【1】
「ポン」
須賀京太郎は対面から出された發を鳴いた。その声は静かに、囁くようなものであった。
これに伴って、対戦相手らには緊張が走った。
(この局でも哭きやがった……。今度は何だ、ホンイツか、それとも緑一色か)
下家(北家)は、須賀京太郎の河と、たった今鳴かれた發を見つつ沈思した。そうしながら須賀京太郎にも目を向けた。
この金髪の男子は、右肘を突いてその手の甲に額を乗せながら、ただ静かに台の上を見ていた。しかしその眼には、勝負師がよく持っているようなギラギラしたものは無かった。むしろ何も無かった。その瞳に場の状態を映しておきながら、無感動であった。まるで重度のうつ病患者がひたすら壁でも見ているかのようなものだった。
(今こいつが出したのは九索か。索子と字牌は打てねえ……)
そう考えて下家が切ったのは五筒。
次は対面(東家)だ。
(俺の白は二枚。対面の西家【京太郎】も同じ対子を持っているとしたら……。畜生、とりあえずこの白を雀頭とするしかない)
打一萬。
続く上家(南家)は、
(緑一色なのかホンイツなのか、見極めさせてもらうぜ!……)
とやや強気の姿勢で一索を打つ。
だが京太郎は何も言わず、黙って山から牌を自模り、直後に東を手出し。
それまでこの場に東は一枚も無かった。捨て牌は勿論、ドラ表示牌にも、今しがた京太郎が切ったそれを除いて東は無い。
怪訝な顔で下家は自模った。
(よっしゃ! 八筒、良いのがおいでなすった、七八九の純チャン三色一向聴。そして幸いにも手牌には東が一枚。場風牌だが、平和が付く)
危うく表出しそうになった喜色を抑えて、彼は東を打った。
しかし、対面はその打ちの強さから、聴牌周辺の気配を察した。
(上家【京太郎の下家】は好機が来ているのか。現在ラスの彼がトップに出るためには、対面【京太郎】から倍満以上を出和了りするしかない。しかし場の流れと状態を見ても染手の可能性は薄いし、純チャンとか三色とか警戒するべきか。これまでのアグレッシヴな打ち筋からして、オーラスのこの期に及んで黙聴は考えづらい。おそらく一向聴)
打一筒(ドラ)。少なくとも自分が直撃する心配は無いとの読みでの切りであった。
対面の彼と同じく、上家も同様のことを察していた。
(この試合ではわざわざトップを取る必要もなく、つまり対面【京太郎の下家】は現在二着の俺から
と考えつつ、
(さあ、お前の手はどんなもんかな)
京太郎を見て三索を打つ。
「チー」
これを喰い取って二三四索を作り、赤五筒を切る。
(な、何てもん切ってやがる!……)
と戦慄したのは下家ばかりではない。対面も上家も、京太郎の手にますます疑念を膨らませるのであった。
続く下家は自模切り。出したのは九索。京太郎は無反応であった。
対面、七萬。上家、北。
そして京太郎、持ってきた牌を見て、おもむろに表にしてこれを置く。それは發であった。
「カン」
と宣言し、先ほどポンした發へとこれを走らせた。
そうして加槓したのち彼が切ったのは五索であった。これに対し他三人は、ロンはおろかポンチーカンの声も発さない。
(当然だけど、奴の五索は通ったみたいだ。それで、新ドラは……)
対面は目の前にある王牌の山の中の一枚に指を添え、新ドラを捲った。出てきたのは……。
(中! 表示は中――つまり新ドラは白だ!……)
他二人にも嫌な予感が芽生えたが、分けても一番動揺していたのは対面。新ドラが白ということは、彼の持つ二枚の白がドラ。だがこれで彼は確信した。
(やっぱり、お前も持っていたのか、白の対子を!……。そしてお前の手は、緑一色ではない!)
緑一色でないなら、一体何なのか。流石にそこまでは読むことは出来ない。何故なら京太郎は現在トップで、わざわざ高い手を和了る必要などないのだから。混一色を警戒したばかりに油断して打った索子以外の牌が当たったら目も当てられない。この個人戦の東風戦という短い中で対面の彼が見てきた須賀京太郎という奴は、そういうことをしかねない男なのだ。
京太郎の下家が自模る。
(来た……、来たッ、来たッ! 聴牌だッ!)
彼の手は、引いてきた七萬を入れて、
{七八九⑦⑧⑨78923①① 3}
そしてドラ表示牌は九筒、即ちドラが一筒。待ちは一 - 四索の両面で、高目は一索による純チャン、三色、平和、ドラ二の倍満手。
下家は、手牌の右端にぞんざいに置いてあった三索をやおら持ち上げ、京太郎をねめ付ける。是が非でも、この手を京太郎に直撃させたい気で満ち溢れているらしい。
(けどよ――)
彼は正面に顔を向けた状態で俯く。
(何もこの場は、奴から
「
高らかに彼は叫ぶと、手に持っていた牌を河へ横向きに打った。そんな彼を、他二人は一瞬不可解な眼で見た。されどすぐさま腑に落ちて、彼がリー棒を場へ置くのを見届けた。
対面の番。
{東東白白六六44②②④⑧⑧}
七対子の四筒待ちを聴牌。
(チートイドラドラ……、立直を掛けて満貫、更に一発かツモ和了りでも出れば跳満……、裏ドラを希めば或いは……)
否。このオーラス、彼も追い詰められている。たとえ立直に意味が有ろうと無かろうと、男として、一勝負師として、ここは一歩も引いてはいけない。
それは京太郎の下家も同じ。彼の手の八役で立直を掛けたところで、一発自模か、裏ドラでも乗らない限り三倍満にはなり得ないし、する意味もない。なのに彼はした。オーラスの背水の陣、たった一筋の小さな血路を見据え、一歩も引かないという意地を込めて。
「立直!」(勝負だ、対面……須賀京太郎!)
覚悟を決め対面は宣言し、リー棒を場にはなった。
残るは上家。彼もまた聴牌していた。
{二三四五五五1234②③③③}
一索切りなら一 - 四、二筒の変則三面待ち、高め三色。二筒切りなら一 - 四索ノベタン待ちだが役無し。
(このまま流局か、もしくは俺が和了ってしまえば問題ない)
現在二着。無理に和了る必要もないし、和了ってもトップに立てる。条件は悪くない。しかしそのためには……、
(この一索をどうすればいい……。これを切ればタンヤオ三色。いや、ここで老頭を切りたくねえ。だがダマで奴から
この上家の彼の中でそんな欲望が頭をもたげた。これまでの京太郎との闘牌を経て、彼は須賀京太郎から何か惹かれるものを感じた。奇妙な打ち筋ながら、自分らの上を舞い遊ぶような軽やかな和了には、驚嘆の声すら出る。
故にこそこんな不可思議な男を超えたいという射幸心が芽生えたのだ。
(勝ちたい……。県大会で何考えてんだって話だが、俺はこの未知の男にどうしても!……)
彼は自分の捨牌に視線を落とした。そこの中には数巡前に捨てた一索がある。
(さっき下家【京太郎】は一索をチーもポンもしなかったな)
ギリギリと彼はその一索を掴み、自らの下家に居る須賀京太郎へ鋭い視線を向けながら、
(行くぜッ)
一索を力強く打った。甲高い音が場に響き、緑と紅の孔雀が河に浮かび、他三家に晒された。
「ロンッ!」
だが、それは京太郎の下家の当たり牌、それも純チャン三色と高目の物であった。
「立直一発、純チャン三色ドラドラ。倍満!」
下家は手牌を倒すと、役と点数申告をして、勝ち誇る顔を上家へ向けた。しばしの間、下家は呆気に取られてから、じりじりと悔しげに歯噛みしていく。
(やっちまった……。格好付けておきながら、よりにもよってこいつにか)
上家の彼は俯いた。相手の純チャンを警戒しようと考えておきながら、京太郎への対抗心に意識が行って場が見えていなかった。それが敗因だった。
一方下家は、上家を引っ掛けることも視野に入れていたことが功を奏し、自分が冷静でいられたことを誇りながら得意になっていた。差し当たって正面の上家は黙らせた。
(次はてめえだ、須賀京太郎……)
そう宣戦布告をしようと京太郎に流し目を送り、そして絶句した。
既に京太郎は自分の手牌を倒していた。
「すまん、それロンだ」
無情なくらい平坦に告げた。
{11白白中中中} {横324} {發發横發發} ロン{1}
その手は中が暗刻になった一索と白のシャンポン待ち。
つまり、
「頭ハネで、小三元ホンイツ、ドラ二の倍満……。和了牌が被っていたというのか、そんな馬鹿な」
対面の解説で上家と下家は脱力し、片や背もたれに呆けたように倒れ、片や卓に突っ伏して悔恨の呻きを上げて動かなくなった。
それを尻目に、須賀京太郎は卓に手を突いて立ち上がると、彼らに背を向けて部屋を後にする。後に残されたのは、徹底的に心を折られ、最早生きる屍と化した上家と下家。辛うじて生き残っているのは対面のみ。
残った対面は、立ち上がって背を向ける須賀京太郎を見送ったのち、山に目を向けた。
(あのまま自模り続けられていたら、どうなっていたんだろう)
そう思い、一枚ずつ捲っていく。一枚二枚と捲っていったが、どちらも誰かの当たりではない。それで三枚目、つまり対面自身の自模牌を露わにし、彼は驚愕した。
「僕の当たり牌の四筒、一発自模、親の跳満で僕がトップに立てていたのか」
しかし今の出和了で阻止されてしまった。須賀京太郎が索子の混一色を作り上げ、かつ上家が以前に一索を切ったことで以後の一索切りへの抵抗を薄くさせた故に。
須賀京太郎は、下家の当たり牌の一索を当人の聴牌前からあらかじめ止めておいたのだ。されば上家と対面が掴んで振ってもどちらにしろ頭ハネで京太郎が和了っていた。加えて下家のもう一つの当たり牌である四索は、上家が保有していた二三四の順子、対面が対子にしていた物、それと須賀京太郎がチーで確保していたために既に枯れていた。つまり、下家が和了するためには自分で一索を引く他なかったのだが、上家が引いたことで打ち止め。
上家にしても同じだった。今述べた通り、一 - 四索は枯れており、一、二筒で自摸和了したところで点数は高くて五〇〇・一〇〇〇だし、京太郎から出和了ったところで二六〇〇では逆転は出来ない。そして四筒は対面の自模であり、かつこの状況では鳴きが入って自模順が変わることはあり得ない以上、事実上の空聴なのである。
「今の局のツキは、僕にあった。けどあいつはそれを上回ったんだ」
彼の胸は熱くなっていた。今回は京太郎に及ばなかった、けど自分は京太郎に迫ることが出来た。なら次こそは、と。その思いで彼は今後より一層の精進をしてゆくこととなるのであった。
他方、須賀京太郎本人はと言うと……。
(あるえー? 何か適当に鳴いてたら勝っちゃったんだけど……)
先刻の対戦相手三人とは真逆の、素っ頓狂な心情で居たのであった。
さて、先ほどの試合、京太郎はどんな考えでやっていたのか、彼本人の視点で見てゆこう。
【2】
正直なところ、俺がどうして、このオーラスでトップに立てているのか、自分でもよく分からない。ただ言えるのは、適当にポンだのチーだの、カンだの言って手を進めていたら、なんかいつの間にか和了しちゃってて、それを見せたら他の選手が勝手に点数計算して点棒寄越してくれたということだ。
須賀京太郎、清澄高校二年の十六歳。麻雀歴は一年とちょっとだが、一年の時はほとんど雑用ばっかやってたものだから、未だに四翻以下の点数計算は覚束ないし、覚えていない役だってあるかも分からず、実際は麻雀歴一年の知識さえ持ち合わせていない。去年だって、清澄麻雀部の唯一の男子部員ということで県大会個人戦に出場することと相成ったのだが、満貫以上の振り込みを連発して呆気なく退場となるのが関の山だった。
けれど今年は違う、妙にツイている。正直、麻雀をやっている感じがしないし、真面目に技量を磨いて試合に臨む他の選手に申し訳がなくて肩身が狭い思いだ。
(おっ、發だ、ポンしとこ)
という具合に、俺はこの試合のオーラスで早速發をポンした。鳴き麻雀は役が出来ず和了れなくなるリスクがあるが、三元牌なら鳴いても役牌で必ず一翻付くから便利だ。風牌だと役牌なのかどうかを瞬時に把握出来ないので、尚更だ。
下家の人にめっちゃ睨まれてるけど、気にしない気にしない。怖くて目合わせらんないし。だから代わりに場の状況を見るのだ。主に河を見る。
(あー、河読み分かんねー)
尤も、実質麻雀歴一ヶ月(ともするとそれ以下)の俺にはそんなこと出来ないけど。目は場に向いていて、網膜にはちゃんと場の景色が映っていはしても、俺の左脳では処理出来ていないのが実状だ。そんな俺の眼にはきっと辛気臭い影が差しているに違いない。
でもチーやポンは見逃さないように、ちゃんと他家の手もちらちらと見ておく。特にチーは上家からしか出来ないし。で、上家が俺に視線を向けつつ、一索を切り出したのだ。
(あ、この人絶対、俺が鳴くのを見越して一索打ってきたな。俺の手には一索が二枚あるし、鳴いとこうかな? んー、でも白と中が二枚あることだし、そっちも期待してここは見送っとこ。まだ白は他に切られてないし大丈夫だろ)
ってな感じで、俺は一索を無視して自模り、中を引いた。
(いよっしゃ! 大三元も狙えんじゃね? ここは東だな)
後になって思えば、東風戦で東を捨てるのはリスキィなのだが、俺にそんな計算力求めちゃいけない。
で、次巡、上家が三索を出したものだから、折角なのでチー、と遠慮がちに言った。だってさっきから他の人が怖いんだもん。鳴き麻雀のやり過ぎはマナー違反だって聞くし、そういうことなんだろう。だったら鳴くのやめろよって話だが。
(あれれ、赤五筒のこと忘れてた、お陰で浮きまくってる……。縁起悪いなぁ……、仕方ないし切るか)
俺は軽いノリで赤五筒を切った。同級生の『のどっち』こと原村和がこの場に居たら怒られてたことだろうな。
それで次巡、俺は發を引いた。
(ってまた發かよ! これはカンせずにはいられない!)
俺は、ポンコツ文学少女こと嶺上マシーンこと魔王こと、幼馴染の宮永咲がいつもやっていることに影響されていたこともあり、ついその場のノリで加槓をしたのである。和が言うには加槓はリスクが高い割には利が少ないとのことであまり推奨されないのだそうだ。トップに立っているこの今なら、俺のやったことは愚の骨頂というやつなんだろう。
嶺上牌から持ってきたその一枚は、
(って五索かい! 遅えよ!)
ツッコミを入れる要領で素早く打った。これで当たったらどうするんだろうと自分にツッコミたくなってくる。
幸いにも当たりではなかった。で、対面が捲った新ドラ表示牌は中。
(中が表示牌……だと何になるんだっけ?)
俺は少し考えたが、そうしている間にもゲームは進行していくので、とりあえず後で考えようと置いておく。和了ったらその時に考えればいい。最悪、他家に点数計算してもらうか。
しかし俺がリラックスする間も無く、下家の人がいきなり、絶叫を上げて立直を宣言したのだ。それにビビッて俺は身体を硬直させた。ビクッてなってたら格好悪いな。ばれてないよな?……。俺、ヘタレだって思われてないよな?
しかもそのあとに続いて対面の人が追っかけ立直。
(やばい、四面楚歌かも分からない。これ絶対俺狙われてるよね。だって今まで俺、さんざん鳴きまくって得点搾り取っちゃってたし。挙句に我が物顔でトップの座に俺が居たら他の人も面白くないよね!)
慄然となって俺は懺悔をするより他はなかった。
(まさか……上家さんもっすか。あれ、でもこの人ちょっと迷ってる?)
上家さんは自分の手牌の中で特定の二つの間を行ったり来たりしていた。どちらを切るか迷っているんだろう。
(他二人が立直してるから、下手に振ると放銃しちまうんだな。でも何だろう、こっちのことチラチラ見てるような……。もしかして、俺を狙い撃ちにする牌を切りたいところだけど、放銃のリスクでためらっているとか)
どんだけ嫌われてんだよ俺! ……まああんだけ鳴いてたらそうなるよな。
で、最終的に上家さんが切ったのは一索だったというわけだ。俺の待ちは一索と白のバッタ待ち。まさかここで一索を切られるとは思ってもみなかったものだから、一瞬それが俺の当たり牌だっていうことに気付くのが遅れた。少し慌てたものだけど、打ったのは上家だということは頭にあったので、落ち着いて
「ロン」
と言えた。
ところが、
「ロンッ!」
と下家の人が声を張ったもので、俺の声は掻き消えてしまったのだ。
「立直一発、純チャン三色ドラドラ。倍満!」
下家は嬉しそうだった。そりゃそうだ、だってこの人今まで良いとこ無しでずっとラスだったもの。そりゃ二着の人からの出和了り出来たら嬉しいだろうに。
こうも盛り上がられると、水を差すのは憚られる。
(でも、もう手牌倒しちゃったしな……。まだバレてないし、戻すか。倍満だもんな。上家の人だって、倍満の上に更にダブロンなんてされた日にはもう卒倒ものだろうし)
というわけで俺は卓に顔を向け、こっそり牌に手を伸ばそうとした。そのところで、卓に被った下家の影が動くのが見えたから、
(おっと、まさか……)
と目線を下家に向けると、彼が俺の倒れた手牌をガッツリ目撃しているのが目に入ったのだ。
(あー……、駄目だったか。仕様がない)
「すまん、それロンだ」
手牌に伸ばそうとしていた腕を卓の上で組んで誤魔化し、申告した。あまりの申し訳なさに、ボソボソとした声になる。下家の人はやはり落胆しているのか一言も発さないため、俺の小さな申告は問題なく聞こえたことが分かる。
場は沈黙していた。随分と長い沈黙だった。こっそりと三人を見てみると、皆一様に呆然と目を丸くして俺の手を見ていた。
(あ、あれ……、ひょっとしてチョンボだったりしないよな?……。ん、よく見たら上家の捨牌、一索があるぞ! えっ、何、他の人が既に捨ててあっても振聴扱いなのっ? ヤッベー、この場合ってどうなんだろう。チョンボ和了が優先されたりするのかな。だとしたらやばいぞ、ダブロンで水を差す以前の話だッ!)
俺は自分の失態を予感して、サーッと顔が青ざめていくのを感じた。
が、
「頭ハネで、小三元ホンイツ、ドラ二の倍満……。和了牌が被っていたというのか、そんな馬鹿な」
(ほっ……、何だ倍満だったから驚いていただけか。――って安心してる場合じゃない! 上家が倍満ダブロンを喰らうとかこれも再起不能じゃん!)
と今度は頭に血が昇っていき、顔が赤面しているんじゃないかというくらい熱くなった。青くなったり、落ち着いたり、赤くなったりとか、俺の身体の交感神経も忙しそうだ。
(あ、でも頭ハネって何だろう。跳満のこと? でも今倍満って言ってたよな……。あ、分かった、前に衣さんとやった時のやつだ)
俺は、以前に天江衣という一つ上の――背は極端に小さいが――先輩と同卓した時のことを思い出した。
(たしかその時は、珍しく衣さんが海底牌を掴み損ねて、それで他家が掴んで放ったこれを和了しようとしたのを俺が頭ハネしたんだったな。河童の河流れとはよく言ったものだわ)
適当に鳴いてたせいで河底撈魚――だったっけ?――それとタンヤオのみの二千点しか貰えなかった上に、その後の局で俺が親になった折、役満を親っ被りさせられたのは一周回って良い思い出だ。
で、そんなことに思いを馳せていたところから、左右斜向かいから何やら音が聞こえてふと現実に引き戻された。そこには、上家と下家が椅子に座りながら崩れ落ちた様だった。かなりガッカリしているようだった。当たり前だ、片方は折角の二着をふっ飛ばされ、もう片方は二着浮上のチャンスをふっ飛ばされたんだから。しかも俺みたいな、去年の個人戦で満貫以上に振り込みまくるようなボンクラ雀士に完膚なきまでに叩きのめされたのだから。
俺は限界を感じて、素早く、しめやかに席を立ちあがると、そろりそろりと足音を立てないように部屋の出口へと足を運んだ。これ以上は居た堪れない……。落ち込んだ二人が気掛かりだが、かと言っていやしくも勝者である俺が声を掛けたら嫌味になっちゃうし、言わぬがせめてもの華だろう。
「僕の当たり牌の四筒、一発自模、親の跳満で僕がトップに立てていたのか」
部屋を出る際、後ろで、対面の人のそういうぼやきが俺の耳に届いた。
聞こえない振りをしてそそくさと俺は部屋を出た。
そうしてしばらく歩いていると、次第に自分が勝利したことの事実が心に沁み込んでいき、ついに自覚をして、
(あるえー? 何か適当に鳴いてたら勝っちゃったんだけど……)
と狐につままれた気分であった。
その時、
「おう、京よ、三人まとめてぶっ飛ばしたようやのう……」
俺に声を掛けてきた男が居た。黒地に白のストライプが入った、茶色のグラサンを掛けたパンチパーマの、田中邦衛をもっと厳つくした感じの如何にもな男であった。
「わざわざ東京から遠路遥々……」
この如何にも頭にヤの付きそうな反社会的な男を前にして、俺はあまり大きく騒ぐどころか、明瞭に喋ることすら覚束ないで、態度の悪い陰気な奴みたいな喋り方になってしまった。
「おうよ。お前が、己の足で来い言うたもんやから、今もこうしてそれを守って来てやったまでじゃ。どや、京、わざわざ足労してもろた相手は手厚く迎えるってのが筋ってもんじゃろ、え?」
(ちょーこわいよー)
怖すぎて豊音さん並みの感想が出ちゃったよ。声には出せないけど。
そのヤーサンは俺のすぐ目の前まで、足をぶらつかせるようにゆっくりと歩き迫ってきて、
「お前はワシのもんじゃ。今はそうじゃのうても、いずれはそうなる。そいつを覚えときィや」
そこから俺の首の後ろに腕を回して額をくっつけて言ってきた。
尻がヒヤッとした。
俺がこのヤーサンを苦手とする一番の要因がこれだ。この男が俺のことを自分のモノと言うのは、つまり俺のケツを狙ってのことなのだろう。
「そういう
俺は慎重に相手を押し退けながら後ずさった。
「何故じゃ。お前にとっても悪い話じゃアないだろうよって」
(しつけーな、このヤーサン! 悪い話なんだよ、悪い話だから断ってんだよ、そっちの
「お前さん、うちのお嬢とその仲間たちと宜しくやっとるって話やないけ。親父も、お前ほどの器量なら、お嬢をやるんも吝かじゃない言うとったで」
別に宜しくはやっていない。ただ、辻垣内さんの元チームメイトのネリーに、金の生る木だとか、一緒に荒稼ぎしないかと絡まれてるだけだ。たまたまあいつが儲かる好機に恵まれた現場に何度か居合わせただけで、俺のことを招き猫か何かと思い込んでいるのだ。守株もいいとこだ、アンチキショー。
いっそのこと、このヤーサンに付き纏われる切っ掛けとなった件で期せずして得たあぶく銭をあの守銭奴合法ロリに譲渡してしまえばどうだろうかと考えたものだが、そうするとあの守銭奴にますます引っ付かれそうだから、その金は自分の使いたいように使おう。
「ま、そういうことでな。この話、考えといてくれよ。んじゃあな」
そう言ってヤーサンはどこかへ去っていった。出来れば金輪際会いたくはないが、嫌でも顔を合わせちゃうんだろうな。出来ればもう東京には行きたくない。
(嫌だなぁ……。清いままの身体で居たいよ……。大体何だよあのヤーサン。俺の身体を狙っときながら、俺が辻垣内さんと引っ付くのはいいのかよ、どこのデカダンス文学だよ。あのヤーサン、俺の身体目当てなのか? いや、マジで愛情向けられるのはもっと嫌だけど)
深い溜息を吐いて俺は懐からチョコレートシガレットを取り出して咥えた。最近このお菓子に嵌っている。元は、咲の姉である照さん餌付け用に携行しやすいお菓子だったのだが、今では俺が気に入っている。
「あ、京ちゃん。試合はどうだった」
この声を掛けてきたちんちくりんの彼女こそが、ポンコツこと嶺上マシーンこと魔王こと我が幼馴染の宮永咲である。
去年の団体戦優勝校である清澄高校の大将を務め、インターハイ個人戦三連覇チャンピオンの宮永照の妹であり、そして藤田靖子プロの語る『牌に愛された子たち』の一人である。
あと『咲ちゃんのドジを見守りつつサポートする清き仲間たち』――通称『聖咲ちゃん騎士団』という邪教集団の偶像でもある。ちなみにこの他にも、『タコス同盟』なるものや、『のどっちのおもち研究会』、『ワカメ愛好会』などという色んな意味で危険な組織らが今の清澄で熾烈な覇権争いを繰り広げている。竹井久元部長のは彼女が卒業してしまったので無い。
「ん、ああ、勝ったよ、……運良くな」
とまあこんな凄い肩書を持った凄い娘なのだ。昔はただのポンコツでヘッポコな方向音痴の気の置けない相手だったのが、今では俺では到底釣り合えそうにないくらい大きな存在になってしまって、ちょっと気後れしているくらいだ。
その身分差のせいで俺は『聖咲ちゃん騎士団』の過激派や権威主義の先公どもに日々嫌がらせを受け続けているのである。そこで俺は、珍しく悪ノリしたハギヨシさんと一緒に『麻雀新選組』という対抗勢力を組織して抗戦したのである。正直めっちゃ楽しい。小学生の時分に秘密基地作って遊んだ愛しき思い出が甦るみたいだ。
「そうなんだ……、良かった……」
破顔して彼女はほっと息をつく。
「どうしたんだよ、そんな安心して。そんなに俺に勝ってほしかったのか」
「う、うん、まあね……。京ちゃんが麻雀強くなってくれれば、もっと一緒に居られるかなって」
「いつも一緒に居るだろ」
「そ、そうなんだけど! でも、他の人たちが介入しないで一緒にゆっくりしたいなって……。京ちゃんだって、周りの人たちが自分のことを凝視してたら居心地悪いでしょ?」
「まあ自分たちのことを食い入るように見られてたら嫌だよな、見せモンじゃないんだし」
確かに、清澄の全国優勝以来、咲をはじめとした麻雀部の女子陣は学校や地元では
「それに近頃の京ちゃん、何だか雰囲気が違ってるっていうか、放っとくとどっか遠い所に行っちゃって、もう戻ってこないんじゃないかって、そう思うの……」
咲は両手を後ろ手に組んで、俯きながら不満で涙目になっている子供さながらに上目で俺を見ながら言った。
「お前じゃあるまいし……、俺が変な所に行ってたまるかってえの」
「そんなんじゃない、茶化さないでよ! 私を……私たちを置いてどっか行っちゃうんじゃないかってことだよ!」
バッと顔を上げて咲は声を荒げて俺に迫ってきた。
「京ちゃん、最近は龍門渕の人たちとよく会ってるみたいだし、衣ちゃんからもうちに来ないかって誘われてるんでしょ。ううん、行くのが龍門渕ならまだいいよ。例えば……さっきの人とか」
尻すぼみになりながら語っていって、そうして最後に小さな声で、あのヤーサンについての言及があった。
(なるほど、そうか……。咲、気付いちまってるんだな)
具体的に何があるのかまでは分からないらしいけど、どうやら咲は俺があのヤーサンに迫られているということが分かっているんだ。
(全部察していなくて良かったわ……、咲に変態の話は刺激が強過ぎるからな。ともするとボーイズラヴに目覚めてしまうかもしれない。いやー怖い怖い)
まあそれでも、とんでもない事柄だというとこまでは察しているのだろう。俺が別世界に行ってしまうと感じるのは、オカマに掘られた俺が変なものに目覚めてしまうことを予見してのことなんだな。
(でも、咲がBLに目覚める危惧の他にも、何と言っても咲に累が及ぶことだよな)
あいつらが手段を選ばずに咲を人質とかにして、それに俺が屈服するのを見せてしまったら、ご両親と照さんに顔向け出来ないよな。ていうか大手を振って外歩けなくなる。
「俺はどこにも行かねえよ」
咲の頭にポンポンと手を乗せて言った。
「確かに、俺にも色々と事情がある。でもそれくらい自分で何とかする、自分の尻は自分で拭くさ」
そう、自分の尻は自分で守らなくてはならない。
「だからそれまで、ちっとばかし待っててくれないか」
俺が言うと、何か言いたげに咲は口を開きかけたが、すぐにきゅっと引き結んで、
「約束、だよ?」
【注意】
・ 鳴き過ぎの麻雀は局のリズムが崩れるので、他の方が快適に打てるよう、鳴きは控えましょう。あと溜めロンはマナー違反だよ、京ちゃん。
・ 本文で京ちゃんが衣様を差し置いて河底を頭ハネで和了っていたことへの言及については、屁理屈ながら一応理由はあります。その点については、機会があれば。
・ 本文で京ちゃんが和了った役は『哭きの竜』で出てきた役が元ネタです。本家では小三元ホンイツ、チャンタ、ドラ1でしたが、他家が緑一色を警戒するくだりを書きたかったので一部変更しました。