妻が亡くなりました。
まるで、体の半分を失った様な感覚でした。
本当に些細なことだったのです。偶然私が遠出をしていたときに、我が家の付近に気性の荒い魔獣が現れた。そして妻は、その魔獣にたまたま襲われてしまった。
えぇ、よくある話です。ゼウスとヘラの痴話喧嘩くらいには、よくある話です。
傲りがあったのでしょう。
私の身は不死。妻はニュンペー。死からは縁遠いものだと高を括っていた。寿命以外で死ぬことなど、まず無いと思い込んでいた。この世に、絶対など無いと分かっていたのに。
あらゆる経験は学びであり、人生を豊かにするために必要なもの、と思っていますが…この経験だけは、もう二度と味わいたくない…そう、思っていました。
「森の大賢者ケイローン殿。どうか、私の息子の養育を頼めないだろうか。」
妻を失くし、気を落としていた私にとって、ペレウスの提案は有難いものでした。誰かにモノを教えるというのは、私にとって好ましいものですし、気持ちの整理にも繋がります。
旧知の仲でもあった私は喜んで頼みを受けましたが、不安もありました。
子供というのは、時に大人以上に心の機微に敏感です。そして、今の私の気持ちは、言うまでもなく…
しかし、今さら考えたところで後の祭り。ペレウスの子が来るまでに、多少はマシにしておかなければ…
「アンタ…いや…貴方が、俺の先生…?」
最初に会ったときは、酷く驚かれたことを覚えています。
それから私とアキレウスは、共に学ぶ間柄となったのです。
「先生、次の課題は何ですか?」
神童、という言葉がこれほど似合う子もそうはいないでしょう。
それほどに、アキレウスは優秀でした。
一を教えれば十を知り、幼さ故に出てくる閃きと、それとは正反対ともいえる深い洞察には、私も驚かされました。
武術に至っては、まさしく天賦の才と言えるでしょう。私が教えたあらゆる技を磨き、さらに昇華させる。彼自身戦いが好きな様で、特に教えを請われました。
同時に彼は、とても優しい子でした。
確かに彼は戦いを好んではいましたが、殺戮を行うことは嫌悪していました。誰も傷付かずに済むのなら、それに勝るものは無いと。
それよりも花を愛で、動物と戯れることを好とし、料理を教えた時にも、喜んでやるような子でした。上手く作れるようになったら、私にも食べさせてやりたいのだと、笑顔を浮かべて。
そして彼は、とてもちぐはぐな子供でもありました。
見目は少年ですし、実際、子供らしく目を輝かせながら、様々な事を学びたいと言う様子は非常に可愛らしい。
しかし時おり彼は、智慧を備えた賢人の様にも振る舞う。振る舞えてしまう。
無邪気に笑っていた顔は、諦観にも似た平静さを纏い、好奇心を湛えていた瞳は、まるで歳を重ねた智者のよう。
そして彼は、子供特有の我が儘を言わない。甘える、ということをしないのです。
分からないことがあれば聞きますが、それだけ。大抵の事は一人でこなし、それを当たり前のことだと考えている。
成人した大人の様な考え方を、彼はしている。
えぇ。とても早くから彼は、
「俺は強くならねばならない。運命に抗うために。」
本来は、喜ぶべき事なのでしょう。子供が大人になるのは当然の事。彼自身、違和感は感じていない様でしたし、きっとそれが、彼にとって自然なことだったのでしょう。
しかしそれは決して、良いこととイコールではありません。
早すぎる成長。育ちすぎた心。それは、ある意味では歪みと言えるでしょう。見過ごしてしまえば、何れなんらかの形で綻びが生まれる。
故にアキレウスの養育は、情操教育を主幹としていくことにしました。
無論、普段の鍛練で手は抜きません。彼は聡い子です。手加減をすれば、すぐに分かってしまう。ストレスを与えてしまっては、むしろこの子の成長を阻害してしまうでしょう。
今の彼に必要なのは、さらなる成長よりも心を養うこと。その胸の裡にある重荷を、僅かにでも降ろさせること。それが、今の私の役割です。
「先生。今まで、本当にお世話になりました。」
───何度経験しても、この瞬間は嬉しさと寂しさがない交ぜになった、不可思議な気持ちになります。
立派に成長したアキレウスは、晴れ渡った青空の様な笑顔を見せて、旅立ってくれました。
幸いなことに、私のしてきたことは無駄ではなかったようです。
彼には、人間としてするべきこと、言うなれば道徳を主として教えてきました。その甲斐あってか、途中から気になっていた焦燥は消え、穏やかな顔を見せてくれるようになりました。
迷いの晴れたアキレウスの成長速度は目覚ましく、今までに教えてきた生徒たちの中でも最速だと言えるでしょう。
お陰で、予定よりも早く、出立の日を迎えました。
誰よりも強く、疾くなったアキレウスですが、一つ心残りがあります。それは、結局愛の営みについては教えられなかったことです。
将来的にそういった行為を行う場合、自身にも相手にも恥を掻かせない様に教えようと思ったのですが、その度に彼は逃げ回りました。もしかすると、鍛練の時以上に。
「初めては俺が愛した女性とするので大丈夫です。いや、ホントに、マジで。」
男同士でこういったことをする、というのは、別に不思議なことではありません。しかしアキレウスにとって、それはとても信じられないことのようでした。
実に彼は不思議な子です。私が教えていない、それどころか知らなかったことさえ知っているというのに、時にごく当たり前のことにすら驚く。
どこか浮世離れしていて、目の離せない少年。
───えぇ。正直に言うと、私は未だに彼のことが心配なのです。
確かに彼には私の全てを教え、彼は見事にそれを学び終えました。並みの者たちにはまず負けはしないほど、強くしたつもりです。
しかし彼は、優しすぎる。
無論、彼は負けることは無いでしょう。決して油断せず、どこまでも相手に真摯に対応する。そんな高潔な戦士として成長してくれました。
しかし、ギリシャの人々は血の気が多い。平和を願う彼の言動は…もしかしなくとも目を付けられるでしょう。酷ければ、理不尽な悪意に晒されるかもしれない。
それに彼の様な男は、女性にとってまさしく理想を体現したような存在でしょう。確実に放ってはおかれないでしょうし、優しい彼では、情に流されて行きずりの者と───
───失礼。取り乱しました。
結局のところ私は、きっと寂しいのです。
妻を亡くし、心の疲弊していた私にとってアキレウスとの生活は…えぇ。とても穏やかなものでしたから。この生活が長く続いてほしいと、願わなかったと言えば嘘になります。
彼にとっての私以上に、私は彼に救われていたのです。
しかし、子は何れ親を離れ、一人で立てるようになるものです。私たちの助けが無くとも、立派に。
たとえ寂寥の念があろうとも、それ以上に、成長した姿に喜びを感じるのも、また事実。
ならば、笑顔で送り出してあげるのが、私たちの仕事です。
アキレウスが旅立ち、幾年が過ぎたでしょうか。
結論から言えば、私の心配は杞憂だったようです。
曰く、何よりも強き無双の者。
曰く、誰よりも優しさを知る者。
曰く、今イケてるギリシャ人(男部門)No.1。
曰く、曰く、曰く────。
我が子の様に育てた弟子の活躍を聞くのはやはり、いくつになっても嬉しいモノです。それが、私にとって恩人の様な子でもあるから、尚更に。
しかし、彼の活躍を聞くたび、私は不安に駆られました。
神とは気紛れなモノです。
興味を惹いた者には
遥かなる時を生きるが故に、刹那的に物事を見てしまう。
彼の活躍を聞くたびに、いつ神々に目を掛けられてしまうか、気が気ではありませんでした。
無論、私とて神の末席、他の神々も尊敬してはいますが、それとこれとは話が別です。我が子同然に育てた弟子に危険が迫るというのなら、黙っているわけにはいきません。
ヘラクレス、イアソン、アスクレピオス…他の者たちも、神々にその運命を翻弄されました。せめて、アキレウスだけは…
それは、突然のことでした。
最初に聞こえたのは、
───我々の秘宝が奪われた!
そして響く、雄叫びと悲鳴。
どちらが劣勢かは、その声で聞いてとれます。
まぁ、それも無理のないこと。
件の盗人は、あのヘラクレスだったのですから。
ヘラクレス。
数々のギリシャ英雄の中でも、間違いなく最強だと言える人物。そして、私の元教え子。もっとも、私が教られたことなど、そう多くはありませんでしたが。
彼もまた、ギリシャの中では紳士的なほうです。秘宝を奪ったというのも、おそらく故意ではないのでしょう。
しかし、同族たちには、気性の荒い者たちが数多くいます。ただヘラクレスが詫びるだけでは、済まさないでしょうね。
せめて、同族たちの怒りを僅かなりとも鎮めようと、私が小屋を出たときでした。
───死。
その言葉と共に、私の
───“先生!”
浮かんでは消えていく映像の最後に見えたのは、私の最後の教え子の、笑顔。
あぁ、せめて、最後に一目だけでも会いたかった────。
いつまでも訪れない痛みに、ふと瞼を開ける。
するとそこには、先の追憶のそれより見違えるほど大きくなった、
外では、絶え間無く轟音が響き渡っている。
魔術で補強していなければすぐに倒壊するであろう小屋には、猛烈な衝撃が伝わってくる。
いや、伝わる
さすがは、私の自慢の弟子たちです。
あれだけの激闘の最中、私たちを気にしながら戦っている。
アキレウスの友だという女性、アタランテを小屋に招き入れ、私たちはしばらく共に過ごしました。私が見られなかった、アキレウスとの旅でのエピソードを聞きながら。
彼女が彼に、友愛以上の感情を抱いているのは、すぐに分かりました。表情の変化は乏しいですが、耳と尾は非常に感情豊かでしたからね。
以前の私であれば、純粋に喜び、祝福したでしょう。しかしそれはもう、無理な話。
やはり私も、神の血族なのでしょう。
強い戦士、取り分け英雄と言われる存在には、惹かれずにはいられない。それが、自身の命の恩人であるならば、尚更に。
なにより、彼が私を助けた際に見せた、強い怒り。
あの時私が最初に感じたのは悲しみではなく、喜びでした。
───あぁ、貴方は私の為にそんなに怒ってくれるのか。
思えば彼は、感情の制御が上手い子でした。
どれほど嬉しくても、どれほど悲しくても、その感情に流されず、常に自分を見失うことをしなかった。
そんな彼が、自分を想い、猛っている。自分の為に、我を忘れるほど怒っている。
その事実が、堪らなく嬉しかった。
彼らの戦いが終わってから五日。
アキレウスは未だに目を覚まさない。
同じ弓使い、同じ男性に好意を持つ者同士。根本的に気が合ったのでしょうか。その頃には、私とアタランテは友と言って差し支えない間柄になっていました。
ただ同時に、私は迷いを抱きました。
彼の恋愛対象は女性。しかし、私の体は男のそれです。このままでは、彼と伴にあれない。
無論、私とて神の一柱。体の性別など、あって無い様なものです。
しかし、長年この体で過ごしてきたのです。何よりも、亡くなった妻に対して、不誠実ではないかと思いました。
彼のことが好きなことに変わりはありません。しかし、彼女への愛もまた、本物でした。
きっと私は、焦っているのでしょうね。
アタランテは素敵な女性です。
少女の様な瑞々しさと、麗しさと可憐さを併せ持った顔。均整の取れたしなやかな肢体。蜂蜜色と翡翠色のグラデーションの掛かった美しい髪。獣の耳と尾ですら、彼女の可愛らしさを引き立てる様。
そして裏表の無い、実直で生真面目な性格。
此だけのモノを持ちながら、強さも兼ね備えている。
正直な話、彼女を見た時に最初に抱いた感情は、嫉妬でした。
彼の情人なのでは。そう思ってしまう程に、アタランテは素敵な女性でした。
故に私は、焦り、惑っている。
自覚したこの想いを留めておくほど、私は賢しくなれない。しかし、自身の今までを捨てるほど、私は薄情にもなれない。
そんな想いを胸に秘め、眠りについたある日の夜。
────“あなた”
声が聞こえた。
────“いいのよ、あなた”
もう聞こえない筈の、彼女の声。
微睡む思考を切り捨て、意識を向ける。
“私は幸せだった。十分に、愛して貰ったわ。”
───けれど、私は…
“忘れて、なんて言わない。苦しまないで、なんて言えない。そうしたら、あなたはもっと困ってしまうものね?”
“だから、これだけ。”
“どうか、どうか────”
─────幸せになってください。
起きた時には、私の身体は既に、女性のそれへと変貌していた。
前と変わらず、優しく微笑みを湛えていた、彼女。
あれは、ただの夢だったのか。それとも、私の思い込みで見た、都合の良い幻想だったのか。
少なくとも私の心は、晴れ渡っていた。
明くる日、彼は目を覚ました。
私の姿を見た時の彼は、初めて出会った時よりも驚愕していました。まぁ、当然の反応でしょう。
しかし彼はすぐに、
「先生が、無事で良かった。」
そういって笑ってくれました。
本当に、彼は優しい子です。
アタランテとも、良き友人となれました。
「彼奴にとって、汝は間違いなく特別だ。私がどれだけ汝の自慢話に付き合わされたと思う?」
私が抱いていた焦りを彼女に打ち明けたら、何でもない様な顔で、「私もだ」と言われ、こう返された。
焦っていたのは私だけでなく、彼女も同じだった…その事実になんとなく嬉しさを覚えました。
それからは、夢の様な日々でした。
愛する男性、親しい友人と共に、騒がしくも、穏やかに過ごす日々。彼女の言っていた様に、私は間違いなく、幸せに過ごしていました。
────そう。幸せ
なのに…嗚呼。
何故、彼が戦わなければならない。
何故、彼が死なねばならない。
何故、何故、何故、何故、何故─────。
授かった智慧から、この答えは出ない。
何も、分からない。
私たちは、ただ彼と居たかった。
ただ、彼と語らい、伴に生きたかった。
ただ、それだけだったと言うのに…!
嗚呼、
また私の知らない所で、私の愛する人が死んだ!
ごめんなさい、カリクロ、アタランテ、アキレウス。
私は…
──────
叛逆(挨拶)!
アトランティスでの新生アルゴノーツやら、オリオンからアルテミスへの愛やら、我らがアキレウスさんと先生の対決やらで発狂してました。
最近FGO頑張りすぎ…いや、元々だったか…
今回も今回で、気付いたら先生が絶望していた。
決して愉悦を求めてのモノではないので、そこはビミョーな作者心をよく分かる様に!(クソザコ感)
次に投稿するのはトロイア戦争編を予定していますが、作者は神話にも歴史にも詳しくないクソにわか野郎なので、詳細な話やら期待しないでネ!
…オデュッセウスくんどないしょ…
あ、マーリン来ました(叛逆スマイル)