座に駆けつけ鎮圧を行う役割を担っていた。
「それで?貴様らはどうする気だ。このまま進めば行政区画に辿り着くが、我々としてはそれは見過ごせない。ここで引き返すのであれば、お互い弾を無駄にしないで済むんだが」
「ふん、我々を見くびるな!貴様たちと、そのボスとやらを始末して、すぐにでも貧民を救済してみせるわ!」
希望の未来の代表者と、その背後の構成員達が銃を構えたが……それを見たFive-sevenの眉が僅かに動く。あれは、さっきの闇市でも売られていたジャンク品の銃だ。
「なるほど……いやはや、助かった」
それを見たトンプソンは安堵したようにそう呟いた。
「武器も持たない市民を一方的に"鎮圧"するのは、少しばかり外聞が悪いからな」
その言葉に警備部隊の人形達も武器を構える。
高まる緊張に流血沙汰になる事を察した野次馬達は、みんな蜘蛛の子を散らすようにして路地に逃げ込んでいった。常日頃から警備部隊の鎮圧を見てきているだけに、その動き出しは早かった。
「容赦するな。ボスの意思に逆らう愚か者共を、全て抹殺しろ」
最後の一人が路地裏に逃げ込むと同時にトンプソンがサングラスの奥の猛禽のような目を獲物へと向け、静かに告げる。それが合図となって、警備部隊側の銃火器が一斉に火を噴いた。
「もういっか」
そこまで見てから、Five-sevenも路地裏に戻っていった。
彼女達は、犬は犬でもグリフィンに歯向かう反逆者達を決して逃がさず始末する猟犬だ。
獲物は決して逃がさないし、生かして帰す事も無い。
あの程度で仕損じる事は無いだろうと分かっていた。そして、見えている結果を確認しようと思えないくらい、雨脚も強くなってきていた。
銃声から遠ざかるように路地裏を通って、抜けた先の路地に止めてあった車に乗り込む。
「お疲れー。大捕物やってるみたいじゃん」
運転席に座っていたのはAK47。彼女もまた、増員されたパトロールの一人である。
「まあね……うわぁ、足元びっしょり」
「基地に戻ったらシャワー浴びなよ。この時間なら、待ち時間も無く入れるでしょ」
「そうするわ……はぁ、憂鬱」
低層区画は道路の舗装も大してされていないから車が時々ガタガタ揺れる。そんな車内から、建ち並ぶ廃墟一歩手前の建造物に住まう人々を眺めていた。
「今日のお昼ご飯、なんなのかしらね」
「どうせレーションだって。あたしも偶には、なんか違うもの食べたいけどさー」
外では誰かが殺されているというのに、車内は恐ろしく平和だった。
外と内の温度差が激しい車が、対向車の影も形もない道路を通って行政区画に戻るのには、まだ少しばかりの時間が必要である。