セイバーの横を通り抜けたケイネスは大破した大門の前で、先ほど取り出した黒い液体で満たされた一本の試験管の栓を抜き、傾ける。重力に従って零れた中身が石畳に落ちて飛散した。
「
術式起動の呪文を呟くと、辺りに飛び散っていた液体が意思を持ったように一点に集い、球状に形を成した。
これこそケイネスが持つ数多の礼装の中で最強の魔術礼装『
魔力を充填した水銀を意のままに操るという、『水』と『風』の二重属性を持ち合わせたケイネス独自の魔術礼装だが、普段とは異なる様態を醸し出していた。
本来なら白い金属光沢を放つ水銀だが、ケイネスの傍らに鎮座する水銀球は対極の黒に染まり、葉脈のような赤い筋が幾重にも這っていた。
この場にもし、セイバーが居合わせていれば、それがバーサーカーの魔力が浸透した代物──―魔術礼装を逸脱した擬似宝具だと察することだろう。
しかし、如何に擬似宝具と言えども『
「
故にケイネスは基本的な命令を紡いでいく。その都度、それに応答するように水銀球は表面を震わせ、荘厳な城に似つかわしくない惨状を呈した城内へと歩み寄る彼の足元を転がりながら追従する。
戦闘の準備が完了したところで、ケイネスはホールに踏み込んだ。先ほどまで外観と遜色無い豪奢さを誇っていたであろう内装はズタズタに引き裂かれており、仕掛けられていた罠の悪辣さを物語っていた。
「
ケイネスはホールを一眸すると、無人のホールに迎撃者が潜んでいないと判断して『
水銀が命令を履行すべく、細い触角を四方八方に撒き散らし、結果が分かるや否やその表面を震わせてケイネスに結果を伝播する。
"この階は無人か……"
結果を把握したケイネスは水銀を先行するように命ずる。
その後に続くケイネスは、荒ぶる心を平静させるように手の甲に刻まれた三画の令呪を撫でた。
ホールの物陰に設置しておいた隠しカメラによって、衛宮切嗣は城内の一室に居ながら、『
最善は大門に控えていたセイバーがバーサーカーを始末、若しくは森林に潜ませた久宇舞弥がケイネスを暗殺だった。次点で城内のホールに仕込んだクレイモア対人地雷で噂に聞く『
考え得る限り、最悪の形で入城された。その事実に歯噛みしながら切嗣は脳内で策略を思案する。
ケイネスは一階の部屋を一つ一つと虱潰しにして自分を探してくるはずだ。幸い、現在地は二階の奥で、敵陣を爆破する為の爆薬も残っている。今からでも戦闘の準備を万全にできる猶予はあるだろう。
そう考えた切嗣は行動に移るべく部屋から出ようと扉に向かい、立ち止まった。
手にかけようとしたドアノブの鍵穴から、糸ほどの細さの水銀が垂れていたのだ。音も無く滴り落ちていくそれは、扉の中腹程度までに伸び、少しばかり静止した後にビデオを逆再生したかのように鍵穴へと這い上がり、室内から消え去った。
「……なるほど、自動索敵か」
敵の魔術礼装に備わっていた厄介な能力を苦々しく呟いた直後、室内に敷かれていた絨毯ごと床が階下へと崩落した。
円形に切り抜かれた部屋の中央から、皿状の水銀を足場にしたケイネスが姿を現した。
「見つけたぞ、エミヤ・キリツグ!」
切嗣を視認したケイネスが吼えた。続けざまに水銀に攻撃を指示しようとしたが、それよりも早く、腰のホルスターからキャレコ短機関銃を引き抜いた切嗣が引き金を引いた。
即座に水銀がケイネスの前に防御膜を形成し、弾丸の嵐を防ぎきる。弾倉が空になるまで、僅か数秒。
だが、その数秒は切嗣の魔術を起動させるには充分すぎた。
「
「
切嗣の詠唱が終わると同時にキャレコの弾幕が途絶え、その瞬間を見計らったようにケイネスが攻勢に出る。
眼前に展開された水銀の膜が二分され、左右同時に黒い斬撃が切嗣を薙ぎ払う軌道で振るわれた。
ダイヤモンドさえ切り裂く死の一撃が胴に触れる直前、切嗣は人並み外れた速度で二振りの水銀の触手を回避してみせた。
標的を失った水銀の斬撃が、壁を破壊した。
「くッ!? ス、Sca──―」
再度ケイネスが攻撃を指定するよりも先に、切嗣は高速で壁を走ってケイネスを抜き去り、勢いそのままに水銀と床の隙間にその身を滑り込ませることで部屋の開口部からの離脱に成功した。
「やはり、多少は魔術の心得があったか……」
一人室内に佇むケイネスは何ら驚いた様子も無く、そう呟いた。衛宮切嗣の毒牙にかかったという魔術師の遺体の状況を聞き受けた時から、単なる卑劣漢ではないとケイネスは確信していた。
そして傭兵ということからアインツベルン以外にも魔術師のパトロンがいるのかと推察していたが、よもや本人が魔術に精通しているとは思わなかった。
つまり、衛宮切嗣は魔術の薫陶を受けながらも魔術師としての誇りを持たず、科学の粋に縋る卑劣漢。その上、手段を選ばぬ外道というわけだ。その認識がケイネスを更に苛立たせる。
「殺すことに変わりはないが──―何処までも私を不快にしてくれる……」
ケイネスが指を鳴らす。すると、ケイネスに皿状の足場を提供していた水銀は形はそのままにケイネスの自重に従ってゆっくりと階下へと降下していく。
「
一階に降りたケイネスはすぐさま水銀に下知を下す。内容は影も形も消え失せた衛宮切嗣の捜索、そして察知した標的への接敵。
下知を受けた『
ものの数秒で城内に走らせた触角たちを集束させ、完全な球状を取り戻した水銀球は標的めがけて猪突猛進の勢いで転がって先行する。
“焦ることはない、優位なのは私だ。”
それに続くケイネスの顔は何も感じさせぬ冷え切った表情を浮かべ、突き進む水銀を追っていた。
ケイネスの奇襲を凌ぎきり、視線を切った切嗣は曲がり角で足を止め、柱の陰に身を隠した。
おそらく水銀の触手は蜘蛛の巣のように何度も張り巡らされ、切嗣の正確な所在を割り出そうとしているだろう。
先の切嗣の位置を特定した水銀の探知は、空気振動を判別することで聴覚の代理を為し、気温の変化から熱源を察知したのだろう。
ならば、心拍音、呼吸音、それに体温さえ誤魔化せば、ケイネスを出し抜ける。
"─―─そうじゃなければ、また逃げに徹すればいい"
天井より滴る水銀の糸を見据えて切嗣は魔術を起動した。
「
今度の固有時制御は先の加速した術とは逆のものだ。切嗣は生体機能を三分の一のスピードに減速させた。
結果、呼吸は鈍り、心拍も鳴りを潜めた。血流が減速した影響で全身の体温は室温と遜色ないまでに冷却される。
切嗣の憶測が通りだった探査術は、この廊下を無人と判断したのか、水銀の触角は急速に元来た道を巻き戻っていく。
そして廊下を蹴る靴音が耳に届いたと同時に停滞を解除。柱から飛び出し、無人だと思い込んでいるケイネスへの奇襲を開始した。
「─―─ケイネス!」
「─―─ッ!?」
予期せぬ奇襲に動揺したケイネスに対して切嗣は左手で構えたキャレコの弾幕を浴びせる。
だが、主人の動揺をよそに『
「─―─猪口才な。もう逃がしはせんぞ!」
このやり取りが先の焼き直しだと理解すると防御膜の向こうでケイネスは平静を取り戻す。
だが、ケイネスは既に自立防御の弱点を見抜かれていることを知らなかった。
膜が張られた瞬間、切嗣はキャレコの引き金から指を離して空いている右手でコンテンダーを抜き放ち、漆黒のカーテンのど真ん中目掛けて発砲した。
『
故にキャレコの威力に適応した防御形態を取った水銀は、迫り来る大威力の銃弾を防ごうとしても、変形が間に合わない。
そう推察した切嗣は間違っていない。実際、本来ならば此処で『
切嗣の誤算。それは『
「
銃声だけが鳴り響いていた廊下に、ケイネスの一喝が響いた。
漆黒のカーテンが一瞬にして溶けて水銀球へと逆戻りし─―─銃弾を優に超えた速度で水銀の触角が蜘蛛の巣状に射出された。
「
流石に戦闘慣れしているだけあって切嗣の対応は早かった。即座に自身の出せる最大限の加速を以って、蜂の巣にせんと牙を剥いた水銀の槍糸を高速体術で回避していく。
だが、余りにも数が多すぎた。
何本かの水銀の糸槍が切嗣の身体を裂いた。
時間にしてほんの数秒の出来事だったが、それでも切嗣は"時の流れ"から肉体を切り離した代償に喘ぎながらも患部の確認を急いた。
傷は三箇所。左肩、貫通。右頬、左脇腹に僅かな裂傷。
銃弾の雨の如き攻撃をこれだけで抑えれたのは僥倖だと言うべきだろう。
そして、右の脇腹を抑えていることから、雑な照準でケイネスにダメージを与えれたのも幸運だろう。
だが、窮地であることに変わりない。
キャレコ短機関銃、装弾数三四発。コンテンダー、装弾数零。ナイフ一本。魔術は使えて二倍速が限界だろう。
"どう考えても詰みだ。令呪を切るしかないッ"
そう思い至った切嗣はキャレコを撃ちながら令呪を掲げ、念じる。
セイバーを転移させる気だと勘付いたケイネスがそれを封殺すべく、水銀に攻撃を命じる。
「令呪を以って─―─」
「これで終わりだ─―─
二分された水銀の触手の片割れが銃弾の雨をシャットアウトし、もう片方が切嗣を叩き潰さんと唸りを上げる。
──"間に合わない"
迫る鞭を眺めてそう悟った切嗣だったが、一縷の希望を賭けて、キャレコの射撃を止めることはなかった。加えて令呪の使用も中止しない。
その甲斐あってかは不明だが、契約した白銀の騎士ではなく───
─―─城の窓硝子を突き破り、黒衣の男が切嗣の前に割って入った。
アイリスフィールはこの聖杯戦争における自分の役割を正しく理解していた。
彼女は前回に起きた聖杯の破壊という事故を経て、同じ轍を踏まぬようにと鋳造された小聖杯を守るためだけに鋳造された殻に過ぎない。
故に、サーヴァントが消滅して聖杯が本来の機能を取り戻していく度に彼女の生体機能・人格は剥がれ落ちていき──―最終的に”アイリスフィール”という外殻は消失することになる。
が、そんなことは彼女にとっては些細な問題だ。とうの昔に覚悟など済ませているのだから。
だが、彼女は一族の悲願の為ではなく、生家に遺した一人娘に自身と同じ一族の業を背負わせない為に聖杯戦争に望んでいるのだ。
だからこそ彼女は、眼前で繰り広げられる嵐の如き戦闘を前にして、ケイネスがいる城内へと逃げることはできず、況してや離れた木陰で昏倒している舞弥の手当てに向かうこともできずにアインツベルン城の城壁の隅で伏せていることしかできなかった。
「──―せやあああッ!!」
「──―■■■■■■■ッッッ!!!」
静寂な闇夜の中で咆哮を上げながら二体の英霊が鎬を削る。
共に剣を得物とする英霊は互いに一歩も譲らぬ激しい剣戟を繰り広げる。
セイバーの不可視の剣をバーサーカーが受け止める。バーサーカーの全断の一撃をセイバーが紙一重で回避する。
一振り一振りが周囲の木々を易々と伐倒し、発生する風圧が大地を捲り上げる。
両雄の放つ一撃一撃は既に当たれば勝負を分ける破壊力を秘めていた。にも関わらず、両者は間合いから退くどころか、寧ろ剣戟の苛烈さを増幅させる。
「ぐぬ、く……ッ!」
「ar……theraaッ……!」
金属と金属を打つける音を轟かせてセイバーとバーサーカーは苦悶の声を漏らしながら鍔迫り合いへと縺れ込んだ。
セイバーが魔力放出で押し切ろうと謀る。バーサーカーも殺意に塗れた魔力を逆巻かせ、捩じ伏せんと圧する。
「ar──―theraaaaaッ!!」
「は……ああァッ!!」
セイバーを魔人の膂力を以って押しながら喉が枯れ果てるまでに何者かの名を絶叫するバーサーカー。
これ程の武人が狂乱に囚われてしまうほどに執着させる者に関心が向く以上に、その名がセイバーの平静を乱させる。
アーサー。
それはセイバーが生前に名乗っていた偽りの名前。
そして、その名を世界に轟かせる英雄は世界広しと言えど、ただ一人。
真名、アルトリア・ペンドラゴン。
嘗て十三人の高名な騎士を束ねてブリテンを治めた騎士の王。それこそがセイバーの正体だった。
ならば、アーサー王の名を叫びながら彼女に斬りかかるこの狂戦士は同じ時代を駆けた英雄なのだろう。
理性を捨ててまで己に執着するくらいだ。敵対関係にあった蛮族の誰か──―と考えたかったが、セイバーにはそうとは思えなかった。
確かに生前は蛮族共に苦渋を舐めさせられたのは事実だが、それは"個"としてではない。騎士王や円卓の騎士という強大な英雄たちを以ってしても駆逐が追い付かぬ程の"群"に手を拱いたのだ。
確かに奴儕の中には優れた者も居たが、英霊として祀られるほどではないし、況してや最優のクラスに据えられた騎士王と張り合えるはずもなく。
となれば、彼女が持つ残る縁は円卓の騎士だけだが、アーサー王としてではなくアルトリアという少女はその可能性だけはあり得ないと認められない。
彼女に仕えた円卓の騎士は皆が高潔な精神の持ち主だった。目の前で剣を交える狂乱に身を委ねた狂戦士とは対極にある騎士道を誉れとした誇り高き騎士なのだ。
紅い双眸に憎悪を燃やし、獣の如く吠え猛るバーサーカーの適正を持ち合わすはずがない。
心ではそう思っているものの、そうでなければ説明が付かない根拠があるのも事実だ。
顔は誤魔化しが効かない以上、手を加えなかったが、生前はアーサー王として滞りなく振る舞う必要があった為、男装をしていたが、セイバーは青を基調としたバトルドレスを身に纏い、その上から全身を銀の甲冑で覆わせているのだ。
通常なら伝承上、男とされている騎士王が少女などとは夢にも思うまい。その上、女物の服を召しているのだ。彼女とアーサー王だと結び付けれる者など、この自分に縁があることと同義だ。
そして、何よりも──―召喚されてから、聖杯戦争が開幕してからも一度たりとも不可視の鞘に隠された刀身を晒していないのに、セイバーは常にバーサーカーに遅れを取っていた。
そも、不可視である『
それは一神話の頂点に君臨したフェルディアでさえも例外ではない。事実、彼はセイバーとの戦闘時、一不可視の剣の間合いに憶測がつくまでは劣勢を強いられていた。
にも関わらず、黒騎士は不可視の剣撃の悉くを弾き返し、剰え迎撃すらしてみせたのだ。まるでセイバーの執る剣を、その形状から刃渡りに至るまでの全てを熟知しているかのように。
このバーサーカーには『
それは──―英霊となる前の彼女と旧知であったことに他ならない。
そうでなければ説明が付かないのだ。
だが、仮に眼前の黒騎士が円卓の騎士に名を連ねた者だとしたら、彼等を束ねていた彼女は確実に知っていなければならない。
なのにセイバーは全身にぼやける黒い霧を纏わせたバーサーカーの真名を看破できずにいた。
「──―■■■■ッ!?」
セイバーが鍔迫り合いながらも自問自答を繰り返す最中、突如としてバーサーカーの超怪力が途絶した。
兜の奥から漏れた呻きは驚愕に染まっていた。
が。
英霊同士の戦闘において、その隙は大き過ぎた。
バーサーカーに押し込まれていたセイバーは、その隙を付いて押し返すのではなく、魔力放出を駆使して競り合いから真横へと離脱した。
セイバーという支えをいきなり失った黒騎士がつんのめる。
見逃すセイバーではない。
勢いに身を任せて回転し、鎧を捨てながら『
ばん、と破裂する大気。それまで不可視だった黄金の聖剣が姿を現した。
「──―はあああァッ!!」
裂帛の気合いとともに振るわれた黄金の聖剣。
渾身の魔力放出を乗せた回転による遠心力と『
百に及ぶ剣戟の末に、会心の一撃。セイバーの剣閃がバーサーカーを一閃した。
だが。
"──―浅いッ!? "
絶好の好機に放った決着の手応えを感じさせた一撃は黒い兜までを捉えたが、袈裟にするには至らなかった。
威力、速さ、タイミング、全てにおいて万全の一撃だった。だからこそ、セイバーは己の不運を嘆くと同時に慚愧の念を禁じえなかった。
バーサーカーも辛うじて回避できたものの、あまりの威力に片腕で罅の入った兜を抑えながらよろめいていた。
追い打ちを喰らわせるには充分すぎる隙だ。
まだ勝機はセイバー側にある。
刺突の構えで勝利剣の切っ先をバーサーカーに突き付け、魔力放出による砲弾が如き突撃で肉薄しようと魔力を滾らせるセイバー。
だが、次第に罅が走り、欠けていく黒い兜の状に足を止めていた。
「……Ar……ther……」
先のセイバーの一撃によって生じた
砕け散った兜の下から、黒髪の素顔が露わになる。
「そ、そんな……貴方は──―」
──―常勝無敗の騎士王が、膝から崩れ落ちた。