それなら、永遠なんてどこにもないのだろうか。
私たちは、変わりゆく世界の中で、寄る辺を求めて彷徨うことしか出来ないのだろうか。
これはあの日、坂の下で朋也に出会う前の、渚の物語。
それなら、永遠なんてどこにもないのだろうか。
私たちは、変わりゆく世界の中で、寄る辺を求めて彷徨うことしか出来ないのだろうか。
これはあの日、坂の下で朋也に出会う前の、渚の物語。
私が通う高校は、坂の上にある、地元では有数の進学校だ。学校に続く大通りには桜並木があって、今は7分咲きくらい。あと数日で満開になるだろう。
あたりに同じ学校の生徒の姿はなかった。
一昨日が始業式で、昨日からは授業が始まっているのだから、本当は生徒で賑わっているはずの、この道。なのに人影がないのは、今が登校する時間ではないからだった。
校門まで残り200メートル。
「はぁ」
一度立ち尽くし、ため息と共に空を仰ぐ。 目の前には長い坂道が続いていて、校門はその先にあった。毎日、この坂を登るだけで息が切れる。私は身体が弱いから、なおさらだ。
「はぁ」
別のため息。私より微かな、大気の揺れ。
隣を見てみると、そこに同じように立ち尽くす女の子がいた
彼女は無言で、坂の上を見つめていた。紺の襟に三本線の、見かけないセーラー服。肩のあたりで綺麗に切りそろえられた黒髪が、春のそよ風に揺れている。
横顔に見とれていると、彼女はゆっくりと顔を私に向けた。そして。
「この学校は好き?」
不意に訊かれた。
「あなた、この学校の生徒でしょう?」
「え、はい」
「なら、この学校は好き?」
突然のことに、私はたじろぎながら答える。
「好き、です」
嘘だった。嫌いではないけれど、今は好きだと言い切れなくなっていた。
「そう……」
目を細めて、彼女は言う。
「私は好き。好きでいたかった。でも、そう、何もかも変らずにはいられないんだよね」
どこか遠くに話しかけるように、その声は私を向いてはいない。けれどその言葉は、私の胸に沈んでいる想いそのものだった。
「それでも、この場所が好きでいられる?」
その問いに、私は答えない。私には答えられない。今の私には。
「――なんてね」
彼女は冗談めかして肩をすくめた。
「変なこと聞いてごめん。誰かに、聞いてみたかったんだ」
言って商店街の方を向いた。帰るのだろう。
なぜか、声をかけなくちゃと思った。
「あ、あの…っ」
話がしたかった。 私の想いを
「ん?」
女の子は振り返る。
けれど、なんて言えばいいだろう。何を言えばいいのだろう。
「………」
どうすれば、良いのだろう。
そうしていると、女の子がまた訊いてきた。
「駅前の喫茶店とかで良い?」
「え……」
「呼んだのはあなたでしょう」
そう言って、私に手を伸ばす。
「ほら、行こう」
やさしい笑顔で。
――私は一度、背を向ける。
長い、長い坂道に――
終業のベルが鳴る。
「きりーっつ。礼っ」
おざなりな号令を合図に、放課後になった。
私はそそくさと帰り支度をする。これといって予定はない。 いつもはお母さんに買い物を頼まれているけれど、新しい生活が始まったばかりの私を気遣って、行けたらで良いからと言ってくれている。
迷惑をかけてばかりなのに、本当に申し訳ないと思う。
クラスの誰よりも早く教室を出た。
そのまま帰ることはしない。でも行くところがなかった。 だから当てもなく、ひとりで学校の中を回る。ぐるぐると。下駄箱に向かう人たちとすれ違いながら、人の少ない旧校舎を歩く。ゆっくりと。ぼんやりと。そして帰っていく人波が一段落してから、静かになった昇降口でそっと靴を履いた。
静かで、音を立てるのが怖かった。
外に出ると、たちまち聞こえてくる放課後の喧騒。
ここのところ、昇降口から校門までの道がいちばん苦手だった。運動部の掛け声。楽器の音。それをただ聞いているだけの自分が、余計にひとりなんだと感じる。
1年生のころに戻ったみたいだった。
人見知りの私でも、夏になる頃には友達も出来て、2年生では友達が増えて……3年生になって楽しい高校生活を送って、卒業するのだと思っていたのに。
******
女の人は新田千秋という名前だった。新田さんと名字で呼ぶと、千秋でいいよ、と穏やかに言った そっちは、まだ慣れてないから、と。
学校を無断で休むことはいけないことだと思ったけれど、私は千秋さんに誘われるままに喫茶店に入っていた。
「ホットコーヒーひとつ」
「あ、私も同じものをお願いします」
千秋さんにつられて、私はおいしさも分からないくせに、同じものを注文していた。メニューにはココアもあったけれど、なんとなく子供っぽく見られそうで嫌だった。
ほどなく運ばれてきたコーヒーをひと口すすってみると、やっぱり苦いだけで、美味しいとは思えなかった。とにかく甘くしようと、角砂糖の6つまとめて入れてみる。
「そんなに入れちゃ甘すぎるでしょう」
千秋さんがからかうような口調で言う
「いえ。このくらいで、きっとちょうど良いと思います」
良く分からず適当にやったことだから、内心ではうろたえたけれど、私はすこし見栄を張ってみせた。
「いきます」
そう意気込んでカップに口をつける。意味もなく意気込んだのは悪い予感からなのか。案の定、飲んでみたら甘すぎてむせてしまった。熱さもあって、喉がひりひりする。
千秋さんはそんな私を見て大笑いしたあと、水を頼んでくれた。
喫茶店は、駅前通りからひとつ入ったところにあった。私は今まで、こんなところに喫茶店があることを知らなかった。普通の家を改装したような外装で、店の前に置かれた看板も小さい。これでは、知らなければ喫茶店とは気付けないだろう。
店内は、抑えられた照明と小さめの窓で薄暗い。 けれどそれ以外は普通の喫茶店で、通りから外れているから車の音も聞こえない、静かなお店だった。
「あー、こんなに笑ったのは久しぶりだねぇ」
「……恥ずかしいのでもう言わないでほしいです」
水を飲んで落ち着くと、ようやく千秋さんは笑うのをやめてくれた。
坂の下で見たときは落ち着いた人だと思ったけれど、こちらが素顔なのかもしれない。物静かな人は笑いながら机を叩いたりしない、と思う。お客さんが私たちしかいないから良かったけれど。
「ううん、違う。感謝してるんだよ……とっても」
そう呟く、千秋さんの口調が変わっていた。表情も雰囲気も、坂の下にいたときの千秋さんだった。
「それなら、良かったです」
何かを聞くなら今だと思った。けれど、何をきいたらいいのか分からない――違う、声をかけた時、いったい何をしたかったのかさえ、私には分かっていなかった。
「千秋さんは、なんであの場所にいたんです?」
だから、最初の疑問をそのまま口にしてみた。
「逆に私も聞きたいな。なんであなたはあそこにいたの?サボるようなタイプには見えないけれど」
「えと……それは……」
どこから説明したら良いかと考える。けれど千秋さんはなにか勘違いしたようで、
「ああ、言い難いならいいんだ」
「えっ……いえ……」
否定しようと思ったけれど、私自身、今の私の問題が理解しきれていなかった。
千秋さんは目を閉じてなにかを考えるそぶりをして、改めて私を見た。
「私の話、長くなるけど、聞いてくれるかな?」
その顔は私のほうを向いていたけれど、目は別の場所、ずっと遠くを見ているみたいだった。
*****
好きな人が出来た。恋をして付き合って、色んな初めてをした。そこまでなら周囲と何も変わらない。
周囲とずれてしまったのは、赤ちゃんが出来たからだ。
高校生で妊娠してしまうことは、ぜんぜん聞かない、という話でもない。問題は多いけど、それでもやっていける人はやっていける。
私がこんなにも辛いのは、私の高校が、近隣では有数の進学校だということが大きいと思う。
極端な話かもしれないけれど、進学校に来るような人は両親も学歴が高くて、収入も平均よりは高いような気がする。子供の勉強には多くお金をかけられるから、子どもの資質とは関係なく、ある一定のラインまでは学力がつく。そこから先は子ども次第だけれど、やっぱり一定ラインまで勉強が出来ればそのまま上がっていく人が多くなる。少なくとも私はそうだった。だから両親も生真面目なほうで、まさか高校生の娘が妊娠するなんて思ってもみなかったのだろうと思う。
相手の男の子もそう。相手の両親も、きっとそう。
怒ったり泣いたり青くなったり、みんなが混乱して慌てていた。
私もどうすればいいのかは分からなかったけれど、何故かどうにかなると思っていた。
どうしてそんな、何かを信じるような事ができたのか。
「今にして思うと、たぶん、赤ちゃんだったんだと思う」
「信じることが、ですか?」
「命っていうか……ん、やっぱり良く分からない、かな」
いじめはなかったけれど、同級生との間にははっきりと壁が出来ていた。その壁はとても硬くて、高くて、私は諦めた。諦めて、ひとりでいることができた。
最初に彼が壊れた。
サッカー部のレギュラーで、明るく快活だった。そんな彼だったから、ひとりでいることが出来なかったのかもしれない。諦められなかったのかもしれない。そして、交通事故で死んだ。
学校の帰り、ふらふらと歩道を歩いていて、とつぜん道路に倒れてこんできたらしい。
赤ちゃんの話をしてから一週間ほど、まったく眠れていなかったと、あとで彼の家族に聞かされた。
彼のお母さんに訴えてやると言われた。彼のお父さんがなだめていたけれど、そのお父さんもやつれていて、見ていて辛かった。
仕事人間だった私の父と、何でもひとりで背負いこみがちだった母は毎日口論をして、彼の死後は激化して、別居した。
五か月後に離婚が成立したそうだ。
私はそのころ入院していたから、両親がどんな様子だったのかは知らない。
「――赤ちゃんは、どうなったんです?」
話の途中だったけれど、私は気になって口を挟んでしまった。
違う。続きを聞きたくなかった。
その質問は、訊くまでもないことに思えた。
「……」
千秋さんは答えず、話を続けた。
私は、うん、まだ……まだどうにかなると思っていたかもしれない。どうにかなってほしかったのかも知れない。
お父さんが出て行ったマンションで、お母さんと一緒に暮らしていた私は、産婦人科にも通っていた。産むつもりだったし、それ以外は考えてなかった。
そのはずだと、自分では思ってる……そうだったって、思いたい。
二十週目になって、お腹が目立ってきたころだった。
私の家は5階にあって、普段はエレベーターを使っていたんだけれど、その日はなんだか……ぼーっとしてて。
「気づいたら階段の前に立っていたの」
ここから落ちたら危ないなと思った。
おなかの重さを、改めて認識する。
目を閉じて、そっとおなかを撫でて、手のひらに神経を集中させた。
感じていたくて。
それから―――
「……転んで……気づいたら手術室で、赤ちゃんは」
「もういいですっ」
私は叫んだ。聞いていられなかった。
「………」
静かな喫茶店の、その静寂が痛い。
何も聞こえないから、何かが聞こえてしまいそうだった。
それは、千秋さんの押し殺した泣き声だったり、赤ちゃんの――。
考えるな。
私は首を振って、目の前の千秋さんに意識を戻した。
「……私ね、高校2年生なんだ」
「はい?」
「去年、別の学校に入学し直したの」
「ああ、それで」
その制服を着ているんですかと、間の抜けた返答しかできなかった。けれどおめでとうと言って良いのか分からなかった。
「……やり直したかったんだと思う」
やがて、千秋さんはぽつりと言った。
「お母さんからは働いてみればって言われたけれど、それでも高校行ったのは、なくしたものを取り戻したかったんだと思う」
その言葉は、再び私の心を揺らした。
「千秋さんは、取り戻せたんですか?」
取り戻せるのだろうか。
私が訊くと、千秋さんはゆっくりと首を振った。
「入学しなおして一年経ったけれどね。なくしたものは戻らない。代わりで埋めても塞がらない。だけど――」
とても優しく、悲しそうな顔で。
「――何もかも、変わらずにはいられないんだよ。だからきっと、私の心も変わっていって、いつかは、別のなにかが大切になる……距離をとればいいんだよ。辛いなら逃げてもいいんだと思う。世界は広くて、私たちはちっぽけで……
反射的に、違う、と私は思った。
でも何が違うのか、どう違うのか、私には分からなかった。 分からないことだらけだ。きっと何が分からないのかも、本当は分かっていない。
「だから今日はサボりなんだ。授業も一回やった内容だし、今の高校、光坂よりはレベル低いしね」
打ち切るように、千秋さんがおどけて言った。
「あなたの答えの、参考になればいいけれど」
喫茶店から出るとちょうどお昼だった。
昼食をおごるという千秋さんの誘いは丁寧に断った。喫茶店もおごってもらったのだから、さすがに厚かましいと思った。
家に帰ると千秋さんには言い、私は学校へ向かった。
担任の先生に遅刻の説明にいくと、私の事情を知っているその先生は、大丈夫だから、とだけ言った。
人がまばらな中庭の隅で、ひとりでお弁当を食べた。
*****
翌日は雨だった。冷え冷えとした春雨に、校門の桜は散らされているかもしれない。
「明日も会えますか?」
昨日の帰り際、私は千秋さんに尋ねた。千秋さんには辛い話をさせてしまって、自分のことを話さなければと思ったから。
なにより、違うと思ったことを伝えたかったから。私の不器用な言葉でも、千秋さんには伝わるような気がしたから。
『じゃあまた、同じ時間に、坂の下で待ってるから」
けれど、その約束は果たせなかった。
何がいけなかったのか、翌朝起きたら熱が出ていた。
たしかに私は体が弱い。けれど今回は、微熱が延々と続く私には珍しく、高熱だったそうだ。『そうだ』というのは熱でぼぅっとしていて、私の記憶が曖昧になっているからだ。
高熱の中、私は何度か坂の下に行きたいと呟いたそうだけれど、さすがにそんな体調では外出を認めるわけにもいかなかったと、お母さんが言っていた。理由を聞いてもはっきりしなかったと言うから余計だろう。天気も、いっときには季節外れの氷雨になっていたらしい。
次の日には熱が少し下がったから、お父さんに千秋さんの事を説明して、伝言を頼んだ。けれど、坂の下に千秋さんは居なかったそうだ。
明日も、まだ来てくれるだろうか。
ごめんなさいと謝りながら、私は眠りに落ちた。
翌日の土曜日、熱が完全に下がった私は、坂の下で千秋さんを探した。あの喫茶店のも行こうとしたが、覚え間違いがあったのか、どうやっても喫茶店には辿り着けなかった。
近所の人に尋ねたところ、そんな喫茶店は知らないと言われた。
日曜日はまた坂の下で待ったが、千秋さんは現れなかった。
******
そして、今日は四月十四日、月曜日。
今日も……今日まで千秋さんを待ってみるつもりだった。
謝りたかった。
何かが見つかる気がした。
坂の下に立つ。
先週の冷たい雨にも負けず、桜は満開の花を咲かせていた。
今日も、千秋さんの姿はない。
まるで私の気持ちが分かるみたいに、心の澱を言葉に変えてくれた不思議な人。話したのはたった4日前のことなのに、その顔は霞んで思い出せなかった。熱のせいだろうか。
けれどその声と言葉は、はっきりと覚えていた。
答えって、なんだろう。
私は、疑問を思い返してみる。
「この学校は、好きですか?」
そう始まっていた千秋さんの質問。
『好き。好きでいたかった』
私は。
「わたしはとってもとっても好きです」
『でも』
「でも、何もかも変らずにはいられないです。 楽しいこととか、
嬉しいこととか、ぜんぶ」
友達とか、家族とか、環境とか、自分の気持ちすら。
「ぜんぶ、変わらずにはいられないです」
それでも……。
「それでもこの場所が好きでいられますか?」
千秋さんは、好きでいられなくなった。
でも、無くしたものを取り戻したいと思ったなら、きっとまた、好きになれたのだと思う。
私も取り戻したい。
でも、どうすればいいのだろう。
何をすればいいのだろう。
「わたしは……」
「見つければいいだけだろ」
不意に、隣から声が響いた。
「えっ…?」
男の人がいた。
同じ、この高校の制服を着ている。
瞳に影がある、少し怖い感じのする人だった。
「次の楽しいこととか、うれしいことを見つければいいだけだろう」
ぶっきらぼうに続ける。
「あんたの楽しいことや、うれしいことはひとつだけなのか? 違うだろ」
「…………」
ああ、そうか。
何もかも変わらずにはいられない。
――――でも。【変わる】のではなく、【変えて】いければ。
「ほら、行こうぜ」
なんだか照れくさそうに頭をかいて、彼は学校へ向かった。
あっけにとられていた私は、数歩遅れて歩きだす。
――私たちは登り始める。
長い、長い坂道を――
【CLANNAD~雨と夢のあとに~】
ここまで読んでいただいた方、ありがとうございました。
CLANNADは自分とって一番大切な作品です。
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