稗田阿求は見たもの全てを覚えている。
 そして、夢を見ない。覚えていないのだから、夢を見ないということなのだ。なぜなら見たもの全てを覚えているから。
 ある雪の降る冬の日、訪れた小鈴の奇妙な提案で阿求の日常は変わっていく。

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閃光少女

 私は見たものを全てを覚えている。

 夢は記憶を整理するためにあるという説があるが、夢を見ないということは整理する必要もないくらい覚えているということなのだろうか。或いは覚えていないだけなのか。しかし、覚えていないということは、見ていないということなのだ。

 何故なら、私は、見たもの全てを覚えているのだから。

 私は夢を見ない。

 夢を見たら、どこへしまっておけばよいのだろうか。どこへ預ければよいのだろうか。(もしくは、どうすれば、いつまでもそう悩んでいられるのだろうか)私はその方法を知らない。

 こんなにも豊富な知識を持っているというのに。

 

 ◇

 

 朝目が覚めて天井の木目を見つめ、じっとうずくまっている時間が憂鬱だった。広い部屋で中央に布団を敷き、私は稗田阿求であるとじくじく体が記憶を染み込ませていく。ともすれば、私は私であるということを忘れていたかのようであった。

 思い出す、という行為がどれ程私にとって恐ろしく愚かなことか。同時に、私も人の子であるとつらつら文字を重ねるより、もっと速く、もっと確実に、感覚的に理解に至った。

 体勢を変え、布団を引っ張り上げる。

 外に出ている顔が異常な程冷たく、死人の方が余程温かいのではないかと錯覚した。ぶるりと震え、顔まですっぽりと布団と毛布の間に挟みこむ。

 じっとそうしているのは辛かったが、次第に心臓まで熱を感じた。後から分かったことだが、雪の日だった。

 

「阿求様」

 

 微睡み、下に落ちていくような感覚がした。体が己の物でないかのように跳ね上がる。帰還。一瞬で転覆した舟が湖の底から戻ってきた。

 はあっはあっと酸素を求めて息を荒くする。着物と素肌の間を冬の冷気が通り抜けていく。気持ち良かった。足元はむわりとまだ熱が残っている。

 冷えていく上半身とは対照的に、汗が粒となって病的な細い足の上を転がっていく。それを見て、というよりは見とれていたように感じられ、布団の上にぽつねんと座り、はああぁっと息を吐き出した。

 どうやら眠っていたようだ。侍女が名前を呼んだことを思い出し、はい、と声を返す。声が寝惚けている。顔に血が上るのを感じた。

 

「おはようございます。お目覚めは如何でしょうか」

「おはよう。別に普通よ」

 

 追い討ちをかけるような言葉に、火照る顔が強く意識された。一体、今は何刻頃なのだろう。外の様子を伺ったが、ただ外は冷えるだろうと部屋の氷菓のような優しい澄んだ空気に、思いを馳せる他なかった。

 これでは侍女たちに、いや、里の者に示しがつかない。襖の後ろに控えている侍女のことを思い、姿勢を改める。

 

「それはよろしゅうございました。実はご友人の方がお見えになっておりまして」

 

 言葉に、小鈴の顔が浮かんだ。私を訪ねる友人と言えばあの子くらいしか居ない。急に目の前がはっきりしてきて、これが現実だという気がした。

 現実味を帯びている。

 これが夢ではないと言うのは分かっていたけれども、ああ、一日が始まったのだと妙にしっくりきた。

 そうとなれば着替えねば。

 食事をせねば。

 あの子を迎える準備をせねば。

 頭が冴え晴れ、朝の憂鬱を消していく。今日の天気は晴れだ。雪は降っているけれど、晴れだ。

 

「それを早く言いなさい」

 

 ◇

 

 遅い朝を迎えた今日という日は、大変だった。朝は低血圧でほとんど体が動かない私だったが、気分はもう何処までもずんずんと進む機関車のようで、だがそれもやはり気分だけで、体が気持ちについていかないの、と彼と付き合いたての病弱な令嬢のようなことを言った。侍女は笑って、それはあなたのことですよと言った。私は真っ白な顔でふくふくと笑った。

 

 小鈴は客間で待たされているようだった。私は小鈴なら食事中でも通していいと思ったのだが、余程酷い顔をしていたらしい。

 どうかスープを一杯、と差し出された。私も小鈴と言えど、あまり余計な心配を掛けてはならないとスプーンを手に取る。

 着替えを済ませ、顔を洗って部屋に戻ってみると布団は片付いていた。私はそのような不思議に、いちいちとり憑かれる性分ではなかったが、今日ばかりは見とれていた。廊下は部屋よりやはり冷え、私はその時初めて外は雪が降っているのだということを知った。

 

 白というのは純潔を想像しやすいが、私にとって白とは温かさを引き立てる冷たさとは別の何かであり、およそ純潔とはほど遠く、何者も知っているような不吉な色であった。

 スープをスプーンでとろりと掬い、通り掛かった侍女に布団をありがとうと言った。侍女は驚くこともなくええ、いつも聞いていますよと言った。

 

 慌ただしい屋敷の音に耳を澄ませながらスープを一杯飲んだ。あまり沢山は食べられない私に、職人は気持ちのこもったスープを作ってくれる。

 温かい玉ねぎのスープだった。

 陶器の白を手で包み、これも温かさを引き立てる何かであると考えていた。陶器の冷たさではなく、スープの熱を伝えてくる。

 食事を終えて、口をゆすぎ、客間へ足を運んだ。顔から部屋に入ると小鈴は本を読んでいた。

 

「小鈴」

「ああ阿求、おはよう」

「おはよう。待たせて悪かったわね」

「うん。ちょっと待って、今いいとこだから」

「ゆっくりでいいわ」

 

 小鈴は一度本から顔を上げ、挨拶をしたものの本を置くことなく読み進めた。紙を擦る音。静かすぎて、耳を伝うぴしぴしという音。部屋の隅では金属製の火鉢が燃えていた。あったかい。冬だ、という感じがする。

 

 外に出過ぎないことはない。幻想郷縁起を纏めるには外へ出て取材も必要だし、小鈴の実家の鈴奈庵にもよく行く。普通の女の子のように甘味処を求めて歩くこともある。けれど、家に篭りきって出てこないこともあった。

 そういうとき、小鈴が訪ねてきたと分かると今まで耳が通っていたはずなのに、ぶうんと蜂が通り過ぎ、チクリと膿を刺し、瞬間、いきなり本物の空気というものが刺されてできた穴から入ってくるような気分になる。

 出された紅茶を飲み、小鈴の笑いもしないその顔を拝み、どうしようもなく私には小鈴が、友人が必要だと分かった。

 小鈴も白なのだと思う。

 だがその本質が何処にあるか分からない。確かに伝わってくる熱が、温かさが好きだ。

 私は雪が好き。冷たさも好きなのだ。冬も好きだった。

 

 かちゃり、と鳴る。

 小鈴が眼鏡を外し、冷えた紅茶をすすった。もしかして、彼女はうちの温かい紅茶というのを知らないのかも知れない。迷いなく口を付ける度胸には恐れいる。

 

「待たせたね」

「お互い様だわ」

「そう」

「何か用事でもあったの」

「用事というか頼みたいことが……」

「頼みたいこと?」

 

 小鈴の言う頼みたいこととは大抵すっとんきょうで、彼女の興味が底知れなく深く浅はかだということだけは確かだった。子供じみているので、私がそこを止めなければならない。

 

「絵を描いてほしいの!」

「絵」

 

 これはまた別の角度から来た。

 いつもの如くぱちん、と両手を合わせ小鈴は顔の目の前で拝む。ぐいと前に体を押し込むことも忘れない。一瞬私が稗田阿求であることを忘れそうだった。何を頼まれているのかいまいち理解出来そうにない。小鈴の頼みは至極単純明快であったが、眉をひそめる。

 待て待て、と小鈴を座らせる。頭は冴えていたがううむ、と唸った。

 

「絵って、なに」

「自分の部屋に飾りたいの。昨日の夜はよく冷えたでしょう。今日は雪が降って、寒くて。今は火鉢のある部屋で、暖かいなって感じるわけ。これも風流だけど、やっぱり夏が恋しくなるのよね、私は。だから私は自分の部屋に夏の景色の絵を飾りたいの。それで私は描けないけど、阿求なら描けるかなあと思って。見たもの全て、覚えてるんでしょ」

 

 それらを小鈴は一息で話し、夏に二人で見渡す限りの向日葵を見たことを話した。その様子を描いてほしいらしかった。私は呆気にとられ、まさかここで見たもの全てを覚えてる、なんて言われるとはと舌を巻いた。

 小鈴とは長い付き合いだけど、彼女が私の記憶力を記憶しているという自信はなかった。勿論、小鈴は知っているはずだと分かってはいるのだが、案外、彼女は私を普通の人間と区別しない。

 本の虫になりすぎていて、そこらへんの機能が低下しているというよりは、抜け落ちていた。だから、私は小鈴が私ではなく私の能力に頼るということに少々驚いたわけだ。

 

 しかし、なるほどね。見たもの全てを覚えてるから絵だって描けるでしょうと。だったら私は今頃天才的な画家になっている。写実主義の画家と言えばフランスのギュスターヴ・クールベが有名だったはずだ。外の知識だが、これは小鈴から教えてもらったことである。クールべのように描けるのだったら、私も描いてみたい。

 幻想郷縁起に纏めている妖怪や一部の英雄たちの像は私が描いたものだが、それにしたって褒められるようなものではなかった。直接会うことの出来ない妖怪もいるため、他人に人相を聞きまわってやっと描けるものもいる。

 そんなときは、大抵気が狂いそうなくらい筆先を見つめていた。

 

「私、描けないわ」

「どうして?」

「どうしてって……当たり前でしょ。覚えていても、それを描けるかどうかなんて別の話だもの」

「阿求なら出来るって!」

「どこから来る自信よ?」

「どこって、分からない?」

「分からないわ」

「私は知っているわ」

 

 小鈴は落ち着き払ってきちん、と座布団の上に座り直した。そうして、畳の上に緑色の葉を置いた。私は葉を差し出され、それに視線が釘付けになっていくのを、拒んだ。その葉はみなぎる力を持っていた。

 薄目で確認すると、それはどうやら向日葵の葉のようだった。人の手程の大きさ。冬の雪の日にも青々と光続けるその姿。

 次第、私はそれを受け入れた。受け入れると、色々なことが呼び起こされてきた。

 小鈴と二人で向日葵畑を見たその日、小鈴は茎から落ちた葉を手に取り、私に言った。「明日は、どこ行く?」「まだ遊ぶの」「だって、夏はこれからでしょ」「夏は来年だってあるじゃない」「うん。だけど、ね」あの時の向日葵の葉だ。「私、背、伸びたんだよ」「阿求より高くなった」

 

「何を知ってるのよ」

「向日葵の葉の青さ。記憶の中の空の青さ。向日葵畑の雄大さ。あの夏の暑さ。蒸し暑さ。私がこれだけ覚えてるのに、あんたが覚えてないわけないでしょ? 記憶の中のあの景色をなぞるだけでいいのよ。上手くなんてなくていいから、欲しいの」

 

 私は確かに覚えていたが、小鈴が話すのを聞いて初めて違うのだなと思った。

 何が違うのかというと、記憶の仕方が違った。小鈴が言うのは写真機のように景色を切り取るやり方だが、私のは記憶をそのままは取り出せない。

 何故なら、記憶とは人の思いが入ったものだから。無秩序に言葉を置いてはならない。何故なら、それは阿求の記憶であり、私の先祖の乙女の記憶ではないから。

 私は私の思いの入った記憶というのは曖昧だった。その時何を思ったのか、ということは私は覚えてはいられなかった。いや、覚えている。覚えているのだ。

 けれど、見たものを全て覚えているのとは違う、と戸惑いつつも空から降ってくる雪を人肌で溶かすように、分かってしまった。

 

「いいの?」

 

 私は言った。何がとは言わなかったが、小鈴はにっこりと笑って頷いた。

 

「じゃあ、やるわ。仕方ないわね」

「ありがとう阿求! 恩に着るわあ」

「ただし協力してよ。仕事じゃないんだから」

「うん、するわ。何でも言って」

 

 絵を描くことにした。去年の夏、小鈴と二人で見たあの向日葵畑を描くことにした。友人から頼られるというのは嬉しかった。それに、描いてみたいと思った。自分の記憶を。

 何代もの記憶を持っていながら、ただ会話を5分もしないうちに新しいことを知ることになる。今度ばかりは小鈴に感謝した。冷えた紅茶を飲み、これから始まる新しいことに湧いて出る空想の雲をむくむくと膨らませる。むふふと笑っているのを小鈴に見られ、背筋を伸ばした。

 

「阿求嬉しい?」

「なんで私が」

「阿求さ、暇そうだもんね」

「そ、そんなことないけど」

「そう?」

 

 考える間もいらない。

 

「だって小鈴がいるし」

 

 今の世の中は暮らしやすくなった。表向きだけでも人間たちに有利なルールも出来たし、妖怪と知り合いになり、変わらない平穏な日々というのを意識することもないくらい平穏だった。けれど私の周りでは何事か退屈しない出来事が起こり、その出来事の中心は小鈴というのが常套句のように漂っていた。

 小鈴に比べれば退屈な日々を送っているのかも、と自信は消えかけていくが、おそらく、私は過去の乙女たちの中でも群を抜いて幸せなのだろうと確信に近い思いがあった。

 冷えた紅茶はまだまだたくさんあったので、火鉢の火がある限りに話し込んだ。途中で侍女がお昼ご飯でも、と食事を運んできたので私たちは驚いた。侍女が開けた襖の奥をじいと見つめ、ああ、なんだか寒いと思った。同時に、侍女があらまあと言った。

 

「火が消えています。寒かったでしょう」

 

 これもまた小鈴と顔を見合せ、笑った。火が消えていることにさえ気がつかなかった。剥き出しの手の甲をなぞると、大理石の彫刻作品のように肌がつるりとして、感覚がなかった。指先が滑った。

 それに加えて冷えた紅茶は二人で飲み干してしまったから、お腹はポタポタと音がした。今更歯ががちがちと鳴り、足の先から粟立って肩まで上ってくるとううぅっと声が出る。

 そのあと、小鈴と温かい食事をとり、これ以上話すと凍死しそうだから帰るわと小鈴が言ったので今日はお開きになった。見送りに立った時、小鈴がそれを制して言った。

 

「明日一緒に画材屋へ行かない?」

「絵の具を買うつもり」

「そう。お金は私が持つからさあ」

「また無理をして。いいわよ、私が出すから」

「ほんと!」

「やれ、最初からそのつもりだったわね」

「ははは、ごめん」

 

 小鈴は頭を掻いて、いつものように甘えた声を出した。この子は天性の甘え上手なのだ。私が子供扱いをしているのを、たまに利用しているように思えたが、そういう健全な欲深なところは私もかわいらしいと思えた。

 いつもそうであってほしい。けれどそうもいかないのが彼女で、不健全な付き合いは最早、あちら側から手招いている。

 

「でもね、今回はやめ」

「え? 何が?」

 

 聞いていなかった。何か言ったのだろうか。黙って次の言葉を待っていると、小鈴は私を見下ろして、胸を張った。

 

「私がお金を出すの!」

「私……出すのに」

「いいのよ、阿求。いつもあんたに頼ってばかりでいるけど、お小遣いでなんとかなるから。明日だけは払うわ!」

「……いいの?」

「任せて!」

 

 何だか小鈴が妙に張り切っているので、私はああ、そう……と了承した。私はお金には困らないので一般庶民の小鈴に花を持たせる意味で、その座を譲った。小鈴もカッコつけたくなることがあるのだろう。

 送ろうとする私をまた小鈴が制して彼女は帰っていった。仕事もせずに昼が過ぎてしまった。呆然とするが、充実感だけはそこにあり、私は嬉しかった。

 明日が待ち遠しい。

 ふと、高揚感から冷静になり、畳の上に放置された向日葵の葉を見つけた。水分を抜いて丁寧に押し葉にしてある。

 小鈴にとってあれもいつの日かの記憶となるのだろうか。その記憶というのが、多くの人にとって思い出と呼ばれるのを、私はガラスボールの内側を外から覗くように、眺めている。

 

 ◇

 

 向日葵の葉はよく読む本に挟みこんでおいた。

 小鈴の物だったけれど、私の物にすることにした。小鈴は怒るだろうか。私はこの葉を見る度、何を思い出すのだろうか。

 家の大黒柱に背をつけ、気が向いたときに付けておいたナイフの切れ込みを触った。自分の背と同じくらいの切れ込みに触れ、振り返ると、それは阿弥のものだった。もう、越えている。今代は成長が早い。笑う。小鈴が私に言ったことも芋づる式に思い出した。

 小鈴が私に言おうとしていたことの意味も相まって、この行為こそが私を少女として、何処かへ飛んでいく待機時間として、ここにあることをじくじくと意識させられた。

 待機時間なんかじゃない。

 それでも、否応なしに、膨らむ胸とか、くびれの出る腰とか、そういうのを感じ、夏が終わり、秋になり、冬になって、春になり、廻り廻って恋焦がれた夏になるのを思い、頬を濡らした。小さな子がいつか親が死に、兄弟が死に、そして自分も死ぬのだと大きな発見をした時と同じだ。これは大きな発見ではない。

 私だって知っている。

 

 ◇

 

 待ち合わせの時間にはまだ早かったが、小鈴は既にショーウィンドウにディスプレイされた絵の具や筆を目を輝かせて見ていた。

 彼女の本以外の趣味はゲテモノ的解釈であったが、こんな趣味もあるのかと意外な一面を見た気分だった。案外私の娯楽というだけではなく楽しめるかもしれない。

 

「小鈴、お待たせ」

「阿求。早かったわね」

「もっと遅い方が良かった?」

「いいのよ、待ってたわ」

 

 小鈴は心待ちにしていたらしい。

 そんなに楽しみにしていたのなら、先に入っていても良かったのに。そう言ったが、小鈴は首を横に振った。優しい顔で言った。私は目を逸らした。

 変わり者の友人が、思いがけず、そのような顔をして、小鈴も私をそのような目で見るのだから、焦った。

 

「小鈴、あんた、なんか大人っぽくなった?」

「へ。そ?」

「うん。びっくりしちゃった」

 

 びっくりしちゃった、だって。

 小鈴はくすくすと笑った。同級の女の子たちが噂話とかをして、秘密裏に微笑み合ってるのとは違うな、と思う。よりによって、この子からそんな笑い方を見ることが出来るなんて思ってもいなかった。

 精神的に成熟しやすい子は周りが大人に成り始めて、初めて本当の大人というものを知り、また子供になるのだ。育てやすい子にこそ目を配りましょう。教育本の中の話だ。

 私はその本をパラパラと捲り、雨露を首に滴らせたかと天井の木目を見上げた。

 

「じゃ、入りましょうか」

 

 ドアベルを鳴らして店内に足を踏み入れると、独特の匂いが立ち込めていた。嗅ぎ慣れない匂いに足を止めたが、あいにく後ろから小鈴が押してきて雰囲気に酔うなんてことはさせてくれなかった。「油絵の具の匂い?」「違うわよ。油絵ならもっと独特の匂いがするわ」

 

 順繰りに見回すと、右側にショーウィンドウの絵の具と筆がある。左側はなんと地下で、雑然とした壁に貼られたいくつかの紙の束の中から『地下、展示室やってます』と読み取れた。

 小鈴は私の背中に隠れ、店内を見回していた。私の手前には色鉛筆、鉛筆、教本、イラスト本。隣の棚はクレヨンだとかそういう細々したものがあり、奥には絵の具や筆なんかが見える。

 地下とは反対の右側の壁伝いには様々な紙が並べてあった。ため息がこぼれ、熱に浮かされたように弾んでいく。

 見たことがない世界だった。

 

「ねぇ、阿求。これ全部、絵を描くための道具なのよね」

「そうよ、ええ」

「凄い」

 

 二人で顔を見合せ、鼻から息を吸い込み満面の笑みを浮かべた。

 店の奥で店主が私たちを気にせず作業をしている。少し離れたところには丸い火鉢が燃えていて、アットホームな木造の外国にある家を思わせた。勿論、私はそのような家を見たことはない。おかげで私たちは自由に店内を見てまわれた。

 私たちは特別な道具を使って絵を描いたことなんてなく、デッサンとか風景画とかクロッキー、水彩画、油絵、キャンバスだとかぺいんてぃんぐなんとかだとか兎に角知っている言葉に端から飛びついていった。

 服を見るのとよく似ていた。こんなことを周りの女の子たちはしないけれど、この楽しさを知っていたら、女の子たちは皆したはずだ。

 

「ねぇ、これはなにかしら」

「6B、3H、F」

「パステル。ははあ、なるほどこれがほんとのパステルカラー」

「アクリル?」

「チューブだけで多すぎるわね」

「ねえねえ、阿求」

「粘土があるわ。これも使うの?」

「さわり心地が全然違う」

「これって本当に紙?」

「小鈴、これ見て」

「水彩、色鉛筆って、どういうこと?」

「ナイフ、ねぇ」

 

 結局、私たちはよく分からなかった。

 店主のことをちらちらと伺い、そのもじゃもじゃの髭を大胆に見つめたりしてみたのだけど、一切動じないので一番分かりやすくて一番それっぽいのを買うことにした。

 選んだのは、水彩画に使う絵の具一式のセットと、普通の筆、平ぺったい筆、小さい筆、もっと小さい筆、パレット、丈夫そうな紙を何枚か、スケッチブックだった。足りなければ私の家にある物を使うことにした。

 店主のところへそれらを置いたとき、小鈴は緊張して私より前に立った。私たちの顔を一度も見ることなくそろばんを弾き始めた店主に私はいつしか好感を持っていた。珍しく私は小鈴の後ろでぼおとしていて、中はとても暖かかったので眠りそうだった。

 かちんかちんという音が止まり、店主がぼそぼそと金額を言う。小鈴は巾着を落っこちそうなくらい覗きこみ、私を振り返った。そら来た。

 

「一円たりなあい……阿求……」

「え? 一円ですって」

「うん」

 

 泣きついてくるだろうとは思っていたけど、一円だけとは思わなかった。というより、そんなことが起こり得るなんて思わなかった。私は懐から一円だけを取り出して、小鈴に差し出した。「ごめん! 恩に着る! 必ず返すから」「いらないわよ、そんなけちなこと言わないもの」

 店主はその様子に眉をほんの少し動かしたが、会計を済ませた後に買ったものを丁寧に包んでくれた。二人で手分けして持ち、身を翻した。ドアベルが鳴る。ガラスの反対からも『本山文房堂』と読めた。そこで地下室の存在を思い出す。『ゆっくりどうぞ→』という貼り紙が目に入り、私はにっと笑った。またね、と手を振った気分だ。

 

「また行きましょうね」

「そうね。楽しかったあ」

「地下にも行きたいし」

「あ、そうだわ。行くの忘れてた」

「また行けばいいのよ」

 

 私は女の子だという感じがした。

 両手に抱えきれない程の大荷物を友人と並んで持って、その荷物というのは服ではないが、ある種のアクセサリーに近く、腕に確かにある重すぎる荷物が、唯一の私の足枷だと本気で思った。これが風船のようにぷかぷかと浮かんでいては、軽すぎて飛んでいってしまう。

 私は女の子だ。

 昨日、広い部屋の隅で畳を濡らし、開け放されたままの障子のせいで敢えなく凍死しそうになった。睫毛に残る冷たい水を拭い、もう、夜か、と死人のように呟いた。

 これが夢でないと言うのなら、何が夢なのです。

 

 ◇

 

 昔から小鈴はあれ、そうだっけ、と言うような子だった。大事なことも何でも忘れてしまっているというより、最初から頭の中に入れる気がないようだった。私は飽き飽きして、これからこの子と一緒にいるのは止めておこうかな、と考えたりした。

 でも、ある時からそれがぴたりと止んだ。

 

「なんだ。あんた痴呆じゃなかったの」

「痴呆って酷いなあ」

「でも、そう思われても仕方ないくらい覚える気がないみたいだったわ」

「違うのよ。ごめんなさい。自分でも困っちゃうんだけどね、別の世界に飛んでただけなの」

「別の世界?」

「そ。本の世界にね」

 

 小鈴は真面目な顔をしてそう言った。それから、もう読み終わったからしばらくは飛ばない、と笑った。安心して、と。

 本の世界とは、私たちがいる世界とは違う次元の世界で、時間という流れがない。全てのものに別々の懐中時計が貼り付いていて、全てのものはその時計に従って生きている。

 その時計は小鈴にも貼り付いており、彼女は本を読んでいるときそれに従って生きているのだ。加えて、小鈴の懐中時計は誰のそれより遅く時を刻んでいる。

 本の世界に飛ぶというのは快感に近く、現実世界では1mmも身動ぎせずに呆けているようにしか見えない。

 だから、何を言われても覚えることが出来ない。らしい。この『らしい』は全ての説明の付属品である。

 

「別の世界に飛ぶっていうのはさ、特別気持ちいいのよ。快感なの。でも、これって今が楽しくないってことじゃない。なんていうのかな。麻薬みたいな、私好みのヘロイン。暫くは楽しんでいられるけど、後から支障が出る。今までの私みたいにね。阿求に嫌われる」

「嫌ってなんかないわよ」

「ほんと? 嬉しい」

 

 小鈴は素でそう言った。

 私は小鈴を見つめ、最近見続けた笑わない顔を思い出し、ころころ変わる天真爛漫な、顔いっぱいに笑顔を広げる彼女を見つめ、いいなと思った。今までの知り合いにいない子だった。霊夢さんや魔理沙さんと似てる顔をしてる。

 だが、絶対的に違っていて、私が初めて友達になりたいと思った女の子だった。

 

 ◇

 

 私の家に帰ってきて、私たちはさっそく買ってきた道具を広げた。確かに店でも見たのに、店で見た時とは違う輝きがあった。

 なんて楽しいんだろう。ファッションショーでもしたいところだけど、生憎、それも出来ないので、思い思いに紙を広げて少しずつ全部の絵の具をパレットにつけ筆を取った。

 頭の片隅ではそろそろ、仕事のことも引っ掛かっていた。だけど私は二日連続で遊びに夢中になっている。寒かった部屋はすっかり暖まっていた。

 

「描けそう?」

「どうかしら」

「描けるわ」

「ん」

「私、毎日遊びにくる」

「それだと仕事が出来ないわよ」

「そっか、ならやめとく」

「でも、来て」

「うん」

「小鈴が来ないと、描きそうにない」

「わかった」

 

 絵の練習に小鈴の顔を描いた。私はその間一度も小鈴のことを見なかった。恥ずかしいね、と小鈴は言った。

 

「なんで?」

「だって阿求は私の顔の全部覚えてるんでしょう。毛穴とか毛の流れとか、かぴかぴしてるところとか、全部さ」

「……まぁ、そうね」

「恥ずかしいよ」

 

 小鈴は照れて言った。

 言われてみれば、恥ずかしいかもしれない。私は顔を上げて小鈴の顔を見た。私はその顔を見たことが確かにあるのだけど、どの顔とも一致しなかった。

 暖かさに誘われ、火鉢をちらと見、ぼんやりとして私は頬を畳にくっつけた。だらしない。畳が冷たくて気持ち良かった。このまま眠ってしまうのが一番の選択肢で、二番は小鈴の顔を見ていることだった。

 

「あ、上手い」

 

 小鈴が私のスケッチブックを覗きこんで言った。そこには笑わない顔をしている小鈴の顔が描いてあった。私の記憶の中の小鈴だ。

 小鈴は笑っているのが一番似合っていたが、私が一番好きだと思ったのが笑わない顔だった。印象的で、何度も思い浮かべ、記憶は確かなのだけど、いざ本当にその顔を見ると翳りなんて一つもなく、あまりの違いに泣き出しそうになった。

 

「小鈴、私に頼んで良かった?」

「そうね」

「ばか」

「なんでよ」

「まだ描いてすらないわ」

 

 この温度が心地いい。

 小鈴も目の前に横になり、静寂が続いた。友人が家に遊びに来ているのに二人で眠ってしまうというのは、些か、面白いのではないかなと思った。それでもいい。

 小鈴が話してくれた本の世界というのを思い出した。本の世界ではそれぞれに別の懐中時計が貼り付いているらしい。

 たとえ一緒にいたとしても、その時間はお互いに狂ってしまうのだろうか。小鈴に聞いてみたかったのだけど、私は代わりに別の質問を投げた。

 

「ねぇ、恋しいものをいつも見たりなんてしたら、もっと恋しくならないの?」

「へぇえ?」

「夏が恋しいんでしょ」

「いいのよ」

「恋しくても?」

「うん」

「なんで?」

「阿求ってば、なんでなんでって、今日はよく聞くのね」

「だって、分からないんだもの」

「ふうん」

「教えてよ」

「あのね、夏は恋しくても、いつかは廻ってくるでしょう。でも、人はいつか廻ってこなくなってしまう。夏はまた会えると分かってるから、恋焦がれても待ってられるのよ」

「死んだら廻ってこないわ」

「死んだら、いいのよ」

「なんで?」

「天国には、夏もあるわ」

「どうして分かるのよ」

「知らなあい。願望の話だもん」

「小鈴の?」

 

 小鈴は答えなかった。

 ついに飽きられてしまったか、と私は顔を浮かせて小鈴を窺うと、小鈴はうつらうつらとしていた。

 しばらく眺めて、私も脱力感に襲われ、畳に伏せた。このまま動かなくなり、夜になっていたらどうしようか、と考え、ふにゃふにゃと泳ぐ小鈴を眺めていたら今が冬だということも忘れた。

 それが良かった。

 

 ◇

 

 家の中が騒がしい気がした。

 スケッチブックを閉じて部屋の外を覗くと、外から風が吹き込んでいた。お客様が来ているのだ。一昨日雪が降り、昨日はなんとか降らなかったが雪がそこらに残っていて、今日降り続いている雪で固められた。その冷気がそこかしこにばらまかれている。

 こんな寒い日に誰が来たのだろうと玄関に行ったが誰もおらず、客間に慧音先生が座っていた。まだお茶も出されておらず、つけたばかりの火鉢の番をしていた。

 

「慧音先生」

「あ、お邪魔してます」

「何か用事ですか?」

「用事、ええ、まあ」

「……何か」

「昨夜、西で赤ん坊が産まれまして、名付け親を頼まれました。貴方の意見も聞きたい」

「まあ。それはおめでたい」

「ええ」

 

 対面して座り、私も火の番をする。ぱちぱちと音が、しんしんと音を吸い取る雪に負けず、そこにあることがなんだか不思議だった。

 

「候補はありますか」

「まだなんとも」

「でしょう」

「難しいですね」

 

 本当はいくつも浮かんでいるのだろう、と思った。慧音先生は嬉しそうに笑っていた。私には、まだ分からないけども。命の尊さを知り、腕の中で別の生き物のように動く赤ん坊が不思議で、温かく、重く、手に汗が滲むその時、なんとも言えぬ幸福感に満たされる。

 からくりで動く柔らかいクッションの入った玩具に似ているけど、飛んでくる手足が意外に強く、違いに、圧倒される。

 その訳も分からぬ可愛らしいものに名前をつけるのだから、少しの出し惜しみくらいするに違いなかった。私も出し惜しみする。

 

「昨夜、産まれたと」

「ええ」

「雪は降りませんでしたね」

「静かな夜でした。朝降り始めたのですが」

「女の子ですか」

「いえ、男の子です」

「かわいいでしょう」

「それはもう」

 

 蕩けるような顔の慧音先生を見て、私もつい顔が弛む。私は眉を下げ、何も言わなかった。幾つか名前を上げてみようかとも思ったが、全然出てこなくて、黙っていた。

 私が生まれた時もこんな風にわざわざ破顔を晒しに里を歩いていった人はいたのだろうか。慧音先生に至ってはこんな寒い雪の日に。そうしてくれた人がいたのなら、どんなに幸福だろう。

 

「慧音先生」

「はい」

「喜ぶと、思いますよ」

 

 慧音先生は生まれたての赤ん坊のような無垢な表情で私を見た。それから、ゆっくり、噛み締めるように頷いた。

 

「はい」

 

 笑っていた。

 お茶が出てくるまで待っているといいと言う私の言葉に脇目も振らず、慧音先生は帰っていった。お茶を持ってきた侍女に私の部屋に持っていくように言って、私も部屋に戻った。

 文机の上に置かれたお茶に、私はするりとスケッチブックを確認してしまう。実は、一昨日からずっと仕事をしていなかった。今日はスケッチブックに絵を描くことに夢中で、いつの間にか昼になっていた。

 これが、飛ぶということなのだろうか。

 それなら恐ろしい。小鈴はずっとこの世界にいて、私と会話をしてくれていたのだから、器用な子だ。溜め息が出た。感動していた。

 ヘロインも目じゃない。麻薬とかよりずっと良かった。

 

 最近、朝目覚めたときの憂鬱さがない。それは、ある種の現実逃避か、仕事をしないで所謂ニートのように生活することの諦めにも近い何か。確実に焦りが生まれていた。なのに、目覚めがよくて、喉の通りも良く、リハビリに似ていた。

 頭はいつも絵の世界へ飛んでいた。

 私は傍から見れば、ぼんやりとすることが多くなり、何やら仕事もしていないらしいと囁かれていてもおかしくなかった。稗田阿求であることを忘れ、ものを尋ねられても「覚えていない」などと口走ったときには、私は刺されるより先に刺さりに行った気分で、吐きそうだった。吐いた。

 白いぐちゃぐちゃとしたものと、黄色いゼリー状のものを見つめ、馬鹿だなと思った。「はあ」私は人生で楽しいことというのを知ってしまい、戻れない。「酸っぱい」記憶に残らない快感というのは、生きてるみたいでぞくぞくした。「最低で最高な気分ね」

 

 ◇

 

「久しぶり。痩せた?」

「ま、この季節じゃあね」

「ちゃんと食べないと駄目よ」

 

 私は小鈴の言葉のすべてにうん、うん、と頷いた。何もかも面倒だったけど、それだけはやっておいた。

 

 ◇

 

 一週間経って、小鈴に頼まれた絵をいよいよ描き始めることにした。

 ずっと飽和状態みたいな感じだったから、久しぶりに陸に上がった人魚みたいな顔をしていたと思う。慣れないことをしたから少し痩せたらしい。

 記憶をなぞるだけ。小鈴は簡単に言ったが、簡単なことではなかった。私が取り敢えずこんなものだろうと、カッターで削った鉛筆でスケッチブックの隅に大まかに描き、それをぢくぢく細かく紙に描いた。

 カーボン紙があるわけでもなし、あったところで脳みそは取り外せなかったから、苦労した。でも、向日葵の花びらの曲線を上手く引けたりすると、どうしようもなく嬉しかった。

 見て見て、と誰かに大声で叫びたい。

 でも、そうじゃなくてもいい。世界でたった一人になって、空が落ちていく下で私は最後まで笑って絵を描き続ける気がした。

 だがそのすぐ隣でミスをすると、一緒に消しゴムで中途半端消されていく。切なかった。空気は確かに乾いていて水の一滴でも蒸発してしまいそうな程部屋は熱かった。紙は萎れていた。

 随分と小鈴に狂わされたな、としどしどと考え、脳髄まで痺れさせていた。

 

 阿求? 

 

 突然電撃のように私を呼ぶ声が聞こえた。あ、と思った。あの世が寸で見えて、渡りそうだったけどゴーカートでぶううんと引ったくられたのだった。

 参ったなとも思ったし、崩れていくような気もした。いらいらして顔を上げると、小鈴が縁側に座っていた。

 

「干からびて死ぬよ」

「死なないわよ」

「じゃあ、酸欠で死ぬ」

 

 ひんやりとした空気が目の前を通り過ぎていく。横目で追い、肌に触れた冷気に手を伸ばして。腕が震えている。と、言葉をなくした。

 すうっと気が遠くなった。目を閉じて空気に弄ばれていると、肩が重くなって私を支えた。目を開けるまでもない。後ろから肩越しに、小鈴が息をしていた。苛ついた気持ちはどこかへ飛んでいった。私の絵の世界へ。きっと。私は本当に酸欠で死ぬのかもしれない。

 じい、見られてる。私ではなく、私の描いた絵を。

 目を開けると思ったより顔が近かった。少し離れたら、辺りが異様に暗い。一人で首を捻った。多分、私以外誰も飛んでなんかいなかったのだ。目を伏せ、このままこうしていたい、と思った。鏡を見て、自分の翳った表情が、そのまま重さに変わり、これが死ぬことか、と思った。

 

「凄い。まんまあの場所だわ」

「どこまで描いてある?」

「覚えてないの?」

「そうよ」

「全部描いてある」

「嘘」

「ほんとよ」

 

 小鈴は呆れていた。声から滲み出ていた。でも優しかった。それが責任感とか、良心とか、偽善じみてるものにぐちゃぐちゃにされ、まわりまわって優しさになったのだと思うと泣けてきそうだった。でも泣くなんてこと出来そうにない。気味の悪い笑い声だけ自信がある。

 小鈴は全部描いてあるというけども、信じられなかった。酒を飲めるだけ飲んで眠って、喉がからからになれば、信じられるかもしれない。それが楽に死ねる方法だったから。今、最高に幸せだから。

 

「ありがとう、小鈴」

 

 私は半分眠って言った。

 瞼がぴくぴくしている。

 

「何が」

「ううん、なんでもないの」

「ならそんなこと言わないで。死にそうだもん」

「分かってるわよ。そんなこと」

 

 なんで一日はこんなに短いのだろう。ぼんやり生きてる方がずっと時間を多く使っているはずなのに、時間というのが自分の中から蒸発してから時間が早く進むようになるのだ。

 私は一日の最後の力を使って起き上がり、自分の描いた絵を見つめた。本当に全部描いてある。正確にはもっと直さないといけないところがあるけど、どうやっても記憶の中の向日葵畑は再現出来そうにないのでやめた。色をつけないといけないし、麻痺して動けそうになかった。

 黙りこんでいると、小鈴が立ち上がった。

 

「今日泊まっていい?」

「え?」

「なんかさあ、このまま阿求の顔見なくなったら死んじゃうんじゃないかと思うのよ。私、少し責任感じてるの」

「別に死なないけど、いいわ」

 

 実際、既に酒焼けで喉が潰れてるみたいな気分だった。それだけだった。吐きそうだったので小鈴を残して洗面所まで歩いた。

 昼に何か食べた記憶はない。舌を押し潰してえずくと、黄色い何かが糸を引いて垂れ落ちた。

 この光景を誰かが見たら心配しそうだけど、私はこれで良かったしこれが良かった。気分はいい。健康不調を起こすのはしょっちゅうで、気にしない。

 ずっと胸の中が空いていたような寂しさがあったけども、それも消えていた。やはり、これはリハビリに似ている。そういう患者を一つの部屋に集めて話し合って音楽をするより、絵を描いた方がいい。それも、これは何を表してるだとか、論理的なものはかなぐり捨て、笑い合うだけの遊戯がお似合いだ。

 たくさん笑って、少し泣いた。

 泣けないと思ったのに泣けた。

 楽しかったけど、ああ、これは辛いな、と思った。私が稗田阿求を求めている。恐れを為し、私を求めている。私を返せと。私には私のいつもの、ってやつが刻まれている。行きつけのお店に入って扉を開けて2秒で注文をする。いただきますと言って1秒で湯気の出たご飯を頬張る。それと同じね、私は声には出さなかったけれど、そう言った。

 

 ◇

 

 泊まりに必要な道具はすべて揃っていた。

 目の前に並べられていく食器を見て、まともな食事が久しぶりな気がする。と、他人事に思った。

 本当は食べたり食べなかったり、した。

 私は色を塗るのが下手だった。下書きを一日で描き終えたところで、あと何日必要なのかよく分からない。この状態がいつまで続くのか分からない。

 小鈴がそわそわして座っている。

 私は笑って、いただきますも言わないでご飯を食べ始めた。この子がいるからか、お腹が空いていた。小鈴も早食い競争みたいに黙々と箸を動かした。

 

「ご飯食べたら、色を塗る?」

「やめとく」

「そう」

「直ぐに寝るのよ」

「それはいいわね」

 

 小鈴の顔が華やいで、こうしているだけで喜んでくれるなら、本当に今日は直ぐに寝てしまい牛になろうと思った。

 赤ずきんちゃんのおおかみみたいにお腹に違和感を抱えて布団に潜った。小鈴も隣の布団でふざけている。布団を被らずに寝たふりをしていた。しばらくすると火鉢の火を消して、二人して寒い寒いと赤ん坊みたいにした。

 

「ねぇ阿求どうしよう」

「何が」

「恋ばなとか枕投げ、する?」

「しない」

「どきどきするのに」

「人は暗いサプライズが好きだもの」

 

 私が眠ろうとするとすぐに小鈴がねぇねぇと甘えた声を出した。おかげで顔を毛布に沈めてもまだこそばゆい声が聞こえる。

 

「阿求寝た?」

「……寝た」

「寝てないじゃない」

「なに?」

「うん。これでもう最後にするから聞いてくれない? 聞いてくれないのって悲しいわ」

「一度だけよ」

「最近どんな夢見た? アメリカンドリームのドリームじゃなくてスリープして観測するやつね」

「私、夢は見ないのよ」

「そういう人、いるけど人っていうのは必ず夢を見るもんなの。覚えてないだけなんだって。前読んだ雑誌に載ってた。あ、でもあんた見たもの全て覚えてるんだっけね」

「だから見ないのよ」

「夢なのに真面目ね」

「真面目に生きてるもの」

「でも、人は夢を見るものよ」

 

 小鈴は不満そうに言った。アレルギーのある人にそれは美味しいものだ、と教えたがる声だった。

 

「あ、そうだ」

 

 唐突に小鈴は布団を剥いで暗い部屋をさ迷い始めた。何かを探しているみたいだ。私は気持ち、頭を上げて重くなってきた目を光を見つめるように開いた。

 その頃には小鈴は私の枕元に座り、さ、と号令をかけて私の目に布を押しつけてくる。「ちょっとちょっと! 何よこれ!」

 

「暗いサプライズ」

「はあ?」

「阿求は見すぎるからいけないのよ。目隠しでもして、健全に生きなさい」

「健全よ!」

「いいからいいから」

 

 既に目の前は真っ暗になっていた。私は目の裏側で固く結ばれた目をごつごつしたところを、爪で引っ掻いて、そうしたあとで存在する穴に触れようとするみたいにおっかなびっくり、手で地団駄を踏んだ。

 

「いい夢が見れるわよ」

「ぐっすり眠れそうではあるけどね」

「ははは」

「ありえない」

「もしかして、仰向けで寝る派?」

「横向き」

「なら平気ね」

 

 もう少し文句でも言おうと思ったけど、なんとなく何も出てこなかった。そういうわけで私は小鈴が布団に戻っていく気配に、諦めて眠ることにした。「ぐんない」小鈴は耳慣れない言葉を言った。「……んない」

 うとうとしていきながら、私はこんなことで夢なんて見るわけないと思っていた。今まで吐いた反吐が頭によぎって、口が酸っぱくなる。覚えている限りでは最後は絵のことを考えていた。

 

 ◇

 

 その夜、私は生まれて初めて夢を見た。

 

 ◇

 

 誰と待ち合わせた訳でもなく、私は一人で歩いていた。夏は暑すぎる。避暑地を求めて歩くのも、歩く間にだれて顔の皮膚と肉の噛み合わせが上手く合わなくなりそうだったので、こういうことは体が弱いと出来ないのだが、仕事をして侍女にあれを、これを、と色々指図していたらそのうち可哀想になって数人を残して休みをとらせてしまった。

 残った数人にも今日はいい、と衝動的に言い放ったらあとはもう何も残らない。食欲もないし、かといって家に一人、ミンミンゼミの声をリピートさせるのも何だかなと思った。

 太股のあたりが一番気持ち悪い。時折、ぬるい風が吹いてはひゅっ、とさらわれたように汗が蒸発していく。歩きにくくて堪らない。

 とにかくどうにかしよう、とチラシではなくて看板を漁った。一番最初に目に止まったのが、看板ではなくてショーウィンドウだった。筆と絵の具がディスプレイされていた。小さな道具たちに、私は目の前で足を止め、ガラスに手をやる。

 よく物語では、これは赤い靴だとか桜色のワンピースだとかするのだけど、見劣りせず、むしろそうやって見とれている私が見劣りしていた。ガラスが水蒸気で曇る。ねったりくっついた太股を動かしながら見ていたら、扉の横に『展示室もやってます』という張り紙を見つけた。なるほど。私はこれが見たかったのだ。

 迷わず入ったことのない店の扉を開け、涼しい空気だけ取り込んだ店内にまず感動した。次に、飛ばされた匂いが鼻に当たり、言いがたい独特の匂いにびくりとした。

 けれど一番私に衝撃を与えたのは、店に溢れんばかりの画材。あちこちに視線がぎょろぎょろ動いて、こんなに暑いのにそれより熱いものが爆発したように感じられ、しばらくはチリンチリンと鳴るドアベルに気がつかなかった。奥でどっかり構えた髭の立派な店主がじっとこちらを見ていたので、それでようやく扉を閉める。

 

「あのう……」

 

 私はうずうずしながら言った。

 自由に動き回りたいのに一歩も動けず、口だけは職業柄かなんとか動いた。カラカラの喉が張り付いて上手く喋られない。

 店主がじろり、見た。

 

「何か」

「表に、展示室があると見たのですが」

「ありますよ」

 

 愛想の悪そうな店主が言った。愛想が悪いと思ったのだけど、返事を聞いた途端、意外なほど愛想のいい返事で見た目に拠らず、私はすぐに好きになってしまう。

 店主は指先で左を指した。

 

「地下があるでしょう。そこが展示室です。どうぞご自由に」

「ああ、ほんとだ」

 

 左を見ると階段が続いていて地下へ下りられるようになっている。階段沿いの壁には上から下まで張り紙がいくつかあり、『地下、展示室やってます』『ご自由に』『パンフレットはこちらから』『世界一周旅行109万円』『ゆっくりどうぞ→』『↑売り場』『今日の展示』など、いくら見ても飽きない。

 店主に礼を言い、売り場をあとで見ようと思いつつも階段を下りた。階段は一段が狭く、下りにくい。一歩一歩踏みしめるように進んでいくと、いつの間にやら少し地上より涼しかった。

 地下は狭く、数点の絵画があるだけだ。

 中には珍しく、大きなサイズの写真もある。スポットライトの当たったテーブルに置かれているようにしんとしていて、自分の歩く音が響く。私は一つ一つじっくり見ていった。

 一歩を踏み出したとき、私は川の水を進むように、いきなり、何かの領域に侵入した。目に見えて分かるわけではない。感覚。ひんやりした地下に、いきなり熱風が流れてきたように感じられ、まとわりつく熱風に足を浸したまま、立ち止まった。

 そこには、絵があった。

 それほど大きくもなくつるりとした額縁に入れられた向日葵畑の絵だった。私はその場面を見たことがあった。いや、見たことがあったはずだった。

 今年の夏、つまりそれは今のことだが、小鈴がふと思い立って夏らしいことをしようと言ったのだった。私は夏らしいことと言ってもスイカを食べるだとか、虫の音を聴くとか、夏野菜カレーを食べるとか、そういう近場で出来ることを提案したのだけど、小鈴はあまり乗り気ではなかった。そうして、言った。

 目の裏側まで見渡せるほどの向日葵を見に行こう、と。

 私は勿論断った。私の体で夏にそのような所へは行けないし、行きたくなかった。小鈴は憂鬱そうに私の返事を聞いていた。

 

「行かないのね」

「ええ、行かないわ」

「はああ、魔理沙さんに頼んだら箒に乗せてくれるかしら」

「どうしてそんなに見たいのよ」

「どうしても見たいの。今見たいの」

 

 小鈴は吐き捨てるように言った。次の言葉は苺の乗ったショートケーキが食べたい? それできっかり五分経ったら言うの。私は今モンブランが食べたいのよ。早く買ってきて。

 

「阿求」

「うん?」

「今見たいのよ」

 

 射すような視線で、私はぼんやりと焦点の合わない視界が定まり、私はその目を一生忘れない。

 翌日、昨日のことも忘れたような顔で小鈴はにこにこと魔理沙さんと向日葵畑に行ったことを話してくれた。別に頼んだわけではない。が、当てつけのように感じられたので、私は気味が悪いほど興味のあるふりをして一単語ごとに相槌を打った。

 私はそのとき、確かに向日葵畑を見た。小鈴が言うようにまさに目の裏側まで映るような向日葵畑を。目の裏側に焼き付いていた。今でも、見ることが出来る。

 目の前に向日葵畑の絵を見つめながら、私は私の信じる向日葵畑を見ていた。けれど、切なかった。憤りを感じながら、それでも私はあの時の私が、本当はこの向日葵を見たかったのだと知っていた。だって、この向日葵は私の知っている向日葵ではない。雲から雨が作られ、雨が降り、土に染み込み、蒸発して、再び雨になり落ちて土にじんわりじわりと雨になるのを待っている。理解はそれほどゆっくりだが、確実に、深夜の湖の底を泳ぐように、私は切なかった。

 

「そちらがお気に入りですか」

 

 突然声を掛けられ、私はすぐには反応出来なかった。瞬きを繰り返し、階段の方を見た。いつの間にか店主が下りてきている。

 私は身構え、しかしあとはどうすればいいのか分からずただ立っていた。一体どれほどの間、身動ぎせずにこの絵を見つめていたのだろう。とにかく変な風に止まっていたので爪先が痛い。店主は奇妙な顔をしていた。

 

「ずっと見ていらっしゃった」

「あ、あの」

「何も言う必要はありませんよ」

 

 何も言う必要はないと言われ、私は黙った。確かに私は何も喋りたくなかった。ふっと店主の顔が真顔に戻って、私はやっと彼が微笑んでいたのだと理解できた。

 

「ジュヌセクワだ」

「はい?」

「フランス語で、いわく言い難いものという意味です」

「はあ」

 

 ジュヌセクワ。

 フランス語だというその言葉は、私の深いところでいつまでも響いた。何故彼がフランス語のこの言葉を知っているのだろうとか、何故突然そのようなことを言ったのだろうといった疑問が浮かんでは消え、最終的にそれ以上は何も言わない。

 私のこの向日葵畑の絵に惹かれる気持ちはまさにジュヌセクワ、なのだろう。私は思い浮かべてきた向日葵畑が今目の前にある絵と比べ平坦でのっぺりとしているということが、雨のように降ってくるのに気づいた。

 地下から脱出し、店内をぼんやりと見た。思ったよりも集中できず、仕方なく私は出ることにした。店内からでも扉に『本山文房堂』とあるのが読める。ドアベルを鳴らしたとき、店主の彼がまた話しかけてきた。

 

「やはり貴方というのも不思議ですね」

「え?」

「今は晴れやかな顔をしている」

 

 私は信じられないというように店主を見つめ、どことなく腑に落ちる部分があって目を逸らした。こんなにも見られているなんて、気まずくてしょうがない。けれど、憎めず、私は曖昧に微笑んでいた。

 微妙に開けられたままの扉からは夏の空気が肌に触れた。

 

「ジュヌセクワ」

 

 今度こそ彼が微笑んでいるのだとしっかり分かった。

 

「貴方にぴったりではないですか」

 

 店を出た。

 それからどのようにして家に帰ったのか、覚えていない。いや、覚えていないなんてことはないのだ。意識がどこかへ飛んでいて、無我夢中といった感じで走り抜けたが、まともに足が動かず、白昼夢を見ているようだった。

 心の内が熱く、今まで冷や水を浴びたようなはっとした感じではなくてじんと感動したといった具合だった。心を見透かされているように言われたにも関わらず、嬉しかった。否。私はいわく言い難い私の心を、清い水で洗おうともせずそのままを美しいと言われたのだ。言われたも同然だった。

 

 ◇

 

「あきゅーう」

 

 目覚めは良かった。既に部屋は暖かく、布団の中で毛布を蹴りながらあれ、何かがおかしい、と思ったくらいだった。頭に力が加わり、呼吸をやっとしに水面へ顔を出したように朝日が眩しい。周りに風が走る。

 私は呆然と部屋を見回し、すぐに立ち上がって障子を開けた。珍しく柔らかな澄んだ空気だった。生まれ変わりを見たような目で不思議そうな目をする小鈴を、私も同じような目で見た。

 

「どうしたの?」

「……夢を見たわ」

「へえ! それは大変な朝だわ。それでどんな夢だったわけ?」

「ええと……」

 

 目を閉じ、頭の中を整理する。昨日寝た瞬間から覚えていることを順に並べていくが、夢のことが思い出せなかった。思い出す行為自体を嫌っていた私が、頭をどれだけ捻っても、なんとなく、夢を見たのだということしか思い出せない。さっきまでは覚えていたはずなのに。じれったい、とはこういうことなのだろう。

 混乱しながらも、消えたいような最低な気分が襲ってこないことに驚いた。私は唾を飲み込み、いかにも深刻そうに口を閉ざしたままだった。小鈴は答えを心待ちにしている。以前の私なら、何も言えなかったに違いない。けれどどういうわけか、今の私は違っていた。

 

「覚えてない」

 

 奥歯をぐっと噛み締めるように私はそれだけ言った。すると、横で不思議そうな目をしていた小鈴は、意外な程そうか、と納得したように見ていた。

 こんな目で見られたのは初めてだった。何か忘れている気がする。覚えている限りの小鈴の顔を思い出して、それのどれにも当てはまらないことを確認して、夢で見たのかなと思った。それなら覚えていないのも頷ける。しかし、本当はその忘れている顔なんて、最初から私は知りはしないのだと、私は分かっていた。

 

「そう。覚えていないの」

「ねぇ、夢を見たら、どうすればいいの。いつまでも覚えてはおけないのかしら」

「阿求は変ねえ。誰もそんなこと考えやしないわよ」

「私は考えるのよ」

「じゃ、言っておくわ」

「え? ええ」

「夢を見たら、覚えてなんてなくていいのよ」

 

 小鈴は含み笑いをした。

 それは夢で見たような微笑みだった。私はその微笑みだけで生きているすべてを許されるような気がした。

 少し前までの私は「覚えていない」と言うことを恐れ、同時に、生きている感じがすると、あんなに気分が高揚したのに、あっけないほど言ってみせ、さらに小鈴に大して驚かれもせずに、私も驚かない。ああ、そうなのね、と物分かりが良すぎた。

 そうなると、今まで私の中で麻薬のように蔓延っていたあの絵に対する熱もちょうどいい温度になってくる。きっと、私の人生全部そうなっている。いつか全部が全部落ち着いて、冷えきってしまう。

 

「小鈴」

「ん? なあに」

「約束通り、絵を描くわ」

 

「うん」

 

 私の見たことのない顔で、小鈴は笑う。

 そして私は思い出す。

 稀覯本を見つけた時、捲し立てるように早口で私に説明する。私が呆れているのを見て、彼女は照れたように笑った。一緒に里を歩いて、甘味処を探す。団子を食べて、満足そうに頷く。小鈴の知らないことをなんでも喋ってみせる。感嘆して、困ったように微笑む。良からぬことを魔理沙さんと考えて、それでも満面の笑みで笑う。声が揃ってしまった後の沈黙で、私より先に笑う。向日葵畑の向こう側で、私を呼ぶ。

 

「待ってる」

 

 私の見たことない顔で笑う。

 

 ◇

 

 鈴奈庵の小鈴の部屋。本が積み重なっているが、それなりに片付いている。招かれた私は物珍しげに部屋を見回し、小さな部屋ですぐに目的の物を見つけ、頬を赤く染めた。恥ずかしさでもなく、ただ胸の奥に起こる感情を全て集めて表現した。

 深呼吸は止まらない。そのまま心臓が止まってしまうのではないかと思うほど私は息を吸い込む。

 

「どう? 夏、って感じでしょう」

 

 小鈴が自慢気に言った。私はゆっくりと頷き、ほっくりと笑う。ふふふふ、とおかしそうに笑う。

 

「本当に飾ったのね」

「言ったじゃない。そのために描いてって」

 

 二人の目の前には額縁に入れられた向日葵畑の絵があった。それは素人が描いたにしては出来すぎていたし、プロが描いたにしては平坦で迫力に欠けていた。額縁も安物で、その塩梅が逆にしっくりくる。

 よく見れば線が異様なほど細かく、上に乗った絵の具が失敗しているように見えた。だが、夏のにおいを感じる。あの青々とした草のにおい。熱風の吹く空。肌に張り付く髪の細かさだって感じる。

 

「ご苦労様」

「いいのよ。いい息抜きになったし」

「息抜きって……あんた、どんだけ仕事溜まってるか知ってるの」

「知ってるわ。それを教えたのは私だもの」

「そ、そうだった」

「小鈴が心配することなんてないわ」

「そう? なら……下でお茶でもしてく?」

「ん」

 

 二人は店へ下りてお茶を飲む。

 熱いお茶をすすり、私はふと、思い出したように言う。

 

「そういえば、これで夏は恋しくないの?」

「え?」

「ほら、そんなこと、言ってたじゃない」

 

 小鈴はきょとんとして、口を開く。

 

「なに言ってるの」

 

 その時点で私の違和感はむくむくと湧き上がり、手に持った熱い湯飲みを突然放り出す。信じられないものを感じた。立ち上がり、店内を見回す。小鈴はまだ何も理解できていない顔で座っていた。その手には、ガラスのコップが握られている。冷たい。手のひらに残る水滴に、私は汗を滲ませる。

 走って出口を目指すと、風が吹いた。熱。揺らめく陽炎を見た気分で、それでも走った。止まらない。止まったら止まったまま呆然としてしまう。炎の温かさではない。暑い。踏み込んで飛び出した。

 カン、と響く音。

 照る太陽。光を浴び、思わずふらついて座り込んだ。ぼんやりとした視界に、ようやく何かが映る。黄色。夏の象徴。私が忘れもしない、あの夏の──向日葵。

 

「今は夏でしょ、阿求」

 

 一面の向日葵畑に、私と小鈴。

 教えてくれた。小鈴は。今は夏だと。そして、ここは私の来たかったあの場所だと。ふらつく。揺れる。小鈴が笑っている。冬の冷たさは、憂鬱は、麻薬のように取り憑いた感覚は、すべて泡のように消える。

 

 ◇

 

 私は、夢から覚めた。

 

 ◇

 

「阿求!」

「小鈴」

「ごめーん。遅くなっちゃった」

「いいわよ」

 

 今は夏。二度と巡ってこない夏。

 外に出た瞬間、それは現れる。太陽の熱に空気が燃える。夏だ、と思う。空が青く、どこまでも広い。雲が大きく立ち上る。肌に張り付く着物や髪を空気の隙間が通り抜け、だらりと垂れる汗を冷やしていく。ふらふらになりながら、歩く。これでも、私は夏が好きだ。

 私は夏が好き。

 

「ねぇ、何をしようって言うの?」

「絵を描くのよ」

「絵?」

「そう。夏が恋しくならないうちに」

「夏の景色でも描くの?」

「そうよ」

「絵なんて描いたら、恋しくならないの」

「恋しいわ」

「なら、なんで」

 

 小鈴は本当に不思議そうな顔をする。

 そういう間にも汗は落ちて、渇いた砂を潤す。私たちは汗を拭い、チリンチリンとドアベルを鳴らした。ぬるい風が吹く。独特の匂いに私たちは驚いて、狂ったようにその匂いを嗅いで気に入る。「そうね」小鈴は私を黙ったまま見た。その目線が少し私より高い。

 

「二度と思い出せないから」

 

 誰になんと言われようと、私は描く。

 いつか忘れてしまう。

 小鈴がどんな顔で笑ったか。

 私がどういう声で笑ったか。

 

「どんな気持ちで、私がここにいるか」

 

 ◇

 

 私は描く。

 春の桜舞う日、暖かい空気に眠たくなる。外廊下を歩きながら、日向を恋しく思う。夜桜を見ようと外に誘われる。夜よりも短い春。妖怪退治の真似事をする。霊夢さんに怒られる。暑さにバテて倒れて一人蝉の声を聞く。誰かの楽しそうな笑い声がする。風が肌寒く、上着を羽織る。小鈴は相変わらず本を読んで気づかない、私は教える。冬が来たと。

 その全ての見たものの記憶に、私があの日確かに感じた気持ちはなくて、私だって思い出せない。でもそれでいい。構わない。それがいい。胸の高鳴り、天井を見上げたこと、シンクに吐き捨てたすべてのもの。

 どうか、夢のように。

 

「待ってて!」

 


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