南海諸島共和国物語   作:あさかぜ

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9話 戦後の始まりと混乱

 戦争中の被害が軽微だったが、戦後の処理が残っている。枢軸国として参戦し、事実上敗戦で終えたのだから、連合国からの賠償は相応のものだった。

 停戦後、連合国軍(イギリス軍とフランス軍が主力、次いでアメリカ軍、オランダ軍と中華民国軍は少数)の駐留が開始された。軍政こそ敷かれなかったものの、間接統治によって連合国に優位な状況となった。その様な状況で、1946年に結ばれたマニラ条約の内容は次のものだった。

 

・戦前に日本と結んだ条約の破棄と改めて条約の締結の実施

・南海に存在する全ての日本の権益を連合国(この条約の「連合国」は米英仏蘭中の事)へ譲渡

・南海における連合国に有利な経済活動の実施の容認

・軍備の縮小と連合国の各国軍の駐留

・旧政権の関係者の追放

・政変以降に移住した日本人の帰還

 

 割譲出来る領土が存在しない為(割譲となった場合、国家の併合となる)、領土面の賠償は無かったが、経済的な賠償が多くなった。賠償金については取れる様な経済力は無い為、企業の進出を優位にする事、米英仏蘭に有利な貿易の実施によって得られる利益を事実上の賠償とする事となった。

 また、戦争に参戦する要因とされたクーデター政権の主要閣僚や軍民の有力者は全員追放され、裁判によって処罰された。死刑になった者は一人もいなかったが、多くの財産を没収されたり国民の支持を失うなどして亡命や自殺する者も少なくなかった。

 

 政府の刷新は行われたが、政権の連続性は保たれた。当初、連合国による直接統治も検討されていたが、攻め込まれた訳では無く、名目上講和という形で戦争を終えた為、直接統治は相応しくないとされ実行されなかった。中華民国は執拗に実施を求めたが(最終的には併合しようとしていた)、アメリカの無関心(正確には、極東にかかりっきりとなり東南アジアに手が回らなかった)と英仏蘭の否定的反応によって反対された。

 この事が、米英仏蘭から南海にさりげなくリークされた事で、南海内にあった反連合国の感情は急速に弱まり、親連合国の感情が急速に強くなった。また、アメリカから大量の物資が入ってきた事で、戦前戦中の物資不足から解放された。これにより、その後の関係の構築が行い易くなり、マニラ条約の締結もスムーズに進んだ。

 一方で、中華民国に対する感情は悪化し、その後暫くは中華民国及び中華人民共和国との関係は冷却化した。また、反共主義についてはそのままとなった為、ソ連に対する感情は戦前から悪いままだった。

 

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 連合国による一時的な統治とその後の親西側体制が構築されつつある中、東アジア及び東南アジアは大混乱だった。何とか平穏だったのは、日本と南海ぐらいだった。

 

 中国大陸では国共内戦が再開され、国民党が敗れて海南島と雷州半島に落ち延びた。大陸は中国共産党のものとなり、1949年に北京で「中華人民共和国」の建国が宣言された。これに伴い、中華中央部から多くの人が共産主義化から逃れる為に、海南島やアメリカ、後述の台湾に逃れる事となり、一部は南海に逃れた。

 中華の周辺部では、満州にソ連が居座り続け、プリモンゴルとウイグルも飲み込もうとしていた。チベットは中央部の混乱によってコントロールから離れ、1950年代にアメリカとインドの後ろ盾を得て独立する事となる。台湾はGHQの占領統治を経て独立し、朝鮮半島は北はソ連の、南はアメリカの後ろ盾を得て独立するが、「半島統一」を掲げて1950年に戦争する事となる。

 

 東南アジアも、ベトナムでは植民地支配の回復を図るフランスとそれに反対するベトミン(正式名は「ベトナム独立同盟会」)との間で対立が生じ、1946年の末から戦闘状態となった(第一次インドシナ戦争)。戦争状態は1956年7月のジュネーブ協定締結まで続き、その間に多くのベトナム人が難民となって周辺国に流れた。この周辺国には南海も含まれる。

 インドネシアでも、植民地支配の回復を図るオランダと現地の独立勢力との対立から戦闘状態となり、その混乱によって南海に難民が押し寄せた。他にも、フィリピンでは親米政権と親ソの武装組織(共産党系の抗日武装組織「フクバラハップ」)との対立が激化し、その余波で難民が生じ、一部が南海に逃れた。

 

 南シナ海沿岸国からの大量の難民が入ってきたが、全てを受け入れるのは国土の広さから不可能だった。その為、多くはブルネイやアメリカに再移動したり混乱が落ち着いた本国に戻ったが、数万人は南海に移住する事を希望した。幸い、アメリカから大量の物資が入ってきていた為、彼らを養う事は難しくなかったが、民族的問題が生じた。

 南海は多民族国家だが、当時の南海内での国民の区分として、近代(この場合の「近代」は、1895年の憲法制定以降を指す)以前までに南海に住んでいた人達、近代以降に移住してきた達、太平洋戦争後に移住した人達の順に分かれていた。当然、古くから南海に住んでいる人の方が日本人化が進んでおり、日本人化が進んでいる人達の方が政治的・経済的に有利なのが現実だった。たとえ、大陸や半島にルーツを持つ人でも、日本人化が進んでいる人とそうでない人の差は大きく、それが対立を生む事となった。

 また、難民に混じって共産主義者が流れ込んだ事もあり、余計にややこしくなった。この頃、国内の失業率は高く、治安も悪化していた時期だった為、共産主義革命が起こるのではと見られた。

 結局、難民問題や経済問題は自国だけで対応が出来ない為、1952年にアメリカ主導の下、次の様な政策が実行された。

 

・アメリカ資本による繊維工場、リゾート地の整備を行い、雇用を改善させる

・治安回復の為、アメリカの支援の下で警察力の強化を行う

・居住区問題の解決の為、朱印島と遠南島、周辺の幾つかの島を埋め立てる

・雇用については、元難民を優先的に雇用する

 

 これらの政策により、1953年以降から治安は回復した。また、大量のドルが入ってきたこともあり、社会資本の整備が急速に進んだ。同時に、警察力の強化も進められ、アメリカ沿岸警備隊と日本の海上保安隊の協力で沿岸警備隊の再建も進められた。

 一方で、宅地開発や工業開発に注力される様になり、農地が宅地や工業地に転換される様になった。以降も農業は国の主要産業として存続するも、農業生産高は以降減少に転じる様になる。

 また、アメリカの影響力が強まったのも事実で、以降はフィリピンや台湾と共に東南アジアの共産主義者の監視拠点として活用される事となる。それに伴い、米軍やCIAの職員が駐留する様になり、情報収集に活用される様になる。


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