南海諸島共和国物語   作:あさかぜ

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11話 冷戦②:ベトナム戦争後の政策変更と資源開発

 1975年4月30日、北ベトナム軍の攻撃によりベトナム共和国(南ベトナム)の首都・サイゴンが陥落し、南ベトナム政権が崩壊した。これと同時に、北ベトナムの傀儡政府である南ベトナム共和国が一時的に統治し、翌年の7月2日に北ベトナムが南ベトナムを吸収する形でベトナムは統一した。

 これらと前後して、1975年4月にカンボジアでは王制に戻ったが、「王冠を戴く社会主義」という異例の政体となった。同年12月にはラオスは王制を排して社会主義共和制に移行し、ビルマも1977年のクーデターで親ソの社会主義政権が樹立した。ビルマの社会主義政権樹立から翌年、政府軍とクメール・ルージュとの内戦が終結し、ここにインドシナにおいてタイ以外の全ての国家が親ソ社会主義国家となった。

 

 東アジアにおいては、中華人民共和国(大陸)では文化大革命の真っ只中で、事実上の内戦状態になっていた。1950年代末の大躍進政策の失敗もあり、中国大陸の政治・経済・流通などは大打撃を受けた。

 ベトナム戦争中の1972年2月にニクソン大統領の訪中と1974年の中華人民共和国の国連加盟(史実よりも3年遅い)、1979年1月にアメリカとの国交樹立といった国際関係への取り込みがあったものの、大きな変化は無かった。この世界の中華民国(海南島)は常任理事国では無い為、常任理事国の変更は発生しておらず海南島の国連離脱も無かった事、米中関係の構築が却って日本や台湾、チベットなど西側及び親西側の中立国の対米感情を悪化させた事、満州やウイグルなど親ソ国家の対中工作が拡大した事など、東アジア・東南アジア世界を混乱させただけだった。その為、1970年代後半から1980年代前半までの約10年間は冷戦最後の軍拡競争の時期にも関わらず、アジア方面ではアメリカとの距離感があった(アメリカは東アジア・東南アジア諸国を繋ぎ止める為に、最新兵器・技術の安価での売却や国内市場の開放を認め、新自由主義経済の押し付けを抑える羽目になった)。

 

 中国以外では、米中関係の好転によって海南島が危機的状況に陥るも、国連脱退という事にはならなかった。だが、アメリカが2つの中国を認めた事に大きなショックを受け、数年間は外交的に混乱が続いた。日本と台湾は、中国の内情を把握していた為、その情報をアメリカに送ったが、反応を示さなかった事に失望した。その為、レーガン政権になるまでアメリカとは一時的に疎遠となり、経済攻勢を強める要因となった。

 

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 ベトナム戦争中、南海はアメリカからの支援で多くの外貨を得た。それだけでなく、アメリカを中心とした多国籍軍の進駐によって軍需の急速な拡大があった。これにより、経済は急速に拡大し国内のインフラ整備も進んだ。

 一方で、ベトナム戦争中のアメリカの外交によって東アジア世界が混乱し、その影響で南海の政策も一部変更する事となった。南海はアメリカの軍事力と経済力は頼りになる一方、対アジア外交の無知によって更なる混乱が発生する可能性が高いと見て、3つの考えを持った。一つ目はアメリカが親中政策を採れないぐらい東アジア・東南アジアに足を突っ込ませる事、二つ目は日本やタイとの連携を強化する事、三つめはベトナムとの関係改善に乗り出した。

 

 一つ目は、ベトナム戦争中に存在が確認された石油をカードとした。1973年10月の第四次中東戦争中にOPEC(石油輸出国機構)が石油価格を大幅に値上げし、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)がイスラエル支援国への石油禁輸及び非支援国に対する輸出量削減を行った事で石油価格は高騰した。アメリカは自国の油田では供給量を賄えなかった為、自国が使える油田を探していた。

 南海はこれを利用し、合弁での石油採掘事業を提案した。アメリカからすれば、アラブより近くカントリーリスクも小さい反面、新たに開発する必要がある事、埋蔵量が不透明な事から敬遠するかと思われた。それが、1960年代からの資源ナショナリズムでオイルメジャーが産油国に対する影響力を大幅に低下させた事から、新たな収益源を欲していた事もあり1978年に合弁会社の設立が決定した。尚、合弁会社の株式の割り当てとして、南海に30%、アメリカに40%、日本とイギリスにそれぞれ10%、オランダとフランスにそれぞれ5%となった。

 油田開発は1980年から進められ、1983年には試掘が行われた。その結果、原油推定埋蔵量約60億バレル(9540万kL:2017年の日本の石油使用量の約40年分)、天然ガス推定埋蔵量約5兆㎥(2017年の日本の天然ガス使用量の約45年分)というかなりの規模を持っている事が判明した。十分以上の大規模油田であり、採算も乗ると判断され、開発が進められた。1985年には日本とアメリカへの輸出もスタートした。

 油田開発は、アメリカと中国の関係を微妙なものとした。中国は南海の巨大油田の存在が確認されると、歴史的経緯から自国領と主張し油田開発に割り込もうとした。当然、中国の主張は受け入れる余地は無く、武力行使をちらつかせるなど印象を最悪なものとした(実際、1980年代に何回か南海艦隊の艦艇を南海近海に出撃させている)。アメリカも中国のこの動きに批判し、一時は中国との関係を後退させるなどの措置を採った。その後も、中国が南海に仕掛けようとすればアメリカと日本が動くシステムが自然発生的に構築された事で、南海の目的は達成された。

 

 二つ目は苦も無く実現した。日本とは近世からの繋がりがあり、戦後もアメリカ程では無いにしろ経済や技術の交流は行われていた。タイとも近代から人的交流が行われており、戦後は貿易や商業、土建などでの繋がりが深かった。

 石油開発も、日本が間に入らなければ実現しなかったと言われている。その為、商業採掘が始まると、最初の輸出先は日本とアメリカだった。その後、採掘量が順調に増大し、タイや台湾、イギリスなどへと輸出された。

 

 難しかったのは三つ目だった。戦争中はベトナム主導のデモ活動やテロ行為を潰したとして準戦争状態となっており、戦後も南ベトナムと国交を結んでいた事から断絶状態だった。それでも、ベトナム系南海人及び在南海ベトナム人と本土のベトナム人との交流は民間や非公式ながら存在しており、1985年2月に国交樹立(事実上の回復)が実現した。この実現は、国交樹立前年の4月から7月に発生した中越国境紛争で事実上敗北した事で、周辺国との対立を減らそうという考えがベトナムの指導部にあった為でもあった。

 兎に角、政治的事情は色々あるが、南海とベトナムの国交は回復した。国交回復後、ベトナムではドイモイ政策の実施によって部分的に市場経済が導入され、南海資本がベトナムに投下された。その後、南海はベトナムとアメリカの仲介役を務め、1993年に両国の国交が樹立して新たな関係を構築した(史実では1995年に樹立)。

 

 これらの政策によって、南海は石油と天然ガスによって膨大な外貨を獲得した。また、アメリカと日本は南海の資源の円滑な輸送と安全の観点から、中国の海洋進出に目を尖らせた。その為、フィリピンのスービック海軍基地が活用され続ける事となり(史実では1991年11月に閉鎖)、日米海軍が定期的に来航する事で中国を牽制している。


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