南海諸島共和国物語   作:あさかぜ

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12話 冷戦③:冷戦構造の崩壊

 石油・天然ガスという新しいカードの確保、それに伴う保有する外貨の増大とアメリカを中国と極力結び付けない外交方針が1980年代中頃に整えられた。これにより南海の経済力が更に増し、アメリカが南海や日本、フィリピンなどの同盟国を見捨てない事を確認させた。

 一方で、中国が南海の資源獲得と東アジア・東南アジアでの影響力拡大を目的に海洋進出に乗り出した時期でもあった。米中接近とそれに伴う国交樹立、極めて安価な労働力と税制の優遇に惹かれたアメリカ及び西ヨーロッパの資本と技術が投下され、急速な経済の再建が行われた。同時に、軍の近代化も行われ、特に海軍力の強化が叫ばれた。

 

 それと同じ頃、冷戦構造は終わりを見せた。1985年、ソ連でペレストロイカが始まり、体制内での改革が始まった。だが、軍備偏重や過剰な重工業重視と軽工業軽視、非効率な運営によって経済はガタガタであり、政治も硬直状態、内部からの反対も大きく改革は困難を極めた。同盟国である東ヨーロッパも同様の状況で、今までの外交方針からの転換(※1)もあり、急速にタガが外れた。

 その結果、1989年から90年の間に東ヨーロッパ諸国で社会主義政権が相次いで倒れた。多くの国では一応平和裏に政権の移譲が行われたが、ルーマニアだけは首都で内戦が発生し、チャウシェスク大統領夫妻も銃殺されるなど、暴力的な革命となった。

 社会主義の総本山のソ連は、この状況に対して特に動く事は無かった。自ら掲げた外交方針に従った面もあるが、経済的混乱やグラスノスチ(情報公開)による共産党内部の対立、中央からの統制が緩んだ事による地方の混乱によって大きく動く事が難しかった。最終的に、1991年12月25日にソ連が崩壊し、名実共に冷戦が終了した。

 

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 ヨーロッパ方面での冷戦は終了したが、アジア方面での冷戦は終わった訳では無かった。1989年の12月のマルタ会談で米ソ両首脳による「冷戦の終結」が宣言されたが、アジア方面ではマルタ会談に当たるものが無かった。ベトナムのカムラン湾には活動が低調になりつつも駐留ソ連海軍が活動を続けており、前述の様に中国の経済発展に伴う海軍力強化が計画中であり、満州やベトナムなどでも同様の計画が立てられていた。

 だが、満州とベトナムの海軍拡張計画は中国への対抗という意味合いが強く、日本や台湾などにもオフレコで伝えられていた為、大きな反感は無かった。

 

 それでも、この頃には一部の同盟国に対する統制は緩んでいた。フィリピンでは1986年2月にマルコス政権が崩壊したが、それを継いだアキノ政権との関係は維持された為、大きな変化は無かった。

 日本と台湾は満州との新たな関係の構築を始めており、経済面でアメリカと対立しつつあったが、それでも同盟関係は維持された。

 韓国では、20年以上続いた軍事政権が終わって文民政権が誕生したが、今までの反動から左派色が強くなり、日本との対立を強めたり同盟からの離脱が懸念されている。

 

 これらに対し、南海は大きく行動を変える事は無かった。アメリカとの関係を維持しなければ中国への対抗は難しく、ベトナムとフィリピン、中華民国(海南島)は未だに経済力が小さいか内政が不安定で対抗するには厳しい事もあった。

 アメリカにしても、中国との関係は経済とソ連の後背を突くという重要な目的があったが、石油発見後の中国の対応は盗人そのもので、信用出来る存在ではないと判断した。その為、経済では交流するものの政治・軍事では距離を取る方針が取られ続けた。この方針は1989年6月4日の天安門事件以降は顕著になり、以降は先端技術の輸出・移転は行われなくなり、対中投資も減少させた(日台については以前から投資・技術移転は低調)。

 

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 中国が海軍力の増強をしており、それに満州やベトナムも乗った以上、南海も乗らざるを得なかった。それが軍拡の基本だからである。石油や天然ガスの輸出で資金面では余裕があるが、人口の関係から大規模な軍拡は不可能だった。そもそも、軍事力を持っているのが警察組織の為、その範疇を超えた装備(対艦ミサイルなど)を装備するのは難しかった。

 その為、沿岸警備隊は人員と艦船数の増加が行われたが、1隻当たりの人員は減らされた。これは、システム化の推進や軽武装による人員の削減によって実現した。速力や船体構造などは軍艦と同一の設計にした事から高価になったが、石油・天然ガスの輸出によって財政的に余裕が生まれた事から実現した。

 その他にも、固定翼機とヘリコプターの増備も決定し、パイロットの増員も行われた。一部は巡視艇への搭載となり、海上での哨戒能力の向上が期待された。

 

 この警察力拡張は冷戦には間に合わなかった。計画の立案が1986年、1番艦の竣工が1991年、最終の8番艦の竣工が1995年となった為である。

 だが、これにより中国の海上警察(※2)に遅れを取る事は無くなり、無茶な海洋進出を抑える事に成功した。当初の対象だったソ連海軍の代わりに、中国の海上警察と漁船に監視対象が変わった事は、冷戦が崩壊したという現実と新たな火種を予感させた。




※1:「社会主義圏全体の利益の為ならば、1国の社会主義国の主権を制限する事はやむを得ない」という制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン)を放棄、衛星国の民主化の容認、東西冷戦の終結、核戦力の削減など。
※2:この時の中国の海上警察はそれぞれ、国家海洋局(海洋調査を行う組織)系の中国海監、武装警察系の海警、交通運輸部系の海巡、農業部系の漁政、海関総署(税関)系の海関の5つが存在した。

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