世は戦国。中央政権の弱体化に伴い日本各地の権力者たちが武装蜂起、土地は権力者の数ごとに分割され、乱立した小国が三々五々戦火をあげる乱世の時代である。隣り合う国同士が有形無形の嫌がらせと小競り合いを繰り返し、場合によっては全面戦争の末、身分も目的も関係のない殺戮に発展することさえある。戦う力のない身分のものにとってはまさにこの世の地獄だ。
しかし辛くも戦火を切り抜け平和を謳歌する者もいる。
「どこもかしこも争うてばかり。一介の茶屋には厳しい世の中じゃ」
天を衝く霊峰のふもと、茶屋の店主、九郎はぼうっと空を見上げてつぶやいた。山の稜線にかかった夕日で空は血のように赤く染まっている。あの山の向こうではきっと、空よりも赤く染まった戦場が広がっているのだろう。知らずため息がもれる。
九郎はかつて葦名と呼ばれた小国で上流階級として育った身だ。しかし葦名の国力はまたたく間に落ち、内部争いをしているうちに内府に攻め入られ、滅んだ。
九郎は忠実な忍びの助力によってどうにか葦名を脱し、葦名の残党や内府の追手も手が届かない地へたどり着く。そうして前々から興味のあった茶屋を開いた。
書物で読んだ通り、縁台に赤の敷物をしいて洒落た番傘を設置。後は道を通りかかった旅人や商人を呼び止め、茶とおはぎでもてなしていくばくかの銭を得るつもりだった。
とはいえ世は戦乱。憩いよりも戦、甘味よりも武勲がもてはやされる時勢だ。その上、精鋭揃いの内府の人員さえたどり着けない秘境に位置していることもあって、めったに客がよりつかない。
「まあ、この時間も悪くはない」
縁台に腰掛け、ぼうっと空を見上げる九郎。中性的な顔立ちとさらさらの黒髪が夕日に照らされ、はかなげな美貌が際立つ。
九郎が葦名の国で真に落ち着いた時間は少ない。葦名の国力が陰る前からも、竜胤と呼ばれる九郎の体質をめぐった内部争いが絶えたことはない。
今や葦名の国はなく、竜胤さえもなくなった。売れずとも自分の茶屋の店先で落ち着ける現状に、九郎は満足している。
それに、客がまったくいないわけではないのだ。
「おお、マタギ殿。狩りの帰りか?」
「……」
「そうか。疲れたじゃろう。おはぎでも食っていかんか」
「……」
薄暗い山道からぬっと姿を現したのは、編笠と箕を着込んだマタギだった。右手にはヤブこぎ用の大きなナタ、左手には単発銃を携えている。九郎の茶屋に通う数少ないうちの一人だ。
室内でも編笠を外さないのと、あまりに声が小さくて聞き取りにくいこともあって愛想は悪いが、無愛想な男の相手は慣れている。さあさあ、とマタギを縁台に座らせて小屋へ茶とおはぎを取りに行こうとしたそのとき、
「おや、奇遇だね」
「げーる爺。一度に二人も客が来るとはのう」
マタギがやってきたのとは反対方向から老人が現れた。着流しと箕の間から覗く体はやせ衰え、手足は枝のように細いが、しっかりとした足取りと背に負う大鎌の威容が弱さを感じさせない。マタギと同じく茶屋の常連客、げーる爺だ。
げーる爺もマタギと同じく山中での狩りを生業にしていて、狩りの帰りに茶屋へ立ち寄ることが多い。しかし山ではなく村の方向からやってきたということは、わざわざ茶屋目当てでやってきたことになる。九郎はがぜん、やる気になった。
「今日は良き日じゃ。変若の御子よりいただいたお米で、とっておきのおはぎをごちそうしよう」
「おちのみこ……おお、あのいっとううまいおはぎが食えるのか」
「……」
「はは、お前さん、嬉しいならもっと声を張りな」
声を弾ませるげーる爺と小声で喜ぶマタギ。二人が隣同士で座るのを見届けると、九郎は茶とおはぎをこさえに小屋へ飛んで行ったのだった。
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九郎の茶屋で供されるおはぎには二つ種類がある。
一つは光り輝くおはぎ。葦名の国で生産されていた五色米と呼ばれる輝く米を使ってこさえられたおはぎだ。餡をどれほど重ねても光がかげることはなく、臓腑を通った後もなお輝いているとか。味はごく普通の米と変わらないものの、見た目のせいでよりうまく感じられる、とはげーる爺の言。
もう一つが九郎のごきげんおはぎ。店主九郎の機嫌がいいときにのみ供される特別な素材を使ったおはぎで、米の淡白な甘さと餡の濃い甘さが混ざり合った至上の味を楽しめる。
「うまい……」
「……」
その味を表するのに言葉はいらない、食えば分かる――とでも言わんばかりに一瞬で平らげたげーる爺とマタギは、そろって茶を飲んで息をついた。九郎は得意満面である。
「そうであろう、そうであろう。我が忍びの鉄面皮さえそのおはぎには叶わぬのじゃ」
「ほう、あの御仁も好きなのかね。そういえば彼はどこに?」
「金剛山へ米をもらいに行っておる」
このご時世、米は貴重品だ。民草はアワやキビ、ヒエなどを主食としている。ましてや餡まで使ったおはぎなどそうそう食べられるものではない。この難題に見事応えたのは九郎の忠実な忍びだった。
忍びの体術で金剛山を登り、頂上に住まう知人に米を譲ってもらい、鬼の仏に祈ることで五色米を増やすなど。忍びにしかできない方法で茶屋の仕入れ問題を解決している。
げーる爺は「ほう」と声をあげ、霊峰の方へ目を向ける。
「獣の巣食うこの山を越え、わざわざ金剛山まで。元気なことだ」
「ああ、まこと元気で頼りがいのあるやつじゃ。私の自慢の忍びなのだぞ!」
「ふふ、そうかね」
「……」
えっへん、と胸を張る九郎に微笑ましい視線が向けられる。
その雰囲気に気づいてか、九郎はわざとらしく「ところで」と口にする。
「元気といえば、げーる爺もそうであろう。その御年に山で獣狩りなど」
「ああ、仕方ないのさ。若い衆はみな、マタギをやるうち獣になってしまう。夢を見ることもなく」
「……?」
九郎は首をかしげた。
何かの言葉遊びだろうか。土地の情報とげーる爺の素性を今一度思い返す。
神々の霊峰に囲まれた台地にひっそりと存在する小国、矢南無の国。険しい山々と珍獣、奇獣が自然の要害となり、他国から干渉されることはほとんどない秘境だ。
この国では凶暴な獣たちに抗するマタギの職が重視される。茶屋の常連である無口なマタギやげーる爺もその職を生業としていて、げーる爺は国で一番の古株らしい、と九郎は聞いている。
げーる爺は遠い目で、血のように赤い空を見上げた。
「夢に囚われず、ただ血に酔い、獣となる。これでは後進が育つはずもない。見込みがあるのは彼だけだ」
「……」
「ふむ、戦はなくとも、また違った問題があるのだな。人の世とはままならぬものじゃ」
理解は及ばないながら、若いマタギが育ちにくいことは分かった。戦火のない土地でもやはり何かしら苦労はあるようだ。
ふむふむ、と分かったようにうなずく九郎に、げーる爺は笑いながら、
「あんた、しばらく店を畳みなされ」
出しぬけな営業停止を進言した。
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「それはどういう……」
虚をつかれた九郎はげーる爺の真意をはかりかね、言葉を失う。
どういうことか、と問いただそうとしたその時、異変に気がついた。マタギが立ち上がり、登山口に向け射殺すような強い視線を送っている。
その視線を九郎も追う。
山道から赤い西日のもとへ姿を現したのは異形。人と獣を合わせて無理やり歪めたような、醜悪な獣――ヤーナムの獣だ。
茶屋を開いてから一月は経っているが、山から獣が降りてきたためしはない。九郎は初めて見る獣の姿に冷や汗を流す。
(葦名の国の獣とは違う……)
葦名の国の獣たちはある理由で強く、ときに熟練の武芸者ですら猿一匹に敗れることがある。そういった強さとは違う単純な恐怖が、矢南無の獣にはあった。
だがマタギに恐れはない。
無口なマタギは獣が動き出すよりも早く、分厚いナタを振り上げ突貫。頭に叩きつけた。
痛みと驚きで獣は苦し紛れに歪んだ爪を振り回す。その間隙を縫うように一筋の閃光がまたたき、轟音が霊峰に響いた。マタギの単発銃が獣の腹を射抜いたのだ。
態勢を崩し、のけぞる獣。マタギは素早い足運びで近づいたかと思うと、真新しい銃創に手刀を突き入れ――臓物と鮮血が赤い花を咲かせた。
血の雨がマタギの笠と箕を赤く染める。矢南無ではありふれたマタギの狩りの一幕だった。
「じき、獣狩りの夜が始まる」
あまりにも乱暴な狩りと血抜きに呆然とする九郎の耳に、げーる爺の声が聞こえる。
「山に住まう獣共と神々が降りてくる。人と獣の境は曖昧になり、各々が好きな獣を見出し、狩るだろう」
その言葉の通り、薄暗い山道や藪の中から絶え間なく獣が現れる。出る端からマタギが飛びかかって瞬殺しているが、すべては狩れない。やがて九郎の茶屋に到達する者も出てくるだろう。
「門を固く閉め、獣除けの香を焚きたまえ。今日はこのことを伝えにきた。君のおはぎが食えなくなるのは御免だからね」
「ふ、ふふ」
九郎の笑い声にげーる爺がぴくりと片眉をあげる。まさか迫りくる獣の群れを見て狂ったか。
が、九郎はこの程度の窮地で参る精神ではない。凛として胸を張り、獣たちをにらみつける。
「あい分かった。獣狩りとはこの地の催しの一つ。であればマタギ殿たちには精のつく兵糧が必要じゃ。獣狩りの夜に限り、茶屋は夜通し開いておる故、いつでも参られよ」
「……」
と、威勢のいいことを言っている間にも獣たちは近づいてきている。
そろそろげーる爺の大鎌の間合いに入ろうかというころ、もっとも近い獣の首から刃が生えた。
「おや」
最古のマタギであるげーる爺をしてまったく気づかない隠密術だった。獣の背後から刃を突き刺した何者かは、傷口に手を添える。
するとまたたく間に真っ赤な血煙が茶屋の周囲を覆い隠し、獣たち、巻き添えで九郎たちの視界さえ封じてしまった。
何も見えない中でも九郎には分かる。標的の急所をひと突きで貫き、そのたびに血煙の術で目くらましを濃くしていっている忍びの動きが。
刃が肉を裂き血が噴水のごとく噴き出す音で血煙の内が満たされる。むせ返るような血の匂いに九郎は顔をしかめるも、げーる爺は慣れた様子で微動だにしなかった。
「んん?」
獣の気配も感じられなくなったころ、変化が起こる。
きいん、と固い金属がぶつかりあう高音。ひときわ大きなその音が聞こえてから、同質の音が断続的に聞こえる。獣の爪や牙と刃が打ち合ってもこんな音は鳴らないだろう。
嫌な予感が九郎の脳裏をよぎる。げーる爺は小さく苦笑していた。
血煙が少しずつ晴れていき、死体と臓物の絨毯の上に見えたものは、
「狼よ!? 何をしておる!?」
「九郎様」
「……!」
マタギによるナタの連撃を淡々と刀で弾く忍び――狼の姿だった。
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狼はすでに死んでいる。
九郎の望みは竜胤という呪いに等しい体質を断つことだった。しかしそのためには九郎が死ぬ必要がある。狼はこれを避けるため、九郎の望みを叶えつつ命を救う方法を模索し、実行。結果、九郎はただの人としての生を得、一方の狼は死んだのだ。
が、九郎が矢南無の地にたどり着いたその日、狼はひょっこりと蘇った。
どういうことかと尋ねる九郎に狼が訥々と応えて曰く、
『仔細は存じませぬ。幻廊を漂っていたところ、蛇のような、ツルのようなものに覆われ、気づけば異な造りの屋敷に。そこに生えておりました御神木に九郎様のご無事を祈って暫し後、ここに……』
九郎にはまったく解せない応えだったものの、最後まで自分のために尽くしてくれた忠義の忍びに再会できたのは望外の喜びだった。げーる爺がぼそっと『憐れな。上位者に見入られたか』と呟いたのにも気づかず、共に茶屋を営むことを決めた。
そんな狼が今、マタギと刃を交えている。
分厚いナタの一撃を愛刀「楔丸」で弾き、いなし、払う。時折差し込まれる単発銃の弾丸さえ弾き飛ばし、マタギの体幹が崩れるのを待つ。
一方、マタギは何も考えていない。背後に殺気を感じたので反射的に攻撃するとナタが弾かれ、臓物を引きずり出そうと流れでナタをふるい続けている。
獣のようなマタギの猛攻をひたすら弾く狼。傍目には防戦一方、しかし忍び独自の技法によって、マタギの体幹は着実に削られていた。
マタギ、不意をつき足を狙った下段攻撃。
好機とばかり狼は飛び上がり、マタギの体を蹴りつける。ぐらついた体幹が崩れ、無防備にさらされた急所を、狼の刀が刺し穿つ。
「……」
しかし急所を刺された程度で倒れるマタギではない。猛然と狼を振り払う。
一度で死なぬなら幾度でも殺すまで。忍びの基本を改めて思い返した狼は、先程とは一転して猛然と斬ってかかる。
それを読んでいたのか、マタギの手元がまばゆく光る。かと思うと狼の体勢が大きく崩れていた。単発銃の射撃だ。
銃創から臓物を引きずり出さんと手刀が迫る。
防御も回避も間に合わないと判断した狼は、左手の義手に仕込まれた義手忍具、「霧カラス」を発動。
カラスの羽が舞うとともに狼の姿がかき消え、互いの間合いの外まで移動する。
距離をおきにらみ合う両者。マタギは瓶詰めの血液らしきものを自身の太ももに叩きつけ、狼は瓢箪をあおる。二人の胴体に開いた風穴が瞬時にふさがった。
「狼よ!? 何をしておる!?」
「九郎様。ただいま戻りました。曲者が見えました故、成敗しております。今暫しお待ちを」
「すぐにやめよ! そのマタギ殿は客じゃ!」
「なんと」
狼は一つ血振りをすると、あっさり刀をおさめた。
「すまぬ」
「……」
マタギもナタと銃をしまったので、突然の死闘はおひらきとなる。勘違いで紛れもない殺し合いをした二人だが、気まずい空気はない。片や主の命であれば自身の命さえ厭わない忠義の男、片や狩りの邪魔なら何であろうと狩る生粋のマタギ。遺恨など残るはずもなかった。
狼が九郎のもとへ駆け寄りひざまずくと、それまで黙っていたげーる爺がゆっくりと立ち上がる。
「さて、私たちはそろそろ行こうか。狼殿がいれば、ここの心配は要らんだろう」
「……」
「うむ。休みたいときはここに来るといい。茶屋として獣狩りの一助となろう」
げーる爺は人のいい笑みを浮かべると、背中の大鎌を揺らしながら国の中央に向け去って行った。マタギも無言でそれを追い、九郎と狼だけが残される。
「獣狩りとは……?」
「この国の催しじゃ。人里に降りてきた獣を狩って回るらしい」
「斯様に、でございますか」
「斯様にじゃ……まずは片付けからかのう」
茶屋の周りは酷いありさまだった。血と臓物と死体、獣の千切れた四肢に体毛で血の海と化している。客をもてなす縁台はもちろん、炊事場と寝床を兼ねている小屋にまで肉片がこびりついている。
狼を獣狩りのような荒事に送り出す気は毛頭ない。狼はもう十分戦った。今夜も茶屋の番犬として働いてもらうのが一番だろう。
まずはこの国盗り戦もかくやという惨状をどうにかせねば――
「……!」
九郎の背後で死体となった獣が動く。
下半身のなくなった獣はノミのごとく跳ね上がり、九郎の喉元へ。しかし機敏に反応した狼によって胴体を貫かれ動きが止まる。そのまま胴から脳天へかけ開きにされたことで、今度こそ絶命した。
血と臓物の驟雨が九郎を襲う。
「大事、ありませぬか」
「へ、平気じゃ。かたじけない」
「この獣ども、まことしぶとうございます。今一度、死体を検めて参ります」
「……うむ、そうじゃな。頼むぞ」
「御意」
御子は引きつった笑みを浮かべつつ小屋の中へ下がった。外からは更なる血と臓物の飛沫が舞う音が聞こえてくる。
ふと、炊事場に目をやる。とたん、九郎は目を覆った。
金剛山へのお遣いの駄賃として密かにこしらえていたおはぎが血に塗れていた。鎧戸の隙間から入り込んだ血煙にやられたのだろう。
「捨てるか……」
「何でも食べまする」
「うお!? いつからそこに!?」
「何でも食べまする」
「……食いたいのか? 正気か?」
「何でも――」
「分かった分かった! 食え!」
おはぎの匂いを嗅ぎつけたのか、狼が背後に忍び寄っていた。
若干投げやりに九郎が血まみれおはぎを差し出せば、狼は「御意」と口に放り込む。なお、九郎の意ではない。
「うまい……」
「狼よ、お主……」
もう何も言うまい。九郎はゲテモノおはぎを頬ばる狼からも、血まみれの店先からも目をそらした。
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獣狩りのおはぎ
獣血に塗れた九郎のおはぎ
血とは生命であり、矢南無の特別な獣の血には、
微かに上位者の恩恵がある
竜胤の怨霊と化した狼が食せば、
予想もつかない効果が現れるかもしれない
御子が作ってくれるおはぎは、うまい
だから血塗れでも、きっと、うまい