南海諸島共和国物語   作:あさかぜ

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13話 冷戦後①:南海の経済構造

 南海は、安定した内政状況と豊富な資金、発展著しい周辺国からの観光客誘致の為、新しい形の観光開発を行う事となった。今までの様な高級路線では無く、中間層や新興富裕層向けの観光開発が行われた。その中の目玉がカジノ開発だった。

 

 1980年代、東アジア・東南アジア世界でカジノが解禁されていた国・地域はマレーシア、フィリピン、日本(※1)、マカオぐらいであり、マレーシアを除けばどれも国内向けの性格が強かった。その中で南海は、国外向けのカジノの整備を進めた。

 1960年代に整備されたホテルには小規模ながらカジノが併設されており、ベトナム戦争中に整備されたリゾート地ではガス抜き目的で賭博が容認されていた。その為、下地はあったが、前者はヨーロッパ向けの高級カジノであり、後者は闇賭博に近い方式だった為、ラスベガスの様なカジノのノウハウが無かった。

 

 1985年、ラスベガスや日本でのカジノ施設の見学が行われ、1年に及ぶ調査とノウハウの取得が行われた。翌年、調査団が帰国するとカジノ運営会社が設立されて、3年以内のオープンが決定された。

 当初、建設場所はかつてグアノの採掘を行っていた島で、比較的大きく標高のある朱印島北西沖と遠南島南西沖の2つの島が選ばれた。

 だが、南シナ海は台風の通り道であり、孤島の標高は2m程しか無い為、嵩上げ工事や護岸工事などの大工事が必要となる。また、移動手段は船か航空機になるが、台風の場合は運行が不可能となる為、文字通りの孤島になる事からリスクが大き過ぎると判断された。その為、建設予定地を開発が遅れている朱印島西部と遠南島東部に変更する事となった。

  そして、1989年6月に朱印島側のカジノ「パラダイス・オブ・サウスシーズ」がオープンした。翌年には遠南島側の「オーシャン・パレス」がオープンし、その後も複数のカジノがオープンした。

 尚、カジノ誘致予定地だったグアノ採掘地は、嵩上げ工事と護岸工事が行われた後、漁業基地や哨戒拠点として活用される事となった。

 

 カジノのオープンにより、日本やタイ、ブルネイからの観光客が増加した(1987年:60万人→1990年:150万人)。折りしも日本はバブル景気の真っ只中で、プラザ合意による円高の進行、海外渡航の一般化も合わさり、海外渡航者数が急増した(※2)。南海も渡航先に選ばれ、1990年の訪問外国人の4割が日本人という統計が出た程だった(残りの6割は、香港・台湾など中華圏、東南アジア諸国、欧米からそれぞれ2割)。

 その後、湾岸戦争に伴う海外旅行の停滞、バブル景気の終息で日本人旅行者が減少したが、同時期に東南アジアの経済発展が進んだ為、東南アジアからの旅行者が増加した事で相殺された。だが、経済力の差から観光収入は低下し、それもアジア通貨危機と極東危機で更に減少した。

 この流れが回復するのは2002年になってからであるが、この頃になるとマカオとの競争にも晒される様になった。だが、中国の経済力が史実よりも低い事や中国と統合した事などがマイナス要因となり、それが南海への回帰に繋がった。

 

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 石油・天然ガス、観光が順調な一方で、この頃になると今までの南海の産業に衰退が見られた。

 水産業と水産加工業は未だに雇用の面で主要産業だが、収益率で見ると一桁台にまで低下していた。だが、水産加工物は南海の伝統的な食品であり、ブランドとしての価値も高い為、衰退させる気は無かった。

 しかし、乱獲や周辺諸国の漁船の侵入、油田・ガス田開発などによる海域汚染などによって水産資源量の減少は著しく、このままでは壊滅する可能性もあった。以前から乱獲規制や不法侵入した漁船の排除などを行っており、違法漁業(ダイナマイト漁、毒を用いる漁)をした者への取り締まりの強化などを行ってきたが、それでも資源量の減少は止められなかった(※3)。

 その為、日本と協力して養殖と栽培漁業の拡大を行っており、現地水産資源の回復を目指している。

 

 水産業関係は何とかなっているが、厳しいのが農業関係と繊維業である。農業は土地の開発が既に完了しており、これ以上の農地拡大は不可能だった。それ処か、増加した国民や難民の受け入れで人口増に対応する必要があり、宅地造成の為に農地を転換する必要があった。また、カジノ建設予定地が本土に変更された事で、更に農地が転換される事となった。

 その為、1950年代から農地面積は年々減少し、1990年代には殆ど農地が無くなった。合わせて、ラム酒製造なども縮小した。現在では、ブランド化したラム酒やヤシ酒用に僅かに農地が残っている程度であり、水産加工業を除く食品加工業も酒造用に残っているぐらいである。

 

 繊維業は、1960年代までは比較的延びていたが、1970年代以降は香港や他の東南アジア諸国との競争にさらされており、人件費の面で苦戦している。高価値商品を生み出そうも開発のノウハウが無い為、競争に負けて撤退する企業も相次いだ。

 現在では、工場跡地は都市郊外にある利点を生かして、宅地に転換されたり大型ショッピングモールになるなどしている。残っている工場では新しい機械を導入したり特産品の製造を行うなどして独自色を出しているが、競争が激しい業界の為、21世紀には産業としては成り立たなくなると見込まれている。

 

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 石油・天然ガスの輸出とカジノによって、南海は膨大な外貨を得た。だが、南海はこの状況に胡坐をかく事は無かった。地下資源はいずれ枯渇するし、カジノを始めとした観光収入も情勢の変化や天候によって左右され易い不安定なものという事を認識していた。

 その為、安定し多角的に収入を得る為に1994年にソブリン・ウエルス・ファンド(※4)「南海政策投資機構」が設立され、日本や台湾、香港、シンガポール、アメリカ、西ヨーロッパへの投資を行った。対象は金融、不動産、化学、製造業など多岐に亘り、複数の方面に投資する事でリスクの分散を行っている。

 一方で、情勢が不安定な地域や内情が不明な企業への投資は避けており、堅実に稼ぐ方針が取られている。その為、投資先は先進国の企業が殆どであり、新興国や途上国に対しては「安定している」と判断された場合にのみ行っている。

 

 資源、観光、投資による収入の三本柱は、南海の経済基盤を盤石なものにした。どれか一つに頼った経済では無い為、急な要因で不況になる恐れは弱いと見られた。

 実際、1997年のアジア通貨危機、2002年から翌年のSARS(重症急性呼吸器症候群)の大流行、2008年の世界経済危機などでも大きな影響を受けていない。流石に観光客の減少や株価の低迷は避けられなかったが、大きく景気が落ち込むという事態にはならなかった。




※1:この世界の日本では「戦後復興の支援」を目的に1952年に解禁された。だが、反社会勢力の資金源となる事、過度な競争による共倒れを防ぐ目的から、同時に「カジノ法」が制定された。後にカジノやパチンコなどによるギャンブル依存症や破産者が多数確認された事で、規制強化や依存症者の更生支援などが事業者に義務付けられる。
※2:史実では、1886年の550万人から1990年の1100万人と4年で倍増している。この世界でもほぼ同様に、1986年の600万人から1990年の1300万人と倍増している。史実よりも多い理由として、人口そのものが多い事、中間層と富裕層が厚い事が挙げられる。
※3:それでも、史実の様に各国が入り混じっている状況ではなく、明確な治安組織が存在する為、史実の様な無軌道な乱獲は起きていない。その為、資源量は史実の3割程多く残っている。
※4:政府が出資する投資集団。主な原資は天然資源の輸出で得られた利益か外貨準備高となる。

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