南海諸島共和国物語   作:あさかぜ

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10話 冷戦①:ベトナム戦争まで

 1950年代中頃、南シナ海周辺は混乱していた。

 中国大陸では、国共内戦の末に共産党が勝利して中華人民共和国を建国し、国民党は敗れて海南島に逃れた。

 東南アジアの大陸部では、フランス領インドシナで共産主義勢力が拡大し、ベトナム北部に共産主義国家が樹立した。残るベトナム南部、ラオス、カンボジアでも共産主義勢力が活動を行っており、予断を許さない状況となっている。

 島嶼部では、オランダ領東インドで独立戦争が発生し、インドネシアとして独立した。フィリピンでは、親米派と共産主義者の対立が発生しており、親米派が有利だが混乱が続いていた。

 タイやブルネイは比較的安定しているが、内部では民族対立や共産主義者の存在によって、何か切欠があれば暴発する可能性がある状況だった。

 

 その様な状況の中、南海は安定していた。周辺から多くの難民が流れてきたものの、アメリカからの大量の支援やアメリカ主導での経済建設などにより、難民対策が行われた為である。これにより、国内の治安は悪化する事は無かった。

 アメリカの支援により、観光業と繊維業の整備が行われた。朱印島と遠南島には繊維工場とホテルが建設され、ビーチなどが整備された。また、この頃になるとスプラトリー諸島とパラセル諸島のリン鉱石をほぼ掘り尽くし、採掘していた島の多くが無人島となった。それらの島の埋め立てと整地を行い、ホテルとビーチの島として整備された。

 これらの開発により、1960年代には東アジア及び東南アジア有数のリゾート地として整備された。かつて列強が利用していた植民地のリゾートが軒並み利用出来なくなった為、南海に移った形となる。高所得層が殆どの為、数こそ少ないものの利益は高かった。

 その後、ベトナム戦争で大規模なリゾート地となり、中所得者向けのリゾート地としても有名になっていく。

 

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 周辺地域が混乱状態となると、駐留しているアメリカ軍の動きは活発となった。南シナ海の要衝に位置する南海に基地を置く事で、周辺地域及び交通路の監視が行い易かった。監視が行えるという事は封鎖も行える事でもあり、南シナ海は東アジアの交通の要衝である為、ここを抑えているだけで交通を左右出来る程である。この効果が表れたのはベトナム戦争であった。

 ベトナム戦争により、アメリカ軍とアメリカと同盟を組んでいる国(日本、台湾、フィリピンなど)の軍隊がベトナム共和国(南ベトナム)に進出した。また、南海とフィリピン、タイがアメリカ軍とその同盟国軍の後方基地となった。その為、大量の外貨が落とされて国庫を潤した。

 それだけでなく、アメリカ軍主導による道路、港湾設備、飛行場の整備が進み、この頃に現在まで活用されるインフラの整備が急速に進んだ。また、後方で休息・療養する兵士の為のリゾート整備、各国兵士の為の大量の補給物資の流入により、日本やアメリカの新しい文化や各国の文化や食事が入ってきた。

 また、後方支援基地及び偵察・哨戒の拠点として南海は重要だった為、自力での警備が求められた。これにより、アメリカから大量の小銃や機関砲、数隻の哨戒艇、数機の航空機とヘリコプターが供与された。これらの供与された兵器により、警察力の更なる強化と周辺海域の哨戒に活用され、ベトナム民主共和国(北ベトナム)入りするソ連国籍や中国国籍の船舶の監視や偽装漁船(見た目は漁船だが、強力なレーダーや通信機を搭載している)の発見などの戦果を挙げている。

 ベトナム戦争中、アメリカ、日本、台湾、フィリピン、タイ、ブルネイと共に遠南島沖での合同軍事演習を何度か行っており、これが後に東南アジアにおける大規模な海上軍事演習「オーケアニデス」の基となった(リムパックとは交互に実施)。

 

 アメリカ軍による特需の一方で、治安の悪化という問題もあった。多くの兵士が入ってきた事によって、言語や人種、宗教に倫理観の違いなどから傷害事件や性的事件が多く発生した。これらの問題はアメリカなどからの謝罪と補償で一応の解決は見られたが、国民の中では一定の不信感が残った。

 最大の問題は、ベトナム系及び中国系の住人による反戦運動と軍事施設を狙ってのテロ活動だった。第二次大戦後に移住してきた者がこの運動の中心におり、彼らは本国の共産党の指示に従っての行動だった。

 尤も、彼らの行動は国内の反共主義を強くする結果に終わった。戦前から反共色が強い南海では社会主義的活動そのものが忌諱されており(戦後に社会民主主義政党が設立されたが、議会での勢力は最弱)、共産党色が強い反戦活動に胡散臭さを感じており共感していなかった。また、特需で経済が好調な事、反戦活動組織とテロ組織が繋がっている事が判明した事で支持を失い、最終的に警察によって鎮圧された。

 

 南海がベトナム戦争から離脱する事は無かったが、その行動は戦争の行方を左右する事は無かった。北ベトナムはアメリカ軍の猛攻に耐え、1973年1月27日にパリで和平協定が結ばれて戦争が終了した。

 しかし、この協定は停戦協定であり終戦の和平条約では無かった。当初予定されていた統一に向けた選挙は行われる事は無く、アメリカも今までの散財と和平協定の締結から南ベトナムに向けた援助が年々減少していった。また、パリ協定後のアメリカの内政状況の混乱とソ連の宇宙開発に対抗する意味からそちらに注力される事となり、ベトナムへの関心は急激に低下した。

 これを好機と見た北ベトナムは、以前から行っていた南ベトナムへの攻撃を激化させた。1975年3月10日、北ベトナム軍は全面攻勢を開始した。アメリカからの援助が激減した南ベトナム軍は抑える事が出来ず、4月30日に首都・サイゴン(現・ホーチミン)が陥落してベトナム共和国は滅亡した。

 

 全面攻勢以降、南ベトナムから脱出する民衆が多数出た。特に富裕層や宗教関係者の脱出が多かった。亡命者の脱出支援を目的にアメリカや日本などの空母が派遣され、ヘリによるピストン輸送で多数が脱出した(フリークエント・ウィンド作戦)。他にも、航空会社や軍の輸送機を利用しての輸送作戦や船舶による脱出作戦も実施された。

 南海もこの脱出作戦に参加しており、警備隊のほぼ全ての艦艇と航空機、航空会社の予備機、国内の船舶のほぼ全てを投入している。また、同時期にカンボジアからの脱出作戦も実施されており、日米が亡命者の一時避難場所として南海を活用した為、一時は国民の半数程度のベトナム人とカンボジア人が存在した。その後、多くのベトナム人・カンボジア人亡命者はアメリカや日本、オーストラリアなどに亡命したが、一部は南海に根を下ろした。

 ベトナム統一後も、ボートピープルとして多くの難民が南海にやって来た。だが、この頃になると国内の開発は飽和状態となり、これ以上の難民の受け入れは難しかった。彼らもより裕福なアメリカや日本、香港への亡命を希望していた為、殆どがその方面に移動した。この流れはドイモイ政策の成果が表れる1990年頃まで続いた。


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