生としての肉体を持たない英霊は、気温による影響を受けない。
しかし、人間であるリツカは違う。
肌を突き刺す冷気に身を震わせた彼は、白い吐息を空に浮かべる。
いくら晴れているとはいえ、常に吹雪に覆われる雪山を芯から温めることは不可能であろう。
分厚い雲を退けて差し込む太陽の光は積もる白雪を表面を撫で、きらきらと輝かせるだけであった。
「よーし、行くぞマスター!しっかり掴まってろよ!」
「……安全運転で、お願いね」
リツカを担いだ燕青を筆頭に、山の急勾配を駆け降りる。
どのような断崖絶壁でも、英霊たちの足を止める障害にはなりえない。
レイシフトを繰り返すことにより、その心臓までも鍛えられたリツカは、吹き荒ぶ山の風にも表情を変えることはなかった。ジェットコースターに乗って急激に落下する時のような、内臓が浮くような感覚にももうすっかり慣れてしまった彼は、遠ざかる山頂をぼんやりと見上げる。
任務としてカルデアの外に出るのは、初めてかもしれない。
こうしてカルデアを外から眺めるのは変な感じだ、とリツカが思っていると視界を黒い何かが遮った。
「わ……」
黒い、片翼の翼。
漆を塗ったような濡れ色をしたそれは、天使というにはあまりにも武骨で、悪魔というにはあまりにも高潔なうつくしさを持っていた。
リツカの視界の端で、燕青の動きに合わせ扇のように舞う黒髪とは、また違ったうつくしさがあるように思う。
「ねぇねぇ、おにいちゃん!」
「……なんだ」
「それ、すごくきれい」
「……」
「おにいちゃん……わたしたちも、飛んでみたい。だめ?」
空を舞う翼に特に目を輝かせたジャックが足を止めたかと思うと、セフィロスを目掛けて助走した。
だめ?という問い掛けは、問い掛けではなかったらしい。
とんとん、と僅かな足場を軽やかに飛んだジャックは、そのまま切り立った崖から飛び降りる。
マスターの愛情という名の強化を重ねた体は、山から滑落した程度では大したダメージにはならないだろうが、深い溜息を吐いたセフィロスはその小さな体を受けとめた。
「わあ……!!すごい、おかあさん!!わたしたち、飛んでる!」
「うん、良かったね。ジャック」
「ほう……愛いな、愛い。
どれ、セフィロス。私にもしてみせよ」
「……勘弁してくれ」
「おやおや、楽しそうじゃないか。私も是非混ぜてくれ」
「お前は自分で飛べるだろう」
きゃっきゃと燥ぐその姿は、ただただ微笑ましいに限る。
その生い立ちからか、どこか影を背負うジャックが手放しで喜ぶことは稀であるから、余計にそう思えた。片手でジャックを支えるセフィロスは、柔らかく微笑みながらも揶揄うスカディに、呆れた表情を浮かべた。
そして視界の端で両手を広げた花の魔術師を一蹴すると、リツカたちにペースを合わせるために、一度足場へと降り立った。
どの英霊も、それぞれの魅力を持っている。
魅力とは、容姿や力だけでなく、人柄を含めた意味で、リツカはそれを見抜くことに優れていた。
そして、彼がマスターとして慕われている理由の一つに、それを引き出すことに長けていることがあげられるだろう。本人は無意識であるが、ダヴィンチやドクターをはじめとしたカルデアの職員は、皆その素質に気付いていた。
だからこそ、謎の多いセフィロスを、リツカが気に掛けて構うことを後押ししたのだ。
徐々にそれが功を奏しているだろう兆候が、こうして垣間見ることが出来る。
それはまだ微々たるものでしかない。それでも貴重な変化であった。
勿論、リツカだけの奮闘だけではない。例え意図していないにしろ、カルデアの英霊たちもまた起因であろう。
いつか、冬の凍えた大地が春を迎え新芽が息吹を成すように……。
リツカはそこまで考えて、ふと気付く。
意識的かそれとも無意識的かは置いておくとして、ジャックを気遣いながら翼をはためかせるセフィロスの、隣に寄り添うスカサハ=スカディもまた、そう願っているのではないかと思ったのだ。
それならば、生命が沈黙と生命の芽吹きを好む自然の女神の、瞳に溢れる優しい色に、説明が付く。
「おい、マスター。そろそろ地上に着くぜ」
「え、もう?」
どうやら随分思考に耽ってしまったらしい。
燕青に声を掛けられたリツカは、はっとして下を向く。
そこには久しぶりに見る雪を被っていない地面があった。
「燕青、ありがとう」
「お安い御用さ、マスター」
燕青に降ろされたリツカは、続いて降り立った英霊たちを確認すると、遠くに見える時計塔を見据える。空へと伸びる塔から感じる重々しい空気に、まるでそこだけが違う空間にも思えた。
リツカたちが降り立った場所から時計塔の、丁度中間に位置するのが、今回の目的地である宝条研究所だ。
広大に広がる敷地に、世界でも有数の最先端の機器が揃うと謳われる施設が、いくつも並んでいるのが遠目から見てもわかった。
一応許可は得ているので、恐らく正面から入ってしまっても構わないだろう。
そう考えたリツカは、研究所施設まで歩くことにした。
「……」
英霊たちと言葉を交わしながら歩くリツカから、少し離れた後ろを歩くセフィロスは、研究施設に近付くにつれて大きくなる何かの予感を抱いていた。
ざわざわと胸を騒がせるそれが、決して良いものではないだろう。が、明確な正体はわからない。
視線や殺気ではない不快な騒めきを抱え、見えてきた研究所の入り口へと視線を向ける。
「おにいちゃん、どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
隣を歩くジャックが首を傾げながらセフィロスを見上げる。
子供とは言え、アサシンの英霊なのだ。ヒトが纏う空気の変化にも敏い。
だが確証のないただの予感を口にすることは憚られたので、一言そう返すだけに留めた。
そんなセフィロスの黒いコートを掴んだジャックは、何か言いたげに瞳を揺らす。
「ふん、あの
施設の正門前までやって来たリツカ達が、一番初めに感じたのは、物々しい静寂であった。
吐き捨てるように呟いたエミヤオルタに、リツカは苦笑いを零す。
確かに纏わりつくような空気といい、背筋を撫でるような不気味さと良い、施設長を思い起こさせられる。
リツカは、正門近くにある警備室らしき建物の中を覗いてみた。
防犯カメラを映したモニターやらの機械が並んでいるのが見えたが、人の気配はないように感じる。
暫く様子を窺っていたが、結局警備員が姿を見せることはなかった。
自動で全て管理しているのだろうか、と首を傾げたリツカは、恐る恐る門へと手を伸ばす。
「……開かない」
立ち塞がる白い重厚な門はぴたりと閉じており、ビクともしなかった。
どうやらロックされているらしい。おそらく警備室の中にある機械で管理しているのだろう。
警備員が不在の今は警備室にも入ることは出来ない。
リツカは辺りを見回しつつも、カルデアに通信を入れることも考え始めたその時、突然ふわりと体が浮いた。
「何をしている、マスター。
まさか鍵を開ける方法を考えてはいないだろうね」
「え?……だって、開かないし」
「非効率的だよ。此処で無駄な時間を使うわけにはいかないだろう」
金の刺繍が施された黒衣が視界の端で揺れている。
エミヤオルタに担がれたリツカは、再びの浮遊感を感じて反射的に舌を噛まないように口を閉じた。
助走もせず地面を蹴り上げたエミヤオルタは、軽やかに門を飛び越えると、狂いなく着地を決める。
一瞬の、飛翔であった。
「ひ、一言言って欲しかった……。でも、ありがとオルタ」
「ふん。迅速に動きたまえ。
……どうせ、視察だけでは済まないだろうからね」
「どういう、こと?」
「あの男絡みのことで、面倒事にならなかったことはない。
そういうことだよ」
「そんなトラブルメーカーみたいな」
「ふむ、言い得て妙だなマスター。
偶には良いことを言う。まさにトラブルメーカーだ」
そういう配慮をするタイプの英霊ではないが、思わずそう零したリツカの口元には笑みが浮かぶ。
はじめはマスターであるリツカにも関わろうとしなかった彼が、任務遂行のためとはいえ、一番初めに動いたのだ。皮肉な笑みを浮かべて目を伏せたエミヤオルタに、言葉とは裏腹なやる気を感じる。
いくら冷静沈着を装っていても、その性根は隠せていないのだ。
こういう所は本当に不器用な英霊だと、リツカは笑った。
勿論、門を挟んだ真向かいにいる『
「ははっ、このまま仲良くご帰宅じゃあつまらねえだろ。
ちょっとばかし刺激的な方が、おもしれえ」
「……ちょっと、で済めば良いがね」
続いてリツカの隣に着地した燕青が、けらけらと明るい笑い声をあげた。
腕を組んで溜息を吐いたエミヤオルタは、ちらりとセフィロスに視線を投げる。
「……
「あはははっ!!彼には随分、嫌われているじゃないか」
ぶと噴き出すように笑うマーリンを横目に、セフィロスは地面を蹴り上げた。
全くつれないなあ、と肩を竦めた花の魔術師が手にした杖を振るうと、ぱあと花びらが舞い上がる。
ふわりふわりと踊るそれは、そのまま柵を通過して中へと入り込んだ。
目の前で爆発した花びらに、リツカは思わず目を瞑る。
「ぶっ、……あいっかわらず、迷惑な花びらだよなあ」
「失礼な。私だって好きで咲かせているわけじゃないさ」
リツカが再び目を開けると、花びらが口に入ったらしく燕青が顔を歪めていた。
そして、長い銀髪を靡かせて降り立ったセフィロスの、隣にマーリンの姿を見る。
白い髪を風に遊ばせながら、うんざりとした顔をしたセフィロスを見上げたマーリンは、ふわふわと笑う。
リツカは、ふと視界に入ったそれに目を瞬かせた。
セフィロスの腕には、見慣れた銀髪の子どもが収まっているのが見えたのだ。
今のメンバーの中で一番身軽なクラスである筈のジャックが、また強請ったのだろう。
そうして、リツカが満面の笑みを浮かべるジャックを見ていると、視界に不意に影が落ちて来た。
「セフィロス」
凛、とした声が耳朶を打つ。
そちらに目を向けると、門の上に佇む氷雪の女王の姿があった。
逆光を受けて此方を見下ろすその姿はまさに、女王の貫禄とうつくしさがある。
しかし何処かその声音に、不機嫌さを感じるのは自分だけであろうか。そうリツカは首を傾げる。
「か弱い母を放っておくとは何事だ。
全く、こういう時は手を貸すものだというのに、まだまだ配慮が足りぬ。
良いな?このか弱い母には、常に気を向けよ。
良いな?よ・い・な?返事」
「……」
か弱い?とか、それって介護じゃないか、とか言うことなかれ。
それらを口にした瞬間に、この辺りが豪雪地帯と化すであろうことは想像に容易い。
リツカは言葉を何とか飲み込むと、静かに溜息を吐いたセフィロスに哀れみの視線を送る。
そうして、青と赤の瞳が交わったその時、スカディの体が空を舞った。
セフィロスが、空いている方の腕を伸ばしたのは、反射的な反応であっただろう。
山を下りる時のジャックのように、セフィロスを目掛けて飛び込んできた彼女を、片手で軽々と支えた。
そして、ゆっくりとその体を降ろすと、満足げに女王は微笑んだ。
「うむ、流石
良いエスコートであった。これからも励むと良い」
その殆どが強制的であるにも関わらず、けろりとした表情でそう言い放つと、スカディは弾むような足取りで先を歩き始めた。その後ろに続くように、慌ててリツカも足を進める。
「女難の相が出ているな。……哀れなことだ、同情するよ」
「……少なくとも、お前に言われる筋合いはないな」
嘲るような言葉とは裏腹に、その金の瞳には哀れみが滲んでいる。
経験者は語る。ということなのだろう。
しかし、エミヤオルタほど酷い覚えはないのだと、セフィロスは淡々と言葉を返す。
そうして、ぴくりと眉を動かしたエミヤオルタに背を向けると、リツカたちの後を追って歩き出した。
「ふふ……。彼をいじるのが楽しいことは良くわかるけど、
程度が過ぎれば嫌われてしまうよ」
「……少なくとも、アンタに言われる筋合いはないがね」
性悪夢魔めが、という言葉を飲み込んだエミヤオルタが、マーリンを睨み付ける。
マーリンは笑みを深めると、足元に咲く花びらを散らしながら歩き出した。
***
手入れのなされた中庭には、色とりどりの薔薇が咲き誇り、噎せ返るほどの匂いが広がっている。
中央には女神が佇む噴水が鎮座していて、まるで一枚の絵を想わせる光景であった。
その女神を模った像は、石の琴を空へと掲げており、そこから澄み切った水が流れ落ちている。
正門の目の前に見える建物が、メインの研究施設らしい。
ガラス張りの扉には、正門と同様に厳重なロックが掛かっており、認識装置のようなものが付いていた。
それはカルデアのそれとほぼ同じ形をしているので、おそらく虹彩認識装置であろう。
鍵穴は見当たらないので、ヒトの虹彩だけが鍵となるようだ。
リツカはどうしたものかと思う前に、物理的に突破しようとしている英霊たちを慌てて止める。
中まで入っている今説得力はないかもしれないが、あくまでも視察目的なのだ。
流石に扉などの器物損壊は不味いだろうし、どんなセキュリティ機能が作動するかわからない。
「……」
何か他に方法がないかと周囲を見渡していると、後にいたセフィロスが扉へと近づく。
するとその時であった。
ぴぴ、という電子音を立てて機械が動き始めたのである。
その音にセフィロスが認識装置へと顔を向けると、かちゃという何かが開く音が聞こえた。
すると自動扉が開き、薄暗いエントランスが目の前に広がった。
驚いたリツカたちは、思わずセフィロスの瞳を注視する。
猫を想わせる特徴的な青い瞳は、そうそうあるものではない。
それに認識に使われる虹彩は、個人差が存在するため同じものはないのだ。
「……ええ…!!開いた、の?」
「開いただと……?おい、セフィロス……。
アンタ、此処に来たことがあるのかい?」
「……俺は、ない」
青い瞳を流して、問い掛けた燕青を見たセフィロスの表情は変わらない。
しかし、燕青にはその表情が何処か強張っているようにも思えた。
だが、直ぐに背を向けて中へと入ってしまったので、確証は持てなかった。
「相変わらずミステリアスだね。彼」
「……はあ」
無機質な床に花を咲かせながら呟いたマーリンは、その背中を追う。
エミヤオルタの深い溜息が聞こえたが、リツカはこの場にいても仕方がないと内部へと足を踏み入れた。
光沢のある白い壁と床に覆われた施設内は、カルデアと同じように見えて全く違う印象を受ける。
ひんやりとした空気と痛いほどの静けさが相俟って、非常に居心地が悪い。
何よりも、施設内に入っても人の気配を微塵に感じないのだ。
「マスター、視察に来ることは告げてあるのだろう?」
「う、うん……」
「出迎えもなしかい?……ふむ、とんだ歓迎だなあ」
「……」
かつり、とリツカと英霊たちの足音だけが響いていく。
まるで廃墟のような虚しい静寂に、ぞわりと肌が泡立つのを感じた。
流石にこれはおかしいと、リツカの背中に冷や汗が流れる。
「なーんか、出そうな雰囲気だよなあ」
「な、なにかって、なに……!!」
「んー。キョンシーとか?」
場違いにも思えるほど陽気にそう言った燕青に、びくりと背中が震える。
そんなリツカの様子に、明るく笑った燕青が目の前に手を突き出した。
緊張感のない言動だが、今のリツカにはそれが良かったらしい。
少しだけ解れた恐怖心に、再び前を向く。
「おにいちゃん、あれ!」
「……ああ。案内板らしいな」
少し先を行くジャックが、エレベーター前に置かれた透明な板を指差して声を上げた。
透明な板の上に貼られたそれを見ると、この施設内の地図が描かれていた。
黒い手袋をした指が、いくつかの部屋をなぞる。
「セフィロス、目的を先に済ませるぞ。
あまり散策が過ぎると藪蛇となりかねないだろう」
「……そうだな」
地図を覗き込んだエミヤオルタが、一つの部屋を指差した。
研究長室と書かれたそのフロアは、どうやら最上階にあるらしい。
縦にも横にも長い研究施設の最上階は10階にあるようだ。
それを確認したリツカは、横にあるエレベーターのスイッチを押してみる。
すると上に表示された階数を示すランプが、淡い光を点した。
電気は生きているらしい。ならば何故施設の明かりは点いていないのだろうか。
本当に人がいないのか……?と思考を回していると、ぴんという軽快な音が聞こえた。
一拍置いて開かれた扉の向こうは、明るい。
リツカのベッドが4つほど入るくらいの広さのエレベーター内に足を踏み入れると、10階のボタンを押した。
「それにしても、な-んで人がいないかね」
「うーん。ドクターたちが連絡してくれた筈なんだけど」
エレベーターの壁に凭れた燕青が、うんざりしたように溜息を吐いた。
それを聞いたリツカも、困惑した表情を浮かべる。
「……宝条の、研究を知っているか?」
「うん、人体実験がどうのって……。まさか」
「おいおい、まっさか全員やっちまったってことか?」
「……」
セフィロスの問い掛けに、リツカはダヴィンチとドクターから聞いたことを思い出す。
この研究所に配属された助手や生徒を、実験体として使用していた。
ならば、この静寂は……。と顔を強張らせたリツカに代わって、燕青が声を上げた。
「部屋に死体が並んでなければ良いがね」
「態々そのようなものを発掘する理由はあるまい。
用が済んだら、さっさと帰るぞマスター」
エミヤオルタが、喉を鳴らして低く嗤う。
珍しく神妙な顔をしたスカディが、リツカに目を向けてそう言った。
「……そうだね、なんか此処あまり長くいたくない」
ねっとりとした嫌な空気に包まれた施設内は、いるだけで精神的に疲労が積もるようだ。
スカディに同意しながらリツカが頷くと、丁度10階に到着したらしい。
再び軽い音を弾ませて開いた扉の向こうには、やはり眩暈がするほどの白い空間が広がっていた。