古明地さとりが地霊殿の主になるまで。
※「Coolier - 新生・東方創想話」からの転載です。

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挿絵に描かれた火車の姿は、虎皮のふんどしをはいて、雷を起こす太鼓を持つ雷神になっている。
───京極夏彦・多田克己(編) (2000) , 『妖怪図巻』 国書刊行会


「やめなさい、こいし!」

 闇夜に浮かぶ丸い月。

 流れ行く叢雲によって明暗が幾度も入れ替わる。

 隣に座す少女の顔がよく見える。そう思えば、途端に視界が翳り、闇が濃くなる。こぼれ落ちる月光の加減によって移ろう世界は見ていて飽きない。

 分厚い雲が流れ、また新たに一枚の暗幕が重ね掛けられた。

 見通しの悪い視界をいっそのこと閉ざしてやれば、風の指揮に合わせ、茫々と伸びた草花の歌や虫たちが奏でる音色が耳に染み入る。

 

「中々、味なものね」

 

 もう随分と人の住んでいない屋敷の縁側に、少女がふたり、座している。

 幼子と見紛う容姿に、質素な着物。猫のように背筋は丸まり、幼顔には似つかわしくない濃い隈が少女の目元を縁取っている。

 途切れ途切れの月明かりに照らされる髪は波打ち、春にあふれる花と同じ色合い。

 同じ色彩の着物から伸びる手には酒を注いだ杯が握られ、目前の風情とともに味わっている。

 ただの幼子ではない。

 大の大人ですら膝を笑わせ帰途につく都の闇を、少女は我が物のように愛でていた。

 何よりも。

 藤色の着物の隙間から、得体の知れぬ管が幾筋も伸びている。血が通っているかのような真っ赤な管。

 血管と見紛う管の先には、言い知れぬ、鞠のような物が浮かんでいる。

 鞠の中央には一筋の線があり、そこから上下に分かれて、ばちり、と瞳を露わにした。

 眼球、であるらしい。

 宙に浮かぶ第三の眼は虚空を見つめるままに、少女は己の双眸を静かに開く。

 

「どう? こいし。たまには、こういう風流な景色を肴にお酒を嗜むのも悪くはないでしょう?」

 

 少女───古明地さとりは、妹の古明地こいしへと問いかけた。

 

「そう、かなぁ。わたしはね、なんだかとっても悲しくなるよ」

 

 ぎょろり、と第三の眼を姉に向け、癖のある薄く緑がかった灰色の髪を揺らしながら、こいしは答える。

 手に持つ杯は空であり、それに気付いたさとりが彼女の杯に瓶子を傾けた。

 

「悲しい? それはどうして?」

「だってそうでしょ。この月も、この雲も、この花も、この虫も、全部全部わたしたちを置き去りにしていくんだよ。

 目の前にあるものは全部流れていくのに、わたしたちだけがどこにも行けない」

「どこにも行かない、だけではなくて?」

「違うよ姉上。留まれる、その選択が出来るだけで輪から外れてることを示すには十分だよ」

「輪、ねぇ……」

 

 冷笑を浮かべながら、さとりは手の内に収まる杯を揺らす。さざ波とともに酒に映る玉兎が跳ねた。

 その酒をまた煽る。

 

「つまりは、こういうことなんでしょうね」

 

 月を相手取ろうとも、さとりにできる関わり方は一方的に食らうことだけ。古明地さとりは骨の髄まで妖怪だった。

 

「何か言った?」

「いいえ。それで、なんだったかしら?」

「この世には、生命が溢れてるって話だよ」

「生命?」

 

 姉の視線を受けて、こいしが目前に広がる庭を指す。好き放題に生えた草花がひしめき、その隙間では虫たちが慎ましく息をしている。

 見るからに、命あるものが溢れる光景。薄く笑みを浮かべながら、さとりは妹に話の続きを促した。

 

「これだけじゃないよ」

 

 と言って、次にこいしは宙を指す。丸く輝く月を射抜くように。

 

「どれもこれも、みんな生命に溢れて、流れてる」

「月や雲も?」

「月と雲も」

「どうして?」

「生命を生み出す力を持ってるからだよ」

 

 さわさわと草花が揺れる。静かな風が姉妹の間を流れていく。

 

「そこの草や虫は種や子を残せるよね」

「ええ」

「つまり、生命を生み出すことが出来る」

「人間や動物でも同じね。子孫を残すことは、種の命題ですもの」

「だから生命は流れていくの。数珠繋ぎみたいに」

「そうね。じゃあ、月や雲は?」

「雲から雨が降って、雨水が川に流れて、川の水が海に出る。この水の巡りがあるから、動物も植物も生きていける。これだって生命を生み出す力って言えるよね?」

「ええ。言えるでしょうね」

「月は───まあ、知らないんだけど、きっと全部同じものなの。生命がそよいで、生命が咲く。生命が鳴いて、生命が浮かぶ。形が違うだけで、どれもこれも同じなの」

「同じもの」

「うん。だからみんな、流れて巡って、最後には輪になるの。来年には、また同じ景色が見れるように。わたしたちとは全然違う。それがなんだか、悲しいんだよ」

 

 最後の一言が大気に融けると、こいしは酒杯を床に置いた。

 宙を見つめる彼女の両目と第三の眼は、どこか遠くに焦点を合わせている。

 空模様を眺めているだけかもしれないし、彼女が言った生命の輪を俯瞰しているのかもしれなかった。

 物憂げな表情を見せる妹に対して、ほぅ、とさとりは息を吐く。こいしの横顔が未成熟ながら色気をまといつつあることも驚きだが、常に一緒に行動していた妹がいつの間にか物事の本質を見極められるほどに成長している。

 なんだか嬉しくなって、さとりは杯を空けた。

 すぐに、あんまり飲み過ぎちゃだめだよ、とこいしが瓶子を傾けた。新たな酒が杯を満たす。

 揺れる酒を眺めながら、さとりは口を開く。

 

「こいし。貴女が言ってるのは、産霊(むすひ)、というものよ」

「むすひ?」

「ええ。こいしの言う通り新たな生命を生むことを指す言葉で、この世に最も強く、広く、根付いている力。こいしはそれを特に意識することもなく感じることが出来たのね。なんだか、誇らしいわ」

 

 さとりはおもむろにこいしの頭に手を乗せた。こいしはくすぐったそうに身をよじる。

 

「だけど、感覚が優れ過ぎてるのは不安だわ」

「……そうかな?」

「そうよ。人は食べる魚や鳥の悲鳴なんて聞きはしないわ。けれど、こいしはもう見えてるんでしょう?」

「仕方ないよ。わたしたちは覚だもん」

「仕方なくわないわ。それを言うなら、妖怪なんて穢れが形を持ったようなものよ。そして穢れとは産霊を阻害するものを指す言葉。私たちは覚以前に妖怪なんだから、あまり気にし過ぎちゃだめよ」

「……別に、気にしてなんてないよ。でも、山一つと麓の村を二つ平らげた姉上はやり過ぎだと思う」

 

 食べ過ぎだよ、とこいしは非難の目を向けてくる。

 さとりは困ったように手を頬に当て、首を傾げた。

 

「謙虚な妖怪なんて、妖怪とは呼べないわよ?」

 

 さとりは淡々と言葉を吐き出す。

 何か問題があっただろうか、といつになく真面目に考えこむが、解を得るには至らない。

 そんな姉の姿を見て、こいしは深々とため息をついた。

 

「もういいよ。姉上は姉上らしく振る舞ってれば」

「そう?」

「満たされないまま、ずっと渇いてれば?」

「満たさなければならないと分かってるものをずっと放置し続けるのはどうかと思うわよ?」

 

 姉妹の視線が交錯する。ふいっと視線を逸らし、不機嫌そうにこいしは酒杯を傾けた。

 その様子を見て、やれやれとさとりは薄く苦笑を浮かべる。妹の困った悪癖は、まだまだ治る兆しが見られない。

 

「やっぱり、人の心は覗きたくないの?」

「いやだよ。不味いし。姉上が自重を覚えたら、わたしも頑張ろうかなと思うけど」

「自分のなすべきことの理由を他者に依存させるのはよくないわ。それが私なら尚更ね」

「そのくらい悪趣味だって分かってるなら、余計なことは言わないで」

 

 はいはい、とさとりは相槌を打った。

 詫びを兼ねて、さとりはこいしの杯に酒を注ぐ。

 

「そういえば、最近度の過ぎる妖怪の噂を聞いたわね。もちろん、私以外でだけど」

 

 機嫌を損ねてしまったこいしの興味を引く意味をこめて、さとりはおずおずと口を開いた。

 

「地獄にそびえる地霊殿。そこの主の気が触れたそうよ」

 

 と、さとりは語り出す。

 

 

        ◇

 

 

 こういうことであった。

 とある山中で、三日三晩続いた宴会があった。

 山という異界の中、朝も夜もなく騒ぎ続けられる人間は居ない。当然、宴に興じる顔ぶれには角や牙が見受けられた。

 呑み続け、騒ぎ続け、暴れ続けた結果、一人の鬼が言った。

 

「この山で一番強いのは俺だ」

 

 すぐに否定の声が上がる。

 

「いいや、俺だ」

「いや、俺だ」

「ならば今決めようではないか」

「応とも」

 

 血と喧嘩の匂いに誘われ、意気軒昂な鬼が集う。

 勝負はどうする。力比べか。それとも喧嘩か。呵々と大笑しながら決まり事が作られる。

 闘争心に薪をくべ、今にも爆発してしまいそうな集団の中で、老いた鬼がぽつりと言った。

 

「どうせなら、もっともっと派手な祭りにしたいもんじゃのぅ」

「ほう。悪くないな。だがどうする? 数を増やすか?」

「しかしこれ以上誰が居る? すでに近場の力自慢は集まってるだろう?」

「ならば、地底の者はどうだ」

「おお。たしかに奴らは皆腕に覚えのあるものばかりよな。よし。ちょっと地底まで行って、宴に混ざる者を募ろうぞ」

 

 幾人かの鬼が地底に下り、残る者はもうしばらく酒を煽ることになった。

 とは言っても、一度昂ぶった血潮がそう簡単に鎮まるわけもなく、地底への遣いが戻る前に一波乱起こっているのは確実であろう。

 地の底へ向かうことになった鬼たちは馬鹿騒ぎに乗り遅れないよう、自然と急ぎ足になった。

 そして地獄の街道へと赴いた時、誰もが眼前に広がる光景を見て、言葉を失う。

 きらびやかだった街の明かりは一つとして残されておらず、全壊した瓦礫の山が鬼たちを出迎えたのだ。

 流石の鬼でもこれを元通りにするには七日ばかりかかるかもしれぬ。

 さて、どうしたものか、と顔を見合わせる鬼。

 そんな彼らの耳に、近くで瓦礫が崩れる音と何者かの呻き声が届いた。

 一先ず、音のした方へ足を向ける。

 そこには瓦礫によって半身が潰されている同胞の姿があった。

 

「おうおう。いったい何があったんだ?」

 

 呼びかけながら同胞に駆け寄り、瓦礫を脇へどけてやる。

 彼は血反吐を吐きながらも、快活に笑いながら答えた。

 

「喧嘩よ喧嘩! 後先なんぞ考えん、一世一代の大喧嘩よ!」

 

 それ聞いた地上の鬼たちは色めき立つ。元より酒と闘争を求めて地底にまでやってきたのだ。

 たどり着いた先で想像以上の祭りが行われていたとなっては、最早歯止めをかけようとも思わない。

 相手は誰だ。喧嘩はまだ続いているのか。どこへ向かえば交ざれるのだ。

 などなど。

 鬼でさえ決して安全とは言い切れぬ重症を放置し、魂が叫ぶままに質問を重ねる。

 問われた鬼も、自身の傷など眼中にない様子で答えていく。

 

「相手は地獄の最奥に住む地霊殿の主だ。どうにも気が違えているらしくてな、あれの妖気に当てられた喧嘩馬鹿が続々と勝負を仕掛けていったのさ。今は死体をかき集めて、地霊殿まで引っ込んで行ったはずだ」

「つまり奥へと進んでいけば、その主とやらと一戦交えれるというわけだな」

 

 地上の鬼たちは互いの顔を見合わせて頷き合う。

 

「ゆこう」

 

 そして望むまま闘争の中へと身を投じた鬼たちは最後の一人になるまで拳を振るった。

 奇跡的に一命を取り留めた生き残りが元居た山に戻り、事の顛末を、同胞の華々しい散り様を伝えたという。

 

 

        ◇

 

 

「で、その山を姉上が平らげたわけだね」

「重要なのはそこじゃないわよ、こいし。地霊殿の主はね、聞いた話だと火車と言われてるらしいのよ」

「───かしゃ?」

「ええ。少し前に最澄や空海といった僧が仏の教えを私たちの故郷から持ち帰ったでしょう。その中に、罪人の魂を燃え盛る車に乗せて地獄へ運ぶという話があるのよ。この車のことを火車と呼ぶの」

 

 ふぅん、とあまり興味のない様子でこいしは相槌を打つ。

 妹の気のない返事にめげることなく、さとりは話の続きを口にした。

 

「つまりね、火車なんて逸話はこの国では新参の伝承なのよ。そもそも妖怪ですらない。一方で、地霊殿と言えば地獄の中でも最も古い建築物。そこの主が一体どんな風に身を窶してるのか、見てみたくはないかしら?」

「んー」

 

 やはり、こいしは関心を持てないようでいる。姉の話を半ば聞き流しながら、手に持った酒杯を右に左に傾けている。

 その様子を見て、さとりは、ふぅ、と細く小さく息を吐いた。

 

「気乗りしないなら、仕方ないわ。私ひとりで見に行くとしましょう」

 

 そこではたと、こいしは顔を上げてさとりを見た。

 

「ひとりで行くの?」

「ええ。貴女が来ないのなら」

「───」

「見には行かない?」

「───ん」

「なら、見られに行きましょう」

「……どう違うの?」

「同じよ。違いなんてないわ。それで、こいしはどうする? 一緒に行く?」

「う、ん。───行く」

「なら決まりね」

 

 妹の同行を喜び、さとりは優しく微笑んだ。

 瓶子の中に入った酒を飲み干すと、姉妹は揃って立ち上がる。

 行き先は地霊殿。姉妹は手を繋いで歩み始めた。

 

 

      ◇

 

 

 道なりに少し進むと、先程まで居た屋敷に火の手が上がるのをこいしは見た。

 あそこまで大っぴらに暴れて、お咎め無しのはずがない。報復は人間の手によるものか。

 早々に人間の動きを察知していたからこそ、さとりはこいしを強引に連れ立ったのかもしれない。

 当のさとりは、

 

「今代の陰陽師は血の気が多いわね」

 

 と、他人事のように口にした。

 こいしは意識の上に浮かびそうになる思考を、悟られぬよう深く深く心底に沈めた。

 

 

      ◇

 

 

「ここがあの女の屋敷ね」

 

 地底は噂通りの惨状だった。地上の都を模して造られた悪鬼たちの楽園は、獅子に振り払われた蚤虫のように無残な有り様を晒していた。

 背徳を讃える灯火も、悪徳を栄えさせる住人も、すべてが瓦礫の中に沈んでいる。視界一面に広がるのはを炭と岩と悪霊が織り成す高原。

 その最奥。街道すらも途絶え、地獄でも滅多に妖怪の寄り付かない底の底。地獄の釜が口を開ける場所にその建物はあった。

 地底のものとも、地上のそれとも違う造り。木ではなく石を主体とした様式。この国のものではない。

 海を渡ったその先の、人の半生をかけてようやく辿り着ける国の建築様式ではなかっただろうか。

 疑問が鎌首をもたげる。されど、古明地さとりは意に返すことなく門扉を開いた。

 妹を伴い、地霊殿の敷地の中へ足を踏み入れる。

 館全体を視界に収める。眠たげに薄く開かれた双眸ではなく、鋭い輝きを持った第三の瞳で。

 石造りの壁の奥に心が一つ知覚できる。さとりはそちらへ向けて歩いていく。その後ろをこいしが続く。

 行き着いた先は広く豪奢な部屋であった。臣下が帝に謁見を希うような広間の奥には、きらびやかな椅子が設えてある。

 その椅子に、妖怪が一匹座していた。椅子の手置きに頬をつけ、艶めかしい肢体を投げ打っている。

 

「───美しいわね」

 

 心に浮かんだ言葉をさとりはそのまま口にした。

 されど、相手からの反応は無い。猫目のような細長い虹彩はどこを見ているかも知れず、燃え立つような赤い髪は血の池を思わせるように床にまで広がっている。

 

「……姉上、彼女がそうなの? 威厳を感じるわけでもないし、なんだか死に体のようだけど」

 

 もう燃え尽きたみたいに覇気が無いよ、とこいしは言った。

 そうね、さとりも相槌を打つ。

 

「でも反応を見せないなら、それはそれで好都合でしょう。私たちはただ食事をしに来ただけなんだもの」

 

 さとりは自身のから伸びる管に意識を寄せる。その先で中空に浮かぶ異様な瞳が熱を帯びた。獲物を前に昂ぶっているようでもある。

 対照的に、こいしはそっと目を逸らす。

 

「燐」

 

 と、さとりは言った。

 それが彼女の名前なのだろうとこいしは察する。

 茫洋としていた燐の目に力が宿る。姉が能力で干渉した結果か、彼女はようやく闖入者を認識したようであった。

 

「誰だい、あんたら?」

 

 燐が問うた。こいしにはその姿が意外に映る。狂ったと聞かされていたからか、理知的な問答など起こらないと思っていたからだ。

 燐は身体を起こす。

 はらり、と燃えるような赤い髪が広がった。この国では主流ではない、身体の線がはっきりと分かるきらびやかな衣服に身を包んでいる。この地霊殿と同じ、遠い国の様相であった。

 裾からのぞく手足は細く長く、しなやかな猛獣を思わせた。

 されど、誘うように潤んだ瞳、蠱惑的な唇、衣服を押し上げ深い陰影を作る豊かな乳房。欲情した相手を地獄に引きずりこむような魔性。

 燐は獣としても女としても、完成していた。

 

「古明地さとりと申します。こちらは私の妹」

 

 姉の一歩後ろでこいしはこくりと会釈をする。矢面に立つ姉はこいしの名を決して相手に知らせようとしない。それが常のことであった。

 

「古明地さとり、聞いた名だね。───暴食で悪食の呪喰(しゅぐ)いだったか」

「地霊殿の主にまで名が知られてるとは、光栄の極みですね」

「それで、悪名高い覚妖怪があたいに何の用だい?」

「大した用ではありませんよ。地霊殿の主が乱心したと聞き、酒の肴にしようと馳せ参じた次第でして」

 

 文字通り、さとりは燐をおつまみにするのだろう。

 こいしはそう信じて疑わなかったし、宣告された彼女もそれ以外の意味では受け取らなかったようだ。

 転じて、燐の顔が歪む。餌扱いされたことへの怒りからだ。

 燐の周りから間欠泉の如き勢いで鬼火が沸き出る。負の怨念が世界を満たすように、業火もまた火加減を知らぬようであった。

 だが、何かを燃やす前に、怨霊を薪のようにくべた火炎は鎮火した。

 ───食べたんだな、とこいしは思い至る。同時に、

 

「……苦いですが、しかし悪くはありません。中々癖がある」

 

 と、さとりが感想を述べた。

 こいしは眼前に座す彼女が怨霊を操れると察したが、それは悪手である。悪霊の呪なんて姉には食事にしかなり得ない。

 呪とは、そのものをそのものたらしめる要素である。時に名前であり、時に言葉であり、時に環境を指す、そのものを語る上で無くてはならないもの。

 妖怪ならば、人間からの願いや畏れ。こうあって欲しいと願われた怪異。いるはずがないと畏れられた化生。それらが存在する上で無くてはならない中核を、姉は戯れに一呑みする。

 さとりは笑う。我が姉ながら、何故禍津神に名を連ねていないのか不思議でならなかった。

 そしてさとりは、

 

「……へぇ」

 

 と、感嘆の息を漏らした。

 

「こいし、よく見ておきなさい。かの女王の眷属なんて、滅多なことでも見られないわよ」

「女王?」

「黄泉の国におわす荒れ狂う女王、イザナミのことよ」

 

 ぱちぱちと目をしばたたき、こいしは驚きを露わにする。

 

「どうしてそんな大物が、地獄でたった独りで暴れてるの?」

「是非曲直庁との取り引き、といったところかしら。先程の悪霊を統べる力に生まれ持った霊格。鬼神長としての素質は語るまでもないでしょう」

「うん。それは分かるよ。罪人の魂を虐め続けるのに適任ってことでしょ?」

「ええ。十王といった仏教界の重鎮から罪人を引き渡され地獄へ向かう。地霊殿の主が火車だと言われる理由にも納得がいくわね」

 

 疑問が解消されたさとりの顔がほころぶ。その表情はとても満足気であり、まだ瓶子を持っていれば、そのまま杯に注ぐのではないかと思うほどだ。

 

「はぁん。なるほど。これが覚妖怪の力ってわけかい。たしかに、こいつはちと面倒そうだ」

 

 黙していた燐が口を開く。

 こいしがそちらへ目を向けると、彼女の外見は幾分か若返っているようであった。

 成熟した女性から十五、六といった小娘にまで縮んでいる。

 姉にとって心を読むということは呪を食らうことと同義である。来歴を読まれたことにより、幾分かの呪を食われたのだ。

 呪を食われた人間は心を喪うだけだが、妖怪の場合は呪を食われた量に比例して肉体にも影響を及ぼす。

 それでも、彼女のようとした美しさは欠片も損なわれてはいなかった。

 すっと、燐がさとりへ向けて指をさす。

 紫電が走った。

 鼓膜が裂けるかのような轟音と大気を焦がす匂いがこいしに届く。妖怪の感覚すらも麻痺させる雷霆。

 雷とは神鳴りとも言う。神々が扱う力の一端を受け、さとりは膝からくずおれた。うつ伏せに、床に転がる。

 

「あっけないねぇ……」

 

 ところどころが炭化し、倒れ伏したさとりを燐は見下げる。

 

「でも美味そうな匂いじゃないか」

 

 嘲笑を顔に貼り付ける。自分を食事扱いされたこと。先程攻撃を無力化されたこと。諸々に対する意趣返しのようであった。

 のそりと燐が玉座から立ち上がる。そしてこいしに一瞥をくれた。

 

「わたしは何もしないよ」

 

 言って、こいしは身動ぎもしない。姉に駆け寄ろうとも、立ち去ろうともしなかった。

 宣言通りに何もしないという選択を取るこいしを見て、燐は鼻白む。

 

「雷に、イザナミ……ひょっとして、イザナギが見たっていう、イザナミの身体にまとわりついていた八柱のうちの一柱?」

 

 一方で、こいしもまた我関せずといった態度を貫いた。物言わぬ姉も、敵意を剥き出しにする燐も眼中にないようで、思い浮かんだ疑問をそのまま口にする。

 

「分かりきったことをわざわざ口にするなんて、あんたは本当に覚妖怪なのかい?」

「心を読むのは好きじゃないの。そういうのはすべて姉上に任せてるから」

「頼りの姉君は炭になっちまったけど、あんたも後を追わせてやろうか」

「痛いのも好きじゃないよ。それに、その程度で姉上がどうにかなるわけないでしょ」

「へぇ……」

 

 嗜虐的な笑みを浮かべ、燐は足を踏み出した。

 弄びがいのありそうな死体と、いたぶりがいのありそうな妖怪を、縦に割れた瞳が捉えている。

 そして、燐は危うく転びかけた。彼女が自身を見下ろすと、さらに身体が縮んでいた。転びかけたのは手足の長さや歩幅が変わったせいだ。

 呪を食べられたことは誰の目にも明らかだった。

 こいしを睨む眼光がさらに険しくなる。燐が再び雷霆を召喚しようとした矢先のことだ。

 

「その娘はただの傍観者よ。あなたの相手は私なのだから、余所見はしないで欲しいわね」

 

 地を舐めるようにさとりが口を開いた。瞳は稲光にやられ、開いてはいるものの、どこか茫洋とした印象を受ける。その実、さとりの双眸は像を結んでいない。

 天空に関わる権能の強大さは、霊的にも酷い傷を与えていた。さとりの第三の眼であってもまともに機能しているとは言いがたい。

 

「ならちゃんと見ていてあげるよ。あんたの死に様をね!」

 

 再び、燐は雷を呼び出した。しかし、異変は何一つとして起こらなかった。

 

「まさに極上ね。神の声とも言われる権能は格別に美味だわ」

 

 さとりの口端が釣り上がる。

 焦点の定まっていないじっとりとした瞳に、燐は僅かな畏れを覚えた。

 

「───どうなってんだい。あんたの眼は潰したはず……」

「心を食らうなんてことはね、第三の眼から直接読み取った方が効率がいい。ただそれだけなんですよ」

 

 能力が発揮される条件は他にもあると仄めかす。

 事実、さとりにとって心を読むということは、対象と呪を結ぶという行為と同義であった。

 極論を言えば、視る必要などない。指をさすだけでも心を覗ける。

 また逆に、相手から意識を向けられるだけでも、さとりにとって心を読むための足がかりとするには十分すぎる。

 さとりに対して何らかの感情を抱いていればなお容易い。

 例え地を舐め、喋ることしか出来なかろうが、呪喰いの真価はこの程度では曇らない。

 さとりはよりおぞましく瞳を濁らせ、弓なりに口を曲げた。

 

「今私を殺そうとしたのは、本当にあなたの意志なのかしら? それとも、ご母堂様の狂気かしら?」

 

 さとりは続ける。指一本満足に動かせないであろう状態で言葉を紡ぐことのみに集中する。

 

「『これから毎日千人の人間を殺す』と仰ったご母堂様の呪いに()てられているのではないの?

 狂おしいほどの嘆きの声に耳を傾けるのが嫌になったのではないの?

 本心は、もう縁を切ってしまいたいのではないの?

 気が晴れるかと思って母の言うとおりに暴れてみたものの、嫌な気分なんて欠片もまぎれなかったんでしょう?」

「──────」

「ああ。やっぱりあなたは解放されたいのね」

 

 くすくすとさとりは笑った。

 声こそ楽しげであったが、這いつくばって笑む姿は何よりも不気味に映る。

 

「いいでしょう」

 

 さとりの声とともに、燐は見る見るうちに回帰を果たす。

 少女から幼女へ。幼女から童女へ。幼子から成猫へ。成猫から幼猫へ。

 さして抵抗することもなく、差し出すように自らの呪をさとりに食わせた。

 そうして、母を忘れたい火車は、母を求める子猫になった。

 

 

       ◇

 

 

 喉と肺、発声に必要な部位だけは最優先で回復させたものの、全身におよぶ重篤な傷をたちどころに完治させるなんて芸当はさとりには不可能である。

 鬼や天狗など戦闘に関する伝承があるならともかく、覚妖怪はただの捕食者。神をも呑み下す霊格であろうと、精々傷の治りが周りと比べて早いというだけだ。

 

「ごめんねこいし。起こしてくれないかしら」

「急がなくても大丈夫だよ姉上。こんな地獄の底の底。人なんて早々来ないから。もし新しく派遣されて来た獄卒とかち合っても争う気は無いんでしょ。

 いくら姉上が邪智暴虐を絵に描いたような妖怪だからって、ここでいきなり何かされるわけないよ」

「遭遇してしまったら、まずは言いくるめるつもりではいるけど……」

「ならもう少しゆっくりすれば?」

 

 言って、こいしはさとりの傍で膝をつく。

 そしてさとりの背を支えるように抱き起こした。こいしに体重を預け、さとりの身体は弛緩した。

 

「ありがとう、こいし」

 

 はにかみながらさとりはこいしへ礼を言った。

 

「……いよいよ、神様まで食べちゃうようになったんだね」

 

 しかし、こいしはさとりの礼に応じない。悲しげな声音とともに、深く呼気を吐いた。

 そして──────するり。

 そんな滑らかな擬音が相応しい自然さで、さとりの魂に欠落が生じた。

 たまらず、苦悶が漏れる。欠けたのは総量のおよそ四分の一。

 抗いがたい虚脱感に屈することなく、意識を髪の毛ほどの細い糸で繋ぎとめる。

 

「な……にを、するの、こいし……」

 

 息も絶え絶えにさとりは口を開く。

 

「姉上はさ、もっとみんなに優しくするべきだよ。じゃないと、いつか本当に退治されちゃうよ?」

 

 こいしは立ち上がる。支えを失ったさとりは床に背中を打ちつける。

 たったそれだけの衝撃で意識を失いそうになりながら、さとりは懸命に妹へ声をかけた。

 

「こいし、あなたいったい、どうしちゃったの……」

「どうもしないよ。ずっとずっと待ってたの。姉上が抵抗なんてできなくなるくらい弱り果てるのを。わたしじゃどうやっても敵わないから」

 

 言いつつ、こいしは倒れたさとりに馬乗りになった。

 

「わたしはずっと姉上と一緒に居たいの。姉上が泣き叫ぼうが喚こうが、姉上が痛がろうが辛かろうが、そんなのぜんぶ、関係ない。

 このままだと近い内に姉上は殺される。そんなの火を見るよりも明らかでしょ? そんなこと絶対にさせない。許さない。でも姉上はわたしの言うことなんて聞いてくれないし───。

 だからね、わたしは姉上の荒御霊を───食べることにしたの」

 

 屈託なくこいしは笑った。

 さとりは己の魂を食い返すべきか逡巡する。

 

「見ることは、見られることと同じなんでしょ。なら、私はもう、何も見ない」

 

 ───もう誰からも───見られない。

 

 さとりに跨ったこいしは見せつけるように自身の第三の眼を手に取った。

 心を読むまでもなく、次にこいしが起こす蛮行をさとりは否応なく理解する。

 ───今すぐにでもこいしの呪を食らえば止められる。

 

「やめなさい、こいし!」

 

 そして、古明地こいしは自身の第三の眼に指を突き立てた。ぐじゅり、と眼球が機能を放棄する。

 

「────────────ぁ、」

 

 さとりには、その光景を呆然と見ていることしか出来なかった。間の抜けた声がさとりの喉から漏れる。

 

「姉上は、ずっとわたしだけを見てればいいの」

 

 血の涙を流しながらこいしは言う。爛漫とも言える笑みを浮かべて。

 

「……こいし」

 

 止めることは出来なかった。たとえどれほどの緊急時だろうと、妹を食糧として見なすことなど、さとりには到底できなかった。

 透明な雫が頬を伝う。

 

「泣かないで姉上」

 

 さとりの瞳から溢れる涙に、こいしはそっと口づけをした。

 今はただ、自身の身体が恨めしい。

 こいしの瞳から流れ出る血涙を拭うことも、その華奢な身体を抱きしめることも、襤褸の如き身体では成すことが出来ない。

 心身ともに限界で、気を抜けばすぐにでも意識を手放してしまいそうだ。

 ぎりぎりと奥歯を噛み締め、なんとか意識を保とうとするさとりを、こいしは優しく抱きしめる。

 

「わたしはちょっと眠るけど、姉上が先に起きたら絶対に待っててよね。じゃないと、怒るからね」

 

 解きほぐされ、抵抗も許されないまま、さとりは意識を失った。

 残ったのは覇気のない覚妖怪と存在理由を放棄した覚妖怪、そしてしがらみがなくなった無垢な子猫だけ。

 ───にゃーん、と静かな地霊殿に猫の鳴き声が響いた。

 

 

       ◇

 

 

 後日、是非曲直庁の許可を得て、古明地さとりが新たな地霊殿の主として君臨した。

 手慰みに地獄の管理をしつつ、彼女はただただ、妹の目覚めを待ち続ける。

 

 

 

 了


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