ヤンデレ・嫉妬・修羅場etc短編集   作:月島しいる

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他傷少女

「ごめんなさい」

 行為の際、そうやって彼女は必ず謝った。

 その行為が普通ではない、ということを正しく認識している証拠。彼女は、異常者ではない。

 痛々しい表情を浮かべて。苦痛に顔を歪めて。

 彼女は他人の痛みがわかる人間だ。

 人の痛みを自らの痛みとして共有することができる普通の人間だ。

 彼女は異常者ではない。

 だからこそ、俺は彼女の行為を黙って受け入れる事ができた。

 目の前にはよく研がれた包丁。

 暗闇の中、一糸纏わぬ姿で俺の上に跨る彼女は震える手でそれを俺の右肩に向けている。

「ごめんなさい」

 極度の緊張と興奮からか、謝罪の言葉を繰り返す彼女の息遣いが荒くなっていく。

 暗闇の中、肌にかかる彼女の吐息が酷く官能的で、右肩に触れる包丁の冷たさすらも心地よい愛撫のように思えた。

「ごめんなさい」

 繰り返される彼女の言葉に、俺は微笑を浮かべて応える。

 それを契機に、俺の右肩に添えられていた包丁がゆっくりと手前に引かれた。

 皮膚が裂け、開いた傷口から血が零れ出る。

 俺に覆いかぶさる彼女の顔に、罪悪感と愉悦と安堵したような感情が綯い交ぜになって、はっきりと表情に現れる。

 それは一瞬のこと。それでも、俺は彼女の瞳の奥に映る歪んだ感情をはっきりと見た。

 彼女はすぐに自分の中の感情を抑えこむように心配そうな顔を浮かべて、濡れた瞳で俺を見る。

「大丈夫? 痛くない?」

 俺の右肩を切り裂いた包丁は、事前によく研がれていた。極力痛みが発生しないように、彼女がそうしていたのだ。

 すっぱりと裂けた右肩が熱を持っていたが、流れる血に反して痛みは大したことがなかった。

「大丈夫だよ」

 俺の言葉に彼女は微笑んで、止まっていた包丁を更に手前に引く。

 五センチほど皮膚が裂けたところで彼女はゆっくりと包丁を離すと、サイドテーブルに用意していたバスタオルの上に置いて、そっと包み込んだ。

「血、出てる」

 彼女は俺の右肩をじっと見つめて、心配するようにそっと傷口の近くを撫でた。

「ごめんね」

 小さな呟き。

 けれど、そこに後悔の色はない。

 だから、これからこの行為を辞めることもないだろう。

 それが彼女にとって必要なことで、俺もそれを認めていたから。

 彼女、早瀬有栖(はやせ ありす)には他傷癖がある。それはもう、どうしようもないことだった。

 

 

 

    他傷少女

 

 

 

「結局入れなかったのか」

 ファミレスで、俺は対面に座る有栖に向かって呆れたように口を開いた。

「だって、大学の食堂って知り合いがどこにいるかもわからないじゃない」

「それで、わざわざ俺を呼んだのか。平日のファミレスくらいお一人様なんていくらでもいるだろ」

「それってサラリーマンとか年配の主婦層じゃない? やっぱり一人で入りづらいよ」

「まわりを気にしすぎじゃないか? そもそも食堂に知り合いがいたら声かけて一緒に食えばいいだけだろ」

 有栖は何も言わず、手元のパスタをフォークに絡めていく。

 俺もそれを見計らって、手元の水を飲み干した。

「失礼致します。お冷お入れ致しましょうか?」

 飲み干したところで、横からウェイトレスが声をかけてくる。

 ちらりと横目で見ると若い女だった。もしかしたら同じ大学に通っている子かもしれない、と思った。

「ありがとう」

 俺は意識的にコップを手渡しせず、ウェイトレスから少し離れたところにコップを置こうと手を伸ばした。しかし、ウェイトレスがさっと俺の手の中のコップに手を伸ばす。

 あ、と思った時には既に遅かった。ウェイトレスと俺の指がかすかに触れ合う。もちろん、ウェイトレスは全く気にも留めず、水を注いでそそくさと立ち去ってしまった。

「ねえ」

 有栖がフォークを絡め続けながらどこか粘着質な声で言う。

「いま」

 俺はちらりと彼女の目を見た。真っ直ぐと彼女の黒い瞳が俺に向けられていた。

「手、触れなかった?」

 俺は考える間もなく、ああ、と答えた。

「触れたよ」

 そして、今さっきウェイトレスの手を重なった右手をテーブルの上に差し出した。

「今やる?」

 俺の問いかけに、有栖はじっと俺の右手を見つめた後、テーブル横に置いていたおしぼりを手にとった。

 そのまま無言で、俺の右手を掴んで指先をゴシゴシとおしぼりで拭い始める。痛いくらいの力で、何度も何度も。

「ごめん」

 蚊が鳴くような声で彼女は短くそう言った。

「いいよ」

 俺はそう言いながらも、あまりにも強く何度も拭われる痛みに顔をしかめた。

 彼女は俺の様子を気にするようにチラチラとこちらを見た後、呼び出しボタンを押した。ウェイトレスが来るなり、彼女は俺の手を解放して短く言った。

「ポテト追加でお願いします」

「はい。お一つでよろしいでしょうか? しばらくお待ち下さい」

 目も合わさず独り言のように注文する有栖に、ウェイトレスはにこやかに復唱してから戻っていく。有栖は、基本的に人見知りだ。知らない人間と話すことを極端に嫌う。

 俺はぶらりと伸ばしたままの自分の右腕を見つめた後、ゆっくりと戻した。有栖は俺の右手を見つめたまま、そわそわと落ち着かない様子を見せる。

「もう満足か?」

 俺の問いかけに、彼女はふるふると首を横に振った。

 それだけ確認できれば、後はどうでもよかった。俺はひりひりと痛む指先を冷やすように、注がれたばかりのお冷を掴んでゆっくりと飲み干した。

 注文したポテトはすぐに来た。それまで無言だった俺は、ウェイトレスに軽く会釈してから、それで、と有栖に目を向けた。

「これは?」

 問いかけに、有栖は挙動不審気味に周囲を何度も見渡した。

 誰も見てないことを確認すると、有栖は僅かに躊躇するように言った。

「食べさせて」

 何も知らずに聞いたら、可愛いわがままにしか聞こえない。ただ、俺は言葉通りには受け取らなかった。

 有栖が再び周囲を見渡して、はやく、と急かす。

 俺はゆっくりと右手でポテトを掴むと、彼女の口元へ腕を伸ばした。

 彼女の濡れた瞳と視線が合う。

 彼女の息遣いが僅かに荒くなり、興奮しているのか緊張のためか薄っすらと頬が桜色に染まる。

 有栖のすぐ先にポテトを差し出した時、不意に手首が強く掴まれた。そのまま引き込まれるようにポテトごと俺の指が彼女の口に引っ張られる。

 そして、痛みが走った。

 噛まれたのだとすぐわかった。

 何度も何度も、まるで歯形で指を埋めようとするように。加減されていたが、それでも彼女の歯が指に食い込んで骨が押しつぶされていくことがはっきりとわかるほどの強さだった。

 俺が痛みに顔を歪めると、有栖はすぐに俺の右手を解放した。彼女の口から俺の指先まで糸が引き、ゆっくりと繋がりが切れる。

「ごめん……痛かった?」

「昨日の包丁よりはましかな」

 俺がそう言って無理やり笑うと、有栖は申し訳なさそうに顔を伏せた。

「ごめんなさい」

 それからちらりと俺の様子を伺うように上目遣いで媚びるように言う。

「……でも、昨日の、凄い興奮した。またやってもいいかな?」

 

◇◆◇

 

 付き合ったばかりの頃は、こうではなかった。

 確かに嫉妬深い一面はあった。それでも、 こうして他人を傷つけるような真似はしなかった。

 しかし、今思えばその兆候は初期からあったのだろう、と思う。

 例えば、高校時代の女友達を含めた友人たちと一緒に飲んだ後、会いたいと言われて彼女の家に行った時、真っ先にお風呂に入るように言われた。香水の匂いがすると。敏感というか過敏というか、潔癖なところがあった。

 女友達からCDを借りた時も、わざわざ同じものを買ってきて元のCDを早く返すように要求してきた。

 他人との痕跡を消して、自分の痕跡で上書きする。

 そうした衝動めいた嫉妬が彼女の中にあるのが自然とわかって、俺は徐々に有栖以外の女友達と会わなくした。

 一時的に彼女の上書きはなくなった。

 しかしそれがきっかけだったように、その頃から行為の最中に色々な印をつけられるようになった。

 初めは、キスマークだった。

 それから徐々によく甘噛をするようになり、至るところに歯形をつけられるようになった。

 服の上から見えない部分に印をつけるため、日常生活に支障が出ることはなかった。俺も特に気に留めなかった。

 次第に、爪痕も増えた。もともと、行為の際に爪を食い込ませる事が多かった為、初めは気にしなかった。それでも、異常なほど爪を食い込ませてくる有栖に、俺は次第に違和感を覚えるようになった。

 決定的だったのは、歯形のエスカレートだった。

 甘噛ではなく、もはや肌を傷つけることが目的であるように彼女はよく俺の肩を強く噛んだ。

 まるで印を少しでも長く残るようにしようとしているかのようで、それは持ち物に名前をかくようで、縄張りを示すようで。

 俺は始め、有栖がサディストであるのではないか、と疑った。人を傷つけることに興奮を覚える性癖であるならば、これまでの行為が納得できた。

 そして何でもないように確認の問いを投げかけた時、彼女の口から告白された。

「他人を傷つけるのは嫌だよ。でも、キスマークとか噛んだ後が全身にあったら浮気なんてできないよね。しがみついたような爪痕があったら、彼女がいるんだってわかるよね。それだけで安心して、それで凄く興奮するの。おこがましいことだけど、私の彼氏ですって名前を刻んでいるようで。私だけのものになったみたいで、なんだろう、支配欲っていうのかな。そういう黒い感情が満たされて。ごめんなさい。私、変だよね。こういうこと考えてるのって気持ち悪いよね。どうしても嫌だったら全部辞めるから、お願い。今まで通り私とのお付き合いを続けてくれませんか?」

 俺は、それを承諾した。

 

◇◆◇

 

 暗闇に水音が響く。

 肌を走るぬめりとした感触。

 それで、俺は目を覚ました。

「ごめんなさい。起こした?」

 ぼんやりとした頭を起こすと、俺のわき腹を舐める有栖の姿があった。

 噛んだりすると起きるから、全身を舐めて唾液をという痕跡をつけていたのだろう、とすぐにわかった。最近は見ないが、以前から有栖がよくやる行為だ。

 全身が唾液でべとべとで、ひどく気持ち悪かった。

「ごめんなさい」

 申し訳なさそうに顔を伏せながらも、彼女は行為をやめようとはしない。

 普段は大人しくて、人一倍他人の目を気にしておどおどしている彼女が唯一、迷わずはっきりと意志を主張する行為。

 それだけ、自信がないのだろう。

 有栖は俺が女友達と遊んだからと言って、これまでに怒ったことはない。ただ、他人の痕跡を上書きしようとするだけだ。

 怒って、喧嘩になって、嫌われることが怖いのだろうか?

 だから、自分の縄張りであることを必死に主張しようとする。マーキング。きっと、そうなのだろう。

 代謝によって消え続けていく傷跡を必死に上書きして、マーキングが消えないように、毎日毎日繰り返す。

 それが消えたら、自分のものではなくなると思っているのかもしれない。

「ねえ」

 彼女が顔をあげる。その口元からは唾液が糸となって引いている。その姿が、酷く官能的だった。

「いつか、昨日包丁でやったみたいに、私の名前を刻んでもいい?」

 上目遣いで、媚びるように彼女は言う。俺は少し考えこんでから、条件がある、と言った。

「漢字はやめてくれ」

 有栖はクスクスと小さく笑って、ありがとう、と小さく呟いた。

 

◇◆◇

 

「私のお姉ちゃんね、五年前に自殺してるんだ」

 彼女の黒い感情について彼女自身から説明を受けた数日後だっただろうか。いつか、彼女は人が全くいないキャンパス内のベンチに座りながらそう言った。

「結構年が離れててね、私の六つ上だった。うん。そう、今の私達より一歳上の時に自殺したってこと」

 それで、と彼女は言葉を続ける。

「私と似て、なかなか人前で自分を出せない人で。すごい人見知りで」

 多分、全部がしんどかったんじゃないかな。有栖はどこか遠くを見つめるように呟いた。

「自殺する数年前からね、お姉ちゃん、よく手首とか切ってたみたい。馬鹿だよね。そんなんじゃ死ねるはずないのに」

 だから、本当に自殺するなんて思わなかった。そう言って、彼女は、あーあ、と空を仰ぐ。

「今でもわかんない。お姉ちゃんは、本当に死にたかったのかな。死ぬ気はなくて、でも、予想外の事故でそのまま死んじゃったのかもしれない」

 行為と目的は、必ずしも一致しないよね。

 珍しく饒舌に、有栖はそう語った。

「例えば、私は傷つけたい訳じゃない。でも、傷つけてしまってる。これは、私が醜い支配欲を満たしたいからやってるだけ。例えば事故でこのまま殺してしまったりするのは不本意で、そんなの絶対嫌だ」

 お姉ちゃんもそうだったのかなって何度も考えるのね、と彼女は続けた。

 そして有栖は俺を見る。

「社会に出て一人で生きていける気なんてしなくて、誰かに助けて欲しくて。自傷してたのかな。それとも、何もかもがうまくいかなくて、寂しくて、構って欲しかったのかな。死ねるなら死んで、生きたなら生きるっていう運試しだったのかな」

 今とはなってはもうわからないけど、私はそんなお姉ちゃんが大嫌いだった。

 有栖は自嘲気味に笑いながら言葉を続ける。

「自傷なんてしたら、親はもう大騒ぎだよね。まわりも、そう。私だって、そうだった。初めは驚いたし、凄く心配した。でもお姉ちゃんが何度も続けるうちに、いい加減にして、って思うようになった。死ぬわけもないリストカットで死にたいアピールして、そこまでして周囲に心配されたい? 構われたい? そうやって、軽蔑するようになった」

 でも、と有栖は目を伏せる。

「私も同じことやってるなって最近気づいたの。対象が自分から他人に変わっただけ。もっと愛してって、私だけを見てって、言葉に出せば終わりなのにそれすらも放棄して面倒な方法で負担をかけてる」

 ごめんなさい。今にも消え入りそうな彼女の声が耳に届いて。

「お姉ちゃんがいなかったら、お姉ちゃんが自傷なんてして私が自傷行為を軽蔑していなかったら、私も今頃無意味に手首切って注意を引こうとしていたかもしれない。そう考えたら、なんか凄く情けなくなっちゃった」

 嗚咽が、すぐ隣から聞こえた。

 俺は彼女を見ないように、一つだけ確認の問いを投げかけた。

「有栖は、お姉さんを助けられなかったことを後悔してる? 助けたかった?」

 その問いに、有栖は迷うことなくはっきりと答えを下す。

「ううん。だって、お姉ちゃんが幸せになる姿なんて想像できないから」

 

◇◆◇

 

 有栖の行為は、本質的に他傷ではなく自傷なのだろう、と俺は思う。

 随分と遠回りな自傷だ。

 自傷を軽蔑しているがために、自傷を軽蔑していながらも、自傷に走る。

 なぜ、ストレートに人は目的に向かって走れないのだろう。

 怖いからだろうか。不安だからだろうか。

 ――何を? 何に?

 ああ。

 何となくわかった気がした。

「ねえ、このまま遊びにいかない? あ、予定なかったらだけど」

 キャンパスを出て、隣を歩く有栖が俺の機嫌をうかがうように問いかけてくる。

「有栖。少し話変わるけど、前に名前を刻みたいって言ってたな」

「え? あ、うん」

 有栖はおろおろと周囲に人がいないか確認を始める。

「するか。見えないところにアリスってタトゥーでもいれるか」

「え?」

 彼女は驚いたように足を止め、それから慌てたように首を横に振る。

「だめ。あとで色々困るよ?」

 変なところで常識があって、怖気づく有栖に俺は小さく笑った。

「じゃあ、婚約しようか」

 今度こそ時が止まったように、有栖の動きが止まった。

「婚姻届にサインしよう。でも、提出はしない。しかるべき時に、ちゃんとした形で出そう」

 これなら少しは安心できるんじゃないか。

 俺がそう言うと、有栖は信じられないといった様子で僅かに怖気づいたように一歩後ろに後ずさった。

「え、うそ、わ、私なんかで……」

「いいよ」

 俺はそう言って、彼女との距離を詰める。

「でも、私、だって、いつも気持ち悪いことばかりしてて」

「有栖」

 俺は出来るだけゆっくりと、彼女の名前を呼んだ。それからしっかりと彼女の手を握る。

「お前が幸せに暮らせる姿なら十分に想像できる。だから、大丈夫だ」

 そして、彼女の薬指を手に取り、俺は躊躇なくそれを噛んだ。

 有栖が声にならない声をあげる。俺はすぐに離すと、その反応を見て満足して笑った。

 彼女の薬指に俺の歯形が、俺の歯に彼女の指紋の一部が刻まれる。

 それは代謝によって瞬く間に消えてしまう痕。

 でも、もうこれを上書きする必要はもうないだろう。俺はそう思った。


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