世界の片隅の、とある艦娘達のお話   作:moco(もこ)

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艦娘の喫煙、轟沈描写があります。苦手な方はお戻りください。


忘れじの香り(佐世保鎮守府:摩耶)

 埠頭に出ると、ぼんやりと沈みかけの夕陽を眺めながら紫煙をくゆらせている探し人の後ろ姿を見つけた。

 胡坐をかいて埠頭に座り込んでいる彼女の煙草から立ち昇る煙が風に揺られる。その白煙から相変わらずろくすっぽ吸っていないだろうことも、そうやってただただ口に咥えているだけの煙草から灰がぽとり、と落ちるのを器用に携帯灰皿でもって受け止めているだろうことも、長い付き合いである自分にとっては容易に想像がついた。

 

「ちょっとぉ、摩耶ぁ」

「……あー?」

 

 声をかければ、気だるげに彼女が振り返る。その表情は、どこか疲れているようであった。

 

「……いや、うん、ごめんて」

「人の顔見るなり謝んなっつーの。……謝るくらいなら仕事押し付けんじゃねぇよ」

 

 ため息一つついて煙草を灰皿に押しつけ立ち上がる。そうして摩耶は、かさり、と手元の箱を振って残りを確認しながら煙草をしまった。

 

「んだよ、秋月ーズの報告書はあげただろ。なんか不備でもあったか?」

「いや、そっちでなくてお宅の磯風さんがね」

「……」

「調理室でですね」

「いい、言わんでもわかる」

「後ね、アル重ポーラさんが」

「そっちはアタシ関係ねーだろ」

「お宅の磯風さんとタッグを組んで調理室占拠しておりまして」

 

 摩耶の顔が露骨に面倒くせぇ、と歪む。うん、ごめんて。秋月型四姉妹の面倒を新しく見てもらってるのも、問題児である磯風およびフリーダムイタリア艦の手綱を握ってもらってるのも。こっちも悪気はないんだけど、なんていうかいつの間にか面倒臭い娘達が摩耶の周りに集ってくるんだから仕方ないじゃん? 

 

「あいつら、シメてもシメても忘れやがる……鳥頭か?」

「ちなみに磯っち、いつもお世話になってる摩耶に手料理を振る舞うんだって言って立て籠もったらしいっすよ」

「鈴谷、この世で最も凶悪なものはな、好意による悪行だ」

 

 ひく、と頬を引きつらせながらぴしゃりと摩耶が言い放つ。こんなこと言ってるけど結局毎回磯っちの手料理を食べてあげてるんだから。そういうところが磯っちに愛されてるってことにいい加減気づいた方がいい、無限ループ、こわくない? 

 

「いや〜ごめんねぇ、鈴谷もできるだけのことはしてるんだけどさぁ、磯っちはやっぱ摩耶が動く方が早いから」

「重巡なのに……なんでアタシがガキのお守りしなきゃなんねぇんだよ……」

「対空番長だからね」

「関係ないだろ。あと番長って呼ぶんじゃねぇ」

 

 チャラくてゆるい、空の専門家が集う佐世保鎮守府。そんな風評がつくくらいであるから、こういったくだらないいざこざは日常茶飯事だ。この前は食堂のご飯が日本食ばかりであることに不満を抱いたイタリア艦が食堂に立て籠もってストライキをした。お前らのおかげで週二でパスタ食わされるこっちの身にもなれ! 週五がいいです! うるせぇ!! とドンパチを繰り広げた末、自由に使えるピザ窯を屋外に設置することで合意に達したあの事件も、そういえば摩耶が最終的に収めていた。苦労性の星のもとに生まれてしまったのだ、きっと。

 がりがりと頭をかき、苛立たし気に調理室へと向かおうとする摩耶に、ふと声をかけた。

 

「それ、まだ吸ってたんだね」

「ん? ああ」

 

 海の匂いに紛れ、仄かにふわり、と煙草の残り香が彼女の服から漂う。

 ──アメリカンスピリット。百パーセント無添加であるということを理由に、体にいいはずだと押しつけられてからずっと摩耶が吸い続けている銘柄。割とマイナーな部類に入るそれをポケットに忍ばせては、ときたま、思い出したように火をつける。

 

「で?」

 

 彼女が喫煙家であることを多くの艦娘は知らない。それは彼女が必ず、誰もいない、一人きりの海辺でもって吸うから。

 

「ああ。相変わらず、クッソまずいわ」

 

 それがこの不良重巡洋艦として名高い摩耶の、知られざる習慣だった。

 

 

 両腕で書類を抱え込みながら、執務室へと向かう。配属されてから日が浅い自分にとっては中々に緊張する場所だ。

 いくらうちらの提督、秘書艦がゆるくてチャラい佐世保鎮守府筆頭とはいえ、それはそれ、これはこれ。やっぱりこういう場所って雰囲気があってちょっと気後れしちゃうよねぇ、と扉の前でまじまじと見上げる。

 

「──」

 

 すると、中から微かに人の声が聞こえた。どうやら先客がいたらしい。これはびっくりさせたらいけないな、と少し強めに扉を叩くと、一瞬の間をおいてどーぞー、という鈴谷さんの間延びした声が届いた。

 

「ありゃ、藤波ちゃんじゃん。次の演習海域の申請書?」

「あ、は、はい」

 

 こちらを見るなり即座に要件を言い当てられた。さすが鎮守府内の艦娘のスケジュールを完全に頭に入れていると噂の鈴谷さんだ。

 わたわたと書類を渡すと、鈴谷さんはその場でぱらら、と流れるように書類をめくり、一つ頷いてそれを机に置いた。どうやら目ぼしい不備はなかったようでほっと一息。そうして思わずきょろきょろと辺りを見回した。

 

「あれ? どったの?」

「あ、いえ……ここにいたのって、鈴谷さんと摩耶さんだけですか?」

「あ?」

 

 藤波の言葉に、鈴谷さんの隣で背もたれに深くもたれかかり、まるでふんぞり返るかのように座っていた高雄型重巡洋艦の摩耶さんが怪訝そうな声をあげた。

 う、やーばっ。さり気なく摩耶さんから視線を逸らす。なんていうかいかにも不良って雰囲気がちょっと苦手なんだよね、ろくに話したことはないんだけど。

 

「す、鈴谷さんと摩耶さん以外の声が執務室から聞こえたかもー、なんて、思っちゃって」

 

 視線をさまよわせながらそうこぼすと、一瞬の間を置いて摩耶さんが吹き出した。

 

「あっはは! 夏の怪談にしちゃ、ちょっと物足りねぇな!」

「怪談……」

「出る場所も時間帯も間違ってるよねぇ」

「鈴谷を哀れんで仕事手伝いに来てくれた幽霊かもなぁ?」

「え、マジで手伝ってほしいんだけど。ちょっと顔見せてよ幽霊さーん」

 

 げらげらと笑っている摩耶さんに鈴谷さんが合いの手を挟む。まるでタイプの違う二人が親し気にテンポのいいかけあいをする様は、少し意外に思えた。

 

「ま、冗談はおいといて。空耳じゃねーの、アタシら以外ここにゃいねーぜ」

「そう、ですか」

 

 ぼそりと。扉越しに聞こえた、落ち着いた声。それは、鈴谷さんのものでも、摩耶さんのものでもないような気がしたのだ。でも確かにここには二人しかいないし、気の所為と言われればそうかもしれない。なんとなく釈然としないまま、それでも一応の納得を頷くことで示すと、何を思ったのか摩耶さんはおもむろに私が提出した書類に手を伸ばしたのだった。

 

「ふーん。この規模だったらこっちのがいいんじゃねぇの?」

 

 トントン、と書類を叩いてそう言う彼女に、思わず一歩二歩と近づいて問う。

 

「え? な、なんでですか?」

「こっちのが鎮守府に近いからな、訓練終わったら速攻風呂入れるぞ」

 

 その言葉に思わず目を瞬かせる。全くもって、盲点だった。その発想はなかった。

 

「一番鎮守府に近い海域は倍率高いけど、意外とここはかぶらねぇんだよ、オススメだ」

「ちょっと、秘書艦の目の前でそういうの教えないでくんない?」

「別にいーだろ」

 

 そう言って手元にあったメモ用紙にさらさらと何かを書いて差し出してきた。それを慌てて受け取ると、演習海域概略図に、生真面目な新人艦娘の視点ではまるで思いつかないような豆知識がいくつか書き込まれていた。

 

「駆逐は秘書艦欺いてナンボだぞ」

「まーやー?」

「どうせいつか覚えるんだ、駆逐のガキならな。それがちょっと早まったからってうるせーぞ」

 

 そのやり取りを聞きながら、メモに再度視線を落とした。短時間で描かれた割には正確な海域図。そうして。

 

「……摩耶さんって。字、綺麗ですね」

 

 予想外に几帳面で可愛らしい字に思考が追いつかず、気づけばそんな言葉を漏らしていた。

 

「顔に似合わず、ってか?」

「え!? そ、そういう意味じゃ……」

 

 いや今のはどう考えたってそういう意味じゃん、と自分で思い至り、続く言葉を飲み込んで青ざめる。どう考えたって、失礼だ。

 そんな私の心情を知ってか知らずか、それを聞いていた鈴谷さんが陽気に話しかけてきた。

 

「摩耶はこんな見た目だけど案外根は真面目だよ?」

「こんなん言うな、見た目詐欺筆頭ギャルが」

「え〜?」

 

 佐世保鎮守府の対空戦闘と言えばこの人、と言うのが彼女、摩耶さんだった。そうして彼女が率いる駆逐艦娘達は、対空戦闘の精鋭ばかり。そうしてついたあだ名が対空番長である。名は体を表すというけれど、ここまでピッタリなあだ名をつけられている艦娘は彼女くらいだろう。だからというほどではないけれど、彼女自身が少し粗野な言動をすることと、彼女率いる艦娘達が割と佐世保の中では荒くれというかピリッとした空気を纏う人が多いのもあって、なんとなく苦手だな、と思っていた。

 おそらく、それを見透かされていたのだろう。ぎし、と椅子の背もたれに寄りかかりながら面白そうにこちらを見た彼女は、

 

「苦手意識、ちったぁなくなったかよ?」

 

 なんて穏やかな声音でもって私にそんなことを聞いたのだった。

 

「……そもそも、摩耶さんのこと苦手じゃないですし、もち」

 

 なんとなくそれが悔しくてそう返すと、また笑われた。そうしてそうやって笑う姿は、意外にも柔らかで女性的だなぁと、この人に対する印象を人知れず改めるのであった。

 

 

 日本の各所にある鎮守府は、それぞれ特色がある。例えば大湊警備府は腕のいい問題児の吹き溜まり。おんぼろ隙間風が吹きすさぶ、鎮守府一ブラックと名高い潜水艦を多く保有する資源航路開発担当の舞鶴、落ちこぼれの集う海上護衛担当の横須賀に、最前線を支える呉鎮守府。こう書くと各鎮守府の格付けが一目瞭然である、具体的に言えば呉鎮守府以外は散々な言われようだ。

 さてでは佐世保鎮守府はといえば。結論から言ってしまえば、幸運にも佐世保鎮守府は提督がごねてごねまくってあらゆる空母、および対空戦闘能力の高い艦娘を集めまくり、航空戦力の強化を行った関係で“空の専門家”という肩書と共に呉と肩を並べるほどの地位は維持しているように思う。周りに対して多大な迷惑をかけまくった上に成り立っているものではあるが。海軍では目立つ明るい茶髪に、耳元に光るピアス。羽織っている提督用の制服は改造を重ね原型がなく、もとよりそれをまともに着ることもない。柄Tシャツの上から軽くひっかけただけの、へらへらとしたふざけた感じのうちの提督ではあるが、一応はその手腕は確からしい、少なくとも面と向かってそれに文句を言うやつがいない程度には。

 まぁそんなわけでそこそこ実力のある艦娘が集まる、そこそこいい鎮守府である佐世保鎮守府にもいわゆる陰口というか、そういうのがある。つまるところ。

 

「はい、それでは改めまして~、かんぱーい!!」

 

 うちの提督、秘書艦を筆頭に、なんかゆるくてチャラい人達ばっか集まるよね、と。

 チャラい筆頭の秘書艦、鈴谷がそう声を上げると、各所でそれに追従するように乾杯の声が上がった。

 佐世保鎮守府から車で一時間程度。渓流のせせらぎ、鳥のさえずり、そして風にそよぐ緑の枝葉の音──ここに、そんなものに耳を傾けて自然を楽しむ輩など皆無である。毎度恒例の誰がお留守番をするかじゃんけん大会を勝ち抜いた猛者達と、最近加入した新人との交流を深めようという名目の、ささやかな宴──すなわち、川辺でのバーベキュー大会(どんちゃん騒ぎ)である。

 さっそく酒をあけてかっとばしている一部を遠目にしめやかに烏龍茶を飲んでいると、なぜか既に酒臭いイタリアの重巡洋艦、ポーラが寄ってきた。

 

「いや~ごめんねぇ、運転任せてさぁ~」

「いい、酒飲めねぇし」

「マヤってほんと見た目詐欺だよね~」

 

 こいつ、多分ここに到着する前から飲んでるな。あまりの酒臭さに顔をしかめつつ手で顔を押しのけてやる。

 

「酒くせぇ顔近づけんじゃねぇ。あとお前は帰りも絶対にアタシの車には乗せん」

「え~な~んでぇ~?」

 

 それはな、絶対に車ん中が酒臭くなるからだ。けたけたと笑っているポーラに若干うんざりしつつ、保護者はどこだと視線を巡らす。どうやらザラは他のイタリア艦達と共に真剣になにがしかの燻製を作製しているようであった。毎回思うんだが、あいつらの食に対する熱意はなんなんだ。ちなみにイタリア艦達に関してはこういったイベント事から省くともれなくストライキを起こすため、基本的には無条件参加である。イタリア艦が来てからますますゆるさに拍車がかかってきているが、一介の重巡である自分はそれに対してただ不平不満をこぼすくらいしかできない。末端ってのはつらいな。

 

「番長! 見ろ! ヤマメだぞ!!」

「うっそだろお前」

 

 うざ絡みを続けるポーラを適当にいなしていると、弾けんばかりの笑顔でもって磯風がこちらに駆けてきた。その両手にはびちびちと活きがいいヤマメ。どこに素手でヤマメを捕まえる女がいるよ、いやいるな、目の前に。どこか誇らしげにしている磯風に絶句していると、後ろからよろよろと浜風が川からあがってきた。どこかしら頭のネジが飛んでいる輩が多い佐世保鎮守府における数少ない良心である彼女の心労、いかほどのものか。ありがとうな、お前がいなかったらアタシ多分胃に穴あいて死んでるわ。

 

「あら~美味しそう、リットリオ達に美味しく調理してもらいましょうか」

「うむ!」

 

 目ざとくそれを見つけたアクィラが手を合わせてにこにこしながら磯風に話しかける。それにまんざらでもない様子で一つ頷くと、きゃっきゃとポーラを含めた三人はイタリア艦ズの輪へと入っていった。

 

「……お守り、すまねぇな」

「いえ……リットリオさん達がいるなら食中毒の心配はないので……今日はまだマシです」

「まぁ、そうだな……」

「一応消化補助剤は持ってきてるんですけど」

 

 流れるような動作でもって懐からカプセル剤のヒートを取り出し、いります? と差し出してくる浜風。煙草みたいに寄越すんじゃねぇよ、うっかり受け取っちまっただろうが。

 

「焼きおにぎりは磯風が担当だったか……」

「安心してください、味噌と醤油に限定しましたから」

「そもそもチョコを米に塗るって発想がな」

「焦げてましたね」

「混ぜこまれた明太子もな」

「なんで料理できない人って基礎もなってないのにアレンジ加えるんでしょうか」

 

 甘いものにしょっぱいものを混ぜると甘さが引き立つ。小豆に少量の塩を入れる例を聞いてそこからチョコに塩辛だ、明太子だを混ぜる発想はある意味天才かもしれない、それを米に塗って焼こうとするところまで。思い出すだけで胃がむかつきそうだ、とげんなりとしていると、同じく被害者である浜風が苦笑しながら口を開いた。

 

「まぁ、異臭騒ぎは起こしましたが、私がつきっきりで指導したので一応食べれるものになっていると思います」

「そーか」

「摩耶さんに食べてもらうんだっていう意気込みだけは人一倍なので。よろしくお願いしますね」

 

 その言葉に、一際長い溜息をついた。

 

「……浜風」

「はい」

「アタシは醤油派だ、多めに焼いとけつっとけ」

 

 わかりました、と笑いながら浜風も磯風の後を追う。どうやらリットリオ達は持ってきた食材とあわせてヤマメのカルパッチョを作っているらしかった。アタシ、塩焼きのが好きなんだけどなぁ。まぁあれはあれで恐ろしいほどに美味いだろうことも知っているので面と向かって文句は言うまい。

 ぐるり、と辺りを見回す。最近加入した海外艦達と共にどんちゃんしている空母達。夕雲型やら秋月型やらの新人駆逐艦共はある程度のグループを作りつつ、和やかにバーベキューを楽しんでるようだ。その一団の中に、藤波を見つけた。あの辺はあんまり絡んだことないやつばっかりだなぁ、と思いながら何の気なしに首を巡らせれば、食に真剣すぎる一部のイタリア艦共の周りで酒だ肴だと騒ぎまくっている馬鹿どもが視界に入る。見なかったことにした。君子、危うきに近寄らずってな。

 ざあ、と葉擦れの音と共に木漏れ日が揺れた。目を閉じてその音に耳を傾ける。普段海に出てるのにまた水辺かよと思ったものだが存外に悪くない。これでもう少し落ち着いた雰囲気で楽しめたら日頃のあらゆるストレスも和らぐんだが。どうしても脳裏にこいつらがなにかやらかさないように見張らねばという思いがちらつき、リラックスしきれねぇんだよなぁ。後で一人で上流の滝でも見に行って黄昏れるか……と考えていると、ふと、自身と同じく喧騒から離れたところで一人佇んでいる奴を見つけた。

 めーずらし。いっつも姉妹にべったりというか、あそこら辺はいつも固まってるのにな。

 

「よぉ、暇そうだな」

 

 河原の少し大きめな岩に腰掛け、とある集団を静かに見つめている、最近加入した秋月型駆逐艦の一人である初月に話しかけた。初月はアタシの言葉に微かに首を動かしこちらを見返したものの、何を言うでもなくふいとまた視線を戻した。他の秋月型の奴らに比べて愛想もなければお喋りでもないこいつのこういう反応にはもう慣れつつある。

 

「……のん気なものだな」

 

 ぼそり、と微かな苛立ちを滲ませた声音でもって呟いた初月の視線の先を追う。残りの秋月型駆逐艦共と、空母が数名。和やかに会話をしているように見えたが、その奥で喧々諤々と加賀とやりあっていた瑞鶴がラリアットにて川へと沈められている姿が見えた。

 

「こんなことをしている暇なんて、ないんじゃないか」

「そぉか?」

 

 こいつがここまでイラついている姿を見るのも珍しい。普段はどちらかといえば寡黙でなおかつ冷静な奴だというのに今日はよく喋るな、と思っていると。

 

()()()と違って、今はこんなに時間も、人も、装備だってあるのに」

 

 と、初月がこぼした。

 ああ、()()()()()()()

 

『ねぇ、摩耶』

『あ?』

 

 空母の中では、瑞鶴とは割と言葉を交わす方だった。海外艦が入ってきたことで若干ゆるみはしたものの、本来、空母とは他の艦種と一線を隠した、一種の気品のようなものを持ち合わせる人物が多い。そんな中、割と気さくなタイプの瑞鶴とは話しやすさもあってよくつるんでいた。

 

『初月、私に対してなんか言ってない?』

 

 そうか、そうだよなぁ。まだ艦艇の付喪神(こいつら)と付き合い始めて日が浅いもんなぁ、こいつらは。そういや秋月ともなんか揉めてたよなぁ、あいつ、と思いながら、すでにぬるくなりつつある烏龍茶をあおる。

 

「……現地人にこれは健康にいいやつだって騙されて買った煙草」

 

 急に脈絡のないことを口走ったアタシを初月は怪訝そうに見上げた。それを無視して言葉を続ける。

 

「お前騙されてんぞ、ってげらげら笑いながら吸ったそれが存外に気に入ったもんだから、いつの間にかそれを吸うようになった。卵焼きは砂糖か、出汁か、醤油かで揉めて取っ組み合いの喧嘩をして」

 

 気づけば、こんなところまできた。決して遠い過去ではないのに、それでもあの日々は、時が経つにつれて徐々に徐々に色褪せていく。そうして、そんななか。

 

「ふとしたときに思い出すのは、そういうくっだらねぇことばっかりなんだよなぁ」

 

 馬鹿だなぁと思い返せば笑ってしまう。実際、何回くっだらねぇって思ったか。そういう時間が、人生を無駄にしているなとすら思ったこともある。それでも、過ぎ去ってしまって思い起こすのは、そう無駄だと断じていたものばかりだ。

 初月を見下ろす。そうして。

 

「遊びのない人生ほど脆いぞ。()()()()()()()()()()()()()()

 

 と、真っ向から喧嘩を吹っ掛けてやった。その言葉に反射的に初月が立ち上がった。

 

 ──なにもかもが足りない。人も、ものも、力さえも。訓練さえろくに行えず、練度が低いまま敵に突貫しては海へと消えてゆく。敵からは雑魚だと馬鹿にされ。それでも、何度も、何度も海へと出る、笑いながら。

 

『──ねぇ』

 

 幸運艦。それは、結果を振り返ってつけられる名前だ。がむしゃらに海を駆け、そうしてその駆け抜けた軌跡を、幸運だと人々は名づける。きっと、そんなたった二文字で表現できるものではないはずのそれを、ただただ、幸運だと。

 

『そうやって、きっと頑張ることだけが心の支えだったのに。最後に裏切られて、尊厳さえも踏みつぶされて』

 

 私だったら──。

 

「難儀だなぁ、お前らも」

 

 空母になんて、なるもんじゃない。そう苦々しくこぼしたとある空母が脳裏をよぎる。ああ、まったくだな。どいつもこいつも、重苦しいしがらみに囚われ、がんじがらめだ。それを人知れず、そのうちに抱え込む。平気な顔をして背負う。各々から寄せられた、重い重い、“誇り”という名の想いを。

 艦艇の想いに飲み込まれれば、自分を見失う。だからこそ、空母は、一際重い縁を持ち合わせる彼女らは弓道という道を求める。己自身を保つため、そうして自身の艦艇と向き合うために。

 

「ま、ぶっちゃけて言えば戦闘ばっかこなしてっと過同調起こしやすくなんだよ、だからこれは必要な時間だ、遊べ遊べ、その無駄な時間が糧になる」

 

 ああ、面倒くせぇ、なにもかも。

 そんな心のうちを悟られぬよう、誤魔化すように初月の頭をわしゃわしゃとぞんざいになでてやると、触るな、と払われた。

 

「番長ー! 腹の準備はできてるかぁー!?」

「テメェこそ醤油焼きおにぎりの残弾は足りてるかぁー! こちとら朝からろくに食ってねぇぞ!」

「任せろ! 百はいける!!」

「馬鹿野郎もう米を炊くな止めろ浜風!!!」

「嘘これ全部お米!?!?!?」

 

 味は一安心と油断していた、まさかそこまでハッスルしてると思わねぇじゃん……。

 

「おい、食うの手伝え。味噌と醤油どっち食いたい」

「……味噌」

 

 むっすりとしながらもちゃっかりと要望を述べた初月に、ま、なんだかんだ可愛らしいところもあんだよなぁ、こいつも、と苦笑する。

 

「……──」

 

 先に歩き出していた初月が振り返る。

 

「何か言ったか」

「ん? いや?」

 

 怪訝そうな顔をする初月をしっしと先へ行けとジェスチャーにて追い払う。それに微かに眉をひそめながらも、初月は黙って七輪で大量の焼きおにぎりを生産している磯風のところへと向かった。

 

「……楽しめよ、人生を」

 

 どうせいつか、死んじまうんだからさ。

 十分に初月が離れたのを確認して、再度ひとり呟いた。

 死というものは、アタシらにとっては本当に身近なものだ。人生の終着点。終わりがあればこそ、人は生きている間になにかを成し遂げたいと思うものだ。

 でもそれは、死の本質を理解していない、いわゆる幸せなやつらの発想だ。そんなに綺麗に終わるもんじゃねぇんだよ、人生は。それこそ、ある日うっかり足を踏み外して落ちてしまうような。死とは、そういう唐突なものだ。ふとした瞬間に、ぶつりと終わりを迎える。そこに物語の結末のような美しさなどない、だからこそ。明日、踏み外してもいいように。

 

「あー……煙草、持ってくりゃ、よかったな」

 

 何を抱えて、その唐突な終幕を迎えるのかくらいは。自分で決めたって、いいじゃないか。

 

 

 他の艦艇にも適性を示す、こんなことはままあるらしい。例えば空母と駆逐艦であれば、もちろん希少艦種である空母を言い渡されるだろう。だけれども、時折、それこそ同型艦同士で、まるでゆらぎのように複数適性を示すことがある。そういうときはどうするか。もっとシンプルだ、残存艤装から適性艦を言い渡す、あるいは()()()()()()()()()()()()。彼女らも、そんな感じで適当に決められのだという。

 

「眼鏡外しちまうのか?」

「だって、もう必要ないし」

「えー、ダテ眼鏡かけようぜ、ダテ眼鏡」

「なんでよ……」

 

 一卵性双生児だと聞いていたけれど、全くもって似ていない。それが鈴谷(わたし)の第一印象だった。母親のお腹の中にいるときに中身を真面目、不真面目できっちり二分割したのではないかというくらい異なる性格。ただ、鳥海が眼鏡を外している姿を見かけたときは、ああ、確かに顔のつくりは似ているのかもな、と思った。

 

「眼鏡かけてるほうが、鳥海! って感じするだろ!」

 

 限られた娯楽の中で喫煙、飲酒に手を出す娘は少なくない。そうして先が短い艦娘なればこそ、黙認されるのも常であった。しかしながら鳥海という堅物は酒も煙草も一切やらず、そうして摩耶という不良はどちらもよくのんだ。そんな二人であるから小さないさかいは日常茶飯事で、私もよく巻き込まれたものだ。中々に激しい言い合いをすることもあったけれど、次の日にはけろりとした顔でお互い肩を寄せ合いながら海図を眺め話し合う。その距離感が理解できないとこぼせば、双子なんてこんなもんだろ、と摩耶には笑われた。

 ある日のことだった。いつものように、砂浜に座り込んで煙草を吸っていた摩耶と雑談をしていると、鳥海が嬉々とした様子で足早に駆け寄ってきたのだ。

 

「摩耶! これ吸いなさい!」

 

 ひゅ、と投げられたものを摩耶が受け取る。なんだなんだと二人して覗き込めば、夕陽だか朝陽だかを背景にネイティブ・アメリカンが煙草を吸っているロゴの入った、まごうことなき煙草の箱だった。

 煙草嫌いな鳥海がそれを持ってきたことにも驚いたが、それ以上にどこか誇らしげな彼女が印象的だった。後々聞くと、現地人に口八丁手八丁でこれはいいものだと丸め込まれ、信じ切ってしまったのだという。そういう、ちょっと純朴すぎるところが鳥海にはあった。

 

「無添加なんですって、その煙草」

「へぇ」

「だから他の銘柄より体にいいはずよ!」

 

 その言葉に思わずふは、と摩耶が吹き出した。

 

「お前、それだけの理由でこんなクソマイナーな煙草買ってきたのか!」

 

 今でも思い出すのは、そんなくだらないやり取り。死線を、何度も何度もくぐり抜けた。目の前でふっ飛ばされる仲間。制空権を奪われ、空を覆い尽くさんばかりの敵艦載機をがむしゃらに撃ち落とし。そういった、忘れたくても忘れられない脳裏にこびりついた記憶とは別に、ふと思い出すのはそんなことばかりだった。だからこそ、思う。

 

「……お」

「どう?」

 

 もっと、あのときに。

 

「結構吸いやすいな、これ。気に入ったわ」

 

 もっともっと馬鹿をして、もっと笑いあえばよかったと。

 

「──摩耶!!」

 

 どうして人は、失ってからしか後悔することができないのだろう。

 前線基地の防衛を中心任務としていた鈴谷達は、そこそこ激しい戦火を生き延びてきた。そうして生きれば生きるほど、仲間も失っていった。それは、唐突な喪失。ふと食事をしながらその娘の名前を呼ぼうとして、ああ、そういや死んじゃったんだっけ、なんて思う。そういうことは、よくあった。

 生きるのも死ぬのも運次第だ。訓練所で一番いい成績を収めていたと聞いていた娘が一番最初に沈んだ。かと思えば、実力もあるとは言えないのによく敵に突っ込んでいく娘がなぜか毎回生き残った。どんなに強くとも死ぬときは死に、どんなに弱くとも生き残るときは生き残る。そこに理由などなく、あるのは事実だけ。だから、鈴谷も同じようにいつか死ぬんだろうなってぼんやり思っていた。それでも、やっぱりどこか他人事だったのだと思う。

 耳をつんざくジェットエンジンの轟音。最後に視界に入ったのは、完全に虚をつかれた摩耶の顔と、それから。彼女の名前を叫ぶのと、衝撃波に吹っ飛ばされて海面に叩きつけられ意識が飛んだのは同時だった。

 気を失っていたのはどれくらいか。敵空母打撃群の気を引きながら、なおかつなるべく戦力を削れ、なんていう、ありていに言えば囮役を任された私達の艦隊で生き残ったのは、鈴谷だけだった。

 意識を取り戻し、身体を起こしたときには辺りには誰もいなかった。艤装はほとんど吹き飛ばされ、どうにかこうにか動くのは主機のみ。いやに、静かだった。自身が発する主機の音が、嫌に耳に響くくらいには。あてもなく、ただうろうろと海面を見ながら彷徨った。気づけば日は水平線の向こう側へと傾き、それにつれて海面はまるで血が広がるかのように、じんわりと赤く染まっていき──気づけば日は完全に落ち切って、夜になっていた。そこでようやく、基地へと帰るという考えに至った。それと同時に、ああ、自分以外、死んだのか、という事実も。

 基地へと帰ってきて、真っ先に鳥海が駆け寄ってきた。そうして彼女から思わず目を逸らし、何も言わない私を見て彼女も理解したのだろう。彼女が最初に発した言葉は、今入渠施設一個空いているから入ってきなさい、だった。

 きっと私も彼女も、摩耶の死を受容できていなかったのだろう。私達にとって最も近しい存在だった彼女は、その日、忽然と私達の狂った日常から姿を消したのだ。

 ん? 鈴谷も鳥海も泣きわめくと思ったって? まぁ、そんなことはしなかったよね。ああ、わかってるって、鈴谷達が狂ってるのなんてさぁ。だってそうじゃん、前線基地って中々ひどいんだよ、急に深海棲艦が活発化したってさぁ、呉の本隊が到着するまで結構時間かかるからさぁ、それまでは限られた資源で、人員で、それこそぼろぼろの状態で昼夜問わずに出撃を続けるんだよ、ここを落とされたらたまらんってね。

 そう、きっと私達はどこかしらいかれている。

 

「──鳥海?」

 

 そんなのは、百も承知なんだって。

 別方面へと出撃していた呉の本隊がこちらの前線基地まで来るのにまだしばらく時間がかかるだろうなんて言われてさ。もう艤装も直しきれなくて、ガッタガタのボッロボロ、もちろん身体だってね。そんな中、鳥海も中々に手ひどい被害を受けていた。もうこれは直しきれない、と判断され待機命令を出されていたはずの鳥海を工廠で見かけ──言葉を失った。

 

「そう、そうだよなぁ」

 

 ──ぽたり。

 鳥海の頬を伝った涙が、艤装をたたく。沈んでしまった、摩耶の予備の艤装を。

 他の艦艇にも適性を示す、こんなことはままあるらしい。他の艦種同士で、あるいは同型艦同士で揺らぎのように。本来ならば、例え同型艦であっても別の艦の艤装を操ることはできない。装備の流用はできても、それ自身を動かすことは不可能なのだ。それは、例えば同じ最上型であっても私は鈴谷で、あの娘は熊野で、という風に。決して、同じ存在ではないからだ。だから。

 

「まだ、死んでなんか、ないよなぁ」

 

 ──ああ。眼鏡を外すと顔のつくりが似ているなと思ったのは、いつだったか。

 双子ってよくわかんないと言えば、わかってたまるかよ、あたしらはお互いに唯一無二の存在だからな、なんて言われて軽い疎外感を覚えて。それでもやはり、仲の良い姉妹という以上の繋がりが二人にあるのはなんとなくわかっていた。

 

「摩耶は、まだここにいるもんな」

 

 だからこそ。きっと、彼女は受容できなかったのだ、私以上に。

 酔狂だと、誰かは言うだろう。でもそんなの言わせておけばいい。鈴谷達の人生は、鈴谷達だけのものだ。誰になにを言われたって、それは譲れない、譲ってやるもんか。

 だから鈴谷達が最期のその時まで。何を抱え、沈んでいくかを決めることを。誰にも文句なんて、言わせてなんか、やらない。

 

 

「──鳥海」

 

 のろのろと振り返ると、前線基地にいた頃からの付き合いである現佐世保鎮守府秘書艦の鈴谷がこちらへとゆっくりと歩み寄ってきていた。

 

「また吸ってる」

 

 呆れたようにそう言って、埠頭に胡坐をかいて座っているアタシの隣へと並ぶ。隣に並んだ彼女を見上げ、ため息一つついてろくすっぽ吸っていない煙草を携帯灰皿へと押しつけた。

 

「お前も難儀な奴だよなぁ」

「鳥海に比べれば全然っしょ」

 

 じとっとした目でこちらを見下ろす鈴谷に、再度ため息をついて。

 

「……そうやっていつまでも私のことを鳥海として扱うから、ああいうことが起こるんだけど」

 

 と、先日の失態について文句を言ってやった。

 

「あれは結構肝が冷えた……」

「よりにもよって藤波さんだし」

「や、ほんとね……これも縁ってやつ?」

「さぁね」

 

『──鳥海さん!!』

 

 面倒くさいものだ、縁というものは。なまじ自分が鳥海、摩耶のどちらにも適性がある分、ふとしたときに揺れ動く。“摩耶”として長いことすごしてきているというのに、この曖昧さは私個人の性質なのか、あるいは艦自身の縁による揺り戻しなのか。

 

「だってさぁ」

 

 いじけるようにつま先でコンクリートを蹴りながら、鈴谷が口を開いた。

 

「鈴谷が鳥海のこと覚えてなかったら、誰が鳥海のこと覚えてんの」

 

 その言葉に、軽く嘆息する。

 

「マメっていうか……そういうところよね」

「なにさぁ」

「そういうところが秘書艦たる所以って感じ」

 

 初対面の印象というものはあてにならないものだ。初めて見たとき、ギャルがいる、と思った。同時に絶対にこいつとはそりが合わないだろうと。

 

『うわ、秘書艦でもないのに帳簿つけてんの?』

『杜撰な管理、嫌いなのよ』

『はぁ〜真面目だねぇ』

『……馬鹿にしてる?』

『え? なんで?』

 

 真面目って、かっこいいじゃん。机に頬杖をついてゆるく笑いかけられ、毒気を抜かれた記憶がある。げに恐ろしきはギャルゆえのコミュニケーション能力の高さだ、とよく本人に毒づいていた。それを受けてはえ〜? とゆるく笑い返す。そういうやりとりを幾度となく繰り返し。

 

『鈴谷は、自分がしたい格好をしてるだけだよ』

『ロックだな!』

『……なんでもかんでもロックってつければいいと思ってない、摩耶?』

 

 そうして気がつけば、一番長いつき合いになってしまった。私が鳥海であったことを知る、唯一の人物に。

 

「ねぇ鈴谷」

 

 鈴谷は、私に鳥海に戻れとは言わない。自分のしたいことをしているだけだとよくこぼすこの子は、人から勘違いをされやすい分、勘違いをされてきた分、他人に優しくできる子であったから。だから私が“摩耶”になったときも、なった後も、決してそれに対して異を唱えることをしなかった。例えそれが、普通の人から見たら狂ってると称される行為であったとしても。彼女はただ、こうしてふとしたときに私を(ちょうかい)として扱う、それだけだった。

 

「人って、なんで忘れるのかしらね」

 

 どんなに似ていないと言われようとも、私達は確かに双子だった。時たま疎ましく思うことはあれど、摩耶は私にとっての半身に違いなかった。そうしてそれを失ってようやく痛感し、その欠落をこういった形で埋めようとしている私はきっと頭がおかしいやつなのだろう。そんなことはハナからわかっている。

 どんなに彼女をなぞったところで完全に同化することなどできない。煙草はいつまでたっても嫌いだし、どんなに口調を崩したところで几帳面なところは直らない。限りなく近い存在だった摩耶は私の半身であり、そうしてどこまでいっても私ではない存在だった。そんなことは十分理解している。そうして、そんな中途半端な存在であるというのに彼女以上に“摩耶”を乗りこなしているのも、皮肉といえば皮肉だった。

 もう一本煙草に火をつけ、ゆるゆるとそれを口へと運ぶ。ろくすっぽ煙を肺にも入れず、ただただ、燃え尽きるまでくゆらせる。その間だけは、私は鳥海でいられる、それだけでいい。それだけの時間さえあれば、私はいい。

 

「……ねぇ、それ、美味しい?」

「あ? んなの聞かなくてもわかんだろ」

 

 忘れてなどたまるものか。この空虚さを、痛みを。誰が忘れてなどやるものか。

 一本の煙草が燃え尽きる頃に微かに服にまとわりつく、その香り。それに抱かれ、あの頃に、今はいない彼女と過ごした日々に思いを馳せる。

 

「クッソまずいわ。いつも通りな」

 

 時が経つにつれ、忘却の彼方へとこぼれ落ちてゆく日々を。ただただ、忘れたくないその一心で。

 

 

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