※本作は小説版を未読の方でも楽しめるものとなっておりますので気軽にお手にとっていただければ幸いです。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
とでもいうと思ったか?
猫だが名前はちゃんとあるぞ。吾輩、これも堅苦しいな、私の名前はザンジだ。もう1匹の方はバルと言う。ザンジとバル、続けて読むとザンジバルとなるのだが、これがハンニバルと語感が似ていて割と気に入っていたりする。
閑話休題
私には市ヶ谷有咲という主人がいるのだが、これが中々に可愛らしい娘なのだ。
私と彼女が最初にあったのは、今から10年ほど前、まだ彼女が小学生の頃だったらしい。彼女が私にそう教えてくれたので真実は定かではない。
彼女の家の近くにある蔵の近くで野良猫が産んだ子猫のうちの1匹が私だった。それを引き取ったのが、私と彼女の初めての出会いだ。
私が覚えている最も古い記憶は、彼女の愛らしい笑顔だ。
ぽかぽかとした暖かな日差しが差し込む縁側で、彼女の膝の上に乗ってふしだらな体勢で寝っ転がり、腹回りを撫でてもらっていた時に見た彼女の慈愛に満ちた顔が、私の海馬を刺激した初めての出来事だった。
私が次に記憶したのは、彼女の声だ。
まだ彼女の父が生きていた時、彼はよく質屋の店番をしながらごくまれにギターを弾く時があった。
紅い、星形のギターをアンプには繋がずに静かに弾いていた。彼女は彼の横に置かれた小さなベッドで、綺麗な歌声を八畳の世界に響き渡らせていた。私はそれを陳列された品々の合間に出来た隙間に器用に体を丸めて眠たげにそれを聞いていた。それが、私が覚えている彼女の初めての声だった。
その次が、彼女の涙だった。まだ油蝉の声がけたたましく鳴り響く頃、幼い有咲を残して彼女の父は天国へ旅立ってしまった。その日、彼女は喉の使い過ぎで死んでしまうのではないかと思うほどに泣いていた。人見知りで学校にうまく馴染めなかった彼女にとって、父は唯一の心の拠り所だったのだ。母は仕事で東奔西走していて常に彼女の近くにいた私ですらも彼女の姿を見たのは盆休みと正月くらいだろう。
泣いた。ひたすらに泣き続けた。それは彼女だけに留まらず、気づけば空すらも陽が落ちると共に泣いていた。滴る雨粒が街頭に反射して、流星群のようだったのをよく覚えている。
気づけば、私は彼女の足元で顔を擦りよせていた。もう泣かないで。まだ私がいる。父のようにギターは弾けないし、貴方を喋れないけど、私は貴方の隣にいるから、泣かないで。
あらん限りの気持ちを額から彼女の足を通して心に届くよう、何度も何度も顔を彼女へ押し付けた。
無我夢中で頭を動かし続けていると、身体が宙に浮く感覚がした。彼女が私を抱き上げたのだ。
収まった胸からドクドクと彼女の心臓の音が私の五臓六腑を震わせてくる。
目は赤く腫れ、鼻水は垂れたまま乾いた姿をして顔にこびりついたまま、彼女は不器用に笑っていた。頰には涙と雨のいくつもの透明な筋が枝分かれして膜が出来ている。
身を捩り、彼女の口元や頰を前足で擦る。
「わっザンジ、痛い痛い。」と彼女は言った。新しく赤い線が5本ほど加わったが、涙と雨の跡を悲しみと共に拭い去れた気がして私は妙に嬉しかった。
そこから、変わったことがいくつかある。
まず1つは、有咲が堂々とした振る舞いをするようになったこと。今までの人見知りで気弱な彼女の面影は何処にもなく、自信に満ちた顔で父がやっていた質屋の接客をこなすようになった。丸で、彼に私は元気にやれているから心配しないでね、と言っているかのように。
しかしそれは後付けのハリボテに過ぎず、店を閉めた夜なんかになれば彼女は時々私を胡座に置いて静かに毛並みの良い背中を撫でながら涙を落とすこともあった。
次に変わったことは、バルが新しく家族になったことだろう。父が死んだ1週間後、いつも通り彼女と私が店番をしていた時、彼女が店のドアを器用に開けて入ってきたのだ。
少し小柄でやせ細ったオスの猫だった。
彼は2、3周ほど店をグルグルと回り、最後に有咲の顔を見て目を弓なりに細めた後、彼女の上膝の上に飛び乗って気持ちよさそうに寝てしまった。その態度に、私は思わずあの白猫は彼女の父の生まれ変わりなのではないかと疑ってしまったが、流石にそれはないだろう。
こうして新たな家族と仮面を被ることを覚えた彼女との生活が数年続いたある年の春、彼女の運命を大きく変える出来事が起こった。
彼女は高校1年生だった。この頃にはもう虚勢なんてものは存在せず、時折昔の片鱗を見せることはあれど彼女の気丈な振る舞いは確かに彼女の性格の一部として馴染んでいた。
その日は彼の命日だった。例年通り、彼の真紅のランダムスターを店頭に立て掛け、陽の目を浴びせていた。
朝の8時半頃だろうか。店の前に、1人の女子高生がやって来たのだ。息は絶え絶えで肩で呼吸をしている。切り揃えられた茶色の前髪が汗で額にへばりついている。
彼女は吸い寄せられるようにランダムスターを見ていた。それが運命だとでもいうように、彼女は銀河のようにキラキラした目で紅の星から一度たりとも目を離さなかった。
彼女が来てから20分くらい経ったくらいだったか、ガタリ、と音が聞こえた。主人が席から立って彼女の元へ向かう。
星のような、あるいは猫のような髪型をした彼女の斜め後ろで主人が声をかける。こもごもとした話し声が開いたドアから店内へ届く。やがて、「ごめんなさい!」と3回ほど謝罪してからとダッダッと駆ける音が聞こえた。「おーい!」と主人が声をかける。少しだけ足音が止まったが、またすぐに再開し、遠くへと消えていってしまった。
そして運命の歯車がギギギと歯ぎしりを立て始めたのは同日の夕暮れだった。
太陽が傾き始めた頃に、彼女は再び姿を現した。朝と同じようにショーウィンドウを見ていたが、表情はあまり優れていなかった。
それもそうだろう。彼女の御目当てであるあのギターは数分前に主人が蔵に閉まってしまったのだから。今はスタンドが残っているだけだ。
少女がいることを知らない主人が、スタンドも片付けようとショーウィンドウの襖を開ける。途端、外から聞こえる叫び声。金のツインテールがかすかに揺れる。数秒ほど主人はじっとしていたが、その後すぐにスタンドを手に襖を閉め、出入り口へ向かう。
出入り口でしばらく2人の話し声が聞こえていたが、やがて蔵に向けて2人は足を進めていった。1人でいても寂しいだけなので、私も移動することにした。
疲れが溜まるようになった身体を動かして蔵に入り、急な階段をすいすいと登る。なるべく2人を邪魔しないように、そろそろと気配を消して隅に行き、彼女達が見えるように角度を調整して丸くなる。
茶髪の彼女−後に名前は戸山香澄だと聞いた−はツンツンと幸せそうな顔をしてギターを突いていた。
「ねえ、……あんた」
呆れた表情で壁にもたれていた主人は言った。
「それはギターだよ。装備しないと意味がないよ」
「……武器?」
「そう。ギターはね、戦争だって終わらせちゃう、最強の武器なんだよ。だから装備しないと」
「装備……って」
らちがあかないと思ったのか、主人は壁から立ち上がり、スタンドに立て掛けたギターを手に持った。
「ほら、あんたも立って」
「……はい」
「ストラップを首に通して、こっちの手を抜いて。っと、そう。左手でここを持って」
ぼうっと突っ立っている香澄の周りをテキパキ動き、彼女にギターを装備させていく。嬉しいのか、はたまた恥ずかしいのか、彼女は顔を赤らめて体をもじもじさせている。
「うん!これでよしっと」
満足気に主人はそう言い、三歩下がったのち敷かれていた座布団にドスン、と腰を下ろした。
神妙な顔つきになっていく主人が気になり、彼女の目線の先へと視線を動かす。猫耳の少女は真剣な顔をして深紅のランダムスターをじっと見ていた。そして左手でネックを掴み、右手をそっとボディへと添える。
彼女を中心に世界が変わる感覚がした。銀河のような輝きとキラメキが彼女から静かに溢れ出す。彼女ははるか遠くの何かに耳を澄ましている。透明で、何光年も先にある何かに必死に手を伸ばしているようだ。
視界の端で、主人も同じように目を見開いているのが見えた。彼女もあんなに「地味」という言葉が似合う彼女からこんなものが見られるとは思わなかったのだろう。
泡沫の夢のように、儚く、美しい彼女の世界。
静かに、香澄は閉じていた目を開く。宇宙のように未知数の輝きを内包した目が主人を捉える。
「……聞こえた」
ぽつりと、彼女は言った。
「やっぱり聞こえたよ!有咲ちゃん」
「ええ⁉︎ 何が?」
急に彼女に呼ばれて、主人が驚く。
「すっごく微かだけどね、やっぱり聞こえたの。星の鼓動が!」
「星の、鼓動?」
「うん、確かに聞こえたよ!つかまえた!やっぱり聞こえた!」
くるくるギターを持ちながら彼女はきゃあきゃあ回ってはしゃいでいた。
「凄い凄い凄い凄い!凄ーい!」
ジャーン!と爪でギターを鳴らしながら、なおも彼女ははしゃぐ。
「あのね、わたし小さいころ、星の鼓動を聞いたの!もう聞こえないかと思ってた!」
「でもわかったの!それはきっと、わたしが聞こえないフリをしていただけ。空を見あげれば、いつだって星は輝いているのに!」
彼女はまたジャーン!とギターをかき鳴らす。残響には目もくれず、少し音が小さくなったら、またジャーン!と大きく鳴らす。
「……かすみん、その、星の鼓動ってのは、なんなの?」
「トクン、トクンって、星の声が聞こえるんだよ!」
驚愕した表情で聞く主人に、かすみんと呼ばれた彼女はそう答えた。
ジャカジャカジャカジャカと、ギターのの音が防音対策の施された蔵にこだまする。
[……かすみんって、……もしかして、……ランダムスタ子なの?」
「ランダムスタ子⁈ 」
あはは、と豪快に笑った彼女はギターを、ジャーン、とやった。
「そう、わたしスタ子!ランダムスタ子!」
ランダムスタ子と呼ばれた香澄はくるん、とその場で回り、ゴキゲンなエア演奏を披露した。主人の目がいったいなんなんだ!とでも言いたげに開かれている。
「まあ……、なにか惹かれあうものが、あったのかもね」
「そうなの!惹かれたの!わたし今朝、この子に呼ばれた気がしたし!」
「へえー」
感心した様子で主人は呟く。
そして主人はスタ子と同じような輝きを帯びた目で、うれしそうにギターの弾き真似をしている彼女の後ろに回り、棚から一枚のレコードを取り出す。真っ黒なレコードジャケットに血のような文字で、KISS ALIVE II、と書かれている。
「今日はお父さんの命日だからね、ど派手に行ってみようか」
そう言って主人は、プレイヤーの電源を入れて、レコードをターンテーブルの上に乗せる。
「わ、レコードだ!初めて見た」
ギターをぶら下げたまま、ひょっこりと香澄は主人の後ろからその身を覗かせていた。
「そのギターの持ち主が大好きだった、ライブアルバムよ」
回転するレコード盤の端を、主人は慎重にありを下ろした。ぼっと音が鳴る。少しの静寂。そして始まるユメの時間。
─YOU WANTED THE BEST!
ボーカリストの煽るような叫び声が、コンサートホールに響く観客の歓声をかき消す。
「わ!これなんて言ったの?」
「お前ら最高が欲しいんだろう?みたいな感じ?」
「へー!」
そして、「デトロイト・ロック・シティ」のイントロが流れ出す。歪んだギターが唸りを上げる中、主人は音量を限界まで上げていく。
「わたしは'最高'が欲しい!」
デタラメにギターを弾き、ノリノリな香澄はそう叫んだ。
「ロックンロール!」
主人もホウキを手にとり、二人はエアジャムセッションを開始した。
音楽に合わせて踊りながら、大声で交わされる会話。
彼女たちは、背中をくっつけて楽器をかき鳴らす真似をした。回って回って回って回って膝で立って、時には頭をブンブン振り回しながら楽器をかき鳴らした。
ランダムスターが香澄の動きに合わせて流星になって目まぐるしく上下左右する。新しい相棒を見つけたとばかりに唸り声をあげる。
気づけば私も、リズミカルに尻尾を振っていた。感慨深げに、二人を蔵の隅でじっと見る。
最後に視線を交え、ジャーン!とギターを鳴らし、ポーズをとった。あははは、と二人は笑いながらハイタッチをする。引きこもりの主人は力尽きたようにぐったりとした様子でプレイヤーの音量を下げていたが、香澄はまだ踊り足りないのかさらにくるん、くるん、とに回転していた。
「夢を撃ちぬけ!」
ギターを銃のように構えて、香澄は突然そう言い放った。
ギターの照準を合わせる。その先には「夢」という文字が飾られた額縁が蔵の内壁に掲げられている。
「夢」に狙いを定め、彼女は声高らかにこう言った。
─BANG!DREAM!
運命が動く音が五臓六腑を駆け巡る。私と、主人と、一部の人しか知らない言葉を、香澄は確かに口にしたのだ。
主人も衝撃で動けないでいる。
やがて、にこりと笑って、ゆっくりと香澄はギターを下ろした。
ランダムスターのギターの余韻も消え去り、曲は完全に終了した。
「あれ?どうしたの?有咲ちゃん?」
首を傾げて、香澄は主人の方をじっと見る。固まっていた主人がようやく動いた。
「……あんた……今のは……。ねえ!あんた今なんて言ったの?」
「んん?」
疑問符を浮かべながら、香澄は再び首を傾げる。
「BANG! DREAM! って」
「それ!それって、どうして?どうしてそんなこと言ったの?」
「だって、夢って書いてあったから?ギターは最強の武器だって、有咲ちゃん言ってたから、これで打ち抜いちゃおうかなって」
香澄は無邪気にそう答える。つまり、彼女は何も知らずにこの言葉を発したということになる。これを運命と言わずしてなんと言おう。
「あんた……いったい……」
主人がそう呟く。
4月18日午後6時過ぎ。この時、確かに物語は幕を開けた。
それからの彼女たちの日々はまさに波乱万丈だった。ギターを始める香澄に教えるために、主人だってやったことがないのに夜な夜なパソコンでパワーコードなどを調べてあげたり、壊れていた父の機材を直したり、彼女自身も新しくキーボードを始めたり。もう依存してると思ってたゲームたちを売り払った時はおもわず泣きそうになったのは秘密だ。
気づけば、香澄はギターを弾けるようになっていた。主人のキーボードも上達して、仲間も増えた。
ピンクの髪留めに、ピンクのピックでピンクのベースを轟かす、
常にパーカーを着ていて濡れ羽色の艶やかな髪を腰ほどまでに伸ばし、雷鳴のようにギターをかき鳴らすうさみみサンダーボルトの花園たえ。
はしばみ色のポニーテールを揺らし、三つのスティックと巧みに操り豪快に、繊細にドラムを叩く、三刀流の山吹沙綾。
Bang Dreamの運命に導かれて、彼女らは集まり、Poppin'Partyを結成した。
香澄がスランプに陥って活動ができなくなった時もあった。五人みんなで海に行ったりした時もあった。他のバンドと出会って多くの刺激を受けてもっと頑張ろうと励ましあった日があったし、逆に頑張りすぎてメンバーみんなが体調を崩してしまっていた日もあった。仲違いしたり、傷つけてしまったり、仲直りしたり。プレゼント交換したり、一緒に年越したり、お泊まりしたり。
喜びも悲しみも、笑顔も涙も、全ては星となり、彼女たちに輝きを与えた。辛い時も苦しい時も、彼女たちは支え合ってそれらを乗り越えてきた。
私はそれらをずっと見てきた。全てを見て、お門違いかなと重つつも、ともに喜んだり落ち込んだりした。
猫の鳴き声と、ゲームの効果音と、レコードの音楽しか鳴らなかった蔵に、ギターが加わって、ゲームが消えてベースが加わって、キーボードが加わって、またギターが加わって、そして最後にドラムが加わった。
遺品であふれていた蔵が徐々に彼女らのもので埋め尽くされ、輝かしい成長の証となっていった。
父が死んでから、香澄たちに出会うまで、主人はずっと独りだった。いたのは、二匹の猫だけ。私は心配することはできても、彼女と話せる口はないし、彼女を抱きしめれる体もなかった。それが私はずっと悔しかった。
もし私が人間だったなら、彼女の話を夜が明けるまで聞いてあげただろう、悲しみにくれた彼女をそっと優しく抱きしめ、慰めただろう。でも、私には彼女に柔らかな毛を撫でさせ、頬を摺り寄せることで彼女の孤独を紛らわせることしか出来なかった。それで少しは紛れていたようだったが、彼女はずっと独りだったのだ。
それが報われたのだ。星のカリスマに出会って、ランダムスターの音色を響かせたあの時から、もう彼女は独りじゃなかった。香澄がいて、りみがいて、たえがいて、彩綾がいて。笑顔が増えた。笑い声をよく聞くようになった。夜に泣く日が減った。私を撫でるが、減った。
少し寂しかったが、同時に嬉しくもあった。彼女には、ともに人生を歩く仲間がいる。喜怒哀楽をともにし、分かち合える友がいる。もう、私が猫なで声を発する必要はなくなった。もう、私がいなくても、彼女は歩いていけるのだ。それが、たまらなく嬉しかった。
そういえばどうして私はこうやって過去を懐かしんでいるのだろう。今まで忘れていた記憶すら今は湯水のようにポンポンと出てくる。
思い出した。私は今死に向かっているんだ。
懐かしい記憶の数々が絶えず頭の中を駆け巡る。猫も走馬灯を見るのだなと他人事のような感想が湧き出る。
目の前には今まで見てきたのよりも大きく育った彼女がいる。
太陽よりも輝かしい金髪を左右に携え、肌は陶磁のように白く触り心地の良い肌をしている。すらりとしているが女性として出るところはしっかり出ており、肉付きも良いためガリガリといった印象はなく、寧ろ包容力や母性に満ち溢れている。
そんな彼女が泣いている。私のために泣いている。
こんなにも嬉しい事があるだろうか。ペットという与えられるだけの存在として生まれた私のために彼女は目を腫らしているのだ。
それだけでも私は彼女の元に生まれてきてよかったと思える。
人間と猫という壁がある以上、私が先に旅立ってしまうのは仕方がないことだろう。
でも、私は他の猫たちのように1人でひっそりと息を引き取ろうとは思えなかった。
私は市ヶ谷家のザンジとして生まれたことに誇りを感じていたし、1人で死ぬことは主人を見捨てているような気がしてならなかった。
「いや!ザンジ!いかないで!」
悲痛な叫びが大気を震わせる。霞む視界に懸命に力を入れて、置かれている状況を確認する。
主人、有咲が私を抱き抱えて泣いている。その周りには彼女の仲間である香澄やりみを始めとしたPoppin’Partyのみんなが心配げに有咲と私を交互に見ている。
暖かな温もりが全身を包む。零れ落ちる涙の冷たい感触が背中に輪郭を浮かび上がらせる。
彼女は、いつかの日のように、私を抱きかかえて泣いていた。
ならば、私がすることはたった1つだろう。
虫のような意識をかき集め、命を削るように前足に力を込める。ナメクジのように遅い速度でゆっくりと彼女の頰に近づく。
点滅する視界でようやく肉球に柔らかな感触が伝わった。
最後の仕上げとばかりに全身のエネルギーを前足に集中する。
今までの十数年の想いがすべて相手に届けたい。
切れそうな意識を全力で引き止め続ける。
まだ、まだ消えるな。伝えたりない。言い足りない。
あなたへの感謝が終わらない。
貴方への愛情をまだ注ぎ切れていない。
まだ貴方から愛されていたい。
貴方の声を、笑顔を、私はまだ見続けていたい。見届けたい。
力を込めた前足に彼女がそっと手を添える。
泣き止まない顔で、私にはにかんだ。
幸せが体の中で踊り回る。
21グラムの魂がどんどんとその重さを増していく。
─ありがとう、主人。私は、貴方に会えて、幸せだった。
最後にそれだけを込めて、私は意識を手放した。
力無く垂れた前足は、彼女の頰に5本の赤い線を作り上げていた。
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