第1話で鷺里さんは草履を履いているのに、第5話で下駄になっていたので修正しました。誰か僕を殺してください。
心に鉄球でも繋がれているかのように、足取りは酷く重かった。
どうにか我が家の玄関扉を押し開け、靴を脱ぐ気力すら湧かずにその場にへたり込む。胃から込み上げる鉛のような不快感が、全身から急速に体温を奪い去っていった。
夜鳥さんが吐き捨てるように暴露した、凰佳の真実。
絶対的な味方だと信じていた幼馴染の少女は、僕を意図的に孤立させ、精神的に依存させるための精巧な檻を長年にわたって構築していたというのだ。
「お帰りなさいませ、佐鳥さ――佐鳥さん!?」
奥の廊下からパタパタと小気味良い足音とともに現れたのは、雪模様の割烹着を纏った居候、大鳥鷺里さんだった。
夕食の支度中だったのか仄かに出汁の香りを漂わせた彼女は、僕の顔を見るなり、慌てて駆け寄ってきた。
「いかがなさいましたか!? 顔色が尋常ではありません!」
「だ、大丈夫です……。ただ、ちょっと、知りたくないことを知っちゃっただけで……」
僕の力無い返答に、鷺里さんは微かに安堵の息を漏らす。
そして、僕の氷のように冷え切った手を、柔らかな両手で包み込み、ゆっくりと居間のソファへと導いてくれた。
立ち上る湯気が微かな温もりを運んでくるほうじ茶を前に、僕は重い口を開いた。
「……今日、夜鳥さんに教えられたんだ」
僕は、途切れ途切れになりながらも事の顛末を吐き出した。
クラスメイトたちが僕と一定の距離を保ち、まるで腫れ物にでも触れるような視線を向けていた理由。
『佐鳥は、莫大な遺産と保険金を手に入れるために、自分の両親を事故に見せかけて殺害した』
そんな悪評が校内で囁かれていることは、僕の耳にも届いていた。
だが、まさかその噂の出処が、他でもない凰佳だったなんて。
確かに彼女であれば、『幼馴染だから知っている真実』という強力な触れ込みで、その最悪な噂を周囲に蔓延させることができるだろう。
僕の周りに存在していた見えない壁は、彼女が唯一の理解者という玉座に座るために築かれた、絶対的孤独へと追いやる巧妙な包囲網だったのだ。
鷺里さんにすべてを語り終えると、部屋には痛いほどの静寂が満ちた。
僕は両手で頭を抱え込む。
怒りや騙されていたことへの悲しみ以上に、今まで滑稽なピエロを演じきっていた自分自身への情けなさが、精神を削り取っていく。
「……なるほど。事の次第は、おおよそ理解いたしました」
ふいに鷺里さんの静かな、しかしひび割れそうなほどに張り詰めた声が落ちた。
丸腰であるにもかかわらず、彼女の全身からは不可視の刃のような凄まじい剣気が立ち上り、部屋の空気が一瞬にして冷え込んでいく。
しかし、鷺里さんは深く息を落とすと、その凄絶な殺気を自らの奥底へと無理やり封じ込めた。
「恩人たる佐鳥さんの心を弄んだ罪は、決して許されるものではありません。……ですが、これは私の感情を優先すべき問題ではないでしょう。
佐鳥さん、あなたはこれから、彼女とどう向き合いたいですか? どのような結末を、お望みですか?」
それは極めて冷静で、理知的な問いかけだった。
彼女は自らの胸中に渦巻く憤りを押し込め、ただ僕の意思を尊重してくれたのだ。
「どうしたい、か……」
ひらがな数文字の問いが、重くのしかかる。
縁を切るべきだ。当たり前じゃないか。
そんな恐ろしい本性を隠し持っていた狂人とは、今すぐに関係を断ち切り、二度と顔を見ないのが正解だ。
僕を依存させるためにありもしない悪評を吐いた。人として到底許されるものではない。
彼女に向かってありったけの罵倒を浴びせ、完全に決別してやるべきなんだ。
――いや、本当にそうか?
僕は本当に、ただ一方的に騙され、虐げられていた可哀想な被害者だったのか?
思考の泥沼に沈み込んでいく中で、真っ黒なタールのような記憶が溢れ出す。
凰佳が流した『親殺し』という悪評は、動機こそデタラメだったが、結果だけを見れば僕が抱える絶対的な罪のど真ん中を射抜いていた。
誰も僕に近づかない。誰も僕を見ない。腫れ物として扱われ、息を潜めるように生きる日々。
その圧倒的な孤独という名の『罰』を――他でもない僕自身が、無意識のうちに望んでいて、受け入れていたのではないか?
両親を殺めた許されざる罪人である僕にとって、周囲から見放され、凰佳の用意した窮屈な箱庭の中で飼い殺しにされる現状は、お誂え向きな牢獄だったといえる。
だから僕は、あの異常な隔離状態に些細な不満を覚えつつも、心のどこかで当然の報いとして受け入れてしまっていた。
そうか。認めてしまえば、意外なほどしっくりとくる。
僕たちは、歪な共依存関係にあったのだ。
記憶の奥底に仕舞っていた思い出を引っ張り出す。
絶望と孤独のどん底で、不格好に握られたおにぎりと温かいお茶を持って現れたのは凰佳だった。
私がずっと一緒にいてあげるから。泣きそうな顔で僕を抱きしめた彼女の温もりも、すべて打算の上だったのかもしれない。
僕が罪悪感で弱り切り、最高に依存しやすいタイミングを見計らって差し出された、猛毒塗れの蜘蛛の糸。
疑心暗鬼が心を蝕む。気持ち悪い。怖い。彼女のすべてが恐ろしい。
だが、どれほど動機がおぞましいエゴイズムで塗り固められていたとしても。
――あの時の温もりで、僕の命が繋がったという結果は、決して嘘にはならない。
もし彼女が傍にいてくれなかったなら、僕は罪悪感と自責の念に耐えきれず、自ら命を絶っていたかもしれない。
打算まみれの救済。狂気に裏打ちされた優しさ。
それでも僕は、それに縋った。
「正直、凰佳は正真正銘のサイコパスだと思うし……今は顔を見るのも怖い」
僕は、自分の声が微かに震えているのを感じながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「でも、僕の心が壊れずに今日まで生き延びてこれたのは、あいつがいてくれたからなんだ。それに、僕自身も……どこかで罰を求めて、凰佳の作った檻の中にいることに甘えていたんだと思う」
「佐鳥さん……」
究極の自己欺瞞か、あるいは重度のストックホルム症候群かもしれない。
騙されていたと知ってもなお、僕はその蜘蛛の糸を手放すことができなかった。
自分自身の弱さと未練に、自嘲の笑みを浮かべる。
「動機がどうであれ、凰佳が僕を救ってくれたのは……紛れもない事実だから」
僕の痛切で、泥臭い吐露を聞いた鷺里さんは、わずかに目を見開いた。
そして、ふわりと張り詰めていた緊張を解き、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
「……本当に、呆れるほどに底抜けで、哀しいほどの優しさですね。だからこそ、私はあなたをこの身に代えてでも、お護りしたいと思うのです」
そう言って、鷺里さんの柔らかな手が僕の頭を撫でた。
打算も狂気も孕まない、純粋な手の温もり。
その手のひらから伝わる確かな熱に、荒れていた僕の呼吸は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
すっかり温くなったほうじ茶を一口啜り、じんわりと広がる香ばしさで胃の腑を落ち着かせる。
凰佳の作り上げた異常な箱庭と、そこに甘んじていた僕自身の依存心。
それらについては、ひとまず自分の中で落とし所を見つけることができた。
だが、夜鳥さんがもたらした情報はそれだけではない。
今日、僕の周囲をかき回した彼女自身のこと、そして彼女の口から語られた黒羽美烏、さらには凰佳の正体についても、この機会に情報を整理しておく必要があった。
「鷺里さん。実は夜鳥さんから教えられたのは、凰佳の真実だけじゃないんです」
「と、おっしゃいますと?」
「凰佳がただの人間じゃなくて別格の鳥、『鳳凰』だってことと――もう一人、黒羽美烏っていう奴についてです」
「……別格の鳥、鳳凰ですか」
鷺里さんが静かに呟き、その静謐な瞳の奥に微かな剣呑さが過った。
そういえば、彼女が傷ついて学校の行き道で倒れていた理由は、別格の鳥に闇討ちされたからだと言っていた。
凰佳への異様な警戒心は、本能的に察知していた因縁ゆえだったのだろう。
「道理であの小娘から、目障りな気配を感じるわけです。それで? もう一人の、黒羽美烏とはどのような者ですか?」
彼女はふっと冷たい気配を引かせ、先を促した。
僕は黒羽美烏について、湧き上がる感傷を一旦脇に置きながら手元にある要素だけを並べていく。
「……僕が口走った軽はずみな呪いを現実のものにして、両親の事故を引き起こした存在です。美烏っていう名前や雰囲気から、たぶんカラスの妖怪なんじゃないかとは思っていたんですが……今日、夜鳥さんは彼女のことを『神様』って呼んでいた」
「神、ですか」
「そうです。僕の言葉を聞き届けて、両親を交通事故へと導いた神様。ただの比喩かもしれないけど、本物の妖怪がいるんだし、そういう存在もいるんじゃないかと思って」
僕が提示した不気味な符合の数々を聞き、鷺里さんは静かに目を伏せ、思案するように細い顎に手を当てた。
「カラスに、交通事故へと導いた神……ですか。なるほど」
しばしの沈黙の後、鷺里さんはゆっくりと目を開いた。その瞳には、確信めいた光が宿っている。
「……『八咫烏』。日本神話に名を残す、導きの神ですね。人の運命を捻じ曲げ、交通事故という因果を引き寄せるほどの力。おそらく、黒羽美烏の正体はそれでしょう」
鷺里さんから告げられたその名前に、僕は息を呑む。
やはり、そうか……。
僕の身勝手な言葉一つで両親が死んだというあの凄惨な出来事は、偶然などではなく、本物の神の力が介入した結果だったのだ。
改めて突きつけられた冷酷な真実に、胃の奥がぞわりとし、膝の上に置いた両手が震え出す。
僕が殺したのだ。僕の呪いが神を動かし、両親を不可避の死へと追いやった。消えることのない絶対的な大罪。
それでも。今は絶望に呑み込まれて立ち止まるわけにはいかない。
僕は冷めかけた湯呑みを両手で強く包み込み、もう一つの整理したい議題へ意識を向ける。
夜鳥雀の過去についてだ。
なぜ彼女はあそこまで僕に執着し、異常なストーキング行為に及んでいたのか。
彼女が語っていた通り、あの時の鳥かごから逃がした雀、そのものだとすれば……。
僕のプライバシーを完全に無視した好意も、命を救われた『恩返し』だとするのなら、辻褄が合う。
「……腑に落ちたよ」
僕は深く、長く息を吐き出した。
理由のわからない好意ほど怖いものはない。これまで、接点もないはずの彼女から向けられる重すぎる偏愛は、ただただ不気味で恐ろしかった。
だがその狂気じみたストーキングの根底に、『かつて命を救ってくれた恩人に報いたい』という純粋な動機があったと分かれば、少しは納得がいく。やり方は完全に間違っているが。
得体の知れない恐怖の対象から、不器用で歪な恩返しへと認識が変わったことで、心の底にこびりついていた気味の悪さがすっと引いていくのを感じる。
しかし、致死量を超える情報の連続に、僕の精神はとっくに限界を迎えていた。
泥のような疲労感が全身にのしかかってくる。
「……今日はもう疲れました。頭の中を整理するためにも、少し横になろうと思います」
「ええ、それがよろしいかと。佐鳥さんのことは私が必ず御守りします。何も案ずることなく、安心しておやすみください」
鷺里さんの温かい言葉に甘え、僕はソファに深く沈み込み、目を閉じた。
そうだ、今日はもう休んでしまおう。朝からいろんなことがあったじゃないか。すべては明日の自分に託せばいい。
――待て。
意識が落ちかけたまどろみの中で、ひとつの違和感が、釣り針のように僕の意識を引っ掛けた。
なぜ夜鳥さんは、これほどまでに脳の処理能力を超えるような情報を、一気に暴露したのか?
まるで、情報のスタングレネードだ。
大量の真実を一度に叩きつけ、僕の思考をショートさせる。
さらに幼馴染がサイコパスだと知った今、僕が頼れるのは鷺里さんが護るこの家だけ。
僕が『凰佳とは心の整理がつくまで顔を合わせたくない』と強く思い、この唯一心が休まる安全地帯に引きこもることを――夜鳥雀は、計算しているのではないだろうか?
そこまで思考が至った瞬間、背筋にぞわりと冷たい氷をねじ込まれたような悪寒が走った。
今日の放課後、僕のペンケースを奪い去った黒羽美烏に対し、凰佳は理性を焼き切るほどの凄まじい殺意を燃やしていた。
もし今、夜鳥さんが凰佳に、黒羽美烏の居場所をリークしていたとしたら?
間違いなく、二人はぶつかり合う。
そして、そのために僕というストッパーが動けない状況を作り出したのだとしたら。
「……今夜だ。決戦は、今夜なんだ」
声に出した瞬間、それが単なる妄想ではなく、夜鳥さんならやるという確信へと変わった。
僕は弾かれたように目を開け、ソファから跳ね起きる。
「まさか。鳳凰と八咫烏が、今宵潰し合うとおっしゃるのですか?」
鷺里さんがすばやく事態を察し、僕の前に立ち塞がった。
「だとしたら尚更いけません! 別格同士の死合いなど、佐鳥さんが踏み入って良い領域ではありません!」
――それでも、止めなきゃダメだ。
小鳥遊凰佳は、僕を依存させるために孤立を誘導したサイコパスかもしれない。
でも、両親の死後、孤独と絶望のどん底にいた僕の心身を支えてくれたのは、紛れもなくあいつだ。
黒羽美烏は、初対面で盗みをかますイカれた後輩かもしれない。
でも、あの両親の呪縛から解き放ってくれたのは、紛れもなく彼女なんだ。
どちらも、絶対に死なせていいはずがない。
「それでも――!」
「場所は、分かるのですか」
図星を突かれ、僕は言葉に詰まる。
「……っ、そう、ですね」
鷺里さんの冷静な言葉で我に返った。
そうだ。今すぐ夜の街を駆けずり回ったところで、見つけられる保証なんてどこにもない。
今こうしている間にも、戦いの火ぶたが切られているかもしれないのに。
壁掛け時計の秒針が進む音が、やけに大きく耳に響く。刻一刻と過ぎていく時間に、焦燥感が全身から冷や汗となって噴き出した。
くそっ、焦るな。考えろ、深呼吸しろ。
あの夜鳥雀が仕掛けた盤面だ。
僕の行動パターン、心理状態まで完璧に把握したがるあのストーカーの考えを、今度は僕が当てなければならない。
灰色の脳細胞をフル回転させて、頭の中を整理する。
鳳凰と八咫烏の殺し合いだ。
互いに同格。しかし、相討ちとなって倒れる保証はどこにもない。
僕の行動すらも掌握しようとした夜鳥さんが、そんな詰めの甘いことをするのか?
いや、しない。凰佳に対して強い殺意と執念を燃やす彼女が、その可能性を考えていないわけがない。
彼女は必ず『二の矢』を用意して、戦いの行く末を観測しているはずだ。
つまり夜鳥さんの居場所さえ分かれば、二人の場所も分かる。
でも、どうやって彼女を――。
「……っ! そうだ!」
恋は盲目。僕のすべてを掌握しようとした彼女が生み出した、たったひとつの致命的な綻び。
僕はスマートフォンを取り出し、いつの間にか夜鳥さんに仕込まれていた『位置情報共有アプリ』を起動する。
表示されたのは、近くの山にある古びた神社の座標だった。
「見つけた……っ!」
だが、今から僕の足で向かっても間に合うかどうか。
僕はスマートフォンを力強く握りしめ、こちらを見つめる鷺里さんへと振り返った。
「鷺里さんっ!」
「いけません、佐鳥さん! 危険です――」
「分かってます。でも、どうしても止めなきゃいけないんだ」
僕は必死に止めようとする彼女の瞳を真っ直ぐに見据え、これまでで一番のわがままを口にした。
「お願いです。僕を背中に乗せて、飛んでいってくれませんか」
果たして7年越しに完結できるのか……!?