全国高校男子麻雀個人戦、中盤。序盤の東風戦を勝ち抜いた須賀京太郎が臨む最初の対局。
この対局には多くの者が注目している。何故かと言うと、女子の部での一昨年から去年までの個人戦三連覇チャンピオンの宮永照を筆頭とした、大星淡、天江衣、神代小蒔の四人――通称『天照大神』、またの名を『牌に愛された子』をはじめ、そのほか名だたる選手らが彼の対局に注目している旨を発言しているからである。
これに、女子の部目当てで観戦しに来た人々、果てはマスコミまで須賀京太郎の対局に注目しだしたのだが、結果は……
「ロンッ! 二九〇〇は三五〇〇!」
東三局、連荘による二本場。怒鳴るように和了宣言したのは京太郎の上家。振り込んだのは京太郎のほうである。
ここまで京太郎は一度も和了をしていない、所謂焼き鳥(大会に焼き鳥の罰則は無し)というやつである。今のを除いて、これまでに放銃こそしていないが、しかし他の選手が自模和了りをしてきた被害により、現在ハコテン間近の二五〇〇になっている。
観戦者たちは皆一様に落胆の表情を隠せないでいる。あの宮永照たちが注目する選手と聞いて、女子麻雀より地味な男子麻雀をわざわざ観に来たというのに、こうして展開されたのは、満貫以下の和了でチクチクと連荘するだけの、何とも味気ない対局。
苛立ちさえ覚える者も居る。そうして一人、また一人と席を立っていく。彼らはいずれも京太郎の対局に興味が湧いただけで、元より男子麻雀に興味のない観戦者だ、これ以上ここに居る理由は無い。
照と菫の元白糸台は、残る側であった。彼女らを含む幾人かの大物が未だに彼の対局を見続けていることが、減りゆく観客の一部をその場に繋ぎ止めていた。
「あのー、宮永照さん、ですよね?」
彼女に声を掛けたのは、三十代前後くらいの男であった。社会に揉まれてすっかりすれっからした感じの、草臥れた風采の男だ。
手にメモとペンを持っているあたり、記者なのだろう。妙に恭しい態度の、相手の顔色を窺うような笑顔、いやらしささえ感じさせる笑顔。
「ええ、はい、何でしょう」
照の態度は実に堂に入っている。こういった手合いの対応は慣れたものだ。菫は、嫌悪の顔はせずとも、良い顔は出来ないでいる。
「ええ、私、こういった者なのですけれど」
と男が名刺を差し出してくる。やはり記者のようだ。それも、聞いたことのない名前の雑誌を発刊している所らしい。ゴシップを載せる雑誌であることが分かる。
「それで、ですね。あなたがインタビューでおっしゃっていた、今注目している選手の一人である須賀京太郎さんなのですが、彼とあなたはどういった関係なのでしょう」
男は慇懃に訊いた。オブラートに包んではいるが、下世話な意図があるのは容易く察せる。菫はいよいよ顔をしかめた。
照とて相手の意図は察しているだろうし、ぞっとしない質問であったが、それでも顔に貼り付けた営業スマイルを落とすことなく、
「元は妹の友達でした。子供の頃に妹がお世話になってましたけど、当時はまだ関わりはあまりありませんでした。本格的に付き合いを持つようになったのはつい最近、去年のインターハイの時期ですね」
ほほう、と男の顔に、しめたと言わんばかりの喜色が表れた。
「では、あなたが彼に注目しているのは、どちらかというと個人的なものというわけなのですか?」
「それもありますが、彼自身の力量を見込んでの発言でもありますね」
「力量……ですか?」
せせら笑うように、男は画面を見やってから言った。
「確かに、この東三局で彼が飛ばないように立ち振る舞い、かつその後の親番で、何かしらトップを捲る大きな手を和了るか、もしくは連荘していく、と、あなたは見越しているので?」
「はい」
照は動じない。相手が京太郎に侮蔑の情を向けていることに、真っ向から言い切った。
「彼は……ちょっと意地悪なところがありますから……」
ここに来て、照の物言いは歯切れ悪かった。男はこれに疑問を抱く。次いで彼は、菫のほうを見てみるが、彼女もまた同じく、いやむしろ照以上に顔を歪めていた。
一方、対局室。今さっきの東三局 二本場の終わり後、何故か次の局には進まないでいた。
京太郎は卓に肘を突いて額を手首に置き、徹マンでもやったみたいにアンニュイな顔で俯き、これを他三家はイライラと見ていた。
「あのさぁ……、いい加減にしてくんねえかな。さっきっからポンチー、ポンチーってさ……」
卓上の牌を持ち上げて落とすを繰り返して弄んで、震える声で言う。
次の瞬間、バンッと大きな音を立てて平手を卓に落としながら立ち上がり、
「さっきっからテメエの鳴きのせいで俺の運がダダ下がりなんだよッ! これ以上場を荒らすんじゃねェ!」
今にも掴み掛かる勢いで京太郎を怒鳴りつけた。
けれど京太郎はこれにあまり強い反応は見せず、ひたすらに視線を卓に下ろしたままでいた。ややもすると、項垂れているとさえ思える。
「やめろよ! 今は対局中だぞ。それに、お前の手がパッとしないのは自分の責任だろうに」
下家がそれを制する。が、上家は鼻で笑って、
「はあ? よく言うわ、東一局で四連荘してトップに立っていい気になってた奴が、今は俺に捲られてるくせによォ?」
言われた下家はギロリと上家を睥睨した。
「そもそもそれは僕が削っといたからやろ。こん中で満貫が無いんは、まだ一度も和了れてないそこの鳴き虫さん除いて、お前さんだけやん」
対面が調子外れな喋り方で横から口を出してきた。
「ああ、ああ、そうだなァ。二連荘しかしてない上に俺とは違ってトップにすら昇れなかった奴が言うと違うなァ……」
「お?」
上家の返しに対面が睨み返した。
彼らがこうなるのも無理はない。対局が始まってから、彼らの手はどうにも鈍かった。一応聴牌はするものの、これといって良い形が出来ることはあまりなく、良いのがテンパったと思っても、その矢先に別の誰かに和了れてしまうという事が立て続けにあったのだ。全国の、それも出だしからこれではフラストレーションも溜まるというものだろう。
で、三人ともその怒りを、他の者に――主に京太郎に向けているというのは想像に難くない。理由は簡単、無闇矢鱈に京太郎が鳴きを入れてくるからである。
鳴きを入れられると局のリズムは崩れるし、調子は狂うし、鳴いた者の手が気になって仕方がない。而して、自分に来るはずだった牌が他家に流れていく感じがする。――流石にこれは言い掛かりだが、しかし募る苛立ちがそのバイアスを助長するのだ。
とにかく彼らは、自分が天運に恵まれないことの原因は京太郎にあるものだと、それぞれ心のどこかで思い込んでいる。
下家が深いため息を吐いた。
「大体、何でこんな奴が……。去年は女子の尻にくっついて召使みたいに、幇間みたいにヘラヘラしてた奴が、こんな所に居るんだよ……」
ぶつぶつと下家は呟いている。しかしその内容は特に隠し立てすることはなく、むしろ京太郎に聞かすような声量であった。
「やれやれ、恋は盲目とはよう言うたもんやな。女子のチャンピオンさんも、そのほかの有名人さんも、ただの恋する乙女やったっちゅうわけか。あれや、好きな男は強くあってほしって気持ちが言わせたんやろ、アイドルの追っかけやっとる馬鹿な男や女みたいに。違うか、スケコマシ君」
次の局へ進む中、嫌味たっぷりに対面は言った。
この険悪な雰囲気には、スタッフたちも気が気でなかった。高校生の大会でこのようなVシネマめいた喧嘩をされては、麻雀界は堪ったものではない。今回は止められる前にやめたが、また起きないとも限らないし、その時には麻雀のイメージにどんな影響を与えるかも分からない。
で、配牌が終わり、ようやっと南三局(四回目)三本場が始まったわけだが。
「ポン」
局の開始五巡目にして、京太郎が早速鳴きを入れた。スタッフらの危惧していたことが早くも起こり、彼らは戦々恐々となっていた。
「チー」
次巡、対面が負けじと鳴きを入れるも、
「ポン」
上家が鳴き返した。
その更に二巡後、
「チー」
と下家が京太郎から鳴いた。
まさに鳴き合戦。
「チー」
されどこの鳴きの嵐のさなかでも、京太郎は平然とまた鳴きを入れる。
そうしていれば、いずれの選手も聴牌をするものである。が、彼らは和了れないでいた。役が無いのではない、曲がりなりにも彼らは全国に行く選手、タンヤオや役牌くらいなら勿論確保している。しかし和了り牌を一向に引けないでいた。鳴き過ぎによる待ち数の制限、及びこれによって和了牌の大半が既に河に捨てられていたり、副露されていたりしていることもあるだろう。
(流局か……)
誰もがそう諦め、自模られていく海底牌を眺めていた折、
「ツモ」
その海底牌を掴んだ京太郎が唐突にそう宣言し、自らの手牌を倒した。
{二123} {横五六七} {横978} {③横③③} ツモ{二}
しっちゃかめっちゃかな役の無い手。これを見下ろし京太郎は、
「ゴミ、だな」
「ゴ、ミ、だとぉ!……」
上家は視線を場に下ろしたままで打ち震えながら、ひり出すように漏らした。
現在トップなのは上家とは言え、こんなイラついている時に、こんな安手で和了されたのみならず、点数申告を数字ではなくわざわざ語呂合わせで「ゴミ」と、他家に対する面当ての申告をしたことをしたのが何よりも癇に障ったのだ。
憎々しげな眼差しで上家は京太郎を見やる。他の二家も同じく。先ほどの一触即発の状況の再来である。
当の京太郎は、彼らを意に介さないかのように、彼らへ視線を返すことはない。何かに怯え縮こまっているかのように大きな身じろぎをせず、相も変わらず顔を伏せている。
上家は怒りを抑えて、けっと吐き捨てると、
「三本場で八〇〇・六〇〇だ……」
五百点棒一本と百点棒三本を京太郎に向けて転がした。他の二人も、不貞腐れつつもとりあえず自分の支払いを済ませる。また喧嘩をしたら今度は見逃してはもらえないだろうという判断の下でのことである。
京太郎が点棒を仕舞っているのを尻目に、彼らは自動卓の中央の穴へ乱暴に牌を流し込み、次の局へ移っていく。
こうして上家の親が蹴られたことで、場は東四局に移り親は京太郎に回ってくる。
「ポン」
随分と遅い巡目で、その局初の鳴きを入れた。喰い取ったのは五索、下家からである。その鳴きで京太郎が捨てたのは九筒であった。
「ツモ」
それからまもなく京太郎が和了。
{四四⑥⑥⑦⑦⑧⑧88} {55横5} ツモ{8}
喰いタンのみ、五〇〇オール。
ただの喰いタンに見えて、しかし不可解な点が一つ。それは六七八筒の一盃口形や、七対子聴牌の形跡があることである。
鳴いた後になって、または鳴くことで同じ順子が作られることは往々にしてある。が、京太郎は五索を鳴いてから九筒を捨て、それからすぐに和了ったのだ。
(あの九筒の捨てからして、あいつはあの時既に七対子を聴牌していた。裏をかいて一盃口を形作るという手もあった。だのに、わざわざ鳴きを入れてそれらを消して、よりにもよって一番低いタンヤオのみの安手で和了ったのか?……)
下家はこう推測した。けれどそれではあまりにも不合理だった。あり得ないはずだからこそ、下家は自身の考えに疑念を持った。
自分の今の読みは間違っているのか。あそこで一盃口を持ち続けようとするのは間違っているのか。
頭がズキリと痛み、彼は目頭を押さえた。
東四局 一本場。京太郎の連荘。
「ツモ」
{1} {横534} {横879} {66横6} {西横西西} ツモ{1}
京太郎がホンイツのみの一〇〇〇オール和了。今度は本当に混一色。
「まーた単騎待ちかいな、それに今度は裸単騎と来よった」
対面が点棒と共に不平を吐き捨てた。それまで、嫌味ながらも闊達な言動をしていた彼も、流石に渋面を禁じ得ないでいる。
「鳴き虫君さあ、あんさん、知っとるか。闇雲な鳴き麻雀っちゅうのはな、ひとつ晒せば自分を晒す、ふたつ晒せば全てが見える、みっつ晒せば――地獄が見える。そういうもんなんや、分かるか。ええか、もう一度言うで。ひとつ晒せば自分を晒す、そんで――」
と、鳴き麻雀への諫言を対面が諄々語ろうとしたところで、
「自分を晒せば……また己が哭きたがる」
不意に京太郎が言葉を横入りさせて遮った。
それから、まったく、と言って小さく嗤笑をし
「背中が煤けてるぜ」
か細い声で囁いた。かすかにしか聞こえない、己の内で囁くように。
その場に居る誰もが、背筋にうすら寒いものを感じた。勿論、京太郎にである。
他者に向けてなのか、或いは己に向けてなのか判らない呟きをして、独りで笑う様は蓋し戦慄ものである。
東四局 二本場。
「ポン」
九巡目、京太郎が対面から二索を鳴いた。その後、彼が捨てた二萬を、下家が鳴いた。
また次巡、
「チー」
上家から六索を鳴く。そこで捨てたのは西、数巡前に対面が暗槓をしたことで出現した新ドラである。
「ポン」
それを上家は迷わず鳴き返した。西は局の序盤に京太郎が速攻で捨てた牌、喰い取らないではいられない。
(奴は十中八九ここでダブ東を狙ってくる。捨牌には萬子と筒子、それと三元牌一つ)
次いで彼はドラ表示牌を見る。東と、数巡前に対面が暗槓をしたことで出現した南。つまりドラは南と西。
(南も西も、須賀は最初に一枚ずつ捨てた。奴が二度も西を捨てたのは、最初のほうで西を捨てたからってとこか。槓ドラを予知出来る奴は居ねえからな)
三巡後、彼は三筒を引いてきて、ニヤリと口元を歪めた。
(奴は索子の染め手で間違いねえ、少しでも高い和了りでハコの心配を無くしたいところだからな。この三筒は通るだろうよ……)
と自信満々にそれを打ったその時だった。
「ロン」
「えッ……」
京太郎からの思わぬロンを受けて、ギョッと上家は自身の右隣りを見た。
そうして京太郎が倒して現れた手は……、
{44④⑤東東東} {横678} {2横22} ロン{③}
ダブ東のみ……二九〇〇。
ちょうど、二局前の上家の和了点数。
「あーはっはっはっはっは!
手を叩いて対面が笑い出した。呆然自失としている上家はそれに何も言い返せないでいる。
それを他に、下家が目だけで京太郎の手を見ていた。
(早和了り目的で、いつ来るかも分からない索子を待たずホンイツを蹴ったのは分かる。だが、捨牌には、早出だが四筒。シャンポン待ちにしていれば三十二符で三九〇〇の二本付けだった。なのに符数を下げてまで、奴に直撃させるために?……)
考え過ぎか、と下家は小首を振った。
「おい、お前。三五〇〇点だぞ、さっさと払ったらどうなんだ、まだ東場も終わってないんだからな」
「チッ、分かってるよ……」
下家からの催促に、舌打ちしつつも上家は大人しく点棒を引き出しから取り出す。
「四千からだ」
上家から言われて、京太郎は五百点棒を出し、上家の千点棒四本を受け取った。
卓に置かれたたった一本の五百点棒。これを摘まみ上げて眺めていた上家は、自身の中でふつふつと怒りが煮えてきているのを感じた。
(ドラ西を餌にして俺に喰い取らせやがった……、あの三五〇〇をやり返すために……。陰険な野郎が、ぜってぇ許せねェ……)
そうして静かな、しかし激しい復讐心を胸に湛え、次局へ移ることにした。
然り而して東四局 三本場。
「立直」
下家が立直を掛ける。
だが、京太郎の番が来た時、
「カン」
と、京太郎は自模った八筒を加槓して、
「ツモ、嶺上開花」
{2333} {⑧⑧⑧横⑧} {横四二三} {横④③赤⑤} ツモ{1}
一 - 四、二索変則三面張。低めの一索を嶺上ツモ。
嶺上開花ドラ一……一〇〇〇オール(三本場)。
京太郎はまたもこんな安手の和了を、それも嶺上開花のみという変態的な形で遂げ、東場は続行されるに至った。
次の局では、対面も負けじと立直をするも、下家が京太郎に二四〇〇(四本場)を振り込んでしまい、更に次では上家が、立直を掛けたまではよいが、これが原因で二〇〇〇(五本場)の放銃となった。
連荘東四局 六本場。
この局では京太郎は何故か鳴かなかった。その代わり、他家も遅々として手が進まず、なかなか聴牌出来ないでいた。
(何故だ……、何故こうも有効牌が来ない……)
斯様に狼狽しているのは下家だけではない。当然、上家も対面も、狐につままれたような気がしていた。
しかし、異様なのは各人の自模には限らなかった。
まず対面の打五筒。この時の京太郎の手牌、
{西西西①②②③③④⑥⑦⑨⑨}
メンホン聴牌で、当たり牌は五 - 八筒両面のはずだが、京太郎はスルーしたのである。
それから次巡、下家が赤五筒を切ったが、これも見送り。京太郎が立直をしていたら和了放棄と見なされるところである。
無論、京太郎の奇行はこれだけにとどまらず、次の巡にて二索を引いてきた時、彼はこれを自模切りせず、こともあろうに六筒を切り出した。かつ、その次に九筒を引いた時、七筒を切っての両面落としまでしたのである。
この意味不明な打ち方には、観戦室の観客はざわめく。彼は一体何を狙っているのか。赤五筒を逃したことからして、より大きな翻数は狙っていないとしか思えない。むしろ、より小さな翻数を狙っているようにさえ見える。
全く何をしたいのか見当も付かない。
が、次の巡、京太郎が西を自模ってきた時、彼らは合点が行ったように声を漏らした。その期待に応えるように、
『カン』
京太郎は暗槓した四枚の西を右端に滑らせた。
暗槓はドラは即乗り。観戦者たちの予測では、京太郎は西か九筒の暗刻にモロ乗りすると読んでいるということになっている。それならわざわざ面前混一色を崩すことに合点が行く。きっと京太郎はその後で立直を掛けるつもりなのだろう、そうして他から満貫、一発なら跳満を直撃させようとしているのだろう、といった塩梅にだ。
ところが、ドラ表示牌から現れたのは、西にドラを付加させる南ではなかった。そればかりか、筒子にすらドラは乗らなかった。京太郎の手は、筒子のメンホンが消えた二索単騎待ち状態のままであった。
これに対する観戦者の反応はまちまち。京太郎の読みが外れたと、自分の事のように周章する者も居れば、「ダサイ」と嘲笑する者も居、また他方では、京太郎が他に何か狙っているのではと首を捻る者も居た。
はたまた、京太郎が現在張っている手にデジャヴを見る者、例えば清澄高校麻雀部の元部長の竹井久は、このシチュエーションを見て慄然となっていた。
「何よ……、これ……」
顔を青ざめさせた久は、自分の二の腕を掴む。
「須賀君、あなた一体……」
画面の中の京太郎にその問い掛けは届くことなく、彼は構わず嶺上牌から一枚引いてくると、
「ツモ、嶺上開花」
{①②②③③④⑨⑨⑨2} {裏西西裏} 嶺上ツモ{2}
「七十符二翻は、一二〇〇・二三〇〇」
ものを読み上げるように低く平坦な口吻で京太郎は点数申告をした。それも親であるにも拘わらず子の点数申告を。
言われるままに他家三人はその点数を支払おうとしたが、スタッフによって二三〇〇オールの間違いであると訂正された。
【現時点の点数】
トップ、京太郎――三六五〇〇。
二着、対面――二一三〇〇。
三着、下家――二一二〇〇。
ラス、上家――二一〇〇〇。
以上。
この点数差が反映されると、たちまち観客たちは呆けたように押し黙った。
京太郎、ハコテン目前から安手の和了による連荘のみで現在トップ。しかも他三家は、それぞれ百点か二百点の差が出ていることを除けばいずれも一律の点数。
こうなっていることに、皆今更になって気づいたのだ。
今の局で特殊なのはこれだけではない。
京太郎が為した七十符二翻という、役満以上に出づらい役を、これまたなかなか出てこない嶺上開花で和了ったこと。而して、今の和了で京太郎はのべ八回の連続和了を達成したことになり、即ち、もし八連荘が有りだったならこの和了を以って役満――八連荘となっていたこと。
そして何よりこの手は、清澄の大将の宮永咲が清澄麻雀部に来た当初に出した手。
いつも±〇で半荘を終える彼女。その±〇を阻止するという名目で他の部員が妨害をするも、彼女はこれを退けた。その時に和了ったのがちょうどこの手なのだ。
久はこの甚だ気味の悪いシチュエーションに、吐き気すら催していた。自身の頭の中にある過去の事象を、現在見ている対局に投影した幻覚として見ているんじゃないか。そんな気分になっていた。
他三家もいよいよ京太郎の力というものを思い知らされ、最早何かを謀る気すらも起きないでいるようだった。
それからは単純。上家も、対面も、下家も、聴牌することすら叶わず、ひたすら京太郎が安い手で和了するのみ。しかもことごとくが、二翻以下。つまるところ彼は、最初の和了の時からずっと独自に逆二翻縛りをしていたということだ。
(ずっと、遊んでただけなのか……。それも俺たちなんか歯牙にも掛けず、一人で……)
苦虫を噛み潰した顔で下家は胸の内でこの不条理を呪った。
(俺はあの人とは並べないのか……)
彼はその“あの人”なる人物の姿を想起する。憧れの“あの人”。“あの人”の打ち筋に憧れて、これまで自分の腕を、それこそ寸暇を惜しんで磨き上げてきた。すべては、“あの人”と肩を並べられる雀士になって。そうして面と向かって相対したい、その思いで。
(なのに、こんな奴に……、去年女子の尻に終始くっついて雑用ばかりしてた、ヘラヘラしてた奴に、全部否定されるのかよっ……)
今までに多分な苦労をしてきて、多分な時間を浪費してきた。だからこうしてここに居る。なら、その意味は?
こんな具合に自問自答を繰り返しているのは、何も下家だけではない。対面とて同じだった。
(こんなオモロない麻雀、生まれて初めてやな……)
彼は自分の形が保てなくなっていた。
(所詮僕ぁ、シニシスト気取って負け惜しみばっか垂れとった負け犬やったっちゅうわけか……)
対面の彼にとって、麻雀とは楽しいものであった。高い手和了れば楽しいし、それで勝てば楽しい、負けてもそれはそれで楽しい。誰かが負けるのを見るのも楽しい。とにかく楽しいもの。
強者でありながら、エンジョイ勢。ただしそれは……
(逃げとったんや……、本当は自分が大したタマやないこと認められんくて。でもそれも、こんなん目の当たりにしたらもう逃げられん……、僕の演じとった役にピッタリ嵌り込むような奴と邂逅しちゃ……)
彼は自分が浮かべていた笑みがどんどん引きつっていくのを止められなかった。
東四局 十一本場。ここに来てようやく、京太郎は三翻四十符の手を和了。それに次いで十二本場にて四翻三十符の手を和了。
それは、運を塞き止めていた物が決壊する兆しのようでもあり、この対局のクライマックスが目と鼻の先であることを誰もが信じ込んでいた。
東四局 十三本場。
「ポン」
京太郎が下家から八索を鳴く。
(……ここで終わりにするつもりか。別にいいさ、さっさとトドメを刺せよ)
すっかり憔悴した下家は、捨て鉢になって今度は六索を切った。
「ポン」
これも京太郎は鳴いた。そうして切ったのは七索。最早緑一色を狙っていることを隠しもしない。
(自分で自模和了りするっちゅうことかい。だが生憎と僕んとこには緑一色の牌は無い……)
考えて対面は、差し当たって和了へ向かうための牌を切る。もう意味を為さないのに、ついいつもの癖でそうしていた。そんな自分に気付いて、涙ぐみそうになった。
ところが、この二人とは違って、上家は諦めきれていなかった。
(何をこんな腑抜けてンだ、こいつらッ……。ここを凌いで、それから親の役満を奴から
上家は自分の手の中にある一枚の二索、それと対子になった發を見る。
(誰がこんな危ねえもん打つかよ。一、三、四索で順子か、二索を二枚自模って暗刻ってやりゃあいい。緑發は最悪頭にでもすりゃ何とかなる。いや、チートイで和了ったって問題ねえさ)
こう意気込んで上家は回し打つ。
まだ彼は勝つ気で居た。蛮勇とも言える勇気のお陰か、或いは往生際の悪さ故か……。
上家の次の京太郎は、やおら山から牌を引いてくる。人差し指と薬指で挟んだそれを眼前まで持ってきて、じっとその牌の顔を見つめたのち、中指でひっくり返すと、ポロッと取り落とすように放した。牌は卓上で細かく跳ねてから、自らの顔を表に晒した。
それは四索だった。
疲れ切ったような、生気のない面相でこれを見下ろして、
「ツモ」
と倒牌した。
{23444發發} {66横6} {88横8} ツモ{4}
緑一色……役満。
勝負有った。
これで晴れて京太郎以外全員ハコテン。供託の十三本を含め一七三〇〇オール。長い長い東場を経て、この半荘は折り返し地点にて終了と相成った。
【結果】
トップ、京太郎―― 一四二七〇〇点。
二着、対面――△一四一〇〇点。
三着、下家――△一四二〇〇点。
ラス、上家――△一四四〇〇点。
以上。
都合二十六局(内十三局は京太郎の連荘に因る)という悪夢のように永い対局は、これにて終わり。彼らはやっとのことで解放されるに至る――。
――そのはずだった。
「ホンイツ」
こんな突拍子もないことを言いだしたのは京太郎だった。
この明らかな緑一色の手を、完全なる勝利を確定させるこの素晴らしい手を、あろうことか彼はホンイツと言い張ったのである。
「緑一色、だろ……」
こわごわと下家が声を震わせて言った。
だが京太郎は、
「いやホンイツだ」
何事もないように押し切ろうとしている。
何故ゆえこのようなことをするのか。それは、百歩譲ってこの手がホンイツであったと考えれば分かる。
その場合、点数の支払いは一三〇〇オールの十三本場、つまり二六〇〇オール。その時の他三家それぞれの残り点数は三〇〇〇点と少しだったから、辛うじて点数が残る勘定になる。
而して京太郎の待ちは一 - 四索、發。自模ったのが一索だったなら、京太郎の手は彼の申告通りホンイツになっていたところであった。
ここまで言えば分かるだろう。
(須賀京太郎が欲しがってたのは、高め緑一色の四索や緑發じゃあなくて、ホンイツの一索だったってのか……。なのにこいつは惜しげもなしに、緑一色を蹴ってまで、限界まで俺たちを甚振るために!……)
ギリギリと上家は歯ぎしりをする。その眼に激しい闘争心を瀰漫させ、狼のように唸りだし、そして……。
(畜生……)
眼から唐突に涙をハラハラと溢し、悔しさに嗚咽を漏らした。
(本当に、羨ましい、妬ましい……。俺はこんなにも麻雀が好きだってのに、当の麻雀は俺よりもこんな男にベタ惚れだなんてよ……)
畢竟麻雀とは、運が物を言うゲーム――否、勝負也。如何な素人と玄人が対峙しようと、運次第の一天地六。
それでも彼は麻雀が好きだった。何もかもが好きだった。そんな不条理すらも愛していた。けれど麻雀は彼に見向きもしなかった。そればかりか彼の思慕すらも押し潰したのだ。
「もう……勘弁してくれ……。そいつは緑一色だよ……、俺たちはそれでハコテンだ……。俺たちの負けだ」
握り締めた両手を卓に突いて上家は懇願し出した。
「俺はボンクラです……、ブタです……。もう歯向かいません……、麻雀もやめます……。だからもう許してください……」
今の今まで、粗暴ですらあった上家が、とうとう人目を憚ることなく涙ながらにする懇願。
男泣きの涙、それがどれほどの思いによって流れるか。それは誰もが知るところだろう。
そしてこんなにまで彼を追い込んだ京太郎を見て、観戦場の観客たちは皆一様にドン引きしていた。
それはあの記者も同じである。京太郎を侮り、照に下世話なインタビューを掛けようとしたあの記者だ。彼は手に持ったメモとペンを動かすのすら忘れ、今の勝負に見入っていた。
「彼は……ああいうものなのですか」
記者はぼんやりと、照や菫に顔だけを向けて尋ねた。
「……一回だけ私も彼と打ったことがありますが、今回は以前にも増して酷いですね。私は彼のようになれそうにないと、時々感じます。京ちゃ……京太郎君は、私たちとは違う勝負をしているように見えます。私たちが麻雀という競技に命を懸けているのに対して、彼はまるで麻雀を通した別の勝負に命を賭けているみたいに見えます」
こう語る照の口は、ほんの一寸だけ重かった。
それを聞きながら記者の男は、たった今自分が目撃した須賀京太郎という男に、名状し難い興味が湧いた。それは、人の誰しもに備わる死への欲求、破壊的な何かへの憧憬に近い。とにかく彼は、触れてはならぬ危険な何かに、惹かれていた。
心をズタズタに引き裂かれ破滅に身をやつす者が居る一方で、彼のように惹かれる者も居る。その力はまさに魔性。
竜よ、竜よ、何故ゆえかくも荒ぶった。不届き者に逆鱗でも触れられたか。はたまた虫の居所が悪かったのか。或いは単なる気まぐれか。その真意は、上家を前にしながらも変わらぬことのない死人のような眼から推し量ることは叶わず。
対局終了後。
観戦者たちは、先刻の対局のことを忘れられなかった。
風越麻雀部の元キャプテン福路美穂子もまた、その一人であった。
彼女は、県大会で京太郎の雀力を見てきたつもりだった。凄まじい打ち手だということを、そこで知ったつもりだった。しかしそれは彼の力の一端に過ぎなかったということを、先ほどの試合で認めざるを得なかった。
何より衝撃だったのは、あの容赦のなさであった。
彼女の知る須賀京太郎は、時々変なことを言いはするけど清々しく素直な、好感の持てる青年であった。が、先ほどの対局であの席に座る姿は、その好青年と同一人物とはとても思えなかった。
親友の上埜――竹井久から聞かされていた、健気で、献身的で、頼り甲斐のある人物像とは全く別だった。風越のかつての仲間たちも、彼にはなかなか好感を持っていた。
それだけに、一層恐ろしく、不気味に思えた。あの毒の無さそうな身体の中に、一体どこにあんな猛毒を潜ませていたのか。自分が見てきた彼は何者だったのか。
「あっ、福路さん」
美穂子に声を掛けてきたのは京太郎であった。観戦後、彼女が風越の後輩たちと話していた時の事である。
彼女らは一斉に京太郎を見て、それからことごとく震え上がった。
げっ、と、美穂子の傍らに居た現キャプテンの池田華菜が、京太郎を目にした瞬間に漏らしたが、即座に他の者によって口を塞がれた。お陰で、京太郎には怪訝に思われる程度で済んだ。
「あ、ああ、須賀君。最初の半荘勝利おめでとう……」
ややぎこちないながらも、美穂子は微笑んで京太郎に労いの言葉を掛けた。
「ありがとうございます。つっても、運が良かっただけですけどね。勝ったってのにあまり気分が優れないんですよね。気分転換に何か仕事でもしたいところだけど……」
とぼけたような苦笑いで京太郎は言った。それは三人もの雀士を絶望させてきた者の顔ではなかった。どちらかと言うと、散歩にでも行ってきたみたいなものであった。
「あ、そうそう! 池田さん、個人戦全国出場おめでとうございます」
と、出し抜けに話を振られて、池田はビクリと身体を跳ねさせた。
「あ、ああ! 当然だし!」
勢いで、池田はどうにか取り繕って返答することが出来た。
「で、そのお祝いの一つ……ってわけじゃないんですけど、何かお手伝い出来ることありますか? 今言った通り、気分転換に何か仕事でもしたいんですけど」
「い、いや! 平気だし! 問題ないし! それに、そっちだってまだあんだから、身体を大切にしなって!」
気遣うような台詞を言ってはいるが、池田はあまり誤魔化せていなかった。彼を拒否しているということが上手く隠せていなかった。
京太郎はその後も食い下がるも、池田の拒絶はますます高まる一方で、ついに彼のほうが折れることとなった。
美穂子はそれを止められなかった。何故なら彼女もまた、彼に対して得体の知れない負の感情を抱き、遠ざけたかったから。
でも、
「須賀君……」
立ち去る彼の背中を見て、思わず美穂子は彼の名前を呟いた。京太郎が立ち去る間際、彼が見せたあの哀しげな、自らの責務と生き甲斐を奪われたような顔が印象に残った。
あの寂しげな背中を、今すぐ追い掛けたい衝動に駆られた。もしかしたらあの弱々しい様子はまやかしなのかもしれない。けど、もしかしたら本物かもしれないという、捨てがたい可能性が浮かんできて……。
京ちゃんは次回の裏編でボケます。今回は第三者から見た京ちゃんの恐ろしさをどうぞ。これは屋根裏のゴミですわ。
補足:結果の点数のところで、ハコテン組の点数の前に『△』が付いているのは、マイナスという意味です。『-』や『マイナス』だと見映えが悪く感じられたので。