ちゃり、と鍵束をもて遊びながら軽巡洋艦寮の廊下を歩く。遠征から帰ってきてからしばらくぶりの休日だ、何をしようかしら、と思いながら歩いていると、ふと奴の部屋が目にとまった。
……一週間くらい経ってるかな。たかだか一週間、されど一週間。嫌な予感がして鍵束の中から鍵を一つ選び取り、鍵穴へと差し込む。
勝手知ったるなんとやら、どうせノックをしたところで一度眠りにつけば近所迷惑になるほどに殴りつけないと起きやしないのだから。
ガチャリ、と静かにドアを開くと、独特な匂いが鼻孔をくすぐった。部屋に染み込んだ油の匂いとすえた紙の匂い。艦娘を退役した後も、彼女の趣味である機械いじりは続いていた。よく他の子が壊した家電、小物などを引き受けては部屋の一角で直している関係で、この部屋には深く、そういった匂いが染み込んでいる。お陰様でこの部屋は他の艦娘達から絶不評。部屋も足りているし、誰もこの部屋に入りたがらないしということで職場に通うのに便利だし、と彼女は今ものらりくらりとここに住み続けている。
慣れるとそんな嫌な匂いでもないんだけど。すん、と鼻を鳴らして薄暗い部屋に目を凝らした。元々所持している本は多かったけれども、カウンセラーに転向した後はさらに専門書やらなんやらが増え、気がつけば本の山が築かれるようになっていた。特に彼女は乱読をするから。一つ読んでいるうちに、そういえばあれは、あ、あっちにも関連した内容があったはず、とごそごそと引っ張ってきては自分の周りに並べるものだから、彼女が本を読み耽るその姿といったら、まるで本の巣にでもこもっているかのようだった。
「夕張!!」
大声を張り上げると、途端にバサバサと音を立てて部屋の一角の本の山が崩れた。あそこか。
「……う、ぁ、ゆら?」
「また本読みながら寝落ちしたでしょ。て、いうか増えてない……?」
「ん、海外のやつ、ようやく届いた、から」
ベッドの上に積み重なった本の山に思わず閉口する。一週間前に片したばっかりなのに、なぜこうも汚くなるのか。手元にあった本をなんの気なしにペラペラとめくると、それは英語ですらなかった。そう言えば腹立つくらいにこいつは頭がよかったんだっけ、と思いながらゆらゆらと揺れている夕張の頭頂部を見つめる。
「部屋汚い」
「エントロピーは、増大するものなの……」
「それっぽいこと言って誤魔化さないの」
「いたい」
軽く頭にチョップをいれてとりあえずその辺に乱雑に散らばる本をちゃっちゃとどかし、足場を確保する。ちょっと埃っぽい、掃除機かけようか、とまで考えて、自然に世話を焼こうとしている自分に嫌気が差した。
「……大きな子供みたい」
「んん、なぁに?」
「いい加減いい時間だから起きて、昼夜逆転しちゃう」
「わ、ま、ぶし」
ぐしぐしと目をこすって未だに眠そうにしている夕張に喝を入れるため、思いっきりカーテンを開け放って日の光を部屋へと招き入れる。ついでに窓も開けて換気をすることにした。
「夕張」
「なーにー……」
「掃除しましょう、ね?」
えー、と不満げな声を上げた夕張を軽く無視して、今日はどのくらいで終わるだろうか、と腕まくりをしながら終わるまでの時間を計算するのであった。
※
艦娘としての能力を失ってからも呉鎮守府にカウンセラーとして在籍し続ける彼女、夕張と私がいわゆる歳の離れた幼馴染であるということは、あまり知られていない。
夕張は近所に住む歳の離れたお姉さんだった。特に深い御近所付き合いがあったわけでもない、昔から機械弄りが趣味だった彼女と同年代だった上の姉は特に話も合わなかったものだから、お互い不干渉みたいな感じで会えば挨拶をするけど、それだけ。
「なにしてるの?」
夏の日だった。庭の花にお水をあげようとサンダルをつっかけて外に出たら、なにやらガチャガチャと隣から物音が聞こえたものだから、興味を惹かれたのだ。
垣根の隙間。まだ小学生だった私には十分すぎるくらいの大きさのそこからひょこ、と顔を突き出して、そうしてブルーシートを広げてなにやら作業をしている彼女に声をかけたのだ。
まさか人がいるとは思っていなかったのだろう、一瞬ぎょっとした彼女は、こちらの存在を認識すると顎から滴る汗を拭いながらぶっきらぼうに答えた。
「ラジカセ直してる」
「……その機械?」
「そう」
今にして思えば、あれは人見知りをしていたのだと思う。夕張は一人っ子だったし、あの頃は機械弄りが趣味ということに理解を示す人も周りにいなかったから。だから子供との接し方もよくわからなくて、ああもぶっきらぼうだったのだろうと。
「なおるの?」
「直すの」
少し意固地になってそう私に言い返して、黙々と壊れかけのラジカセと向き合う。なんだかその真剣な様子が気になって、私は垣根を通り抜けて夕張の側にちょこんと座り込んだのだ。
ちら、とこちらを見た彼女は、私が邪魔をしないとわかると私のことを無視して作業に没頭した。
パーツを分解して、丁寧に清掃する。なにかよくわからない部品を取り外して、新しいものを取り付ける。子供心に、きっとこの人にとってこの子は大事なものなんだろうなってわかるくらいには、彼女の手つきは優しいものだった。
きれいに組み上がったそれを夕張がいじると、ノイズとともにどこかの番組局のコメンテーターの陽気な声が響いた。
今までただのがらくたにしか見えなかったものが、こうして市販品のようにきちんと動く。それが不思議で、そしてその機械から声が聞こえてきたことで一種の感動のようなものを覚えていると。
「よしっ」
さっきまでのつっけんどんな様子が嘘のように、嬉しそうに笑っている夕張が隣にいたのだ。
「すごいすごい! 魔法みたい!」
そんな彼女の様子にこっちも嬉しくなった私は、そうはしゃいで彼女を見上げた。それでようやくこちらの存在を思い出したのか、夕張はちょっとびっくりしながら、照れくさそうに頬をかいたのだ。それが、私達の始まり。
夕張はたまに庭に出てはそういったものを弄っていた。それをタイミングが合えば、私は覗きにいく、ただそれだけの関係。
友人というにはあまりにそっけなく、歳の差もあった。だから私達の関係は、いわゆるご近所さん、よく言って歳の離れた幼馴染、そんな程度だった。
「──ちゃん、艦娘になったんだって」
だからその関係の終わりも呆気ないものだった。私が中学に入った頃、ちょうど十八になった彼女は突如として私の前から姿を消した。
「へぇ。艤装技師のがあってそうなのに。あいつ、運動音痴だよ」
「ちょっと、もっと言い方があるでしょう」
「知らないよ、私には関係ないじゃん」
私には関係ない。姉の言うとおりなのかもしれない。姉と夕張は特に親しくなかったし、陸の上で生活する私達にとって海での戦いは遠い出来事だったから。
それでも一言の挨拶もなしに私の前を去っていった彼女に、一抹の寂しさを覚えたのも事実だった。
※
「……あ、え?」
そう、あのとき寂しさは覚えたけれど、それだけ。それくらいの他愛のない、もうなんていうかむしろ他人に近い関係。だっていうのに。
もし運命ってやつが存在するのだというのなら言ってやりたい、こんなやつに運命の無駄遣いをするな、と。
「はじめまして、夕張さん」
ひと目見てわかった。髪や瞳の色が変わったって見間違えるはずがない、あれから三年は経つというのにあの頃のままの姿の彼女を見かけ。そして、別れの挨拶のひとつも寄越さなかった割にのうのうと生きていた夕張に少しばかりイラついた私は、意地悪をしてやろうと思ってにっこりと笑いながらそう言ってやったのだ。
「……あ」
だっていうのに、なんでそっちが傷ついた顔をするのよ。
「……は、じめまし、て。軽巡かなぁ、新人さん、よ」
「変な顔」
ね、と夕張が言い切る前につっけんどんに言葉を切る。実際見ていられないくらいに変な顔だった。泣きそうなのを誤魔化すようにへらりと笑うものだから、ひどく神経を逆撫でられた。
「え?」
「艦娘になって子供っぽくなったんじゃないの」
「あ、っと……」
「なに、まだわからない?」
こんなはずじゃあなかった。久しぶり、元気にしてた? って笑いあえればよかったのに。なのになぜか、私の口からついてでる言葉はひどく不機嫌なものだった。
「……ラジカセ、まだ、持ってる?」
手紙のひとつも寄越さなかったくせに。別れの挨拶もなしに私の前から消えたくせに。
「教えない」
最初に彼女から出てきた言葉がそれだったのも、ひどく癪に障った。
※
夕張は戦うのがとても下手くそだった。呉にいるのも一重にその艤装弄りの腕を買われてで、前線に出ることはなく、ただひたすらに後方支援に徹していた。
「おしゃれのひとつでもしたら?」
あれは、大規模作戦展開前。秘書艦はまだ霧島さんではなくて、赤城さんはまだ先代で、加賀さんもまだ呉にいて少しばかり穏やかだった頃。ガチャガチャと私の艤装のメンテをしてくれている夕張の背中に、ふとそんな言葉を投げかけた。
「おしゃれって」
「いつもツナギ着て油まみれって。素材はいいのに」
私の言葉に夕張はこちらを振り返りながら苦笑いをすると、なにも言い返さずに作業へと戻っていった。
気に食わない。その態度に微かに苛立つ。呉鎮守府に在籍する艦娘の中では比較的温厚である私ではあったけれど、なぜか夕張に対しては気づけばあたりが強くなってしまうことが多かった。
気に食わない、気に食わない。なにが気に食わないって? そんなのわかってる。
『──よしっ』
機械弄りが好きなんじゃなかったの。あの頃の夕張はあんなに無邪気に笑ってたじゃない。なんで今は、あんな風に笑わないの。
ふと、夕張の手が止まった。彼女の癖だ、最後の最後、整備が完了するその直前。それを終わらせてしまうことを躊躇うように手が彷徨う。
「夕張」
その背中に声をかける。
「それは、ラジカセとは違うの?」
その癖が、嫌いだった。昔はそんな癖なかった。ねぇ、夕張。
「……っ、ぜんっぜん、違うわよ!!」
この三年間で、何があったの。
『そんなの捨てちゃいなさいよ』
『嫌、まだ直る』
『新しいの買った方が安いわよ』
壊れかけのものを、夕張はよく引き受けていた。それを時たま、彼女の母親がたしなめているのを見かけた。彼女の母親の言うことも正しい、何時間もかけて、それこそ新品を買えるかのようなお金をかけてそれを直す夕張を滑稽に思う人だっているのだろう。
『この子は世界に一つしかないんだから、気軽に捨てるなんて言わないでよ!』
それでも、私は。ぎゅうとそれを胸にかかえてそう声を張り上げた彼女を見て。子供ながらに思ったのだ、ああ、優しい人なのだと。
大事に大事にものを使う。丁寧に、整備をする。そうしてそれが息を吹き返すのを見て、嬉しそうにする人。まるで機械を人のように慈しむ人だと思った。私は、そんな彼女が好きだったから。今の苦しそうに機械と向き合う彼女に、ひどくイライラしてしていた。
「やっとこっち見た」
「……っ」
「ひどい顔」
艤装の整備が完了すれば、艦娘はそれを身にまとって出撃をする。整備が終わってしまえば、それがいかに完璧であろうとも艤装は壊れ、人が死ぬ可能性が出てくる。だから、夕張は整備を終わらせることを躊躇う。
「……由良は、怖くないの」
「なにが?」
「死ぬこと、とか」
あの頃はろくに会話すら交わさなかった私達は、皮肉にも艦娘として再会することで言葉を交わすようになった。あの頃はただ隣でじっと夕張の指先を追っていた私は、今ではよく彼女に噛みつくようになっていたから。そうやって突っかかっているうちに、徐々に徐々に、あの頃は見えていなかった夕張の弱さの輪郭を、薄ぼんやりと捉え始めていた。そしてそれがさらに私のイライラを加速させる。
「人間、最後には皆死ぬじゃない」
「そ、だけど」
「ねぇ、夕張」
なんでこんなにイライラするのだろう。私達は仲のいい友人でもなければ、一緒にどこかに出かけるということすらしたことのない、浅い浅い関係だった。
「夕張が整備を終わらせなくたって、由良はいつかどこかで死ぬ。それから」
だから別れの挨拶がなかったくらい、なんてことはない。まぁそんなものよね、って流せばいいはずだ。ならば何故、私はこの人に対してこんなにもむしゃくしゃして。
「別れの挨拶をしなかったからって、関係が続くわけでもないんだから」
あのときのことを、ここまで引きずって、いるのだろう。
※
機械が好きだった。大事に大事に使えば、ずっと側にいてくれる。どんくさくても怒ったりしない、人なんかよりずっとずっと優しい友達。
家の中ではしょっちゅう両親が口喧嘩をしていたから。だから、よく庭でブルーシートを広げて機械弄りをしていた。
夫婦という肩書を持っていたって、こんなもの。人との関係なんて、脆く、息を吹きかければ消えてしまう蝋燭の火のようなもの。夫婦、恋人、友達。それが永遠に続く保証なんて、ない。ならば物言わぬ機械は、名のある関係性を強要しない彼らは最愛の友人のように思えた。
『なにしてるの?』
人は、怖い。何を考えているのかわからない、それが子供ならば尚更だ。どう接すればいいのかわからなかった私は、大分ぶっきらぼうな態度をとっていたと思う。だというのにそれをまるで意に介さず、興味津々な様子で由良がこちらに歩み寄ってきたときは、手元のラジカセを壊されたらどうしようと少し不安にすらなった。
だけれども、あの頃の子供にしては由良は妙に聞き分けがいい子というか、私がラジカセを弄っている間、特に邪魔をすることもなく、ただただきらきらとした目で私の指先を追うものだから、途中からそこにいてもあまり気にならなくなっていった。
『すごいすごい! 魔法みたい!』
人との関係に名前をつけるのが、苦手だった。夫婦、恋人、友達。私の両親は夫婦という肩書を得た後に、他人という関係へと戻っていった。ならば元々、夫婦という関係性になんて、なんの意味もないじゃない。
だから私は、由良に対してもその関係性に名前をつけることはしなかった。たまに私が機械を弄っているのを、ちょこんと横で眺める近所に住んでいる子供。会話らしい会話だってしなかった、由良は子供にしてはおとなしく、辛抱強い子だったから。私がガチャガチャとなにかを弄っているのを、ただただじっと見つめていた。そうしてその目は、いつもいつもきらきらと光っていた。
きっと私達の関係は友人でもなく、そして幼馴染と言うにはどこかそっけなく。ただ、私は由良が楽しそうに私が機械を弄るのを見ている姿が存外嫌いではなかったし、言葉はなくてもあの空間に居心地のよさを覚えていたことは確かだった。
あの日、一枚の赤紙を受け取ったとき。私は彼女にこのことを伝えようとは思わなかった。
関係に、名前をつけるのが苦手だった。名前をつければ何かが始まって、そうしてそれはいつか終わるものだから。だから私はなにも告げずにあの場所を離れたのだ。
私達の関係に名前はない。何も始まっていなければ、何も終わることも、ないのだから。
※
ここ、呉鎮守府に在籍する夕張は、夕張の中でも比較的大人しいらしいということを他の場所で同じ艦艇の艦娘に会った子に聞いたことがある。夕張、明石。この二隻は大真面目に整備をしていたと思ったら急に突拍子もないものを作り上げ、深夜明けのテンションでそれを試しては暴発させる。話を合わせると、概ねこんな感じらしい。いわゆる、マッドサイエンティストの
そういった話を聞くと、なるほどうちの夕張は大人しい。新しい兵装なんて見向きもしない、ただただ、壊れかけの艤装を丁寧に、精確に、それでいて迅速に直していく。それをずっと、静かに繰り返す人だった。
呉では役立たずの烙印を押されたら最後、すぐに別の場所へと飛ばされてゆく。そんな中、全くといっていいほど戦闘で役に立たない彼女がここに在籍し続けるのはひとえにその能力が他の誰よりも抜きんでていたからだった。
『ふっしぎなのよねぇ。どうしたらあんな精確に早く直せるのかって手元を見るじゃない? で、見てるとね、なんていうんだろう』
すごく優しく機械に触れる人なんだなって。それでちょっと見惚れてたらいつの間にか終わってるのよ。
ちょうど私が呉に着任した頃と同じ頃に着任した明石は、首を捻りながらそんなことを私にこぼした。そしてそれを聞いて、ああ、そういうところは変わらないのか、なんて思ってしまった自分にしかめっ面をしていたら、なに一人で百面相してるの? と訝しがられた。
そういった彼女の艤装弄りにまつわる話はよく小耳に挟んだけれども、誰々と仲がいいだとか、そいういった交友関係に関してはあまり聞かなかった。二人部屋が基本の軽巡洋艦の寮でも、構造上面積が狭くなってしまった関係でひとつだけあった一人部屋に割り振られた夕張は、休日は必ずその部屋にこもって一人でなにかをしているような人らしかった。
「ゆらー!!」
「きゃっ!?」
ぼんやりと庁舎の廊下を歩いていたら、不意に背中に何かが勢いよくぶつかってきてたたらを踏む。
「ゆ、夕立、ちゃん」
「由良だ由良だ、暇? 遊ぼ!」
がっちりと私の体をホールドして無邪気に笑いかける、あどけなさの残る女の子。
呉では新人の軽巡洋艦は持ち回りで駆逐隊の面倒を見させられる。それは、どの軽巡がどの駆逐艦と合うのかというのを見定めるという意味合いも兼ね備えていた。
最近担当になった駆逐隊に在籍する白露型駆逐艦の、夕立ちゃん。なんでか知らないけれども妙に懐かれてしまって、たまにこうやって絡まれるようになっていた。
「あっはっは、キミら、仲いいなぁ。微笑ましいわ」
「あ、龍驤さん」
さてどうしたものだろうと思案をめぐらせていると、ちょうど通りかかった龍驤さんが私達の様子を眺めてのんびりと声をかけていった。そして去り際の彼女にぶんぶんと夕立ちゃんは手を振った。……ちょっと待って?
「夕立ちゃん」
「? ぽい?」
すっと龍驤さんの背中を指さす。きょとんとこちらを見上げ、そうして指先を追って龍驤さんを見つめ、再び私を見上げる夕立ちゃん。
「龍驤さんがどうかしたっぽい?」
「……」
す、と自分の顔を指さす。
「私の名前は?」
「由良」
なんでよ。
これ、もしかして懐かれてるんじゃなくてなめられてるんじゃないかしら、と悶々としていると、じっとこちらを見上げていた夕立ちゃんがおずおずと口を開いた。
「由良、元気ないっぽい?」
「え?」
「なんか、いつもよりしおしおしてるっぽい」
なにそれ。彼女の独特な表現に戸惑いつつも、当たらずとも遠からずなので思わず口をつぐむ。
「誰かと喧嘩した?」
「……別に」
「もしかして夕張さん?」
勘の鋭い子だった。一緒に海に出ているとき、あの辺が嫌な感じがするっぽいと彼女が言えば、大抵敵潜水艦が潜んでいた。人の感情にもさとい子だった、誰が不機嫌そうにしていると、それが表面上全く見えなかったとしても気づいてびくびくとするような、子。
「……なんで夕張が出てくるのかしら」
「夕張さんも最近元気なかったから」
「そう、なの?」
「うん」
『夕立って、言動は子供っぽいけど。多分、誰よりも人の本質が見えているんだと思う』
最初の頃、彼女の言動がうまく理解できなくて少し困っていたら、同じ駆逐隊の時雨がそうアドバイスをしてくれたことがある。多分、ちょっと人と見えてるものが違うような気がするんです、と。
「夕張さんはいつも泣いてるけど、最近はもっとつらそうっぽい」
「……泣いて、る?」
だから、彼女の言動は独特でも、彼女にとってそれは比喩表現でもなんでもなくて真実なのだと。そして由良さんは、誰もが軽く流してしまうような彼女の言葉のひとつひとつに耳を傾けてくれるから、きっと夕立も懐いているんじゃないかな、と。
「泣いてるよ。だから、夕立、夕張さんの近くにいるのはちょっと苦手っぽい」
彼女がそう言うのなら、きっと彼女が見ている夕張は泣いているのだろう。
『──あは、は』
私は夕張が泣いているところなんて見たことが、ないけれど。私がいつも見る夕張は、下手くそに笑う。見ていて、イライラするような笑顔。
「……ね、夕立ちゃん」
「ぽい?」
「夕立ちゃんは、泣くくらいつらいときはどうしてほしい?」
私より一回りは年下の女の子。そんな子に何の気なしに助言を求めてしまった私は、きっと軽巡洋艦としての自覚が足りないのかもしれない。先輩の軽巡洋艦はいつも言っていた、駆逐艦娘が尊敬するに足る存在であれ、弱みを見せるな、って。それでも。
「うーん。夕立のお話聞いてほしいっぽい!」
この子の言葉のひとつひとつには、きっとそんなちっぽけなプライドなんかよりももっと大事なものがつまっているような気がしたから。
「お話?」
「うん! つらいつらい、って一人で抱えるのは大変だから。お話を聞いてもらうと、ちょっとそれが軽くなるっぽい!」
「そう。じゃあ」
そこで言葉を切る。無邪気に見上げる彼女を見下ろして、笑いかけながら。
「なにかつらいことがあったら、由良に言ってね?」
「ぽい?」
「つらいことは半分こした方がいいもの」
「でも」
そこで夕立ちゃんは不安そうに瞳を揺らした。無邪気で、人との距離感が近くて、それでいてどこか少し臆病なところがあるように思う彼女。
「その代わり、由良がつらいときもお話を聞いてくれる?」
「……うん」
「ありがとう」
感受性が、豊かなのだと思う。無邪気にじゃれついたと思ったら、ふとしたときに身を引く。正直まだ彼女との接し方は計りかねているけれど、多分こういう小さな歩み寄りの積み重ねが大事なのだろう。
「じゃあ、今聞くっぽい!」
「ええ?」
そうして急にパッと目を輝かせてほらほら、なんて急かしてくる。さっきまでのしおらしさなんてどこへやら。まぁ、このくらい元気な方が可愛らしいわよね、と苦笑しながら。
「そう、ね」
そんな夕立ちゃんの頭をひとなでして。
「お互い、素直になるのって。難しいなぁ」
そう、ぽつりと言葉をこぼした。
※
どうして人は繋がろうとするのだろう。どうして人は、この脆い脆い縁にすがるのだろう。
例えばそれは家族という繫がり。家族って、もっと温かくて、優しい繫がりなのだと思っていた。でもそんなものは幻想なのだと物心つく頃には理解した。家族という関係すらこうなのだから。どうせ、つまるところ人なんて皆孤独なのだから、最初からそんなものに縋らなければいい。そうすれば、どこまでいっても私の心は穏やかだ。
『整備してくれてありがとう』
別に感謝されたくてやってたわけではない。ボロボロの機械達を見捨てるのが嫌だったから、次から次へと運ばれるそれを直していっただけ。それでも全てを直し切ることはできない、あの頃のように、私のわがままで一つのものにしがみつくことは許されなかった。それでも壊れかけの艤装がきれいに直ると嬉しかった、最初の頃は。
『入渠施設、満杯です!』
『高速修復剤は!?』
『もうほとんどないです、どうすればいいんですか!』
『うるさい泣き言を言うな!』
泣き言を言っていた救護班の一員を怒鳴りつけて、救護班主任は頭をかきむしった。
ここは、人も、モノも容易く壊れてゆく。優先順位をつけて、手を施しても全てを救えるわけではない。
脆い、なぁ。簡単に破損する艤装。見るも無残な姿で帰ってくる艦娘達。なおしてもなおしても、すぐにまた壊れて、そうして見捨てられていくものが増えていく。特に人は、身体が治ったとしても心が中々治らない。そういう人達を、いっぱい見てきた。
『ありがとう』
気がつけば、あの子の顔を見なくなった。知らない顔が増えて、知っている顔が減っていく。
いつの頃からか、整備をしていても楽しくなくなっていった。壊すために直しているのではないだろうかと錯覚するくらい、この場所は人も、モノも移ろいゆくスピードが早かった。
「はじめまして、夕張さん」
名前をつけるのが、ひどく苦手だった。名を与えれば愛着が湧く。愛着が湧けば手放すのが惜しくなる。
名前をつけるという行為は、終わりの始まりだ。その感情に愛という名前を与え、慈しんだとしてもそれが永遠に続くことはない。夫婦という形にとらわれ、それを歪にゆがませた両親。最愛の人を失って泣き崩れる人々。
どんなに惜しんだところで、いつか必ず終わりが来るというのなら。名を与えなければいい、始めなければいい。始めなければ終わりはないのだから別れもない、なにも感慨は浮かばない。そうやってぼんやりと生きていけば、私の心は穏やかだった、はずなのに。
「……ラジカセ、まだ、持ってる?」
名前をつけるのが苦手だ。名を与え、形を与え、そしてそれを正面から受け止めるのはひどく苦しいから。感情、関係性、居場所。全てのものを曖昧にしてやり過ごしてきた私だったけれども。
それでもあのときの感情に名前をつけるとしたら。
きっとそれは、未練だった。
※
なにもかもが、億劫だ。今日は非番だったっけ、どうだっけ。なんだかそれすら考えるのが億劫で、薄暗い部屋の中で毛布をひっかぶりながらうずくまっていた。
コンコン、と控えめに部屋の扉を叩く音が聞こえた。それに対してのろのろと顔をあげ、じっと扉を見つめる。
「夕張」
私の名前を呼ぶ声に、びくりと肩が跳ねた。その拍子に頭までひっかぶっていた毛布がパサリと肩に落ちる。
「話がしたいんだけど」
おこられる。扉越しにこちらに声をかける人物には心当たりしかなく、そうしてその人物のせいで私は身動きすら取れなくなっていた。
「……寝てる? いや、昨日早番だったでしょ、で、そこから部屋に籠もって機械弄って寝落ちしたとしても邪魔がなければきっかり八時間後に起きる夕張なら、もう起きてるはずよね?」
じっと息を詰めて扉を見つめていたものだから、扉越しの由良の一人言もよく耳に届いた。
由良、ストーカーみたいだよ、なんでそこまで私の行動パターン把握してるの。今日はなんにもやる気が起きなくてただただベッドにうずくまっていただけだったけれども、普段通りの私ならまさしくその通りだった。
「──居留守か」
ぼそり、と普段より低い由良の声が響く。ひっと上げそうになった悲鳴を飲み込めたのは、自分にしては上出来だっただろう。
『……夕張って、由良と仲悪いの?』
そう聞かれてしまうくらいには、普段温厚で優しい彼女は私に対する態度だけは刺々しかった。
『なにかした?』
何かしたかと言えば、何もしていない。強いて言うのなら、何もしていないことが彼女の逆鱗に触れてしまっているのかもしれないけれど。
あの頃きらきらした眼差しで私の指先を見つめていた彼女は、今は不機嫌そうな視線を投げかけるだけ。それを寂しいと思ってしまうのはきっと私のわがままだから。だから私は笑って誤魔化して、そうしてもっともっと由良を不機嫌にさせていた。
不意にガチャガチャとドアノブが音を立てる。なんていうかもう、恐怖しかなかった。気分は取り立てを受ける多額の借金を背負った人だ。
い、いや、でも鍵かかってるし、と思ったのもつかの間。
「マスターキー借りて正解ね」
「……は?」
「蹴破っても良かったけど。不知火さん、後で怖そうだから」
そう言ってドアに寄りかかりながらちゃり、と音を鳴らして鍵束をこちらに見せる彼女に思わず絶句する。
「……ふ、ふほーしんにゅう」
「秘書艦の許可もらってるからセーフよね。由良ってほら、普段素行いいから。すんなりと貸してくれたわ」
「じんけんしんがい」
「艦娘は人じゃないからセーフ」
滅茶苦茶だ。
なんでこの子は私に対してこうもあれなのか。品行方正、温和、お淑やか。そういった評価を周りから受ける由良ではあるけれども、私の前ではいつもいつもこうだった。皆、騙されてると思う。
少し不機嫌そうにずかずかと、それでいて床に散らばる機械やら本やらを蹴飛ばさないように注意を払いながらこちらに歩み寄る由良に思わず後ずさった。どん、と背中に壁があたる。前門の虎、退路はなし。思わずぎゅっと目をつぶった。
「ごめんなさい」
なんで居留守なんてするの、とか。そう言った文句が由良の口から飛び出てくるものだとばかり思っていた私は、その意味をうまく理解することができなかった。
その言葉が、存外に静かだったから。だから、そぉっと目を開けば、由良はしゃがみこんで、こちらと目線を合わせながらじっと私の瞳を見つめていた。
「……なに、が?」
「そこまで傷つけてたなんて、思ってなかったから」
『──別れの挨拶をしなかったからって、関係が続くわけでもないんだから』
全てを見透かされたように思えた。曖昧にすることでなにもかもから逃げ回っている、臆病で弱い私を。
それと同時に、とうとう由良に見捨てられたのだと思った。
時間が経てば忘れるだろうと思っていた他愛もないあの日々は、なんのいたずらか目の前にこの子が現れてしまったことで皮肉にも鮮やかに蘇ってしまった。そしてそれに付随するかのように、色々な感情がとめどなくあふれては零れ落ちていった。
あるいはそれは罪悪感。
あるいはそれは後悔。
あるいは、それは。
そうやって、あの日々に対する感情を表すなにかが浮かんでは消え。それを認めたくなくて曖昧に笑い続けていたのに。あの日、ああ、見捨てられたのか、と思ってから、うまく笑うことすらできなくなっていた。
「今日はあなたと話をしに来たの。ね、夕張」
どうして怒りながら構ってくるの。いつも曖昧に誤魔化す私に愛想をつかせてしまったって仕方がないのに。友達でもなんでもない、限りなく他人に近い名もなき関係だったはずの私に。
「なんであのとき何も言ってくれなかったの」
なんでそんなことを、聞いてくるのだろう。
「……ばいばいって言ったら、終わっちゃうじゃない」
「またね、って言えばいいじゃない」
「会えもしないのに?」
「手紙書くとか、なんとか。色々あるじゃない」
「そんな仲でもなかったじゃない」
「そうだけど」
愛していると囁きあっていた二人は、最後には別々の道をとった。
泣いてまで別れを惜しんだ、遠く離れた場所へと引っ越していった友達。あんなに、泣いていたのに。しばらくすれば、誰もが忘れたかのように彼女の名前すら口にしなくなった。
「そうやって緩やかに終わりを見るくらいなら、なにもなくていい」
大事なものほど手からすり抜けていく。そうしてそれが大事であればあるほど、失ったときに傷つくというのなら。そんなものは、欲しがらなければいい。
「……夕張」
「なに」
「あなた、結構私のこと好きだったのね?」
「ばかじゃないの」
ちょっと引き気味にそんなことを言う由良めがけて手元にあった枕を投げた。それを難なくキャッチして、よいしょ、と隣に置きながら、由良は何事もなかったかのように私の名前を呼ぶ。
「ね、夕張」
あの頃はお互いの名前すら呼んだことなんてなかったのに。艦娘として再会してからの彼女は、私の名前をよく呼んだ。その大抵が不機嫌さをにじませたものだったけれど、今日の彼女は静かに、それこそ壊れ物でも扱うかのように呼びかけるものだから。
「これ、最近調子悪いの。ちょっと見てくれない?」
だからきっと私は、ひどく動揺していたのだと思う。
「……持って、たんだ」
「持ってないなんて言ってない」
「そう、だっけ」
それに名前をつけるなら。きっときっと、未練だった。
「私は、夕張が何も言わずにいなくなったとき。あの頃をなかったことみたいにされたようで嫌だった」
私の手の平にそれをそっと置きながら。いつもの不機嫌さが嘘のように、静かに由良が言葉を続ける。
「友達でもなんでもなかったかもしれない。名前なんてつけられないくらい、あの日々は他愛のないものだったのかもしれない」
──夏の日だった。屋根のひさしの下で作業をしていても、じんわりと汗が浮かぶ。でもそんなことはどうでもよかった、息苦しい家の中にいるよりも遥かにましだったから。
中の言い合いを微かにでも耳が捉えるのが嫌で、直したばかりのラジカセで適当な番組を流しながら作業をしていた。そうしたら、垣根の隙間からまた由良がひょっこりと顔を出したのだ。それに私が気づくと、パッと顔を明るくしてこちらに小走りに駆け寄ってくる。そして近くにちょこんと座り込んで、私の作業をじっと見つめていた。
子供との接し方なんてわからなかったから。だから私は、受け入れることも拒絶することもしないで、そこに由良がいないかのように作業に没頭することにした。
普通の子供なら、無言が続けばすぐ飽きる。飽きて、どっかに行く。だというのに由良ときたら、それこそ私の作業を邪魔してはいけないと息を詰めてそれをずっとずっと見守るのだ。
そんなに面白いだろうか、と疑問に思ったけれども、さりとて自分から話しかけるのも億劫だった私は、まぁ、面倒を見る義理もないしな、と思いながら作業の合間に気まぐれにラジカセのチャンネルを変えた。すると、ちょうどあの日。ラジカセが直ったときにつけた番組に波長が合ったらしく、聞き覚えのあるコメンテーターの声が流れてきたのだ。
「わ」
そこでようやっと、由良に動きがあった。ちょこちょことラジカセの近くに移動して、飽きもせず、そこから聞こえてくる声に楽しそうに耳を傾ける。
「……あげよう、か?」
その様子が、あまりにも無邪気なものだったから。だから気づけば、私はそんなことを言っていた。
「いいの!?」
「うん」
夏の日だった。あのときの由良の顔は、今でも覚えている。夏の陽の下で揺れる向日葵のような、眩しい笑顔。
「……大切に、してあげてね」
そんなガラクタの何がいいんだとよく言われた。そんなに何を必死になっているのかと。私からしたら、少し壊れたからってすぐに捨ててしまう人達の気持ちがわからなかった。
同じものを買えばいいじゃない。
違うよ。この子とその子は、同じじゃないよ。
新しいものを買いなさい。
そうやって。そうやって壊れてしまったら、すぐに見捨ててしまう方が、私には、わからない。
だから、私が一生懸命に直したガラクタと呼ばれるその子を、由良が子供らしからぬ優しい手つきでもって手に取って、大事に大事に胸に抱えたとき。
「──それでも、確かに私の中で夕張と過ごした日々は息づいている」
きっと私は、少しばかり救われたのだ。
「それは夕張も同じだったから、これ、持ってるか聞いたんでしょう」
夏の日だった。もうどうやったって両親の仲は直らないことを悟った、夏の日。もう関係は壊れてしまったのだからと父はすぐに別の女の人を作って出ていってしまった。そうやってあんなに大事にしていたはずのものを見捨てて、新しいものを手に入れたあの人が理解できなかった。
なんで、捨てるの。嫌になったからって、古くなったからって、簡単に捨てていかないでよ。
人との関係はどうにもうまくいかなかった。だからこそ、機械だけは私の友達だった。機械だけは私の声に応えてくれる。慈しめば慈しむほど、私に笑い返してくれたから。
『──魔法みたい!』
だから、機械達と向き合っているときは素直になれた。自然と、笑えた。誰にも理解されなくたって、ガラクタと呼ばれようともあの子達だけは私の味方だった。
大事に大事に直した私の友達を、きらきらと、無邪気に、嬉しそうに手にとってくれたのは由良が初めてだった。だからきっと、私はそんな名前すらよく知らなかった小さな子供に幾分か救われたのだ。
それを認めてしまうのが怖かった。私達の関係に、私が抱く感情に名前をつけてしまえばそれはやがて変質し、朽ちていく。だから、私達の関係に名前がつかないように深く関わることをしなかった。それでも、心のどこかではきっとわかっていたのだと思う。
『──ありがとう』
どういたしまして、って笑えばよかった。
夕張さん、夕張さん。名前を呼んで笑ってくれたあの子達ともっと話をすればよかった。
名前をつけるのが苦手だった。感情、関係性、居場所。だってそれに大切なものだからって名を与え、認識してしまったら、失ってしまうその時がつらくてつらくてたまらない。自分の手からこぼれていったものに対して抱く感情に後悔という名を与えなければいい。私とあの子の関係を、仲間という温かな名前で縛らなければいい。そうやってなにもかもを曖昧にして、心を鈍く鈍く、鈍麻させなければ。生きていくのが、苦しくてしょうがない。
「ここにいるには、夕張は優しすぎるわね」
こらえきれなくてこぼれた涙は、どこか困った顔をした由良の指先に掬われていった。
「ね、それ、直る?」
私の手の中にある、小さな年代物のラジオカセットに視線を向け、由良が尋ねた。
それに対して、こっくりと頷く。大事に使われてきたことがひと目でわかる、少しくたびれた私の大切な友達。
「そう、よかった」
そうしてそれを聞いて嬉しそうに顔をほころばせた由良は、あの頃となにも変わらない。私が救われた、私が好きだった笑顔でもって、笑いかけてくれたのだった。
※
「わ、なにこれ」
「……ビスマルクさん?」
掃除が一段落して満足していると、予期せぬ来訪者が訪れた。
「……ここ、本当にユウバリの部屋?」
「どういう意味よ~?」
「なんか、ユウバリの部屋が綺麗だと落ち着かないわ」
そう言ってそわそわとしながらも部屋へと足を踏み入れたビスマルクさんの片手には、紙袋が握られていた。
「次貸して」
「もう読んだの?」
「毎回いいところで終わるんだもの」
「なに、それ?」
「漫画~」
ごそごそと紙袋の中を覗いて、夕張は近くの本棚から数冊漫画を抜き取った。ああ、そこ。抜け巻があって気持ち悪かったんだけど、そういうこと……待って?
「夕張」
「なに?」
「そのチョイスは、どうなの?」
忍者とか侍とかの漫画でも貸したのかと思っていたのだけれど、彼女の手に握られていたのは任侠物、いわゆるヤクザを主題とした漫画だった。
「面白いわよ?」
「面白かったわ!」
ビスマルクさんの目がキラキラしている、なにかを言うのは無粋というものだろう。夕張よりも幾分精神的に大人な由良は、無言を貫くことで彼女らの意見を尊重することにした。
「あ、でも聞いてユウバリ」
「なに?」
「出撃の時にカチコミよ! って言ったらぎょっとされたんだけど」
使い方、合ってるわよね? と純真な眼差しでもって小首を傾げるビスマルクさん。合ってません。と、いうか。夕張の貸した漫画のせいだったのか、あの珍事件は。
「ダメじゃない、カチコミってのは兄弟の盃を交わした限られた人しか使っちゃいけない神聖な言葉なのよ」
「そうだったの!?」
「不用意にその言葉を発しちゃダーメ、しかるべき人が使わないと、とんでもない天罰が──」
「しれっと嘘をつくな」
「あいた」
ビスマルクさんから返却された漫画の角でもって夕張をどつく。微妙に説明が的を射ているあたり、質が悪い。由良の一撃がいいところに入ったのか、夕張はしばらく背中をまるめてうめき声をあげていた。
「えーと、あなたは」
「あ、軽巡洋艦の由良です。いっぱい人がいるから覚えるの、大変ですよね」
「ユラ、ユラね。覚えたわ」
ドイツからの賓客ということでこちら側はほぼ全員がビスマルクさんとグラーフさんを認知しているけれども、彼女らからしたらここに在籍する全員の名前を覚えるのは大変だろう。異国の名前というものは中々に口に馴染まないものだろうし。
「名前は知ってたんだけど、あなただって知らなかったのよね」
「え? なんで名前だけ?」
「どうせ夕立ちゃんでしょ」
「え?」
「よくわかったわね」
それも語尾? って聞いたら頬を膨らませて色々教えてくれたわ、なんてビスマルクさんに言われ、思わず閉口する。
「はは、愛されてるわねー」
「……」
「あて、ちょっと、無言で蹴らないで」
なんとなくその態度が気に入らなくてげしげしと夕張を蹴っていると、それを物珍しそうに見ながら、ビスマルクさんが疑問を投げかけてきた。
「珍しい組み合わせよね。二人って友達だったの?」
友達。その言葉に思いっきり眉根が寄るのがわかった。そんな私の表情を見て、あ、なにか間違えたかしら、とビスマルクさんが露骨に焦る。
「げほっ……あ、はは。友達っていうか」
私が無言を貫いていると、夕張がむせながらゆるゆると顔をあげ。
「腐れ縁よ、ね?」
そうしてビスマルクさんに静かに答えて、こちらを見上げてきた。
その顔が存外に穏やかなものであったから。だから私は、ますます不機嫌になって。
「腐り落ちてしまえ、そんなもの」
「あはは、ひっどいわねぇ、相変わらず」
のらり、くらりとあの頃とは違う、穏やかな笑顔でもって笑いかける彼女に暴言を吐き捨てた。
そうしてそれを見ていたビスマルクさんは、ぽん、と手を叩きながら、腑に落ちたという顔で。
「なるほど、ユラはツンデレなのね!!」
なんて言うものだから。夕張が笑いすぎて過呼吸になりかけたり、その背中めがけて私が飛び膝蹴りを喰らわしたりと。結局最後には、せっかく片付けた部屋がまた滅茶苦茶になってしまうのだった。