星痕症候群という未知の病に伏せていたリツカであったが、数日もしないうちにいつも通り動けるようになっていた。
その体は、秒針の歩みと共に蝕まれ続けているが、カルデアの顕学たちの知と力、そして他でもないリツカ自身の精神力という名の免疫により、何とか元の状態まで回復したのである。
それでも予断を許さない状況であるには変わりはない。
一刻も早く治療をしなければと、とある場所へのレイシフト準備を急いでいた。
そんなある日の夜のことである。
自室のベッドに横になったリツカは、夢の世界へと意識を飛ばす。
そこまではいつも通り、変哲もない眠りであった。
しかし一体どうしたのであろう。
気が付けば、何ともいえない浮遊感の中にいたのである。
見知らぬ空間と、段々と明瞭になっていく意識に思わず動揺するも、何処か冷静な自分に気付く。意識が引っ張り出されるような、この不思議な感覚に憶えがあったのだ。
『白のマテリア』というらしい水晶にも似た玉を手にすることになった、あの夢とよく似ていた。
だが今回は、あの神秘的な荒廃に彩られた場所ではないらしい。
周りを見渡すと、立ち並ぶ棚にぎっしりと詰められた本たちによる四面楚歌状態であった。視界を埋め尽くすそれらに、この場所が図書館か資料室に類する部屋であることを察した。
カルデアにもいつの間にか造られた図書館があるが、それと少しだけ似ている気がした。
冷静さを取り戻したリツカの耳を、小さな音が擽る。
それはしんと静まり返った室内の唯一の音で、本のページを捲るそれであることに気が付くと総毛立つのを感じた。
誰かがいるらしい。
リツカはその音に何か焦燥のような鬼気迫るものを感じて、息を呑む。
どうしようかと悩んだものの、このまま佇んでいるわけにもいかないので、意を決して恐る恐る音のする方へと一歩踏み出した。
音を頼りに近付くと棚を挟んだ向かいに人影が確認できたので、スパイ映画のスニーキングミッション
「……!」
床を埋め尽くす程に散乱した本や資料らしき紙の束に囲まれ、本棚に背を凭れさせ座る黒いコートの男をリツカは良く知っていた。
しかし何かを探し求めるように資料を捲るその横顔は、見たことが無いほどの焦りが浮かんでいる。
床に広がる銀の糸が人工灯の光をじわりと弾いて、重々しい輝きを放っていた。
「嘘だ、‥‥俺は、そんな、」
絞り出すようなその声は暗澹とした絶望が込められていた。
カルデアで見るセフィロスからはかけ離れた姿に、リツカは驚きを隠すことができず硬直してしまった。
そうしてリツカは暫く呆然とその姿を見ていたが、一向にセフィロスは気付く様子はないのだ。
人の気配すら察知できないほど動揺しているのだろうか?
そうも考えたが、リツカはその考えを直ぐに打ち払う。
あのセフィロスが歴戦の英霊たちのそれならまだしも、自分のような普通の人間の気配に気付かないとは考えにくかった。
「……セフィロス?」
いずれ気付かれるならば、と声を掛けてみる。
しかし応答はなく視線一つ返されることはない。
これが単なる夢か、それともリツカがセフィロスの記憶に紛れ込んでいるのかは判断が付かないが、少なくとも英霊が霊体化している時と同じようになっているらしい。
「あれ?」
ふと散乱する本の一冊に目を留めた。
目の錯覚かもしれないが一瞬淡い光が見えた気がしたのだ。
本を踏まないようにと、合間を縫って歩くが意味はなかった。
というのも身体が透明化しているらしく、本を踏んだとしてもすり抜けてしまうのだ。
だがそこは気分的な問題で出来るだけ避けて歩く。
そしてセフィロスの、足下にある本に手を伸ばす。
すり抜けてしまうかもしれないという考えはあったが、それは杞憂に終わった。
本の表紙に、吸い付くように触れた指先。
相当古い本なのだろう。
触っただけで崩れそうなそれは、リツカが触れるのを待っていたかのように今度は強い光を放ち始めたのである。
突然目を刺したその光に、視界が真っ白に染められる。
そしてそのまま光に吸い込まれるように視界が真っ白に染まったかと思うと、突然ぷつりと音を立てて意識が途切れたのである。
「眩し……」
チカチカと白黒に点滅する視界を引きずったまま迎える目覚めは、中々騒々しいものである。分厚い雲から差し込む細々とした朝日をあまり感じることなく、リツカは体を起こした。
するとまた、枕元に何かが置かれているのに気付く。
落ち着きを取り戻してきた目を凝らすと、それが先程触れた本であることがわかった。
色褪せ所々が擦れた本は、古めかしいものに思えたがそれにしては綺麗である。
端々に見える補強の痕跡などから、持ち主がこの本を大切にしていたことが伺えた。
「よ、読めない」
タイトルは褪せてしまって読めないものの、中に書かれた字は無事なようである。
だが問題は、そもそもその文字自体を読むことが出来なかったのだ。
日本語でも、英語でもない、どちらかというと象形文字に近いその文字は見たこともないもので、読み解くには辞書のようなものが必要であろう。
幸いカルデアには様々な国の、様々な歴史を生きた英霊たちがいる。彼らに声を掛ければきっと解読をしてくれる筈だと思った。
だが今回は、この本を読んでいた人物をリツカはその目で見ていのだ。
取るべき行動は一つであろう。そう。白のマテリアを託された時のように、とある人物の部屋へと駆け込むことであった。
「セフィロス、ちょっと良い?」
ノックと同時に開かれた扉の、その向こうに見えた部屋の住人は、呆れたような表情を見せたが、何も言わなかった。唐突に訪れるマスターをはじめとする英霊たちに、もうすっかり慣れてしまったのかもしれない。
気配は察知しているのだから問題はないだろうと暴論を口にしていた、青髪の英霊たちが頭を過った。
リツカもまた慣れた足取りで部屋に入ると、窓際に佇むその男がセフィロスであることを確認した。
セフィロスとセトラは一つの体に二つの自我を宿しているため、どちらが『出ている』かを見極めるのは中々難しい。
セトラの方がセフィロスの喋り方や仕草を崩さないようにと工夫しているのは知っていたが、それにしても似ているのだ。言葉にはし難いが雰囲気が似ている、とリツカは思う。兄弟といわれても納得がいく程に、落ち着きを払いつつも何処か浮世離れしたそれは、共通していたのだ。
初めは全く区別が付かずその瞳孔を見て判断していた。が、今ではそれを見るに至らなくとも区別が付くようになっていたのだ。これを単にマスターとしての成長と呼ぶかは、別の話になるだろう。
「……何だ」
すと耳をそよぐ低音にも呆れが浮かんでいたが、決して拒絶の色はない。
人を寄せ付けないようにも見えるこの男の性根は、それほど冷たくできていないことをリツカはもう知っていた。
前に聞いた話であるが、セトラは朝に弱いらしい。
なのでこの時間帯にいるのは、セフィロスであろうという狙いは当たっていた。
リツカが起床後直ぐにこの部屋を訪れたのは、それが理由であったのだ。
リツカは本を片手に、怪訝そうな顔をするセフィロスに近付く。
長い睫毛に縁取られた水面の瞳が、じっとリツカを見据えた。
随分上にあるその顔に、リツカは改めて目の前の男の背の高さを実感した。
「ねえ、セフィロス。これ知ってる?」
手にした本を、セフィロスに向けて差し出した。
まず返されたのは、長い長い沈黙であった。
リツカの投げかけた質問に、いつまで経っても解は返されなかったのである。
今度はリツカが怪訝な顔をする番であったが、それも直ぐに驚愕へと変わることになる。
凪いだ水面に石を投じたかのような、動揺。
見開かれた瞳は、揺れ惑い、その波紋を現すようにその手は震えていた。
「これは……!これを、どこで……?」
信じられないものを見る、唖然とした表情。
その手がゆっくりと、本へと伸ばされる。
「わからないけど、夢を見たんだ。
そしたら枕元にこれがあって」
「……夢、だと?」
「その夢にセフィロスも出て来たんだ。
だから、その、もしかしたらと思って持って来たんだけど……」
「……」
「図書室みたいな、本が沢山ある部屋にあったんだ。
セフィロスがその……何かを一心不乱に読んでて、足下に落ちてた」
「神羅屋敷の、地下室か」
「しん、ら?ごめん、場所まではわからないや」
「……そうか」
「やっぱり、大事なものだったんだ」
「……」
「その本を見た時なんかわからないけど、凄く大切にされていたんだなって」
「……ああ。
この本は俺の、宝物だった」
セフィロスは、リツカから受け取った本を胸に抱き寄せた。
そして静かに息を吐き出し、いくつか深い呼吸をする。
まるで涙を堪えるような、久方の再会を味わう姿に、その本がセフィロスにとって本当に大切なものであったことがリツカにも伝わった。
「……その本、」
「気になるのか」
「え、あ……うん。セフィロスが良ければ、聞きたいな」
「いいだろう」
目を伏せたセフィロスは、穏やかな表情をしていた。
口元に浮かぶ微笑は、無意識のものであろうか。
セフィロスは、かつて友と呼んだ男たちや後輩とも呼べる男たちにも、散々語り聞かせたことを思い出していた。その中の一人もまた同様に、自身の愛読書について聞き手がすっかりそれを憶えてしまうくらい語っていたので、お互いの『聖書』について話し始めるとついつい熱が入ってしまい、もう一人にうんざりした顔で止められるまで話し込んだものである。
一方、リツカは一抹の嫌な予感を抱えていた。
今のセフィロスの表情や雰囲気から、かの太陽王や英雄王にも似たものを感じ取っていたからであった。
それでも口数の少ない、どちらかというと無口なセフィロスが、饒舌に何かを話す姿は想像にしがたいものであったし、その本とセフィロスの関係にも興味があったので、リツカは普段キャスターが寝そべっているソファーに腰を下ろすと、真っ直ぐな瞳を向けた。
爛々とした青の瞳。
それは『とある話』に関してだけ口数が急激に増加するセフィロスの話を、飽きずに聞いて、時にはせがみすらした、とある青年たちを彷彿とさせるものであったのだ。
「セトラの話は、既に知っているだろう?
もう一度聞くと良い。もう一つ、別の話もしてやろう」
きらりと目を光らせて、リツカを見下ろすセフィロスは意気揚々と話を始めた。
その珍しい姿と、普段のそれに比較すると弾んでさえ聞こえる声に、気を取られたリツカは滔々と紡がれる物語に耳を傾ける以外、出来なかったのである。
某王様たちの激流の如き勢いとはまた違う、落ち着きを払いながらも一切の口を挟ませないような話し方は中々に迫力のあるもので、気付けばリツカは感情を共鳴させながら聞き入っていたのであった。
***
『古代種の英雄』について話し終えたセフィロスは一度言葉を切った。
英雄として祀り上げられたセトラが厄災ジェノバをその魂ごと封じるまでの物語は、今まで聞いていたものと同じであった。
セフィロスは小さく息を吐くと、再び口を開く。
そうして語り始めたのは伝記にも如何なる書物にも書かれていない、英雄に隠された物語であったのだ。
―――古代種の英雄の話は此処までだ。
此処からは、その裏に秘められしものを話そう。
誰にも話したことがない、いや話したくなかったことだが……。
お前がこの本を見つけ出したということも、また運命の一つなのだろう。
星の民、古代種など呼び方はあるが、古代種と統一しよう。
とある古代種の男は、一族の使命のもと生まれて直ぐに旅に出た。
初めは両親と共に。
過酷な環境下で生きる術と戦い方を習い、やがて独り立ちの時を迎えた。
その時だ彼に弟が誕生したのは。
そして同時に両親は、呆気なく死んでしまった。
なに、そんな顔をするな。
過酷な旅を往く古代種の寿命はそう長くはない。
その時代には良くあることだ。いくら独り立ちを迎えようとも、まだ少年と呼べる齢の男には赤子を抱えることは荷が重く、捨て置いたとしても誰も責めはしないだろう。
自分が生き抜くことで、精一杯の
だがその男は、弟を決して見捨てはしなかった。
弟を生かす為に神々の力を借りてまで、寒さを暑さを凌ぎ、怪我を治し、暗い旅路を光の力で照らし、より安穏な眠りへと闇の力で誘った。
そうして得た力と、知恵を編み上げて、少年は大いなるものをつくりあげる。
魔法石、後にマテリアと呼ばれるもの。その原石を。
いくら文明が時代が進めども、全てを解読することは不可能だといわれるとんでもないものを、弟のために男はつくった。
男は更に、弟に剣術をはじめとする武術を叩き込んだ。
鬼のように厳しかったが、まるでその姿は何かに追われているようにも見えたな。
兄の背中を追い続けた弟は、その厳しさすら呑み込み、やがて兄以外には負けることを知らない剣士へと成長していった。
兄と共に歩む旅路はひたすらに過酷であったが、満たされていた。
それは羨望する兄と肩を並べて歩ける幸福と、共に剣を振るうことのできる誇り、そして様々な兄の顔を見れる喜びからのものであることを知ったのは……。皮肉にも、その全てを失ってからであった。
厄災ジェノバ
そうして、奴は、全てを奪い去った―――
「……って、ちょっと待て。
セトラの……弟だと?」
「わっ!?キャスター、いつからいたんだ!?」
「なんだマスター、気付いてなかったのかよ。
お前さんが、慌ただしくこの部屋に入っていくのを見てね」
「初めからいたってことじゃん」
「ま、細けえことは気にすんな。
それで、セフィロス、セトラはジェノバと共に封印されたっつーのは聞いたが、その弟はどうなった?」
「……感染後、兄の手で葬られた」
「そん、な」
「いやそれで、良かった。
他でもない兄の、その手で死ねることは……」
そこで言葉を切ったセフィロスは、深く息を吐いた。
リツカは気付かなかったようだが途中からリツカの向かいに座り、話を聞いていた青髪の魔術師は、段々とその輪郭を濃くしていった弟という存在をすかさず問う。
しかし何かを思うように空に視線を向けたセフィロスが返したのは、噛み締めるような呟きだけであったのだ。キャスターにはそれで充分であった。
「おい、まさかその弟……」
「……この本には、一つ絡繰りがあってな」
「からくり?」
セフィロスはキャスターの言葉を遮り、手にしていた本の裏表紙を指の腹で撫でる。
色褪せてしまって殆どわからないが、本には表紙と裏表紙に一つずつエンブレムにも、魔法陣にも思えるマークが描かれていた。
裏表紙に刻まれているそれをおもむろにトントントンと三回軽く叩くと、小さな光がそのマークをなぞるように浮き立った。
そしてマークの部分が透明になり、裏表紙に浅い穴が開いたのだ。
元々が大きく分厚い本であるのでその穴は小型サイズの手帳ならばすっぽりと入ってしまう大きさであった。
「……それは?」
「手記だ」
「手記?セトラのか?」
「ああ」
「何が書いてあるの?」
「……変哲もない日記だ。
同時に、俺にとっては分岐点となる鍵」
「え?それって……」
ふと、一瞬だけ浮かんだ笑み。
瞬く間に消えたそれは、悲しくもあたたかなものに見えた。
追求しようとしたリツカに、セフィロスはもう一度視線を向ける。
「そろそろ朝食の時間だろう」
話は終いだと告げるように、ぱたりと本が閉ざされる。
そこには、もう穴は見当たらなかった。
そんなに話し込んでいたのかとリツカは時間を確認して、はたと気付く。
リツカの閃きと同時に、小さく呟かれた言葉があった。
「……寝坊助なのは、昔からだな」
その声音は柔らかく優しいもので、今まで聞いたことのない響きを持っていたのだ。
廊下から騒がしい足音が聞こえたかと思うと、あっという間に消えていった。
腹ぺこな英霊たちが一直線に食堂へと、向かって行ったのだ。
そして間もなく食堂から一人の英霊が訪れて、この部屋の扉を叩くであろうことは想像に容易かった。
英霊に食事は必要ない。だが当然ながら、人間にとっては必要不可欠である。
一応その人間にカテゴライズされているセフィロスは、彼の管理下にある一人であった。
セフィロスのみならずリツカやカルデアの職員をはじめとした人間たちも、その対象であるものの、彼らはいくら多忙であろうとも食事を取る。その英霊がこのカルデアに召喚されてからというもの、すっかり胃袋を掴まれてしまっているから自然の流れであった。
だがセフィロスにはその欲求が一切無いらしく、はじめは食堂にも来ようとしなかった。ジェノバ細胞により食事も睡眠も必要ない体となった、とは聞いたことがある。
しかしその『我が儘』を許してくれるほど、あの英霊に優しさはなかった。
ふとリツカの耳に、一つの足音が聞こえた。
騒々しい足音は疾うに食堂へと消え去っていたので、尚その音は大きく響いた。
「はっ、毎日毎日ご苦労なこった」
皮肉混じりに鼻で笑ったキャスターは、セフィロスに目をやる。
涼しげな顔をしたセフィロスは、何も言わずに溜息を落とすのみであった。