「大体さー」
日菜が言った。頬杖をついて退屈そうに、カチカチとシャーペンの芯を押し出しては引っ込める反復動作を繰り返しながら、言葉を続ける。
「多様性だとか、個人の意志を尊重するようなことを言うなら、もっとその人だけが持つ哲学とか美学を理解して欲しいよね」
理解できないならそっとしておいてほしいよね、と同意を求めるように、日菜は紗夜へ言葉を投げた。
日菜が紗夜の顔色を窺うと、紗夜は口元に手を当てて何事かを考え込んでいた。意外だった。こんな戯言は一蹴されるものだと思っていたばかりに、思慮深けな表情が見れるとは想像だにしなかった。
───うん。るんってする。
紗夜の真面目な横顔はとても絵になる。それこそこの瞬間を世界から切り取って、永久に保存したくなるほどに。その原因が自分ともなれば感慨もひとしおだ。もっともらしい議題を掲げれば、姉は議論に乗るだろうか。躊躇いは一瞬。調子に乗った日菜は言葉を捲し立てた。
「地球上に存在するどんな物質だって、時間の流れには敵わないでしょー。ある意味一番残酷なくらいに平等なのに、その時間ですら捉え方は一人一人違うんだから、人間って面白いよねー」
「……相対性理論? 物理の話がしたいの?」
「うーんと、そうじゃなくて、時差の話。あたしもおねーちゃんも自分だけの時計を持ってて、自分だけの時間を刻んでるの」
「まあ、理解できなくはないわ。たまにいるものね。一体どんなスピードで生きてるんだって思ってしまうような人」
そもそも、人間の体内時計は一日二十五時間とする説がなかったかしら? と紗夜は言った。
「いつどこで聞いたかも定かではないし、いまの学説がどう変わっているのかわからないから掘り下げないけれど、機械じゃないんだから一分一秒の狂いもなく時間感覚を共有するなんて無理な話でしょう。人はその人固有の時計を持っているという考えには同意するけど───時差、と表現していいものかしらね」
「いいんじゃない? だって基準となる時刻と観測者の時刻の差が時差でしょ? 観測者たるあたしの氷川日菜時間と比較対象となる氷川紗夜時間に差があれば、それはもう時差だよ」
紗夜は「そうね」と頷くものの、承服しかねるように黙り込んだ。けれどすぐに自らその沈黙を破る。
「いえ、いいわ。時差ということにしましょう。人と人の間には時差があるとして、日菜は何が言いたいのかしら?」
「え? ……あっ、ちょっと待って──────そう! 時差はあくまで一例だから! テーマはあくまで多様性だから!」
話の続きなんて一切考えていませんと言わんばかりのリアクションを取ったあと、日菜は勢いで押し流すかのように言葉を紡ごうとする。どう話を転ばすべきか。そもそも話の着地点をどこにすべきか。紗夜が日菜の言葉の続きを待っている。こちらを見る紗夜の視線と日菜の視線が絡み合って、日菜はひとつの結論を下した。
───唸れ! あたしの脊髄!
「つまりね、多様性を認めるならもっと個人に対する寛容さが必要になってくると思うの。一日のはじまりが六時の人もいれば、九時の人もいて、十二時の人だっているでしょ。いまの社会は集団としてしか人を見ていないから、みんな九時に登校すること、ってどの学校でも判を押したことしか言ってないよね。
その結果が、毎朝の満員電車につながるわけなら、もうスタートの時間は個人に任せちゃっていいと思うんだよねー。……あ、いまそれじゃあ授業にならないって顔してるけど、わざわざ学校に集まって授業受ける意味なんてあたしは無いと思ってるよ。だって煩わしいこと続けたって何のために技術発達させてるのかわかんないじゃん。
せっかくVRとかその人しか関われない世界が普及してるんだから、もうパブリックな関係は最小限に留めて、プライベートな世界に突き抜けていけばいいんだよ。いまの世の中は世間と自分を振り合わせる努力をするんじゃなくて、どうやって我を通すかを練習しないといけないってあたしは思うなー」
そして日菜は考えることをやめ、ノリと勢いでしゃべりきった。
「なるほど。よくわかったわ。つまり、善性も悪性も社会性も関係なく、個人の気分がなによりも尊重されるべきだと言うのね」
「うーん。まあ、そうなるかなー」
「たとえば校庭が落ち葉だらけだったから掃除するのはその人の自由だと」
「うん。そうなるねー」
「落ち葉の山ができたから、これで焚き火をするのも自由だと」
「あー……そうなっちゃうねー……」
「焚き火をするついでに焼き芋を作ってしまうのも自由だと」
「……そういうことに、なってしまいます、ね……」
「日菜」
「はい」
「あなた、まったく反省してないわね?」
「面目次第も……」
「そういうのいいから」
「……はい」
しまった地雷だった、と後悔するも時すでに遅く、紗夜の眼光は鋭さを帯びていき、厚さ一センチの鋼板くらいなら断ち切ってしまいそうだ。
───うわっ! おねーちゃん、目、こわっ!
膾切りにされたくない日菜は、自然と正座になって、背筋を伸ばす。
「でもねおねーちゃん! おねーちゃんとおしゃべりできて、この時間が終わらなければいいのにって思ってるあたしの気持ちは尊重してくれてもいいんじゃないかな!?」
けれど氷川日菜は挫けない。なにせ相手は氷川紗夜。たとえ怒られることになろうとも、距離の詰め方なんておかしいくらいでちょうどいい。
「ええ。尊重するわ。その代わり、妹の課題を無理矢理手伝わされて、はやくギターの練習をしたいと思ってる私の気持ちも尊重してほしいところね」
ごん、と額でテーブルを打つ。敗北宣言だった。身体を起こすと、反省文と銘打たれた真っ白な紙が目に入る。
そもそも、どうしてこんなことになったのだろうか。日菜はペンを走らせるためにも、これまでの経緯を思い返した。
◇
事の次第は至極単純であり、氷川日菜発案のもと、今井リサおよび瀬田薫の三名が学校のグラウンドで焼き芋を作ったという一言で完結する。
このとき生徒会との情報伝達に不幸な行き違いがあり、日菜たちは無許可で火を扱ったとして教師からお叱りを受けた。そして話が拗れたのはここからだ。三人はそれぞれ反省文の提出を命じられ、三人それぞれに書き上げた反省文を渡したのだが、『おう氷川。さてはオメー喧嘩売ってんな?』と青筋を浮かべた教師からありがたいお言葉をいただくこととなった。そしてその場はリサが取り持って事無きを得たのだが、最終的に反省文は明日の朝に改めて提出することになったのだ。
『あははー……。せーんせっ☆ ひとつ提案なんですけど、ヒナの分は明日の朝まで提出は待ってもらえませんか?』
『その心は?』
『ヒナのお姉さんは花女で風紀委員をやっててこういうのにはかなり厳しいので、一晩待ってもらえば最低限の体裁は整うかなーって』
『あっ! ひどいよリサちー! おねーちゃんを巻き込むのは反則だよ!』
『このように慌てふためくレアヒナが見れます』
『採用』
日菜は激怒した。必ずかの邪知暴虐なリサちーに仕返しせねばならぬと決意した。けれどもそれより先に、自分が姉の手によって除かれる方が早いな、と日菜は冷静に悟った。
「あーあ。おねーちゃんには怒られたくないんだけどなー」
怒られちゃうんだろうなー、とまだ一文字も進んでいない反省文にシャーペンの先端を突きつけながら、日菜は嘆く。コツコツと一枚の紙切れ越しにテーブルを叩く音がリビングに木霊する。
紗夜はまだ帰ってきていない。今日はRoseliaの練習の日だ。日菜の偽らざる気持ちとしては紗夜を頼りたい。けれど話題が話題なだけに、目くじらを立てる紗夜が目に浮かぶ。怒られたくなければ自力でパパっと書ききってしまえばいいだけだが、日菜なりに真面目に書いた反省文は全否定されてしまっている。
「そもそも、なんであたしが怒られなきゃいけないんだろう? 別に怒られるようなことしてないんだけどなー」
日菜はシャーペンを投げ出して、カーペットに大の字で寝転がった。もっとるんってしないものを避けるために、るんってしないことをする。まったくもって不毛だった。
なにか手軽にモチベーションを上げる方法はないだろうか、と日菜は身を起こして辺りを見回す。テーブルの上の小物入れに、飴玉が無造作に詰め込まれていた。中身は一面黄色で、我が家におけるレモン味の消化率の悪さが伺えた。きちんと中を検めれば、最後一つとなったリンゴ味が隠れている。
「よし。書き終わったら食べる」
リンゴ味の飴を小物入れの一番上に置き、日菜は改めて反省文に向き合った。
とは言え、日菜は何を反省すべきなのかがわからない。着眼点が異なっていることくらいは理解できている。教師が求めている視点で文章が書けていないのだ。では何を求められているかというと───
ぽん、と日菜は手を合わせた。
「そっか! いっそのことおねーちゃんに怒ってもらえばいいんだ!」
紗夜ならば、教師の感性と似通っているはずだ。紗夜が怒った内容に対して反省文を書けば、再提出は免れるだろう。おねーちゃんとコミュニケーションが取れて、課題も片付く。一石二鳥というやつでは……? 天啓を得た日菜は、ふへへと友人のように笑みをこぼした。
「そう考えると、おねーちゃんに怒ってもらうのもるんってしてきたな」
もう自力で下手に足掻くことはやめて、日菜は大人しく紗夜の帰りを待つことにした。そしてほどなくして、玄関の扉が開閉する。廊下を歩く足音から、日菜は紗夜の帰りを察知した。
「あーっ! おねーちゃん! ヘルプヘルプ!」
日菜はリビングを通り過ぎようとした紗夜の足にしがみつく。
「ちょっ!? なんなの日菜!? 離しなさい!!」
「お願いおねーちゃん! あたしを怒って!」
「いま現在進行系で怒ってるわよ!!」
「ついでに反省文の書き方も教えて!」
「いいからさっさと身体を離し──────待ちなさい。あなた一体何をしたの?」
そしてすったもんだの末、ようやく日菜が事情を説明し終えると、紗夜は頭痛を堪えるように自分のこめかみをぐっと押し込んだ。そして深くため息を吐くと「いいわ。付き合ってあげる」と了承の言葉を口にした。
「明日今井さんにお礼を言っておきなさい。今井さんから日菜が困っていたら助けてあげてと頼まれていなければ、自力でどうにかしろと言っていたところよ。───仕方ないから、彼女からもらったクッキー分は、手伝ってあげるわよ」
「おお、リサちー」
あなたが神か、と日菜は感謝した。必ずかの温厚篤実なリサちーに報いねばならぬと決意した。
姉妹揃ってリビングに入る。紗夜はテーブルの近くに鞄を下ろし、ギターケースを壁に立てかけた。
「それで、どうせ日菜のことだから、あなたにしか理解できないような擬音や抽象的な表現を多用して先生を怒らせたんじゃないの?」
日菜とテーブルを囲むように座りながら、紗夜が言った。彼女の言葉に日菜はム、と唇を尖らせる。
「あたしだってそこまで馬鹿じゃないよ。かしこまった文章くらい書けるもん」
「とりあえず、大まかでいいからどんなことを書いたのか教えてくれる?」
「えっとね。まず落ち葉だけで火をつけるのは結構難しかったから次からは着火剤を用意することでしょ。あと火の粉が中々曲者で無防備に焚き火を囲むと制服に穴が開いちゃうから、古着か何かに着替えないといけないかな。煙をずっと浴びてると服に臭いが付いちゃうから臭い対策も必要だった。ほかには───」
「もういいわ」
「えっ? そう?」
「ええ。ついでに私も確認しておきたいのだけど、あなた、私に喧嘩を売っているわけじゃないわよね?」
おおっと。まるでどこかで聞いたようなセリフが紗夜の口から飛び出した。そんなつもりはないんだけなー、と日菜は思う。不満が表情に表れていたのか、紗夜は深くため息をついた。
「いい? ここの論点は責任を取れる人がいないところで火を勝手に扱ったでいいのよ」
紗夜の言葉に、きょとん、と日菜は小首を傾げる。
「それ反省するところ? 風は無かったし、周りに燃え移るものが無いことは確認したし、すぐ消せるようにバケツ一杯の水は用意したよ?」
「私も日菜がボヤ騒ぎの対策を怠るほど抜けているとは思ってないわ。だからこれは、単純に監督する人がいなかったという一点について謝ればいいのよ。PDCAサイクルを回すこと自体は大事だけれど、こちらの方が反省文という主旨には沿っているでしょう」
「ふーん。むずかしいね、人間社会って」
「芸能界入りしてる高校生がこの程度の社会常識しか持ち合わせていないのって、とてつもなく不安なのだけど……。まあ、ともかく、はやく続きを書きなさい」
「はーい」
そして日菜は、紗夜との雑談を楽しみながら、どうにかこうにか反省文を書き上げたのだった。
◇
「うん。まあ、いいんじゃないかしら」
幾度かの推敲を終えた紗夜の言葉に、日菜はようやく一息ついた。「あー、終わったー」と一仕事終えた解放感に浸りながら、日菜はその場で横になる。寝転がった日菜は、手を伸ばせば触れられる距離にいる紗夜を見上げた。多少足を崩してはいるものの、彼女の背筋はピンと伸びて、気を抜かない優等生といった風情。真面目だなー、とつくづく思う。
そんな彼女の口が時折もごもごと動く様を見て、日菜は反省文を書き終えたら飴をひとつ食べようと思っていたことを思い出した。再び起き上がってテーブルの上にある小物入れを覗き込むと、中は黄色一色に染まっている。あれ? と日菜は小首を傾げた。たしか最後は食べようと思っていたリンゴ味の飴玉を一番上に置いたはず。と、そこまで考えて紗夜を見る。
「あー!! おねーちゃん食べちゃったの!?」
突然日菜が大声を出したせいか、紗夜は目を白黒させる。
「それが最後の一個だったのー! 甘いものが欲しい気分だったのにー!」
「知らないわよ。聞いてないんだもの。それに飴ならまだほかにもあるでしょう」
家族共有の嗜好を棚に上げて、紗夜はレモン味の山を指すが、当然日菜は納得しない。紗夜自身も面倒な言い合いになると察したのか、「反省文は書き終わったのだから、もういいでしょう」とそそくさと立ち去ろうとする。
「えー、そんなー」
嘆くような口ぶりで、逃がさないとばかりに日菜は紗夜の腰にしがみついた。
「じゃあおねーちゃんが飴の代わりに甘い話でもしてよー! 頑張ったあたしにごほーびちょーだい!!」
日菜は紗夜のなよやかなくびれに手を回し、紗夜の太ももに顔をうずめる。傍から見れば膝枕と言い張れなくもない体勢だが、完全に紗夜を拘束するためだけに機能していた。
「ちょっと日菜!」
日菜の両肩は掴まれて、紗夜に引き剥がされそうになるものの、日菜はぎゅっと腕に込める力を強めて抵抗の意志を示した。ほどなくして、頭上から諦めたようなため息が降ってくる。そして、ぽん、と日菜の頭に手が添えられた。
「───少しだけだから。少しだけ労ってあげるわ」
「うん」
満足気に日菜は頷いた。ああ、また姉妹っぽいことできてるなー、と日菜は幸せを噛み締める。
一昔前なら、ここまで距離を縮めることは許されなかった。リビングなんて家族共用のスペースには近付きもせず、こんな風にちょっとした言い合いをする機会すら無かっただろう。
そもそも反省文の書き方を教えてなどと言おうものなら、凍えるような目を向けられるだけで会話らしい会話なんて生まれなかったに違いない。
こうして我がままを好き放題言えるようになっただけでもかなりの進展で、日菜の生活は十二分に充実していた。
「日菜。もういいでしょう。退きなさい」
でも叶うことなら、もっとおねーちゃんと仲良くなりたいなー、と日菜は思う。見返りが欲しいわけじゃない。そんなもののために好意を伝えているわけじゃない。けれども、やっぱり、もっと構ってくれてもいいのに、と思わずにはいられない。事を起こすのはいつも日菜からだ。たまには紗夜からも自主的に動いてほしいと考えてしまうのは、自分が欲深くなった証左だろうか。
日菜は紗夜のスカートに顔を擦りつける。ここが引き際。これ以上は怒られちゃうなー、と思いながら紗夜から身体を離した。
そしてレモン味の飴玉が詰まった小物入れを頭上に掲げた。
日菜の突飛な行動に理解がおよばなかったのか、こてん、と紗夜が小首を傾げる。
うわっ! おねーちゃんやっば! かわいー! などとはおくびにも出さないでいると、紗夜から日菜へしゃべりかけてきた。
「……なにがしたいの?」
「爆発させる」
「やめなさい。それは妄想の中で終わらせるものよ」
日菜をたしなめた紗夜は、日菜が何かをし始める前に小物入れを受け取って、またテーブルの上に置き直した。そして、紗夜は日菜と向かい合うように座り直す。てっきり、紗夜はもう部屋に戻るものだと思っていた日菜は、どうしたのだろうか、と姉を目を静かに見つめた。
視線の先では、紗夜の顔がみるみる内に赤くなっていく。訝しんだ日菜が口を開く前に、紗夜が手を伸ばして日菜の両目を塞いだ。
「─────────」
そして、唇に柔らかい感触が生まれた。リンゴ味とともに舌先が擽られて、ころん、と日菜の口の中で飴玉が転がる。
「の、残りはあげるわ! これで文句はないでしょう!?」
自分からやりだしたことなのに、よほど恥ずかしくなったのか、紗夜はほとんど怒鳴るような声を日菜にぶつけた。日菜の両目の覆いが取れる。復活した視界には、顔を真っ赤にした紗夜が通学鞄とギターケースを引っ掴んで足早にリビングから立ち去る姿が映った。
紗夜が廊下へ続く扉を閉じるのと、日菜がカーペットに倒れ込んだのはほぼ同時。
「あ───────────────────────────────────」
あたたかなものが胸の奥から溢れてくる。日菜の不安なんてすべて吹き飛ばす幸福に溺れてしまいそう。直前の紗夜の表情が目に焼き付いて、それを思い返す度、死んでしまいそうになる。
「っじ、わっかんねー」
飴玉が溶けきるまで、からころと舌の上で転がそうとも、最後まで、その甘味を味わう余裕はできなかった。