「みく」の灯火   作:サンキューカッス

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「みく」の灯火

「大学落ちた……」

 

 やっべー。人生詰んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本と言う国は少々器量が狭い。高度経済成長を乗り越えた日本人は、先達に倣い勤勉で真面目であることを少年少女に強要している。

 

 親も例に漏れず日本人らしかったウチの家系は、高いお金を払って学習塾に俺を通わせ、進学校へ入学し有名大学を受験すると言う愚策を取った。

 

 俺の親は馬鹿だ。

 

 自分はたいした大学に行ってない癖に、どうして自分の子供は成功すると思ったのか。

 

 学習塾で俺の成績は振るわず、学校でも落ちこぼれ側としてヘラヘラ生きて。その癖にプライドは高かったのか、滑り止めすら俺の偏差値以上の大学ばかりに願書を出すことになった。

 

 何で俺達、そんな無謀な出願を敢行したのか。

 

「せっかく●●を出てるんだから、そんな程度の低い大学に入るなんて負けたようなものじゃない」

 

 それは親は俺がまぐれで受かった進学校のブランドを過信していたかららしい。その結果が、この様である。

 

「何かの間違いで、実は合格でしたって手紙来ねぇかなぁ」

 

 等とぼやいてみたものの、補欠の紙すら届いていないのにそんな奇跡がある訳無い。

 

 そこそこの大学に進学した高校の友人達は、SNSで幸せなキャンパスライフを送っている事が分かった。俺は、二度とSNSを開かないことにした。

 

「何でもっと頑張らなかったの!!」

 

 親は、まさか俺が浪人すると思っていなかったらしい。俺よりも親の方が取り乱していた。頭悪いのは、お前らの子だからだぞ。

 

 小遣いも貰えなくなったのでコンビニバイトを始めてみたが、バイトの先輩は自己愛性障害の入った頭のおかしいパワハラ野郎だった。

 

 来る日も来る日も言い掛かりに近い罵声を浴びせられ、数日で病みそうになったのでバックレた。

 

「詰みだな」

 

 俺はこれから生きていて、何が有るのだろう。

 

 きっと来年に分相応な大学に入ったとしても、年上だとからかわれたりハブられたりするに違いない。

 

 コンビニですらろくにバイトをこなせない俺が、進学せず働きに出ても録なことにはならないだろう。

 

 終わり、終わり。俺の人生は、終わってしまった。

 

「────次はまともな頭を持って、まともな親の元で生まれたいなぁ」

 

 俺は絶望の縁で、そんなことを呟いた。

 

 

 

 

 

 

 眼前に広がる、灰色のビル群。

 

 見上げる青空には無理やり放り出したようなウンコの形をした雲が俺を見下している。

 

 セキュリティのガバガバな入ったこともないオンボロビルの階段を上る事、数階。俺は、無事に誰にも見つからず人気のないビルの屋上へと忍び込むことに成功していた。

 

「万が一にも生き残ってしまったら最悪だ。確実に死なないとな」

 

 6階建てのビルからダイブすれば、きっと助からない筈。だけど万が一がある、脚からではなく頭から飛び降りるべきだろう。

 

 俺は綺麗に靴を揃え、世の中への不平不満を書きなぐった遺書を挟み込み。

 

Good-bye(あばよ)fucking world(腐った世界め)

 

 怖いので目を閉じたまま、俺は浮遊感に身を任せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────次に感じたのは。

 

 人肌の温もりだった。

 

 

「~~~」

 

 音がよく聞き取れない。目の前もぼやけて、よく見えない。

 

 だが、誰かが俺の身体を抱き上げているのが分かる。誰かが、俺を呼んでいるのが分かる。

 

「~~~」

 

 深い海中に居るみたいだ。聞こえてくる音すべてにエコーがかかり、モザイクのかかった幻想的な世界が俺を包み込んでいる。

 

「~~~」

 

 何かが、俺の唇に押し当てられ。気づけば、夢中で俺はそれに吸い付いて。

 

 ああ、成る程。これはまさか。

 

「~~~ケプッ」

 

 背中をとんとんと叩かれて、自分のゲップの音が響く。そうか、やはりそうなのか。輪廻転生とは本当にあったのだな。

 

「~~~あうあう」

 

 声を出してみて、確信する。それは、まごうことなき赤子の声。

 

 俺は、生まれ変わった様だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「みく、てつ。来なさい」

「おかあ。なに?」

 

 和を以って、尊しと成す。

 

 くそったれな事に、俺が生まれた国はまたしても日本だった。

 

「みく、行くぞ」

「あーい」

 

 視力が成長して視界がクリアになると、古くさい和室が広がっていた時の絶望感よ。生まれ変わってもまた、俺は受験戦争を勝ち抜かねばならないらしい。

 

 恐らくここは、日本のド田舎。ろくに電気も通ってなさそうな屋敷で、庭には井戸が掘ってあり服もチャンコの様な質素なモノだ。

 

「こけるなよ、みく」

 

 坊主頭の4ー5歳程度の兄貴が、最近漸く固形物を食べさせて貰える様になった俺の手を引いて土間へ行く。

 

 そう、俺はまだ幼児。恐ろしく残酷な受験戦争は、まだまだ大分先の話だ。

 

 それに俺が死んでからどれくらい経ったか知らないけど、日本の文化も変わってきているかもしれない。

 

 受験の過酷さで自殺率は世界トップクラスの愚かな国日本が、反省してもっと学生に優しい国になっているかもしれない。受験とか無くなってるかも。

 

 それに、このド田舎だ。そもそも家柄的に、受験などする必要がない可能性もある。ここは農家で、俺は農家の跡取りとしてのんびりスローライフを送れるかもしれない。

 

 そう、俺はまだ希望を失う必要は無いのだ。今度こそ、今度こそ俺は普通の人生を────

 

 

「子供達、良く聞きなさい。今夜から、我が国は米英の暴虐から亜細亜を解放する戦争を始めます」

「せんそー?」

「ええ、我らが大日本帝国は悪い奴等を懲らしめるために立ち上がったの」

「すごーい」

 

 ────ふぁい?

 

 ちょっと待って。今、何と申しましたかお母様。

 

「きっとすぐに、おとうが米兵を皆殺しにしてくれます。ただ、軍人の皆様のために色々と私達は寄付をしなければいけません。ご飯の量が減ってしまうけど、みく、てつ、頑張りましょうね」

「えー! 減っちゃうの?」

「大丈夫です、少しの間だけですよ」

 

 目を白黒させて、ごねる兄。

 

 そんな兄とは対称的に、俺は混乱の極致だった。

 

 嘘だろ。ちょっと待ってくれ。その言い方だとまさか、今この国は日本なんかじゃなくて────大日本帝国?

 

 だとしたら。俺が生き残らなければならないのは、受験戦争なんてそんなチャチな戦争どころか────

 

「大東亞戦争が終わったら、きっとおとうは英雄として末代まで語られます。楽しみですね」

「たのしみー」

 

 やっぱり、太平洋戦争ですやん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おかぁー、ここどこー?」

「ここは、家ですよみく」

 

 そうじゃない。

 

 俺が知りたいのはそういう情報じゃない。

 

「ここあー、なんてーの?」

「ここは、居間ですよみく」

 

 だからそうじゃない。お願いだから教えてくれ。ここの地名を!

 

 第二次大戦で壊滅的な被害を被った都市は数知れない。もし此処がヤバい場所なら、一刻も早く引っ越すように助言せねば。

 

 これは流石に想定外だ。死んだ後は未来に行くもんだと勝手に想像していた、まさか戦時中に生まれているとは思っていなかった。

 

 受験戦争すら生き残れなかった俺が、ぼんやり待ってて過酷な本物の戦争を生き延びられるか。行動せねば。

 

「にほんのー、どこ?」

「日本はね、ここですよ」

 

 そうじゃない、地名だ地名。

 

 どうやら、うちのお母さんは天然入ってらっしゃる。箱入り娘かなんかだったのだろうか。

 

 確かにニコニコと笑って服の繕い物をしながら、弱冠2歳の俺の相手をしてくれている良いお母さんなんだけど……。

 

「てつー、てつー! ここの服を畳んでくれますか?」

「分かった、おかあ!」

 

 ととと、ぼふん。

 

 兄も兄で、なんかアホっぽい。素直で良い子なんだが、服を畳めと言われて服の山に飛び込むあたり理知的な性格とは言えないだろう。

 

「こら、服に乗ったらだめですよてつ」

「ごめんなさーい」

 

 それより、場所だ場所。一体ここは、日本の何処なのか。

 

 案外、部屋のどっかにヒントがないか? 居間に囲炉裏とかあるし最初はド田舎だと思ったけど、戦前だとすればそんなに田舎じゃないかもしれない。

 

 あ、そうだ。新聞とかに土地の情報が載っているかも。印刷元の地名とか記載されてるかもしれない。

 

 新聞なら、家で何枚か見たこと有る。何故俺は気付かなかったのか。

 

 よし、と俺は椅子をよじ登り机に乗っていた新聞を1枚手に取って見た。

 

「……?」

 

 そこには『聞新都』と太い文字で記され、開戦を告げる見出しがテカテカと彩られていて。

 

 

 ────都新聞。それってつまり、ここ首都じゃね?

 

 

 あ、やっぱり本社が東京って書かれてる。アカン、ここ東京ですやん。大空襲されますやん。 

 

 未来を知ってしまっている俺は、一人絶望した。なんとしても、この死亡フラグを回避せねば。東京なんかに居たら命が幾つ有っても足りない。

 

 よし、ごねよう。ごねて騒いで引っ越ししよう。

 

「おやおや、みくは新聞に興味があるのですか?」

 

 この人の良さそうなお母さんを守るためにも。少し頭の悪そうな兄を救うためにも。俺はごねまくって、東京から引っ越しを敢行するしかない!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「引っ越し? いけませんよ、私達はおとうの帰る場所に居なければなりません」

「ひっこしー!」

「それに、引っ越しなんてするお金の余裕は有りませんよ。余り親を困らせないでください」

「ふえぇ……」

 

 駄目でした。

 

 そりゃそうだ、2歳の子供のワガママで引っ越しをする親がいるものか。

 

 母の言うことは正論だ。俺はまだ会ったことがないが、母にとって何より大事なのは父親の帰る場所を守ることだろう。

 

 ……そういや、俺まだ父親を見たことないな。

 

「おとうってどんなひとー?」

「おとうはちょっと怖い」

「そーなのー?」

「厳しいけど誠実な人ですよ」

 

 どうやら、兄は父に会ったことがあるらしい。怖い系の父親か、戦前は何処もそんなもんとは聞いていたが。

 

 地震雷火事親父、と親父は天災と並べられる恐怖対象だからな。正直あんまり会いたくないかも。

 

「みくも、きっとおとうに会うと好きになりますよ」

「ほんとぉ?」

 

 俺は甘やかしてくれる父親の方がいいなぁ。ワガママを聞いて引っ越してくれる系の。

 

「男親は、いつだって娘には甘いんです。あの人も、みくを溺愛すると思いますよ」

「あー」

 

 成る程。

 

 そういや、おかあは確かに甘やかされて育ったオーラが有るな。きっと祖父は、娘に激甘な父親だったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 ────娘、か。

 

 そうなのよね。ずっとずっと生まれて物心ついてきた時から目を背けていたけど……、みくって女の名前よね。

 

 て言うか最近おまるに乗ったとき、ついてないのも見えてしまったからね。

 

 あー。

 

「わたし、おとこのこがよかったー」

「女性と言うものも悪く有りませんよ、みく」

「えー……」

 

 戦時中に生まれ変わってそれどころじゃなかったからスルーしてたけど、こっちも結構な大問題だよな。俺、将来的に男と結婚する羽目になるじゃん。

 

 だって、この時代ってあれだろ? 自由恋愛とか何それふざけてんのって時代だろ?

 

 俺にチンコくれねぇかなぁ、兄貴。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 開戦から2年ほど経った。東京は、存外に平和だった。

 

 強いて事件を挙げるとすれば、うちに届けられていた新聞が「東京新聞」に名前が変わってここが東京だと確定したくらいか。いやまぁ、知ってたけど。

 

 毎日のように空襲警報が鳴り響き、焼夷弾に恐れ戦き布団を被る様な日々はまだ来ていない。強いて言えば、ちょっと食量に難があるくらい。

 

 だが俺は4歳の女児である。そんなに沢山の量は要らないので、この一年あまり空腹は感じなかった。

 

 兄はすくすく成長しでっかくなり、近所の悪ガキと連るむようになった。母は時々届く父からの手紙に一喜一憂して過ごしている。両親の仲が睦まじいことで何より。

 

 戦時中ってもっと過酷なイメージだったけど……、案外のんびりしているな。まだ戦争序盤だからだとは思うけど。

 

 

「軍艦ごっこで、雄太郎の奴が卑怯な真似をしたんだぜおかあ」

「てつは卑怯な真似をしちゃダメですよ」

「あたぼぅよ!!」

 

 わんぱく盛りなのだろう。同い年くらいの子供と楽しげに遊んでいる兄は、妹の立場から見ても可愛かった。

 

 俺は少しでも母の家事が楽になるよう、炊事洗濯を4歳児なりにお手伝いしている。母からしたら、家事にかこつけて俺と遊んでいるつもりかもしれない。

 

 そんな、平和な毎日。少し海を越えた所に有るのだろう戦争と言う地獄を、俺達は実感できない。この目で何も見ていないからだ。

 

 戦争と言う闇は、ゆっくりゆっくりと俺達のすぐ後ろまで迫ってきていると言うのに。俺は呑気に、東京空襲が始まったら大騒ぎして田舎に逃げようと叫ぶ予定を立てていただけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 山に赤みがかかり、紅葉が伺える涼やかな朝。

 

「死亡告知書」

 

 紅葉狩りにでも行こうかと、楽しげな予定を立てていた俺達の家に1枚の紙が届けられた。

 

「昭和18年5月25日」

 

 その紙を見て、母の顔色が変わる。

 

「時刻不明」

 

 ああ、察した。察してしまった。その紙は、つまりそういうことなのだろう。

 

「右は、アッツ島にて戦死させられたことをここに御通知致します」 

 

 

 手紙に目を通した瞬間、母は泣き崩れた。どうやら数か月前に、俺の父親は戦死していたらしい。

 

 一度も娘の顔を見ることなく。俺の父は、帰らぬ人となってしまったのだ。

 

 嗚咽にまみれ、その場でしゃがみこんで動かなくなってしまった母親。俺はそんな彼女を前に、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 母親は数日床に臥せったが、やがて起き上がってせっせと働き始めた。

 

 俺や兄の食事は近所の人の助けで何とかなったけど、おかあは何も食べず痩せ細っていった。このままマジで死ぬんじゃないかと焦ったけど、自力で母は立ち直った。

 

「心配かけてごめんなさいね」

 

 母は俺達子供を育てるため、気力で復活したらしい。本当はまだ臥せっていたいのだろうけど……、よく立ち直ったものだ。

 

「おかあ、むりすんな」

 

 元々細かった母は、数日何も食べれなかっただけで骸骨のようになっていた。

 

 そんな体で、今までのように家事をバリバリ出来る筈がない。

 

「ねー。おじぃ、おばぁのとこにいくのはどう?」

 

 俺は、母方の実家に帰ることを提案した。まだ会ったことは無いが、母親は見た感じ裕福な令嬢っぽい。そこならば、きっと母だけでなく俺達の面倒も見てくれるだろう。

 

 上手くいけば、東京からも逃げられる。

 

「────お母さんは、家と縁を切られてます。なので、家は頼れません」

「あれま」

 

 だが、どうやら母は父と駆け落ち結婚したらしい。それで絶縁されているのだとか。

 

 どーすっかなぁコレ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 更に1年ほど過ぎて。

 

「お腹、空いたね兄ぃ」

「やらんぞ」

「ちぇっ」

 

 戦争はいよいよ終盤に差し掛かっていた。配給の食事は汁のみになり、鍋などの金属はほとんど軍に差し押さえられた。

 

 本土決戦に備えるらしく、竹槍の訓練に駆り出された母は身体を壊して床に臥せった。

 

 現在の日本帝国は、まさに末期である。いつ空襲が始まるのか怖くて仕方がない。

 

 だけど、

 

「この家にいると、まるであの人が私を看病してくれている気分になるんです」

 

 母には、父親との思い出の詰まったこの家から離れるつもりはないらしい。そんな事を言われたら、ここから引っ越そうと大騒ぎすら出来ない。

 

 どうする。どうする。

 

 このままじゃじり貧だ。怪我で動けない母が東京なんかに居たら、空襲されて焼け死ぬのを待つだけである。

 

 だけど引っ越し費用は? 引っ越し先は? 東京から逃げたとして、どうやって生きる?

 

 

 ────疎開。もはやそれしかない。

 

 学徒疎開と銘打たれているが、あれは病人も対象だ。母は栄養失調と訓練による骨折で病人として扱われてもおかしくないだろう。

 

 つい先週、疎開の第一陣が出発したらしい。俺達は次の疎開に参加して、東京から離れねば。

 

「おかあ、おかあ。この家に居るのがそんなに大事か?」

「大事ですよ、何より」

「そこかしこで、疎開しようと話が出てる。おかあ、私達は疎開しないの?」

「私はこの家を離れるつもりは有りません。彼との思い出の詰まったこの家が、きっと私達を守ってくれます」

「おかあ、きっと東京は危ないよ」

「大丈夫です。いつか、神風が吹いて米英を蹴散らします」

 

 ────そう言って、現実を受け入れず疎開をしない母親を。

 

 俺は根気強く、連日のように説得し続けるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一人だけ。最初は兄や母を置いて一人だけ疎開をする事も考えた。俺は大人の人格のある幼女である、きっと一人でも上手くやれるだろう。

 

 だけど、ずっと母や兄と暮らしているうちに。いつしか二人を、本当の家族だと思えるようになっていた。

 

 ワンパクで朗らかな兄。繊細で丁寧な言葉遣いの母。この二人と、生まれてからずっとずっと過ごしてきたのだ。

 

 見捨てるなんて選択肢を、俺は取ることが出来なかった。

 

 空襲が始まる前に母と兄と、安全な田舎へ疎開出来なければ。

 

 俺は、ここでこの二人と心中しよう。そう決心するくらいには、俺はこの家族が大好きだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────悪辣。

 

 人は餓えると、理性を失う。

 

 それは、現代日本に生きていた俺には考え付かない過酷な事件だった。

 

 

 たまたま、疎開の情報を調べるため一人役所に行っていた俺は助かった。

 

 役所で聞いた話でおかあを説得しようと家に帰ると、部屋は荒らされて。

 

 おかあも兄ぃも誰もいなくなっており、町中を探して回ったが見つからず。

 

 数日間の間なんの音沙汰もなく、二人が家に戻ってくることもなかった。

 

 

「お嬢ちゃん。他に家族はいるかい?」

 

 ────そして3日目の朝。警察が俺の家に、二人分の死体を持って来た。

 

 目の前が真っ白になる。その警官が運んできた死体とはすなわち、変わり果てた俺の兄と母だった。

 

「可哀想に、まだこんな幼い子供を残して」

 

 その警官から話を聞くと。

 

 俺の愛する家族は餓鬼のように痩せ細った浮浪者どもに、金銭目的で強盗されたらしい。

 

 

 

 俺の家は、狙いやすかったのだ。

 

 母方の実家とは縁が切れ、父方の親戚の知り合いはいない。復讐されるリスクが低かった。

 

 食うに困った浮浪者共は賊として民家を襲い、そして食料や金品を強奪する計画を立てた。そしてたまたま、その被害者は俺の兄と母親だったという話だ。

 

 戦争は人を変える。飢えは人を殺す。

 

 

 ────因みに、これは戦後になってから調べたのだが。俺の家族が殺されたこの事件は、どうやら単純な強盗殺人ではなく。

 

 「うら若い未亡人を狙った」男の下劣な犯罪だったらしい。幼い当時の俺に、警察はそんな説明をしたりはしなかったけれど。

 

 

「ころす!! ころしてやる!!」

 

 俺は叫んだ。

 

 そんな不条理があるか。何も悪いことをしていない、母や兄が何故殺されなければならないのだ。

 

「かえせ! おかあを、兄ぃをかえせ! 復讐してやる、今そいつらはどこで何をしているんだ!」

 

 俺は復讐を誓った。優しい母を、愛らしい兄を殺した連中を許す気はない。どこまでも追い詰めて、後悔の果てに殺してやると誓った。

 

 だが、その警察官の答えは。

 

「彼らは捜査の際に抵抗をしたので、その場で銃殺されている」

「……あ」

 

 俺には、復讐すら許されないと言う事実だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日から俺は、一人家に籠った。

 

 配給手帳を持っていけば、定期的に配給の食事は貰えた。食事はそれだけを摂取して、無駄に生き永らえていた。

 

「おかあ……」

 

 だが、あんな煮汁にどれだけの栄養があるのだろう。

 

 俺の腕は痩せ細り骨が浮き出して。頬はこけて髪はバサバサになって。

 

「兄ぃ……」

 

 母親の気持ちが今更になってよくわかった。

 

 これは、離れられない。この住み慣れた家から出ていくなんて考えられない。

 

『みく、何を泣いているのですか?』

『ただいま、おかあ!! 帰ったぞ、みく!!』

 

 ひょっこり、物腰柔らかな母が居間から顔を出すかもしれない。大声でただいまと叫ぶ、遊びにいった兄が戻ってくるかもしれない。

 

 いや、そんな妄想に嫌らしいほど現実味があるのだ。誰もいないがらんどうの家だと言うのに、母や兄がそこに居そうな気配がするのだ。

 

「ひとりにしないで……」

 

 辛い。こんなにも、家族を失うのは辛いものなのか。

 

 父親には会ったことがないので気付かなかった。前世でも、親が死ぬ前に自殺したから知らなかった。

 

 こんなにも、こんなにも────

 

「とうさん、かあさん、ごめんなさい……」

 

 前世の両親の顔が浮かぶ。そうか、俺は自殺したのだ。

 

 それはどれだけ重い罪だったのか。今更になって、身が引き裂かれるほどに後悔し始める。

 

「……うっ、うっ」

 

 誰もいない一軒家に、小さな嗚咽だけが響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして。空襲が始まった。

 

 

 鳴り響くサイレン。人々の悲鳴、慟哭。

 

 無数に降り注ぐ焼夷弾に、燃え広がる焔の嵐。

 

 戦争はとうとう、東京にもやってきた。

 

「────おかあ。兄ぃ」

 

 俺に避難などするつもりは無い。死に場所は、この家と決めていた。

 

 生きる術がないのだ。5歳の女児が一人で何が出来よう。

 

 行政の加護なぞ無い。孤児などそこらに溢れている。私は完全に見捨てられた存在だ。

 

 ならばせめて。大好きだった家族との思い出と共に、俺は死んでいきたかった。

 

 

 

 夜空に広がる阿鼻叫喚。

 

 紅蓮を纏い燃え盛る家屋。

 

 虫けらの様に燃え盛る人間。

 

 

 

「地獄……」

 

 そう、ここはこの世の地獄。

 

 俺は、地獄行きを命じられたあわれな囚人。

 

「そっか、俺が自殺なんてしたから」

 

 これは俺への罰なのだろう。浅はかで愚鈍でどうしようもなかった俺が、安易に死を選んだことによる罰。

 

「ごめんなさい」

 

 俺は居間で三角座りをして。痩せ細った太股に顔を埋めて泣いた。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『堪え難きを堪え、忍び難きを忍び────』

 

 生きている。

 

 何故だ。

 

『朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し───』

 

 もう、飯など殆ど食べていない。

 

 空腹に耐えかね、家まで侵入してきた雑草や家に沸いたネズミにゴキブリを口にしたくらいだ。

 

『其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり───』

 

 困った時に助けてくれた近所の住人は、大体焼夷弾に焼き殺された。なのに、俺の家に引火する前に隣家は焼け落ちてしまった。

 

 見渡す限りの焼け野原。平然と残っている家なんて殆ど無い。

 

 だと言うのに俺の家は。俺の思い出は、何故か焼け落ちることはなかった。

 

 何だよ。無理におかあに疎開を勧めなくても、生き残ることができたんじゃないか。

 

 ……それとも。

 

「守ってくれたのかな、おかあ」

 

 まだ、俺は死んじゃいけないのだろうか。

 

 痩せ細った体躯を動かして、生きるために足掻かないといけないのだろうか。

 

 そのために、おかあが守ってくれたのだろうか。

 

「……くそ、くそ」

 

 戦争は終わった。もう、焼夷弾が降ってくることはない。

 

 生きられる、生きねばならぬ。俺は、ゆっくり立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 戦後。俺は盗人になった。

 

 どんな手を使ってでも、生き残る事にした。

 

 悪人と呼ばれようと。母や兄の分も、生き延びねばならない。

 

 だが、俺は幼児だ。素早く動くことは難しく、ばれたら袋叩きにあって死ぬだろう。

 

 つまり、俺が盗みに入る先は。

 

 

「お、ついてる。この骸骨は金歯じゃん」

 

 

 無縁仏の様に乱雑に積み上げられた死体から、金目のものを剥ぎ取る盗人。そう、死体専門の泥棒だ。

 

 流石に死んだ人間には、幼女でも勝てる。というか、それ以外の相手には大体勝てない。

 

 配給の米だけではとても生きていけない。というか、今まで俺があんな栄養不足で生きていられた理由は家から一歩も出ずにしゃがみ続けていたからだろう。

 

 積極的に活動し始めた今、俺は栄養をつけて丈夫な身体を作る必要がある。

 

 だから集めた金属を質屋に卸し、その金で闇市に行ってビスケット等を買い。その場で食べて、そして帰っていく日々を繰り返していた。

 

 貯金はしない、強盗されるだけ。食料を持ち歩かない、取り上げられるだけ。

 

 俺は一度米を買った帰り道でカツアゲされてから、道行く人間を皆盗賊だと思うようにしていた。

 

 痩せこけた幼女が相手だ、腕力では余裕で勝てるだろう。

 

 

 まぁただ、実は痩せこけた幼女と言うのは生き抜く上で別に悪いことではない。何せ、庇護欲を最大限にそそる事が出来るのだ。

 

 中途半端に成長していれば、身体を売らされたりしたかもしれない。だが、流石に5歳の女の子に発情するアホは居なかった。

 

 目をかけて貰いやすい。それはこの時代の子供が生きていく上で、何より大切な能力だった。

 

「ぎぶみー、ぎぶみー」

 

 そう、米兵相手のモノ乞いの成功率が滅茶苦茶に高いのだ。

 

 一人ポツンと立って、チョコレートをくださいと拙い英語でおねだりしたら殆どの米兵は何かしらくれた。中には「Stay」と俺を待たした上で、基地からクッキー缶を沢山持ってきてくれた人もいた。

 

 正直、滅茶苦茶助かった。帰り道は戦々恐々だったが。

 

 あと、拠点があるのも大きい。両親が残してくれたこの家は借り家では無かった。つまりこの家の所有者は、法的に俺ということになっていた。これは、お巡りさんに確認したから間違いない。

 

 空襲を耐え抜いた我が家は所々焦げていたり穴が開いていたりしているが、雨風はしっかり凌げる。それに旧式とはいえ鍵も掛けられるので、モノ乞いして得た食料を安全に保管することも出来る。

 

 おかあは死んでしまったけれど、おかあや父の残した家が俺を守り続けてくれた。

 

 俺は、このまま何としても生き延びる。生きて生きて生き抜いてやる。

 

 それが、母への孝行だ。そんな考えを信じ、俺は毎日母の遺影を拝みながら生きていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────鍵だと? おい、誰か居るのか!」

 

 そんな折。

 

 文字通り親の形見の何より大事なマイホームの戸を、ガチャガチャと叩く音がした。

 

 ……え、来客? 誰だよ、一体。

 

「……だれ?」

「子供の声だと? 誰だ、ワシの家に住み着きおって」

「おまえがだれ? ここは、みくの家だ」

「────みく? みく!? みくだと、本当にか!?」

 

 扉越しに、驚愕の気配が伝わる。どうやら、向こうは俺を知っているらしい。

 

「生きていたのか!! あの大空襲を生き抜いたのか!!」

「うん、まあ。あんたこそだれ?」

「ワシか、ワシは────」

 

 となると、この老人の正体は限られてくる。

 

 みくという名前を知っていて、かつこの家の所有権を主張しそうな存在と言えば。

 

「ワシはお前の爺やだよ。開けておくれ」

 

 ……まぁ、母方の実家の人間だよな。

 

 

 

 

 

「だいさんもん。おかあの誕生日は?」

「四月の八日じゃの」

「ねんすうはー?」

「え、生まれ年? えっと、えっとのう」

 

 とは言え、戦後の闇市で鍛えられ疑り深くなっていた俺は、おかあのクイズを出してコイツが本物の爺か確かめたのだった。

 

 

 

 

 

 

「……ここが、サヨの過ごした家か」

「うん」

 

 話を聞いた感じ、この老人が(サヨ)の父親であることは確実だと思った。

 

 母の実家はそこそこに格式のある家柄だったらしく、家同士で結婚相手を決める事が多かったそうな。だが知っての通り、母は軍人だった父親にベタ惚れして駆け落ち。それで勘当されていたと言う。

 

「サヨは愛して育てたつもりだった。アイツに相応しい相手を用意したつもりだった。でも、サヨには伝わらなかったらしい」

 

 老人は悲しそうに、母の形見の衣類を抱き締めた。

 

 恋愛に燃え上がって何もかも捨てて駆け落ち、と聞くとロマンチックだが。家を飛び出される側としたらたまらぬショックだっただろう。

 

「おかあは、やさしくていい人」

「そうじゃな、その通り。ちょっと、情熱的だっただけじゃ」

「すっごくやさしかった」

「そりゃそうじゃ、素直な心優しい娘だったよ」

 

 ポロリ、と。老人は母を偲んで涙を溢した。

 

「ああ、みく。お前もよく見るとサヨの面影があるのう」

「そりゃ、むすめだもん」

「一体どうやって、サヨが死んでから一年近く生き延びたんじゃ?」

「いえにこもってた。きっと、おかあが守ってくれたの」

「そうか、そうか」

 

 ポロポロと老人は流涙しながら、薄汚れた俺をしっかと抱き締めた。

 

「辛かったの。会いに行けずごめんよ。孫があの苛烈な空襲を生き抜いているなんぞ、思いもよらんでな」

「別に。ひとりでいきていけるし」

「……いや、もうそんな必要は無い」

 

 老人はそう言うと、静かに俺を抱き上げ。

 

「ワシの家に来なさい、みく。もう、一人で生きていく必要は無いんだよ」

 

 そう、言ってくれた。

 

「────でも。この家にはまだ、おかあが居る気がして」

「……分かる、分かるぞ。だがの、みく。きっとサヨは、お前に幸せになってもらいたい筈だ。だから、ワシと一緒に来てくれないか」

 

 大泣きしながら俺を抱き締める老人。

 

 彼に、きっと他意はないだろう。闇市で接した、生き馬の目を抜く連中とは違う優しい目だ。

 

 人のために涙を流せる人間の目だ。

 

「……ほんとに、良いの?」

「勿論だとも」

 

 こうして。俺は、母親の実家に引き取られることとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うそよ。からかっているんでしょう、孫が生きていたなんて」

「嘘なものか。みく、おいで」

「はい」

 

 でっけえ。

 

 何だこの家、ちょうでっけえ。薄々そんな気はしてたけど、やっぱりウチの母親は滅茶滅茶良いところのお嬢様だったらしい。

 

 ここは、首都圏を少し離れた埼玉よりの住宅街。空襲の被害を免れたこの街に、私の祖父だという老人の持つ家はあった。

 

「ほら、この目元を見て見なさい。小さい頃のサヨに生き写しだろう」

「……まさか、本当に? あの東京で、こんな小さな子が一人生き延びていたの?」

「この子の話から、間違いなくサヨの娘だと確信したわい。この娘、サヨの口調から好きな歌まで全部知っておったぞ」

「ああ、本当に!?」

 

 そんなでっかい家で私と爺を出迎えたのは、おそらく俺のおばあ様。爺と同じくらいの年の女性が、感極まって口元を押さえていた。

 

「おいで、みくちゃん。私が貴方の婆様よ」

「……婆様?」

「そうよ。ああ、本当にサヨの面影が有るわ! 今日は、今日は何て日なのかしら!」

 

 ひょっとしたら爺さんがテンション上がっただけで、婆さんは孤児の俺を家に受け入れたがらないかもと不安だったが。目の前の老婆は狂喜乱舞し、大はしゃぎで俺を抱きしめて飛び跳ねた。

 

 何だ、この喜びようは。

 

「うむ、うむ。今日はごちそうを出そう。みくの歓迎会だな」

「爺。ビスケットの缶、わたし持って来てるよ」

「お、おお? 英語……。そうか、米兵からこういうものを貰って生き延びとったんだな」

「うん」

 

 何やら、俺を歓迎すべく貴重な食料を使って歓迎会を開いてくれるらしい。

 

 世話になるばかりでは悪いから、俺は家に隠しておいた非常食を全て持ち出して来ていた。内容はビスケット缶3つと、乾パン半袋程。

 

 ざっと俺が、1~2週間は生きていける食料である。

 

「ありがとう、みく。じゃがの、もっと旨いものを食べたくないか?」

「うまいもの?」

「そう。……食べる相手が居なくなった、国からの下賜品よ」

 

 爺は寂しげにそう言うと、牛肉缶と書かれた缶詰を戸棚から取り出した。

 

「息子達が戦争に行って、戻ってきたのは数枚の紙と少し高価な食料のみ。まるで、戦死した息子を食うような気持になって、今の今まで食えなかったんじゃ」

「……この家にむすこが、居たの?」

「今は、ワシらだけしか住んどらんがな。皆みんな、死んでしもうた」

 

 老人は、そんな哀しい事実をポツリポツリと語りながら缶切りを手に取った。ああ、この家の若い男はみんな戦死してしまったのか。

 

「本当に、本当に良く生き残ってくれたのう、みくや」

 

 それで。おかあの遺品を引き取りにウチに来て、俺を見つけて歓喜したわけね。

 

 そりゃ喜ぶわ。全滅したと思っていた自分の子供や孫が、ひょっこり生き延びていたんだから。

 

「戦争が始まって以来、嬉しかったことなど何もなかったけど。まさか、こんな嬉しい日が来るとは思わなんだ。嬉しいのう、嬉しいのう……」

 

 その老人の心からの言葉に、俺は生きていて良かったと心から感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから数年間。俺は、いや「私」はその老人の家で平穏に暮らしていた。

 

 爺は私を甘やかしつつも、淑女としての礼儀をきっちり叩き込んでくれた。ありがた迷惑である。

 

「ワシらはいずれ死ぬだろう。だが、それまでにお前に見合う婿を探し出してやるから安心しろよ」

 

 本当に、ありがた迷惑である。

 

 婿って。そっか、私女じゃん。子供産まなきゃいけない感じじゃん。元男的には絶対にNo! なのだが、あいにくとそんな事を言い出せる雰囲気ではなかった。

 

「可愛いみくや、可愛いみくや。12代続く土建屋の社長の息子と、見合いが出来そうじゃ。準備をしておくようにの」

「分かりました、お爺様」

 

 本当に、こんな見合い話含めて迷惑この上ないのだけれど。一方でこのお爺様、完全に私への善意100%で動いているのである。

 

 口調も女らしく矯正されたし、立ち振る舞いもピシャリとさせられた。「俺」という一人称は当然許してもらえず、女言葉どころか丁寧口調まで義務付けられた。

 

 でも、世話になりまくっているためか爺様に逆らう気も起きず。気付けば、浮浪者孤児の盗人がいっちょ前な名家の令嬢に変貌を遂げていた。

 

 この時代の男は、何というかリーダーシップが凄いな。日本男児というか、逆らう事を許さないというか。

 

「むむ、調査したところ素行がちょっと悪そうじゃの。すまんが、先の見合いは無しじゃ」

「そうですか、分かりました」

 

 おかあがあんな性格になったのも頷ける。そっか、こういう教育を受けてきたからあんな性格になっちゃったんだな。

 

 ホンワカした丁寧口調の美人令嬢。私の父親は、よくそんな上物を落したものだ。

 

「みーくー。お料理始めるわよ、ちょっといらっしゃい」

「はい、お婆様」

 

 ま、私は駆け落ちなんぞする気はないが。これだけ世話になった相手を裏切るなんぞ、絶対にありえん。

 

 この爺様と婆様が満足するような相手と、きっちり結婚して添い遂げてやろう。まだ男と結婚するのは抵抗が有るけど、そんな事よりこの二人に対する恩義の方がずっとデカイ。

 

 孤児だった私を引き取って、ここまでに育て上げてくれたんだ。感謝するなと言う方が難しい。

 

「うん、お上手。どこに嫁に出しても、恥ずかしくないわ」

「そんな、まだまだ婆様には敵いません」

 

 今年で私も、15歳。いよいよ、結婚と言うものが現実味を帯びてくる年齢。

 

 爺様の探した相手を疑ったりするつもりはないけれど。どうせなら、優しくて性格の良い旦那が欲しいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、あ、あの。伊勢、雪次郎と、も申します」

「初めまして、雪次郎様」

「はっ初めまして!!」

 

 大丈夫かコイツ。

 

「みくや、彼はまだ若くありながら新進気鋭な鉄鋼業会社の若社長でな。家柄も良く、頭も回り、資金力も素晴らしい」

「まぁ。雪次郎様は、とても素敵なお方なんですね」

「い、いえ、恐縮です」

 

 なんか噛み噛みですやん、雪次郎様。あー、緊張してるのか?

 

 いや、このドモリ方は素な気がする。普段から人と喋るのが苦手なタイプだ、この男。

 

「あ、あ、あの、その。えっと、みくさんは、何かご趣味とかは」

「生け花を。お婆様に教わりながら、手慰み程度に嗜んでおります」

「あ、ああー、素敵ですね、素敵です!」

 

 誉める語彙を、もうちょっと何とかしろや。素敵連呼て。

 

「雪次郎様は、何か嗜まれているのですか?」

「ぼ、ぼぼ僕は、その、野球観戦が好きでして」

「あら、活動的な良い趣味ですね。どこのチームがお好きなんですか?」

「きょ、巨人軍の─────」

 

 ちらり、と爺様の顔を見る。

 

 爺様は、とても満足そうに私と雪次郎様を眺めていた。爺様のこの態度、つまりは上手く行って欲しいのだろう。

 

「ぜ、全盛期の、沢村の直球は本当に凄くてですね!」

「あら、まぁ」

 

 よし、ならば話を合わせよう。爺様の期待に応えるためにも、雪次郎の気に入る様に話題を誘導していこう。

 

 ちょっとアレな空気は出ているけど、きっとこの男は爺様の認めた私の婿にふさわしい男なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その、雪次郎との逢瀬は何度か続いた。初めて会った日に彼は面白みのない人間に感じたが、彼は存外に仕事ができるらしい。社長として働いている姿を覗き見した時は、ハキハキと元気よく部下に指示を飛ばしていた。

 

 あのドモリは、私に対してのみの様だ。

 

「彼はの、みくにベタ惚れしとったのだよ。見合い写真を見た瞬間に恋に落ちたらしくての」

「そうだったんですか、雪次郎様」

「浮気なぞしなさそうな真面目そのものといった性格。既に軌道に乗り、グングンと勢力を拡大させつつある会社の社長で、おまけにみくに惚れこんどると来た。そして、このワシの家に身一つで『娘さんとお見合いさせてください』と土下座しにくる度胸もある」

「そんな事をなさってたんですか」

「ああいう男が、一番女を幸せにするもんよ。信じてやりなさい、みく」

「分かりました、お爺様」

 

 やはり、お爺様は私の事を大事に考えてくれていた。

 

 あの男を爺様が信用しているなら、私は爺様の信じた彼を信じるのみである。

 

「私も雪次郎様を好ましく思っております。お爺様、私は嫁に行って参ります」

「ああ、そうか。そうか、そうか。一つ、大きな肩の荷が下りた」

 

 私の言葉を聞いた老人は、空を見上げて大粒の涙をこぼした。

 

 

 

 

 

 その数日後。

 

 爺様は、病で床に伏せった。

 

「安心したからかのう」

 

 爺様は、既に御年70以上。私のためにそこら中を駆け回り、見合い相手を探した無理がたたったのかもしれない。

 

「お爺様、お加減は如何ですか」

「ああ、今日はいい気分だ、みくや」

 

 この時代の平均寿命は、とても短い。

 

 この老人は、もう大往生と言える年齢の人間である。

 

「ゴホ、ゴホ」

「お爺様、無理をして喋る必要は─────」

「いや、もう少し喋らしてくれい。もう、みくと話をする時間はあんまり残ってなかろうて」

 

 高熱を出して咳込む爺様。婆様も、悲痛な面持ちでそんな彼を見つめている。

 

「お医者様のお薬が効いてないのかしら」

「いやいや、もう寿命なんじゃろ。ワシももう随分生きた」

 

 そう言って笑う祖父の顔には、はっきり死相が浮かんでいた。

 

 私の足が震えているのが分かる。少しずつ動悸が出て、徐々に息が荒くなる。

 

 ああ、嫌だ。

 

 この感覚は。この耐えがたい恐怖は。間違いなく、家族を失う恐怖─────

 

「みくや」

「何でしょうか、お爺様」

「幸せにおなり。お前と出会えて、お前を引き取って、ワシの人生は幸福じゃった。子供も孫もみんな死んじまった絶望の果てに、出会えたお前は天からの授かりものじゃった」

「─────そんな、別れ際の言葉の様な」

「遺言じゃと思って聞いとくれ。みくや、雪次郎というあの男はワシの親友の孫でもあってな。アイツの祖父は、それはそれは良い漢だった。彼の血筋なら、きっと任せられる」

「そうなのですか?」

「くっくっく。あの男は一見頼りないように見えるが、中身は獅子ぞ。お前も獅子の妻となりて、共に日本を駆け回ると良い」

 

 ……遺言。それは死にゆく者が、残されたものの心に贈る命の残滓。

 

 怖かった。家族を失うのが怖くて仕方がなかった。それは、トラウマと言っても過言ではない。

 

 おかあと兄が死んだその日から。私は、大切なものを失う事に耐えられなくなったのだ。

 

 また、居なくなるのか。私の大好きな家族が、また─────

 

 

「お取込み中失礼します、お義祖父様」

「……雪次郎様!?」

 

 爺様の遺言を聞き、その場で倒れ込みそうになった瞬間。

 

 無粋にも部屋の扉を開き、押し入って来た男が居た。

 

「─────お、おお? 雪次郎君?」

「少し、みくさんをお借りします」

 

 そう、それは今まさに話題に上っていたその男。私の婚約者、伊勢雪次郎その人であった。

 

「え、ちょ、ちょっと?」

「良いから、来てください」

 

 彼は部屋に押し入るや否や。私の手を引いて、颯爽と部屋から連れ出してしまった。

 

 何だこの男は。今、大事な大事な爺様との最期の時間にいきなり割って入って来て、何を─────

 

「みくさん、君に着物を届けに来た」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お、おお」

 

 彼はその場で、私を礼装に着付けあげた。白無垢の高価な着物を、手際よく一瞬の間に。

 

「ほ、本当は、式まで隠しておく贈り物だったんだけどね」

 

 その意図を察した私は、婆様の部屋で化粧を行い。数分後、雪次郎と共に再び爺様の部屋を訪れた。

 

 その出で立ちはまさしく、

 

「まぁ、まぁ……」

「花嫁、衣装─────」

 

 新郎新婦の御入場、ってね。くそ、意外と粋なことを考えるなこの男。

 

 爺様が危篤だと知らせを受けた雪次郎は、その足で着物屋に走って自分と私の衣装を受け取っていたらしい。全ては、この姿を爺様に見せるために。

 

「おお、おお。みくが嫁に行く─────」

 

 爺様だって私の男親だ、娘の花嫁衣裳を見る前に死んでは死にきれまい。それを、この男は機敏に察したのだ。

 

「可愛いぞ、美しいぞみく……、おお、おぉー」

 

 ポロポロと数珠の如く連なる涙をこぼし。老人は鼻水まみれになり、笑顔で大泣きしていた。こんな爺様を見るのは初めてだ。

 

 そんな大好きな爺様に。私は満面の笑みを作り、涙を隠すようゆっくり頭を下げた。

 

 

 

「─────お爺様。今まで、ありがとうございました」

 

 

 

 その数日後。祖父は、肺炎で亡くなった。

 

 だけどその死に顔は、何の悔いも無さそうな晴れやかなモノだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 20歳になった日、私は無事に伊勢雪次郎と結婚を果たした。婆様の見守る前で、私は彼と生涯の愛を誓った。

 

 本当はもっと早く結婚する予定だったのだが……、実は私の方の覚悟がなかなか決まらなかったので待ってもらっていた。何がって? そんなもん初夜に決まっとろーが。

 

 まぁでも爺様の遺言でもあるし、今更婚約破棄とかありえないので腹をくくり。20歳の誕生日を節目に、私の方から結婚を申し込んだ。

 

 私はもう、女として生きた年数の方が長い。なので女として生きる事に抵抗がなくなってきた。

 

 そもそも、今では本当に「俺」は存在したかも怪しいと考えている。実は彼は、私の妄想の作り出した未来日本の物語の主人公なだけかもしれない。

 

 だから意を決し、雪次郎様に身を預けることにした。

 

 

 

 ちなみに、心配していた初夜は結構優しくしてもらえた。

 

 

 

 そして、夫婦になって改めて実感した事が有る。財閥が解体され荒れ狂う経済の中、起業し事業を波に乗せた雪次郎様はやはり傑物だったという事だ。

 

 妻として留守を守りつつ、時折仕事場を片付けに行ったりしていたのだが。職場での雪次郎様の評価は、部下から半ば神格化されているくらいに高かった。

 

 曰く『十年先を見据えて指示を出すから指示の意味を理解するのが難しい、だけど社長の指示が的外れだったことは一度も無い』らしい。化け物かな?

 

「雪次郎様は、やはり私の理想のお方でした」

「そ、そ、そうかい? は、ははは……」

 

 このドモリさえなくなれば、もっと格好いいんだけどなぁ。

 

 あの今は亡き私を溺愛していた爺様が、私との結婚を許しただけはある男だという事か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数年後。

 

「ふんばれ!! ふ、ふんばれ、みく!!」

「ん~!!」

 

 気合一発、ひりだして。十数時間の格闘の末、無事に私と雪次郎様の間に第一子が生まれた。

 

 それはおぎゃあと大きな声で鳴く、真っ赤な赤ん坊だった。

 

「女の子ですよ」

「頑張った、がんばってくれたなみく……!! ありがとう、ありがとう」

「大げさですよ、雪次郎様」

 

 相談の結果、娘の名前は『美雪』と名付けた。そう、私と雪次郎から一文字づつ分け合って付けた名前である。

 

 安直ではあるが、可愛い名前だから私的にも満足だ。次に男の子が生まれたら、久次郎とかになるんだろうか。そっちも割といい名前な気がするぞ、そういや前世の父もそんな名前だった。

 

「こうなると子供部屋も欲しいな。近々新しい家を用意するよ、みく」

「嬉しいです、雪次郎様」

 

 子供は何人作ろうか。それぞれが大きくなった時の為に、もっと大きな家に住もう。

 

 せっかくだから、今は一人で暮らしている婆様も呼べる家になるかもしれない。因みに婆様は、爺様より17歳も年下なのでまだまだ元気だったりする。

 

 ああ、夢が広がっていく。

 

「君がきっと、気に入る家を用意するよ」

「愛しています、雪次郎様」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「─────えっ」

 

 元気に泣く赤子を腕に抱いて。

 

 私が雪次郎様に連れられてやって来た新居を見て、私は呆けた声を出した。

 

「どうしたんだい、みく? まさか、気に入らなかったのかい?」

「あ、その……何でもありません、少し既視感を覚えましたの。夢で見た景色とあまりに似通っていて」

「そうなんだ。不思議なこともあるもんだね」

 

 知っている。

 

 ああ、私は─────いや、『俺』はこの家を知っている。

 

 だってここは、俺が幼い頃に何度も来た─────

 

「ここが、僕達の屋敷さ。子供部屋も複数用意している」

「素敵です、とても。そう、既になじみ深いような……そんな家」

 

 

 

 ─────父方の、祖母の住んでいた家だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中に入って、内装を見て確信した。

 

 間違いない。この家は、『俺』のばあちゃんの家だ。

 

 待て、待て、待て。嘘だろ、そうか、そういえば。

 

 前世の俺の父は母の家に婿養子で入って名字が変わってしまったけど。元々の父の苗字は─────『伊勢』だったような。

 

 覚えている。覚えている。

 

 俺が遊びに行くと、しわくちゃの顔を笑顔にして可愛がってくれた祖母を。物心付いたときには祖父は他界していたが、祖母は一人ポツンとその家に住んでいた。

 

 その、祖母の名前。俺が幼い頃に死んでしまった、そのばあちゃんの名前は。

 

 ─────『伊勢みく』だ。

 

 じゃあ、何か。私は、自分が自殺した後に祖母に生まれ変わったのか!? な、な、なんじゃそりゃあ。

 

 じゃあ、次に生まれる子供は久次郎確定ですやん。前世の父親ですやん。

 

「気にいってくれたかい、みく」

「ええ、とっても」

 

 動揺するな。落ち着け、私。

 

 あれは夢だ。きっと、前世の人生の記憶なんてものは私の妄想の産物に過ぎない。

 

 俺、なんて居ない。「私」は伊勢みくだ。何もかもタチの悪い妄想だ。

 

「少しだけ甘えてよろしいですか、雪次郎様」

「……え?」

 

 必死で自分を誤魔化し取り繕おうとして、何とか平静を保とうとしたけれど。とうとう表情が崩れかかったので、私はそっと雪次郎様に肩を預けた。

 

「女は、気まぐれに気が弱くなる時が有るのです。少しだけ、抱きしめてくださいませんか」

「えっ、えっ? あ、ああ」

 

 落ち着け、落ち着け私。

 

 動揺するな。変な妄想を垂れ流して夫に心配をかけるな。

 

 ほら、ここには雪次郎が居る。私を守ってくれる人が居る。

 

 ふと、自分の夫を見上げてみると。彼は心配そうに私の顔を覗きこんで、優しくて髪を撫でてくれていた。

 

「─────ありがとうございます、もう大丈夫です」

「そ、そうかい。君がそんな、弱みを見せるのは珍しいね」

「お恥ずかしい事ですわ」

 

 愛の力はすごい。愛する旦那に抱きしめて貰ったら、何故か一瞬で心が落ち着いた。

 

 女って、結構ちょろい生き物かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌年。

 

 私は男児を出生し、名を久次郎と名付けてしまった。

 

 伊勢久次郎。私の記憶が妄想でなければ、前世の『俺』の生みの親である。

 

 その生みの親は、一心不乱に私の乳房に吸い付いて授乳されていた。

 

「可愛い坊や、たんと吸いなさい」

 

 母性本能刺激されるわぁ。前世の父親と思うと思うところがないでもないが、私の目の前に居るのはひ弱で可愛い新生児である。

 

 こんなの愛でるに決まっている。可愛すぎるだろう。

 

「かかぁー」

「はいはい」

 

 そして、美雪もすくすくと成長し最近では言葉をしゃべるようになった。簡単な言葉だけではあるが、我が子が喋っている姿ほど愛おしいものはない。

 

 育児は女の仕事、と言う時代背景なので雪次郎様に子育ての助けを求めることはせず。代わりに我が家に転居してきた家事師匠の婆様の力を借り、育児や家事をこなしていった。

 

 一人で子育てと家事を両立するの、物理的に無理だわコレ。成程、昔は祖父母同居が多かったから父親は育児に参加せずに済んでたのね。数十年後、父親が育児を手伝わされるのが当然な世論になる理由が分かった。

 

「いないいない、ばー」

 

 だが、やりがいもある。我が子と言うのが此処まで可愛いとは知らなかった。どれだけ苦労をさせられても、笑顔を向けられたらついつい許してしまいそうになる。

 

「べろべろべろ……」

 

 きゃっきゃ、とあやされて嬉しそうに笑う久次郎。私は今、最高に満ち足りていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……の、だが。

 

「これはどういう事でしょうか雪次郎様?」

「違うんだ。それは誘われて、断れる相手では無くてだね……」

 

 それは、夜遅く酔っぱらって帰ってきた雪次郎様を出迎えた時。

 

 なんと雪次郎様の上着から、エッチなお店の割引券がポロリしたのだ。ああ、昭和の男はそういう店に行くのが付き合いとは聞いた事が有ったけど。

 

 まさか雪次郎様まで利用しているとは思わなかった。 

 

「私は雪次郎様を信用しております。何か、やむにやまれぬ事情が有ったのであろうと」

「そ、そうなんだ。実は、その、提携相手の社長がどうしてもと─────」

「ですが。どうか私の器量が狭いとお笑いください、雪次郎様がこのようなお店を利用されると知って、胸が張り裂けんばかりに痛いのです。まさに、死ぬより辛い苦痛を感じております」

「……うっ。それは、その。本当に申し訳なかったと」

 

 顔を蒼白にして、平謝りをする雪次郎様。うーん、彼が不倫をしたりする人間でないのはよく知っている。本当に、誘われて断り切れずに行ってしまっただけだろう。

 

 とはいえこの雰囲気だと、あっさり許したりしたら誘われてまた行きそうだな。ここは、きつめに脅しをかけておくか。

 

「次にそのようなお店に行ったことを知ってしまえば、私はきっと耐えられません」

「わ、分かった。気を付ける……」

「それに気づいてしまった時は。私は夜にひっそりと、自刃して果てる覚悟にございます」

「え、ええええ!?」

 

 こんくらいでいいか。

 

「ゆめ、お忘れなきよう……」

「は、ははは、絶対にもう行きません……」

 

 よし、雪次郎様の顔が引きつった。これは勝ちだな、少なくとも暫くは自重するだろう。

 

 何なんだろうな、この『浮気は男の甲斐性』とか言って許される風潮。私は許さんからな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、私と雪次郎様が結婚して十年ほどの月日が経った。

 

「久次郎! どうだ、野球しないか」

「分かった、父さん」

 

 私もついに、三十路の大台に乗る。この時期になると、大分前世の日本に近い文化水準になって来た。

 

 テレビ、冷蔵庫、洗濯機。いわゆる三種の神器が世に出回り始めた頃である。

 

 そして、東京もだいぶ近代化した。東京オリンピックを契機に道路がほぼ舗装され、ビルが乱立し始めた。

 

 また今まで超高価だったカラーTVが普及し始めたり、日本はまさに文明の過渡期と言える混沌を見せていた。

 

「またお父さん、久次郎と野球してる。何が楽しいんだか」

「あの人は、休日に子供とキャッチボールするのが夢と言っていましたからね」

 

 雪次郎様と相談し、子供は久次郎と美雪の二人だけで止めることにした。敏腕社長たる我が夫のお陰で沢山の子供を育てられる程に裕福だったが、単純に3人の子供を育てるだけのマンパワーが足りなかった。

 

 と言うのも、私が久次郎を産んでから婆様が年で弱って来て育児が厳しくなってきたのだ。

 

 そしてとうとう婆様は、3年前に孫と私達夫婦に囲まれ老衰で自宅の布団の中で亡くなった。享年74歳、婆様も大往生と言えるだろう。だけどこれで、私の家族は雪次郎様と子供たちだけになってしまった。

 

 実は雪次郎様の実家のご両親に『自宅に来ないか』と誘われたのが、雪次郎様がかなり嫌がったためにご破算となった。どうやら、雪次郎様は親と仲が悪いらしい。

 

「次男坊だからって散々な扱いをした癖に、いざ僕の方が出世したらすり寄ってくるんだから」

 

 との事。向こうの跡取りさんは両親の後を継いで小売り業者を営んでいるらしいが、雪次郎様は一人実家を飛び出して戦後の荒波のなか起業し成功したのだ。

 

 やはり、雪次郎様はすさまじい。

 

「痛っ。母さん、指切った……」

「あらあら。救急箱を持ってきますね、水で傷口を洗い流しておきなさい」

「はーい……」

 

 そして。私は美雪に、婆様から教わった通り花嫁修業を課していた。

 

 私には、爺様の様な見合い相手を探し出してやるパワフルさはないけれど。この娘の未来のため、炊事洗濯を仕込んでやるくらいの事は出来る。

 

 雪次郎様の様に強く戦後を生き抜く能力は無いけれど。雪次郎の様な男と結婚できるように、娘を育て上げるのが私の仕事である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして気づけば。私はもう、おかあの死んだ年齢を超えてしまっていた。

 

 私はおかあより年上なのだ。それはとても、不思議な気分だった。

 

 私はおかあの様な、子供に慕われる母親になれているだろうか? 爺様の様な、子供に感謝される親でいてるだろうか。

 

 それは分からないけれど。ただ、目の前の日々を駆け抜けるように生きていく大変さを私は実感していた。

 

 子供達は素直で、いい子だ。美雪はすこしおしゃまだし、久次郎は頭が悪いけどどちらも心優しい子に育ってくれている。

 

 ああ、幸せだ。今の私が有るのは、間違いなく爺様と婆様のおかげだ。

 

 あの日、私を引き取って育て上げてくれたからこそ、今の私の幸せが有る。その恩を、私はこの子供たちに返さねばならない。

 

 親への恩は子に継がせ。子は孫に、その恩を紡ぐ。

 

 そうやって、人間は子孫へ代々と命の脈を紡いでいるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「母さん。俺、好きな子が出来たんだ」

「どんな子ですか?」

「意地っ張りな、捻くれた娘。でも、照れ屋なだけで分かりやすい奴だよ」

 

 久次郎が、高校に進学した頃。

 

 ついに、奴は出会ってしまった。

 

「同じ高校ですか?」

「そう。一文字って女子なんだけど─────」

 

 一文字。それは、前世の俺の苗字である。

 

 前世の両親の出会いは高校だと聞いていた。だから、近々そうなるんだろうなと予想はしていた。

 

 ついに、その時が来てしまっただけだ。

 

「俺、彼女を父さん母さんに紹介したい」

「……ふむ。分かりました、雪次郎様と日程を調整してみます」

「ありがとう、母さん」

 

 いや、もう付き合っとんのかい。てっきり恋愛相談でもされるのかと思っていたけど……案外に手が早いな久次郎。

 

 というか高校生で両親に挨拶って、気が早すぎないか? いや、まぁお前らそのうち結婚するし別にいいんだけど。

 

「あと、俺も向こうの親に挨拶に行った方が良いよね?」

「それは、貴方が自分で決めることですよ久次郎」

「─────分かった、じゃあ行ってくる」

「そうですか」

 

 そうだね、どっちかって言うとお前の方が大事だよね。男が「娘さんを僕にください」ってするもんだからね。

 

 あれ? でも、久次郎が婿に行くわけだから……。前世のママンが私たち夫婦に「久次郎を私にください!」になるのか?

 

 まぁ、その辺はどっちでも良いけど。雪次郎さん自体分家の次男坊だし、伊勢の家は別段大事にしないといけない家じゃないし。

 

「俺、父さんに聞いたんだ。母さんを落す時、独りで結婚相手の家に乗り込んで土下座かましたって。俺もやってみる!」

「……いや、その行動はどうでしょうか」

 

 それは正直、やめとけと思わんでもない。豪快な爺様だから通じた作戦だと思うぞ、それ。

 

 後、今だから正直に言うけど。婚約初期は雪次郎さんが好きと言うより、爺様への恩義で結婚すると決めたからな私。今は普通にラブラブしてるけど。

 

「くれぐれも。嫁入り前の人様の娘に、妙なことをしてはいけませんよ」

「わ、わかってらい!」

 

 一応、息子に釘を指しておく。最近の若者はどんどん貞操へのモラルが薄まっていると聞いた。

 

 まあ将来的には、結婚するまで処女とかあり得ない時代が来るのだけれど。それでも、まだ今のご時世でデキ婚は許されない。

 

 久次郎には紳士に、美雪には淑女に育って貰いたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして。雪次郎様が近場の料亭の一部屋を借りきって、私達夫婦は久次郎とその恋人である一文字と面談した。

 

 彼女の名は一文字桜。間違いない、滅茶苦茶に若いけど『俺』の母親だ。

 

 雪次郎様は、かつてなく険しい顔で一文字桜を睨んでいる。その理由は想像がつく。

 

 ……茶髪に染め上げた頭の悪そうなギャル。それが、一文字桜の第一印象だった。

 

 え、オカンは若い頃こんな風だったの!? 爺様や雪次郎様が死ぬほど嫌いそうなタイプじゃないか。

 

 しかも、その一文字桜が言い出した内容がまた凄まじい。

 

「────はぁ!? 久次郎、お前が婿にいくだと!?」

 

 知ってた。前世で一文字姓を名乗っていた訳だし、久次郎はそう言う話になるよな。

 

「久次郎、お前は家を捨てるつもりか!」

「違うんだ父さん、聞いてくれ」

 

 慌てて久次郎が弁明を始めたが。要は彼女の主張は、一文字と言う名字がカッコ良くて気に入っているから変えたくないとの事。伊勢の家はそんな大事なモノじゃないなら、婿養子に来てくれと。

 

 ふざけた理由だと思った。よくそんな話を持ってこれたなこの女。

 

「出ていけ。今後、その女が家の敷居を跨ぐことは許さん」

「はぁ!? 私は結婚してくれって土下座までされたから来てあげたんですけど!?」

「お前のような女、うちには必要ない。久次郎と別れろ」

「何でそこまで言われなきゃいけない訳!?」

 

 とまぁ、ブチ切れた雪次郎様は一文字桜を出禁にした。当たり前である、私もちょっと腹に据えかねる話だった。

 

「て言うか! もう子供も居るのに、今さら別れるとか無理なんですけど!」

「……は?」

 

 その一文字桜の発言に、思わず呆けた声が出る。

 

 まさか、まさか久次郎。やりやがったのか。

 

「どういうことだ。久次郎ぉ!!」

「その、ごめんなさい、父さん、実は」

 

 や、やりやがったな。やりやがったなこのバカ息子。

 

 性欲に負けて、よそ様の娘を傷物にしやがったな。

 

「────久次郎、出ていけぇ!! お前も、2度とうちの敷居を跨ぐなぁ!!」

「と、父さん!」

「とっとと失せろ、痴れ者め!!」

 

 ふらり、と私は頭を押さえて倒れ込み。雪次郎様は激怒して久次郎を怒鳴る。

 

 信じたくなかった。自分は、精一杯手をかけて久次郎を教育してきたつもりである。息子がこんなモラルの無い事をする、馬鹿だと思いたくなかった。

 

「出ていけぇ!!」

 

 久次郎を勘当したあと。私は、久次郎への教育を間違えたことを夫に慚愧した。雪次郎様は、そんな私を抱き締め共に泣いていた。

 

 もう結構な歳になり、それなりに成長したつもりだったが。家族を失うと言う辛さは、いつになっても衰えないものだ。

 

 久次郎は、これからどんな人生を歩むのだろう。実家から見放され、あんな馬鹿女と生きていかねばならぬのだ。

 

 手塩をかけて育てた息子が、どんな不憫な人生を送るのか。考えただけでも、吐いてしまいそうである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねー父さん、母さん」

 

 数年間、久次郎から直接は何も音沙汰が無かった。ただ、こっそり美雪と手紙のやり取りを続けているらしい。

 

 一文字桜のお腹の子は、流れた様だ。話によると、一文字桜は煙草を吸うらしい。きっと、そのせいだろう。

 

 その話を聞いて、美雪は久次郎を慰めにいったとか。姉弟の絆はしっかり保っているようだ。

 

「そろそろ久次郎、許してあげたら?」

「いかん。そんなことより美雪は、早くお見合い相手を決めろ」

「うげぇ、またその話? 私はお見合いとかしたくないの。もう古いって、そんな結婚」

 

 私としては美雪と久次郎がやり取りしている事を、咎める気はない。久次郎の近況が聞けるのがありがたい。

 

 雪次郎様も、同様に考えている節がある。本音を言えば、一文字桜と別れて実家に戻ってきてほしいのだろう。あいつら、少なくとも『俺』を産んで18に育てるまで結婚したままだけど。

 

「美雪さん。お見合い結婚は決して悪いものではありませんよ」

「時代が違うの、時代が。どうせなら好きな相手と結婚した方が幸せだって」

「その考えを否定する気はありません。ですが、お見合いから結婚したとしても幸せになれると言うのも覚えておいてください」

「んー、分かった」

 

 そして、美雪は大分行き遅れていた。四捨五入して30歳という、当時の結婚適齢期的にギリギリの数字になってきている。

 

 言い訳はいいから、お前はとっとと見合いしろ美雪。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 と、まぁ。美人の癖に中々結婚できなかった美雪にも、とうとうその日が訪れた。

 

 曰く、紹介したい男が居ると。よし来た、どんな男か知らないけれど私が見定めてやろう。

 

 雪次郎様と共に意気込んで、美雪の言う「理想の相手」と会ってみたら。

 

「頼んますぅ!! どうか、どうか私に娘さんをください!! 絶対、絶対に世界一幸せな女にしてみますんで!」

 

 ……うちの娘はまた、濃い奴を連れてきたな。

 

 見た目は完全に関西弁の怪しいオッサン。少々油ギッシュな、髪の薄い小肥りの男性だ。お世辞にもハンサムとは言い難い。

 

 だが、こんななりして美雪と同い年らしい。老けすぎだろ。

 

「……君、仕事は何をしているんだ?」

「はい、銀行員をしとります」

 

 む。成る程、ならば収入は有るんだな。

 

 だが、美雪を預ける相手だ。収入だけで決めるつもりなど毛頭ない。

 

「貴方と美雪は、どのように出会ったのですか?」

「趣味のボランティア活動しとるときに、一緒になりまして。話をしとるうちに、僕の方から美雪さんに惚れ込んでしもたんですわ……。彼女は天使、僕の前に舞い降りた本物の天使! 運命を感じまして、何とかデートの約束させてもろたんです」

 

 おお。ボランティアが趣味とは、なかなか。

 

 美雪も、天使扱いされて照れ照れだ。案外、仲睦まじい様子。

 

「僕は誰よりも、美雪さんを幸せにする自信があります。お義父さん、信じてください!」

「む、む、む」

 

 

 

 そして、雪次郎様は二人の結婚を認めた。

 

 一文字桜の1件で、結婚相手のハードルが大分下がっていたのも効いたのだろう。

 

「こんな不細工な旦那なら、浮気とか出来ないだろうし!」

「あっはっは、美雪さんは手厳しいなぁ」

 

 そして、何より二人はすごく相性が良さそうだ。それが、一番の決め手だったかもしれない。

 

 雪次郎様が認めたなら、私としても反対する理由はない。破顔し合う新たな夫婦を、雪次郎様は寂しげな目で見つめていた。

 

「あのね、彼は転勤で地元の大阪に移り住む予定なの」

「そうか。寂しくなるな美雪」

「たまには大阪に、遊びに来てね」

 

 そして、二人が婚約した翌年。美雪は家を出て、夫婦共々大阪に旅立ってしまった。

 

 雪次郎様の、寂しくも嬉しそうな顔が忘れられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「終わりましたね」

「……」

 

 そして。子供部屋二つが空っぽになり、広い自宅に老いた夫婦だけが残された。

 

「久次郎の奴は、まだ終わっとらん。あの男が改心して頭を下げに来るまで、親であることを止められん」

「雪次郎様も強情ですね。……ふふ、お爺様を思い出します」

「……僕は、義祖父の様にはなれなかった。みくをこんな素晴らしい女性に育て上げたあの人こそ、僕の目標だった人だ」

「そうでしたの。……ふふ、ちょっと似てきたと思いますよ。私は」

「そう、かな」

 

 思えば、長いようで短かった。

 

 30年弱。雪次郎様と結婚してから、そんな莫大な年月が流れたと言うのに。

 

 お爺様に話し方を怒られたのが、つい昨日の出来事の様に思い出される。

 

「久次郎も、きっと上手くやりますよ。貴方の子ですもの」

「……だと、良いが」

「ええ、きっと」

 

 そんな、静かになった我が家の庭で。

 

 私と雪次郎様は二人並んで座り、体を寄せあった。

 

「お疲れ様でした、雪次郎様」

「今まで僕について来てくれてありがとう、みく」

 

 久方ぶりの。老いた恋人との、二人きりの生活が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だけど。

 

 私達は、もう老いていた。人間は、歳に勝てる存在ではない。

 

 美雪が出ていって、1年ほど。雪次郎様は、唐突にバタリと仕事中に気を失って倒れてしまった。病院に駆けつけて話しかけてみるも、うんともすんとも反応がない。

 

 

 ────脳卒中。それが、医者の診断だった。

 

 

 それは本当に、唐突だった。子育てが終わってやっと余生だと言うタイミングで、病魔が雪次郎を襲ったのである。

 

「貴方、貴方。聞こえますか?」

 

 口の中に管を突っ込まれ、ピーピーとうるさい機械に囲まれた雪次郎様。私の声に反応することもなく、彼は黙ったまま。

 

 医者によると、意識が戻るかは半々だと言う。そして、意識が戻らなければ私の最愛の人は死ぬと言う。

 

 ……そう。このままだと私は齢50半ばにして、また家族を皆失ってしまうのだ。

 

「雪次郎様。雪次郎様」

 

 皺が寄った手で、真っ白な雪次郎様の顔を撫でる。

 

 こんな別れ方は嫌だ。貴方にはもっと、もっと幸せな日々を過ごしてもらいたい。

 

 お爺様から私を託された日からずっと。ずっと私を幸せな女でいさせてくれた、雪次郎様にはまだ伝えきれてない感謝の言葉があるのだ。 

 

「私を一人にしないでくださいまし……」

 

 その日私は病院に泊まり込み、一晩中ハンカチを濡らし続けた。

 

 

 

 翌日。雪次郎様は目を覚まさなかった。

 

 雪次郎の会社の社員達が、揃って見舞いに来た。誰も彼もが雪次郎様を慕っており、老いてなお彼が傑物だった事を伺わせた。

 

 明くる日も、明くる日も。私は微動だにしない雪次郎様の手を握り、目を覚ます日を今か今かと待ち続けた。

 

 雪次郎様の人望は凄まじい。友人を名乗る商談相手が見舞いに来たり、行きつけの酒場の店主が見舞いに来たりと妻としては慌ただしい日々だった。

 

「お父さん!」

「美雪。到着したのですね」

 

 雪次郎様が倒れてから、二日。知らせを聞いた美雪が、遙々大阪からやって来た。

 

「あぁ、まだこれからでっしゃろに……」

 

 義息子の大阪弁も、一緒に到着。彼は雪次郎様との接点はあまり無かったというのに、美雪と並び雪次郎様の手を握って涙を流している。

 

 案外、情に脆い男らしい。

 

「お母さんも、無理してない? だいぶやつれてるよ」

「私は何ともありません。今大変なのは、雪次郎様なのですから」

「いやいやいや。義母さん、あんたも相当キテますって。こんな大変な事態やからこそ、しっかり休む時間も作りなさいよ」

「そうよ。……今は私がお父さんの傍に居るからさ、ちょっと寝とけば?」

「妻として。雪次郎様が目を覚ました時に、最初に声をかけるのは私であるべきなのです」

「……んー。お母さんらしいけどさぁ」

 

 娘夫婦は、雪次郎様の心配だけでなく私の心配までしてきた。

 

 舐めて貰っちゃ困る。私は東京大空襲を一人で生き延びた女だぞ。2、3日眠らないくらい、どうってことはない。

 

「────っ」

「……あっ!?」

 

 私に休むよう説得している娘夫婦を、捌いていると。ふと、病室の外に見知った顔があった。

 

「親父……、本当に倒れたのか」

「久次郎……」

 

 それは。数年前に勘当した、バカ息子の久次郎だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今さら、何のつもりで顔を見せたのですか久次郎」

「あ。いや、その……」

 

 久次郎と、その妻である桜。縁を切った筈の二人が、揃って雪次郎様の病室を訪れていた。

 

「お、お母さん。今はこういう事態だし、久次郎だって本当は────」

「おだまりなさい、美雪。私は久次郎と話をしているのです」

 

 流石に、父親の死に目が気になったのか。

 

 しどももどろになりながらも、久次郎は私の目を見返してきた。

 

「父さんに、謝りたくて」

「何をですか?」

「い、色々」

 

 要領を得ない、久次郎の言葉。あの傑物たる雪次郎様の子供とは思えない。

 

 だけど。

 

「色々、俺は拙かった。桜が好きで、それ以外の事が何も見えてなかった。でも、謝りにいく勇気がなかった」

「それで」

「……親父が倒れたって聞いて。それで俺、訳がわかんないくらいに混乱して。気付いたら、桜と一緒に此処まで来てた」

 

 久次郎は、よく考えないままに此処まで駆けて来たようだ。だけど、覚悟だけはしっかり決まっていたらしい。

 

「勝手でごめんなさい、お母さん。どうか、どうか俺に、父さんに謝る機会をください」

「今の状態の雪次郎様に、ですか?」

「今のお父さんにだろうと、届く言葉で謝ります」

 

 あやふやな言葉とは裏腹に。久次郎は、しっかりと母たる私の目を見つめて頼み込んだ。

 

 ……ふむ。

 

「───やってみなさい」

「ありがとう、母さん」

 

 久次郎は歩く。

 

 まっすぐ、痩せ細り真っ白になった雪次郎様の枕元へ。

 

 汚い病室の床。彼はそこに座り込み、静かに土下座を決め込んだ。

 

 

 

「親父、ごめん」

 

 ぽつり、ぽつりと久次郎は言葉を紡ぐ。

 

「俺はあんたを古臭い男だと思ってた。俺の気持ちなんか理解せず、上から目線で価値観を押し付けてくる老害だって思ってた」

 

 それはきっと、久次郎の本音なのだろう。

 

「でも。親父は、ただ俺に真っ直ぐ育って欲しかっただけなんだよな。俺が道を踏み外さないよう、親としてしっかり責任を果たしていただけなんだよな」

 

 久次郎の声が、少しずつ震えてくる。

 

「親父。俺さ、親になったんだ。桜も煙草止めてさ、ちゃんと子供作ろって話になってさ」

 

 みれば。一文字桜の抱えるその手に、小さな赤ん坊が居た。

 

 ……ついに、子供が出来たのか。

 

「怖い。子供育てるって怖いんだな親父、全然知らなかったよ。俺は、親父とは違う理解のある親になろうと思っていたけど……」

 

 その、赤ん坊はすやすやと眠っている。

 

 母親の手の中で、静かに揺られながら。

 

「……どうやって子供育てたら良いのか。どうやって教育したらいいのか。そう考え始めた時、俺は小さい頃にぶつけられた親父の言葉の意味が全部理解できてさ。あんた、偉大だったんだな」

 

 その言葉と共に、静かに久次郎は泣き始めた。

 

「あんた、凄く俺の事を考えてくれてたんだな。たまの休日に、キャッチボールする時間作ってまで俺に関わってくれてたんだな」

「……久次郎」

「好きだったよ、あの時間。親父が一緒に遊んでくれた、あのかけがえの無い時間。ごめんよ親父、俺は何も分かってなかったんだ」

 

 ああ。そっか、あの子も親になって気が付いたのか。

 

 子育ての難しさに、父親の重圧に。

 

「……こんなどうしようもない俺を。育ててくれてありがとうございました」

 

 久次郎は頭を下げる。病室の床に擦り付けんばかりに。

 

 息子の謝罪は、これで終わった。この言葉が雪次郎様に届くかは分からないけれど、真摯な謝罪だったと私は感じた。

 

 ……せめて。今、この病室に滞在することは許してやろう。そう考えるくらいには。

 

 

 

「……お父さんっ?」

 

 その時。私は、目を疑うような景色を目にする。

 

「親父っ!?」

 

 雪次郎様の手が伸びて。床に座る、久次郎の頭を優しく撫でたのである。

 

「意識、意識が戻られたのですか雪次郎様!?」

 

 私は慌てて駆け寄った。だけど、相変わらず雪次郎様には何の反応もない。

 

「う、ああっ……」

 

 偶然なのだろうか。たまたま、手がずり落ちて久次郎の頭を撫でたように見えただけなのだろうか。

 

「親父、親父ぃ……」

 

 いや。きっと届いたのだ。

 

 もう意識など無いだろう雪次郎様に。息子の、久次郎の謝罪が届いたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の夜。とうとう、雪次郎様は目を覚ますことなく逝去した。

 

 享年、58歳。人生まだまだ、半ばとも言える年齢だ。

 

 だけど、そのお葬式は。息子、娘を含め数十人が参列する盛大なものとなったのだった。

 

 

 

 

 

「久次郎。貴方への勘当を解きます。雪次郎様はきっと、貴方を許したでしょう」

「ありがとう、母さん」

「……孫を。たまに、その子を連れてウチに遊びにいらっしゃい」

 

 別れ際。私は久次郎を許した。

 

 雪次郎様が許したのだ。これ以上、彼を出入り禁止にする意味はない。

 

「そのこの名前は、何と言うのですか?」

「健。一文字、健」

「良い名です」

 

 ……そして、気付いては居たけれど。その、一文字桜の腕の中で眠る男児こそ。遠い記憶の彼方たる、前世の『俺』だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雪次郎様の葬式以来、年に一度。久次郎達は、私に顔を見せるようになった。

 

 健は、まるまる太った可愛い子供だった。その顔には、どこか雪次郎様の面影もあった。

 

 美雪にも子供が出来た。双子の可愛い女の子だ、前世のいとこ姉妹である。あまり面識無かったけど。

 

 私は日々、花を生けて周囲を散策していた。余生真っ只中、と言った感じだ。

 

 雪次郎様を失った私は、美雪や久次郎達が里帰りして孫の顔を見せる日だけを楽しみに生きる日々が続いている。

 

「健ちゃん、可愛いねぇ」

 

 孫、という生き物は可愛い。娘や息子も可愛がったが、孫はまた格別だ。

 

 私を溺愛した爺様の気持ちが分かった。手塩をかけて育てた子供が、大人となって子を作ったと言う達成感。自分から連なった、命の灯火。

 

 その、象徴とも言えるのが孫なのだ。

 

「おばあちゃん、あまり健を甘やかさないで」

「うるさいですね。……お菓子はいりませんか、健ちゃん」

「ほしいー」

 

 ああ、愛くるしい。

 

 桜は健が太ってきたのを気にしているらしいが、子供はこれくらいな方が健康なもんよ。

 

「あの母さんが、こんな孫馬鹿になるとはなぁ」

「何か言いましたか、久次郎」

「いえいえ」

 

 そんな久次郎も、どこかオッサンの風格を帯びてきた。そういや、30歳越えてるのか久次郎も。年月の流れは早いものである。

 

「次は何時来るのですか?」

「また、長期休暇が取れたら連絡するよ」

「ええ、待ってますから」

 

 彼等はそう言って、古ぼけた屋敷で見送る私と別れた。

 

 ……前世の記憶が確かならば、私ももう長くはないだろう。

 

 彼らの言う「次」の休暇まで、私は生きているだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お母さん!! お母さん!!」

「おふくろっ!!」

 

 やはり、「次」は来なかった。

 

 心筋梗塞。突然の胸痛で悶絶し救急搬送された私は、集中治療室で点滴まみれになって居た。

 

 それは運命なのか、雪次郎様と同じ病院の同じ病室だった。

 

「嘘だろ、やっと和解出来たのに!」

「お母さん、目を開けて、お母さん!!」

 

 目が霞む。意識が朦朧としてくる。ああ、これがきっと私の最期。

 

 連絡を受けて駆け付けてきた、美雪と久次郎。それぞれ、双子姉妹と健を連れて私の病室に来ていた。

 

 子供二人に囲まれて。孫も死に目に顔が見れて。これ以上無い、死に際だ。

 

「────っ」

 

 声が出ない。体が言うことを聞かない。

 

 ああ、最期だ。これが私の、伊勢みくの最期だ。

 

 何とか振り絞った力で、目を開ける。悔しそうな顔をしている久次郎に、涙を流している美雪。

 

 その後ろで、双子姉妹は父親と手を繋いで固唾を見守って。一文字桜とその息子は、ぼんやりした目で私を眺めていた。

 

 そういや、前世でばあちゃんが死んだ時、その場に居たっけ。思い出した思い出した、そーだったな。

 

 無表情に、ボケッと突っ立っている一文字健。可愛い可愛い、私の孫。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────そんな彼は、18歳で自殺する。

 

 

「っ!!」

「お母さん!? どうしたの、苦しいの!?」

「おふくろっ! 医者だ、医者を呼んでくれ!」

 

 忘れていた。何をやっていたんだ私は。

 

 どうして、ただ愛でるだけだった。どうして、両親に釘を刺しておかなかった。

 

 死ぬんだ。彼処で何も分からず立っている一文字健は、たかが受験に失敗しただけでビルから飛び降りてしまうのだ。

 

「────っ!! っ!!」

 

 伝えねば。救わねば。運命を変えねば。

 

 嫌だ。あの子は、一文字健は、私の紡いだ大切な命の脈。死んでしまうなんて耐えられない。

 

「母さん、母さん!!」

 

 手を伸ばす。愛すべき孫に、一文字健に。

 

 だけど、動かない。私の体は、最早言うことを聞かない。

 

 死なないで。死なないでくれ。お願いだから。

 

 私が言えた義理ではない。それは重々承知している。だけど、だけど─────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこで。『私』の意識は、途絶えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そこで何をやっている!!」

 

 全身を包み込む浮遊感。

 

 無機質に立ち並ぶビル群。

 

「馬鹿野郎!! まだ若いってのに何考えてんだ!」

 

 次に目が覚めた瞬間。『私』は巨漢の男に腕を握られ、ビルの屋上にぶら下がっていた。

 

「おい、マコト!! 人を集めろ、コイツは俺が引き上げる!」

「は、はいぃ! 分かりました!」

 

 何が起きた? どうして、『私』はまだ生きている?

 

 完全に死んだ筈だ。もう助からない体だった筈だ。

 

「おい、抵抗するなよ! 俺の目の前で自殺なんて許さんからな!!」

 

 

 ────自殺?

 

 

 下を見下ろす。そこには、遥か彼方に地面があって。

 

 上を見上げる。そこには若々しい自分の腕と、ゴツいマッチョな警備員の顔が見えて。

 

 

「よし、そうだ。しっかり捕まっていろ」

 

 

 そのまま。『私』……、いや俺はそのオッサンに引き上げられた。

 

 

 

 

「全く! 何で飛び降りなんかしたんだお前!」

「……」

 

 信じがたい。信じがたい事に、俺は────一文字健だ。

 

「とりあえず、警察呼んでるからな。親にも連絡が行くだろう、たっぷり説教してもらえ」

「……てる」

 

 

 時刻は、俺が受験に失敗して飛び降りた直後。

 

 俺は誰だ? 伊勢みくか? いや、そんな筈はない。俺は生まれた時から一文字健だ。

 

 ……だったら、今の記憶はなんだ?

 

 夢? まさか、そんな筈はない。信じられないくらいに現実感のある景色だったぞ。でも……冷静に考えると、夢だったのか?

 

 伊勢みく。俺のばあちゃんにあたる人の、人生丸ごとの記憶。あれは、自殺間際の俺の見た白昼夢だったとでも言うのか?

 

「どうした、何を黙ってる」

「……生き、てる」

「あん?」

 

 分からない。分からないけれど、だとしても。あれが全部、全部俺の妄想だったとしても。

 

 俺が、此処に居るという事実だけは絶対に変わらない。

 

 俺は震える手で自分の体躯を自ら抱き締めて。静かに嗚咽をこぼした。

 

「生きてる、俺は生きてる───」

「あん? ……何だよ、飛び降り直後に命が惜しくなったのか。2度とこんな馬鹿な事すんなよ」

「生きてる────」

 

 良かった、生きている。

 

 一文字健は、ばあちゃんから連なった命の灯火は、まだ消えていない。

 

 激動の時代を生き抜いて、俺に渡してくれた命のバトンは失われていない。

 

 だって俺は、まだ生きて此処にいる────

 

 

 涙と鼻汁でぐしゃぐしゃになりながら。俺は、その場にうずくまって自らの無事を歓喜した。



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