長くなってしまったので前後編にわけました。
※
いつだっただろう。ふと夜、外に出ようとして家の玄関の扉を閉めた瞬間。家屋から漏れ出る光が消えたその一瞬、なにものをも見通すことのできない闇に包まれ、びくりと立ちすくんだ。
『──まずは、夜目が利かなくなります』
神経質そうに自身の腕をさすっていた母を気遣ってだろう。私の目を見て、そうして母に視線を移した主治医は、なるべく努めて穏やかな声色を保っていたように、思う。
『そうして徐々に徐々に、外側が見えにくくなっていって、視野が狭まります』
進行自体はとてもゆっくりですけれど、と静かに医師が告げると、母は話を聞く前からお行儀よくしなきゃ、ときちんとお膝にのせていた私の両手を、上から包むように、右手でぎゅっと握りしめたのだ。その手が微かに震えていたのを、小さかった私は寒いのかなぁ、なんて思っていた。幼い私はとても無邪気で、それでいて愚かだった。
だから、その緩やかに私を蝕むそれにやっと気づいたのは、初めて認識したのはその恐ろしい程の暗闇を前にしたあのときだったのだ。病院に行ったとき、少し……、ああ、いえ、と口籠った彼が何を言おうとしていたのかそのときの私にはわからなかったけれども、一般より症状の進行が早いのだ、と理解できる年頃にまで私が成長した頃には視界の外側が大分認識できなくなり、外を安心して出歩けるよう、白杖を常に携行するようになっていた。
明日には、この目は何も映さなくなってしまうのではないか。そういう恐怖は症状が進行するにつれてじわじわと強くなった。何も見えない夜に恐怖して、そうして布団にもぐり、目を閉じることすら怖かった。目を閉じれば。もう、次の日にはこの暗闇から抜け出せなくなってしまうのではないかという恐怖が十分に私を蝕んだ頃。
「──やぁやぁ、陽炎型だ。こりゃ助かる」
艦娘適性検査を、私は受けたのだ。
「こんなすぐに適性保持者が見つかるなんてねぇ」
うんざりする程に長く、意味のわからない検査。それが終わって帰れると思った私は、別室にて待機を言い渡され、しばらくしてから妙に胡散臭いおじさんが待つ部屋へと通された。
「ここに呼ばれた意味はわかりますか」
「ええ、と」
「ああ、質問を変えましょうか。──
机に頬杖をついて、じっとこちらを見つめる彼は、どこか面白そうに私を観察していた。
『──夜、は』
急にざりざりと走るノイズ。そうしてふ、とぼんやりと網膜を照らしていた灯りが消え、闇に包まれた瞬間、不意に聞こえた誰かの声。なぜか。その声にひやりとしたものが背中を伝った。早く明るくならないものか、とその闇が一向に消えないことにじれ始めた頃、ちかちかと、ストロボが瞬くように色々な画像が瞬時に浮かんでは消えていった。あまりに朧気な画像と映し出されるその速さにほとんど理解することはできなかったけれど。なぜか、大きな手が頭を撫でるその感触と。声を殺すように泣きながら。胸にかき抱いたその紐の青さだけは、妙に脳裏に残った。そうして。
『こわ、くて。こわく、て』
「……」
「言いたくなければいいんですけどね。なにせトラウマをえぐられる娘も多いみたいですので」
「……あの」
「はい」
「見ての通り、私、視覚に障害があって。ですから」
手元の白杖を見せ、そこで一旦言葉を切る。艦娘の適性保持者として選ばれたのだろうということは、この部屋に入る前から薄々感じていた。そうして選ばれてしまえば、実質拒否権などないのだろうということも。
──なんで、私が。
艦娘として召集される娘なんて、全国的に見ればなんと数の少ないことか。だから、この目の病気をしっかり認識したときと同じような感想が私の心のうちに浮かんだ。なんで、私なの。幾度となく繰り返した問答。それに対する答えなんて、あるわけがなかった。運が悪かったとくちさがない人は囁いた。そんなのって、と反発したところで、そういう人達には何も伝わらなかった。可哀想なものをみるような目を向ける人、心配そうに声をかける人、無邪気に笑いものにする子供。この目は、色々なものがみえないけれど。色々なものも、見せてくれた。そうして普通の人が見えないようなものを見すぎて心が疲れると、どうしてもこの自嘲的なフレーズが思い浮かんでしまった。運が悪かったんだ。そうなのかもしれない。ああ、でも。不幸で不幸を打ち消せる日が来たというのなら、こんな目でもよかったかもしれない。日々失明の恐怖に怯え、心が疲れていた私は、力なく笑いながら。
「お力には、なれないかと思います」
そう、彼に告げた。
「……」
頬杖をついていた彼が、ぎしり、と音を立てて深く座り込む。応接室の少し高そうな革張りの椅子に沈んだ彼は、特に私の発言に対してなんの感慨も示さずに口を開いた。
「申し訳ないんですがねぇ、艦娘への召集は強制なんですよ。表向きは個人の意志を尊重するとしてますが、重度の身体欠損でもない限りほぼ拒否できた試しはありません」
そうして机の上にあった一枚の赤い紙をひらりとこちらに見せる。艦娘召集令状。通称、赤紙。それは歴史の教科書に載っていた過去の軍への召集令状と瓜二つだった。
「……でも」
「ああ、それとですね」
それを脇に置いて、しょり、と顎の無精ひげをなでながら、本当になんでもないことのように。
「保証はしませんが治ると思いますよ」
そう言ってこちらをまたまっすぐに見つめてくる彼の言葉を理解するのに、私はしばし時間を要した。
「……え?」
「体が弱かった娘が健康になる。難病で四肢を動かすこともままならなかった娘が自由な体を手に入れる。まぁ、中には弱い部分は治らず、それを補う共感覚が研ぎ澄まされた例もありますけれど」
──人が言う、不幸に、不幸が重なって。
「戦いに必要なものを補うように体が変化する。艦娘とは、
そうして私は。人の名を捨て、駆逐艦、萩風となるための一歩を踏み出したのだ。
※
「──なぜ、艦娘は比較的若い女性しかなれないのか。疑問に思う人も、たくさんいると思います」
ガク、と頬杖をついていた手から滑り落ちたことで眠気が一瞬飛んだ俺は、慌てて平静を装って教科書をめくった。やべぇ、完全に寝てた。教科書を立ててちらりと様子を伺えば苦笑いをされたので、おそらく気づいているのだろう。それを咎められることは滅多にないけれど、さすがにちょっと罪悪感が湧いた。
「簡単に言えば、あなた達は
だってこの講義わけわかんないしなぁ。ちらりと周りを見回せば、主に自分よりも年下の駆逐艦候補生達がすでに夢の中へと沈んでいた。うん、起きただけ俺偉いよな。
「古代から神事は女性がするもの、とされていますが、その理由に対しては諸説あります。例えば霊能力は共感能力の一種であるとしている説では、女性は男性よりも他者への感情理解の能力が高い点に着目していて──」
……何言ってるか、全然わからん。ぺき、とシャーペンの芯が折れたことで完全にやる気をなくした俺は、密かにため息をつきながら窓を見やった。
少し熱の籠もった教室内に、さぁ、と海風が吹き込む。初夏の青い空と、ふわりと揺れる白いカーテンのコントラストがなんとも夏の始まりを象徴するかのようだった。
「──深海棲艦との戦いは、一種の
あー、外で日向ぼっこでもしたいなーなどとどうでもいいことを考えていたら、急に教官が詩的なことを言い始めたので、なんだ? と視線を戻す。
「深海棲艦は過去の亡霊の嘆きであるとした詩人の言葉です」
……あれ、気づかないうちになんかの文学作品紹介になってる。この人、色々と知識豊富っぽいんだけどそのせいかこうやってよく話が脱線してなんの話をしているのかわからなくなるのが玉に瑕だ。
「どうして深海棲艦は現れたのか。なぜ現代の最新兵器が効かないのか。未だに謎が多く、議論され続けているこの議題に対して彼は独自の解釈を加えた書籍を出しています。科学的根拠とかボロボロなんだけれど、その語り口が妙に引き込むという評判が評判を呼び、その界隈ではかなりの人気を誇る一冊です。手に入れるのに結構苦労しちゃった」
嬉しそうにその本をこちらに見せる教官を見て、この人本当にこういうの好きなんだろうなぁと思った。好きなこと話すのって楽しいよな。でも、やっぱりこういう話ってちょっと俺くらいの年代には難しいっていうか、あんまり食指が動かないっつーか。俺は京都行ったらお寺そっちのけで木刀を買うようなやつだぞ。そんなやつにこんな話をきちんと理解しろってのがまず無理なんだよなぁ。
とにかく眠気をどうにかしようと無心でカチカチとシャーペンの芯を伸ばしていたら、教官が静かにその一節を読み上げ始めた。
「──おお、小さき人よ。なぜお前たちはすぐに忘れてしまうのか。どうして忘れ、そうして繰り返すのか」
かつん、こつん。ゆっくりと教室を練り歩く教官の足音が静かに響き渡る。
「我らが苦しみは未だ海を彷徨い、この傷は癒えぬまま。だというのに、ああ、愚かなる人よ」
う、やばい。朗読されると一層耳に心地よくてきつい。うつら、うつらと舟をこぎそうになるのを必死に堪え。
「──忘れたというのなら」
そうして、意識が落ちるか否かの、夢と現の狭間に。
『──勝手に』
教官の声に、副音声のようにかぶる、なにか。
「我らが、代わりに思い出させてやろう」
『勝手に忘れるなんて、絶対に、許さねぇ』
──ガタンッ!!!
机に手をついて思いっきり立ち上がった俺に対して、びっくりして振り返った教官、寝こけているところに大きな音を出されて釣られてガタタ、と物音を立てて飛び起きる駆逐艦候補生数名と、真面目に授業を受けていた生徒達。教室内のほぼ全員の視線を集めてようやっと俺は我に返った。
「あ、あー……すみません! 寝てましたぁ!!!」
しばしの沈黙が気まずくなり、勢いよく頭を下げて俺が謝罪するのと、チャイムが鳴るのは同時だった。
「……き、気をつけて、ね?」
開き直った俺に対してそれでも彼女は怒ることなく、苦笑いをして課題の範囲を読み上げた。ホッとしてゆるゆると席に座ると、伝達事項を伝え終えた教官がちょいちょいと手招きをした。あ、やっぱりげんこつの一つでももらうんだろうか。
寝てた俺が悪いんだ、と席をたって教官の前にすごすごと向かう。
「
「あ、はい」
「実はね、ここにいる子達と別カリキュラムを受けている子が一人いるんだけど。その子と同室になってもらうから伝えておこうかと思って」
「いつからですか?」
「訓練所に配属されてから」
「……あれ、じゃあ俺」
「配属は佐世保。発表はまだだから一応皆には内緒にしててね」
「了解です」
そこで教官は一旦言葉を区切ると、じっと俺のことを見つめてきた。う、そろそろげんこつかな。
「ねぇ」
「は、はい!」
「さっき、嫌な夢でも見てた?」
「……へ?」
そらげんこつだ、と姿勢を正したら、予想外のことを聞かれ面食らう。そこは寝るなじゃねぇの?
「え、えー……と」
「拾陸番の艦魄って、最近引き上げられた
「……えと」
どうしよう。大人しく白状するべきだろうか。でもこれって教官が言ってることとは関係ないような気もするけど。しばらくまごついていたが、それでも静かにこちらを見つめ続ける彼女に根負けして口を開いた。
「多分、そういうのじゃないんですけど。元々、あー……夜が、苦手で。あんまり、寝られてないというか」
『……母さん?』
──夜の、台所。明かりもつけずにテーブルにつっぷしている母。体が弱い母さんがこんなところで寝てたら風邪をひいてしまうだろう、と起こすことにしたのだ。元々夜目がきく方で、電気をつけずにそのまま静かに寝ているように見えた母に近寄って、肩を揺すったところで。いつもと、何かが決定的に違うということに、気づいてしまった。
『──夜は、なんかやだよなぁ』
全くだぜ、と同意をしてから。なんだ今の声、と深く考える前に装置を外され、そうして真っ赤なペラペラの紙を一枚渡された。
親戚の家に身を寄せていた俺には都合がよかった。腫物扱いをされ、息が詰まるようなあの家にいるより、きっとなんぼかマシだと飛び出して、そうして今ここにいるわけだけれども。やはりまだまだ夜に苦手意識があって、夜自室で一人布団にくるまっていると途端に恐ろしくなってしまうのだ。
──夜の闇が、母さんをさらっていってしまったんだ。
そう考え始めると、静かな夜の耳鳴り、その暗闇がとても恐ろしいもののように思えて、中々寝つくことができないでいた。
「カウンセリング、受ける?」
「いや、そこまでじゃないんですけど。……居眠りの言い訳にはなんないスね、すみません」
日常生活に支障がでるほどではない。ただ、眠りに落ちるまでの少しの間早く寝ろ、早く落ちろ、と待ち続ける時間が苦手なだけで。だから俺はそこで話を切って頭を下げた。
「新しい子と仲良くなれるといいね」
「そう、ですね」
「誰かがいてくれれば、夜も心細くなくなるかもしれないし」
母さんがいなくなってから、誰かと共に夜を過ごすといったことを久しくしていない。学校から帰ってもほとんど誰もリビングにいない。俺が帰ってくると皆自室に籠るのだ、ということは薄々感じていた。そりゃあ、まぁ。あまり縁もなかったし、向こうからしたらいい迷惑だっただろう。それでも引き取ってくれたことには感謝しなきゃな、と思いつつ。いつもおかえりの代わりにラップがかけられたご飯と書き置きだけが待っているだけのあの空間が、どうしても好きにはなれなかった。
「……だといいんですけど」
へらり、と力なく笑いながら。夜、真っ暗じゃないと寝られない子だったらどうしような、とちょびっとだけ不安になるのだった。
※
艤装を身につけるのにも、白杖なしで生活する状態にも慣れた頃。私はようやく訓練所へと配属になり。
「俺、駆逐艦拾陸番。今日から寮で同室だ、よろしくな」
そうしてようやく、初めてまともに他の候補生と会話をしたのだった。
笑いながら握手を求める同じ陽炎型駆逐艦の候補生であると名乗りを上げた彼女は、一見するとまるで男の子みたいだった。思ったより気さくな子でよかった、と内心ホッとしながら握手を交わすと、拾陸番と名乗りを上げた彼女はちょんちょん、と自分の頭を指差しながら会話を続けた。
「もうプリンになってる」
「私、他の子と違って先に艤装接続をしてるから」
「ふーん。俺もやっぱ色変わるのかなぁ。駆逐艦はカラフルだって言うよな」
「……ピンクとかだったりして」
「うへぇ、やめてくれ……ぜってぇ似合わない自信ある」
艦娘は人でありながら人ではないなにか。そう言われる理由の一つとして、髪色の変化があげられた。だから訓練所上がりの新人艦娘というのは一発でわかるらしい。髪の毛の色がまだ馴染み切らず、プリンのようになっている娘が多いのだ。
「今日から海の上だな〜、ようやっとって感じ。座学はもう勘弁」
頭の後ろで手を組みながらのんびりと歩きだした彼女の背中を追う。特段、私は社交的ではないのだけれど。なぜかこの子は初対面にしては妙に話しやすいと感じた。うまく言葉で表せない妙な感覚に多少そわりとしながらも声をかける。
「拾陸番、見るからに体動かす方が好きそうだもんね」
「まーな。そっちはインドアっぽく見えるけど」
横に並んだ私にちらりと視線を寄越して、なんとはなしにそう続ける。
「……結構、体を動かすの好きだよ」
「へぇ、ちょっと意外」
思い切り体を動かせば、限られた視界の外側にある障害物にぶつかってしまうから。白杖は、私の目の代わり。見えない何かが確かにそこにあることを教えてもらって、ようやく私は安心して動くことができた。だから。
「楽しみ」
「ん?」
お前は死にに行くんだぞ、と両肩をがっちりと掴んで訴えたお父さん。両手で顔を覆って終始涙を流し、こちらを見ようとしないお母さん。私は、両親にとても愛されていたと思う。だから、内心ごめんなさいと二人に謝る。
ごめんなさい、お父さん、お母さん。きっと私は、二人より長生きはできないのかもしれないけれど、それでも。
空はこんなにも広かったのだと思い出してしまったから。見えないなにかに怯えず、力の限り前ヘと跳ねるように足を進めることができる、この体が。どこまでもどこまでも遠くを見通せる、この目が。
「海の上は。きっと気持ちいいんだろうね」
どうしようもないほどに、愛しくて。どうしようもないほど艦娘になれたことに対して、喜びを覚えてしまったから。
お父さん、お母さん。親不孝な娘で、ごめんなさい。
※
すぐに、わかった。夜になり、薄暗い廊下を歩くときの不安そうな様子であるとか。部屋について明かりをつけたとき、ほっとするように、多分無意識なんだろうけれど、ぎゅっと胸元の服を握りしめていた手が緩む様であるとかを見て。
──同じだ。
それは、直感に近かったけれども、妙に確信をもってそう思えた。だから努めて明るくその子に声をかけたのだ。
「なぁ、カーテン開けてていい?」
灯火管制で夜は明かりを落とさねばならない。それでもカーテンを開けていれば微かな月の光が差し込んで幾分か気が紛れるのだ。幸いに今日は満月だったのもあり、いつもよりこの部屋を明るく照らしてくれるだろう。
「俺さー、真っ暗だと落ち着かなくて!」
「そ、うなんだ」
「うん。気にする?」
「ううん。……私も、真っ暗なのはちょっと苦手だから」
ほらやっぱり。笑え笑え、ただでさえこの子は俺と違って初めて他の艦娘達と顔を合わせて、初めて会った俺との同室生活に不安なんだ。どうせ、すぐにばれちゃうんだろうけど。それでも今日くらいは。
「はは、俺達結構気が合うかもな」
笑ってこの子の緊張を吹き飛ばしてやろうと思えるくらいには。まぁ、なんだ。今思えば俺は結構最初から気に入ってたんだと思う、萩のこと。
※
よいしょ、とそこそこの量の書類を両腕で抱えなおしてきょろきょろと辺りを見回す。
『座学がなくなってラッキーって思った? ざーんねーん』
次回演習場の申請書類。演習結果報告書、備品欠損報告書。一人前の艦娘となったときにある程度事務作業もこなせるよう、こういった雑務も駆逐隊の仲間で持ち回りで担当することになっていた。
候補生は普段は訓練棟にいるので滅多に庁舎を訪れることはないのだけれど、こういった書類を届ける際にはこの佐世保鎮守府庁舎を訪れなければならなかった。案内掲示板を眺め、行き先を確認して歩き出すと向かいから大人びた女性が歩いてきた。
『俺、艦娘見たぜ。あれは絶対戦艦の人だ』
書類業務に頭を悩ませ、虚ろな目で庁舎に向かった拾陸番が興奮さめやらぬ、といった様子で活き活きと帰ってきたことがある。ここは佐世保鎮守府庁舎。すれ違う女性は艦娘であることが、多い。
落ち着いた雰囲気の人だ。道着を着ているから、空母か、あるいは戦艦か。あまり不躾に見ても失礼にあたるだろうと、観察もそこそこに少しの緊張感と共に歩き出す。
「……執務室?」
その人に道をあけるよう、脇につめてすれ違おうとしたとき。ぽつりと呟かれたその言葉が私に向けてなのだと理解するには時間がかかって、あわや通り過ぎるというところで気づいた私は、足を止めて、こわごわとその人を見上げた。
じっとこちらを見つめて黙り込むその女性。無表情で見下されているのもあり、無意識に圧を感じてしまった私は、ついついどもってしまった。
「は、はい」
「そう。今提督はいないけれど、鈴谷がいるから。彼女に渡せばいいわ」
「わ、わかりました。ありがとうございます」
ぺこ、とお辞儀をしてまた彼女を見上げれば、彼女は立ち去ることなくまだこちらを見下ろしていた。ま、まだ何かあるのかな。内心びくびくしていた私は、そんな心持ちだったものだから、彼女がぬっと手を伸ばしてきたとき思わずびくっと肩をすくめて目をつぶってしまった。
──ぽん。
だから彼女の手が私の頭を撫でたのだということは、その温かで大きな手の平の感触から理解したし。
「頑張りなさい」
目を開いたときに揺れる、彼女の袴のその青さが。妙に、鮮やかに目に飛び込んできたのだった。
何も言えず、ただただ見上げるだけの私に、彼女は最後にふと少しだけ表情を緩めて去っていった。
※
「ん、今日から
チョコ食べる〜? とのんびりと個包装タイプのチョコレートを一つ差し出しながら、佐世保鎮守府の現秘書艦である鈴谷さんが提督の執務室で出迎えてくれた。
「ありがとうございます」
「ほい、じゃあ鈴谷が見てあげるねー」
……チョコレート、久々。この地域は比較的深海棲艦による被害が昔から少なかったこともあり、内陸部などは特に、いわゆる"普通"の生活をしている人達が多い。一方北陸の方などは未だ深海棲艦の爪痕が深く、家をもたない浮浪者などがまだまだ多く存在するという。そういった話は、同じ日本国内といえどまるでどこか遠くの国の出来事のように実感がわかなかった。それでも海上交通線が安定化してきたといってもまだまだ供給が不安定な中、こういった嗜好品がわりかし貴重であることは全国共通で、間宮の羊羹やプリンなどが艦娘間である種の取引通貨となっているという噂は候補生の中で広がっていた。横須賀に配属にならないかなぁ、でも横須賀配属になったら護衛任務ばっかりよ、それは、つまんなさそうだよなぁ、などとそういう情報にさとい娘達が話していたので尋ねてみたら、皆の憧れ、間宮の拠点は横須賀で、横須賀に配属になれば好きなときに甘いものが食べられるのよ、と教えてくれた。
艦娘になった特権の一つとして、そういった嗜好品が優先的に回されることが上げられるだろう。体をはって戦っている艦娘も女の子である。そういったものが戦意の向上へと繋がっていることは間違いないだろう。
私から受け取った書類をパラパラと流し見して、チョコレートをもう一つ頬張ったところで鈴谷さんが口を開いた。
「初めてにしては上出来だね。ケアレスミスが何個かと、あと演習場選びはコツがいるからね」
「え……もうチェック終わったんですか?」
「まー秘書艦ですから」
そう言ってとんとん、と書類を整えて不備のあるものを引き抜いていく。
「拾漆番ちゃんは丁寧に書いてくれるから見やすいし、大体ミスるポイントってあるから。ずーっとやってれば不備がどこにあるかくらい一瞬でわかるようになるって」
そう、かな? それは、たぶん、違うような気がする。鈴谷さんは椅子の背もたれをくるりと前に回してそこにだらしなく寄りかかりながらちょいちょい、と私を手招いた。
「もー提督とかマジ悪筆。古文書でも読んでる気分になるし」
そうしてすい、と空に人差し指で円を描いて、これが提督の署名、と苦笑いしながら呟いた。なるほど、それは確かにわからない。
そうして今日は時間あるから、と一つ一つ丁寧に間違えたところを教えてくれた。
「あの」
「ん?」
「私がくる前に、どなたかここに来ませんでしたか」
「うーん、直近だと加賀さんかな」
「加賀さん」
「そう。……やりました」
「なんですか、それ」
「加賀さんのものまね。似てるっしょ」
恐らくすれ違ったあの人のことなのだろうけど、残念ながら私にはそれが似ているかどうかの判断がつかなかった。
「はい、おーしまい」
「ありがとうございます」
「いいって、いい気分転換なったし。ほいじゃー残り、片付けちゃいますか〜」
そう言うなり鈴谷さんはぐーっと伸びをして、提督がいつも使っているであろう執務机に座り、山積みになっている書類を高速で処理し始めた。す、すごい。
「鈴谷はできる女だよ〜?」
「あ! ええと、そういう、意味では……ごめんなさい」
「あはは、素直だね。いいよ、慣れてるから」
正直外見とのギャップがすごくて感心してしまった。そうしてそれを見透かされたことが恥ずかしくなって、素直に謝る。
「提督もあんなだしー? 鈴谷と合わせて割れ鍋にとじ蓋って言われてるし」
「……ひどい」
「ありがと。まぁ何にしても目立つやつは叩かれるのが常だからねぇ。だからこうやってフレッシュな候補生との交流はいい気分転換になるんだ」
にひひ、と笑って私との会話を続けながらも書類をひょいひょいと処理してきっちりと整理整頓していく。執務室も綺麗に掃除されているし。もしかしたら結構まめな人なのかもしれない。
「駆逐艦の娘達は真っ直ぐだからねぇ、見てて気持ちがいいよね」
「真っ直ぐ、ですか」
「うん。駆逐艦の生き様は私達の誇りだよ」
ぽん、と書類に判子を押して、それを脇に片付ける。そうして鈴谷さんは、本当に楽しそうにこちらに笑いかけるのだった。
「……私、そんな大した人間じゃ」
「あはは、プレッシャーかけちゃった?」
「そうではないです、けど」
「ごめんごめん。でも大丈夫だよ」
とんとん、と胸を人差し指で叩いてから。一拍おいて、こちらをしっかりと見つめて。
「──拾漆番ちゃんも駆逐艦だからね」
そうはっきりと言った彼女の言葉の意図はよくわからなかったけれども、それに対して妙な気恥ずかしさを覚えた私はつい軽く反論してしまった。
「まだ、なれるか」
「なれるよ。こう見えて結構人を見る目あるんだ〜、鈴谷」
──佐世保は、なんか、ちゃらくてゆるい。提督と秘書艦の鈴谷さんを中心に、少し癖の強い人、あるいはゆるい人がよく集まるのが佐世保鎮守府、という評価が一般的であるらしいということは噂好きの同期から小耳に挟んだことがある。ちゃらくてゆるい空の戦いの専門家の佐世保、規律が厳しくまさに軍隊然としている第一線の呉、そしていわゆる落ちこぼれが集うアットホームなだけが売りの護衛の横須賀、などなど。噂に尾ひれがついてあることないこと色々とあるのだろうけれども、私も訓練所に配属になって始めてここの提督と鈴谷さんを見たときはああ、なるほど、と思った。
「でも優秀な駆逐艦は呉によく取られちゃうからな〜」
でもこうして話してみれば鈴谷さんは面倒見がよく仕事も丁寧で、喋り方こそ少し軽いけれども見た目ほど中身もちゃらちゃらはしていなかった。あれがあくまで外見に基づいた噂でしかないということは薄々わかっていた。人は人を、見た目で判断するということを。私もよく知っているから。
「ま、どこに配属になってもさ、たまに顔みせてよ」
そうして目の前にいるこの人は、確かに親愛の念でもって私に接しているということも。それが心地よく、多分、こういうところがこの人が佐世保の秘書艦である所以なのだろうということも。
「やっぱ最初に面倒見た子って、可愛いじゃん?」
そう感じる私のこの感覚は、きっと間違っていない。だから私も、そう言って笑いかける彼女に笑い返したのだった。
※
しとしとと静かに降る雨が窓を叩く。梅雨入りを象徴するかのようなその雨を見上げながら、手を止めて嵐がぽつりと呟いた。
「久々の佐世保だなぁ」
「明後日の佐世保の天気は晴れだって」
「そいつはよかった。艦載機も気持ちよく飛ばせるだろうな」
「でも明日はどしゃぶり」
「そいつは……よくねぇなぁ。じめじめしてやんなるぜ」
そう言ってため息をひとつついて、嵐はまたのろのろと明日の準備を再開すべく手を動かし始めた。
「なんか候補生時代がすっごい昔のことみたいだよな」
「確かに」
一人前の艦娘となり、呉に配属されてからあっちへこっちへ、やれ残存敵戦力の掃討作戦だ、船団護衛に輸送作戦だ、そら対潜警戒など飛び回ってはいるものの、ゆっくりと腰を据えて他の鎮守府へ訪れるということは滅多になかった。
ここ最近は戦線も落ち着き、いわゆる大規模作戦が必要となる強大な深海棲艦の出現もなりを潜めていた。そのおかげでもあってか、私達のような新人が練度もろくに上がらぬまま苛烈な戦いに放り込まれることも前に比べれば少なくなったらしい。といっても、一時的な平和状態になったらなったで駆逐艦のお仕事は減るわけではない。最前線での基地の構築およびそれに伴う物資の輸送。最前線周辺の海上交通線には補給艦を沈めようと虎視眈々と隙を狙っている敵潜水艦がうようよいるため、私達のお仕事は必然的にその補給艦の護衛任務や輸送作戦がメインとなっていた。おかげでソナーと爆雷の使い方ばかりうまくなった、と嵐がぼやいていたら、
『ソナー使えるだけいいじゃないか、響達はそんないい装備持ってないから専ら目視だよ』
と、そのとき合同で護衛作戦に参加していた横須賀所属の響ににっこりと微笑みかけられた。なお目は全然笑ってなかった。今は割と戦況が落ち着いているから護衛に回されている私達だけれど、いざ戦いが始まれば護衛任務は横須賀が中心となって回さねばならない。さらに言うならば中規模作戦以上は横須賀からも艦娘が引き抜かれ、装備もどんどん巻き上げられる、と爽やかに毒を吐きつづけていた響が最後に人手が足りない、装備も足りない、ついでに言えば護衛任務は駆逐艦から人気もない、ないないづくしのアットホームなところだけが売りの職場さ、なんて朗らかに笑っていたけれど、こちらは全く笑えなかった。あの噂は、あながち間違ってはいなかったらしい。最も、響が落ちこぼれだなんて思いもしなかったけれども。
『駆逐艦は魚雷で戦艦沈めてなんぼだろ』
『そうかな。一隻深海棲艦を派手に沈めるよりも、全員を無事に届ける方が難しいんだよ。それに』
嵐はいわゆる典型的な駆逐艦、大きな獲物を仕留めることに対する憧れが強く、それに対して護衛専門の響はそんな喧嘩っ早い駆逐艦の中では少し変わった意見の持ち主だった。そんな二人が言い合いになるのは当たり前と言えば当たり前だけれど、遥かに私達より艦歴が長い響が発する言葉のひとつひとつには妙な重みがあって。
『私は誰かを守れる力の方が、欲しいかな』
そうして、そうぽつりと呟いた彼女の横顔は、どこか
その話を聞いて以来思うところがあったのか、嵐は護衛作戦について文句を言わなくなった。そうして黙々と任務をこなしているうちに、爆雷は素質あるな、とあの川内さんがぽつりとこぼすほどの腕前になってしまったのは本人的にはあまり納得がいっていないようだけど。
ひょいっと缶ジュースを放り投げながら嵐がため息を一つつく。
「はぁ、爆雷は得意なんだけどなぁ」
「好き嫌いはダメだよ」
「わかってんだけどさぁ、対空はなぁ。ちまちました感じが苦手だぜ。やっぱ魚雷とか爆雷でドカンドカンやれる方が性にあってるんだよなぁ」
あ゛〜、と声を上げながら自分の机に背を預けて伸びをしている。どうやら準備に飽きたようで、気分転換にお喋りがしたいみたいだ。
「それにしっかりと空母の護衛すんの初めてだし。ちょっと緊張しねぇ?」
それは、確かに。戦闘を主目的とした空母の護衛は演習と言えども初めてだ。他の鎮守府との合同演習となれば、それは呉鎮守府の代表として参加するようなもので、そんななかこんな大役に抜擢されたのに私も少なからず緊張していた。
空母、かぁ。最近嵐がグラーフさんと仲良くしているのもあって二言三言会話を交わす機会が増えたけれども、それにしても私にとって空母の人達はちょっと近寄りがたいというか、一種の憧憬のようなものがあった。
──緊張と、不安と、それから憧れと。見上げた彼女の表情は、強い日差しが逆光になってよく見えなかった。ただ静かにしばらく見下ろしていた彼女が、そろりと伸ばした手がぽん、と私の頭に置かれたとき。その人の、熱を、命をそこに感じたときに。私は、自分の心に誓ったのだ。絶対に、この人を。
「萩?」
嵐の訝しげな声でハッと我に返る。ううん、私もちょっと疲れてきちゃったのかな。
「あ、うん。そうだね。……責任、重大だし」
「なー」
しっかりしなくちゃ。私がポカしたら皆に迷惑がかかっちゃう。よし、と気合を入れて再度準備にとりかかると、嵐もあくびを一つしながらごそごそと作業に戻った。
そうして一段落し、今日は少し早めに床につこうか、となったところで。
「なぁ、今日つけていい?」
嵐が最近恒例になりつつある、プラネタリウム装置を両手に抱えてこちらに笑いかけてきた。
「いいよ」
「さんきゅ。なんかいつもと違う理由で寝られそうになくてさぁ」
そうして二人して照明を落として二段ベッドの下段に潜り込む。嵐がスイッチを入れると、ベッドの天板に星が描き出された。
『──なぁ、萩。今日はこれつけて寝ようぜ』
あの日嵐がプラネタリウム装置を持ち込むまで、私達はお互いの弱さに不干渉だった。
嵐も夜が苦手であるということは、一緒の部屋で生活を始めて数日のうちに感づいていた。私も、寝付きが悪いから。意識が落ちるまでのその間、嵐が落ち着きなく寝返りをうつ気配や、時折溢れる小さな声にもならない声を聞いて、なんとなく。この子も夜が苦手なのかもしれないと。
それでも空元気だとしてもこちらを気遣ってくれた嵐の優しさを無碍にしたくなかったし、暗闇が苦手なのだと告白をしてその理由を聞かれるのが嫌だったのもあって、こちらから踏み込むこともせずにいた。そうしていつしか、カーテンを開け放して寝ることはなんとなく二人の中で暗黙の了解のようになっていた。
だから、多分。あの日人工的な星空を二人して見上げ、お互いの弱さを少しだけ共有してから、私達の関係も少しずつ変わってきたように思う。
カチカチと手元のそれをいじりながら嵐がなんの気なしに呟く。
「そろそろ夏の大三角形見えっかな」
「まだじゃないかな。嵐、ちゃんと星の名前覚えてるの?」
「バカにすんなよな、あれがデブネ!」
「デネブだよ……」
「あれ?」
「デネブさん、デブなんて言われたら怒っちゃうよ」
「そんな乙女心がデネブさんに……」
毎回話すのは、そんなくだらないこと。夜が苦手な私達は、少し心細くなるとこうやって人工的な星空を見上げて言葉を交わした。微かとは言え、柔らかな光が注ぐことの安心感と、隣に誰かがいてくれる安心感。夜は、苦手だけれど。こうして嵐と緩やかに眠気がおそってくるまでに過ごす穏やか時間は、いつしかそんなに嫌いではなくなっていた。
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後編は22時頃up予定です。