南海諸島共和国物語   作:あさかぜ

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1話 朱印島・遠南島の発見・開発

 この島が形成されたのは、偶然の結果と言っても過言ではない。比較的大きな2つの隕石が地球に飛来し、それが現在の南シナ海に当たる地域に落ちた。これにより、落ちた部分の隆起が大きくなり、それが朱印島と遠南島の原型となった。

 その後、地殻変動や海面上昇などの大規模な自然現象によって現在の形となった。

 

 文献上、「朱印島と遠南島の発見」に関する最古の記録は、秦王朝の頃まで遡る。しかし、その後の秦の滅亡と漢王朝の海洋進出の消極性、三国時代などの要因から、中華中央部の海洋進出が殆ど行われなかった。公的な海洋進出は唐王朝の頃まで待たなければならなかった。

 しかし、漁民や遭難という形で島に来る人は少なからず存在し、特に朱印島は漁民の一時的な基地や退避場所、海賊の拠点として利用されており、南部の住民にはある程度知られていた。

 唐の頃、海洋貿易が盛んになり、中央も両島の存在を知る様になった。その為、冊封体制に組み込もうとしたが、国家としての体を成してなかった事から、体制に組み込まれる事は無かった。また、唐が領土に組み込む事も無かった為、島の開発も行われなかった。

 

 その後、宋王朝や元王朝、明王朝になっても変わらず、中華王朝による領有は行われなかった。当然、国家による大規模な開発は行われなかった。それ処か、台湾や海南島と同じ様に「化外の地」と呼ばれて放置された。

 しかし、漁民や海賊、遭難者による小規模な開発は行われており、この頃には沿岸部を中心に居住区画や漁港が存在した。また、内陸部の木材の切り出しや漁船の修理なども行われており、都市の形成が進みつつあった。これにより、両島が倭寇の拠点としても活用され、実際にここからフィリピンやボルネオ、ベトナム、タイへの略奪行為が行われている。

 

 本格的な開発が行われる様になったのは、17世紀初頭の事となる。これは、徳川家康が海外交易に熱心であった事から朱印船貿易が行われ、東南アジアとの交流が活発となった。また、東南アジアへの人の進出も活発となり、以前から細々とあった日本から東南アジアへの人の流れも増加した。これにより、東南アジア各地に日本人街が形成された。特に有名なのが、タイのアユタヤだろう。

 ある時、日本人が主体の朱印船が南シナ海でやや大きい島を確認した。その島は、漢人やベトナム人が多く生活しており、少数ながら南蛮人(スペイン人、ポルトガル人)や紅毛人(オランダ人、イギリス人)も存在した。その島は一定程度の港湾施設があり、日本と東南アジアとの中継点として最適だった為、日本人も利用した。また、その島には沈香の存在が確認されており、サトウキビ栽培にも適している事から、それらの輸入元とする考えもあった。

 この報告を受けて、1608年に九州の大名数組が幕府にこの島の開発願いを出した。幕府も、砂糖や沈香が手に入るのならばと容認し、浪人対策として人を送り込めれば国内の治安も改善すると見た事も容認を後押しした。これにより、1610年からその島の開発が行われる事となり、朱印状で開発が認められた事から「朱印島」と命名された。

 

 開発だが、北東部の一角に拠点が設けられそこが朱印島開発の中心となった(この拠点が後の南江である)。島の住民は、統治者が現れた事を最初は認めようとはしなかったが、豊富な資金や武力を背景に手懐けた事で日本人を支配者と認めた。これにより島の開発は進み、住人の協力も得やすかった。

 島では、沈香の採取とサトウキビの生産が行われたが、沈香の採取については2年程で終わった。これは、島に自生している数が少な過ぎた事が原因で、早くに採り尽くしてしまった為であった。

 一方、サトウキビ生産は順調に進んだ。島の土壌と気候がサトウキビ栽培に適していた為であった。それに伴い、砂糖の生産も拡大していき、日本への輸出量も増加していった。

 日本への砂糖の輸出の帰りに、日本から朱印島への人の流れもあった。多くは浪人であったが、新天地で一旗揚げようという思惑があって向かう人もいた。

 また、島で生産が出来ないモノを手に入れる為、周辺地域との交易も盛んに行われた。朱印島からは砂糖や木材が輸出され、日用品や労働力が輸入された。

 

 朱印島の開発が行われてから20年程が経過したある時、朱印島を出発してタイ方面に向かった船が嵐に遭った。それにより、南に流され島に漂着した。その島は、僅かな漁民が暮らしている以外は人がおらず、樹木が生い茂っていた。彼らは、この島がサトウキビ栽培に適しており、他の産物もあるのではと見て領有を決意した。

 その後、この島の位置を把握した結果、朱印島からの距離が遠くない事を知った。その為、島の木で船を修理して、朱印島に戻った。

 朱印島に戻った後、南にも島がある事、その島は殆ど人が住んでいない事、その島の環境はこの島とよく似ている事を伝えた。この時、外部からの流入と自然増によって人口増加が激しく、耕地不足とそれに伴う食糧不足が懸念されていた為、島の有力者達はこの島への入植と開発を決定した。1629年の事だった。

 

 翌年、朱印島から南の新島に向けての船団が出発した。船団には、開拓移民団と各種食糧、植物の種子や苗、武器や資金が積まれていた。船団は数日で新島に到着し、島の北側に拠点を設けた。

 島を細かく調査した結果、報告にあった通り、島の住民は僅かな漁民以外は存在しなかった。しかし、外部が島の存在を知らなかった訳では無く、時々拠点として活用しているが、島の領有を何処も行っていなかった。

 また、この島の植物を調査した結果、香料については確認出来なかったが、サトウキビ栽培に適していた。その為、この島もサトウキビ栽培を中心としていく事となった。

 こうして、この島の開発方針が決定し、島の住人には資金と武力を活用して支配権を認めさせた。また、島の名前は朱印島よりさらに南である事から「遠南島」と名付けられた。

 

 同じ頃、幕府では対外政策の転換期を迎えていた。国内では、禁教令の発布によりキリスト教徒や宣教師の追放や処分が行われており、1630年代には対外貿易や渡航制限の通達が何度も出された。特に、1635年の通達によって日本人の海外渡航及び海外に住んでいる日本人の帰還が禁止となった事で、新たな日本人が来る事が無くなった。貿易も同様に閉じられるかと思われたが、琉球王国経由での貿易が行われた為、辛うじて日本との交易は途絶える事は無かった。

 但し、この海外渡航及び貿易の事実上の中止によって、朱印島と遠南島は日本本土から切り離された。その為、両島は日本のコントロールから離れ、独自の道を歩んでいく事となる。


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